人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

タグ:上鳥渡 ( 48 ) タグの人気記事

 「土湯会津道を歩いてみる」ということで、朝日舘辺りから、現県道南福島―地蔵原線の道筋に沿って歩いている。
 昨日は、「石仏」地区の会津道沿いに石仏が並んでいる風景は、どこにでもあるごく普通の風景なのだが、バス停名とのかかわりで気になる風景になっていることについて整理した。
a0087378_18445215.jpg そのバス停「十三仏」からバス停「若仏」の間で、散歩中に風景そのもので気になったは、「山の神」神社だ。
 ここは、バス停「小堀内」付近の火の見櫓や蔵のある風景から少し先に進んで、集落の中心地からは少し外れかけたあたりだ。

a0087378_18513030.jpg 正面の建物は新田集会所で、その右隣が神社になっている。
 前面に鳥居があって、石塔群がある。その奥に神社がある。拝殿はごく普通だが、奥の本殿の建物が、結構素敵な建物だなと思ってのぞかせていただいて、山神様だと分かった。それが、散歩中の事。
 家に戻ってこの神社について「信達二郡村誌」がどう説明するかを確かめようとしたが、その解説は見なかった。「歴史地図では、この「山の神」を含めた付近が「小堀内遺跡(縄文~土師器)」と紹介されていた。

a0087378_18521149.jpg この辺りの「歴史地図」が描く道筋と現況の道筋の関係もはっきりしないが、スポットとなる目印として、付近には白山寺があり、その寺の前の道筋は先に少しだけ整理したことのある八幡神社へ続く道筋になっている。
 それで、「歴史地図」が記す遺跡群の位置を確認しようと、周りを何度か歩いてみたのだが、この付近の風景の変化が大きくてはっきりしなかった。どうも、農地整備に伴う変化だけではなさそうだ。
 東京の電力会社がまき散らした放射性物質を除染する作業に伴う風景の変化も加わっているようだ。

 ※ タグを荒井としたところだったが、この新田集会所と山神のある小堀内地区は上鳥渡村のようなので、荒井のタグに上鳥渡も加えて表記する。
by shingen1948 | 2015-11-26 08:43 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

土湯会津道を歩いてみる

 鳥川付近の散歩から、何となく土湯会津道を歩いてみていた。地区としては、荒井地区に入るのだが、この辺りの散歩が難しい。
 なじみが薄いだけではなく、次のような事情があるからだ。
 その一つが、縄文時代から中世にかけての史跡が複雑に重なりあっていて、しかもその位置が曖昧であること。
 その二が、頼りの半沢氏の「歴史地図」が、単なる散歩目的の資料にしては詳しすぎること。
 その三が、道筋の改変が繰り返されていて、頼りの「半沢氏の歴史地図」に示される道筋と現状も大きく違っていること。
 そんな事情で、全体を把握してから散歩を始めるというわけにはいかない。
 まずは、道筋に沿った風景を確認するという軽い気持ちでスタートする。歩っているうちに興味のある風景に出会ったら、そこを切り口にして、少しずつ見える風景を広げていくという姿勢の散歩イメージで土湯会津道を歩いてみることにする。

 土湯会津道の道筋は、現県道南福島―地蔵原線の道筋に近いということのようだ。ただ、この道筋は大森の三差路から続いている道筋なのだが、こちらの道筋も含めて江戸時代の土湯会津道なのかどうかは分からない。 
 半沢氏の「歴史地図」では、米沢街道に山王道や会津道が重ねて表示され、観音寺から米沢街道に分かれた山王道や会津道が西進するように表記される。そして、朝日舘辺りからが江戸時代の土湯会津道だと解説されているのだ。
 大森から朝日舘辺りまでの現県道南福島―地蔵原線の道筋道筋が会津道なのかどうかは曖昧だし、観音寺から朝日舘辺りまでの間の道筋もちょっと曖昧なところがある。
 それで、とりあえず朝日舘辺りから現県道南福島―地蔵原線の道筋に沿って、現土湯街道である115号線と交わる辺りまでの散歩を、土湯会津道として整理をしていこうと思う。
a0087378_7155053.jpg メモをとる代わりに、デジカメで風景を写す。バス停があれば必ずこれを写しておくことにした。
 こうすれば、このバス停とのかかわりで写った風景を眺めれば、その前後関係で、その風景の場所が思い出しやすいと思ったのだ。
 まずは、朝日舘を少し過ぎたあたりで、大畑のバス停付近を撮るが、その前方に右手に大笹生方面を案内する道路標識が写っている写真があったので、これを「土湯会津道を歩いてみる」スタートの写真として貼り付ける。
 このスタートのタグを、まだ「上鳥渡」・「下鳥渡」のままにするのは、この辺りはまだ鳥川地区の範囲らしいからだ。
by shingen1948 | 2015-11-21 08:43 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 文治5年奥州合戦の佐藤氏の活躍を整理してきた者としては、佐藤氏が合戦後に鎌倉側についたという見方で、その藤原氏とのつながりイメージについて、少し修正する必要があるのかなと感じている。
 それは、頼朝の東北侵略頃の東北の勢力関係だ。
 信夫の里の佐藤氏が藤原氏と密接な結びつきであったということでの整理では、この地域では一枚岩だったというイメージが形成される。しかし、あれほどの活躍した佐藤氏も、合戦後は鎌倉側についたというのであれば、藤原氏とのかかわりをもうちょっと緩いイメージにした方がよさそうだと思うのだ。
 少なくとも、佐藤氏も含め「阿津賀志山」の南の現福島地域有力者は、確実に藤原氏側につくという姿勢ではなく、どちらにつくかという迷いがあったのではないかとの想像になっていきそうだ。

 そういえば、この地域は早くから荘園開発が進んだこともあって、在地武士団とも言うべき集団が割拠していたということがあった。奥州藤原氏は信夫佐藤氏との関係を深めるのに、乳母関係や婚姻関係を通じて関係を深めたということだった。これは、見方を少しずらせば、佐藤氏でさえ、その在地の有力者を臣下に治めるためには、そういった工夫が必要だったということでもある。
 勢力を維持するのにそうしなければならなかったという側面があったというふうにイメージし直したほうがいいと思えるのだ。

「阿津賀志山」の南の現福島地域の武士団は、鎌倉側と対峙することになった時点で、これまで通り奥州藤原氏との関係を続けるか、鎌倉側につこうか迷ったのではないかという想像につながる。佐藤氏の例は、その奥州藤原氏との関係を続けようとした武士団も、文治5年奥州合戦後は、鎌倉側についたということなのだろうと思う。
 そんな状況の中に、新たに鎌倉側の二階堂氏が「名倉」に、伊達氏が伊達の地域に送り込まれてきたということではないかなと思うのだが、どうだろうか。

 阿津賀志山に防塁が必要だったのは、ここが地形的に防御に適した要の地だったことが最大の要因ではあろうと思う。しかし、それだけではなく、阿津賀志山の北側の家臣団に比べ、信夫の里の家臣団との絆が緩いことも、もう一つの要因としてかかわっているのではないかなとも思えてくるのだが、……。(2015/11/21付け加え)
by shingen1948 | 2015-11-20 08:46 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「鳥渡山王社付近散歩の振り返り」で、次のような信夫の里の勢力関係の時代があったことを意識したのは、二階堂氏を意識したからだ。

 頼朝の東北侵略が、この時代のこの地域の大きな転換点の一つだったろう。
 それ以前の支配勢力は信夫佐藤氏だが、信夫庄の北部「北郷」を中心に支配していたとのことだ。 頼朝の東北侵略後は、信夫庄の北部「北郷」に佐藤氏の影響を残しながら、信夫鳥和田には鎌倉幕府評定衆二階堂氏の一族庶子が派遣され、この二階堂氏が、南西隅の地域を治めるようになっていたらしいということだった。
 この時点の伊達氏の勢力の中心は、伊達の里だったということのようだった。その後、伊達氏が信夫の里まで侵略してきて、勢力のバランスが崩れるというイメージで整理してきた。

 【歴史と出会う(網野善彦著)洋泉社】の「『もののけ姫』と中世の魅力」という宮崎駿氏vs網野善彦氏の対談の項で、中世の時代区分について、次のように発言しているのを見つけた。
 「常識的な時代区分では、鎌倉幕府から中世が始まり、江戸幕府からが近世となっております。しかし、京都の歴史家たちは、早くから南北朝期を時代区分上の画期だといっています。」とある。しかも、こちらは「日本の社会構造、「民族的体質」にかかわる大きな転換期だった」とのことだ。
 巨視的見方では質の違う転換期のようだが、信夫の里は、鎌倉幕府とかかわる「頼朝の東北侵略」から「南北朝期」にかけての混乱と大きくかかわっているわけで、その間に挟まれた時代の勢力分布イメージの話だ。
 先の整理では、その後の伊達氏の勢力拡大に伴う時代が展開されることと市史等で紹介される散歩資料につなげた。
 この整理はその続きで、鳥川散歩で気になった事で整理し残したことを確認しておきたいのだ。
 それは、頼朝の東北侵略後も、信夫佐藤氏が信夫庄の北部「北郷」を中心に支配していたことについてのイメージの確認だ。
 ズバリ言えば、佐藤氏は文治5年奥州合戦後、信夫庄の北部「北郷」に旧来の領土が安堵されているということだが、これって、紛れもなく鎌倉側についたことを表しているということだ。それは、佐藤氏だけではなかったはずだと思うのだ。
 近くの郷野目周辺の地域史を概観した半沢氏の資料の中世部分の解説に、「石那坂合戦」の項で次のように焦点化しているのだが、この方々はどうしたのかなと思いを馳せる。
 
 鎌倉時代の初頭にはこの地では歴史上名高い佐藤庄司らの石那坂合戦(吾妻鏡)があるが、奥州藤原氏の武士団の一員として河辺の太郎(高経)がおったがこれは郷野目太郎だという説もある。このころ信夫の庄の地名には保木田(ほうきだ=方木田)というのも見えている。
by shingen1948 | 2015-11-19 09:14 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)
 鳥渡山王社付近散歩の振り返り「その2」では、この地域の信仰にかかわることについて整理してきた。そのうちの「庶民が感じた仏教」とでもいう側面にかかわって、心残りなことがある。それは、半沢氏の「歴史地図」に記される正嘉2年1528建立の「右ハ慈父のため也」の板碑が見つけられなかったということだ。
 有名な「来迎三尊供養塔」の板碑は、「右ハ慈母のため也(正嘉2年1528)」であるのに対して、こちらは「右ハ慈父のため也」の同じ年の板碑であるということの興味だ。
a0087378_5572762.jpg 「右ハ慈父のため也(正嘉2年1528)」の板碑を探すために確認が必要な地点の一つが、下鳥渡の神明社だ。それが、ここだと思う。「信達二郡村誌」には、「村社神明社」が西部北島田畝の間に鎮座すと紹介される。その「村社神明社」が、半沢氏の「歴史地図」に記される下鳥渡の神明社のことなのだと思う。
 「信達二郡村誌」では、なぜか項を起こして下鳥渡村の小学校を紹介はしない。ただ、「沙子田北」の字地についての説明に「人家8戸村社鎮座小学校を設く」との解説は見える。
 その解説を頭において周りを見渡せば、この神社西側の下鳥渡集会所は、何となく昔懐かしい学校風の建物のようにも見える。
 下鳥渡の小学校の痕跡とかかわるのかなと勝手な想像をする。本当はよくは分からない。

 「歴史地図」では、下鳥渡の神明社と林照院跡の間に、この板碑の建つ位置がプロットされている。a0087378_604541.jpg
 周りを見回せば、その集会所の南西方向に仏教にかかわりそうな石碑群が並び、お堂も建っている。近くに「林照院跡」の標柱も建つ。
 今のところ、この「林照院」がどういう寺なのかという解説をみつけないが、位置は分かったということだ。
 正嘉2年1528の「右ハ慈父のため也」の板碑が、この近くにあるようだということまではわかったが、今回はそこまでだった。近くの墓地も見てみたが、それらしいものは見つからなかった。

 なお、「信達二郡村誌」には、「林照院」の解説はないのだが、近くの「政善寺跡」についは北部中川原にあり福島町真宗康善寺末派なりとの解説を見る。こちらの寺は、「後、衰微せしを寛延2年に僧鳳山之を中興す」そうだが、実際の寺は見当たらない。半沢氏の「歴史地図」では、河岸段丘付近にプロットされる。
 この散歩を通して見えた風景の中で感じていたのは、いわゆる「修験道廃止令」で、民間信仰のなかにいろいろな形で勢力を持っていた修験道や山岳信仰を廃止する一連の流れの中で、消された寺々の雰囲気とつながるものだったのかなと、勝手な想像をしている。
by shingen1948 | 2015-11-03 08:55 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 湖山寺跡地を訪ねて散歩したことについては、「鳥渡山王社付近の風景~陽泉寺③」で整理した。位置的な曖昧さを残したままだが、半沢氏の「歴史地図」には、その寺跡の南東方向の山裾に「石子薬師」がプロットされる。これが、その薬師様だと思う。
a0087378_6275750.jpg 「歴史地図」には、ここにかかわるメモは特にない。「信達二郡村誌」等を確かめても、今のところその紹介を見ない。ただ、また聞きの段階だが、「福島市史」では、この薬師にまつわる次のような信仰伝説が紹介されるという。

 昔、清原元輔という方が都から下鳥渡の田中にきて住みついた。この方が、薬師の像を作ったのだとか。この薬師像が、後年、字石橋の地に移されたのだとか。
 この清原元輔という方の歌に、「契りなきかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは」というのがあるが、これは、この近くの山を詠んだものなのだとか。
 この近くにあって、今は廃寺になった「湖山寺」の山号は、この歌からとって「末松山」と称したと伝えられているとも。

 この薬師については、信仰伝説でしかないのだが、昨日整理の「釈迦如来坐像」仏師の話は、史実として、ここ下鳥渡に都から来た方が仏像を作られたことがあったということでもある。それで、仏師乗円について確認しておく。
 「ふくしまの歴史」では、湖山禅寺のご本尊「釈迦如来坐像」の仏師乗円が、福島県内に数体の仏像を残していることが紹介されている。その師の円勝は、別名道円ともいい、この方も県内に遺品を残しているという。南北朝の争乱で倒れた人々を弔うために各地の領主によって招かれたそうで、東国に土着した円派(慶派、院派とともに定朝の系譜を引く仏師のグループ)の仏師と考えられるのとのことだ。
 中通りの乗円作の仏像は、他に二本松善性寺に1体、古殿西光寺に2体が残されているとのこと。会津にも1体の仏像があり、福島では計5体の仏像とのことだ。乗円の師道円作の仏像も、会津に1体あるという。
 乗円の福島での造像活動期間を確認すると、少なくとも延文2年(1357)陽泉寺釈迦如来坐像に始まり、応安7年(1374)古殿西光寺の地蔵菩薩坐像に痕跡が残るということになるようだ。ということは、乗円は、少なくとも18年以上福島中通りで造像活動をしていたということになるということのようだ。
by shingen1948 | 2015-11-02 08:15 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(2)
 前回は、今回の散歩で感じた「庶民が感じた仏教」とでもいう側面について整理したが、今回は「信夫の里の仏教文化の独自性」といったことを感じたことについて整理したい。

 この少し前の時代、全国に影響を及ぼす力のあった支配勢力は、仏教文化を支配権力強化の一手段として広めるという側面があったのだとか。
 これは、信夫の里からの視点だけでは捉えることができないのだが、信夫の里でも、その影響を受けてはいるはずだということだ。
 先の整理を、その影響下という視点で眺め直してみる。
 この地域に残る板碑や仏像は、その影響下で、この地方の人々の仏教なるものを自分たちなりに受けとめて発展させた姿であり、その素材の地域化ということでもあるのではないかということだ。
 前回整理した「庶民が感じた仏教」も、この地方の人々が仏教なるものを素直に受け止め、純粋に発展させてきたものととらえられよう。
 この地方の支配者は、この中央の支配勢力の支配と同じ方策で展開していたということもあったのではないかとも思う。これが、全国的な展開傾向ということだ。
 地方から見れば、中央から解き放たれるチャンスであり、独自性と結びつきやすい環境下だったと見てもよさそうだと思うのだ。
 「陽泉寺②」で整理した「釈迦如来坐像」について、その見方で眺めてみる。
 「釈迦如来坐像」は、大日本奥州湖山禅寺の御本尊像であり、この寺は、二階堂民部大輔時世が開基で大同結禅師であり、その中で、この「釈迦如来坐像」の事初めは延文2年(1357)7月18日で、仏師は法眼円勝と法教乗円で、應安4年(1371)6月8日に造立されたについてふれた。

 ここに登場する二階堂氏は、中央からこの地域の支配者として送り込まれた方だ。
 この方が湖山禅寺を開基するのは、仏教を心のよりどころとしていることでもあるだろうが、この仏教文化を支配権力強化の一手段として広めるという側面もあったのではないかという見方を加えて眺めたいということだ。
 これが、全国的な動きなら、ご本尊を据えるための仏師不足の中で、優秀な仏師を引き抜くことは、権威づけの一つでもあったろうとも思う。そういった背景のもと、二階堂氏は「ご本尊様を据えるのに、中央の仏師と思われる円勝と乗円(円勝が師で乗円が弟子か)を迎えた」ということだ。
by shingen1948 | 2015-11-01 09:50 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 今回の鳥渡地区の散歩で、何となく捉えたような気分になっている事がもう一つある。勝手に名づければ、「庶民が感じた仏教」とでもいう側面と「信夫の里の仏教文化の独自性」という側面だ。
 まずは、その「庶民が感じた仏教」とでもいう側面を整理する。

 この地区は、寺や供養塔群が多いことから「庶民が感じた仏教」を感じたということもある。しかし、今回の散歩で強い衝撃を受けたのは、供養塔に刻まれている事柄が明確に提示されたということだ。
 供養塔群は、他所でもたくさん見ている。しかし、その時には、史跡として客観視してしまっていて、その祈りまでは見えていなかった。
 それが、今回の散歩では、近親者の死に対して、来世での救いを求めようとする具体的な表現を、当時の状況に近い生々しい状態で目にしたのだ。それが「下鳥渡供養石塔」に接したときの衝撃だ。
これによって、感性的に、今まで見てきた供養塔群や近隣の供養塔も同じ思いのようなものが込められていたんだという納得感が迫ってきたというような感じだ。これは、理屈ではない。

 自分の感受性の方も、その衝撃を受け入れやすい環境にあった。
 今回の震災では、東北に住む誰しもが死生観を意識したように思う。この大きな災害を経験した者は、人としての現在のあるべき姿を強く意識したのだと思う。
 この感性で、この時代のこの地域の背景を「この地は南北町の争いで日毎に勢力が変動する動乱のちまたであった。人々が現生をのがれ、来世に救いを求めたのは当然だったのかもしれない」とする半沢氏の見方を眺めると、この「日毎に勢力が変動する動乱のちまた」感に納得してしまう。
 
 この時代の、この地域の人々にとっては、戦う者の生死と共に、その戦いの混乱に巻き込まれる事を通しての死生観を意識していたという背景があったのではないかと思う。その中で、具体的な家族の死と向かいあった時、供養という仏教と結びついた対処を行った痕跡が、遺跡としての供養塔なのではないかと思うのだ。
 今回の散歩では、その供養塔が持つ真の思いを何となく捉えたような気分になっているということだ。
by shingen1948 | 2015-10-30 07:44 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_2461541.jpg 「歴史地図」には、「古墳時代(6~7世紀 約1200年から1200年前の竪穴住居跡)・平安時代の土師器製造作業場跡」のメモが記されるが、案内板では、古墳時代の竪穴住居跡の法を詳しく解説し、「発掘された竪穴住居の一つと同じ形と同じ形と大きさで作った花壇」の下にその遺跡は保存されるとある。
 その花壇が、こちらなのだと思う。
 こちらは詳しく紹介されるが、案内板では、「平安時代の土師器製造作業場跡」については詳しく解説せず、「約1100年前の『平安時代』に村があったことがわかりました」との解説で集約される。

 位置的には、ここは「毘沙門堂」跡に近いのだが、権兵衛屋敷や信夫塚を整理した後にした。それは、ここで感じた時代の流れの襞とのかかわりにもこだわってみたかったからだ。
 「鳥渡山王社付近散歩の振り返り」で整理したように、「二階堂氏」を感じようとしたことが、今回の散歩の大きな見え方の変化なのだと思っている。
 信夫の里の「佐藤氏の支配時代」から頼朝の東北侵略を経て、この信夫鳥和田には鎌倉幕府評定衆二階堂氏の一族庶子が派遣さるのだが、その「信夫鳥和田」が今回散歩の鳥川付近ということだ。
 このことによって、感覚的には、この時代の信夫の里が少し見えてきたような気分になれている。
 せっかく感じたこの時代の流れの順序性のようなものとかかわらせて近隣を眺めたかったという思いだ。

 荒い捉え方なら、半沢氏のメモの前半の「古墳時代(6~7世紀 約1200年から1200年前の竪穴住居跡)」は、先の散歩で整理した「稲荷塚古墳」や「大森の古墳」等の散歩とつながりを感じ、メモの後半「平安時代の土師器製造作業場跡」は、佐藤氏の影を感じる平安末期との連続性を感じたような気分になれるということだ。

 散歩資料には、ここから荒井村まで足を延ばす間には、更に時代を遡った時代の遺跡が重なる地域があったり、佐藤氏の影を感じたりすることができそうなところもありそうなことも見受ける。
by shingen1948 | 2015-10-29 07:43 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 学校の西南隅付近に、茶畑遺跡との案内板が建っている。
a0087378_6183871.jpg 半沢氏の「歴史地図」には、この「茶畑遺跡」については、「古墳時代(6~7世紀 約1200年から1200年前の竪穴住居跡)・平安時代の土師器製造作業場跡」のメモが記される。
 案内板には、そのうちの古墳時代の竪穴住居について、次のように詳しく解説される。
 茶中遺跡
 鳥川小学校運動用地の拡張に伴い、昭和60・61年に発掘調査が実施され、約1400年前の「古墳時代」と、約1100年前の「平安時代」に村があったことがわかりました。
 約1400年前の村では、当時の家である竪穴住居あとが数件発見されました。
 古墳時代の竪穴住居は、一辺が4~5メートルの正方形の形に地面を掘り下げて床を作り、柱を立てて屋根をかけた建物でした。食事の煮炊きはかまどで行われ、住居には鍋や食器として使われた土器が残っていました。
 ここにある花壇は、発掘された竪穴住居の一つと同じ形と同じ形と大きさで作ったものです。当時の家は、地面の下に保存されています。
 平成23年
 福島市教育委員会

by shingen1948 | 2015-10-28 08:16 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)