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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 半沢氏のフィールとードワーク地図によれば、疣石峠に向かった道は、思ったとおり川俣街道の古道であったようだ。そのまま南にたどれば、次の角に道標があり、左折すれば、義民小左衛門の墓があり、更に、日蓮本宗一円寺には義民忠次郎の墓があったらしい。
 新しく開通した114号線をたどれば、現在は高橋家になっている義民小左衛門の生家があるとのことだ。
 また、今回、疣石峠に向かう時に、市之丞の生家を右手にあったようだが、見逃してきている。案内の標識があるのかどうかは分からないが、確かめる価値はあったようだ。今度ゆっくり散策してみたい。
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 疣石峠から続く道も川俣街道で、いこいの松を経由して、鳥谷野の渡しに至ることになるようである。

福島における百姓一揆一覧をもとに自分なりに概念を整理しておく。
 目的については、以下の5つの視点に整理できそうだ。
① 不正代官、名主、庄屋の告発
② 助郷人足軽減
③ 年貢減免
④ 食糧救済援助願い
⑤ 新田開発など施策批判
 方法は、大きくは以下の3つの視点に整理できそうだ。
 訴願、打ちこわし、集会。

 先に整理した福島の享保の一揆は、目的は年貢減免で、方法は訴願であつたということだ。その訴願の方法も、強訴、越訴、箱訴、直訴など全ての方法を使っているようで、かなり緻密な計画と実行であったように感じる。

 文化13年の一揆は、不正庄屋を告発する目的で、強訴による方法で訴えたということだろうか。今でいえば命をかけた内部告発といったところだろうか。
 これらは、一つの事件としては、上記のようにモデル化して整理できそうだが、現実には、前後にいくつものモデルパターンの事件が連なっているようで、それらが関係し合い、誘発しあって事件は発生しているようである。頭の中を整理するためにモデル化しているが、実際には、複合的であるようには思う。
by shingen1948 | 2008-07-17 04:34 | Comments(0)
 享保の一揆について佐原村と立子山の義民を確認してきたが、佐原村の近くには、もう一つ義民の顕彰碑が上名倉長勝寺にある。
 文化13年(1816)年に、新発田藩八島田村三郡大庄屋吉野の不正を訴え、文化15年(1818)2月に、不正をした大庄屋吉野とともに、死罪になった一揆の指導者上名倉村名主半十郎の供養塔である。

 寛政元年(1789)から庄野、上名倉、荒井、成田などは笹木野村などとともに越後国新発田藩の飛領となって、八島田村の陣屋の支配を受けていたが、そこの役人である名主吉野家が悪政を働いたので、上名倉村名主半十郎が越後に訴え、両人とも打ち首にされたというものだ。
 この悪政というのは、凶作の時のためにとっておいた米をごまかして自分のものにしてしまったことのようだ。
 支配の各村では浄財を集めて半十郎のために上名倉長勝寺に供養塔を建立したという。
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 最初に寺を訪ねたときには、この供養碑が分からなかった。墓地も探したがわからなかった。
 改めて訪ね、寺の門から出ようとしたら、朽ちた案内標識があった。それによると寺の正面にある2つの石碑と1つの地蔵のうち、右側の門のすぐ傍の石碑がこの供養塔らしい。確かめると、石碑の左側に半十郎の刻字が見えた。


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 寺の前の大杉には年月を感じた。
この杉は、福島市の保存種であるらしい。この木の根が堀にかかって橋になっているというメモを見たことがあって確かめたが、今は道として整備されてしまっていた。
by shingen1948 | 2008-07-16 04:35 | Comments(0)

義民④

 「享保の改革」は、おおよそ以下のようなイメージで、説明されている。佐原の人も、立子山の人も、多分同じようにイメージするだろう。

 享保の改革は、江戸時代の三大改革の一つで、江戸幕府8代将軍徳川吉宗が,享保年間に行った江戸幕府の政治改革。
 武芸や倹約を奨励し,先例にとらわれずに有能な人材を用い、人々の意見をきくために目安箱をおくなどした。公正な裁判を行うために成文法典をつくったり、財政をたてなおすために倹約と増税による財政再建を図った。農政の安定政策として、新田を開発すると共に、年貢を強化して五公五民に引き上げ、豊凶に関わらず一定の額を徴収する定免法を採用したりした。
 全国的には、産業をすすめ、倹約をさせた。農民は上からの命令もあって、堰をつくり、田を開いた。

  佐原を含め、福島の西在では、荒川の氾濫で、あちこちに大石が点在し、吾妻山の噴火で、小石や灰を浴びている土地である。それでも、農民は堰をつくり、田を開いてきたのは、上からの方針でもあったということだ。
  太郎右衛門が、箱訴した目安箱も、この時代に人々の意見を聞こうと設けられたものである。
 ただ、どこか違っていたのは、これらの目的はあくまでも藩の財政立て直しであり、大名や武士たちの財政立て直しであるということだ。そのための農民は、年貢を少しでも余計に納めさせるべき存在でしかなかったということだ。

 大岡越前は、テレビドラマでは、改革のプラスの側面にスポットライトを浴びる。
 江戸の都市政策は江戸町奉行の大岡忠相が主導し、町奉行所や町役人の機構改革を行う。米価や物価の安定政策、貨幣政策とともに、下層民対策では、貧病民救済を目的とした小石川養生所を設置する。私娼や賭事、心中など風俗取締りなど、テレビドラマでは、理想の改革として描かれる。

 佐原の人も、立子山の人も、同じように享保の改革を学習し、大岡越前のテレビドラマに拍手を送る。一方で、この改革の裏面史である福島の農民が抗議した一揆と義民の話を受け継いでいる。義民の跡をたどっていく中で、遠い昔のことなのに、今でも残る地元の方の熱い思いを感じる。
 事を荒立てずに、一つの事を重層的に捕えているということが、この地区の人々の心を豊かにしているということなのだろうと思う。 
by shingen1948 | 2008-07-14 04:58 | Comments(9)

義民③

 福島の享保の百姓一揆は、同じ岡田の支配下であつた立子山村の組頭小左衛門と百姓忠次郎が、佐原村の太郎右衛門に強訴を呼び掛けたのがスタートだ。
 立子山に出かけてみる。
 春田の道路わきの地図を確かめると、義民顕彰碑が疣石峠にあることがわかる。
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沢尻あたりから、疣石峠に入るらしいということで、案内板を確かめながら進む。一度通り過ぎて、戻ったとき、入口の案内を見つける。


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 案内板に従って、ここから入る。後で地図を確かめると、確証はないが、ここが川俣街道の古道ではないかと思う。


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 そこを進むと、消防屯所脇に案内板がたっていた。これから先400mとある。ここからは、轍はあるが、険しい山道のようだ。


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 一本道で、道に迷うはずはないのだが不安になる。


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 行き止まりかなと思ったとき、右手に義民顕彰碑が現れる。獄門となった小左衛門と忠次郎が3日2夜さらし首になった疣石峠の疣石は、この山神のあるあたりかと勝手に想像する。

 「福島のあゆみ」によると、村民はさらし首になった疣石峠の疣石に上がると罰が当たると言い伝え、義民の血を流したところを神聖化するため、伝説を作ったようだ。 


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ここに義民顕彰碑が建立され、その脇には3本の案内板が立っている。
そのひとつは、義民を称える曲で、獄門となった小左衛門と忠次郎とともに、八丈島に流罪になった伊三郎、三宅島へ流罪になった市之丞も歌われている。


 もう二つ案内板があるが、そのうちの一つは、町内会が建てた義民顕彰碑の案内板で、もう一つが゛、福島市制百周年記念事業の案内板である。

史跡 疣石峠(いぼいしとうげ)
 徳川八代将軍吉宗の時代、享保14年(1729)信達両郡のうち当時幕領であつた68ケ村の農民たちは、うち続く凶作で代官岡田庄太夫の圧政に耐えきれず一揆を起こした。
ここ疣石峠は、その責任を問われて死罪獄門という最も重い刑に処せられ尊い犠牲者となった義民、立子山の組頭小左衛門と百姓忠次郎の首がさらされた場所である。
 昭和57年8月1日
 沢尻町会 


 義民顕彰碑
 かつて疣石峠の道は、伊達小手郷の村々と福島城下を結ぶ重要な街道であった。
この峠において、享保14年(1729)の晩秋に、村民の小左衛門と忠次郎が3日2夜の獄門さらし首の刑に処せられるという恐るべき悲劇が行われた。
 当時、信達両郡内は幕府直轄の代官支配で、大森、川俣の2代官を岡田庄太夫が支配していた。岡田庄太夫は、重い年貢を課し、さらに前年からの長雨による凶作を無視しての実質的増税を強要してきた。
 農民達は、年貢の減免と種籾夫食の借用を願い出たが、逆に威嚇されて追い返される始末。
福島藩二本松藩への越訴を敢行しました。一揆の首謀者として、小左衛門、忠次郎は獄門さらし首、伊三郎は八丈島、市之丞は三宅島へ流罪となった。
福島市制百周年記念事業 立子山実行委員会平成19年9月



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 この疣石峠の道は、伊達小手郷の村々と福島城下を結ぶ重要な街道であったようだ。
 現在はここで行き止まりといった感じだが、これが、先に進む道なのだろうか。
 
 試す勇気はない。
by shingen1948 | 2008-07-13 05:13 | Comments(0)

義民②

 市制施行60周年を記念して発刊された「福島のあゆみ」では、義民終焉の地とかかわる享保の一揆を中心に6頁にわたって百姓一揆について述べている。そして、農民の暮らし、世直し運動という項立てをして、その背景まで追求する。表現は子供の読者を想定して平易だが、深い。

 立子山の組頭小左衛門と百姓忠次郎が、佐原村の太郎右衛門に一緒に強訴しようと持ちかけたという。立子山と佐原村は遠方であり、なぜ結びつくのかと思ったら、一人の代官が広範囲にわたって支配していたらしい。
 この時の大森の代官岡田正太郎は、川俣代官も兼ねていたので、信達のうち74か村を支配していたらしい。佐原村では、荒川の氾濫を考慮するどころか、自分の手柄をあげるために年貢を増やす命令を出したということだが、どこでも同じような支配姿勢だったのだろう。

 その後、聞き入れられるわけもなく、二本松藩、福島藩へ越訴へと発展する。すると、幕府からは百姓退去の命令が下る。百姓は退去し、岡田は二本松藩700人に守られて、大森に戻ってきて、村の責任者を牢に引き立てるという事態となる。
 これをどうにかしようと、太郎右衛門が江戸の目安箱に願書を入れたが、武士にたてつく不届き者ということで、小左衛門と百姓忠次郎が死罪、太郎右衛門が奥州十里四方追放、その他90名が、財産とりあげ追放になる。
 これであきらめるわけにもいかず、次の手として太郎右衛門は、将軍へ直訴しようとするが、捕えられて死罪になったというのが概略のようだ。

 この本は、一揆その後までふれている。
 信達農民が多くの犠牲を払って得たものは、13年間二本松藩預かり地になったということだけだったとのことだ。

 そして、この時の代官岡田だが、他の代官に栄転したという。
 つまり、代官岡田は、お上のおっしゃるとおりに仕事をし、成果をあげて出世したのである。おっしゃるとおりの仕事とは、農民から搾り取ることと、反攻する者は徹底的に叩くということだ。

 多分、この本の編集者は、暴れん坊将軍のテレビ番組を見ながら、この将軍の農民政策の一つが、信達農民に多くの犠牲を強い、そして享保の改革として持てはやされていることを苦々しく思っていたのではないかと勝手に想像する。
by shingen1948 | 2008-07-12 05:08 | Comments(0)

義民

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 吾妻球場の角には、義民太郎右衛門終焉の地がある。半沢氏のフィールドワークの「福島の百姓一揆」のメモによると、享保14年(1729)3月に幕領代官岡田の悪政に反対して農民が起こした一揆とのかかわりだ。
 この一揆は、大森、川俣両幕領代官所支配の信達68ケ村年貢減免の強訴と福島藩・二本松藩への越訴、そして、江戸目安箱への箱訴へと発展した。処罰犠牲者94名で、首謀者の立子山村の忠治郎と小左衛門は死罪獄門・天明根村与右衛門らは島流し刑死。そして、翌年1月箱訴した佐原村太郎右衛門も今の運動公園の北西の地で獄門となったとあるものだ。

 義民終焉の地の案内板は、以下のように説明する。

 当地佐原の義民太郎右衛門さまは、今から260年前近郷 35村百姓の窮状を救うため一揆を起こして命を捨て江戸幕府に直訴、遂にとかめられて、この地で打ち首獄門さらし首となる。
旧暦正月21日行年49歳

嗚呼

平成2年6月21日

辞世
人のため登る我が身のうれしさに
思ひ忘れかし信夫人々
人のため死する我が身の命かな
うらみとさらに思わざらまし


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 そこに、以下のような案内もあるので行ってみると、確かに標識があった。

 太郎右衛門さまの霊堂並びに御墓所はここから左手約2キロ先、その標識があります。(歩いて30分)


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その霊堂と墓所入り口の向かえには義民の供養碑がある。


 案内はそこまでだが、そこからさらに進むと、屋敷跡がある。
 荒川発電所辺りまでは舗装だが、その奥は砂利道となり、林の中に入っていく。その左手に義民太郎右衛門の屋敷跡はある。
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義民太郎右衛門の屋敷跡
戦国時代の末、自徳寺(現在慈徳寺)海上庵の長男、佐藤越後(田中内に住み名主となる)
の娘婿但馬の代から井の内に住み、但馬ー初代太郎右衛門(名主)ー2代太郎右衛門(名主)ー3代太郎右衛門名(義民太郎右衛門)と続いた屋敷跡である。
 昭和47年にここから掘り出された右柱の基部3本が現在義民堂内にに保存されている。
義民の供養碑 明治44年建立
建功院義岳良勇居士

by shingen1948 | 2008-07-11 04:34 | Comments(0)