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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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会津若松の道路元標を確認する②_a0087378_3582181.jpg
  大町四つ角は、会津五街道の起点である。
  会津にいるころは、何となく主要地が放射状にあるような感覚があった。高田○○里、板下○○里、そして、高田と板下の間が○○里であって、その○の数値が凡そ同じという感覚だ。

  「三方道路」も、この大町四つ角を起点とする。会津三方道路は、次の三つを結ぶ道路だ。
① 若松~米沢~山形
② 若松~大田原~東京
③ 若松~新潟
この道路は、会津の道路に大変革をもたらすと共に、自由民権運動ともかかわってくる。

自由民権運動については、福島の県議会との兼ね合いで、福島を探索しながら確かめてきた。その自由民権運動の高まりと、三島県令が強引に推し進める三方道路の建設が相対峙する。

この道路を造る三島県令の大義は、会津活性化のためだろう。しかし、建設を急いだ背景は、天皇行幸と、大国ロシアとの戦いといわれる。文明には人と物資の流通が不可欠であることと、治安維持には迅速な兵力移動が求められることによると思われる。

これを造るために、三島県令は、会津の住民に以下の義務を課そうとした。その強引な計画のごり押しが、自由民権運動の火がつき、福島事件が起きる原因の一つになる。

会津6郡に住む15歳以上60歳までの男女は貧富の差なく毎月1日ずつ、2年間夫役(無賃労働)に出る。夫役に出られぬ者には、男は1日15銭、女は1日10銭の代夫賃を出す。それも出せない者は家財道具を押収する。

 これが、自由民権運動の高まりと絡み合って、県民との対立が深まっていく。その経過も一応確認しておく。

 明治15年(1882)の2月に三島通庸が、山形県から福島県に着任する。
 3月には、三島県令は、会津6郡の郡長を召集し、会津三方道路の開設を命じている。
県令三島通庸は、着任して以来福島県会には一度も出席しなかった。そこで、議長の河野広中は、三島通庸を弾劾するのだが、県議会も、5月6日に三島通庸が提案した議案(道路工事や地方税議案)を23対22で否決してしまうのだ。
  6月には、三島通庸は、内務卿から予算執行権を与えてもらい、8月には、会津三方道路の工事を強行してしまう。
 そして、その反対者を容赦なく弾圧する。
  福島本部から応援に来ていた自由党員とか、地元の自由党員幹部が泊まっている旅館を、会津帝政党員に襲撃させる。裁判官の人事まで使って弾劾する。そして、代夫賃を出さない農民からは、家財道具や種籾などを押収して競売にかけるという強硬手段を徹底していくのだ。
# by shingen1948 | 2007-10-05 04:03 | ◎ 会津への路(自由民権運動) | Comments(0)
  大町四つ角が、会津への道の起点だ。
  昔は、ここに高札が立てられたという。それで札の辻と呼ばれているとのことだ。
  この辻を二つの視点から眺める。一つは、町屋作りの観点であり、もう一つは、会津の道路の起点という観点である。

  蒲生時代の町屋作りが、それからの若松の町並みの原型になったといわれている。氏郷が城下町を築く時に意を払ったのは、武家屋敷と町屋を外濠で隔てる町割りだとのことだ。それまで、武家と商人の棲み分けが渾然としていたのを改めたという。
  この大町は、この趣旨に添って米代に合った旧「大町」を濠の外に移して、新たな町方の中心街となったところという意味合いがある。
会津若松の道路元標を確認する_a0087378_3513249.jpg
  城下町特有の卍型に交差しているこの大町通り四辻には、道路の起点である道路元標がある。
  会津五街道といわれる街道もここが起点である。
  ここから、南東へは白河城下を経て江戸へ向かう道『白河街道』が伸び、東へは本宮、二本松へ向かう『二本松街道』が伸びる。西をめざして『越後街道』、南へは下野の国(栃木県)今市から日光街道を経て江戸に至る『下野街道』が伸びる。北へは米沢にいたる『米沢街道』の街道が整備されている。

  明治15年(1882年)から二年かけて明治新政府の県令(知事)三島道庸(みちつね)が開かせた三方道路も、勿論ここを起点としている。
# by shingen1948 | 2007-10-04 04:12 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

蒲生氏郷の墓を訪ねる

「街道をゆく」で、司馬遼太郎氏が会津に入った時の記述を思い出した。確か、最初に訪れたのは、栄町の興徳寺であったはずだ。ここには蒲生氏郷の墓がある。
 それで、観光客になった自分もここを訪れようと思った。
蒲生氏郷の墓を訪ねる_a0087378_433513.jpg

 氏の印象は、伽藍もなく、右手にコンクリート造りの建物があり、その奥に氏郷の墓所があって環境的には気の毒との感想を持ったようだ。
 しかし、墓そのものには、古風を保ち、石垣の上に土を盛り、芝を植えて、その上に堂々たる五輪塔が据えられているとしている。姿もいいとした。墓の側に辞世の歌碑が、会津史談会の名で建っていることや、墓前の供花をみてゆかしくは感じたようだった。

  歴史に詳しい氏は、この寺のイメージが大きく膨らんでいて、現実の寺を観たときにその落差が大きかったことが分る。
  歴史上は、会津若松城第一等の寺であり、臨済宗妙心寺の名刹ということで、期待したようだ。また、寺そのものは鎌倉時代からあって、京都五山や鎌倉五山に次ぐ臨済禅の会津における根拠地とのことだ。
  葦名時代は、境内が8丁四方もあり、一時的に制圧した伊達政宗もここを仮の居城にしたというし、豊臣秀吉が、奥州を新秩序にすべく会津に入ったときは、ここを臨時の政庁にしたという。
 氏は、そのイメージとの落差にがっかりしたのだろうと思う。

 この記述は、「街道をゆく」33「白河・会津のみち、赤坂散歩」にある。
 記述をたどれば、氏が会津に入ったのは白河からだ。羽鳥湖を経由して、121号国道に出て、大内宿に立ち寄っている。ここから若松に入ったようだ。本当は、二本松街道を入り途中で磐梯町の恵日寺に立ち寄りたかったようで、徳一については詳しく記述されている。

 氏が、ここで語る蒲生氏郷は、一つは、領地経営能力についてであり、もう一つは、この地にやってきた意義である。
 氏郷の築城設計と都市設計(町割)と商工業を中心とする領国経営の能力が優れていることを具体例を挙げて説明する。七層の天守閣を持つ居城を築き、町割りもする。かつて伊勢松坂に移った蒲生郡の日野商人は、城下に日野町(後に甲賀町)という商工業町を形成したという。

 秀吉にとっては、奥州50余郡の武の地でよほどの器量の者を会津にすわらせその鎮めにせねばならなかった事情のようだ。それが、氏郷にとってはどうだったのかということを述べている。大領を領することと引き換えに、政治の中心からは離れてしまうという立場について、氏郷はどう思っていたのか。

 ここで、司馬遼太郎氏と表現しているが、本当は自分にとっては雲の上の人だ。泊まったホテルまで気になる。白虎町のホテルからという記述から、「ワシントンホテル」か「グリーンホテル」
だなと想像して、三面記事追っかけの気分もある。
# by shingen1948 | 2007-10-03 04:48 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)

 今、改めて会津を見つめ直そうと探索しているところだが、そんな折、下関の市長が鶴ケ城健康マラソン大会に参加したことを報じる新聞記事を見つけた。特別インタビュー記事も掲げられていた。
 大きく取り上げたのは、地元紙「福島民報」(2007.10.1)だ。長州の中の市長が、会津の行事に初めて参加したという意義の大きさを伝えようとするものだと思う。
 「互いの歴史を見つめ市民レベル親交を」という見出しのインタビュー記事だ。
下関市長が鶴ケ城健康マラソン大会に初参加_a0087378_437135.jpg
西軍墓地や飯盛山に訪れたことについては、次のように語っている。
 西軍の犠牲者も慰霊していただいていることに感銘を受けた。会津を学ぶにつれ、子女の自決など悲惨な事実にも触れ言葉もない。
 ただ、長州は勝った歴史ばかり語られるが、長州征伐や四国連合艦隊による砲撃などの苦難もあった。日本人同志が殺し合う戦争はこれでおしまいにしたいと昔、国会で語られた事実は心打つものがある。

 会津と長州の間に横たわる感情については、次のように語る。
 戊辰戦争から140年を経ても、ひいおじいさんが戦ったという事実は決して昔話ではない。新しい時代を迎えるために払った犠牲は大きかった。
 そして、同行した下関市民の感想にふれながら、次のようにまとめている。
 会津からも来てもらい、長州を歩いてもらえば、どうして攘夷から討幕に変わったかも分かってもらえるはず。
 遠慮して東軍墓地の案内は控えているような気がする。しかし、本当に互いの遺恨を理解して頂きたいのなら、遠慮すべきではないと思う。
  亡くなった方の取り扱いに、敵も味方もないはずだ。恨みを遺骸の取り扱いに向けた姿勢は、許してはいけないことだと思う。たとえ日本人同志が殺しあうということが和解されても……。表面的な和解も大切であり、意義があると思うが、恨みの根源にかかわることも理解していただくことも大切だと思うのだ。
# by shingen1948 | 2007-10-02 05:05 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)