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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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羽州街道④小坂峠

羽州街道④小坂峠_a0087378_538422.jpg
  中の茶屋から白石国見線をしばらく走ると、宮城県境の案内板が現れる。ここが主要地方道白石国見線の小坂峠で、ここからは、信達平野が広がり、阿武隈川や阿武隈山地も一望できる。
今は福島県と宮城県境である。ここにドライブインがあって「歴史の道」という案内板が建っている。羽州街道について説明しているのだが、この小坂峠が領地の境になっていることにかかわっては、次のようなことが説明されている。

昔は仙台藩と米沢藩との境界であり、寛文4年以降は、幕領との境界であった。それで、小坂峠を挟んで、小坂宿と上戸沢地区に、口留番所が置かれ、領内からの留物の流出と旅人の取締りに当たったということのようだ。
また、ここまでの古道の急な坂道は交通の妨げになっているのだが、それに関わるエピソードも紹介する。
文化3年(1806)庄内藩主の酒井忠器は、小坂宿で駕篭を降り急な街道を徒歩で越えたとあり、秋田藩歴代の藩主佐竹氏は参勤交代の折には、峠の不動堂に奉幣を捧げて道中の無事を祈願するのが恒例であったとのことだ。

江戸時代には、出羽の大名の参勤交代や出羽三山詣などの旅行者、一般の物資輸送で賑わったようだ。
羽州街道④小坂峠_a0087378_5391327.jpg
福島県側から羽州街道を通れば古道の出口にあたり、出羽側からは羽州街道古道への入り口にあたる。そこへ導く案内の支柱がある。
宮城県側からみれば、日本の道100選に「歴史を語る道」として選ばれた「七ケ宿街道(主要地方道白石国見線)」の最終地点にあたるらしい。
# by shingen1948 | 2008-05-25 05:45 | Comments(0)
小坂宿を過ぎて暫くすると、道路に赤い鳥居がかかっている。そこをくぐると、右手に水車が見え、左手に石碑が見えてくる。中の茶屋跡ということらしい。小坂峠に向かう前にここに立ち寄ったのだろうか。
羽州街道③小坂峠への古道入り口~中の茶屋_a0087378_6173742.jpg

水車の前には、羽州九段の滝という所に向かう案内板がある。その案内に沿ってちょっとだけ登った休憩所から今来た道を写す。


羽州街道③小坂峠への古道入り口~中の茶屋_a0087378_619851.jpg
手前のカーブにある階段の所からは、小坂峠への古道に行けるという道案内がある。

羽州街道③小坂峠への古道入り口~中の茶屋_a0087378_6241279.jpg
その古道も、何度か改良されているらしい。
現在も歩行できる二つの道筋があるらしい。


羽州街道③小坂峠への古道入り口~中の茶屋_a0087378_620633.jpg
一方は、難儀を強いられる坂である「産坂」に向かう坂のようだ。


羽州街道③小坂峠への古道入り口~中の茶屋_a0087378_6204260.jpg
もう一方は、改良された小坂峠への古道ということらしい。どちらも迷わないように、木々にマークがされているようだ。


今回は、ちょっとその雰囲気だけ味わって戻り、白石国見線を進む。中の茶屋のヘアピンカーブから九十九折りに山を登るのだが、カーブがきついわりには走りやすい。
しばらく走ると、林の中に県境が現れるが、そこが小坂峠だ。

案内板では、小坂峠に関わっては次のように説明されている。

 羽州街道の難所小坂峠
' 奥羽山脈を横断する街道が最初に出会う難所が小坂峠でした。標高は441㍍とそう高くはありませんが、ほぼ一直線に上る山道は、なかなか難儀を強いられる坂でした。この坂道には「産坂」という呼び名もありますが、まるでお産の苦しみと同じだというのが由来だそうです。
 難所改良のための工事が文久2年(1862)から3年かかりで行なわれ、慶応3年(1867)にも改良工事が行なわれて、そのときの道が慶応新道として今も残っています。
 峠を上りきると信達平野が目に飛び込んできて阿武隈川や阿武隈山地も一望のもとに見渡され、その景観は羽州街道中随一といわれています。

# by shingen1948 | 2008-05-24 06:34 | Comments(0)

羽州街道②~小坂宿

小坂小学校の前に、羽州街道についての説明、小坂宿、小坂峠など福島県側にある街道の説明する案内板が建てられている。羽州街道は、ここを少し過ぎると、右に折れる。
 案内板の説明によると、この辺に口留番所はあったようだ。
羽州街道②~小坂宿_a0087378_3313967.jpg
曲がるとすぐに小坂宿だが、目に付くのは蔵づくりの家だ。ここから奥羽山脈を横断することになるので、その最初の難関小坂峠越えを意識して、休憩を取ったり宿泊したりして備えるのに使われた宿のようだ。


 案内板では、羽州街道全体や歴史など多くの情報を掲載している。その中で、小坂宿については次のように紹介する。


 羽州街道最初の宿場小坂宿
羽州街道②~小坂宿_a0087378_336677.jpg
 奥州街道と分かれた羽州街道の最初の宿場が小坂宿でした。この先に難所の小坂峠があるため、旅人や参勤交代の一行はこの宿場で休んだり、宿泊して峠を越えたようです。秋田藩主の佐竹公もこの宿場に泊まっていたことが記録されています。
 宿場は街道を挟んで短冊状に屋敷割りされ、今でもその形式が残っています。
 街道の道幅は二間半(約4.5m)、家の間口は六間(10.8m)でした。宿場の北端で街道は直角に曲がっていて、そこに街道を通る人や荷物を監視する口留番所がありました。
 上州館林(群馬県)に国替になった山形藩主の秋元氏一行が羽州街道から奥州街道と移動しました。そのときの様子を絵巻に残した山田音羽子は、小坂宿の茶屋で出された竹の子の煮つけが珍しかったと書き残しています。
 小坂宿は羽州街道の中でも、当時の雰囲気をよく残している宿場の一つで、街道の両側に並ぶ蔵づくりの家に、羽州街道の古の様子がよく伝えられています。

# by shingen1948 | 2008-05-20 04:20 | Comments(0)

羽州街道①~追分

 国見にでかけた時に、羽州街道の一部を辿ってみた。小坂宿を経て、小坂峠の入り口の茶屋、小坂峠の白石側の入り口、上戸沢、そして、下戸沢辺りまで足をのばしてみた。
羽州街道①~追分_a0087378_4553636.jpg
 その最初の地点が、羽州街道と奥州街道の分岐点である追分だ。ここは、桑折宿を少し過ぎたところだ。最近整備されたことは知っていた。

 羽州街道は、ここで奥州街道と分かれて出羽国(秋田と山形)へと向かう。この街道は、出羽の国を通り、青森県の油川宿で再び奥州街道に合流するという日本海側の主要な街道。
 福島県桑折町の小坂宿を経て小坂峠を越えて白石に入る。ここから、上戸沢、下戸沢、渡瀬、関、滑津、峠田、湯原の7つの宿場を通って山形県上山市の楢下宿に至るのだが、この区間は、特に「七ヶ宿街道」とも呼ばれているという。このうち、上戸沢、下戸沢宿は、白石で、渡瀬、関、滑津、峠田、湯原宿は七ヶ宿町の領分だが、渡瀬宿は、ダムに沈んでいるという状況のようだ。
 今回でかけたのは、白石の領分辺りまでということだ。

 天正7年(1579)の冬、米沢の伊達政宗のもとに三春城主田村氏の娘の愛姫が小坂峠を越えて嫁いだことから、「愛姫街道」とも呼ばれるという。
# by shingen1948 | 2008-05-19 05:01 | Comments(0)