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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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戦国の山城 八丁目城④

 八丁目城の成立とその変遷については、入り口の案内板の説明が、簡潔で分かりやすい。
 その中で注目したのは、稙宗と晴宗の天文の乱の時に、ここに稙宗が在城したことだ。そして、この乱の影響で城主の交代劇がるのだが、それが、晴宗の兄弟でもあり、乱の原因の一因ともなった実元が隠居する城という関わりもいい。
 先に大森城に行き、次に西山城に行ったことのまとめをしているような感じだ。

 戦国の山城 八丁目城
 八丁目城は戦国時代の16世紀伊達稙宗(陸奥守護・桑折西山城主)の支城として築かれた。
子息晴宗と戦った天文の乱には、天文12年(1543)8月から1年半ほど稙宗が在城している。
 城主は初め堀越能登守だったが、天文の乱に勝利した晴宗(奥州探題米沢城主)は清野備前守遠江守父子を城主にすえた。
 遠江守が、晴宗の子輝宗に切腹させられた後、復帰した堀越能登守はやがて伊達氏に背き、二本松畠山氏に通じたが、天正2年(1574)大森城主実元(晴宗の弟)が、この城を奪回した。
 実元が八丁目城に隠居した後は、その子成実が、また、天正14年以降は政宗の重臣片倉小十郎景綱が、大森城主として八丁目城を支配した。
 天正18年、秀吉の奥羽仕置により城は破棄されるが、おおよその城構えは残されて現在に至り、貴重な文化遺産となっている。
 築城に際し南約1kmの字宿地から移されて成立した八丁目の城下町(本町・中町・天明根町・向町)は築城後の江戸時代には宿場町として、奥州街道で屈指のにぎわいをみせた。
                                福島大学名誉教授  小林清治

戦国の山城 八丁目城④_a0087378_633551.jpg
 この城の前の道を土湯方面に進むと、この城の南側の様子が見える。こちらからは、城のそんざいすら見えない。守りの堅そうな城である様子がよく分かる。

 この城を回り込んだ所が、米沢街道の追分け地点になっている。
# by shingen1948 | 2008-06-07 06:09 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)

戦国の山城 八丁目城③

 昨日まとめたところは、南側の平場だ。
 祠が沢山無造作に置かれていたところが、案内図の南端の平場であり、次の鳥居があった広い広場が、案内図の一段高くなった平場である。そして、壊れた神社の建物があった広場が、案内図の、手前の丸い平場である。
戦国の山城 八丁目城③_a0087378_18575911.jpg
そこから、奥に行くのは、難しそうなので、北側の低地に一度降りる。これもなかなか大変なのだが、どうにか降りることができた。


戦国の山城 八丁目城③_a0087378_18584346.jpg
 そこも平場になっている。ここの草むらを西に向かう。


戦国の山城 八丁目城③_a0087378_1901931.jpg
 その草むらを進んでいくと、愛宕様に向かう石段に突き当たる。   


戦国の山城 八丁目城③_a0087378_1962724.jpg
 これが愛宕様で、外見は立派な神社なのだが、中を見てみると朽ちている。


戦国の山城 八丁目城③_a0087378_19141100.jpg
 そこから、更に一段高まったところがあって、そこを登る道がある。


戦国の山城 八丁目城③_a0087378_1923978.jpg
 そこを登ると、館があったという広場に出る。
でかいまむし草が生えているのが印象的だ。


 北側の平場は畑になっているようだ。
 愛宕様から自然に降りられる道を辿ってみる。畑の脇道を東に向かって降りていくようになる。そして、たどり着いたのが、幼稚園の脇だった。
戦国の山城 八丁目城③_a0087378_194596.jpg
 ここに立ってみると、南の平場に行く道と中央を進んで愛宕様から館跡に行く方向が見定めることができる。
 いわゆるここが大手門といったところだろうと勝手に思う。全体が見えないうちは苦労したのだが、全体がみえると、それほど苦労して探索するような山ではないことが分かる。
# by shingen1948 | 2008-06-05 19:08 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)

安積山②の歌

 「福島民報」の安積山に関わる万葉集の歌の木簡が出土したことに関わる記事をさぐると、5月28日は、「あぶくま抄」に関連をみつけた。1200年以上前の記録が木簡にしっかりと残っている驚きを題材にしていた。
 30日には、「「安積山の歌」木簡解明2教授意義語る」との見出しで、甲賀市で行われた解明に携わった両教授の講演の要旨を紹介していた。
 31日には、「「安積山の歌」木簡発見に思う」と題する郡山文化協会名誉会長の今泉正顕氏の寄稿文を載せていた。

 「安積山の歌」の話題は、まだまだ続きそうだが、今泉正顕氏の寄稿文で、注目したいのは、氏は、葛城王が、実際に安積を訪れ、国司の接遇が悪く、不機嫌だった王の前に進み出て機転で歌を詠んだという話は、実話だとしていることだ。
 葛城王が陸奥国の按察使として安積の郷を訪れたのは、「続日本書紀」などの資料から神亀4年(727)葛城王43歳のときだと思う。
(中略)
 葛城王は都に戻ってから、若い官人たちに、歌づくりには、こういう気配りを学ぶべきだと強調して、この「安積山の歌」を紹介したのだと思う。

  そうすると、都人が「あさか」という言葉とそのイメージで安積山を詠んでいるのではなく、現実の安積山を詠んでいるということになる。
 ならば、安積山について特定しておく事も大切なようだ。芭蕉が訪ねた安積山は、現在安積山公園になっている安積山だが、万葉集で詠まれる安積山は、額取山(1009㍍)と考えることが一般的で自然のようだ。「うつくしま百名山」(FTV)でも、この額取山を万葉集で詠まれる安積山として、八幡太郎ゆかりの展望の山としても紹介している。
 
一方、福島県史1(原始古代中世)では、歌と附記の書き下し文で紹介した上で、次のように安積山の歌は伝説であるとの見方を示している。

この物語の中心人物は、ただ「風流の娘子なり」とだけで、その名を逸しているが、安積の采女として有名である。謡曲の「采女」がこれから取材して猿沢池の伝承と結びつけ、さらに民話の「絵姿女房」とあわせて、今日の采女伝説が形成された。葛城王を称するものは、六国史だけでも3人あるので、左大臣橘宿禰諸兄とするのは早計である

 そうならば、都人のイメージの世界であり、大切なのは、「あさか」という言霊ということになるのだが……。

 福島短歌会長の今野金哉氏は、今回の発見が、「歌の父母」ということについての意義を指摘していた。
 「歌の父母」というのは紀貫之の創作ではないかという説を述べる学者もいたため、今回「二つの歌がセット」の形で発見されたことは、それに反論できる第一級の物証と言うことができる。


 いろいろな見方に影響を与える発見であったようだ。

 福島県史1に紹介される安積山の歌と伝説についての附記を引用しておく。
※ (万葉集の)という部分は、こちらが文意を明確にするために付け加えた。
(万葉集の)巻16には、有名な安積山の歌があり、これにまつわる伝説も附記されている。
安積香山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思はなくに    3807

 右の歌は伝へて去はく、葛城王陸奥に遣されし時、国司の祇承の緩怠なる異に甚し。特に、王の意悦ばず、怒の色面に顕る。飲饌を設くと雖も肯へて宴楽せず。ここに前の采女あり、風流の娘子なり。左の手に觴(さかづき)を捧げ、右の手に水を持ち、王の膝をうちてこの歌を詠みき。すなはち王の意解け悦びて、楽飲すること終日なりき。(原文漢文)

# by shingen1948 | 2008-06-04 20:15 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)

戦国の山城 八丁目城②

戦国の山城 八丁目城②_a0087378_20395039.jpg
奥羽街道から土湯方面へ向かう道に入って少し行くと、八丁目城跡の案内の標識が建っている。ここは、元松川小学校だった所らしい。


戦国の山城 八丁目城②_a0087378_20413057.jpg
案内板の図を頼りに、方向を見極めるが、よく分からない。兎も角、登れそうな所を探して一段高台に上ってみることにする。


ゲートボール場らしい所から見ると、上にフェンスがある。とりあえずそこまで登ってみる。
戦国の山城 八丁目城②_a0087378_20454999.jpg
そこから、細道があって、その道に沿って高台に向けて登ると、平場があって、祠が沢山無造作に置かれている場所に出る。


戦国の山城 八丁目城②_a0087378_2048196.jpg
そこから、また少し登ると、平場があって、上り口に鳥居が見える。


戦国の山城 八丁目城②_a0087378_20501363.jpg
  その鳥居をくぐって上ると、崩れた神社の建物があって、その奥に平場が広がっている。
後で、分かるのだが、ここらあたりが、案内図にあった一番南端の平場のようだ。


ここから奥に進もうとしたが無理なようなので、一度北側の低地に降りてみる。なんとなく道筋が見えて、館跡に行けそうな気がしてくる。北西の高台平場の方向をめざす。
# by shingen1948 | 2008-06-03 20:55 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)