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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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高倉城へ

 天正13年(1585)伊達氏の輝宗報復と位置付けた二本松攻略戦で、高倉から本宮周辺で合戦となるのだが、機会あるごとにその事と関わる所を歩いている。
 今回は、高倉城をめざしてみた。この城はその攻防戦で伊達氏の最前線に位置する。

 この城は、高倉宿の東側にそびえる高倉山の山頂にその主郭がある。この城主は元々は畠山氏方の支城だったのだが、この時には城主である高倉近江は伊達氏の支配下にあったようだ。
高倉城へ_a0087378_4172240.jpg
 この山の上り口は、山裾に広がる山清寺の墓地の高台を登りきったところにある。
街道からは、山清寺の山門の脇道を通り、寺の前の急な坂道を登る。


高倉城へ_a0087378_4184024.jpg
 途中、石仏観音など、霊場らしい雰囲気の中墓地へ向かう。


高倉城へ_a0087378_420228.jpg
 無縁仏の供養塔があって、そこを登りつめたあたりが、広場になっている。


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 その右手に城郭に向かう上り口がある。


高倉城へ_a0087378_4231162.jpg
 恐らくこの寺や墓地の辺りも城の機能を担っていたのだろうと想像する。


高倉城へ_a0087378_425036.jpg
 登る時、平場を想像する。確かに平場が3から4段重なっているイメージはあるのだが、その広さがないといったところだ。
 ただ、山頂は充分な広さの平場になっている。


高倉城へ_a0087378_4293088.jpg
 主郭は、しっかりと土塁で囲まれていて、特に南西側は高さも堅牢さもある。
この土塁が切れた北側が、この主郭への入り口であろうが、下からはなかなか見つけ難い。


高倉城へ_a0087378_4324777.jpg
 入り口が見つからないので、今回も登れそうだと判断した曲屋らしいところから無理やり登って、それから入り口を探した。分かり難い理由は、しっかりとした土塁のせいだと納得する。
# by shingen1948 | 2008-06-16 04:15 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(3)

土湯峠温泉の赤湯へ


 朝汗をかいたので、風呂を浴びようと思ったが、まだどこも開いていなかった。時間つぶしもかねて足を伸ばして、土湯峠沿いの温泉方面に向かった。
土湯峠温泉の赤湯へ_a0087378_1444457.jpg
 野地温泉を過ぎて、赤湯の看板に誘われて、砂利道を下ってみた。道幅はあるが、砂利道で急な坂道をかなりくだる。


土湯峠温泉の赤湯へ_a0087378_1455476.jpg
 正面に土湯湿原入り口の案内があり、左側にくだったところに平屋の古い建物と二階建ての新しめの建物がある。


土湯峠温泉の赤湯へ_a0087378_1465425.jpg
 これが好山荘だ。昔懐かしい自炊場のある宿のようだ。のんびりした時間が流れているのが分かる。


土湯峠温泉の赤湯へ_a0087378_1474358.jpg
 玄関で、立ち寄りで湯に入れるかを聞いてみると、500円とのこと。まだ、時間的に早かったのだが、入れてもらうことができた。


 ここは、内湯と露天風呂があって、内風呂は、玄関脇のロビー奥の板張りの廊下から階段を数段降りると、風呂の入り口になっている。


土湯峠温泉の赤湯へ_a0087378_1485332.jpg
 風呂は石造りで、お湯は裏庭に自然湧出するもので、赤湯の名にふさわしく、お湯は鉄分で黄土色に濁っている。石の浴槽も床も赤茶けている。鉄分の匂いもする。タオルもたちまち茶色に変色してしまった。泉質は炭酸鉄泉とのことだ。


土湯峠温泉の赤湯へ_a0087378_149458.jpg
 内湯から外に出ると露天風呂になっている。


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 この湯とは別に、旅館建物から少し離れた庭園にある屋根付きの木の浴槽の露天風呂がある。


土湯峠温泉の赤湯へ_a0087378_14164392.jpg
 お湯は灰白色に濁っている硫黄泉だ。

 パンフレットによると、内風呂の成分は鉄鉱泉で、効能は、神経痛、慢性関節リウマチとのこと。PHは、6.1とのことなので、弱酸性。
# by shingen1948 | 2008-06-15 14:27 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)

土合館に立ち寄る

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 土合館に、立ち寄ってみた。土合舘公園として整備されているが、城館跡としての整備ではない。ただ、遺構としてみれば、それほど崩された訳でもない。


 基礎となる平場は、南北に長く広がっている。
土合館に立ち寄る_a0087378_5285642.jpg
 その上に、入り口の近くに、やや高めの円形の平場が載っている。そして、周りは土塁かなと思われるもので囲まれている。


 そして、その南側に一段高い平場が載っている。
土合館に立ち寄る_a0087378_524341.jpg
 一段高い南の平場が、この丘陵の頂部になっているようだ。


土合館に立ち寄る_a0087378_5252616.jpg
 ここには駒形神社、稲荷神社、厳島神社が合祀された駒形稲荷神社がある。ここが、主郭であり、恐らく館があったろうということは直に想像がつく。


土合館に立ち寄る_a0087378_5263213.jpg
 そこから、南西の方向に降りると基礎となる平場が細長く南西に伸びている。そこは、奥州街道の方向が良く見える展望台になっている。

 ここは、八丁目城から旧奥州街道を挟んで南東の位置にあり、観光協会の案内板にあるここは八丁目城の支城としてつくられて東館と呼び、八丁目城が西館と呼ばれていたという説明が良くわかる。
 この観光協会の案内板によると、築城は、天文十一年(1542)八丁目城主清野遠江守の父備前守と説明する。そして、その経緯については、八丁目城の経緯と土合館は対になっていたとする。
 そして、この起源は不明としながらも、鎌倉時代からも、要衝地としてこの地の領主は、この山を重要視していたのではないかと想像している。

 北側の平場に、ここを館として説明する案内プレートがある。
 土合山は松川町の東南字土合館に位置し、標高228.1m周囲1226m公園面積約5.5ha山上に館跡あり、即ち土合館である。その名の由来や起源は詳かではない。
 水原川とその両側に広がる平地を堰止めるが如く立つ独立山なので、山上からの展望はよく松川町の全容を一望におさめることができる。
 遠くは鎌倉時代、佐藤秀行がこの地の領主となり、次いで相馬重胤、南北朝合一の頃伊達宗遠が領主となり以降も戦乱が続き攻防にすぐれた当土合山が重要な役割を果たしてきたものと推測される。
 史書によれば、天文11年伊達稙宗はその子晴宗と相争い、八丁目に陣し、それから7年間戦いが続いた。この時、八丁目城主(愛宕館)は、清野遠江守、父備前守はここ土合山に館を築き備えた。それ故俗に隠居館とも言う。
 土合館を東館、八丁目城を西館、とも呼び、東館は西館の支城なるもその規模は大きく堅固であった。館の東北即ち今の字町畑には市街をつくり士卒をすまわせたと言われている。
遠江守は伊達家にそむき自害し、堀越能登守城主となるも二本松の畠山義国と内通したため、天正2年伊達家の命により伊達実元八丁目城を奪回しその後は城にとどまり同15年卒す。
天正13年伊達政宗の父輝宗が二本松の畠山義継に殺されるや、八丁目東西両館根拠に戦いをすすめ、伊達軍の勝利となり畠山家は滅亡した。
 実元の子成実は二本松城代に任命されるに及び、八丁目城は二本松の支城となり、家士20余騎、足軽50人鉄砲50挺をもって東西館を守備したが天正19年秀吉命により、政宗が移封された後は東西両館は廃城となった。
 土塁や空堀の残る館跡に佇めば興亡変転幾星霜館跡には、館の守護神として祭ったといわれまた後に奉遷したとも言われる駒形神社、稲荷神社、厳島神社が合祀されている。
松川観光協会
昭和56年4月

# by shingen1948 | 2008-06-14 05:43 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)

阿津賀志山⑤

石那坂の戦いについて確かめていて、朝日舘の地点を地図から字名でみたが、そのあたり一帯が朝日舘なら、その舘は愛宕様かもしれないとも思っている。
 
  その石那坂の戦いで敗死した泰衡の郎従佐藤基治等一族18名の首級がさらされたという阿津賀志山に来て見た。
阿津賀志山の山頂という言い方をしているが、それは、奥州街道の国見峠の経が岡というところではないかといわれているらしい。東山道の道筋にさらされたとうのは自然なような気がする。
 もっとも、「福島の伊達氏」(津島亮資著)によれば、同じ「吾妻鏡」の同年10月2日の項には「囚人佐藤庄司らが厚免され、本所に帰された」という記載があるともいうのだが……。

  この経が岡という地点は、国見峠に向かう奥州街道長坂跡の奥にあった。
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 長坂は、古来より奥州街道における要衝の地にあり、急な坂道であるとして有名な国見峠の難所だったという。その雰囲気を今に残している。


阿津賀志山⑤_a0087378_5830100.jpg


阿津賀志山⑤_a0087378_594764.jpg
  少し奥に進んだ所に、芭蕉が「奥の細道」に記した「気力聊かとり直し、路縦横に踏んで伊達の大木戸をこす」という碑が建っている。


阿津賀志山⑤_a0087378_5102855.jpg
 そして、その奥が経が岡だ。


 文治5年(1189)の奥州合戦で源頼朝と藤原泰衡の率いる両軍が激戦を交えた古戦場は、この峠周辺一帯であるということでもある。
# by shingen1948 | 2008-06-12 05:28 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)