地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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玉井地区の歳の神

「大玉まるごと百選」に玉井の「歳の神」が紹介されている。
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 それぞれの部落で竹を組み、そこに藁を積み上げる。作成の作業は12月中にそれぞれの部落の人たちが集まって作る。竹の鳥居の奥に正月の松飾りを納める祠を作る。
 1月7日6時30分目安に、日が暮れると点火する。各家庭で祀った歳神様を焚く。
 
 松飾りを納めて、神送りが主体のようである。会津では、炙られて食したものに、神が舞い降りる神を迎え、神と一体化することも行われる。そこには、「これを食すると、1年中○○だ。」というが、ここではどうだろうか。この時誘われた神は、村の神々全てで、一年中村を守り、家を守り、村人に安寧を授ける。無意識ではあろうが、神を迎える思想もふくまれているかもしれないと推定している。
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# by shingen1948 | 2006-12-06 19:50 | ★ 季節便り | Comments(0)

玉井氏が隆盛の頃

 玉井氏が隆盛の頃の伊達家の大きな出来事は、以下のようである。

 1542年(天文11年)に、稙宗が、三男実元の上杉定実(越後国守護職)への嗣を図ったが、反対する長男晴宗は稙宗を西山城に幽閉するということが起きた。これが原因で混乱は、伊達家だけでなく周辺の諸氏を巻き込む。

 しかし、伊達家の混乱の影響だけでなく、あちこちで、権力闘争が頻繁に行われている。そういう時代である。近所の城「百目木城」を例にとれば以下のようなことである。

 百目木城主の石川氏が、1568年に小浜城主の大内備前定綱氏と組んで、主家の石橋氏を滅ぼして、三春の田村氏に着く。その大内氏が、1583年には、二本松の畠山氏の援助を受けて、田村氏配下の石川氏を攻めたりしている。
この大内氏も2年後には、伊達政宗に滅ぼされ、伊達政宗に味方した石川氏が小手森城築館城を加増されたりしている。

 伊達家の混乱は、結果的には晴宗が勝利し、稙宗は丸森へ隠居、晴宗は家督となり居城を西山城から米沢城に移し、講話の条件とて西山城を破却した。 安達信夫郡は、大森城に弟実元と、梁川城に宗清を城代として置いて、葦名・畠山・相馬の諸氏に供えることになる。
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 この間の玉井氏の様子を、「大玉村水利事業史」で確かめる。第2節二本松藩政下の村「玉井村」に、以下のように記述されている。

 
天文16年(1547年)2月、二本松畠山義氏は田村隆顕、石橋尚義とともに安積郡を攻め、玉井氏は没落した。
 天正16年(1588年)三月、伊達勢の攻撃を受け、「玉井日向守為始、三百余人討ち取り候」とあるように館は滅び、村は伊達の支配下となった。

 この記述の間に、弘治元年(1555年)初代玉井氏の大河内日向守光盛が亡くなったようだ。

 初代玉井氏の大河内日向守光盛が亡くなる前は、この地周囲の群雄割拠の状態で、玉井氏は没落していったと考えてよいと思う。その没落の時代に、大河内日向守光盛氏は亡くなってしまう。そして、伊達政宗と葦名の本格的な攻防の中で、伊達政宗が安達一体を荒れ狂う中、玉井の館は落ちたのであろうと思われるようである。
 
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# by shingen1948 | 2006-12-06 05:08 | ◎ 玉井村の史跡考 | Comments(0)

伊達家騒動と玉井権威者


 「大玉村観光協会[大玉まるごと百選]」では、玉泉寺の記述で以下のように記述する。
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 大河内日向守光盛は、1532年(天文年間)会津葦名に仕え玉井郷を領し、玉井舘に玉井城を築き、居城した。1555年(弘治元年)伊達政宗が安達一帯を占領したときの戦火で、没する。墓は玉泉寺墓地入り口にある。(「大玉村史」より)

 そこで、伊達正宗の動きと照らし合わせてみる。
 すると、伊達・葦名の本格的な抗争は1573年から1592年のことである。概要は次のようになる。

 天正13年に大内定綱の塩松城を攻め、定綱は葦名を頼っていく。また、同年10月政宗の父がニ本松城主畠山に捕らえられ、阿武隈河畔で非業の最後をとげる。翌天正14年政宗は、二本松城を落とし、畠山氏を滅亡させる。こうして、伊達政宗が安達郡を手にする。

 大河内日向守光盛氏が活躍した時代と伊達家を照らし合わせて見る。
 すると、伊達家では十四代稙宗(1523~1555)の時代が中心で、長男の晴宗へ家督が移動する時代でもあるという時代になる。

 稙宗は、1523年(大永3年)ごろ、室町幕府から陸奥国守護職に任命されている。その頃の所領は本領である伊達信夫二郡から山形南部と宮城県中部まで及んでいたという。
 1542年(天文11年)に稙宗は、三男実元の上杉定実(越後国守護職)への入嗣を図ったが、反対する長男晴宗は稙宗を西山城に幽閉した。
 これが誘引となって、天文の乱という、伊達家だけでなく周辺の諸氏を巻き込んだ混乱になったが、1548年(天文17年)足利義輝の仲介で集結する。晴宗が勝利し、稙宗は丸森へ隠居、晴宗は家督となり居城を西山城から米沢城に移し、講話の条件とて西山城を破却した。 安達信夫郡は、大森城に弟実元と、梁川城に宗清を城代として置いて、葦名・畠山・相馬の諸氏に供えた。

 大河内日向守光盛氏が、没するのは、この混乱がとりあえず収束する時代である。したがって、大河内日向守光盛氏が活躍するのは、この混乱の時代だったと考えるのが自然だと思う。
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# by shingen1948 | 2006-12-05 05:23 | ◎ 玉井村の史跡考 | Comments(0)
 大名倉山に、村を見渡せる里山として精神的な基盤を求めていたが、もう一つ会津への憧れ道として村から眺めたかもしれない。「山形・宮城・福島の城郭」新人物往来社刊の321番の館は瀬戸川館の位置説明で、以下のように位置説明されている。
 
瀬戸川館は、本宮町の大名倉山から高日向の丘陵が本宮゜盆地に落ち込む舌状地に位置し、往昔は会津街道がこの丘陵から本宮の町に入っていたとされているが、……。本宮城の出城として、会津街道の要衝の守りのため、築城されたといわれている。

 大名倉山は、村のどこからも良く見える山だが、この記述からこの大名倉山は、会津への道でもあったことが分かる。

 なお、この館は、天正13年の人取り橋の合戦で脚光を浴びたところだ。この時、この城には、伊達成実が守っていた。また、物見櫓と烽火場が検出されたことが頷ける位置で、正宗が本陣を置いた日輪寺に近く、本宮城のものぞまれる要衝の地である。伊達家の前線基地高倉城が指呼の間にある。更に、ここからは仙道を東にのぞむことができる位置である。この時の反正宗勢力は、葦名・佐竹・岩代・白川・石川・須賀川で、畠山氏を擁護するため連合を組んでいた。

 この戦いで、連合軍が突然陣を払って引き上げたとのことであるが、会津に事件があったからと伝えられている。多分、地区の人々は、この大名倉山から、会津に戻る後姿を見送ったのであろうか。
 
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# by shingen1948 | 2006-12-03 08:16 | ◎ 玉井村の史跡考 | Comments(0)