ところが、現地を訪れてみると、もう一丘越えて阿武隈川の土手にたどり着く位置である。
この山道にさしかかるところで追いつかれたのだろうかと想像する。
ここで追いつかれた義継は、数に劣り逃れられないと悟って輝宗を刺し殺して、みずからも伊達勢によって討ち取られたという。
「伊達政宗と黒川城」で、村上元三氏は、ここでの場面を次のように描く。
田舎道を十里過ぎて安達郡高田原というところまできた時、輝宗は、大声でついてくる家来たちに指示したという。「直ちに、義継を討ち果たせ。我が一身を大事と思うて、家の恥をさらすべからず」それを聞いた一族の伊達上野介政景、藤五郎成実など、鉄砲組に構えをとらせた。輝宗はニ本松まで連れて行くのは不可能と悟って、脇差で輝宗を刺し殺し、自分は腹を切ってその場で果てた。伊達上野介政景の下知を受けた鉄砲組は直ちに射撃を開始し、畠山の家来五十数人を射殺した。この日鷹狩に出ていた正宗は、父が義継に捕らえられたと知り、家来を従えて高田原へ急いだ。しかし、父輝宗は討たれた後だった。
「伊達政宗(一)朝あけの巻」で、山岡 荘八は、高田原を次のように記す。
「成実記」の訳により、伊達勢が高田原で追いついたことを記した後、次のように描写する。
この高田原は平石村栗の巣というあたりで、このあたりの道には点々と松の古木が続いていた。
また、政宗が急を知って駆けつけて出会った位置を次のように描く。
政宗は粟の巣から、権現谷へ出る高田の舘跡へかかろうとする所で、父の遺骸を戸板にのせ、血まみれの義継の首をぶら下げて戻って来る成実や、政景の一行と出会った。
畠山の家臣は総勢240とのことだ。ここで決着がついたので、問題にはならなかったが、この総勢240が追っ手を振り切って、水深3㍍の阿武隈川をどうやって渡りきるのだろうかと思うのは、素人の余計な心配だろうか。