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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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伊達政宗の「会津への路」を確かめるスタートの時点で、「粟の巣の変事」について、私は勝手に阿武隈川まで追いつめたと思っていた。
「粟の巣の変事」の辺りを散策する_a0087378_5233773.jpg ところが、現地を訪れてみると、もう一丘越えて阿武隈川の土手にたどり着く位置である。
この山道にさしかかるところで追いつかれたのだろうかと想像する。
 ここで追いつかれた義継は、数に劣り逃れられないと悟って輝宗を刺し殺して、みずからも伊達勢によって討ち取られたという。


 「伊達政宗と黒川城」で、村上元三氏は、ここでの場面を次のように描く。

 田舎道を十里過ぎて安達郡高田原というところまできた時、輝宗は、大声でついてくる家来たちに指示したという。「直ちに、義継を討ち果たせ。我が一身を大事と思うて、家の恥をさらすべからず」それを聞いた一族の伊達上野介政景、藤五郎成実など、鉄砲組に構えをとらせた。輝宗はニ本松まで連れて行くのは不可能と悟って、脇差で輝宗を刺し殺し、自分は腹を切ってその場で果てた。伊達上野介政景の下知を受けた鉄砲組は直ちに射撃を開始し、畠山の家来五十数人を射殺した。この日鷹狩に出ていた正宗は、父が義継に捕らえられたと知り、家来を従えて高田原へ急いだ。しかし、父輝宗は討たれた後だった。

 「伊達政宗(一)朝あけの巻」で、山岡 荘八は、高田原を次のように記す。
「粟の巣の変事」の辺りを散策する_a0087378_5242743.jpg
 「成実記」の訳により、伊達勢が高田原で追いついたことを記した後、次のように描写する。
 この高田原は平石村栗の巣というあたりで、このあたりの道には点々と松の古木が続いていた。
 
 また、政宗が急を知って駆けつけて出会った位置を次のように描く。
 政宗は粟の巣から、権現谷へ出る高田の舘跡へかかろうとする所で、父の遺骸を戸板にのせ、血まみれの義継の首をぶら下げて戻って来る成実や、政景の一行と出会った。

 畠山の家臣は総勢240とのことだ。ここで決着がついたので、問題にはならなかったが、この総勢240が追っ手を振り切って、水深3㍍の阿武隈川をどうやって渡りきるのだろうかと思うのは、素人の余計な心配だろうか。
# by shingen1948 | 2007-05-22 05:16 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
水原のクマガイソウの群生を見に行った。何度か場所を確認していたが、昨日は、そろそろ見頃だろうと思って出かけた。
水原クマガイソウの群生 ①_a0087378_441317.jpg
  クマガイソウの花が満開で、丁度見頃だ。地域の人の話では、20日前後が例年見頃になるとのことだ。



水原クマガイソウの群生 ①_a0087378_442150.jpg




大量に群生するクマガイソウの自生地は、水原を含め全国でも3箇所の確認という。
ふくしまレッドデータブックの絶滅危惧では一類に、環境省レッドデータブックの絶滅危惧では、Ⅱ類になっているとのことだ。

水原クマガイソウの群生 ①_a0087378_4424639.jpg

群生地の奥のヤマシャクヤクも今が見頃だった。
花が咲きかけてから散るまでが速く、花弁が全開することはないとのことだから、いいタイミングだったようだ。
水原クマガイソウの群生 ①_a0087378_4482160.jpg


2週間前、土湯の水芭蕉を見たときは、花はまだだった。恐らく今日あたりは見頃になっているのだろうと思う。



知らない地域で、素人が山野草を観察しながら山歩きするには、知っている人の道案内が必要だ。しっかりと道案内されている中で、観察できることがありがたい。

もう一つの興味は、盗掘を防ぐのに、公開してしまうという取り組みの様子も見たかった。更には、それが、村づくりとつながっている様なので、それらも含めて感じたいものがある。少しずつ考えを整理していきたいと思っている。
# by shingen1948 | 2007-05-21 04:51 | ★ 季節便り | Comments(0)

映画「眉山」

眉山 びざん | Excite エキサイトシネマ
福島フォーラムで15時30分から上映された「眉山」を観る。さだまさしの小説の映画化とのことだが、物語は知らない。予告編などよく目にしたが、観客はそれほど多くなかった。
映画「眉山」_a0087378_5112859.jpg
最近は、純化されたものの実感の無さが嫌になり、フィクションの領域は興味が無かった。
  この映画を観て、たまには不純なものを殺ぎ落としたものにどっぷり浸れるのもいいかなと思えてきた。
  ストーリーに生活観や実感がないという単純さの印象と、純化されて詩的だという印象は紙一重のところがある。

  私には、故郷の象徴としての阿波踊りのエネルギーがうまく溶け込んでいたと感じられたし、眉山などの象徴性と、二人のわだかまりをぶつけ合う雰囲気が、単純化とあいまって詩的な象徴性に変えていたと感じられた。

  阿波踊りの中に、母親の愛人である父親への想いと、母親への愛への変質を絡ませる。そこに自分の愛を重ね、ふるさとの象徴としての眉山が見守るという詩的イメージだ。

クライマックスの阿波踊りの中の物語の展開は心に残る。三つの伏線が、阿波踊りの会場で溶け合う。
一つは、咲子は自分の父親が東京で医者を営んでいることを知り、合いに行き彼に是非再び徳島にくるよう促したこと。
二つは、外出禁止を命じる医者を説得し、咲子と母親が、人生最後の阿波踊りを見に行くことにしたこと
三つ目は、咲子と母親、そして父であり夫である彼は無事再会することができるのかといった時間の流れ
そして、 壮観な阿波踊り中で交わす愛の視線での演技

「献体」のエピソードは、父親や寺沢との出会いの伏線であるとともに、母親との和解を象徴的に意味してみたのだろうか。

<物語の概要>
咲子は、父親の事を何も語らず、自分勝手に全てを決めてしまう母親・龍子に複雑な感情を抱いていた。
東京で旅行代理店に勤める咲子は、故郷の徳島で一人暮らす母が突然入院したことを知らされる。末期ガンで、余命幾ばくもない事を知り葛藤する。
残された短い日々の中、母親の秘められた想いや父親に関する事実を知って行き、咲子の中の母親への寂しさとわだかまりも少しずつ変化していく
そんな咲子は、看病する中で、医師・寺澤と出会う。
「眉山 びざん」の映画詳細、映画館情報はこちら >>

作品説明
# by shingen1948 | 2007-05-20 05:20 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(0)
 「人取り橋」の現地を確認したかったのは、個人的には三つの意味がある。

 その一は、玉井から白石500騎が出向いているという玉井の地域を確認していることとの関連であり、その二は、 茂庭氏を確認したいという思いだ。 

 更には、「会津への路」探索の興味である。
 「会津への路」としては、スポットライトがあたる機会が二回あった。
 その一つは、戊辰戦争の時で、政府軍が会津へ攻める一つの路であったことであり、その二が、伊達政宗が、この地で武将としてスタートし成長し、会津へ向かう路であったことである。
 「人取り橋」は、その伊達政宗が会津への路を具現できるかの試金石となった地だ。
「人取り橋」の現地を確認して_a0087378_8155395.jpg


 この地を人取り橋と呼ぶのは、この瀬戸川周辺で伊達勢と連合軍が激戦となり、多数の死者が出たことに由来するという。戦死者:伊達勢426人、連合軍961人



「人取り橋」の現地を確認して_a0087378_882745.jpg
茂庭左月の碑の存在や、茂庭の地名とそこの橋が「もにわはし」であることも感じるものがある。

「人取り橋」の現地を確認して_a0087378_895347.jpg 
 伊達政宗の布陣の概要
奥羽街道と会津街道の交わる要衝の地・本宮に布陣
観音堂山に本陣、本陣の前には亘理元宗・国分政重・留守政景・原田宗時・鬼庭良直らが主力部隊の4千を率いる。
伊達成実は1千余の兵を率いて、遊撃隊として瀬戸川館付近に布陣

連合軍の布陣の概要
兵を3隊に分けた陣立
○佐竹:伊達本陣の南にある高倉城へ、
○白川・石川・磐城・二階堂:中央正面、
○葦名:会津街道からの主力部隊

人取橋合戦の説明板
# by shingen1948 | 2007-05-19 07:56 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)