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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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 当初は、とりあえず手持ちのレコードが聴ければいいと思っていた。
 ずっと電気店やホームセンターに並ぶマルチレコードプレーヤーや簡易なレコードプレーヤーなどを眺め回していた。決断力がないので、なかなか決心がつかない。それで眺め回す期間が長くなった。
 しかし、そのおかげで品質がだんだん良くなっていくことに気づくことができたのだ。

 ホームセンター等ではその変化は小さいのだが、電気店などでは展示される機器が少しずつ高級になり、そのスペースも広くなっていくように感じた。
 初期のマルチレコードプレーヤーは、ターンテーブルやカセットプレーヤー付のCDレコーダーというふうな名称に変わり、少し高級感のある機器が展示の中心になってきた。
 単体のレコードプレーヤーもしっかりしたものが中心の展示になってきているように感じた。どの機種もフォノイコライザーを内蔵させて、今風のミニコンポにも対応しているというのが共通項のようだった。
 自分のような手持ちのレコードを聴きたいという需要が増えているのだろうということが実感できたのだ。

 購入してみようと思ったのは、ディオンのレコードプレーヤーの展示を見てからだ。
ターンテーブル/カセットプレーヤー付CDレコーダーは年寄りの小遣いではちょっと手が出ない。しかし、このプレーヤーなら小遣いでどうにかなる範囲だ。手持ちのミニコンポにつなげばいい。

 そこからも半年ぐらいは悩んでいた。というのは、使用法とのかかわりだ。
 手持ちのレコード音源を他の音源に変換して楽しむというのなら、直ぐにでも購入したのだと思う。しかし、自分が思い描くのは手持ちのレコードをレコードプレーヤーで再生して聴取したいということだ。当然、繰り返しの使用になるので、せめて針圧が調整できるタイプにしたかった。
 当然、予算オーバー。

 まずは、家人の援助を請う。それに、店との交渉でポイント還元を現金値引きにしてもらう交渉をした。更に、先に購入したメリタコーヒーグラインダーのポイント還元分を使って予算の見通しを立てて、ようやく購入を決心したということだ。
by shingen1948 | 2019-09-30 09:11 | ☆ 懐メロ聴取記録 | Comments(0)
 AVセレクターは、3つの機器接続が可能だ。それで、手持ちのCDラジカセを接続することにした。実際には、ミニコンポでラジオとCDは再生ができるので、使いたいのはカセットテープレコーダーの再生機能だ。

 カセットテープによって聴取する懐メロは、それ程古い話ではない。退職間際に、自家用車での通勤時に聞いていた音楽だ。
 自分の新車購入のサイクルは長いので、その当時乗っていた車ではCD再生機能が付いていなかったのだ。カセットテープは再生できたので、通勤中はカセットテープの音楽を流しっぱなしにしていたということだ。その音楽だ。

 家でカセットテープに録音した音楽を聴くということはほとんどなかったので、通勤時に聴いていた懐メロの再生機能の整備という事になる。
 接続の状態を確認するのに聞いているのは、「さだまさし/とこしえ」とメモされたテープの音楽だ。
 特に選んだという訳ではなく、たまたまそこにあったもので、状態を確認しているというだけだ。
by shingen1948 | 2019-09-28 10:38 | ☆ 懐メロ聴取記録 | Comments(0)
 購入したミニコンポにテレビの音声のみを接続することにした。
 部屋にあったテレビは、アナログ放送用のテレビだった。デジタル放送開始後も、そのアナログテレビをそのまま使い続けたいという事で、デジタル放送受信機を購入していた。
 このテレビは、そのモニターとしての使用法だったのだが、震災時に吹っ飛んで、写らなくなってしまっていたのだ。
 今回つなぎ直すのは、デジタル放送受信機の方だ。

 そこからミニコンポにつなぎたいのだか、このミニコンポには外部入力が1ケ所しかない。
 これは、レコードプレーヤーをつなぐというのが本来の目的なので、そちらの余地を残すため、手動で切り替えるAVセクターを購入した。これを間に挟むことにしたのだ。
 ミニコンポはBluetooth対応なので、トランスミッターを購入することも考えられるわけだが、格安につなぎたいということだ。
 見つけたセレクターは、本来はゲーム機やDVDなどの映像の切り替えを目的としたもののようだった。このセレクターの黄色の映像用端子をのぞいて、ステレオ音声の端子だけを利用する形にすればいいと思ったのだ。

 最近の自分にとってのテレビの役割は、情報源の一つでしかない。しかも、大体が音声情報で間に合っていて、それ程映像情報への拘りはないのだ。
 これで、AМ3局・FM4局・テレビ5局の計12局の音声情報を、自分の部屋で入手できるようになったという事だ。
by shingen1948 | 2019-09-27 10:14 | ☆ 懐メロ聴取記録 | Comments(0)
 レコードプレーヤーを失ったのは、平成23年(2011)の東日本大震災の時だ。
 棚から吹っ飛んで落下し、壊れてしまったのだ。この事自体は残念な事だったのだが、この事によって、もっと大きな災害を防いでくれたということでもあった。それは、落下に伴いプレーヤーのダストカバーが壊れてしまったのだが、その一部の破片が、偶然にも揺れていた大きな洋風の茶箪笥の前面の底に食い込んたのだ。これによって、この茶箪笥が倒れるのを防いでくれたということだ。

 それ以来、地震の被害そのものよりも、東京の電力会社が引き起こした原発事故対応で、音楽を聴くなどという余裕は失っていた。
 東京では近くオリンピックなるものがあるそうで浮かれているようだが、当方では今年になってようやく自宅から除染土が搬出されたところだ。気になっていた知人宅の汚染土も最近搬出されたという。これが、少し平常な気分に近づけてきたようなのだ。
 またレコードを聴いてみようかなという気分になってきたのも、その影響が大きいのだろうと思う。

 まずは、安物のミニコンポを購入した。高音質にはこだわらなかった(というよりは、経済的な問題が大きい)。ただ、レコードも聞けるようにしたいと思うので、外部入力のあるものにした。
 また、取りあえずは自分の部屋に設置するが、居間に移動する事もあり得るので、変化対応がしやすいようにセパレート型にした。

 最初は、よりよいラジオの受信環境を整えることに専念した。とはいっても、県内のFM放送受信しか意識していない。室内でアンテナ部を弄り回して、ふくしまFM、NHK、福島ラジオ福島ワイド、FMボコが受信できれば、それで満足だ。

 高音質にこだわらなかったことが幸いしたのが、他の部屋まで音が漏れにくいことだ。
 開放型の住宅であり、防音なども意識していないのだが、自分だけの音環境が実現したというわけだ。
by shingen1948 | 2019-09-25 09:48 | ☆ 懐メロ聴取記録 | Comments(0)
a0087378_9111880.jpg ここは何度も通っているのだが、写真を撮った事がなかった。
 それで、あらためて写真を撮りに出かけた。この写真、中途半端なアングルになってしまった。
 それは、ちょっとでもいいから本殿の部分も入れたかったということがある。それに、笹谷村と北沢又村の境界の水路も入れたかった。それで、ちょっと欲張ってしまったのだ。

 ここを愛宕神社としても成出地蔵堂としても写真におさめた事がないのは、極々普通の風景としか思っていなかったからだ。
 しかし、今回気づいたのが、ここはその極々普通の風景の中に明治以前の神仏習合の愛宕権現の姿が残されているという事だ。
 繰り返しになるが、愛宕権現は塞神信仰や陰陽道の影響で戌亥の守護神でもあり、愛宕修験によって勝軍地蔵と習合して火火伏せの神にもなっているということだ。

 なお、「郷土史物語」によると、この地蔵尊とかかわるT家は、最初は前田・原町橋本で構成されていた大谷地村に阿部薩摩の開拓団として入植していたとのこと。その後、開田の為に南下し笹谷の成出まで開拓を進めて定住したのだろうとの事。
 また、明治11年書き上げの「仏堂明細帳」への記載が紹介されるが、愛宕権現の姿と関わりそうなのが、ここが「岩代国信夫郡北沢又村字成出地蔵堂」とされている事と共に「信者21戸、受持大笹生曹洞宗安楽寺住職本間林堂」という記事部分かな。
by shingen1948 | 2019-09-23 09:15 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 この辺りの湧水池をめぐっていた時に気になったのが、古い「清水地区文化財案内板」にある地蔵堂の案内だ。
a0087378_9182752.jpg これがその地蔵堂の案内部分だ。
 位置的には、万世大路沿いの愛宕神社でないのかなとは思ったのだが曖昧なままだった。
 ここにある施設を地図表記では愛宕神社となっているし、この施設の表示も愛宕神社なので、ますます曖昧になっていた。
 ちなみに、現在の新しくなった案内板では、地蔵堂が万世大路の西側に案内されるのだが、これが同じ地蔵堂なのかどうかは分からない。

 「郷土史物語」で確認できたことを整理する。
 同誌では「成出地蔵堂(愛宕さま)と高橋家」の項で解説されるのだが、その項目自体、成出地蔵堂=愛宕さまであることを示しているわけで、ここでもう曖昧さが解消したような気分になれた。
 ここは「岩代国信夫郡北沢又村字成出地蔵堂」と紹介される。明治11年書き上げの「仏堂明細帳」にもそう載っているとのことだ。
 ここを通称愛宕さまと紹介されることから、ここの明治以前の神仏習合の神名は愛宕権現で、イザナミを垂迹神として地蔵菩薩を本地仏としていたということが想像できる。

 「郷土史物語」では、この本地仏である地蔵菩薩について以下のように解説されている。
 この地蔵菩薩は、元々はこの道を挟んだ北側のT家屋敷の鬼門である戌亥の片隅に産土稲荷としてあったとのことだ。ただ、この屋敷の元々の主は川崎に移られ、地蔵菩薩も還座されたということだ。

 この成出地蔵堂もT家がかかわるようだが、それとは別に建てられたという経緯があるという。
 文政の頃に、このT家が家運を占ったところ、座敷人形の地蔵菩薩を川の南の他所の土地に祀られたいとのお告げだったことに基づいているとのことだ。
 集落みんなの協力を得て御堂を建てて、その地蔵菩薩を安置したとのことだが、お籠堂などは集落みんなの負担で建立されたのだとか。

 ここで「川の南の他所の土地に祀られたい」とあるが、この川が笹谷村と北沢又村の境界線だ。今はこの川には蓋が被せられ、飯坂街道まで川沿いの道筋に沿って流れている。
 つまり、T家屋敷は川に沿った道筋の北側にある笹谷村の成出であり、占いを元に建立した成出地蔵堂はこの道筋の南側で北沢又村ということになるようだ。

 地蔵堂と愛宕権現を統一的に捉えられない感覚は、明治以降の感覚のようだ。
 明治以前の神仏習合の愛宕権現は、塞神信仰や陰陽道の影響で戌亥の守護神であり、愛宕修験によって勝軍地蔵と習合して火火伏せの神になっているということのようだ。
 なお、この神社の本尊が甲冑姿の地蔵菩薩が馬に乗るという将軍地蔵の像容なのかどうかは、まだ確認していない。
by shingen1948 | 2019-09-20 09:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

清水小学校

 金福寺跡」の案内柱では、金福寺が清水小学校(旧沢又小学校)発祥の地である事が解説される。よそ者の散歩人には分かりづらかったが、地元の方々は以下の事情が頭にあるようだ。

 清水村役場や道路元標は泉字大仏に設置されたとのことだが、泉地区の郷土誌等の情報によると、明治16年には南沢又、森合、御山、北沢又、泉、笹谷、大笹生の7ケ村戸長役場は泉字柳清水に開かれていたようだ。
 この前に、明治13年には北沢又小と泉小が合併されてた早柳小学校が、この柳清水に移転している。この学校は明治18年に泉尋常簡易小学校となったようだ。
 明治22年4月1日に南沢又村、北沢又村、泉村、森合村、御山村の区域が清水村となったことに伴い、この学校は現清水小学校となり、清水村役場が泉字大仏に設置されたという経緯のようだ。

 小学校に焦点を絞って、その前の経緯を確認する。

 北沢又小学校は、明治7年金福寺に開校されたということのようだ。
 「信達二郡村誌」の北沢又村を確認すると、「共立小学校 東部寺西に設置す 男生徒11人 女生徒3人(明治9年1月1日調)」とある。
 ここでは設置場所「寺西」が表記されるが、金福寺とはなっていない。
 これは、明治9年に金福寺が延焼したため、直ぐに21坪の校舎を建築されたとのことなので、その事が反映されているのかもしれない。
 「郷土史物語」では、この小学校を第16番学区北沢又小学校としている。

 「信達二郡村誌」の南矢野目村を確認すると、「北沢又村共立小学校合併 生徒男40人 女10人(明治9年1月1日調)」とある。
 南矢野目村の子供もこの北沢又小学校に通っていたことが、想像できる。
 「信達二郡村誌」では確認できないが、「郷土史物語」によると、笹谷村や御山村の一部の子供もこちらの学校に通学していたといい、トータルで生徒男33人、女7人だったとのことだ。
 そして、この小学校が明治17年に早柳小学校に合併し、翌18年には泉尋常簡易小学校となったとのことだ。

 その合併先の泉村の学校を「信達二郡村誌」で確認すると「共立学校 北部北鎌に在り 男生徒40人(明治9年1月1日調) 」とある。
 泉村の地域誌等でも、泉村の小学校は明治8年に北鎌に開校されたと解説される。
 北鎌は、現カワチやサガミ福島ホール辺りだ。具体的な位置は特定できないが、こちらの学校も飯坂古道の道筋沿であることが想像される。
 この学校が、明治13年に柳清水に移転して早柳小学校となり、明治18年に泉尋常簡易小学校となったとのことだ。
 先に確認した「郷土史物語」の情報とも重なる。

 明治16年には、この学校の地に南沢又、森合、御山、北沢又、泉、笹谷、大笹生の7ケ村戸長役場が開かれたということだ。
 そういう経緯を経て先に整理した清水村役場と道路元標の話が続くということだ。

 なお、泉尋常簡易小学校となった小学校とかかわる南沢又について「信達二郡村誌」で確認すると、「共立学校 西隣笹木野村と合併 同村仏母寺をもって仮教場とす 男生徒34人 女生徒42人(明治9年1月1日調)」とある。
by shingen1948 | 2019-09-18 07:35 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

清水村道路元標④

 前回は大正9年福島県告示で示される道路元標の建つ位置を万世大路と飯坂街道の分岐点と想像してみた。
 「福島県史料情報第20号(平成20/3/25)」の「道路元標を歩く」で示される設置場所は、その大半は市町村役場の前か市町村を通る主要な道路同士の交叉点に設置されていたとするわけだが、その後半にあたるとみたということだ。
 ところが、「郷土史物語」では清水村道路元標は旧役場玄関前の万世大路近くに設置された公示板の傍らに建っていたという。つまりは、「道路元標を歩く」で示される設置場所の前半にあたるとしているということだ。
 今回は、これをどう読み解けばいいのかという事を確認していく。

 「郷土史物語」が示す以下の役場移転の経緯が、今回の読み解きのヒントになる。
 「昭和26年(1951)に完成した刑務所通り開通で、刑務所通りと農協に挟まれて自転車置き場も無くなったことで、昭和51年(1976)に現在地に移転した」

 信夫郡清水村は、この出来事以前の昭和22年3月10日に福島市と合併しているのだ。
 この旧役場の名称は似かよってはいるが、明治22年から昭和22年までは信夫郡清水村役場だが、昭和22年からは福島市の清水役場になっていたということだ。

 道路元標の方だが、施行令によるその設置基準がなくなるのは戦後の改正道路法とのこと。
 この法律が制定されるのは明治27年(1952)のようなので、この時点では施行令による設置基準は生きているということだ。
 それで、福島市と合併する機会に、基準に基づいて設置された信夫郡清水村の道路元標を、役場前に設置し直したのではないのだろうか。
 役場としては福島市の一支所になった清水役場だが、そこに向けての準備段階ではまだ信夫郡清水村役場の精神は引き継がれていたのだと思う。

 ここから以降に、「郷土史物語」が示す役場移転経緯と清水村道路元標が現況位置に移動した経緯が続くと見ればつじつまが合うと思うのだが、どうだろうか。
by shingen1948 | 2019-09-13 10:31 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

清水村道路元標③

 ようやく旧清水村役場の位置をイメージできるようになったところだが、実は、清水村道路元標の位置情報も、まだしっくりと受け取れていない。
 「郷土史物語」では、清水村道路元標は、旧役場玄関前の万世大路近くに設置された公示板の傍らに建っていたとある。
 しかし、大正9年福島県告示では「信夫郡大字南澤又字中富匠田及成出46,47」に建っていたとされる。
 しっくりと受け取れない事の一つは、この「郷土史物語」が示す道路元標の位置と福島県告示の示す位置が違うという事だ。
 もう一つしっくりこないのが、福島県告示が示す位置情報だ。

 まずは、この福島県告示が示す位置情報をを先に確認する。
 ここでいう「南澤又字中富匠田」は「南澤又字中番匠田」だと思う。また、「及び成出46,47」だが、この「成出」は南沢又の小字にはないので北沢又だと思う。
 しっくりいかないのはこの事ではなく、この情報では清水村道路元標は複数本あるように読み取れるという事だ。というのは、旧道路法では各市町村に一個ずつ設置することとされていたはずなのだ。
 
 これを読み解くヒントになったのが、「福島県史料情報第20号(平成20/3/25)」の「道路元標を歩く」の設置場所に係る次の記述だ。

 「設置場所は府県知事が指定することとされており、大半は市町村役場の前か、市町村を通る主要な道路同士の交叉点に設置されていた」

 この後半の「市町村を通る主要な道路同士の交叉点に設置されていた」ということなら、位置情報として複数個あるように見えて、実は1個であるということが起こり得ると思ったのだ。

 南沢又字中番匠田と北沢又字成出近くには、万世大路と飯坂街道の分岐点がある。
 この道筋と設置情報地番とを見比べてみると、成出の地番46・47は確認できないが、万世大路の北側が北沢又字成出は確認でき、南沢又字中番匠田が万世大路の南側の地名であることが確認できるのだ。
 つまり、万世大路と飯坂街道の分岐点を北沢又字成出とみても、南沢又字中番匠田とみてもよさそうだということだ。
 ここに、清水村道路元標は建っていたと読み取ってみたいが、どうだろうか。

 次にしっくりこないのが、「郷土史物語」の清水村道路元標設置位置だが、これをどう読み取るかということだ。
by shingen1948 | 2019-09-12 10:31 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

清水村道路元標②

 先の「清水村道路元標」の整理で、「郷土史物語」がいう旧清水村役場の位置と、古い地図から読み取る役場の位置のイメージがうまく重ならないように感じていることについて記した。

 その原因の一つが、古い地図の役場北側の道筋と刑務所通りの関係がよく把握されていないということにあるように思う。
 それで、その古い地図で旧役場北側の道筋を西側に辿ってみると乙天堂の南側を中條に向かう道筋と繋がっているように見える。現西環状線より西側でこの道筋の痕跡らしき道筋が確認できるが、東側では消滅している。
 飯坂街道に交わる付近のこの道筋をJA給油所と旧JAマーケットの間辺りとみると、説明される事と古い地図から読み取る役場の位置のイメージがうまく重なるような気がした。

 この時代の旧清水村役場の地番は泉字大仏25だ。旧清水村役場の泉字大仏25という地番は、この古い道筋から南側に付されたものと想像する。
 この「泉字大仏25」の地の間に刑務所通りが開通したとみるのだ。現況ではこの地番は刑務所通りの南側の洗濯店あたりのみにふられている。そして、元泉字大仏25だったJA給油所は、旧JAマーケットと同じ堀の内6の2の地番がふられているということだ。
 現況と古い地図から読み取る役場の位置関係を上記のようにとらえ直して、「郷土史物語」がいう旧清水村役場の位置情報を確認するとすっきりした。
 再掲する。

 明治22年(1889)に市町村制実施に伴い、南沢又・北沢又・泉・森合・御山の5町村が合併して発足する清水村役場が、現農協給油所のところにあったという。それが、昭和26年(1951)に完成した刑務所通り開通で、刑務所通りと農協に挟まれて自転車置き場も無くなったことで、昭和51年(1976)に現在地に移転した。

 なお、同誌の郵便局情報では、岩代清水郵便局は田中善右衛門氏局長として昭和16年(1941)4月16日に字大仏23番地に開局され、昭和34年10月1日に泉郵便局と改名したとある。
 地図を確認すると、確かに昭和58年の地図では郵便局は現在地である字大仏23番地にプロットされる。しかし、昭和48年の地図では現字大仏25番地である洗濯店付近にプロットされているように思う。
by shingen1948 | 2019-09-10 10:55 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)