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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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<   2019年 08月 ( 11 )   > この月の画像一覧

 北澤山金福寺については、もう一つ気になっている事がある。
 「伊達、信達二郡に伊達氏十六代の史跡を索ねて(仙臺 安部定橘)」という資料の仙台情報だ。ここに「(伊達氏五世は)信夫郡澤又村金福寺に葬む」とある。
 しかし、「独国和尚の墓碑情報⑤」で整理したように、地元情報では北澤山金福寺開山創建は「祐快和尚正徳2年壬辰(1712)10月5日建立」ということだ。
 伊達氏五世宗綱公が薨(みまか)す文保元年(1317)二月七日には程遠い。

 仙台情報に従えば、地元情報の北澤山金福寺開山創建を再興と読み替えて、川寒あたりの伊達氏が残した痕跡を探りたいところだ。
 取りあえず地元情報から信夫の里に伊達氏が勢力を伸ばしていた頃の沢又邑辺りの情報を拾ってみる。

 まずは、「郷土史物語―澤股邑など(斎藤義一)」から沢又村の「伊達晴宗の采地下賜録」の在地情報を拾ってみる。
 沢俣村の在家は、西原、大和田、一丁田在家が記されるという。「森合郷土史」の情報とも重ねて、地頭領主牧野相模氏に、遠藤将監分の西原、大和田、一丁田在家を与えるということのようだということを読み取る。
 この「西原」は、先に整理した「南沢又城」あたりだろうと想像する。
 https://kazenoshin.exblog.jp/7867174/
 「大和田」は、「揺すり出された風景⑥~今からおもえば58」で北沢又小字名「大和田」が、地図上は「前田」になっている付近と確認した辺りだろうと想像する。イメージ的には、現北沢又小学校前の大和田庵のあるあたりだろうか。
 https://kazenoshin.exblog.jp/12674520/
 「一丁田」は北沢又の小字〇番匠田とあるあたりだろうか。
 残念ながら、これらは知りたい情報の200年後で、しかも村の東側の川寒からは離れた村の西側の地域の情報だ。

 沢俣村にこだわらずに近隣の情報も拾ってみる。
 同誌では森合の在家について、公事歩田(こうしふた)、三河尻在家が記されることにふれている。
 三河尻は「福島市の小字」では「三川尻」と記されるところだろうか。小字中川との関係から現三河北町あたりだろうと想像した。この時点で、公事歩田はわからなかったが、「森合郷土史」の情報を重ねると、現在でも公事田の字名が残る三河南町付近というが想像されるようだ。
 「森合郷土史」では、小高氏に八島田と森合のうち、両郷併せて7件の在家を与えているが、その在家は不明だとしている。
 こちらも川寒地区からは離れている。

 むしろ、もし「森合郷土史」の御山在家情報である但木藤四郎屋敷が、古屋敷とかかわるようならば、こちらの方が近いかもしれないなどと勝手に想像を膨らませるが、川寒あたりの伊達氏情報としては弱い。
by shingen1948 | 2019-08-31 09:22 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

独国和尚の墓碑情報⑤

 「郷土史物語―澤股邑など(斎藤義一)」で示すA家旧墓地とする地番の現況は、民家が立ち並び墓石は見当たらない。
 残念ながら同誌が心配していた如く、独国和尚の墓碑は消滅した可能性が高いように思う。

 あらためて女川町史の独国和尚の墓碑情報を再掲する。

 「塩釜石より少し堅いだけで割合風化しやすい石、総高さ5尺に近い五台遍照独国大和尚と書いた次のような碑が立っている。」
 そこに、「川寒の独国和尚の墓碑(福島県)」の写真が掲載されている。その写真情報から次のようなイメージを描いて探していたということだ。
a0087378_10365422.jpg 墓碑の風化による劣化のためか、写真撮影や印刷の加減のせいかは分からないが、墓碑の上部の「五臺」と下部の「大和尚」の部分は見えるようだが、その間の「遍照独国」の部分が判読できるのかどうかは分からない。
総高さ5尺とのことなので、台座を含めておおよそ1m50㎝程度の大きさ。

 取りあえず探してみたのは、A家旧墓地とする地番付近、光徳寺墓地、久盛院墓地付近だ。

 なお、女川三十三観音の第23番目の碑の先祖代々菩薩沢又村鉄五郎と、桜内の清三郎氏が桜内のA家とのことだが、このA家について「郷土史物語―澤股邑など(斎藤義一)」では次のような同族の方の話を紹介する。

 「阿部薩摩の栢葉(かやば)開拓の頃は、栢葉(かやば)に住していた。ところが、松川の大洪水で親などの墓石が流失してしまう。
 その数年後、沢俣の桜内地内の小松林で流失した親の墓石を発見する。
 その出来事から、この辺りが安全地帯なのでここに居を移せという親の教えと解釈してここに安住の地を求めたという」
 このことから、同家は阿部薩摩を知祖とする開拓団の斡旋で桜内の開拓に従事し定着したのではないかとしている。
 また、独国和尚の墓碑を移動した四辻のA家は萱場のA家とかかわる系で、桜内のA家とは別系らしいとする。
by shingen1948 | 2019-08-28 10:38 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 まずは、割烹 田季野のホームページを確認する。
 その建物については、「糸沢陣屋を移築復元した建物」としている。

 糸沢陣屋は会津西街道(下野街道)の宿場だ。
 江戸時代初期から延宝8年(1680)の幕府の命による参勤交代での脇街道利用制限で白河街道利用に変わるまで、この街道が参勤交代の経路として利用されていたという。
 会津藩だけでなく、新発田藩(新潟県新発田市)、村上藩(新潟県村上市)、米沢藩(山形県米沢市)の参勤交代に使用されて、経済的にも廻米道として利用されていたとのことだ。


 会津藩の参勤交代の場合、1日平均約10里前後の移動計画とのことだ。
 朝早くに会津若松城を出立すると、約5里半離れた大内宿で昼食を摂り、約12里半離れたこの糸沢宿が宿泊地の候補地になったという事のようだ。
 この背後に難所となる山王峠が控えていた事などもここを宿所にする理由になったと思われるとのことだ。

 その糸沢宿の本陣職を勤めた阿久津家住宅母屋が、平成10(1998)年9月に有形文化財(建造物)として登録されている。
 https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/136398
 阿久津家は、宿場の問屋職や名主を歴任した事から問屋本陣とも呼ばれ、豪商、豪農、地主としての一面があり、往時は敷地内に6棟の土蔵が軒を連ねていたということだ。

 その糸沢宿の本陣の一部が会津若松市の料亭の建物として移築利用されているとの情報もみつけた。これが、割烹 田季野が「糸沢陣屋を移築復元した建物」とするホームページでの情報と重なっている。

 恐らく、母屋部分には殿様を接待する玄関、上段の間・風呂・雪隠等の建物部分も重なるのだろうが、その他に宿として必要な機能もあるはずだ。その宿としての機能を有する建物の部分が移築されたという事なのだろうと想像する。

 なお、伝統工芸品として宣伝が行き届いているのは秋田だが、ここでは、500年の伝統を誇る日常使いの桧枝岐村の曲げわっぱにこだわっているようだった。
by shingen1948 | 2019-08-26 12:02 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 勝手にわっばめしの店と称している「割烹 田季野」の店舗を「福島の建築46」として整理しておきたいと思ったのは、家に戻ってからだ。そうするには準備不足だ。店の中で家族写真は撮っていたが、この店の建物としての写真も撮っていない。
 それで、次の機会に整理できるようにその覚書としておくことにした。

 ここには直ぐに辿り着けたのだが、残念ながら駐車場は満杯だった。
 車を寄せて様子を伺っていると、直ぐに店から出てくる客がいた。暫くの立ち話の後、数台の車が一緒に出ていった。
 思ったよりもスムーズに店に入ることができた。

 店に入ると直ぐに、左手の座敷に案内される。そこで感じたのは、立派な古民家の座敷を店舗用に改築したようだということだった。
 この店の建物についても確認してみようと思ったのは、食事が終わって、左手の帳場で会計を済ませている間に辺りを見回した時だった。
 座敷の前は広い土間になっていて、その向かいがお土産の売店風になっている。その入り口側には一部屋分の空間があって、そこに客用のテーブルが置かれていた。売店風の奥がトイレになっているようだった。
 それらの施設は土間だった空間を改良してしつらえられているようだった。

 ここで思い出したのが八丁目宿の「赤浦屋」だ。そのイメージと重なったような気がしたのだ。
 この宿は「旧鈴木家住宅」として川崎市民家園に移築されている。その宿を実際に訪れたという事ではない。
 浅川、松川散策の後、川崎市の「旧鈴木家住宅」資料を元に念頭でいろいろとイメージを膨らませていたのだ。その事にかかわっては「浅川、松川散策の写真メモから⑩~馬宿はどこ?③」に整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/237961248/
 ここでは、鈴木家間取りとも照らし合わせて建物内部をイメージしてる。
 この建物の右手3間が、宿のフロントにあたるミセの部分のようだった。その左手に8畳の「上段の間」があって、その奥が天袋付「床の間」になっているようだった。
 そして、ミセの右手が通り土間になって居て、その奥にニワがあり、ここに大竈と流しがあったようだった。

 この鈴木家住宅では、上段の間や床の間は、裕福な馬主や騎馬旅行の武士が宿泊する部屋になるそうだ。
 ミセの奥は生活空間のようで、ナンド・チャノマ・カッテが続く。カッテには囲炉裏があるようだった。そして、通り土間には横隊に馬がつなぎ泊められるのだそうだ。その二階に馬方が宿泊するという事だった。

 「割烹 田季野」の店舗は、これと似たような民家を改築したのではないかと想像したのだ。
 それで、家に戻ってから改めて「割烹 田季野」の建物についての情報を確認してみたということだ。
by shingen1948 | 2019-08-24 09:03 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 若松には毎年来ているが、この会津若松市役所本庁舎を訪れる機会はなかった。ここに来たのは何十年ぶりだろうか。
 あらためて建物を眺めてみようとしているが、ここに住んで居た頃にはこの建物のある風景は、日常の風景の一つでしかなかった。
 その日常の風景を思い出している。

 今回は会津若松駅方面から神明通りを通って、この市役所前の通りに入ったのだが、その目印としたのが、左手に見えた蒲生氏郷公の墓碑案内柱だ。
 その次の交差点を左折すると市役所前の通りに入るわけだが、昔はその交差点の中央に信号機が吊り下げられていたことも懐かしく思い出す。多分、この信号機が会津若松市の中でも最も早い時期に設置されたものではなかったろうか。

 ここから、わっぱめしの店を目指す。
 市役所旧庁舎の正門を出て北に進むことになるのだが、その右手に写真屋さんがあった。ふと親父の遺影を頼みに来たことを思い出す。
 この道筋の左手に公会堂があったことも思い出すが、そこは公民館になっていた。
 高校時代、ここで会津バス主催の歌謡ショーを見に来たことがあった。

 目的の店は、この辺りから東の路地にはいるはずと見当をつけて右手の路地に入ると、後ろから「あった」という声が飛ぶ。
 右手の民家風の店構えの建物がそれらしい。
 この路地だけでなく、この辺りのわき道は飲み屋街になっていて、帰省した時にはよく友人と待ち合わせをしたことを思い出す。

 ここに住んで居た事がある者にとっては、ここで過ごした日常との関係性の中でこの建物をみているということだ。
by shingen1948 | 2019-08-22 09:53 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 会津に行く日程を決めた時に、どこで食事をするかのという話になった。
 今までは出かける前に食事場所の話をしたことはなかったが、昨年、昼食でつまずいたことが絡んでいる。
 美由紀食堂という食堂で昼食をとろうとしたら店が閉じていたのだ。その挨拶の張り紙には、店を閉じた理由に、体力の限界と設備の限界、それに跡継ぎの問題が絡んだことが記されていた。
 それなら、三角屋にしようということでそちらに向かったのだが、ここも閉じていたのだ。

 今回は、取りあえず強清水で蕎麦を食べようという事になった。
 しかし、家人が母に御馳走になっておいしかったわっばめしも食べたいと言われた。
 それで、その店を確認したら市役所通り界隈らしいという事が分かった。それなら、市役所に立ち寄ってからその店に行こうという事になった。

 これが、その会津若松市役所本庁舎の正面だ。
a0087378_916444.jpg
 ここに写るのは旧館で、昭和12年建設とのことだ。建設当時には「近世復興式の豪壮な建築様式」といわれたそうで、特に壁面の装飾に趣向が凝らされている。
 竣工の年昭和12年(1937)には支那事変(日華事変)が勃発し、それ以降の建設工事は諸々の統制下に置かれたという。従って、戦前の本格的な洋風建築としては最後の時期の建物ということになるとのことだ。
 今でもここは現役。議場や市長・副市長室、市民課窓口など、市の業務の中心的な役割を担っているとのことだ。この後ろには、昭和33年に新館が増築されている。

 他所から来た者にとっては、今となっては会津を代表する歴史的建造物の一つとしての景観に着目してしまう。しかし、日常的に暮らす方々にとっては、役所の機能としての利便性や建物の安全性が課題になるようだ。
 「<会津若松市長選>あす告示、争点は新庁舎 市民に伝わる論戦期待【河北新報(2019/7/27)】」によると、今回の市長選では、新庁舎建設に絡んでこの建物の保存についても争点になっていたとのことだ。
 https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201907/20190727_61028.html
 その選挙結果は、現職の室井照平氏が当選。
 それで、16年度策定の市総合計画に基づき、新庁舎は2025年度の完成を目標に、文化財の価値がある一部建物(旧館)を残し、本庁舎跡地に整備することになるようだ。
by shingen1948 | 2019-08-17 09:17 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)

独国和尚の墓碑情報⑤

 今までは現地蔵堂と金福寺のイメージを重ねて「金福寺」をイメージしている。
 地蔵堂と金福寺の位置関係を確認して、金福寺についてのイメージをもう少し明瞭にする。
 「信達一統志」の情報では、地蔵堂の位置を「道の傍寺の東に在り」とし、北澤山金福寺の位置は「路の西に在り」とする。
 ここでいう路は飯坂古道の道筋だ。
 現地蔵堂の位置が傍寺の東とのことなので、北澤山金福寺はその西側に広がっていたという事だ。
「郷土史物語―澤股邑など(斎藤義一)」に明治11年に真浄院に摂取移管された金福寺の書上げ情報がある。
 田  4反6畝24歩 字門前1番地、寺西4番地、寺西7番地
 畑  2畝12歩 字欠ケ27番地
 宅地 1反4畝18歩 字寺西1番地、寺西5番地、字欠ケ38番地

 このことから、地蔵堂もその境内あるいは所有地内であったことが想像できる。また、その所有地は飯坂古道の道筋を挟んだ東側にも広がった大きな寺院だったことが想像される。
 なお、独国和尚碑の位置は地蔵堂の南西隅に確認したところだが、「信達一統志」では「独国和尚碑」の位置については「路の傍に在り」とする。道路拡張工事で移動した可能性もある。

 ここまでが独国和尚の墓碑情報だが、この北澤山金福寺とかかわる仙台の伊達氏にかかわる情報があった。「黒岩虚空蔵堂・満願寺散策23~満願寺」でふれた「伊達、信達二郡に伊達氏十六代の史跡を索ねて(仙臺 安部定橘)」という資料だ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/239198965/

 その「伊達氏五世」について次のように記されていた。
 「宗綱公は(或は宗経と為す、草書の似れるを以って誤る)小太郎と称す、官位生年等考ふる處なし。或は云ふ従五位下、蔵人に任とあり、政依公(四世)の第一子。母は真如婦人、文保元年二月七日薨(みまか)す、年五十四、追諡して金福寺殿浄方真西大居士と云ふ。(或は云ふ信夫郡澤又村金福寺に葬む)」

 仙台伊達氏を確認すると「信夫郡澤又村金福寺に葬む」ということは別にして、伊達氏五世宗綱公が「金福寺殿浄方真西大居士」であることは確かなようだ。
 ただ、信夫郡の情報では、「信達一統志」が北澤山金福寺開山について記すのは「祐快和尚正徳2年壬辰(1712)10月5日建立」だ。
 伊達氏五世宗綱公が薨(みまか)す文保元年(1317)二月七日には北澤山金福寺は創建されていたという信夫郡内の情報は今のところ確認できていない。
by shingen1948 | 2019-08-14 18:19 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

独国和尚の墓碑情報④

 「信夫の里の狐達21~信夫の里の独国和尚⑦」でふれたように、「福島市史」近世Ⅱでは、独国和尚の福島市内寄寓先として、「北沢又金福寺住僧」として、「南沢又の光徳寺」・「中町の塩沢無涯」・「常光寺」などをあげる。女川情報でも、南沢又の光徳寺、福島駅の塩沢家、北沢又は不明とする。
 https://kazenoshin.exblog.jp/17489069/

 独国和尚は福島の塩沢家で示寂される。
 和尚は文政13年(1830)5月21日63歳で没するわけだが、「福島市史」がいう「中町の塩沢無涯」家に止宿中の出来事だった。
 この塩沢無涯(利作)氏は独国和尚に深く帰依していて、28年の間常に随身していたとのことだ。
 訃報を女川に飛ばしたのも荼毘に付したのもこの無涯(利作)氏だったとのことだ。
 「信夫の里の狐達21~信夫の里の独国和尚⑦」では、無涯(利作)氏が金福寺とともに、常光寺にも独国和尚の遺骨を分骨埋葬の労をとったことについてふれた。
 「郷土史物語―澤股邑など(斎藤義一)」では、この常光寺への分骨にはふれず、無涯(利作)氏が金福寺、亀岡大聖寺、平の指塩、女川補陀閣の五か所に分骨埋葬の労をとったとした。
 つまり、独国和尚の遺骨はこの6か所に分骨埋葬されているという事なのだろうと思う。

 ここで、散策の反省をしなければいけない。
 というのは、今まで独国和尚の墓碑情報を追う事に集中していたのだが、大切な事は、金福寺の独国和尚の墓碑があった所には、和尚の遺骨も埋葬されているという事にも思い至らなければいけなかったということだ。

 「郷土史物語―澤股邑など(斎藤義一)」が地元誌らしいのは、この塩沢無涯(利作)氏宅情報にも詳しいことだ。「福島市史」では中町とするが、そのご子息が宮町17から宮下町20に移り、卸町の繊維会社もかかわるらしいとの情報を得る。
by shingen1948 | 2019-08-07 10:51 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

独国和尚の墓碑情報③

 独国和尚にかかわる散策は、女川からの情報を手掛かりにしてきたところだ。今回は「郷土史物語―澤股邑など(斎藤義一)」で、その情報を地元情報と照らし合わせたということだ。

 その大部分は、地元ならではの詳しい情報で、今まで曖昧だったところを補完してくれるものだった。ただ、一か所気になったのは、独国和尚は、金福寺には三十三観音は建立しなかったとする紹介だ。ちょっと気になった。

 確かに金福寺には女川や平の奥の差塩のように大規模な三十三観音は存在しない。しかし、「信夫の里の狐達⑱~信夫の里の独国和尚④」で整理したように、地蔵堂の北側の石塔等をそれと見る見え方があるようで、その見え方も悪くないと思えるのだ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/17473390/

 事実としては、付近の路傍の石仏等をここに集められた可能性もある。ただ、地域の古老の話として、ここの三十三観音は、地蔵堂の右側(北側)に高さ1尺2・3寸の観音像が30余体並列してあるという見え方も大切にしたいようにも思うのだ。

 少なくとも地域の古老の方々は、独国和尚に随身した無涯氏が差塩良々堂では西国三十三観音を巡礼し、西国のご本尊と同じ形の石仏と十六羅漢を移して、西国三十三観音の堂下の土を携帯して定礎に収めたという事をご存じのはず。
 小規模ながら差塩良々堂と同じような経緯でできた三十三観音かもしれないという可能性を感じればいいのか、地蔵堂の右側(北側)の石仏の並びからそれを想像すればいいのかは分からない。
 ただ、ここには三十三観音の聖地を造設する精神というようなものが受け継がれて詰まっていたという風にも感じられるということだが、どうだろうか。
by shingen1948 | 2019-08-06 10:48 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

独国和尚の墓碑情報②

 前回、独国和尚の墓碑が移動した経緯についてふれた。
 昭和52年に、南沢又四辻のA氏が独国和尚の墓碑を当家は独国和尚とかかわりが深いのだとして地蔵堂世話人w氏からもらい受け、A家専用の字中条の旧墓に移したとのことだった。

 A氏が当家は独国和尚とかかわりが深いとしたことについて確認する。
 「郷土史物語―澤股邑など(斎藤義一)」では、この移動に疑義のある立場で記述されている。それで、直接的にそのかかわりを記述されない。ただ、記述されることをA氏の立場で読み取っていくと、先の「信夫の里の狐達⑪~再び御山の御坊狐⑤」でふれた鉄五郎さんとのかかわりらしいことが分かる。
 https://kazenoshin.exblog.jp/17419410/

 この鉄五郎さんが沢又村の阿部一族のようなのだ。
 鉄五郎さんは生涯妻帯せず独国和尚の仏門に帰依したとある。
 また、女川三十三観音の第23番目の碑に鉄五郎さんの名がある事については「信夫の里の狐達⑳~信夫の里の独国和尚⑥」でふれたが、同誌によると先祖代々菩薩沢又村鉄五郎の名と、桜内の同族清三郎氏の名が刻まれているとのことだ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/17483732/
 このことから、同誌でも沢又村の阿部一族は挙げて独国和尚に帰依し、女川三十三観音建立時も両名は独国和尚に随身し奉仕したのであろうことを推定している。

 なお、「信夫の里の狐達⑪~再び御山の御坊狐⑤」の整理の時点では、鉄五郎さんは光徳寺近くにお住まいだったとしか分からなかったのだが、同誌ではその位置情報を以下のように記される。

 「光徳寺木戸門前南側に、大正昭和の端境まであった在った茅屋を古老なら記憶にある筈だ。この茅屋こそ鉄五郎の生家である」
by shingen1948 | 2019-08-05 15:52 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)