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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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<   2019年 07月 ( 7 )   > この月の画像一覧

 前回の「散策を楽しむための鳥谷野の古墳情報⑬」では、腰浜村の宿とかかわる道筋は古代道とかかわっているという見方について整理をした。
 https://kazenoshin.exblog.jp/239384697/
 この時に、江代氏はこの宿とかかわる道筋が前期の古代官道と推定しているらしいことについてもふれた。
 現在の道筋に重ねた図では、現在の道筋よりもやや東側を走っているように描かれているのだが、これが1908年と1931年の地図に描かれる東宿の表記される位置と重なっていることが分かる。
 江代氏は、この宿とかかわる道筋が前期の古代官道で、この腰浜廃寺周辺に岑越駅が設置されていたと推定しているようだ。
 その根拠の一つに周辺より微高で安全な地形であるということ挙げている。この周辺より微高の地形は旧阿武隈川の流路に伴ってできた砂礫段丘だとする。

 その西側の道筋が中世の街道としているのたが、この先には信夫郡家を想定しているということだ。その位置が先に整理した炭化米の層が発見され五郎内地内だ。
 ここに正蔵(米蔵)が設置されていて、その付近には信夫郡家があったとの想定だ。この地形については、古い松川と古い阿武隈川の複合河岸段丘上だとする。

 都市化が進んでいて、この辺りの散策でこの地形的な特徴は捉えにくくなっている。
 ただ、旧福島大学の校庭付近が周りの地形よりも低地であった事は思い出される。ここも古い阿武隈川の河床と捉える見え方なのだろう。
 確かに、古い地図を確認すると五郎内地内と腰浜地内の間は水田になっているようでもある。

 このことと鳥谷野情報とが関わりそうなのは、「散策を楽しむための鳥谷野の古墳情報⑪」でふれた附属中学校体育館付近が5世紀の祭祀遺跡という情報だ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/239348793/
 市史では、ここは吾妻連峰が最も美しく眺められる地点なので、吾妻山か阿武隈川の水の神を祀ったものとの推定をしていたのだが、確かに、その地形について「ここは旧阿武隈川の河岸段丘上であるとしていた。
by shingen1948 | 2019-07-29 17:18 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回、福島市の武徳殿とのかかわりで「仙峡閣が登録有形文化財(建造物)に登録」の報道について整理したところだ。
 ついでに、「会津日新館天文台跡」が日本天文遺産の第1号に認定されたことについても整理しておこうと思った。
 各報道がこの事を報じたのは半年前の3月だ。ネットでは県内の各報道記事は確認できなくなったが、以下の河北新報の記事が今でも確認できる。
 https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201903/20190314_63005.html

 「<天文遺産>会津日新館天文台跡が第1号に 江戸時代建造、国内で唯一現存【河北新報2019/3/14】」
 
 「日本天文学会は13日、新たに設けた日本天文遺産に会津若松市の会津日新館天文台跡など2件を認定したと発表した。江戸時代に国内で10基ほどあったという天文台のうち唯一の現存で、歴史的価値の大きさが評価された。
 天文台は、1803(享和3)年完成の会津藩校「日新館」の施設としてほぼ同時期に建造されたとみられる。上底約10メートル、下底約22メートル、高さ約6.4メートルの台形の構造物で南側半分だけが現存する。
 当時は観台(かんだい)と呼ばれ、上部に上って星の観測などをしたらしい。文献が少なく不明な点は多いが、日本独自の天文学の発展を示す重要な史跡と認められた」

 他の一件は、公益財団法人冷泉家時雨亭文庫(京都市)所有の藤原定家(1162~1241年)の日記「明月記」(国宝)とのことだ。

 他の報道とも照らし合わせると、江戸時代の天文台は、幕府や水戸藩、薩摩藩などにもあったのだが、構造物が現存するのはここしかないということのようだ。
 江戸時代の天文台は近代の天文台とは異なり、星の観察のほか、暦の基準となる冬至を確定するため、太陽の動きを計測したりしたという。
 その天体の位置を測定し、正確な暦を目指したという当時の日本の天体観測の様子が体感できる貴重な遺跡ということが評価されたということのようだ。

 この「会津日新館天文台跡」は、会津藩校「日新館」に併設された天文台だ。
 先に、大河ドラマ「八重の桜」視聴とかかわって、会津藩校「日新館」を実感する手段として家族を案内して散策した事を整理している。

 〇 八重の桜番外編~天文台跡を訪ねる
 https://kazenoshin.exblog.jp/18360617/
 〇 八重の桜番外編~天文台跡を訪ねる②
 https://kazenoshin.exblog.jp/18371710/
 〇 八重の桜番外編~天文台跡を訪ねる③
 https://kazenoshin.exblog.jp/18375671/

 案内板には「江戸時代の天文台は近代の天文台とは異なり、星の観察のほか、暦の基準となる冬至を確定するため、太陽の動きを計測したりした」ということにかかわる以下の解説があるのだが、見逃している。
 「天文台は、つねに星の観測をするところであったが、特に、毎年、冬至の日には、学校奉行、天文方の師範・暦家が集まり、晴雨・考暦を編したところで、重要な施設の一つであった」

 会津若松市は今回の認定を機に見学しやすい周囲の環境整備に努めるとのことなので、近寄りがたくなって「当時の日本の天体観測の様子が体感できる貴重な遺跡」という側面が薄れる可能性はありそうだなと思うが、どうだろうか。
by shingen1948 | 2019-07-27 10:27 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 県内各報道は、文化審が19日に以下の5か所18件の建造物が新たに登録有形文化財(建造物)に登録するよう文部科学相に答申したと報じていた。(2019/7/20報道)
 〇 会津若松市の福西本店七件、竹藤(たけとう)四件、仙峡閣一件
 〇 伊達市の旧熊倉家住宅二件、
 〇 大熊町の石田家住宅四件

 信夫の里を中心に散策している者としては、この中の近隣の伊達市の旧熊倉家住宅も気になるところだが、仙峡閣も気になった。
 仙峡閣は会津若松市の芦ノ牧温泉にあり、入母屋造りの大屋根に千鳥破風を飾り、正面には社寺建築の細かな意匠が残る建物とのことだ。注目したのは、この建物が福島市の板倉神社にあった演武場「武徳殿」を移築・復元し温泉旅館に転用したということだ。

 福島市にあった武徳殿という事を頭において「武徳殿」を確認すると、明治28年(1895)に設立された大日本武徳会の支部道場ということであったろう事が想像される。また、戦前までは、地方の武徳殿は、現在の武道館に相当する機能を果たしていたとのことだ。
 その変質について整理したことがある。
 信夫山を散策して「信夫山の神々の変質」として整理した時に、「歴史地図(半沢氏)」の「戦争と信夫山」に福島市の板倉神社にあった「武徳殿」について以下のように紹介されている事にふれていた。

 「板倉神社近くの武徳殿は昭和13年に黒沼社の裏手に東郷山乃木庵修養道場として移築さ
れ、軍国主義の一翼を担った。」
 https://kazenoshin.exblog.jp/4749112/

 更に、「信夫三山~松川と競馬場の情報⑤」で、この「東郷山乃木庵修養道場」とかかわると思われる「乃木庵跡」を散策したことについて整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/10657318/

 この時にふれた石碑は、乃木庵維持会が、昭和14年に二本松藩士の方の敷地寄付に対する感謝碑だ。
 乃木神社由緒に、中央乃木会についての以下のような説明がある。

 「時の東京市市長阪谷芳郎男爵は先頭に立って広く同志を集め、中央乃木会を組織し、乃木邸内の小社に御夫婦の御霊をお祀りしました。また、毎年9月13日にはその御前に祭儀を斎行するとともに青少年への研修会を開催するなど、御夫婦の精神を永世に伝えようという活動が活発に続けられていきました」

 半沢氏の歴史地図の「軍国主義の一翼を担った修養道場」との解説と重なると想像したところだった。
 この散策時には、昭和21年のGHQによる強制解散と日本政府による財産没収により消滅と勝手に想像していたのだが、実際には芦ノ牧温泉旅館として移築・復元されていたということなのだろうと思う。
 その価値は、現存する古い道場建築が少なくなっているため、文化財としての価値が高まっているという事なのだろうと思う。
by shingen1948 | 2019-07-22 11:47 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 先に「信達ニ郡村誌」を参考資料として浜田町付近を散策したことがあった。この時に「信達ニ郡村誌」の小字名と現在の地区名が違っていて散策しづらかった。それで、地図上に腰浜村の小字の位置を推定したことがあった。
 それを「奥州街道浜田町付近④」で整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/14780170/ 

 今回腰浜町辺りを郡家遺跡とかかりで資料確認をしていて、これが少しずれていることに気がついた。修正する。
 1908年と1931年の地図では東宿が表記されるのだが、これを1972年以降の地図と重ね合わせてみると現福島成蹊中学校の校庭辺りと重なるようなのだ。
 また、「福島市史」で、腰浜廃寺遺跡と北宿が重なるとの表現もみている。ということで、この宿がかかわる小字を全体的に東に移動させたい。

 まずは、稲荷神社近くを東宿としたプロットを福島成蹊中の校庭付近に移動する。その道路を挟んだ向かい側を「北宿」とする。
 次に、昭和2年の福島市実測平面図と照らし合わせると字東宿の南側が字南宿で、その道を挟んだ西側が字西宿となっている。従って、福島成蹊中の校舎の辺りから福島成蹊高校前の通りまでが「南宿」ということで、その道を挟んだ西側を「西宿」とする。
 ただ、「上宿」は字西宿と福島成蹊高校前の通りを挟んだ南側ということなので、先にプロットした位置のままということになる。
 五反田と畑中は、北宿と東宿を基準にしてプロットしているので移動する。「畑中」は「北宿」の北側に、「畑中」は「東宿」の北側に移動する。
 他の小字は奥州街道とのかかわりでプロットしているのでほぼそのままでよいのだが、若干ずれもあるので少し修正する。
 字南五郎内は八子病院付近で、そこと字五反田の間に字新屋敷が入る。したがって、旧福大がおおよそ字高田北ということになるようだ。

 今度は、これと江代正一氏が描く古代道とを重ねてみる。
 宿を挟んだ道筋が前期の古代官道と推定するようだ。更に「奥州街道浜田町付近④」で宿を挟んで描いてしまった道筋が中世の街道と推定しているようだ。
 ただ、「福島市史」ではたとえ腰浜町辺りを郡家遺跡とかかわるとみたとしても、ここに官道が走っていたとする必要はないというように表現しているのをみたような気もする。また、北宿と腰浜廃寺遺跡の位置が重なることを、腰浜廃寺消滅後の出来事と捉えているようだ。
 これを江代正一氏は信夫郡寺となる前と捉えているように思える。なお、江代正一氏が描く古代道では腰浜廃寺を東宿と重ねているようだが、ここはよく分からない。
 私寺時代と読めばよいのだろうか。
by shingen1948 | 2019-07-21 12:05 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 岩田遺跡から出土したという有孔円板と剣を模造した剣形石造模造品が、腰浜町の祭祀遺跡と直接かかわるのかどうかは分からない。
 しかし、岩田遺跡から出土した有孔円板と剣を模造した剣形石造模造品の確認で腰浜町の祭祀遺跡を意識したことで、腰浜廃寺の見え方が今までとは少し違うように感じている。

 今までは腰浜町辺りを郡家遺跡とかかわるような見え方だ。
 郡衙は基本的には、正倉院(米倉)と郡庁(行政施設)と付属寺院、それに館(宿舎・厩)とそれにかかわる厨院(調理棟)などから構成されるということだ。
 それらの郡衙構成施設がどこだったのかというような見え方だ。
 「北五老内町遺跡付近~2012の立春の頃の風景⑪」あたりから整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/14706120/ 
 
 正倉院(米倉)とかかわるとみられているのが北五老内町遺跡の焼米のようであり、「北五老内町遺跡付近②」では、その観点から整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/14713084/ 

 腰浜廃寺は郡衙の付属寺院という見え方で、その観点から整理したのが「腰浜廃寺付近」「腰浜廃寺付近③」ということだ。
 〇 「腰浜廃寺付近」
 https://kazenoshin.exblog.jp/14719765/
 〇 腰浜廃寺付近③
 https://kazenoshin.exblog.jp/14733090/

 今回祭祀遺跡を意識したことで、今までも見ていた資料からも時間的な経緯を意識して読み取りになっているような気がする。
 このことによって、この腰浜廃寺の造営を祭祀遺跡との関連で捉えようとしているようになっている気がするのだ。
 ただ、今回改めて「福島市史」などで確認し直すと、この腰浜町辺りを郡家遺跡とかかわって見るという事自体、一つの仮説にしか過ぎないとしているようではある。
 それも頭に置きながら確認を進める。

 「東日本における郡家遺跡の出現と律令制地方支配の確立(木本元治)」によれば、信夫郡はほぼ信達盆地の範囲とする。
 その郡家遺跡の位置は盆地南部の阿武隈川西岸の福島市街地とすると表現される。これが、北五老内町から腰浜町辺りということになるのだろうと思う。
 同誌では、ここに腰浜廃寺が造営されるのは7世紀で、これが郡家遺跡に先行すると表現されている。その郡家遺跡に先行する腰浜廃寺が、5世紀の祭祀遺跡を意識して造営されているという見え方だ。
 阿武隈川対岸には6世紀後半の郡内最大の前方後円墳が所在するという。それ以降、この地域が最も有力な古墳群の所在地となったということだ。
 今回は、ここに5世紀の祭祀遺跡の主催者もかかわっている見え方でもあるのだが、この時期の地域の有力者の古墳は盆地北半の阿武隈川西岸地域だったようなのだ。
 この事も、一つの仮説にしか過ぎないという見え方とかかわるのかもしれない。

 腰浜町辺りを郡家遺跡とかかわって見る見え方では、今回、こんな風な見え方になったということだ。

 5世紀の祭祀遺跡であった近くに、7世紀になってこの地の支配層の豪族の私寺として腰浜廃寺が造営される。
 その腰浜廃寺は、7世紀末に信夫郡寺として昇格する。
 この後に、この腰浜廃寺近くに郡家遺跡が造営されるのだが、北五老内町の正倉院(米倉)は、その施設の一部ということだ。
 なお、郡庁等の他の施設とかかわる遺跡はまだ確認されていないということのようだ。
by shingen1948 | 2019-07-19 14:59 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「すぎのめ」の「最近の発掘調査から(柴田俊彰)」では、石造模造品については、特に古墳時代の5世紀にみられるもので、祭祀用としての利用と説明する。

 百科事典等で石製模造品についての確認を進めると、「祭祀遺跡」だけでなく「古墳」ともかかわる遺物でもあるらしい。それはさておいて、最大の特徴は、4世紀に出現して盛行期がほぼ5世紀代に限られるということらしい。
 出土するのは、古墳・集落・祭祀遺跡などの遺跡とのことだ。

 岩田遺跡から出土したという有孔円板と剣を模造した剣形石造模造品は、「福島の遺跡」で写真確認ができる。材質は、滑石などの軟質の石とのことだ。

 福島市史の「祭祀遺跡」を確認すると、伊達市の岩谷遺跡では北東斜面から土製模造品が出土していることが紹介される。
 ここは高子二十境とのかかわりで整理している。「高子二十境と史跡」では、この祭祀遺跡としてもふれている。
 https://kazenoshin.exblog.jp/9403859/ 
 その中で「付近からは丸玉などが出土しているという」としたものが、ここでいう土製模造品なのだろうと思う。

 古墳時代の神マツリの奉納品は、前期の実物から中期に石製模造品となり、後期には土製模造品になったという経緯だったと考えられているという。
 この遺跡を「7世紀頃の祭祀遺跡と考えられている」とするのは、その古墳時代の終焉期が6~7世紀後半ということを考慮したものだと思う。

 市史がこの岩田遺跡にふれるのは、祭祀遺跡の特徴が実感としてとらえやすいからなのだろうと思う。
 祭祀遺跡は、祭祀遺構や祭祀遺構を主体とした遺跡のことだ。
 主に集落などの日常の生活場所からは離れた丘陵上や、岬の突端や海辺に接する小島などの神霊が依りどころにしたと思われる場所に立地していることが多いという。神社が発生する前の段階の性格があったものではないかと考えられているとのことだ。
 岩田遺跡は、それが感覚的に捉えやすい雰囲気が漂っていることは実感している。

 先に石造模造品が腰浜町の旧福島大学附属附属中学校敷地内でも発見されていることについてふれたが、「福島市史」ではここも祭祀遺跡と紹介する。
 その市史によれば、石造模造品は、附属中学校体育館構築中、地下1m余の層中に散在して発見されたという。
 ここは旧阿武隈川の河岸段丘上であり、吾妻連峰が最も美しく眺められる地点なので、吾妻山か阿武隈川の水の神を祀ったものとの推定のようだ。
 ここが腰浜廃寺跡の一部であることも、その裏付けとしているようだ。
by shingen1948 | 2019-07-04 10:40 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 鳥谷野・黒岩村の遺跡情報をもとに古墳情報を拾ってきた。その削ぎ落した集落情報から気になる情報を確認しようと思う。という事で、岩田遺跡にかかわる情報を確認し、その題も古墳という言葉を外して「散策を楽しむための鳥谷野の遺跡情報」としようと思ったところだった。
 しかし、確認をすすめていくと、気になっていたのは古墳時代にかかわる集落情報であって、題から古墳という言葉を抜く必要がなくなったので、元に戻して「鳥谷野の古墳情報⑩」として整理することにした。

 岩田遺跡の最近の調査は平成に入って直ぐの頃のようだ。
 報告書等からは民間開発に伴う事前調査だったことが伺えるが、「すぎのめ」の「最近の発掘調査から(柴田俊彰)」からは、それが店舗建設に伴う調査だったことが伺える。
 その位置だが、「福島の遺跡」では、本文で国道4号線と国道115号線の交差点から南東、阿武隈川西岸沿いにある遺構としている。
 その図示情報と照らし合わせると、国道4号線というのは、4号線バイパスの方のようだ。その4号線バイパスと国道115号線の交差点の南東の位置ということのようだ。鳥谷野方面からきた道筋との間付近ということのようなので、その国道4号線バイパス沿いの店舗ということで見当をつけてみている。

 この遺跡からは、古墳時代前期(1600年前)と平安時代の住居跡が発見され、これが当時の集落跡の一部であることが判明したとのことだ。
 発見された竪穴住居跡は16棟あるそうだが、遺物等から時代が特定できたのが古墳時代前期(1600年前) 住居跡が1棟、9世紀中頃(平安時代)の住居跡が2棟、9世紀後半(平安時代)の住居跡が1棟ということのようだ。
 特定された住居跡は年代的に途切れているが、5世紀代の住居跡を想像させるものなどもあったらしく、この地域一帯に継続的に集落が営まれていたことを推定しているようだ。

 興味深いのは、その5世紀代の住居跡を推定したという遺物についての以下の解説だ。

 「調査で出土した主な遺物は土師器ですが、石製模造品がまとまって出土していることが本調査での特徴です」としている。
 具体的には、鏡を模造したと思われる有孔円板と剣を模造した剣形石造模造品が総計で28点出土しているとのことだ。
 更に、製作途中の石造模造品が出土し、5世紀中頃の造模造品製作場跡と思われる遺構もあったとのことだ。

 この石造模造品が、特に古墳時代の5世紀にみられるものだそうだ。祭祀用として利用したと推定されているという。

 興味がそそられる理由がもう一つある。
 この石造模造品は腰浜町の旧福島大学附属附属中学校敷地内でも発見されているとのことだ。その関連があるのかないのかということも確認したことだ。
 なお、この岩田遺跡からは、平安時代の鉄製品を製造した鍛冶工房跡も発見されたとのことだ。
 古代の工房跡が重なって発掘されているというのも興味をそそられる要素の一つだ。
by shingen1948 | 2019-07-02 10:26 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)