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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

<   2019年 06月 ( 17 )   > この月の画像一覧

 古代ではカンカン石を伝達手段に使っていたという話は、史実と直接的に結びつけてみる話ではなさそうだ。
 多くの古墳のある地域には、前回整理した七塚が長の墓という言い伝えやカンカン石の話が残っていることが多いということのようだ。

 さて、百庚申塚は古墳情報としては余談だが、「散策を楽しむための鳥谷野の古墳情報⑦」ではその余談の続きとして百庚申塚に向かう道筋と田沢道とのかかわりを確認したところだった。
 実は、この確認の中でもう一つの道筋が気になってしまったのだ。
 それが、この塚の東側から南側に回り込んで田沢道に繋がる道筋だ。少しその道筋を探ってみた。 結果的にはよく分からなかったところも残ったし、余談の余談のそのまた余談なのだが、脇道に逸れながら散策を楽しむという趣旨からこの事についてもふれておきたいと思うのだ。

 百庚申塚の散策で少し地形に慣れてきた。
 田沢道を進んできて思い出したのが墓地に登る手前の右手に駐車場があることだ。とりあえず、そこに車を停めてあたりを見回した。
a0087378_6341989.jpg 気になった道筋と関わりそうな道筋は、上の墓地に向かう道筋の左手にある耕作地の左手に見える道筋だ。
 これは、その道筋から下方に見える墓地の方向を眺めてみたところだ。この道筋はその下方の墓地に向かう道筋から南に分岐してきた道筋のようだ。
 この道筋らしいと見当をつけて辿ってみたということだ。

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 ここは、その道筋を辿って、それらしくもあり、そうでないかもしれないとも思えた地点だ。季節的に分かりづらい時期なので、今回はここまでにした。

 家に戻って確認すると、明治時代の地図でははっきりせず、昭和47年頃の地図辺りが最も明瞭に道筋が記される。
 地図上からは、この道筋から分かれて河原の方に向かう道筋も見える。他の地図とも照らし合わせると「八郎兵衛稲荷大明神」へ向かう道筋かもしれないとも思うが、今回の道筋なのかどうかははっきりはしない。
by shingen1948 | 2019-06-29 06:38 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「散策を楽しむための鳥谷野の古墳情報③」では「房の内古墳」と案内される屋敷神について、古墳情報とのかかわりで整理してみている。それが「八郎内の七ツ塚」の一つでもあるという情報だった。

 ここに建つ案内柱には「八郎内の七塚(七塚の内未発掘の古墳)」とある。
a0087378_9405934.jpg
 ここは八郎内地区であり、その地区内の七塚の一つという案内に引かれてやってきたということだ。
 「福島市の遺跡」の「八郎内遺跡」案内によれば、八郎地区のかつて3つの古墳があったと言われる場所は現在畑になっているとのことだった。
 その中の一つの古墳が調査されたということのようだった。この古墳の墳丘は壊されていて、周りの溝だけが残っていたということだった。
 ここは「福島市の遺跡」で案内される八郎内の3つの古墳のうちの一つなのだろうと想像する。その中の未発掘の古墳という事なのだろうと思う。

 案内柱の解説では、地区の言い伝えではこの七塚は7代にわたり支配した長の墓といわれていることを紹介している。また、カンカン石についてはその用途は合図に用いられたとしている。
 先の整理では「カンカン石」は古墳の蓋石で、たたくとカンカンと音が響いたというのは石室の空洞とのかかわりとしたところだった。

 この案内柱の解説では、その前に「古墳時代後期(1400年前)の集落跡、古墳等発掘」とある。これは「八郎内遺跡」についての解説で、「福島市の遺跡」の「八郎内遺跡」案内情報と重なるのだろうと思う。

 この発掘調査は東北建設協会福島支所建設に伴う事前調査のようだ。ということは、その位置は東北地域づくり協会福島支所の敷地あたりということだろうと思う。この直ぐ南側だ。
 ここからは、竪穴住居が見つかり、古墳時代後期のむらのあとでることが分かっているとのこと。竪穴住居の中には村の有力者の家と考えられる大きな家もあったという。また、火災住宅跡2軒を検出したとも。
 それと、先に記した古墳の周溝跡がみつかったということだ。
by shingen1948 | 2019-06-27 09:43 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 百庚申塚に向かってみたのは、もう一つの興味があったからだ。
a0087378_8535814.jpg 先の小原集落に立ち寄った際に、そこから黒岩村に向かう途中、この百庚申塚の案内柱を見かけていた。その案内される道筋が旧田沢道の道筋とかかわるのではないのかなと思っていたのだ。
 それを確認したいとうこともあった。

 古い地図と見比べて確認を進めてみると、結果的には現況の道筋の方が古くからの田沢道に近いように思えたのだが、このまま百庚申塚へ向かう道筋について確認したことも整理しておくことにする。
 百庚申塚自体古墳情報としては余談なので、その余談の続きという事になる。

 旧田沢道の道筋かなと思ったのは、この丘の北側にある墓地の東側にある道筋と繋がる道筋だ。


a0087378_8554073.jpg 今回はその北側の墓地前からその道筋をたどってみたのだが、その途中にこの庚申塔があった。安永5年が読み取れる。
 「黒岩百庚申塚について(中村善太郎)」の解説に「北口の庚申塔は安永5年丙申10月20日施主敬はとある」とある。従って、このあたりが北口ということなのだろうと想像するが、そのまま進む。


 田沢道の道筋から見えた案内柱が見えるその少し手前の左手に「史跡 百庚申塚」という別の白い案内柱が建っている。「此れより三十m頂上に供養碑二基あり……」と案内されるその左手の道筋に入っていったということだ。
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 ちょっと進んだところで、この庚申塔を見かける。
 西口の庚申塔は、満延2年申年当林世話人5名の名前がみられるとのことだが、多分、それがこれだろうと想像する。読み取れているわけではない。
by shingen1948 | 2019-06-24 08:58 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_7552934.jpg これは百庚申塚だ。塚ではあるが古墳の案内はない。従って、古墳情報としては余談になるのだろうと思う。

 「黒岩百庚申塚について(中村善太郎)」は、黒岩の庚申を中心に案内しているのだが、そこからこの塚についての案内部分を拾ってみる。
 この塚を地元では庚申山と称しているとのこと。地番は黒岩字岩山1番地とのことだ。
 頂上には直径3間ぐらいの円形の塚石があり、中央に松の木があり、その松の木を中心に申型の石碑が225体祀られているとある。

 「塚石」との表現が気になり見回すと、奥の猿田彦大明神碑の台座になっている石でないのかなと思う。
 猿田彦大明神碑は、明治6年建立で、手前の金華山碑は安政4年巳年八月当林世話人建立とのことだ。
 祀られた申型の玉石は225体とのことで、信夫郡の各所から寄進者名が見えるそうだが、確認はしていない。

 古墳かどうかは別にしても、この塚が先に確認した「七ツ塚」に入るのかどうかは分からない。どうでもいいことだが、本宮で玉石を張り付けた古墳があったことも思い出す。

 なお、この塚の祭礼は八十八夜に行うそうだ。
 その執行者は、昔は区長だったが、今は山林組合が町会の協賛を得て実施しているとのことだ。
 上ノ町諏訪山地区の庚申講とのかかわりについても紹介される。
 三月初申の日を縁日として寄合を持って参拝していたそうだが、今は熊野講との合同講中参拝となっているとのことだ。
by shingen1948 | 2019-06-23 07:57 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_911549.jpg マホロンの遺跡データベースで検索すると、このあたりが岩山古墳群とのことで見当をつけた。しかし、いろいろな情報を確認していくと少し位置がずれているようだ。
 この南側が駐車場になっているのだが、その前の辺りに3基の古墳があるらしい。
 いずれにしても、この季節では確認はできない。冬近くならその雰囲気の風景が眺められるのかもしれない。

 この写真の左手に写るフェンスの手前の道筋を進むと田沢道の主道に出るのだが、その黒岩村方向にちょっと進むと、西手に進む道筋がある。その道筋を西に進んだ右手が諏訪平古墳群で、以前は4基の古墳が確認できたが現在は2基の古墳が確認できるという。
 これ等の古墳も弥生公園の2基の古墳のような形状を原型としてイメージするようだ。

 今まで確認してきた浜井場、二ツ石地区の鳥谷野の古墳や、黒岩村の房ノ内、八郎内地区の古墳も含めて、この辺りの古墳の原型と広がりがイメージされてきたように思う。

 そうすると、「黒岩虚空蔵堂・満願寺散策⑰~帰り道⑥」でふれた浜井場古墳の平成14年(2002)の調査では後期の前方後円墳の跡がみつかったとの情報は特筆すべき情報という事になる。
 https://kazenoshin.exblog.jp/239158895/
その詳細情報を再掲し、更に「浜井場古墳群について(柴田俊明)」の解説から読み取った事を付け加えておく。

 その墳丘長さ約22m、後円部直径15mとのことだ。
 古墳の盛り土は全く残っていなかったという事で墳丘の高さは不明ということのようだ。これは、古墳に沿った巾1~4mの溝からの推定のようだ。
 被葬者を埋葬する施設は後円部で確認できたようだ。
 南側に開口する前長5.4mの横穴式石室だったとのこと。玄室と羨道からなる構造で、玄室と羨道の境には仕切石が確認できたという。玄室の長さは3.22m、幅90~98㎝、羨道2mだったという。 奥壁や石室の側壁石などはほとんどが開墾等で消失していたが、その石室からは勾玉6点・ガラス玉13点・鉄の斤2点・鉄の鏃2点や鐔などが出土したとのことだ。
 なお、浜井場古墳群の主墳と思われるこの前方後円墳と明治43年調査古墳との関係は不明とのこと。

 ちょっと観点がずれるが、「最近の発掘調査から(柴田俊明)」で、学壇古墳群について特筆すべきこととして解説されるのは、旧石器時代の石器の発見だとする。福島市内では貝沼遺跡などの数遺跡しか知られていないとのことだ。
by shingen1948 | 2019-06-22 09:14 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 これは弥生公園に保存されている学壇古墳群のうちの2基の古墳だ。
 ここは、感覚的には黒岩村を越えているように感じるが、小原村に向かう途中だ。黒岩村内という事なのかもしれない。
a0087378_945324.jpg この学壇古墳群は、南福島ニュータウン内に立地する13基の小古墳からなるそうだ。
 すべて円墳で、規模は10m~14m程で、幅2~3mの周溝があるという。石室は長さ3~5m、幅1.5m程とのことで、築造はいずれも古墳時代後期と考えられるとのことだ。
 調査された古墳のうち、沼ノ上1号墳からは蕨手刀、直刀、鉄族、土師器、須恵器等が、また、学壇1号墳からは勾玉、水晶玉、ガラス玉、鉄族、須恵器等が出土しているとのことだ。

 公園内のこの古墳は、その中の2基ということのようだ。10基は調査されたとのことだが、これが調査されたものかどうかは分からない。

 古墳時代後期の古墳は小さいとは聞いてはいた。しかし、イメージしていたものよりも小さいように思う。前に古墳巡りで円墳もいくつか眺めているのだが、それを元に想像していたものよりもこの2基の古墳は更に小さいように感じるのだ。

 今まで確認してきた浜井場、二ツ石地区の鳥谷野の古墳や、黒岩村の房ノ内、八郎内地区の古墳は、この学檀古墳群と同じような古墳が原型としてイメージされているということなのだろうと思う。
by shingen1948 | 2019-06-21 09:07 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 これは、房ノ内地区の民家の大きな駐車場脇にある御社。
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 案内柱には「房の内古墳」とあって、以下のような解説が記される。

 「塚の上に大石2個あり、その上に房ノ内の屋敷神として稲荷大明神、弁財天、地蔵菩薩(両側に大国主神と足洗神社がある)」

 案内されることで確認できるのは、次のような事だ。
 まずは、お堂の中に2体の地蔵菩薩が安置されている事。
 そして、堂宇の左側には足洗神社碑。昭和10年9月建立との事だ。
 それと、堂宇の右側の大国主神碑。天保5年(1834)9月建立の銘があるとの事。
 案内にある「房ノ内の屋敷神としての稲荷大明神、弁財天」は確認できていない。

 案内柱の表題とかかわって気になるのが「塚の上に大石2個あり」ということだが、これも確認できる。
 この堂宇のもう一つの特徴が、塚状の上に大石があって、その上にお堂等が祀られるという形になっているということだ。
 案内柱に「房の内古墳」とあるのは、この塚と大石を指しているのだろう。
 この古墳、浜井場古墳や鳥谷野古墳(二ツ石)と同様な円墳だと考えられているようだ。発掘調査されたものかどうかは知らない。

 「房の内古墳」と表示されているのは、ここが房ノ内地内だからなのだろうと思うが、この塚は隣地区の八郎内の名をとった「八郎内の七ツ塚」の一つでもあるという情報も。
 なお、「八郎内のカンカン石」というのもあるそうだ。そのカンカン石というのは、古墳の蓋石なのだろうと想像されているようだ。
 下が石室なので空洞になっていて、たたくとカンカンという音が響いたのだろうということらしい。
 いずれも、古墳の多い地方ではよくある呼び方とのことだ。

 「七ツ塚」とあるのだし「八郎内の」とあるのだから、残りの多くの塚は八郎内地内にあるのだろうと想像し、遺跡検索で「八郎内古墳群」で検索して範囲を絞って地図を眺めると、一つだけ案内柱が建っているところがあるような気がする。
 後で確認してみようと思っているが、もう一つヒント情報がある。
 「福島市の遺跡」の「八郎内遺跡」案内だ。ここに「かつて3つの古墳があったと言われる場所は現在畑になっている」との表記がある。また、墳丘は壊されていて周りの溝だけが残っていましたとも。
by shingen1948 | 2019-06-20 08:43 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_9413374.jpg これは、山崎地蔵菩薩堂で見かけた石だ。
 無造作に置かれていて案内もない。しかし、いくつかの資料を読み合わせてみると、浜井場古墳の石室とかかわるかもしれないと考えられているものなのだろうと思う。

 その資料の一つが「明治期の杉妻村のこと~新聞資料からの抜き書き(杉妻公民館長太田隆夫)」。

 まずは、浜井場古墳の出土品が博物館に寄贈された時の以下の新聞記事が紹介される。
 「博物館へ古器を寄贈す【福島民友(明治43/12/21)】」
 「信夫郡杉妻村森谷弘三氏は、居村大字黒岩字浜井場に於いて発掘したる拵付太刀刀身残片 轡(くつわ)残片 鈴釧(すずくしろ) 勾玉硬石製二個 同瑪瑙製二個及び勾玉残欫青色玻璃製を 東京帝室博物館に古器の資料として寄贈したるを以て 過般同館総長股野琢氏より謝状を贈らる」

 次に、この事にかかわっていくつかの事項について解説される。この中で、轡(くつわ)残片の出土品が貴重だとする見解が面白いと思うが、詳細は略す。
 この後で、浜井場古墳の現況について次のように記される。
 「浜井場古墳の石室に使用されたと思われる大石が散乱していたことから、横穴式石室を持った円墳であったらしく、この辺りから土師器の前期である和泉式に属する土師器が出土している」
 注目は、ここに「浜井場古墳の石室に使用されたと思われる大石が散乱していた」という情報だ。 更に、明治23年1月の福島師範学校犬塚又兵という方の発掘調査以前の記録が紹介されるが、ここでも以下のように浜井場古墳の石室に使用されたと思われる大石が散乱にかかわることが読み取れる。
 「村家の間にあるものは盛土壌して蓋石を露す」

 次の資料が「浜井場古墳群について(福島市教育委員会文化課長柴田俊彰)」だ。
 これは、平成14年に福島市振興公社によって実施された発掘調査について解説されたものだ。
 今回の大石とかかわるのは、その本文に付記された「古墳群石室に使用された大石(板石)の保存」にある次の紹介だ。
 「現地に使用されていたと思われる大石三個は明治時代よりそのままとのこと。埋没させるには心残りとその大石を重機により満願寺別当所山崎地蔵堂境内に移動しました。」
 
 その大石三個の写真も掲げられているのだが、その写真とも見比べて、最初に掲げた写真の大石三個が、明治時代の発掘調査以来散乱していた「浜井場古墳の石室に使用された大石(板石)」でないのかなと推測しているという事だ。
by shingen1948 | 2019-06-19 09:45 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 今回の散策で鳥谷野の古墳については、浜井場古墳を中心に以下のように整理している。
 〇 黒岩虚空蔵堂・満願寺散策⑯~帰り道⑤
 https://kazenoshin.exblog.jp/239157356/
 〇 黒岩虚空蔵堂・満願寺散策⑰~帰り道⑥
 https://kazenoshin.exblog.jp/239158895/
 〇 黒岩虚空蔵堂・満願寺散策⑱~帰り道⑦
 https://kazenoshin.exblog.jp/239160674/
 これより以前にも「忘れられた古墳~浜井場古墳群」として整理したことがある。
 https://kazenoshin.exblog.jp/7319092/

 ここには、発掘調査された浜井場古墳に限らず、多くの同じ様な古墳群があったらしい。日常的な風景の中に古墳にかかわることが溶け込んでいることがあるらしい。
 散策を楽しむうえでは貴重な情報だと思うので、それらの情報を拾っておきたいと思う。

 まずは、二ツ石地区の字名由来。
 この字名は、明治16年の鳥谷野村字限図に記されるという。この二ツ石の字名の由来が二つの大石とかかわるらしい。
a0087378_18184468.jpg これは、先の散策でこの地区の八幡神社境内で見かけた大石とその案内柱だ。これは石室の上蓋とのことだ。
 明治43年に浜井場古墳と共に調査が行われ、金銅製刀装具、飾り金が出土したというが、その古墳にかかわるらしい。
 宅地化が進んで所在が分かりにくくなったので、平成7年に移動したものとのことだ。
by shingen1948 | 2019-06-18 18:19 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

鳥谷野舟橋②

 前回、架設費は小倉寺村と鳥谷野村とが折半して負担することになったらしいことにふれた。
 鳥谷野村ではその負担分を36戸で賄ったとのことだが、小倉寺村ではまとまらずに、大巻の佐藤某と膝付の八巻某の2戸だけでその費用を負担したとのことだ。
 そして、「鳥谷野舟橋余韻」本文では、以下の渡り賃でこの橋の管理維持費を捻出したのだと記される。
 
 「費用負担者は除き、徒歩は1銭、馬が2銭、馬車が4銭」、

 明治40年には、以下の渡り賃になったことが、その資料から読み取れる。

 「人力車一人曳1銭6厘、荷車一人曳2銭、牛馬2銭、荷馬車3銭、人1銭、自転車2銭5厘」
 (※ 乗客、貨物、馬丁、車夫、人足込みだと、人力車一人曳2銭6厘、二人曳3銭6厘、荷車3銭、荷馬車6銭、牛馬3銭、長持ち2銭4厘)

 なお、「ふるさとの想い出写真集」によると、松齢橋の渡り賃は以下のようだったとある。
 
 「人1銭、人力車2銭、一頭曳馬牛車4銭、それに明治36年からは自転車2銭」

 微妙には違いがあるようだが、ほぼ同じような料金設定だったようだ。

 「ふるさとの想い出写真集」によると、明治25年にはこの船橋を渡る道筋が県道に編入されたと解説されている。このことについて確認する。

 まずは、「鳥谷野舟橋余韻」。
 この資料に、この橋を明治23年11月24日より明治30年5月7日まで継年期として、その名称を仮県道2等阿武隈川とすることが記されている。

 次に、明治41年(1908)と昭和6年(1931)の地図を確認する。
 名称はないが松嶺橋共に、阿武隈川を渡る太い道筋が描かれている。天神橋のあたりは渡し場らしきものが描かれている。
 なお、昭和47年(1972)頃の地図ではこの道筋が消えて、蓬莱橋、弁天橋、天神橋、そして、お大仏橋が描かれる。
 
 鳥谷野舟橋の役割は蓬莱橋に引き継がれるわけだが、「ふるさとの想い出写真集」には、その変換にかかわって、蓬莱橋竣工が昭和14年だが、鳥谷野舟橋はその後2年ほどは人に限って通行が許されたとの紹介がある。ただ、再修理されることはなくそのまま撤去されたとの事だ。
by shingen1948 | 2019-06-17 17:47 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)