人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

<   2019年 05月 ( 11 )   > この月の画像一覧

鳥谷野館⑨

 鳥谷野館について地元の郷土誌で確認してきた。
 今までの見え方と少し違ってきたのは、鳥谷野館が、対岸の川俣道からの渡河点にある事の意義だ。

 「鳥谷野館③」の整理でふれたように、鳥谷野館は信夫、伊達両郡の阿武隈川の自然堤防段丘上に並ぶ大仏(または杉ノ目)・本内・鎌田・桑折・伊達崎・堀江・大枝・五十沢などの中世館の最も上流に位置する要衝だ。
 それぞれの城は阿武隈川を挟んだ対岸の主要幹線の渡河点を持ち、この交通・軍事の重要地点をおさえているという言い方に、防御の機能をイメージしていたように思う。しかし、考えてみれば、阿武隈川自体がその防御機能を果たしている。
 普段は防御の機能でよいのだと思うが、いざという時には、逆に簡単に渡河できるということが重要になてくるという事のようなのだ。

 伊達天正日記の天正16年5月25日の条には、次のように政宗公が小倉寺観音に参詣して鳥谷野の渡河点を通過する記載があるという。
 『さる廿五日一天気曇申候、雨少しつつふり申候、むかい渡利のどう御覧し候てとや野へ瀬舟にて御越候……』
 東安達の石川弾正攻めが一段落した政宗公が、小倉寺観音に参詣して、戦勝処理と次の作戦を練るために大森城に帰る時の様子とのことだ。

 このことにかかわる機能とのかかわりだ。
 大軍勢のはずであり、騎乗の武士、糧秣の車などを想定し、これを迅速にさせる必要があるということだ。
 「鳥谷野舘の考察」では、この対応には多くの舟が必要になるはずと推定し、船頭が鳥谷野船場まで迅速に移動可能な距離の村々の渡舟と漁船を信達二郡村史から数えあげている。
 そして、舟の調達を命じられた城主は、軍がこの渡河点に到着するまでにこの調達を完了しなければならなかったはずだと推定する。

 このいざという時には簡単に渡河できるという観点で鳥谷野渡河点を見直すと、大森城からは最短の渡河地点という見え方になる。

 先に「鳥谷野渡し跡」として整理した記事の中に、鳥谷野渡し跡に掲げられる渡河案内にふれた。 この渡河のうち、「天正13年10月この船場を渡河し観音様に参詣して渡河」は、この「伊達天正日記」によっていることが分かるが、その他は言い伝えでしかない。
 しかし、大森城から最短の渡河地点という見え方でみると、自分の中では「今から404年前の天正13年伊達政宗の軍勢が東安達に出陣し粟の須で戦死した政宗の父 稙宗の遺骸を守る軍勢が天正13年10月この船場を渡河したとも伝えられる」の部分にも説得力を増していると感じる。
 https://kazenoshin.exblog.jp/7314997/
by shingen1948 | 2019-05-29 10:34 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

鳥谷野館⑧

 今回、もう一度鳥谷野館についての資料を確認するのに、福島県立図書館で「鳥谷野館」を検索したら、以下の図書が紹介された。
 1 「市内遺跡試掘調査報告 平成13年度(福島市埋蔵文化財報告書)」
 2 「鳥谷野舘の考察【すぎのめ14号】」
 3 「鳥谷野館と永京寺【すぎのめ8号】」
 4 「阿武隈川岸鳥谷野舘屋敷【すぎのめ5号】」
 5 「鳥谷野舘址の碑について【すぎのめ2号】」
 まずは、これに目を通そうと思った。

 そうこうしているうちに、福島県立図書館のレファレンス事例詳細の問いに「北畠顕国の子孫が福島市鳥谷野の名主羽田家というのは本当か」というのがあって、面白そうだなと思った。
その回答に使われる資料が以下の冊子のようだったので、これも一緒に借りることにした。
 1 「鳥谷野館と永京寺(羽田稔)【すぎのめ8号】」~『羽田宗家系図』により顕国に繋がるとの記述あり
 2 「秦、畑、畠、波多、波田、羽田壱族(羽田稔) 【すぎのめ24号】」~「顕国の子孫は羽田氏を号して世々福島の鳥谷野に住す」との記述あり

 今回は、浜井場古墳についても再確認したかったので、「浜井場古墳群(柴田俊彰) 【すぎのめ26号】」も一緒に借りた。

 前回までに、「鳥谷野舘の考察」と「鳥谷野館と永京寺」を参考に、羽田氏が舘主であった時代があったらしいというところまで想像を膨らませた。
 福島県立図書館のレファレンス事例詳細の問いはその羽田家にかかわる。当然、確認はしているが、今回は個人的に楽しんだままにしておく。

 「黒岩虚空蔵・満願寺」を整理した時に、小倉寺村太蔵寺も「福島市史」で確認しているのだが、この時に「弁天山の椿舘・西物見山・元屋敷は、前記中世文書に出る余部郷の地頭が拠った南党の城跡」とあるだけだったからだ。
 当然、弁天山の散歩の整理では「信達一統志」を元に案内される磐城判官政氏と「信達絵図」の持地遠江守氏が館主とされる説明に従っている。また、 南北朝時代には北畠顕家の一族北畠(春日)顕国が椿館主だったという案内もそのまま受け入れている。
 しかし、今回は資料の確認という立場で眺めているわけだ。
 その視点だと、少なくとも南北朝時代の館主の具体名を根拠とする資料名が見当たらないのだ。今のところ「余部郷の地頭が拠った南党の城跡」という「福島市史」の説明が一番具体的という状況なのだ。
by shingen1948 | 2019-05-27 16:56 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

鳥谷野館⑦

 「鳥谷野館と永京寺(羽田実)」によると、羽田氏が舘主であった時代もあるという。
 正平23年(1368)、北朝では応安元年にあたる年、羽田一郎左衛門行顕氏が杉妻荘鳥谷野郷を領して鳥谷野館に住したという。それ以来、天正18年頃まで羽田氏が代々館主であったらしい。
 天正19年(1591)に伊達氏は政宗公の時代、伊達郡、信夫郡などの旧領を召し上げられ岩出山城へ移される。
 この時に信夫郡は蒲生公の領地となるのだが、鳥谷野館主だった羽田四郎太夫氏は退隠を命ぜられるが、25貫文の土地が認められ、この地の庄屋になったということだ。
 「鳥谷野舘の考察」では、この時に羽田氏は岩出城に随行していないことから地頭領主的な性格の館主だったと推定している。

 先に、「ふくしまの歴史」で、この鳥谷野舘主について「伊達氏のもとで館主となった地頭は、この交通・軍事の重要な地点をおさえながら、鳥屋野村の地域を支配したのでしょう」と記されたことについてふれた。
 この「伊達氏のもとで館主となった地頭」という表現から、具体的には羽田氏を想定しているのではないかということが分かる。これが、220年続いていたということになるようだ。

 この時に蒲生氏郷公の客将木村吉清氏が大森城に入り信達5万石を支配するようになる。そして、文禄2年(1593)には、城を杉目に移し、その地を「福島」と命名したことはよく知られている。
 しかし、翌年にはその木村氏は上洛してしまい、この地を含む県北地区は蒲生氏の直轄地になってしまうということだ。
 後に、舘には代官所が置かれ、蒲生の臣吉宮勘右衛門が代官に任命されたらしいとのこと。
by shingen1948 | 2019-05-26 10:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

鳥谷野館⑦

 「鳥谷野館③」の整理段階では、創建の時期には諸説あることにふれ、その舘主は創建者の家臣、或は、その地の地頭とされる資料を羅列した。
 再掲する。

 〇 「鳥谷野舘の考察(羽田実)」では、この館主は佐藤氏の臣とする。
 「鳥谷野村誌」に館の創建にかかわって「本村中央より(鹿島神社境内)東南に当たり旧舘大熊川(阿武隈川)の上にあり、文治年中(1185~89)佐藤庄司基治の臣何某の居住と云ふ」とあるという。
 〇 日本城郭体系3「山形・宮城・福島の城郭」では鳥谷野館は「慶長年間の館」と解説されることについてふれたが、「鳥谷野村絵図の解説」では、天文年間にすでに舘は存在したことが解説される。
 〇 「ふくしまの歴史」でも、この鳥谷野舘については中世の「鳥谷野宿と鳥谷野下宿」の項でふれる。その館主については、「伊達氏のもとで館主となった地頭は、この交通・軍事の重要な地点をおさえながら、鳥屋野村の地域を支配したのでしょう」と記す。

 「鳥谷野舘の考察(羽田実)」を再確認したところ、舘主の具体名が紹介されていた。
 天文21年(1552)8月68歳で没した遠藤因幡守広継氏。14代稙宗か晴宗に仕えた伊達氏の上級武士とのことだ。
 その後半に、論拠となる家系図が紹介される。
 照らし合わせると、先の整理でふれた輝宗公の死に接し、54歳で殉死した基信氏とは別系の遠藤氏のようだ。こちらは「伊達世臣家譜略記」(巻5)の「一族」宿老として紹介されるが、遠藤因幡守広継氏の系の方は「伊達世臣家譜略記」(巻4)に「一族」として紹介される方の遠藤氏のようだ。

 藤原氏の流れで、遠藤武者盛遠すなわち文覚上人を祖とする。其先世に奥州志田郡松山に居城するとある。
 盛遠の後裔の遠藤盛継氏が、応永八年(1401年)鎌倉公方より志田・玉造・加美三郡の奉行に任じられて陸奥国に下向して、志田郡松山城に居城するようなので、この系でよさそうだ。
 遠藤盛継氏の子盛定氏は、伊達持宗公の麾下となり、盛行―行定―光定と続き、ここで論拠として紹介される家系図と繋がる。

 光定氏の嫡子定親氏が「遠藤出羽守定親 奥州志田郡松山千国城大館に居城す」と紹介される。
 この方は、伊達稙宗・晴宗に仕えて、一族に列せられ、三引三段頭紋を賜ったという。伊達家中を二分した「天文の乱」で晴宗方に付き、松山内の旧領を与えられたということで、論拠となる家系図の紹介と繋がる。
 天正16年(1588)の「大崎合戦」では、この城は伊達政宗公の前線基地になるようだが、その時の城主は定親氏の子の高康氏に代替わりしているようだ。
 
 遠藤因幡守広継氏の系は、光定氏の次弟遠藤伊賀守盛綱氏だ。
 論拠となる家系図では、「後に広田となり伊達晴宗に宗をもらい宗綱と名乗る」と紹介される。「天文の乱」では、宗家同様晴宗方に付いたことが想像できる。
 その盛綱(宗綱)氏の子に三人の子があり、その解説とのかかわりから「広田彦左衛門重綱」が長子であり、「遠藤新右衛門重広」氏が次男、そして、鳥谷野城主であった「遠藤因幡守広継氏」がその三男であろうことが分かる。

 なお、論拠となる家系図で、光定の参弟遠藤左近丞光氏は、「天文17年八丁目城より松山城に帰る廿八才死亡」と解説される。

 これらのことから、鳥谷野城主遠藤因幡守広継氏は「14代稙宗か晴宗に仕えた伊達氏の上級武士」とのことだったが、その主人は晴宗公でなかろうかと勝手に思うのだが、どうだろうか。
by shingen1948 | 2019-05-24 11:45 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

鳥谷野館⑥

 今までの整理は、先に資料と照らし合わせながら鳥谷野館付近を散策だ。この整理作業で、また、新たな情報に接している。
 この辺りの古い地図情報だが、おおよその現況と照らし合わせができる。

 その情報を元に、古い道筋を今までの情報に重ねてみる。
a0087378_11525932.png 読み取った旧福島道と田沢道につながる旧鳥谷野黒岩間の道筋を茶色のラインで示してみた。
 その他の古い道筋は黄色のラインで示してみた。

 旧舟橋の番小屋の情報と、旧大森道と旧福島道の呼称は、「鳥谷野橋余韻(羽田実)」の「鳥谷野舟橋周辺図」からの読み取りだ。

 なお、この辺りは、明治41年(1908)と昭和6年(1931)の地図では、現況の地図とは大きく違っている。この二つの地図の間に大きな変化は読み取れない。現況の地図から読み取れる状況に大きく変化するのは、昭和47年(1972)頃の地図だ。
 つまり、昭和6年から昭和47年にかけての間で大きな変化が起きているということだ。
 また、古い道筋としたのは昭和6年(1931)頃までの道筋ということだ。

 その時代の寺の位置が北に描かれているような気がする。
 「鳥谷野舘の考察」で描かれた「鳥谷野館復元想定図」の北東部分に「現存土塁の一部」としるされることとかかわりありそうな気がする。
by shingen1948 | 2019-05-23 11:54 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

鳥谷野館⑤

 前回、もう一つの信夫の渡しに行きつく道筋についてふれた。
 平石の古道道筋から乳児塚―附屋敷―扇田―古内―川原(郷野目)を経由する道筋を見た事を思い出したのだが、その出典まで思い出せなかった。確認したら「古代道(江代正一)」だった。
 先に、そこで紹介される森合の一杯森までの続くという東山道(後期駅路)を想像しながら歩いて見たのだが、その時この道筋を知ったようだ。
 その道筋が、東山道(後期駅路)から乳児塚で分かれた前期駅路で、附屋敷―扇田―古内を経由して郷野目村字向原まで北東に直進し、これが腰浜方面に向かうように描かれていたのを思い出した。
 解説では、ここから坿屋敷(大森川、旧荒川の河岸段丘)斜向道路―下宿―渡利―腰の浜へ向かうように表現されていた。

 さて、先に、鳥谷野舘について「ふくしまの歴史(中世)」でふれられている事について記した。
 その項が「鳥谷野宿と鳥谷野下宿」ということだ。
 ここでは、鳥谷野宿は鳥谷野下宿に対して、鳥谷野上宿として中ノ内を想定している。その鳥谷野下宿についても下宿という地名があるということだけで、その実態の解説はない。
 ここから賑わいが想像されるということであり、その賑わいの要因の一つが交通の要地であるということであり、中ノ内はその交通の要地の要としての鳥谷野舘の城下町的な位置にあったという関係性だ。

 その交通の要地にかかわっては、次のように表現される。
 「鳥谷野の中ノ内は、八丁目(松川)から黒岩を通って郷野目に向かう道が通り、また、川俣方面からの道が小倉寺の中ノ内から阿武隈川を渡って合流する地点でした」

 「鳥谷野の中ノ内は、八丁目(松川)から黒岩を通って郷野目に向かう道が通り」とあることから、鳥谷野館とかかわる古道は、「鳥谷野舘の考察」の羽田氏と同様に「田沢道」に近い道筋を想定していることが分かる。「郷野目に向かう道が通り」が福島道で下宿に向かう道である。

 これに「古代道(江代正一)」が描く乳児塚で分かれた前期駅路を重ねてみると、川原(郷野目)から目指した下宿というのがこの鳥谷野の下宿であることが分かる。
 「ふくしまの歴史(中世)」で鳥谷野上宿が中ノ内で、それに対しての下宿だとした辺りの地名だ。
 鳥谷野館とかかわる古道は、この下宿から荒川と阿武隈川の間の道筋を進んで、信夫の渡しで川を越えて北進し、腰浜廃寺脇を通るということだったが、これも「古代道(江代正一)」が表見する「下宿―渡利―腰の浜へ向かう」という道筋と重なるということだ。
by shingen1948 | 2019-05-19 10:47 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

鳥谷野館④

 信夫、伊達郡の阿武隈川の自然堤防段丘上の中世舘の共通点として二つの要素が挙げられている。

 その一つが、阿武隈川の渡しがあった要地であることだ。
 この事は、鳥谷野館も含めた全ての館に共通する事とされる。気になるのは、もう一つの特徴の方だ。
 それが、鳥谷野以外は奥大道が通る地点であると紹介される事だ。
 この表記だと、鳥谷野館は例外としての取り扱いのように見えるが、そうではないらしい。
 その奥大道に匹敵する古道の道筋が諸説あって確定できていないということのようだ。しかも、ここを語る時には、古道の道筋の自説を前提とされるのだ。
 いくつかの散策資料を参考にする時には、その方の考える古道の道筋を確かめていかないと混乱してしまうことがある。

 「鳥谷野舘の考察」の羽田氏が考える鳥谷野館とかかわる古道は、まだ詳しく確認は確認していないが、八丁目から田沢、黒岩虚空蔵、宮ノ下を経由して八郎内から鳥谷野に入る道筋のようなのだ。 これは、先の黒岩虚空蔵満願寺の散策で確認した「田沢道」に近い道筋だと思われる。
 ここからは、阿武隈川沿いを上り信夫の渡しに行きつくということだ。
 その信夫の渡しを渡った船場町から先の道筋は、先の腰浜廃寺にかかわって散策した道筋がかかわってくるということだ。

 この信夫の渡しに行きつく道筋については、もう一つの説を見たことがある。
 先に「旧道諸説を歩いて見る」で整理した道筋から分かれて、乳児塚―附屋敷―扇田―古内、そして、ここから郷野目の向川原を経由して信夫の渡しに行きつくという道筋だ。

 どちらの場合も、この信夫の渡しに行きつくという道筋をイメージするには、ここに阿武隈川筋の変化情報を重ねなければならないようだ。

 この時代の阿武隈川筋は、弁天山際を回り込んでいて、現況の阿武隈川の川筋とは違うのだとか。 現況の荒川との合流地点から先は荒川の川筋になるのだという。
 信夫の渡しに行きつく道筋は、その荒川の川筋と阿武隈川の川筋の間を通っていたと観るらしいのだ。そして、その当時の荒川の川筋を渡るのが信夫の渡しということになるようだ。
 その地点だが、とりあえず現況では阿武隈川筋になるが、ここに「信夫の渡し」の案内板のある地点と同じだとイメージしておくことにする。現松齢橋の少し下流の地点だ。
by shingen1948 | 2019-05-15 11:38 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

鳥谷野館③

 「福島の村絵図【福島市文化財調査報告書39集】」の鳥屋野村絵図の解説から、前回までの鳥谷野館の位置とかかわる部分については、次のように記す。

 「仲ノ内の南西、林の中に見える寺院は臨済宗永京寺。ほぼ方形をなすその境域は、かつての鳥谷野館の郭内であり、その西と北にみえる田は館の堀のなごりである」
 
 ここから、鳥谷野館の郭内は「鳥谷野館の考察が推定する旧舘跡」であることが想像され、「埋蔵文化財関係者等が推定する旧舘跡」は、館の北の堀をも含んでいることが想像される。
 
 「鳥谷野舘の考察(羽田実)」では、この館主は佐藤氏の臣とする。
 「鳥谷野村誌」に館の創建にかかわって「本村中央より(鹿島神社境内)東南に当たり旧舘大熊川(阿武隈川)の上にあり、文治年中(1185~89)佐藤庄司基治の臣何某の居住と云ふ」とあるというのだ。

 先に日本城郭体系3「山形・宮城・福島の城郭」では鳥谷野館は「慶長年間の館」と解説されることについてふれたが、「鳥谷野村絵図の解説」では、次のように天文年間にすでに舘は存在したことが解説される。
 
 「対岸の川俣道からの渡河点を抑える鳥谷野館は、戦国期天文11年(1542)~17年(1548)の伊達氏天文の乱の関係資料にも現れている。信夫、伊達両郡の阿武隈川の自然堤防段丘上には、鳥屋野・大仏(または杉ノ目)・本内・鎌田・桑折・伊達崎・堀江・大枝・五十沢などの中世館が連なるが、鳥屋野はそれらのもっとも上流に位置する要衝であった」

 「ふくしまの歴史」でも、この鳥谷野舘については中世の「鳥谷野宿と鳥谷野下宿」の項でふれる。その館主については、「伊達氏のもとで館主となった地頭は、この交通・軍事の重要な地点をおさえながら、鳥屋野村の地域を支配したのでしょう」と記す。
 また、「鳥谷野村絵図の解説」で紹介された信夫、伊達両郡の阿武隈川の自然堤防段丘上の中世舘の全てが阿武隈川の渡しがあった要地とし、鳥谷野以外は奥大道が通る地点であることが付け加えられる。

 なお、「鳥谷野村絵図の解説」では、臨済宗永京寺は鳥谷野館が廃された後に建立されたが、「鹿島社ははるかに古い歴史を持つことだけは疑いない」と付け加えている。
by shingen1948 | 2019-05-12 12:07 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

鳥谷野館②

 マホロンの「遺跡データベース」の鳥屋野館跡は、もっと広い範囲が表示される。東西と南側は「鳥谷野舘の考察」の遺稿図と重なるが、北側は字柴切から太平寺に繋がる道筋のところまでを館跡とする。
 「市内遺跡試掘調査報告 平成13年度(福島市埋蔵文化財報告書)」とも見比べて、埋蔵文化財関係者が推定する鳥谷野館跡のイメージを重ねてみるとこんな感じだろうか。
 紺色のラインが埋蔵文化財関係者の推定する鳥谷野館跡、赤のラインが鳥谷野舘の考察の推定する鳥谷野館跡ということだ。
a0087378_9592429.jpg 今まで散策してふれた事のある地点も重ねて表示してみた。

 なお、地域の案内板では、「旧舟橋」と「鳥谷野渡跡」が逆に説明されているように思う。ここでは、「旧舟橋」は、杉ノ内地蔵堂のある字柴切から太平寺に繋がる道筋の延長線上にあり、それより100m上流に鳥谷野渡しがあるという渡利側に立つ案内板の説明に従ってみた。
by shingen1948 | 2019-05-10 09:59 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

鳥谷野館

 今回このあたりの散策を整理してこの辺りの散策は既に整理していたはずと思っていた。
 しかし、実際にはその形跡がなかったので、黒岩虚空蔵尊満願寺の散策とのかかわりで整理してきたところだ。
 その整理を通して分かってきたのは、このあたりは資料で確認しながら散歩していたらしいということだ。それで、すでに整理していると思い込んでいたということのようだ。
 特に、鳥谷野館と浜井場古墳については、手持ち資料の不足分を補う資料を図書館で探しながら散策していたようだ。
 それで、この二か所について、あらためてその資料と照らし合わせながら整理してみる。

 まずは、鳥谷野館。
 日本城郭体系3「山形・宮城・福島の城郭」では、その他の城郭一覧で、331番目に「慶長年間の館」との付記で記されるのみで詳しい解説はない。
 「すぎのめ第14号(福島市杉妻地区史跡保存会)」に、「鳥谷野舘の考察(羽田実)」の寄稿文がある。
 そこに昭和13年の耕地整理前の風景と照らし合わせて推定した旧舘跡の遺稿図が載っている。
 先の散策では、この図と地図とを見比べて鳥谷野館の位置を確認したうえで、散歩を楽しんでいたようだ。
a0087378_16243671.jpg
 今回の整理の「黒岩虚空蔵堂・満願寺散策⑬~帰り道②」で、その後半で「福島の村絵図Ⅰ」の情報から鳥谷野舘を想像しているが、この鳥谷野館の位置確認の上に、村絵図の情報を重ねてみたということだ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/239148730/
 この時に、館の西側と北側については記しているが、南側と東側についてはふれていなかった。
 遺稿図からは、館の東側も道沿いだが、南側は門前の通りより更にもう一本南側の道沿いであるように読み取っていることを付け加える。
by shingen1948 | 2019-05-06 16:24 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)