人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

<   2019年 05月 ( 6 )   > この月の画像一覧

鳥谷野館⑤

 前回、もう一つの信夫の渡しに行きつく道筋についてふれた。
 平石の古道道筋から乳児塚―附屋敷―扇田―古内―川原(郷野目)を経由する道筋を見た事を思い出したのだが、その出典まで思い出せなかった。確認したら「古代道(江代正一)」だった。
 先に、そこで紹介される森合の一杯森までの続くという東山道(後期駅路)を想像しながら歩いて見たのだが、その時この道筋を知ったようだ。
 その道筋が、東山道(後期駅路)から乳児塚で分かれた前期駅路で、附屋敷―扇田―古内を経由して郷野目村字向原まで北東に直進し、これが腰浜方面に向かうように描かれていたのを思い出した。
 解説では、ここから坿屋敷(大森川、旧荒川の河岸段丘)斜向道路―下宿―渡利―腰の浜へ向かうように表現されていた。

 さて、先に、鳥谷野舘について「ふくしまの歴史(中世)」でふれられている事について記した。
 その項が「鳥谷野宿と鳥谷野下宿」ということだ。
 ここでは、鳥谷野宿は鳥谷野下宿に対して、鳥谷野上宿として中ノ内を想定している。その鳥谷野下宿についても下宿という地名があるということだけで、その実態の解説はない。
 ここから賑わいが想像されるということであり、その賑わいの要因の一つが交通の要地であるということであり、中ノ内はその交通の要地の要としての鳥谷野舘の城下町的な位置にあったという関係性だ。

 その交通の要地にかかわっては、次のように表現される。
 「鳥谷野の中ノ内は、八丁目(松川)から黒岩を通って郷野目に向かう道が通り、また、川俣方面からの道が小倉寺の中ノ内から阿武隈川を渡って合流する地点でした」

 「鳥谷野の中ノ内は、八丁目(松川)から黒岩を通って郷野目に向かう道が通り」とあることから、鳥谷野館とかかわる古道は、「鳥谷野舘の考察」の羽田氏と同様に「田沢道」に近い道筋を想定していることが分かる。「郷野目に向かう道が通り」が福島道で下宿に向かう道である。

 これに「古代道(江代正一)」が描く乳児塚で分かれた前期駅路を重ねてみると、川原(郷野目)から目指した下宿というのがこの鳥谷野の下宿であることが分かる。
 「ふくしまの歴史(中世)」で鳥谷野上宿が中ノ内で、それに対しての下宿だとした辺りの地名だ。
 鳥谷野館とかかわる古道は、この下宿から荒川と阿武隈川の間の道筋を進んで、信夫の渡しで川を越えて北進し、腰浜廃寺脇を通るということだったが、これも「古代道(江代正一)」が表見する「下宿―渡利―腰の浜へ向かう」という道筋と重なるということだ。
by shingen1948 | 2019-05-19 10:47 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

鳥谷野館④

 信夫、伊達郡の阿武隈川の自然堤防段丘上の中世舘の共通点として二つの要素が挙げられている。

 その一つが、阿武隈川の渡しがあった要地であることだ。
 この事は、鳥谷野館も含めた全ての館に共通する事とされる。気になるのは、もう一つの特徴の方だ。
 それが、鳥谷野以外は奥大道が通る地点であると紹介される事だ。
 この表記だと、鳥谷野館は例外としての取り扱いのように見えるが、そうではないらしい。
 その奥大道に匹敵する古道の道筋が諸説あって確定できていないということのようだ。しかも、ここを語る時には、古道の道筋の自説を前提とされるのだ。
 いくつかの散策資料を参考にする時には、その方の考える古道の道筋を確かめていかないと混乱してしまうことがある。

 「鳥谷野舘の考察」の羽田氏が考える鳥谷野館とかかわる古道は、まだ詳しく確認は確認していないが、八丁目から田沢、黒岩虚空蔵、宮ノ下を経由して八郎内から鳥谷野に入る道筋のようなのだ。 これは、先の黒岩虚空蔵満願寺の散策で確認した「田沢道」に近い道筋だと思われる。
 ここからは、阿武隈川沿いを上り信夫の渡しに行きつくということだ。
 その信夫の渡しを渡った船場町から先の道筋は、先の腰浜廃寺にかかわって散策した道筋がかかわってくるということだ。

 この信夫の渡しに行きつく道筋については、もう一つの説を見たことがある。
 先に「旧道諸説を歩いて見る」で整理した道筋から分かれて、乳児塚―附屋敷―扇田―古内、そして、ここから郷野目の向川原を経由して信夫の渡しに行きつくという道筋だ。

 どちらの場合も、この信夫の渡しに行きつくという道筋をイメージするには、ここに阿武隈川筋の変化情報を重ねなければならないようだ。

 この時代の阿武隈川筋は、弁天山際を回り込んでいて、現況の阿武隈川の川筋とは違うのだとか。 現況の荒川との合流地点から先は荒川の川筋になるのだという。
 信夫の渡しに行きつく道筋は、その荒川の川筋と阿武隈川の川筋の間を通っていたと観るらしいのだ。そして、その当時の荒川の川筋を渡るのが信夫の渡しということになるようだ。
 その地点だが、とりあえず現況では阿武隈川筋になるが、ここに「信夫の渡し」の案内板のある地点と同じだとイメージしておくことにする。現松齢橋の少し下流の地点だ。
by shingen1948 | 2019-05-15 11:38 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

鳥谷野館③

 「福島の村絵図【福島市文化財調査報告書39集】」の鳥屋野村絵図の解説から、前回までの鳥谷野館の位置とかかわる部分については、次のように記す。

 「仲ノ内の南西、林の中に見える寺院は臨済宗永京寺。ほぼ方形をなすその境域は、かつての鳥谷野館の郭内であり、その西と北にみえる田は館の堀のなごりである」
 
 ここから、鳥谷野館の郭内は「鳥谷野館の考察が推定する旧舘跡」であることが想像され、「埋蔵文化財関係者等が推定する旧舘跡」は、館の北の堀をも含んでいることが想像される。
 
 「鳥谷野舘の考察(羽田実)」では、この館主は佐藤氏の臣とする。
 「鳥谷野村誌」に館の創建にかかわって「本村中央より(鹿島神社境内)東南に当たり旧舘大熊川(阿武隈川)の上にあり、文治年中(1185~89)佐藤庄司基治の臣何某の居住と云ふ」とあるというのだ。

 先に日本城郭体系3「山形・宮城・福島の城郭」では鳥谷野館は「慶長年間の館」と解説されることについてふれたが、「鳥谷野村絵図の解説」では、次のように天文年間にすでに舘は存在したことが解説される。
 
 「対岸の川俣道からの渡河点を抑える鳥谷野館は、戦国期天文11年(1542)~17年(1548)の伊達氏天文の乱の関係資料にも現れている。信夫、伊達両郡の阿武隈川の自然堤防段丘上には、鳥屋野・大仏(または杉ノ目)・本内・鎌田・桑折・伊達崎・堀江・大枝・五十沢などの中世館が連なるが、鳥屋野はそれらのもっとも上流に位置する要衝であった」

 「ふくしまの歴史」でも、この鳥谷野舘については中世の「鳥谷野宿と鳥谷野下宿」の項でふれる。その館主については、「伊達氏のもとで館主となった地頭は、この交通・軍事の重要な地点をおさえながら、鳥屋野村の地域を支配したのでしょう」と記す。
 また、「鳥谷野村絵図の解説」で紹介された信夫、伊達両郡の阿武隈川の自然堤防段丘上の中世舘の全てが阿武隈川の渡しがあった要地とし、鳥谷野以外は奥大道が通る地点であることが付け加えられる。

 なお、「鳥谷野村絵図の解説」では、臨済宗永京寺は鳥谷野館が廃された後に建立されたが、「鹿島社ははるかに古い歴史を持つことだけは疑いない」と付け加えている。
by shingen1948 | 2019-05-12 12:07 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

鳥谷野館②

 マホロンの「遺跡データベース」の鳥屋野館跡は、もっと広い範囲が表示される。東西と南側は「鳥谷野舘の考察」の遺稿図と重なるが、北側は字柴切から太平寺に繋がる道筋のところまでを館跡とする。
 「市内遺跡試掘調査報告 平成13年度(福島市埋蔵文化財報告書)」とも見比べて、埋蔵文化財関係者が推定する鳥谷野館跡のイメージを重ねてみるとこんな感じだろうか。
 紺色のラインが埋蔵文化財関係者の推定する鳥谷野館跡、赤のラインが鳥谷野舘の考察の推定する鳥谷野館跡ということだ。
a0087378_9592429.jpg 今まで散策してふれた事のある地点も重ねて表示してみた。

 なお、地域の案内板では、「旧舟橋」と「鳥谷野渡跡」が逆に説明されているように思う。ここでは、「旧舟橋」は、杉ノ内地蔵堂のある字柴切から太平寺に繋がる道筋の延長線上にあり、それより100m上流に鳥谷野渡しがあるという渡利側に立つ案内板の説明に従ってみた。
by shingen1948 | 2019-05-10 09:59 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

鳥谷野館

 今回このあたりの散策を整理してこの辺りの散策は既に整理していたはずと思っていた。
 しかし、実際にはその形跡がなかったので、黒岩虚空蔵尊満願寺の散策とのかかわりで整理してきたところだ。
 その整理を通して分かってきたのは、このあたりは資料で確認しながら散歩していたらしいということだ。それで、すでに整理していると思い込んでいたということのようだ。
 特に、鳥谷野館と浜井場古墳については、手持ち資料の不足分を補う資料を図書館で探しながら散策していたようだ。
 それで、この二か所について、あらためてその資料と照らし合わせながら整理してみる。

 まずは、鳥谷野館。
 日本城郭体系3「山形・宮城・福島の城郭」では、その他の城郭一覧で、331番目に「慶長年間の館」との付記で記されるのみで詳しい解説はない。
 「すぎのめ第14号(福島市杉妻地区史跡保存会)」に、「鳥谷野舘の考察(羽田実)」の寄稿文がある。
 そこに昭和13年の耕地整理前の風景と照らし合わせて推定した旧舘跡の遺稿図が載っている。
 先の散策では、この図と地図とを見比べて鳥谷野館の位置を確認したうえで、散歩を楽しんでいたようだ。
a0087378_16243671.jpg
 今回の整理の「黒岩虚空蔵堂・満願寺散策⑬~帰り道②」で、その後半で「福島の村絵図Ⅰ」の情報から鳥谷野舘を想像しているが、この鳥谷野館の位置確認の上に、村絵図の情報を重ねてみたということだ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/239148730/
 この時に、館の西側と北側については記しているが、南側と東側についてはふれていなかった。
 遺稿図からは、館の東側も道沿いだが、南側は門前の通りより更にもう一本南側の道沿いであるように読み取っていることを付け加える。
by shingen1948 | 2019-05-06 16:24 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 多分どうでもいい事なのだと思うが、「神祇志料(栗田寛)」に記される祭日と境内に掲げられる「延喜式内社正一位郷社鹿島神社由緒」の案内板に記される祭日が一月違う。
 「神祇志料(栗田寛)」では「凡其祭九月九日之を行ふ」とするが、案内板では、「例祭日十月第一日曜日(旧十月九日本祭り)」とする。

 現在の社殿は鉄筋コンクリート造で、散策する者としては趣的に残念に思うが、その社殿の履歴を見ると、管理上仕方がないのだろうなとも思う。
 由緒とこの履歴と照らし合わせると、その重要なポイントが天明元年(1781)4月社殿焼失の翌年同2年(1781)2月に拝殿が建立されたことにあることが分かる。
 この天明2年(1781)2月の拝殿建立は鳥谷野羽田喜三郎氏がかかわるとあり、その七月に「正一位」の勅宣奉授を授けられとある。その折に、京都より神輿を購入したともある。

 ちょっと深入りしているのは、この写真とのかかわりだ。
a0087378_10161282.jpg この「杉内地蔵堂と六部の墓」を撮ったのは先の散策の折で、これを整理するつもりもんかったのだが、注目は以下の解説だ。

 「『杉内地蔵堂と六部の墓』
 羽田家が移り住む享保7年(1722)以前より安置されており、子育地蔵として深く信仰されている。
六部の墓は鹿島神社信州高遠石工とつながりがあり、無縁の母の墓であるが羽田家が先祖より丁重に供養している」

 杉内地蔵堂そのものよりも、ここに登場する羽田家が、鹿島神社石工とのかかわりで六部の墓を供養しているということとのかかわりで、拝殿建立の鳥谷野羽田喜三郎氏ともかかわるのかなという勝手な想像が働いたのだ。

 また、年代が合わないのだが、古本の検索で、この鳥谷野羽田喜三郎氏と同姓同名の別情報がかかる。
 羽田暁雲斎という弘化元年(1844) 岩代国信夫郡杉妻村鳥谷野生まれの華道家の本名が、羽田喜三郎ということだ。
 かかわりがあるのかどうかは分からないのだが、鳥谷野地区がそれほど広い範囲ではないので気になる。

 なお、ここで六部の墓とある「六部」は、本来は日本回国大乗妙典六十六部経聖を指すようだ。
 ただ、案内から行脚僧ではなく俗人であるように読み取れる。
 特に江戸時代以降には、この諸国巡礼が俗人にも流行ったそうだ。
 鼠木綿の着物と手甲、それに脚絆、甲掛、股引をつけて、背に仏像を入れた厨子を背負って鉦や鈴を鳴らして米銭を請い歩いていたという。
 この「六部の墓」は、その巡礼途中で亡くなった方ということなのだろうと思う。
by shingen1948 | 2019-05-01 10:19 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)