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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

<   2019年 03月 ( 17 )   > この月の画像一覧

 「黒岩虚空蔵堂・満願寺散策⑳~帰り道⑨」で、「大同年間(806~810)に田村麻呂が蝦夷征伐の折、千手観音の擁護を受け平定することができたことから、舟岡権僧正に命じ千手観音像を造らせ安置した」という事になるという情報源は、江戸時代の「信達風土雑記」であることについてふれた。

 以下が、その「信達風土雑記」の小倉寺邑にかかわる部分だと思われる。

 小倉寺邑此嚮(?シリナいし)其慈愛心忽有霊應而得誅之平夷於東國而令天下安穏也斯時将軍歓喜不斜即命使舟岡権僧正於富國撰霊地應造建大佛及佛像之趣也僧正羨(?)命普尋近郡未見竒峰千愛當郡信夫之山中有霊木而毎夜於光也以故村民等告之比丘到彼處見之實為竒異大樹矣即抿(?)佛工令彫刻焉不日而大小尊像得為一千軀也僧正欣悦甚大則於所伐之大樹下而造立殿堂姿置所成之千手菩薩併為千軀之佛四天王等而令為永鎮護國家也殿宇経年雖異昔日本尊建數百大像於今歴然炳煥也具有縁由残焉

 「千手観音像」を意識的しながら散策するが、ここでは「千手菩薩併為千軀之佛」とのことだ。  「千手菩薩」と共に「千軀之佛」を意識することも大切のようだ。
 この「千軀之佛」にかかわっているのが大蔵寺の小さな破損仏なのだろう。
 「ふくしまの歴史」によれば、収蔵庫には、本尊木造千手観音菩薩立像と共に、この破損仏が19体安置されているという。また、奥の院には木造観音菩薩立像と破損仏6体、観音堂には木造観音菩薩立像が安置されるという。これらも「千軀之佛」の中の一体ということのようだ。
 深入りはしないとして先にちらりとふれたが、「霊鷲山出現の丈六阿弥陀如来坐像頭部(鈴木啓)【福島史学研究(87号)】」では、この大蔵寺の「千軀之佛」に里の霊山寺から移入された仏像が含まれているのではという大胆な仮説を提示しているということだ。

 黒岩虚空蔵堂・満願寺散策の帰り道に立ち寄ったこととかかわるのはこの辺りまでだが、ちょっと気になっているのが鹿島神社だ。
 半沢氏の「歴史地図」では、その位置をプロットするが、何のメモも記さない。
by shingen1948 | 2019-03-30 12:13 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 霊山寺が、領主藤原朝臣田原中納言勝稙卿によって、古霊山の地より里の霊山寺の地へ還るのは、永観に2年(984)とのことだ。<「霊鷲山出現の丈六阿弥陀如来坐像頭部(鈴木啓)【福島史学研究(87号)】」より>
 この時の開眼は、「霊山寺の学頭『船岡の大僧正』尊海勤められる由、霊山への小棟札に記せり」とあるとのこと。その法流の儀式は、天台宗山門派の一派である三昧一派だったとのことだ。
 再掲になるが、この情報に「福島市史」の大蔵寺創設にかかわる情報を重ねる。

 「はじめ行基が丈六の千手観音ならびに千体仏を安置し、弘仁年間(810~24)舟岡権大僧正が開眼供養し、信達千八百坊の首座」とする。
 
 舟岡権大僧正は霊山寺の学頭であり、その法流は天台宗山門派の一派である三昧一派ということになる。

「福島市史」では、この情報と大蔵寺の移動との関りを次のように整理している。

 「大蔵寺村の(大蔵寺の)伽藍が廃れた後、阿武隈川東岸に寺域を移し、さらに千手院が古くから建立されていた経塚山(一名小倉寺)中腹に動座した」

 はっきりと断定はしないが、大蔵寺村に創建された大蔵寺は、春日神社も考慮すれば法相宗だったかもしれない事をにおわせている。
 そして、経塚山(一名小倉寺)には古くから千手院が建立されていたのだが、大蔵寺が衰退した伽藍の再興のために、その小倉寺に動座したと捉えているように思える。

 半沢氏がかかわる「清明学区の歴史」では、大蔵寺は元々霊山寺と同じくかつては天台宗であったらしいとして、次のように記す。

 「奈良後期には腰浜に大伽藍が建立され、以降平安初期には小倉寺山上にも大蔵寺が建ち、そこには丈六の千手観音が祀られた。これは東北開拓のため、蝦夷の教化を行う手段としての文化政策で……」

 このような見え方の違う情報に接した時に、どちらが事実なのか考えてしまっては、散策を楽しむことはできない。
 専門家ではないのだから、その見え方の違いに沿って両方の見え方で散策を楽しんでしまえばいい。そういう心持ちになれるようになったのは最近のような気がする。
 この黒岩・鳥谷野・小倉寺辺りは何度も散策しているのに、なかなか整理することができないでいたのはそのこととかかわるのかもしれない。
by shingen1948 | 2019-03-28 11:38 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 伊達郷を含む信夫郡の陸奥の三山として由緒ある古代寺院は、大蔵寺・菩提寺・仁部(仁生)寺とされるらしい。
 この中で、散策人にとって分かりやすいのが菩提寺だ。この「菩提寺」は、山階寺の僧智興が信夫郡に開いたと『類聚国史』に記されているとのことだが、これが、先の散策で整理した「湯野西原廃寺」らしいとのことだ。
 先の霊山寺の発掘調査時に、鈴木氏が、山階寺の僧智興は、徳一と興福寺で同窓であるという話を聞いた。
 「黒岩虚空蔵堂・満願寺散策⑮~帰り道④」で、ちょっとふれた「霊鷲山出現の丈六阿弥陀如来坐像頭部(鈴木啓)【福島史学研究(87号)】」でも同じように記してる。
 また、その徳一の恵日寺と廃寺の金堂規模の大きさの比較から同時期と推定していたわけだが、加えて、定額寺に昇格するのが830年だから、当然創建はそれ以前のはずだという事も論拠とする。

 徳一の恵日寺と比較する話は、個人的にも分かりやすい。
 というのは、学生時代、菅野宏先生に会津出身なのに恵日寺の徳一を知らないのはおかしいと言われて急遽、恵日寺に出かけ、御住職にお話を伺った。それ以来分からないながらも興味を持っていたということがある。
 西原廃寺は何度か散策していたのだが、この「菩提寺」を意識して西原廃寺の散策をし直して、「再び『西原廃寺』」として整理し直している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/i31/1/  

 ここに、今回確認した大蔵寺の創建にかかわる情報を並べてみる。
 言い伝えでは大同2年(807)に徳一が開創のようだ。ただ、江戸時代の「信達風土雑記」によると、大同年間(806~810)に田村麻呂が蝦夷征伐の折、千手観音の擁護を受け平定することができたことから、舟岡権僧正に命じ千手観音像を造らせ安置したということになるようだ。
 これを、「福島市史」では、「はじめ行基が丈六の千手観音ならびに千体仏を安置し、弘仁年間(810~24)舟岡権大僧正が開眼供養し、信達千八百坊の首座とし、一書によると徳一菩薩が開基」と整理しているということのようだ。
 法相宗とも天台宗ともつかぬ言い伝えだ。
 ただ単に散策を楽しむ者としては、春日大社を鎮守としている地域性を考慮すれば、開基徳一菩薩を曖昧情報と譲ったとして、開基はそちらの系統の方との想像でもよさそうに思うがどうだろうか。
 
 仁部(仁生)寺については、福島市史の「鮎滝観音・壬生寺・古瓦出土地」の項では信夫郡下に仁部部が置かれた可能性を示唆して重要としながらも、その所在地は不明とする。
 その性格から緑釉陶も出土した腰浜廃寺級の推測とするとしている。
 ただ、腰浜廃寺は信夫郡家の寺が通説なので、主たる論拠を古瓦の出土地において、国見町の徳江廃寺・梁川町の船場遺跡、保原町の柱沢等々を推理する。

 しかし、鈴木氏はこの仁部(仁生)寺は、霊山寺だとする。
 開祖円仁の俗姓が仁生氏なので、往時は霊山寺を円仁の寺であるという意味を込めて「仁生寺」と呼んでいたとの推測のようだ。
by shingen1948 | 2019-03-24 11:22 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 帰り道に戸ノ内集落の西側の道筋に入りこんでみたことで、タイムスリップできる感覚のスイッチが入った。その感覚で浜井場古墳群の位置確認をし、近隣の古墳時代から平安時代にかけての遺跡群を確認した。
 今回の散策を振り返ってみると、散策の所々で見かけた大蔵寺村の田部屋の古碑だとか、稲荷社などが気になった。小倉寺に遷る前の大蔵寺村の大蔵寺が気になっている事との関りだ。
 開発が進んで、行ってみてもその痕跡も雰囲気も味わえないのは分かってはいるのだが、そちらを帰り道にしていた。

 取りあえずは、青少年会館前の学習湯センターに行き、そこに建つ「杉妻地区文化財案内板」を眺める。
a0087378_105823100.jpg 帰り道も含んだ今回の散策範囲を確認するとこんな感じだ。
 表示されている地図の範囲に、古墳時代から平安時代にかけての遺跡群をイメージした上で、田部屋地区を眺める。
 大蔵寺村絵図では、この案内図の田部屋橋あたりは、濁川を超えて黒岩村になっていて、集落は、その北側に描かれていた。
 それで、勝手に古代寺院だったとされる大蔵寺が大蔵寺村にあった時の旧地は、その集落近くにイメージしたところだった。

 しかし、マホロンの遺跡地図を確認すると「田部屋遺跡」は、その濁川を超えて黒岩村の範囲のヨークベニマル前の道路付近にプロットされている。
 この辺りは開発が済んで調査されるはずはないが大蔵寺村の古代寺院大蔵寺跡もこの辺りにイメージするのかも知れないとも思う。
by shingen1948 | 2019-03-23 10:59 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 浜井場古墳群の辺りからここにやって来た道筋越しに戸ノ内集落を見ている。
a0087378_15144820.jpg 満願寺駐車場に建つ顕彰碑の方の本家筋にあたるとしたお宅が見える。
 案内柱にある明治43年当時の杉妻村長は、顕彰碑の方の御長男のようなので、本家筋に当たられるお宅の東側のお屋敷にお住まいだったと想像している。

 マホロンの遺跡分布図を参考に、この辺りの古墳時代から平安時代にかけての遺跡を確認する。
 房ノ内遺跡がプロットされるのは戸ノ内集落の南側だ。
 「黒岩虚空蔵堂・満願寺散策⑫~帰り道」で黒岩字戸ノ内の集落を撮っているが、その写真を撮っている辺りだ。
 ここは調査が行われているようだが、ここも店舗建設に伴う調査だったのではないかなと想像する。
 房ノ内古墳群がプロットされるのは、戸ノ内集落と房の内集落の境界線の道付近のようだ。
 また、房の内遺跡の南側には八郎内遺跡・八郎内古墳群もプロットされる。こちらも古墳時代から平安時代にかけての遺跡のようだ。
 更に、この浜井場古墳群の北の広い範囲にわたって、二つ石遺跡がプロットされる。そして、この古墳群の西には浜井場遺跡がプロットされる。

 浜井場古墳群の位置が確認できて、そこから周りを見回してみれば、この周囲は古墳時代から平安時代にかけて遺跡が集中していることが分かる。

 先に、宮ノ下から阿武隈川沿いに鳥谷野に向かう黒岩村の道筋と阿武隈川の間の本内・八郎内・房ノ内・戸ノ内集落が、鳥谷野の仲之内集落やその近くの集落も含めて、中世在家らしいということを確認したところだった。
 浜井場古墳群の確認で、中世在家の集落との連続性は分からないが、この辺りではそれ以前の古墳時代から人々の生活が脈々と営まれ続けていたということが分かる。

 その上で、今までの春日神社、虚空蔵堂、大蔵寺などの散策を振り返ると、時代の重みのようなものが伴った見え方になっているような気がする。
by shingen1948 | 2019-03-21 15:17 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 次の説明のある案内柱が建つのは、ダイソー店の東端だ。
a0087378_118497.jpg
 「浜井場古墳跡(出土品国立博物館蔵)
 ここに三~四基の古墳があり明治四十三年当時の村長森谷弘三氏が発掘した(出土品は直刀、曲玉くつわ金銅装身具鈴釧など)」

 ここに登場する当時の村長森谷弘三氏というのが、地元資料によると、満願寺駐車場に建つ顕彰碑の方のご長男という事のようだ。従って、その時代は、まだ本家東側の御屋敷にお住まいだったのではと想像する。

 「ふくしまの歴史(古代)」の解説と照らし合わせてみる。
 明治43年の調査については、5基の円墳があって、出土品は金銅製圭頭太刀・青銅製鈴釧・水晶製勾玉・八窓倒卵形鐔や馬具などの副葬品であったとする。そして、出土品の金銅製圭頭太刀の一部と八窓倒卵形鐔の写真が国立博物館蔵との注釈で掲載される。
 この情報が、先に「忘れられた古墳~浜井場古墳群」として整理したことと重なるのだと思う。
 https://kazenoshin.exblog.jp/7319092/
 この時のパンフレットには青銅製鈴釧の展示物が紹介されていた。

 ここは、平成14年(2002)にも発掘調査が実施されたとのことだ。
 この時に後期の前方後円墳の跡がみつかったとのことだ。
 その墳丘長さ約22m、後円部直径15m、横穴式石室5.4mだったとのことだ。石室から勾玉6点・ガラス玉13点・鉄の斤2点・鉄の鏃2点や鐔などが出土しているとのこと。

 平成14年(2002)の調査は、恐らくここに店舗が建設されることに伴う調査だと思われるということも併せて考慮すると、写真に写る現地は、この店の範囲なのではないかと想像する。
by shingen1948 | 2019-03-20 11:11 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 宮ノ下から阿武隈川沿いに鳥谷野に向かう黒岩村の道筋は、本内・八郎内・房ノ内・戸ノ内集落の西側を通る。この道筋は、「黒岩寺村絵図」では鳥谷野の川筋を通る道筋と繋がっているのだが、現況では行き止まりになっている。
 それで、鳥谷野の川筋を通る道筋から黒岩虚空蔵堂・満願寺に向かう時には、戸ノ内集落の信号を右折して、房ノ内集落の西側を通る道筋に入ることになる。
 従って、他所者の散策人が戸ノ内集落の西側の道筋に入り込む機会は少ないのだが、今回は、帰り道にその戸ノ内集落の西側の道筋に入りこんでみた。
これが、タイムスリップできる感覚のスイッチが入った要因の一つだと思っている。

 今回、この道筋に入り込んでみようとしたきっかけの一つが、満願寺駐車場に建つ顕彰碑の方が戸ノ内集落在住だったとの情報だ。
a0087378_10172798.jpg この西角のお宅がその方の本家筋に当たり、このお宅の東側にあったお屋敷に顕彰碑の方はお住まいだったと読み取ったことがある。
 
 そして、頭の片隅には「浜井場古墳」のこともあった。
 この古墳については、先に「忘れられた古墳~浜井場古墳群」として整理した時点では、その場所が特定できていなかったのだが、直ぐ後にこの古墳跡に地域の方が建てた案内柱を見つけていたのだ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/7319092/

 そこを再確認してみようという事でもあった。
by shingen1948 | 2019-03-19 10:19 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回は、黒岩村の散策の中で気になった大蔵寺村の大蔵寺と小倉寺村の大蔵寺とのかかわりを確認した。
 今回の散策で、この小倉寺村の大蔵寺とのかかわりで気になったのはこれだけでない。
 今回散策の黒岩の満願寺が、福島の伊達氏ゆかりの満願寺とかかわるという見方があるという事だった。その伊達氏ゆかりの満願寺の元々の所在地を小倉寺村の大蔵寺とする見え方があるということだった。

 「黒岩虚空蔵堂~満願寺<『黒岩虚空蔵の算額』探索余談>」では、仙台市の満願寺は白河市関山から移ったとされることについて確認した。そして、「福島の伊達氏(津島亮資)」の中に、仙台市の満願寺は伊達氏の移封に伴って白河市関山から福島市黒岩に移り、更に宮城県に移動したものと記されていることについてふれた。
 https://kazenoshin.exblog.jp/239091262/

 そして、「黒岩虚空蔵堂~満願寺②<『黒岩虚空蔵の算額』探索余談>」では、「ふくしまの歴史(中世)」の中に、その福島の伊達氏ゆかりの満願寺が信夫郡小倉寺にあったとの見え方を記している事についてふれた。
 https://kazenoshin.exblog.jp/239100055/

 「福島市史」の中では、直接的にそのことにかかわる情報は確認できなかった。
 ただ、素人の散策人としては、以下の記述から、その見え方の可能性はありそうだなと勝手な想像が許容されるようには思える。
 その一は、現在の大蔵寺境内では、平安初期の土師器・須恵器が出土し、頂上の経塚山には積石の経塚があって、藤原時代の石製経筒の一部が出土しているということだ。
 大蔵寺村の大蔵寺も充分古裡であったことは伺えるが、ここ小倉寺村の地も平安期からの古裡の痕跡が伺えるという事のようなのだ。また、平安時代の初期に千手観音を主尊とする院閣があったことを想定しているらしいことが伺える。

 更に、「福島市史」の「鮎滝観音・壬生寺・古瓦出土地」に記される内容との兼ね合いもあって興味深い別情報がある。
 「霊鷲山出現の丈六阿弥陀如来坐像頭部(鈴木啓)【福島史学研究(87号)】」では、大蔵寺の千体仏はいわゆる里の霊山寺から移入された仏像がふくまれているのではないかとの仮説を提示していることだ。
 今回はふれないが、確認中。
by shingen1948 | 2019-03-18 11:24 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回は、「福島の村絵図Ⅰ」の解説をヒントにして、鳥谷野館の位置をイメージするのには永京寺付近の散策がよさそうだということで整理してみた。
 マホロンの遺跡分布図では、永京寺を含めてその南側の地域をも含めて鳥谷野館跡としている。
 「福島の村絵図Ⅰ」の寺の西と北の水田跡が館の堀跡との解説をも考慮すれば、実際の散策では、永京寺付近を北端にそこから南側に鳥谷野館跡をイメージすればよいのだろうと思う。

 さて、黒岩村の散策の中に太蔵寺村の影がちらちら見えていたところだが、今度は鳥谷野の仲之内集落を介して散策人の対岸の小倉寺村とその黒岩村の心理的な距離感が近く感じられるようになった。
 それで、太蔵寺村の寺と小倉寺村の大蔵寺のかかわりについて確認してみた。

 「福島市史」の「寺院と仏堂」の項に、「小倉寺と観音信仰」として関連する記載があるのを見つけた。
 ここでは、小倉の地名については、「続日本書紀」に弘仁3年(812)勲九等小倉公真称麻呂等17人に陸奥小倉連姓を賜うとあることとかかわりがあるとの推測で、「和名抄」に見える小倉郷ゆかりの豪族であろうとしている。そして、寺はこの豪族ゆかりの私寺だろうとする。
 そして、太蔵寺村の寺とのかかわりについては、「信達一統志」の記載を元に解説される。
 更に、次のような寺伝記載が紹介される。その「阿武隈川東岸に寺域を移し」とある以前が、太蔵寺村に寺があった時代の寺の様子だと思われる。

 「寺伝によると、はじめ行基が丈六の千手観音ならびに千体仏を安置し、弘仁年間(810~24)舟岡権大僧正が開眼供養し、信達千八百坊の首座とし、一書によると徳一菩薩が開基、元弘年中(1331~34)北畠顕家が大蔵寺村の伽藍がすたれた後、阿武隈川東岸に寺域を移し、さらに千手院が古くから建立されていた経塚山(一名小倉山)中腹に動座したと伝える。

 また、角田市日蓮宗妙立寺に移った什宝であった鰐口の銘を元に、小倉寺は15世紀頃、阿武隈川東の地から現在の境内に移り、大蔵寺と称し、すでに天台宗になっていたであろうと推測している。

 太蔵寺村にあった寺は、まずは阿武隈川東岸に移り、次に15世紀には現在地に移っていたことが読み取れる。
 更に、その現在地は、千手院が古くから建立されていた地であることが読み取れる。

 マホロンの遺跡分布図では、道の阿武隈川側に「大蔵寺跡」が示されるが、これが阿武隈川東岸に移った時代の大蔵寺の位置を表しているのだろうと思う。
by shingen1948 | 2019-03-15 09:46 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 鳥谷野の渡しは、川俣―大森間の主要な道筋の要でもある。その渡し場があるのが仲之内集落ということだ。
 「福島の村絵図Ⅰ」の解説によると、この対岸の河渡点を抑える要衝点が鳥谷野館ということのようだ。この館については、戦国期天文11年(1542)~17年の伊達氏天文の乱の関係資料にも登場するのだとか。
 半沢氏の「歴史地図」では、この辺りに「館跡(慶長年中上杉家臣居館)」と記されるだけだが、「福島の村絵図Ⅰ」の解説では、永京寺がかつての鳥谷野館の敦内としている。

 今回の整理で、この永京寺辺りの散策で先の散策とつながるように感じた。
 ただ、今回はこちらには立ち寄っていないので、先にこの辺りを散策した時に撮った写真で整理しておく。

 これは2009年7月の散策時に撮った永京禅寺だ。
a0087378_11334364.jpg 「信達二郡村誌」によると、西京花園臨済宗妙心寺末派で、開山は育峰和尚とのこと。この方は天正中(1573~1593)の人とある。ただ、永享元年(1429)開山という別資料も見かける。

 門前に、「福島市重要文化財指定宝冠釈迦如来」の案内柱と「杉妻小学校発祥の地」の碑が建っているのが見える。
 「宝冠釈迦如来像」は、この寺の御本尊で、鎌倉の円覚寺本尊と同じ冠をかぶった御釈迦様とのことで、体内に宝徳5 年(1453)と記されているとのこと。
 「信達二郡村誌」には、「本尊観世音の像は西京清水の観音と同材にして同作なり 因て清水山と号すと云伝う」ともある。

 「杉妻小学校発祥の地」とするのは、明治6年(1873)にここ永京寺本堂が小倉寺村との共立学校鳥谷野小学校の仮教場となったこととのかかわりのようだ。
 ただ、今回の散歩の中心は黒岩村なのだが、こちらは「信達二郡村誌」に記される時代にあっては、伏拝村と合併して丹治行従宅を仮教場としたということのようだ。
 学校の沿革についての確認はしていないが、杉妻小学校は、これらが町村合併に伴い現在地に移ったものと想像する。
a0087378_11354521.jpg さて、「福島の村絵図Ⅰ」で、この永京寺がかつての鳥谷野館の敦内だとするとある。それで、ここに永京寺境内を南西方面から撮った写真を張る。
 絵図にある西側と北側の田が堀の名残だとする。
 現在はその田はないが、その面影が残っていると見えなくもない。
by shingen1948 | 2019-03-13 11:36 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)