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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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<   2019年 02月 ( 9 )   > この月の画像一覧

 これは春日神社の拝殿だ。
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 ここに来る前に立ち寄って来たのだ。
 それは、半沢氏の「歴史地図」の「黒岩虚空蔵の十三参り」のメモに、以下のように記されていたからだ。

 「かつては春日参りをしてから虚空蔵堂の十三参りをしたとも。上の町の人々は、虚空蔵堂参りをした後、春日神社に礼拝した。それが、明治初年の国家神道政策で神仏分離された」

 西側から阿武隈川沿いの道筋をくれば、この岩山の正面に春日神社の一の鳥居から二の鳥居へ真っ直ぐ延びる石段が目に入る。
 明治の国家神道政策で制約された見え方でなければ、この春日神社が鎮座するこの岩山に黒岩虚空蔵堂、満願寺が一体的に存在する神聖な地として見えるという事なのだろうと思う。
 それが、本来的な地域の人々の感覚だったのだろうとの推測だ。


 実際に石段を登ってくると、まず見えてくるのは、正面の山の斜面前の境内社だ。
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 これも結構趣のある社殿で風景に溶け込んでいるのだが、案内柱には「杉橋稲荷神社」だとして「大蔵寺村の鎮守様であったが明治九年黒岩村に合併したので田部屋より現在地に遷座した」と解説される。

 実は、今回この「大蔵寺村の鎮守様」は確認済みなのだ。
 「黒岩虚空蔵堂~満願寺②<「黒岩虚空蔵の算額」探索余談>」でふれた「旧大蔵寺門前の古碑」とのかかわりで、大蔵寺村絵図を眺めていたのだ。
 残念ながら寺跡は確認できなかったのだが、この「稲荷神社」は確認できていたということだ。

 「年不詳の大蔵寺村絵図」でみると、大蔵寺村は、おおよそ西は江戸街道、東は永井川筋の範囲のようだが、数件の家が描かれるのは東部の「タベヤ」だけだ。これが、現田部屋で、その民家が描かれる西側を通る道筋の西に「イナリ」の表記も見えるのだ。
 現況の地図と見比べると、東側から黒岩村が永井川筋の範囲を超えた村界になる辺りが、ヨークベニマルから、その南を通る蓬莱橋―黒岩交差点経由の道筋辺りと思われる。
 従って、民家が描かれているのは黒岩青少年会館の辺りと思われる。そして、その西側の道筋は、村絵図と重なるようなのだ。
 「イナリ」は金属工場辺りかなと想像する。
 ちなみに、村絵図に「八坂社」が描かれているのは、現「須川南諏訪神社社務所」辺りかなと思うが、どうだろうか。
by shingen1948 | 2019-02-27 10:43 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「満願寺、虚空蔵菩薩旧参道」は、満願寺正門下を経て、左虚空蔵堂、右阿武隈川岸へ通ずるように案内される。
a0087378_931153.jpg ここが、その分岐点附近。フェンスの左側が虚空蔵堂の旧参道の道筋だ。
 左に折れるというよりは、参道前の丘を登る道筋を登っていくという感じだ。
 この道筋が、現在は通行止めになっている観音堂の右側の道筋につながり、境内に入る時には、右手前に虚空蔵堂が視野に入るという事になるのだろう。
 なお、この観音は、信夫新西国第十三札所になっているとのことだ。

 この写真の丘の周囲を河口フェンス右側に細い道筋が見える。
 これが阿武隈川岸へ通ずる道筋だ。この阿武隈川岸へ通ずる道筋は、途中ぬかるみがあったりして痛んではいるものの通れない事はない。
 その道筋をしばらく進むと、雄大な阿武隈川の流れが眼前にあらわれる。


a0087378_9325264.jpg この阿武隈川の流れの右側の風景は、虚空蔵堂から眼下に見渡した阿武隈川渓谷の風景と重なる。ドナルド・キーン氏が、「福島しのぶ紀行」で「虚空蔵は、どれも特に景色のきれいな場所に建てられているということで、京都嵐山の風景を思いだしながら「黒岩虚空蔵は、阿武隈川の渓谷を見下す崖の上にあり、その眺望たるや最高だ」と記した風景だ。
 その虚空蔵堂から眼下に見下ろした風景が、ここから近景として見る風景より勝る。


 それに対して、この左側に見える阿武隈川の左岸に虚空蔵堂が建つ巌場の風景は、ここに来なければ見えない風景だ。
 a0087378_9341176.jpg この写真の虚空蔵堂から眼下に見下ろした手すりのある施設が、左上に写っている。
 右手の虚空蔵堂が建つ岩場には石垣が積まれているとのことだが、ここからは木々や竹が生い茂っていて見えない。
 半沢氏の「歴史地図」のメモによれば、この石垣は明治18年に石の信夫橋を造った福島市荒町の粒来甚作氏の請負とのことだ。

 駐車場の案内板では、ここの風景の中に「さかさ松」や「かめのこ石」、「丸石」や「座禅石」などが記されていたが、この場に立つとそれらの細々としたことを確かめようという意識は薄らぐ。
 それよりは、キーン氏が「黒岩虚空蔵は、阿武隈川の渓谷を見下す崖の上にあり、その眺望たるや最高だ」とした風景とその黒岩虚空蔵が建つ付近の荒々しい風景を重ねてイメージした広がりを眺めたいという意識が強い。
by shingen1948 | 2019-02-26 09:35 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 ここが、黒岩虚空蔵堂・満願寺参道入口だ。旗立台と嘉永5年(1852)の常夜燈が目印だ。
a0087378_1034899.jpg 実際には満願寺の駐車場から来たのだが、伏拝口から進んできたことを仮定した意識で撮ってみている。
 「満願寺、虚空蔵菩薩旧参道」の案内柱でも確認できる。

 ここにその道筋を以下のように説明されるが、あらためて読んでみたのは家に戻ってからだが、それは案内されることは既知の事だと思っていたからだ。
 「満願寺正門下を経て、左虚空蔵堂、右阿武隈川岸を通り小原に至る」

 実際に分かっていたのは「満願寺正門下を経て、左虚空蔵堂、右阿武隈川岸」との部分までで、「阿武隈川岸を通り小原に至る」を意識してはいなかったことに気が付いた。
 「小原に至る」の小原集落は、「黒岩虚空蔵堂~満願寺③<『黒岩虚空蔵の算額』探索余談>」で確認した集落だ。
 この集落は、黒岩虚空蔵堂中興にもかかわる福島代官古川善兵衛重吉が創建し、自らも眠るという「無為山 康善寺」の前身である秀安寺跡地の所在地で、「信達一統志」がいう「黒巌の茂原というところ」が、この黒岩小原集落ということのようなのだ。
 この集落のもう一つの特色が、「ふくしま市景観100選」に紹介される「黒岩にある何百年もの間、乱開発を免れて、自然に囲まれた集落」ということだ。
 半沢氏の「歴史地図」で、「中門造り」とメモされるのが、秀安寺跡地の庭園とされる手前の民家の特色らしい。
 現在は、高地まで宅地開発されたことと車社会の時代になったことで、そちら側からの道筋で案内されるが、この道筋は徒歩道の時代の黒岩小原集落への道筋だったということでもあるのだろうか。

 この道筋が、石畳であることにも趣を感じるのだが、雑草でなかなか表現できない。これは、旧参道を下って振り返って撮った風景だが、なんとか石畳であることが分かるかな。
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by shingen1948 | 2019-02-25 10:06 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 他所から来るようになると、駐車場に車を停めて、直ぐに満願寺山門を目指すようになってまっているが、この辺りに縁があった頃の懐かしい風景は、旧参道から眺める黒岩虚空蔵堂・満願寺だ。
 今回は、旧参道入り口から回り込んで寺の風景を眺め、その懐かしい感覚を思い出して楽しんでみた。

 これが、その旧参道から眺めた満願寺山門だ。a0087378_1063968.jpg この旧参道を先に進むと、黒岩虚空蔵堂への参道があるのだが、当時からフェンスで閉じられていた。そこから更に先に進むと、黒岩虚空蔵堂から眺めた阿武隈川の河原に抜ける。
 
 黒岩虚空蔵堂への参拝には、当時も満願寺山門経由だった。行為的には、この石段を登る事ぐらいしか違いはないのだが、それでも、参拝した時に感じた奥深さのようなものは違っていたように思う。
by shingen1948 | 2019-02-24 10:07 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 黒岩虚空蔵堂に「福島の算額」の探索で来た時には、「黒岩虚空蔵の算額」のみに着目して確認していた。ここは、既に記事として整理しているものと勘違いしていたのだ。
 というのは、若い頃にこの近所に住んだこともあり、それとは別の時期に勤務地が近かったということもあって、ここにはよく来ていたのだ。
a0087378_126640.jpg その勘違いに気づいて、「黒岩虚空蔵の算額」探索余談として、黒岩虚空蔵堂・満願寺にかかわる地域散策情報を整理してきた。
 これは、最近その情報をもとに自分なりの散策をしてみようと思って訪ねた時に撮った黒岩虚空蔵だ。

 その散策を整理する前に、ドナルド・キーン氏の「福島しのぶ紀行」で、この黒岩虚空蔵堂にふれていることを確認しておきたい。
 氏については、親日家であるといった程度しか知らなかった。それが、家族の中で話題になったのが、東日本大震災発生に伴って日本永住を決意されたというニュースだった。
 89歳というご高齢でニューヨークの自宅を引き払い、日本国籍を取得して、日本永住を決意されたというのだ。この決断を、単に親日家という範疇でとらえきれなくなったのだ。
 それで、氏に係る情報を目にすると確認するようにしていたのだ。

 今回、黒岩虚空蔵堂・満願寺散策情報を確認していて、「独りよがりのつぶやき」のブログの「黒岩虚空蔵堂 その8」に、氏が満願寺を訪れているという情報をみつけた。
 http://dajaro.blog40.fc2.com/blog-entry-658.html
 さっそく、「日本細見(ドナルド・キーン)【中央公論社】」を借り、その「福島しのぶ紀行」を家族間で回し読みしたのだ。

 前回の整理で、都の人々が陸奥という言葉には特有の感覚を抱くらしいことについてふれた。その感覚を追体験的しようと東北に入る方々にとっては、「白河の関」には、その陸奥と都から連続する世界との境界というシンボリックな意味を持つようなのだ。
 その白河の関を散策した歴史好きな方々は、次の散策地には会津を選ぶことになるようだ。
 「街道をゆく(司馬廉太郎)」も、その33で「白河・会津のみち」という構成にしている。このシリーズでは、白河から仙台までの間は実際の散策ではなく、念頭で奥の細道訪ねた風な整理になっている。

 「福島しのぶ紀行」によると、ドナルド・キーン氏も「白河の関」の次の散策地として会津を目指したようだ。
 それでも、福島に立ち寄ることになったのは、岩瀬書店の岩瀬太一氏に会津若松見学の前に福島市にも立ち寄ることを勧められ、案内されたからとのことだ。
 「白河の関」を散策したのが昭和30年で、それから23年後の7月の散策とのことなので、昭和53年7月ということだろうか。

 福島市に入って、「奥の細道」にかかわる史跡である信夫文知摺と医王寺訪れたようで、結果的に「紅毛奥の細道」で抜けた散策を補うことになったということのようだ。
 他に、大蔵寺とここ黒岩虚空蔵堂も散策したようなのだが、その中で一番気に入ったのは、黒岩虚空蔵の景色だったとして以下のように記される。

 「福島で一番気に入ったのは、黒岩虚空蔵の景色だった。虚空蔵は、どれも特に景色のきれいな場所に建てられているという話を聞いて、京都嵐山の虚空蔵に思いあたった。黒岩虚空蔵は、阿武隈川の渓谷を見下す崖の上にあり、その眺望たるや最高だ。寺院の裏へ回ると山の斜面に十六羅漢の石像がある。いずれもその自然の環境の中で、まったく実物かと見まごうばかりに配置されている。まるで石像にとって、そこで黙想することほどふさわしい行為はないかのようだ。たとえ石と化することを望まないにしても、ここは瞑想の場としてすばらしいところとなるだろう」
by shingen1948 | 2019-02-23 12:09 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回まで、福島の伊達氏ゆかりの満願寺という見え方とのかかわりで、近くの寺々の移動情報を確認してみた。すると、その寺院の移動再建には上杉氏の家臣団のかかわりが強く感じられるようになった。
 実際の黒岩虚空蔵堂・満願寺散策では、たくさんの上杉氏の家臣団がかかわることを沢山目にしていたのだが、強く意識することはなかった。それが、これらの情報と接することで深く意識できるようになってきているように思える。

 福島の伊達氏ゆかりの満願寺という見え方で、もう一つ気になるのは、「芭蕉の足跡」として整理している「奥の細道」とのかかわりだ。
 仙台市の満願寺は、以下のように元々奥州白河郡関山の満願寺と案内された。

 「傳云奮在本州白河関。聖務帝。天平中為東夷静謐祈願建寺。安置光明皇后護持佛閲浮檀金聖観音。行基菩薩開山也。當家先君世崇敬之寄附神馬黄金等」

 この白河関山満願寺が、福島の伊達氏ゆかりの満願寺という見え方を経由して、仙台市の満願寺に繋がるということだ。その白河の関山満願寺には、芭蕉一行も訪れているということでのつながりだ。

 東北に住む者にはよく分からないが、都の人間にとっては陸奥という言葉には特有の感覚があるらしい。それで、外から東北に入る方々にとっては、「白河の関」にはその都から連続する世界との境界というシンボリックな特別なイメージを持つようなのだ。
 「奥の細道」では、そのテーマの出発点という意味もあって、芭蕉一行は旅心としてこの特別な「白河の関」を超えたとの実感が欲しかったようなのだ。
 しかし、芭蕉が白河を訪れた元禄2年(1689)の頃には、関跡とされるところがいくつかあって、この「白河の関」の所在地が曖昧だったようなのだ。
 それで、「関明神」にたどりついた芭蕉一行は、現在「古関跡」と比定される地も訪ねることになるようだが、そこには実体はなく曖昧さが残ったままだったようなのだ。というのは、旗宿の西の小高い丘にある「叢祠」があるところが、その「古関跡」だと定信公が断定するのは100年後の寛政12年(1800)とのことなのだ。

 芭蕉一行は、その「古関跡」を訪ねた後、霧雨の中関山に登って満願寺を訪ねてから矢吹に向かうのだが、その間のどこかで、ようやく旅心が定まったということなのだろうと思う。

 「白河観光協会ガイドマップ」では、この事について「源義経が参詣したと伝えられ、その面影を求めて芭蕉も立ち寄っています」と案内される。また、「奥の細道」にかかわる案内には、この寺が古刹故に芭蕉一行が訪れたというのも見る。
 しかし、ただの散策人には、芭蕉一行がここを訪ねた主目的は、旅心としてこの特別な「白河の関」を超えたとの実感を求めて関山の満願寺を訪ねたということなのだろうと思えるのだ。ただ、 結果的には、その古刹満願寺を訪ねているという事なのだろう思う。

 「白河観光協会ガイドマップ」では、その満願寺は次のように案内される。
 「満願寺(真言宗智山派)
 標高619mの関山の山頂にある山岳寺院で、聖武天皇が天平勝宝7年(755)、光明皇后の追善と万民のため、行基菩薩を開山として建てた寺院で、本尊の聖観音は天皇の持仏と伝えられています。また、聖武天皇御願所という勅額も伝来しています」

 「白河市のホームページ」では、その「聖武天皇御願所という勅額」について説明する中で、「満願寺の縁起」についてふれ、以下のように説明する。

 「『満願寺の縁起』には『行基東国より南部に帰り当山の霊場なることを奏上し、天平年間に開基し、光明皇后御宇三国伝来閻浮檀金の正観世音像を安置し皇室の祈願所とし、成就山満願寺といい、光明皇后の御親筆の額字を賜りたるを以て光明院という』と記されている」

 満願寺と聖武天皇と光明皇后とのかかわりが微妙に違うように説明されるが、同じページの「銅鐘」の解説では、「白河観光協会ガイドマップ」の解説に近い関係性で説明される。
by shingen1948 | 2019-02-18 12:17 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 福島の伊達氏ゆかりの満願寺という見方とのかかわりはないが、近くの寺々の移動情報として秀安寺もふれておきたい。
 余談のそのまた余談ということだ。

 先に、信夫の里(天地人の時)の観点から福島代官古川善兵衛重吉が創建し、自らも眠るという「康善寺」を訪ねたことを「無為山『康善寺』」として整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/7797008/
 この時にふれた寺の案内板の説明に、「黒岩にあった秀安寺がその前身で、上杉家臣で福島代官であった古川善兵衛重吉(西根堰開削者)が現在地に移し、故郷信州の康楽寺と自らの名前とから一字ずつを採って康善寺と命名した」とあった。

 ここでいう「上杉家臣で福島代官であった古川善兵衛重吉氏(西根堰開削者)」は、今回の散策との関りでは「黒岩虚空蔵の再建寄進された方」だ。その菩提寺である無為山「康善寺」の前身は、今回の散策地である黒岩の秀安寺ということだ。

 「黒岩虚空蔵堂~『虚空蔵堂記』<『黒岩虚空蔵の算額』探索余談>」で、「虚空蔵堂記碑文」の内容確認資料とした「信達一統志」では、「阿弥陀淵」の項に次のように紹介されている。

 「虚空蔵より水上にあり昔福島の康善寺此地茂原と云所にありしとき戦国の世にて国々に群盗徘徊し人の財實を掠とる此時僧法然親鸞両上人の書給へる六字の名號を所持せしに盗賊の為に奪れむことを悲しみこれを筥(はこ)に入れて此淵にしづめ感嘆して云太平のときかならず浮み出給へと云て上方へ登りけるが、世治り国に帰り此所に来りて先の年此淵に六字の名號を沈め奉りき今はいかになりゆき給へしにやと云つつ淵上を臨み見るに果たして水中より光明を放ものあり怪み綱を入れて引上見ればさきに沈め奉りし名號なり、今忽然として浮出給ふ寺僧百拝して是を奉じける、今に康善寺の什物なり故に後の世にあみだが淵と名付しなり、大熊川の年魚此處より取るもの味よろしと云(福島候公儀献上の年魚此野所より漁ると)」

 散策資料として読み取れば、福島候公儀献上の魚を漁る所が「阿弥陀淵」のようであり、虚空蔵はもっと川上にあったように読み取れる。
 更に、「昔福島の康善寺此地茂原と云所にあり」とのことなので、秀安寺が黒巌の茂原というところにあったということか。
 この「黒巌の茂原というところ」が、現黒岩小原集落らしい。

 半沢氏の「歴史地図」では、この現黒岩小原集落については、「中門造り」とメモされる。「ふくしま市景観100選」の83番「自然に囲まれた小原集落」の次の情報と重なる。
 「黒岩にある何百年もの間、乱開発を免れてきた場所。五月町にある康善寺の前身秀安寺があったとされ、秀安寺庭園が今も残っている。」

 散策としては、学壇遺跡が発掘調査されている頃に、旭台からその調査地点付近までは入り込んだことがあったが、この集落には行っていない。
 ただ、先に「渡利地区の阿武隈川沿いの風景」を散策した時に、対岸から「献上梁場跡」と小原集落の位置を想像したことについてふれている。
 〇 渡利地区の阿武隈川沿いの風景
 https://kazenoshin.exblog.jp/9123375/
 今回、情報をもとに地図上で確認していくと、対岸からは小原集落手前の神ノ前の民家が確認できることが分かった。
by shingen1948 | 2019-02-13 11:15 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 福島の伊達氏ゆかりの満願寺という見方にはいくつかの仮説に基づく。従って、そこには曖昧さが残るのだが、それゆえに面白いと思う事もある。
 近くの寺々の移動情報と絡ませてみる。

 まずは、大蔵寺情報と絡ませてみる。
 「福島の伊達氏(津島亮資)」では、黒岩の満願寺が直接的にこの福島の伊達氏ゆかりの満願寺だという見え方を示す。しかし、「ふくしまの歴史中世」では福島の伊達氏ゆかりの満願寺は、信夫郡小倉寺にあったとの見え方を示しているのだ。
 その上で、その満願寺と黒岩の満願寺の関係性が想像できることを示しているのだ。

 このことと関わりそうなのが、大蔵寺の移動情報だ。
 この移動情報は、先に大蔵寺を散策した時に、「弁天山⑧~川俣旧道と大蔵寺」として整理している中にあるのだが、それ程注目していたわけではなかった。
 https://kazenoshin.exblog.jp/9086676/
 その情報は、案内される解説にある以下の部分だ。

 「江戸末期まで、阿武隈川の西岸に300石近い大蔵寺村があり、この寺の御朱印地だったと言われていますように、寺は初め大蔵寺村にあったと伝えられています。それが東岸に移り、更に、ここ小倉寺山の観音堂とともにあるようになったのはいつからかは明らかではありません」

 ここからは、その別当寺が在ったかどうかは分からないが、少なくとも先に小倉寺に観音堂があったというふうに読み取れる。そこに、対岸の大蔵寺村から寺が移動してきたとの読み取りだ。

 今回訪ねた黒岩の満願寺山門を入ったところにある「旧大蔵寺門前の古碑」は、その対岸の大蔵寺村にあった寺がかかわっていそうだ。
 その案内には以下のように解説される。

 「小倉寺大蔵寺は住古、阿武隈川の西にありと伝えられ、旧大蔵村方郎内(現田部屋)の寺跡に残っていた但一基の古碑、碑文「昨日雨今日伏拝□□□・・・・・・」

 ここからは、小倉寺大蔵寺は旧大蔵村方郎内にあったことが読み取れ、その旧大蔵村方郎内というのは現字田部屋であることが読み取れる。
 地図で確認すると、現字田部屋は現ヨークベニマルや黒岩青少年会館の辺りになるようだ。あの辺りの風景を思い出すと、黒岩青少年会館の辺りに旧大蔵寺所在地をイメージできそうに思うが、どうだろうか。

 今回の情報確認で次に気になったのが、満願寺とかかわる伊達(6世)基宗氏の前代伊達(5世)宗綱氏の戒名が「金福寺殿浄方真西大居士」とあることだ。

 この金福寺に係るのかどうかは知らないが、思い浮かぶのは先に「信夫の里の独国和尚」で整理した沢又村の金福寺だ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/21247542/
 この寺、「信夫の里の狐達⑮~信夫の里の独国和尚」の写真に写る案内柱の解説にあるように、清水小学校(旧沢又小学校)の発祥の寺でもある。
 独国和尚の墓碑もまだ確認できていないのに、もしかすると金福寺殿もかかわるのではないかなという妄想も……。
by shingen1948 | 2019-02-09 16:11 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_17254677.jpg 虚空蔵堂への旧参道はこの山門の下の石段の下を通る。しかし、現在は虚空蔵堂へのお参りも、この山門から満願寺境内を経由するように案内される。

 半沢氏の「歴史地図」では、この満願寺の由緒沿革については「元和4年(1618)米沢の法泉寺(上杉氏菩提寺)の末寺となる。信夫伊達臨済宗の全寺院の筆頭。江戸時代の寺領は35万ご5斗8升3合(5町1反6畝6歩)」と記す。
 ちょっと気になるのは、その前に「もと天台宗か」とのメモがあることだ。

 門前の案内板でも、「天台宗だったこの寺が臨済宗妙心寺派に替わったのは、江戸時代の初めです」とあるので、単に満願寺が臨済宗となるのは、上杉氏がかかわるぐらいの関係性の想像でよいのかもしれない。
 「福島市寺院名鑑」の黒巌山満願寺の由緒沿革で、この事にかかわるのは「当寺はもと天台宗に属し大徳寺と称したが、現在は臨済宗妙心寺派である」としているところだ。

 ただ、うがった見方かもしれないが、専門家故に豊かな情報を持つはずだが、専門家故にうかつな事は記せないといったことがあるのかもとも……。

 この満願寺が「もと天台宗か」とのメモと関わりそうな情報が他にもあるのだ。
 福島の伊達氏ゆかりの寺社の情報だ。
 たとえば、「福島の伊達氏(津島亮資)」では、その「ゆかりの寺社」の項で、この満願寺が伊達氏の移封に伴って白河市関山から福島市黒岩に移り、更に宮城県に移動したものと記している。

 「封内風土記(仙台叢書出版協会)」では、仙台市の満願寺について以下のように解説する。

 成就山満願寺
 在奮寺小路。天台宗。東●山末寺。傳云奮在本州白河関。聖務帝。天平中為東夷静謐祈願建寺。安置光明皇后護持佛閲浮檀金聖観音。行基菩薩開山也。當家先君世崇敬之寄附神馬黄金等。白河家喪地之後後陽成帝。天正季前住慶重法印護持本尊到玉造郡岩出山。貞山君假設堂安置之。同帝慶長初移千仙臺城時●其地於州城之艮隅創建閲明神社及観音堂。而移寺為祈願處寄附三十六石餘之地傍院區如左。

 山号は成就山で、光明皇后護持仏とされる聖観音像本尊の天台宗寺院であることが確認できる。
 この寺は、天平年中に白河の関で行基開山として創建され、天正年中に玉造郡岩出山に移転し、更に慶長年初に仙台城下に移転したことも確認できる。ただ、この移動情報では、信夫郡とのかかわりは不明だ。

 それで、青葉区本町の現成就山満願寺の由来案内を確認すると、「建武2年(1355)8月10日,伊達(6世)基宗逝去の際,其の菩提所となる」とあることが記される。
 この基宗氏の法名が満願寺殿誠志堅貞大居士であり、その菩提寺が満願寺であるという情報が、信夫郡の満願寺情報を想像させるということのようなのだ。
 というのは、基宗氏の前代宗綱氏の頃から伊達氏の所領は信夫・伊達二郡となるようなのだ。
 基宗氏は、文保元年(1317)にその前代宗綱氏から家督を継いでいる。
 この時代、後宇多川法皇が院政から退き、実質的に後醍醐天皇の親政が始まるが、伊達氏に大きな動きはない。元弘三年(1333)には、基宗氏は、蔵人、左近衛将監、次に従五位下、宮内大輔に叙されているという。
 
 現満願寺がかかわるのかどうかは別にしても、少なくとも信夫郡に基宗氏がかかわる満願寺の存在が想像されるということになるようなのだ。
 ただ、半沢氏の「歴史地図」に記される「もと天台宗か」のメモが、どこまで意図されているのかは知らない。
by shingen1948 | 2019-02-03 17:31 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)