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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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<   2019年 01月 ( 6 )   > この月の画像一覧

 「虚空蔵堂記碑文」が刻まれる巌の東側は小高い丘になっている。上流から流れて来た阿武隈川は、この突き出た丘を回り込んで流れて行く。
a0087378_1011432.jpg その上流からこの丘に向かう流れを虚空蔵堂の南側から眺めることができる。

 虚空蔵堂の西側には、虚空蔵尊が丑寅生まれの守護仏ということで、定番の「なで牛像」と牛と虎の石造が配置される。
 虚空蔵堂の前に立つ案内板の解説の末尾に「十三詣りも、仏の徳にあやかろうとする行である」とある。十三参りも行われていることを伺うことができるが、その詳細は記されない。

 半沢氏の「歴史地図」から「黒岩虚空蔵の十三参り」にかかわりそうなメモを拾う。
 その一つが、「虚空蔵祭礼」の以下のメモ。
 「旧正月十二・十三日、旧七月二十二・二十三日、十三参りと称して、子供の身体加護と学問成就を願う親が十三歳の子を連れて参詣する。丑年生まれの人は、祭の日にウナギを阿武隈川に放流する。」
 なお、この祭時には「上の町(門前町)の民家は、祭礼時には道路側のしとみ戸を開けはなち、店を開いた」とのメモもある。
 もう一つが、「春日神社」にかかわる以下のメモ。
 「かつては春日参りをしてから虚空蔵堂の十三参りをしたとも。上の町の人々は、虚空蔵堂参りをした後、春日神社に礼拝した。それが、明治初年の国家神道政策で神仏分離された」

 これに、「胎内くぐり」の案内板に説明されていた「胎内くぐりは、仏徒でもない人たちにもこれを通過することによって、悪さを懺悔し、祓いのぞいて成長するものと信じられ、くぐり抜けるのがこの虚空蔵詣りの行とされてきた」とあることを加えたような風習だったことが想像される。
by shingen1948 | 2019-01-28 10:12 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 虚空蔵堂の東側の丘を中心に十六羅漢像が配置される。
 「虚空蔵堂記碑文」が刻まれた巌の周りにもいくつもの羅漢像が見える。
 その南側にも東側の丘に向かう崖道筋があるのだが、閉鎖されている。

 これは、その道筋を覗き込んで撮ったものだが、そこにも羅漢像が見える。
a0087378_114816.jpg この十六羅漢像については「十六羅漢造立銘碑」によって、その概要が分かっているとのことだ。
 その案内によると、十六羅漢というのは、釈尊の命によって仏法が正しく守られるよう、この世にとどめられた尊者とのことだ。
 その羅漢像がここに造立される時期は、文政3年(1820)の満願寺12世比巌和尚の代とのことだ。長沢勘七らが世話人となって建立したとのことだが、その石工も黒沢村の赤間七右衛門と八丁目の佐藤惣七であることも分かっているという。

 個々の羅漢像の背面には、その尊名と寄進者名が刻まれているとのことで、この羅漢像については次のように説明される。
 この羅漢像は、伐闍羅弗多羅(ばじゃらぶたら)尊者という方とのことだ。寄進者は、福島藩御用達商人の「施主 福島中町加藤紋治良」で、その目的が「為先祖代々菩提」であることが刻まれるが、その居士と大姉の法名は読み難くなっているとのことだ。
 「Open GadaiWiki」によると、この8番の伐闍羅弗多羅(ばじゃらぶたら)尊者の形相は「右肩を袒ぎ竜の一角を把り目を怒らせ歯を切て勇力を出すが如き然り」とのことだ。
 ここの案内では、その形相を「珍しく交脚して腰をおろした像で、右手に払子を持ち、左手は膝頭をおさえるように置いている。この尊者も肋骨が表わに彫刻され修業のきびしさを出しているが、お顔は真理の世界を仰ぐように見上げているようである」と説明される。

 近くには「胎内くぐり」についての案内板も建ち、この道筋にかかわって、次のように説明される。
 「かつてこの通りは、虚空蔵堂からこのさきの崖道を登って、清浄嶺に通ずる古道であった。重なる大石の下をくぐって行くあたりが『胎内くぐり』と呼ばれる場所である。満願寺で修業する人たちには、このくずれかかるような大石の中を通って、清浄嶺に達する峯廻りの修業の場でもあった。この危険をおかして仏の道をおさめる修業場としての胎内くぐりは、仏徒でもない人たちにもこれを通過することによって、悪さを懺悔し、祓いのぞいて成長するものと信じられ、くぐり抜けるのがこの虚空蔵詣りの行とされてきた。いまは崖道の危険から閉鎖されている」

 虚空蔵詣りにかかわる風習が、現代の危機管理の概念と符合せず、この道筋が閉鎖されているらしいことが分かる。
by shingen1948 | 2019-01-19 11:06 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「虚空蔵堂記碑文」は天保三年冬十二月に記された虚空蔵堂の縁記とのことだった。
 虚空蔵堂の創建について、「信達一統志」に紹介されるその「虚空蔵堂記碑文」から確認すると、以下のように記されているようだ。

 「作堂者誰山之記曰嵯峨天皇之御宇弘仁二年之春一比丘来創草一宇之梵刹云後世寛永十一年再作堂寄田者米澤候上杉定勝其臣古川重吉也」

 「山之記」を資料として、弘仁2年の春創建とし、米沢候上杉定勝の臣古川重吉が寛永11年に再建されたと読み取れる。

 虚空蔵堂の脇に立つ案内板では、以下のように説明される。

 「 <神社仏閣> 虚空蔵堂
 満願寺に伝わるこの虚空蔵堂は、弘仁2年(811)に造られたといわれている。現在のお堂は寛永11年(1634)に上杉藩の家臣古河善兵衛が、古くなったお堂を建てなおしたと記録に残っている。」

 おおよそ「虚空蔵堂記碑文」の内容を踏まえていることが分かる。ただ、その表現には微妙な差がある。
 その一つが、「満願寺に伝わるこの虚空蔵堂は」というふうに満願寺とのかかわりを強調していることだ。
 もう一つが、寛永11年の再建にかかわる記述が「古くなったお堂を建てなおしたと記録に残っている。」というふうに実証性を強調している事だ。
 いろいろな情報を探ると、ここで「記録に残っている」とするのは、「虚空蔵堂棟札」の墨書に「寛永11年」の記録と、上杉定勝公と古河善兵衛重吉の名が記されていたことを指しているらしいことが分かる。

 いつも散歩資料として活用させていただいている半沢氏の「歴史地図」では、「虚空蔵堂 信夫伊達両郡郡代官古河善兵衛<西根堰開削竣工の翌年寛永11年(1634)>堂宇を再建寄進」とメモされる。
 ここでは、西根堰開削で有名な信夫伊達両郡郡代官古河善兵衛氏が寛永11年に堂宇を再建寄進したことが強調されている。

 散歩資料として活用しているもう一つの資料「信達二郡村史」の虚空蔵堂創建にかかわる記述では、「弘仁2年(811)創建」と「寛永11年に堂宇を再建寄進」の間に、「慶長3年(1598)尾崎三郎左衛門重誉(上杉景勝臣)これを中興す」という記録を挿入している。

 これは、虚空蔵堂は満願寺とのかかわりが強い事と、その満願寺は上杉氏とのかかわりが強い事との関りが表現されたものだろうと想像する。
 慶長3年(1598)は上杉氏が会津転封となった年だ。この時からこの地も上杉氏領となる。
 中興者の尾崎三郎左衛門重誉(上杉景勝臣)については「浅川、松川散策の写真メモから33」でふれた「泉八家」のお一人だ。
 曖昧な情報が多いが、この時、羽州置賜郡北条郷宮沢、岩代信夫郡、上名倉、大森、黒岩、岡部等の村の支配を任されて、六千石役領下二千八百十石を賜ったとされる。この地の直接的な支配者だったということだろうか。
 https://kazenoshin.exblog.jp/238134235/

 半沢氏の「歴史地図」のメモから上杉氏とのかかわりを確認すると二つのメモが拾える。
 その一つが、「虚空蔵堂内陣に上杉定勝(米沢二代目)の寄進した厨子がある」とあるメモ。更にもう一つが、満願寺が「元和4年(1618)米沢の法泉寺(上杉氏の菩提寺)の末寺となる」とのメモがあり、その前に「元天台宗か?」とのメモがある。
by shingen1948 | 2019-01-13 09:36 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 これは、虚空蔵堂の東側の岩に刻まれた碑文だ。石造十六羅鑑像の案内板では、「虚空蔵堂記碑文」と解説されているものだ。
a0087378_1134247.jpg ここには何度も来ているのだが、この碑文は確認したいと思いながらそのままになっていた。今回の「黒岩虚空蔵の算額」確認に来て、それを思い出して撮ったものだ。
 部分的な撮り方になっているのは、碑文の読めそうなところを確認したいと思っているからだ。

 碑文の前半は痛みがひどくて読めそうにもない。後半も最後の「12月」はそのままでも読めるが、手引きがあれば読めそうなのも数行だ。
 「信達一統志」に、その全文が紹介されるので、これを手引きにして確認しようと思ったのだ。
 
 最初に見えたのが、後ろから三行目の「是居巌谷笑我愚人智乃此身一生居君室食木石衣……」辺り。
 次に、それを手掛かりに次の行の「東有石刊之以其所述者山僧誰天南一生菴主也」が読めたような気分になれる。
 目が慣れてくると、その二行前の「巌山水間寥々石室人難知寂々……」あたりが見えてくる。その上は想像も働かせて「倡響池黒」かな?……といった具合で、読めた気分になることで、「虚空蔵堂記碑文」に親しみを持とうとしている。

 その上で、「信達一統志」に紹介される「虚空蔵堂記碑文」を確認する。同誌の説明にあるように、これは虚空蔵堂の縁記ということだ。
by shingen1948 | 2019-01-08 11:06 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

「黒岩虚空蔵の算額」④

 これは、「森谷岩松翁功績の碑」だ。
a0087378_11593115.jpg 案内柱の説明によると、この方は、明治4年に黒岩村長兼大蔵寺村長となり、後に大森村外18ケ村の村長となり、この地域発展に大きな功績があった方とのことだ。
 この碑は氏の7回忌に合わせて造立されたものとのことだ。
 その前面には、その功績が記され、その裏面にはその造立にかかわった大島要三氏ら17名の発起人とその賛同者 計170名の参加者名が記される。

 「黒岩虚空蔵の算額」が扱っている問題は、和算の最高峰に位する転距軌跡と、それに伴う重心問題を解く豁術の研究成果と位置付けられるとのことだが、ここに記される方々はこの地に平凡に暮らす方々だ。
 だとするならば、明治26年頃学びの年頃だった方々は、この碑が建立された明治45年6月頃には、地域の社会人として活動する年代になっているだろうと思えたのだ。
 それで、この碑の裏面に掲げられる「発起人」と「賛同者」の方々と照らし合わせてみた。
 すると、「賛同者」として、長澤政吉氏・赤間和市氏・長澤辰蔵氏・長澤常治郎氏が確認できた。 また、17名の「発起人」の中に、赤間彦四郎氏、中村熊治郎氏の二人が確認できた。

 17名の「発起人」の中には、信夫地域の時の実力者であった鈴木周三郎氏、内池三十郎氏、大島要三氏、青木金治氏が中心となっている。
 次の小杉善助氏・丹治清五郎氏、花輪利八氏は確認できないが、その次の阿部末之助氏が自由民権運動関係者だ。
 その後に記される大隈實岩氏・大隈宗演氏が満願寺の御住職のようで、その2名後に赤間彦四郎氏が、更にその2名後に仲村熊治郎氏が記される。
 この地域の代表として「発起人」に名を連ねたということだろうと思う。

 賛成者も、その上位には、角田林兵衛氏、内池三十郎氏、河野広中氏などの信夫地域の時の実力者が名を連ねる。長澤政吉氏・赤間和市氏・長澤辰蔵氏・長澤常治郎氏も、この地域の代表として名を連ねたということだろうと思う。

 なお、「黒岩虚空蔵の算額」で中村熊治郎とされる方と「森谷岩松翁功績の碑」で仲村熊治郎とされる方が同じ方だろうとの想像だ。「森谷岩松翁功績の碑」では「中村」氏は存在しない。すべてが「仲村」だ。

 自分の中には、時代と共に教養が高まってきたという思い込みの文化認識がある。しかし、今の時代の自分には、この地に平凡に暮らしていた方々の数学力に対応できる力を持ち合わせていないことが分かる。
by shingen1948 | 2019-01-06 12:01 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

「黒岩虚空蔵の算額」③

 前回は、「佐久間文庫」解説にある「和算の最後の花」とある「最後の花」について、「花」の方に重点をかけた解釈の場合として整理した。
 しかし、「黒岩虚空蔵の算額」には、「最後」の方に重点をかけた意味合いの見え方もある。
 この算額では、「最上流宗統派の系譜」の5伝曠齋氏の門人として6伝の長沢保斎氏である長澤忠兵衛氏の算法が記され、更にその保斎氏の門人として7伝の長澤辰蔵氏の算法が記される。
 「最上流宗統派の系譜」は、この7伝の長澤辰蔵氏で途切れるということだ。つまり、この方が「最上流宗統派の系譜」の最後ということだ。
a0087378_7272375.jpg この手振れの写真は、そのこととかかわる。ちらりと、「寄付  長沢〇蔵」と見えたような気がしたのだ。本当は家に戻って、写真で確認するつもりだったのだが、御覧のあり様。
 またの機会に確認するという課題メモになってしまった。

 さて、尾形貞蔵悦氏は、この最後の花である「黒岩虚空蔵の算額」を奉納する前年に、松川町黒沼神社にも同じような算額を奉納していることは「最上流宗統派の系譜」で整理している。
 その算額情報とも照らし合わせておく。

 「黒沼神社ホームページ」の算額紹介の写真で、長澤忠兵衛、赤間忠作、大槻重作、渡邉猪𠮷、尾形助太郎の奉納者を確認している。
 「黒岩虚空蔵の算額」には、その中の「長澤忠兵衛氏、赤間忠作氏、大槻重作氏」が確認できる。
 「黒沼神社の算額」にある尾形喜代松氏は尾形英悦氏の孫にあたる方との情報も得ている。その尾形英悦氏のお孫さんである尾形喜代松氏は、ここでは赤間忠作氏の門人として扱われている。

 ここからは勝手な想像だが、これは曠齋塾の組織だてがかかわっているのではないかなと思っている。直接的な指導者を〇〇門人としているのだろうと思うのだ。
 つまり、曠齋氏から直接手ほどきを受けるのが、長澤忠兵衛氏、菊池桝吉氏、大槻重作氏、赤間忠作氏であり、長澤忠兵衛氏から直接手ほどきを受けるのが、長澤辰蔵氏、長澤常治郎氏、赤間和市氏、中村熊治郎氏、丹治〇次郎氏ということだ。
 その見え方で見ると、尾形喜代松氏は曠齋氏のお孫さんではあるが、直接指導は森谷染吉氏、長澤政吉氏、赤間彦四郎氏、加藤亀次郎氏、長澤富蔵氏、森谷友太郎氏、赤間捨吉氏と共に赤間忠作氏から受けるということではなかろうか。
 年代別だろうか。
by shingen1948 | 2019-01-02 07:31 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)