地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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<   2018年 10月 ( 16 )   > この月の画像一覧

 「金谷川のあゆみ」が「最上流宗統派の系譜」について、今のところ確認できたのは、次のような事だ。

 まずは、「最上流宗統派の系譜」の繋がりそのもの。
 元祖会田安明氏<延享4年(1747)~文化14年(1817)>から土湯の渡辺治右衛門一氏(二伝)に継がれた最上流の和算が二本松の宍戸佐左衛門氏(三伝)に継がれる。
 ここから、安政4年(1857)に金沢村丹治重治氏(四伝)に継がれて、明治17年(1884)に浅川村舩橋の尾形曠斎氏(五伝)に継がれる。そして、明治38年(1905)に浅川村下中沢の長沢保斎氏(六伝)に継がれたものだ。
 ここまでが幕末の二本松藩領内での話だが、その後隣村の杉妻村黒岩の長沢辰蔵氏(七伝)に継がれたが、ここで後継者がなくなり、最上流は途絶えたとのことだった。

 次に、確認の方法。
 二伝の渡辺治右衛門一氏については、土湯の散策資料と二本松市史を中心に確認し、三伝宍戸佐左衛門氏については二本松市史を中心に確認をしてきた。
 四伝の丹治重治氏から六伝の長沢保斎氏までは、「福島のいしぶみ」とも照らし合わせながら石碑の碑文をもとに確認をした。
 まだ確認はしていないが、六伝の長沢保斎氏については「長沢清家和算資料」が福島県歴史資料館収蔵されているという情報も見つけている。「福島県歴史資料館収蔵資料目録38(平成18年度刊)」

 残ったのが七伝の杉妻村黒岩の長沢辰蔵氏の情報確認。
 六伝までは石碑を資料として確認してきたが、考えてみれば石碑は受け継いだ次の代の方が建てるものだ。最後の代である七伝の杉妻村黒岩の長沢辰蔵氏のものはない。
 それで、思いつく資料は奉納された算額だ。
 浅川村と杉妻村周辺の奉納された算額情報を拾ってみた。
 今のところ、七伝は長沢保斎氏から継いだものだろうと思うが、五伝の尾形曠斎氏からも直接学んでいたらしいという程度の確認でしかない。
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by shingen1948 | 2018-10-30 10:56 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回、宍戸佐左衛門政彝氏の算数の実力を示すのに、紹介されるままに「文政9年版『古今名人算者鑑』では西幕下14枚目に位置される」とした。しかし、これでは素人の散策人としては、どんな実力なのかが分からない。
 それで、ここに次の情報を付け加える。

 このランキングで、最上流二伝渡辺治右衛門一氏は、東前頭三枚目とされているとのことだ。その中で、弟子である宍戸佐左衛門政彝氏が西幕下14枚目にランキングされたということだ。
 ここにランキングされるという事がその位名誉な事なのだと読み取るべきだということが分かる。

 この辺りまで、二本松の資料で確認したことだが、ちょっと気になったことがある。
 それが、次のような渡辺東岳氏の門弟紹介だ。
 「二本松藩領の宍戸佐左衛門、鈴木〇〇〇、福島の丹治重治、三春の佐久間庸軒等々……」とある「福島の丹治重治」という表現だ。
 今回の整理の和算の系譜を「金谷川の今昔」に紹介される「最上流宗統派の系譜」というのをそのまま使わせていただいている。それとのかかわりだ。
 
 確かに、丹治重治氏が住した金沢村は、現在は福島の行政区だ。
 しかし、ここは幕末には二本松藩領であったはずなのだ。明治に入って、二本松から一時期川俣の管轄になり、それから福島の行政区になったという経緯のはずなのだ。
 二本松藩領の宍戸佐左衛門氏の門人である丹治重治氏は幕末から明治にかけての方であり、二本松藩領の金沢村だったとみてよいのだと思う。
 「宍戸佐左衛門、鈴木〇〇〇、丹治重治」が、二本松藩領との範疇で捉えたい。

 次の五伝尾形氏、六伝長沢氏の浅川村も幕末は二本松藩領であったが、その活躍期には行政区が福島に変化しているので、福島としてもよいのだとは思うが、その系統としては、少なくとも六伝の長沢保斎氏までは二本松領の系譜とみてよいのだと思う。
 七伝の長沢辰蔵氏は杉妻村黒岩なので、確かに元々の福島ではある。これだって「最上流宗統派の系譜」のままで支障はなさそうに思う。

 さて、二本松地域の資料の中に、最上流五伝丹治重治氏の幼少時のお師匠さんである野地弥源太豊成氏についてやや詳しく紹介されているのも見つけた。
 この方が安達町の下川崎に住し、野地観音堂に算額を奉納していることまでは知っていた。この資料は、その算額が二本松市指定文化財になったことを広報するもので、次のように紹介される。

 野地豊成は、文化元年(1804)古城内に生まれる。
 後、二本松城下の松岡で蚕物を扱う商家「柏屋」を営むかたわら、最上流和算家でもあった宍戸佐左衛門の門人となり、和算の普及に尽くした。
 
 野地観音堂に算額を奉納したのは、嘉永3年(1850)3月で、その額面には、円と楕円との接触の問題二問が彫り刻まれ、以前は図形の部分に白色と緑色の顔料で彩色されていたが、現在は剥落しているとのこと。
 その形状は、ケヤキ材一枚板の周囲を額装してあるものなそうだ。その額寸法は、縦40.5㎝、横56.1㎝、実寸法 縦32.3㎝、横48.4㎝ とのことだ。 
 これが旧安達町に残る算額としては最も古いという事で、昭和53年(1978)に有形文化財歴史資料として指定されたとのことだ。
 その安達町が二本松市に合併した事に伴い、二本松市指定に変更されたということの後方のようだ。
 なお、氏は慶応2年(1866)に没し、その戒名は「楽算院鉄山淨堅居士」だと紹介される。
 
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by shingen1948 | 2018-10-27 15:31 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
「和算「最上流宗統派の系譜」から⑤」で確認したように、福島地区の散策資料では最上流三伝宍戸政政彝氏についての情報は少ない。それで、それを挟んだ最上流二伝渡辺一氏と最上流四伝丹治重治氏の情報から宍戸政政彝氏についての情報を拾っていたところだった。
しかし、二本松地区の散策資料を確認していたら、以下のような最上流三伝宍戸佐左衛門政彝氏そのものの詳細情報もあることが分かった。

 二本松に生を受け、松岡町に住し、柏屋と称して米穀商を営む。
 渡辺東岳の高弟として名をはせ、多くの門人を輩出している。文政9年版「古今名人算者鑑」では西幕下14枚目に位置される。
 また、苗字帯刀御免、町検断補佐役に任じられ、仁慈・公共心に厚く、困窮者には米・塩・衣を与えて救助し、両社祭礼には町内若連に揃いの衣服を新調して贈るなど篤志の行いが多かった。さらに同町の纏に分銅型を用いたのは江戸消防6番組の纏を擬して製作し寄付したのが始まりとされ、「松岡の殿様」として尊敬された。
 元治1年2月24日没享年84歳、墓所顕法寺  

 宍戸佐左衛門政彝氏は、二本松では商人としても著名なようで、そちらからの視点では次のような情報になる。

 佐左衛門(政彜、元治2年没)は算学者として著名だが、嫡男金四郎(明治15年没)と共に商人としても成功している。
 当初は米穀店を開き、のち蚕物商を営み繁栄し、貧窮者に対する施し等は勿論、御両社祭礼の際の字分若連お揃いや消防組の纏の寄付は今でも語り伝えられ、「松岡の殿様」と称された。
 明治9年天皇御巡行の時には、岩倉具視の宿舎、大久保利通の休憩所にあてられた。

 なお、山形大学佐久間文庫をもとに昭和57年3月に復元されたというこの方が白河市明神 境明神に奉納した算額が白河歴史民俗資料館にあるようだ。写真での確認。

 まず、「所懸千奥州・野州境明神社者一條」との題。
 次に、算数の問いと答えがあって、その後ろに次のような奉納者名がある。

 奥州二本松家士最上流〇伝渡辺治右衛門一門人
        同所松岡町住 宍戸佐左衛門政彜 
 文化元年甲子三月
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by shingen1948 | 2018-10-24 14:29 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 今回得た和算についての情報を、2007年秋に土湯温泉辺りを散歩したこととかかわりながら整理している。
 前回は、「土湯温泉と高湯温泉③:薬師様(2007/9/24)」として整理した土湯こけし薬師堂にかかわる和算家渡辺治右衛門一氏土湯薬師堂に算額奉納情報を確認した。
 その算額に記される復元趣旨と「薬師こけし堂の由来説明板」解説から、当時の薬師堂は、現湯本下の町の共同浴場「中の湯」辺りに鎮座していたということが確認できる。
 御堂が流亡するのは大正2年8月27日の水害と推測できた。

 その共同浴場「中の湯」周辺については「土湯温泉共同浴場『中の湯』(2007/9/10)」で整理している。現在は新しく建て替えられているらしいので、建て替え前の姿ということでもある。
 https://kazenoshin.exblog.jp/6143371/
 寛政3年8月に和算家渡辺治右衛門一氏が算額を奉納した薬師堂はこの辺りということまでは分かるが、具体的にどこという情報はない。というか、恐らく度重なる水害と防災工事によって改変されているという事なのだろうと想像する。

 このあたりでもう一つ気になるのは、和算家渡辺治右衛門一氏が制を受けた湯舎会津屋もこの辺りでないのかなと想像される事だ。
 そこは、文化1年(1804)年頃、湯治に来ていた須永通屋(埼玉県)という方から和算を学んでいた所でもあり、山形から江戸に戻る途中に土湯に立ち寄った最上流の祖となる会田安明氏と出会ったところでもある。
 また、その出会いから江戸に出るのだが、故郷に戻って、文政2年(1819)に二本松藩に召抱えられるまで、度々二本松に出て和算を教えながら過ごしたところでもある。

 「中の湯」の写真の奥に橋が写るが、その向こうに現在「会津屋」という店があるが、これが、この「湯舎会津屋」とどうかかわるのか、あるいはかかわらないのかの手持ち情報はない。

 そして、先に「和算「最上流宗統派の系譜」から⑧」で、渡辺一の墓という標識を見つけたことがあったとしてふれた「土湯探索余談(2007/9/29)」も、この土湯温泉散歩だ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/6236962/
 最近、この墓地近くに須永太宗兵衛通屋(享和二年七月十五日没)の墓があるとする阿部寛氏による情報を見つけた。
 この方なら、先に「文化1年(1804)年頃、湯治に来ていた須永通屋(埼玉県)という方から和算を学んでいた」と記した方のはずだ。ここ土湯で亡くなられたという事のようだ。
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by shingen1948 | 2018-10-23 10:46 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 半沢氏の「歴史地図」をもとに土湯温泉辺りをウロチョロと散歩したのは、2007年秋頃だ。この散策をもとにして、今回和算について得た情報を加えてみる。

 まずは、確実な情報から。
 寛政3年8月に、和算家渡辺治右衛門一氏が土湯薬師堂に奉納した算額が復元されているという。 この算額が薬師堂に掲げられているとのことだ。
 この薬師堂については、「土湯温泉と高湯温泉③:薬師様(2007/9/24)」として整理しているが、確認してみるとこのことにふれていない。
 https://kazenoshin.exblog.jp/6211819/

 その復元された算額の写真を確認すると、末尾の「寛政三辛亥八月 最上流会田算左衛門安明門人 渡邊治右衛門一 印」の後に、次のような復元された趣旨が記されている。

 「原額は渡邊治右衛門一が故郷の薬師堂に奉納したもので時に二十五歳。当時薬師堂は土湯温泉発祥の名湯、中の湯の地に祀られていたが、度重なる洪水のために流出して幾星霜、昭和四十九年現在地に再興するに至る。奉納者の百五十回忌に当たり復元して懸額する。
昭和六十三年十月七日
         土湯薬師堂算額復元保存会
                  謹書 法井八夫」

 なお、「二本松市史」に記される算額の内容は、先に記した佐久間文庫などの記録をもとにしているとのことだ。

 散策時に整理した「薬師こけし堂の由来説明板」の解説と照らし合わせると、当時の薬師堂は、現湯本下の町の共同浴場「中の湯」辺りに鎮座していたということのようだ。
 御堂が流亡するのは大正2年8月27日の水害とのことなので、この原算額消失はこの時点でないのかなと想像される。
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by shingen1948 | 2018-10-22 11:16 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 旧旧ニ本松街道近くで、和算家渡辺治右衛門の墓という標識を見つけたことがあった。
 「土湯探索余談(2007/9/29)」の記事でそのことについてふれたが、この方が、今回整理している二本松藩士最上流二伝渡辺一氏だ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/6236962/
 この時には、その渡辺一の墓のある墓地らしいことまでは分かったのだが、渡辺一の墓そのものは分からないという事で、そのままになっていた。

 二本松市史の情報から、このことにかかわりそうな情報を確認しておく。

 まずは、二本松藩士最上流二伝渡辺一氏と土湯村との関りについての確認。
 氏は、保5年(1785)に土湯村の湯舎会津屋で生を受けている。
 そして、ここで、湯治に来ていたと思われる須永通屋(埼玉県)という方から和算を学んだとのことだ。これが19歳の時というから文化1年(1804)年頃だろうか。

 最上流の祖となる会田安明氏との出会いもここらしい。会田安明氏が、山形から江戸に戻る途中に、土湯に立ち寄ったとのことだ。この頃には、渡辺氏の名も奥羽だけでなく江戸にも知られるようになっていたとされる。
 ここで、渡辺氏の出題した問題を、会田氏は思ったよりも簡単な方法で解いてしまったという。それに感服した渡辺氏は、彼の弟子になるべく江戸に出たとのことだ。そして、最初の門人になったとのことだ。
 23歳の頃とのことなので、文化5年(1808)頃ということになるだろうか。

 この会田氏との出会いの話は土湯の散策資料にもあったのだが、そのままにしていた。その確からしさが伝説に近い話なのだろう思ったからだ。
 しかし、市史によれば、この事は渡辺氏の著書に書かれている事なのだそうだ。

 この後、氏は江戸に登るが、やがて土湯に戻る。
 この頃には、度々二本松に出て和算を教えていたようだが、文政2年(1819)には、二本松藩に召抱えられる。

 ここからが、渡辺一の墓があるらしい墓地とのかかわりも意識した情報の確認だ。
 氏は、二本松藩に召抱えられこの時に、嫡男を土湯に残し、後に二本松藩武衛流砲術家となり家禄を継ぐ二男未分氏を連れて着任したとのことだった。
 ならば、土湯の渡辺家を嫡男が継いでいるはずで、渡辺一氏の墓が土湯にある可能性はあるということだ。
 氏は天保10年(1839)72歳で亡くなるようだ。墓碑を探すなら、その法名もヒントになりそうだが、それが東嶽院不朽算額居士とのこと。
 ただ、二本松の情報では法輪寺墓地に墓碑があるということだが、こちらもあり得る情報だ。
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by shingen1948 | 2018-10-21 09:58 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「日本古典作者事典」に「息子未文は砲術家、孫の孫市は武衛流砲術師範」とあったことの情報確認の続きだ。
 「孫の孫市は武衛流砲術師範」の部分だが、この孫市氏は、嫡男渡辺貫氏を指しているようだ。
 この方も武衛流砲術師範とのことだが、二男の木村貫治氏も家禄65石の武衛流砲術師範のようだ。この方は木村左司馬次章氏の養子とのことだ。
 「二本松市史」では、「郡山市大槻町『安斎家文書』」を元に「幕末の二本松藩砲術の実態」を記述するのだが、天保14年(1843)5月17日に実施されたこの方が22歳の時に行われた砲術披露の様子が記されている。

 ここまでたどると、先に整理した「二本松少年隊の悲劇」の話と繋がるようだ。
 この「二本松少年隊の悲劇」の話では木村銃太郎さんが有名だが、この方の父親が木村左司馬次章氏の養子になられた最上流和算家渡辺治右衛門(東岳)の孫である貫治氏という事だ。

 先に「大河ドラマ視聴「八重の桜」~第24話「二本松少年隊の悲劇」で、それまでに整理した二本松の戊辰戦争関係の記事を概観している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/17970618/
 その中の「大壇口古戦場を訪ねる」が、木村銃太郎さんかかわりだ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/5755201/
 
 他の戦いの記述にも「武衛流砲術」が登場する。これも、最上流和算家渡辺治右衛門(東岳)の子未分氏の流れをくむ二本松藩砲術ということで繋がるということだ。
 また、「大河ドラマ視聴「八重の桜」~第24話「二本松少年隊の悲劇」②」で、木村門下生とあるのは、木村貫治氏の門弟ということになる。
 https://kazenoshin.exblog.jp/17976158/
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by shingen1948 | 2018-10-19 10:05 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回は、「十文字岳温泉」引湯工事の引き湯設計が、二本松藩士最上流二伝渡辺一氏の仕事であることの情報確認をした。
 今度は、「日本古典作者事典」に「息子未文は砲術家、孫の孫市は武衛流砲術師範」とあったことの情報を確認する。

 「二本松市史」の「幕末の二本松藩砲術の実態」の前項で、他の武芸よりも砲術が足軽芸として一段低く見られていた風潮が解説される。更に、その本項に入って、二本松藩の伝統的な砲術について解説された後、幕末に新たな流派が加わったとして次のように解説される。
 「二本松砲術師範として、さらに文政年間「武衛流」が加わることになる。文政2年(1819)、二本松藩は最上流和算家渡辺治右衛門(東岳)を召抱える。治右衛門の子未分は江戸に登り、武衛流砲術の渡辺次左衛門の門に入り、奥義を極め師範代となり、帰藩後は砲術方として教授を始めたと見てよい」

 「息子未文は砲術家」であることの確認としてこちらの解説を引いたが、興味深いのは、和算と砲術の関係についての紹介だ。
 この時代、一流の和算家の多くはすでに弾道学や爆圧力の計算をてがけていたといわれているそうだ。渡辺治右衛門氏も、砲術修業の功をなした息子に算法書各所から必要事項を抜抄して「砲器製作算法」と名付けて与えたとある。
 未分氏の深い砲術力学の知識は、砲術の師から未分氏に砲筒の割合、筒圧、筒玉などを相談する書簡が残っているという事などで確認できるとのことだ。この知見の深まりには、和算家渡辺治右衛門氏のおかげもあっただろうことが伺える。

 ここまででは分かりづらいのは、家系的な繋がりだ。結論的には、「治右衛門の子未分」とされる未分氏は、治右衛門氏の二男のようだ。
 それが分かるのは、次のような事情説明だ。
 
 砲術の師から未分氏への相談の書簡など二本松藩の幕末の砲術に関する資料が残るのは、「郡山市大槻町『安斎家文書』」とのことだ。
 何故この安斎家にそれが残るのかということだが、大槻下町名主となる安斎太郎右衛門氏は、安斎家に婿入りした未分氏の兄の子なのだそうだ。
 つまり、文政2年(1819)に最上流和算家渡辺治右衛門(東岳)が二本松藩に召抱えられ時に、嫡男を土湯に残し、二男未分氏を連れて着任したということだ。その二男未分氏が家禄を継いだ二本松藩武衛流砲術家ということのようだ。
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by shingen1948 | 2018-10-18 10:39 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 最上流三伝宍戸政政彝氏についての情報は少ないが、それを挟んだ最上流二伝渡辺一氏と最上流四伝丹治重治氏については容易に確認できる。そちら情報から宍戸政政彝氏についての情報を拾う。

 「日本古典作者事典」の渡辺一氏の項の中に「門弟:宍戸政彝・佐久間正晴ら多数」とある。
 ここからは、宍戸政彝氏が、佐久間正晴氏と共に、最上流二伝渡辺一氏の高弟であっただろうことが伺える。
 また、丹治重治氏の項では、「1850(14歳)野地豊成門、最上流和算宍戸政彝まさつね(:二本松藩士/渡辺一門)門」とある。
 ここからは、宍戸政彝氏が丹治重治氏の師であるという事と共に、氏が渡辺一門の二本松藩士とされていることに着目したい。
 ここに、前回確認の「ふれあい歴史館」所蔵算額に「最上流三傳完戸左エ門政彝門人 信夫金澤〇 丹治栄之助重治」とあることから読み取れる最上流三伝であること、碑文にその門弟丹治栄之助重治が最上流四伝であることの情報を加えて、宍戸政彝氏にかかわる情報としておく。

 次に、最上流二伝渡辺一氏についての情報を確認する。
 「日本古典作者事典」で確認していて、気になったのが次の二つの記述だ。
 それが、「1824山崩の岳温泉の引湯工事:25完成」とあることと「息子未文は砲術家、孫の孫市は武衛流砲術師範」とあることだ。

 まずは、「1824山崩の岳温泉の引湯工事:25完成」から確認する。
 これは、最上流二伝渡辺一氏が二本松藩士として、「十文字岳温泉」引湯工事の引き湯設計にかかわったということとかかわるようなのだ。

 「岳温泉観光協会」のホームページに、「岳温泉の歴史・伝説」を紹介するページがある。
 http://www.dakeonsen.or.jp/history.stm
 元々の岳温泉である湯日(元岳)温泉が山津波によって一瞬にして崩壊、埋没するのが、文政7年8月のようだ。
 次が十文字岳温泉時代<文政8年(1825)~慶応4年(1868)>になるようだが、以下はその時代の紹介の出だしの記述だ。

 「藩は元岳温泉から6キロ程下の平原地(現在の不動平)に新温泉地を建設に着手した。引湯設計は藩随一の算学者渡辺東岳が行った。鉄山の湯本からの引湯は、当初は土管を樋として土中に埋めたが湯冷めがするため、松の木管に変更するなど大がかりだった。そうして費用5千両をかけ驚異的な早さで翌年7月に完成したのである」
 
 ここに、「引湯設計は藩随一の算学者渡辺東岳が行った」とある。
 「最上流二伝渡辺一」氏の字は貫卿で、通称は治右衞門、その号に、東岳・斎・ていさい・西河・現在坊があるということだ。
 従って、この「藩随一の算学者渡辺東岳」は、「最上流二伝渡辺一」氏の号で紹介されているということだ。

 この「十文字岳温泉」を訪ねて「十文字岳温泉地を訪ねる」として整理したのは、2006年だが、この時に最上流二伝渡辺一氏のかかわりに気づいていない。
 https://kazenoshin.exblog.jp/4587792/

 なお、元々の岳温泉である湯日(元岳)温泉については、主として「安達太良山③~元岳温泉」で整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/7573762/
 次の「安達太良山④景色の中から」からは、現在の岳温泉の源泉になっていることとのかかわりで整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/7576602/
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by shingen1948 | 2018-10-16 12:55 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 江戸後期の「福島の和算」という時に、その福島というのは福島県を指すのか、信夫郡の福島地区を指すのかを見極めないと曖昧になる。
 福島県を指す時には、二本松の和算家渡辺治右衛門一から、その第一の高弟とされる明治期にかけて活躍した船引の佐久間纉(庸軒)に繋がる系譜を最上流和算として紹介される事が多い。
 今回の整理は、その福島を信夫郡の福島地区周辺に限定した上で、二本松の和算家渡辺治右衛門一から繋がる系譜を確認しているものだ。

 ここまでの整理を振り返る。
 まずは、石碑を資料に、金沢村の金沢村丹治重治氏→浅川村舩橋の尾形曠斎氏→浅川村下中沢の長沢保斎氏と繋がる系譜を確認した。
 次に、福島地区周辺からやや範囲を広げ信夫郡の佐藤元竜氏→佐藤刻治氏の系譜とその近辺の系譜を探ってみたということだ。

 これからの整理は、今までの整理とは逆方向に、金沢村の金沢村丹治重治氏から両派の共通の祖である二本松の和算家渡辺治右衛門一への繋がり確認だ。

 まずは、丹治氏の系を石碑の碑文で確認する。
 ここでは、氏は安達郡の野地豊成氏の門で学んだ後、二本松藩の宍戸政政彝の門下に入り、許されて宗統四世となったと記される。また、宍戸政政彝氏については渡辺一氏の一伝と記される。
 この系譜は、最上流元祖会田氏→渡辺一氏と繋がっているわけなので、その渡辺氏から直接宍戸政政彝氏へ繋がると読み取れる。宍戸政政彝氏を最上流元祖会田氏から数えると宗統三世という事になるのだろう。ここから繋がる丹治重治氏が許されて宗統四世となったと読み取ることができる。
 この脇に建つ案内板の説明では、許されて宗統四世となるのは安政4年(1857)とのことだが、碑文にはその時期の表記は見当たらない。

 宍戸政政彝氏→丹治重治氏との繋がりは、安政七年(1861)に丹治重治氏が奉納した算額でも確認できる。
 この算額は「ふれあい歴史館」所蔵とのことだったので、今は閉じられた「ふれあい歴史館」に立ち寄った際の写真を何度も探してみたが見つからなかった。
 それで、確認できるものはないか探したら、「街角の数学」というサイトの「折々の算額」というページにこの算額が紹介されていた。この写真で「最上流三傳完戸左エ門政彝門人 信夫金澤〇 丹治栄之助重治」との記載が確認できる。
 http://streetwasan.web.fc2.com/oriori.html
 宍戸政政彝氏が最上流三伝であることは確からしいということだ。

 その最上流三伝宍戸政政彝氏についての情報は少ない。
 今のところ、「ふくしまの歴史」のダイジェスト版では二本松藩士と紹介され、同じ「ふくしまの歴史」近世版の「和算家丹治明斎の碑」では二本松の米穀商と紹介されているのを見るだけだ。
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by shingen1948 | 2018-10-14 09:51 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)