地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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<   2018年 09月 ( 12 )   > この月の画像一覧

 ここには、昼過ぎにお邪魔してご案内いただいた。曇り空の林の中ということで、古い安物のデジカメではピンが甘くなりがちだ。それでも、碑面の痛みはなく、碑文はきれいにメモることができた。
a0087378_5155485.jpg
 
 その「長澤保斎之碑」の碑文は、前回整理に続けて「穎悟特徴数理」となる次のような経緯が記される。
 
 厥三世祖曰忠吉以数学有名翁蓋稟其性者歟村有尾形英悦者
 亦以数学馳名人称之曰最上流翁就学其門嶄然露頭角後又就
 同村人丹治重吉究其蘊奥以授之于徒徒来自四方翁日夜教之
 而不倦郷人化之長数学者仍今不少云其功洵可謂大也矣

 ※厥 =その、 蓋 =おもうに、稟 =うける、歟 =や=であろうか、
 ※ 蘊奥=うんのう=奥義 極意、于 =往の意、徒 =その仲間 その同類の人
 ※ 不倦=飽きることがない 仍 =かさねて、洵 =まことに、也矣=断定・詠嘆・疑問などを表す助字 

 漢文の素養はないが、「金谷川のあゆみ」の以下の「長澤保斎之碑」紹介文と照らし合わせてその意は想像できる。

 丹治明斎、尾形曠斎に最上流の和算を学び、明治35年(1905) 尾形曠斎から算法印可を受け、最上流宗統六伝となり、大正11年(1922)75歳で没した。

 この「75歳で没した」の部分は、以下の碑文の〆の後に記される。

 大正六年歳次丁巳秋十月
 二本松 霞城 三浦譲撰
 福島 遂堂 高橋直周書併篆額 于時年七十五
 また、その枠から外れて「福島 佐藤喜誠鐫」が記される。
 ※鐫 =彫刻する

 「長澤保斎之碑」の碑文は、続けて授かった社会的地位を功績として記す。
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by shingen1948 | 2018-09-22 10:08 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「浅川、松川散策の写真メモから⑤~舟橋地区④:船橋観音堂②」で、この地区の「最上流宗統派の系譜」について整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/237920354/

 この中の明治38年(1905)に六伝の算法印可を受けた浅川村下中沢の長沢保斎氏の石碑が確認できたので整理する。
 「金谷川のあゆみ」ではその碑があるのはN氏宅内となっていたが、その敷地は広い。イメージ的にはN氏宅の西側の林の中に建っているという感じだった。
a0087378_544932.jpg まずは、この地区の「最上流宗統派の系譜」の概要を再掲する。
 二本松藩の最上流宗統派の系譜の初代は渡辺一氏で、それが完戸政彝(まさつね)氏に継がれる。この地区の金沢村丹治重治氏が下川崎の野地弥源太豊成氏と共にその門弟にいて、この丹治重治氏が安政4年(1857)に丹治明斉氏として四伝の算法印可を受ける。
 明治17年(1884)に丹治明斉氏の門弟だった浅川村舩橋の「尾形曠斎」が五伝の算法印可を受ける。先の浅川散策の舟橋観音でふれた方だ。
 そして、明治38年(1905)に、今回石碑が確認できた浅川村下中沢の「長沢保斎」が六伝の算法印可を受けたということだ。
 その後、隣村の杉妻村黒岩の長沢辰蔵氏が七伝となったが、後継者なく最上流が途絶えたとのことだった。

 次に、本題であるその最上流宗統派長沢保斎氏の確認に入る。

 「金谷川のあゆみ」では、氏を「心の文化財」から引いて次のように紹介する。
 長沢保斎は、嘉永元年(1848)この地に生まれ、名を忠兵衛あるいは英忠といい、保斎と号した。丹治明斎、尾形曠斎に最上流の和算を学び、明治35年(1905) 尾形曠斎から算法印可を受け、最上流宗統六伝となり、大正11年(1922)75歳で没した。

 この概要をガイダンスにして碑文を読んでみる。
 碑文は、次のように始まる。

 長澤保齊翁碑
 保齊翁通稱忠兵衛長澤氏信夫郡金谷川村淺川字中澤人也以
 嘉永元年四月生其家為考諱孫??妣同氏翁生而穎悟特徴数理


 ※考は亡き父で、妣は亡き母とのことだ。
 従って、その生誕については、嘉永元年(1848)4月に、亡き父の諱は貴英孫??で亡き母も同氏の家に翁は生まれたということで、やや詳しく記される。

 ※穎悟はすぐれて悟りのはやいこと、賢いことのようだ。

 碑文は、続けてその数理に優れた氏が、最上流宗統六伝を伝授する経緯が記される。
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by shingen1948 | 2018-09-20 10:42 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 この宿は、散策情報としては福島の範疇で整理されることが多いように思う。安達郡との境界である境川の信夫郡側であることが影響しているようだ。
 しかし、散策を通して感じるのは、少なくとも近世の八丁目宿文化圏は二本松の影響下にあるということだ。
 それで、「再び八丁目宿へ ~西東広親④」で整理していた西東広親の名乗りについて行き詰った時に、二本松側の情報から迫れないかを探ってみていた。
 結果的には、この事については不発だった。

 しかし、この情報の中に、幕末から明治にかけて八丁目宿とその文化圏にかかわった田島久敬氏などの文化人と結びつくものがあった。それが、二本松神社神官の情報だ。また、これが最近その息子さんが注目を浴びている立子山や川俣などの文化圏にかかわった朝河正澄氏とも結びつくようなのだ。
 それで、この事を八丁目宿散策余談として整理しておきたいと思ったのだ。

 まずは、手持ち散歩資料での二本松神社の沿革確認から、現鎮座地に遷座されるまでの変遷とその呼称をメモる。

 田地ヶ岡城時代の守護神は熊野大神を祭っていたとのこと。
 15世紀中頃、城郭が白旗ヶ峯に築かれ、その守護神が本丸に遷座した時に、八幡大神を勧請し、併せ奉って領内の総鎮守としとのことだ。その時の呼称が御両社。
 現鎮座地への遷座は、丹波光重公が二本松城主として入部した時とのことだ。
 この遷座によって、実質的に領内二本松藩領(安達・安積・信夫(一部))の領民の守護神にもな り、二本松藩の総鎮守になったとのことだ。
 神社の社領は五十石で、その遷宮式を斎行されたのが寛文元年(1661年)とのことだ。それ以来、領民の参拝が許されたことでにぎわい、門前町としても栄えたという。
 この御両社の呼称が、二本松神社とされるようになるのは明治5年とのことだ。

 次に、「二本松市史」で、その神官を確認した。
 「二本松市史」には神官の項があって、直ぐに二本松神社神官「安藤親重」氏の以下の概要が確認できた。
 
 幼名が求馬、薩摩守、後、兵庫又筑前と改める。
 家世代々郡山八幡宮神官で、国学和歌に長じていた。
 寛政元年(1789)正六位下に叙せられる。
 同二年(1790)12月藩主長貴公の命で、二本松鎮守永代兼帯の祠官

 寛政7年(1795)に亡くなられた神職であった薩摩守行廣氏とのかかわりでは、「薩摩守、後、兵庫又筑前と改める」が気になったが、それ以上は先に進めなかった。

 田島久敬氏や朝河正澄氏に影響を与えたのは、この安藤親重氏三子の安積民僑氏のようだ。
 なお、長子は郡山八幡宮神官を継がれ、次子の重満氏が、親重の次の代を継ぐようだ。この安藤氏の祠官は現在まで続いているようだ。

 なお、この確認を通して、「松川のあゆみ」で確認した文化人情報のほとんどが「二本松市史」で紹介されていることを知った。近世の八丁目宿文化圏は二本松の影響下にあるということをあらためて確認したということでもある。
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by shingen1948 | 2018-09-19 10:35 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 これは、散策の帰り道に撮った水雲神社近くの森の様子だ。もっと神社近くの風景も撮ったのだが、こちらはよく撮れていなかった。
a0087378_9464521.jpg この水雲神社は、今までの散策といろいろなことでかかわる。その一つが、「示現(慈現)太郎神社」散策とのかかわり。

 「示現(慈現)太郎神社」のご神体は宇都宮神社へ飛んだのだそうだが、この水雲神社の御神体は、その「示現(慈現)太郎神社」が鎮座する「古浅川」集落の水雲神社に飛んだのだとか。
 「金谷川のあゆみ」によれば、「古浅川水雲神社(鶏権現)」は、大竹森のご神体をひそかに移し奉ったとの伝承があるのだそうだ。以来大竹森の氏子との縁組はできなくなったのだとか。吉の目では、大竹森からご神体が飛んだと伝えられているとのこと。
 その現況だが、この神社には蚕の神様、水雲様、雷神様、熊野様、二十三夜様が祀られるが、大竹森から飛んだご神体は、熊野様ではないかといわれているのだとか。

 前回は、大竹森水雲神社の言い伝えについて「大竹が大音響とともに割れ滅した」ところまでで切って整理したが、その続きがあるようだ。
 大竹森に生息していた六頭の熊は、その大音響で各地に去り倒れたのだとか。村内の深沢、浅目、清の内の熊野神社はこの熊を祭祈したものなそうだ。他に、土湯の熊野権現もこの熊が行き倒れになったこととのかかわりなそうだ。
 「古浅川水雲神社(鶏権現)」境内の熊野様もそのかかわりでみたいということかな。

 もう一つのかかわりが、「浅川黒沼神社」散策とのかかわりだ。
 「浅川黒沼神社」には、地元の画家が描いた「浅川村見立八景」が奉納されていた。
 「『浅川黒沼神社』と示現(慈現)太郎神社④」で整理した時点では、「 黒沼晴嵐(くろぬませいらん)」の「黒沼神社」、「以後田落雁(いこうだらくがん)」の「富士浅間神社」、「平石晩鐘(ひらしいばんしょう)」の「浅川正観音」、「比丘尼石名月(びくにいしめいげつ)」の「薬師堂」にある「比丘尼石」を確認していた。
 https://kazenoshin.exblog.jp/237820728/

 水雲神社は、この「浅川村見立八景」がいう「大竹森明神」が祀られる「大竹森暮雪(おおたけもりぼせつ)」なのだ。これを確認したということになる。
 残りは、「古川帰漁(ふるかわきりょう)」「笠松夜雨(かさまつよさめ)」「台橋夕照(だいばしせきしょう)」という3つの風景ということになる。
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by shingen1948 | 2018-09-17 10:45 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 宮の前集落から山道を進んで、この神社に辿り着いたのは神社の脇だ。境内には、ここから入った。昨日使用の写真は鳥居越しに神社が写っているが、これは境内に入った後に回り込んで撮ったものだ。
a0087378_8494464.jpg 「金谷川のあゆみ」に、この神社にかかわるおおよそ次のような話が紹介される。この話には、神社に辿り着いて直ぐに撮ったこちらの写真が似合っているように思う。

 この地が米沢藩の領域であった頃、この明神付近一帯に巨竹が繁茂し密林状態だった。その竹は、直径2尺ほどあり風呂桶やその他の容器類に使用されていた。
 この竹を毎年御用竹として米沢まで搬送しなければならなかったが、これが大変な苦労だった。
村人は、この地で巨竹が産出しなければ、こんな苦労をしなくてもよいはずだという事で、この巨竹をどうするかを話し合ったがまとまらなかった。

 そんなときに、旅の六部(白衣をまとう諸国行脚僧)が、事の次第を聞き、自分が人柱になって、その願いを叶えるといって、村人に大穴を掘らしめ、大竹明神の黄金の御幣を抱いて、土中に埋めさせ、その上に下肥を散布し祈らせた。
 その深夜、大竹は大音響とともに割れ滅した。

 その後、村人は塚を発掘したが、そこに六部の白骨は見つかったが、大竹神社の黄金の御幣は発見できなかった。
 村人は、その六部の霊を慰めるために供養塔を建立した。

 この話の供養塔の所在は分からないのだが、この神社境内近くと思い描いて想像する。
 なお、この話に「大竹明神の黄金の御幣」というのが登場するが、これが、昨日整理したこの神社の鎮守神の概念でとらえた祭神の御幣ということのようだ。
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by shingen1948 | 2018-09-13 10:48 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
途中の道筋に竹が延びていたりして不安になるが、しばらく進むと神社らしき建物が見えてくる。結構大きな神社だ。
a0087378_5545018.jpg  「金谷川のあゆみ」によれば、鳥居には「昭和2年石工石川今朝松」と記され、傍らの石碑には世話人五十人の名が刻まれているとのことだが、確認しなかった。

 この水雲神社の祭神は、天水分大神で浅川村最古の守護神大竹森明神とのことだ。

 「ウィキペディア」で「分水神(みくまりのかみ)」を確認すると、水の分配を司り、水源地や水路の分水点などに祀られる神ということのようだ。水にかかわることから、祈雨の対象ともされたり、田の神や山の神とも結びついたりしたしたのだとか。
 後に「みくまり」を「みこもり」と解して、子供の守護神・子授け・安産の神ともされるようになったという。
 「天水分大神」は、その「分水神」とのことだ。日本神話ではハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメの子として天分水大神・国水分神が登場するという。

 「金谷川のあゆみ」で解説される事の一つが、この下の沢や沢水とかかわる浅川村最古の神ということなのだろうと思われる。
 雰囲気と共に、この鳥居の前の道筋を進めば、西に下り「深沢」に出るということも含めて合点がいく。

 もう一つ重ねられた意味があるようだ。それが「浅川村最古の守護神大竹森明神」ということだ。
 自己流の解釈も加えると、概念としては、鎮守神(ちんじゅかみ)に近い事を言っているように思う。浅川村という一定区域の土地を守護する神で、氏神・産土神の概念も重ねられた神なのではないかと読み取る。「大竹森明神」とのことなので、もうちょっと狭い範囲の区域の守護神ということなのかもしれない。
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by shingen1948 | 2018-09-12 10:53 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 旧国道は、水晶沢を通って奥州街道に接続する。
 しかし、旧国道開通以前、その北側から八丁目宿の方向には舌状に延びた台地がその行き先を阻んでいたという風景だったはずだ。
 その見え方でその風景を眺めてみると、結構奥まったところにある水雲神社がいつも気になっていた。
 ただ、立ち寄ってみようというところまではいかなかったのだが、今回の八丁目宿の散策の帰りに、そこに向かってみることにした。

 浅目前から西に向かう道筋に入ると、現東亜自動車学校の裏側に沢沿いの細い道筋がある。地図で確かめると、こちらは八丁目城の愛宕山を西に回り込んで市の沢に抜ける道筋のようだ。
 水雲神社への道筋は、その沢筋の西側のアスファルト舗装された高台に向かう道筋を進む。
 この道筋は、宮の前の集落で消える。
a0087378_10111842.jpg 辺りを見回すと、整備された山道があるのが分かる。これを進むのだろうと見当をつけて進む。

 これまで散策してきたところを俯瞰してみれば、中町から本町にかけての旧街道筋は八丁目城辺りから舌状に延びた台地を回り込んでいるということだ。そして、その台地の縁には常念寺、盛林寺、常光院、常円寺の寺々が並んでいたというとこだ。
 そこから旧街道は石合町へ進むのだが、これも、地形に沿ってその舌状に延びた台地の先端を回り込むという自然な道筋なのだ。
 その裏側の風景という事でもある。
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by shingen1948 | 2018-09-10 10:13 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_535337.jpg この写真も「八丁目家主一覧」の「検断 植木九郎右衛門(掲示板、高札、事務所)」と「名主 杉内与三郎」とあるあたりの現況ということで撮った写真の中の一枚だ。
 石合町に向かう方向に名主宅付近を撮っている。石合町は写る信号から右に入る。

 今回の散策は、石合町から散策し始めて、前回までの散策で確かめ直したかった本町付近まで戻ってみたということだ。

 最近の八丁目宿の散策は、八丁目村側から確認を進めてきた。天明根村・鼓岡村の中町・本町と確認してきているところだった。
 確認をしていくと新たに確認したいところが出てきて、そちらの散策に戻るという繰り返しだった。それで、ずっと本町から石合町にかけての散策にまで進まなかった。
 今回、石合町から散策し始めたのはそんな状況があったからだ。

 八丁目宿の散策はここまでだが、この帰りに浅川村の水雲神社に立ち寄った。この散策で常円寺に立ち寄った時に感じた空気感を引きずったのかもしれない。
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by shingen1948 | 2018-09-09 10:02 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 写真を整理していて気がついたのは、石合町側から本町に向かう時には、いつも道路の右側を通行していることだった。
 石合町から本陣までの間の本町の右側の風景をしっかりと捉えた写真がないのだ。
 今までは、自らに散策はママチャリか徒歩でという制限をかしてしていたことも影響しているかもしれない。

 それで、今回はその風景をおさえてみたいと思ったのだ。
 その視点を「八丁目家主一覧」の「検断 植木九郎右衛門(掲示板、高札、事務所)」と「名主 杉内与三郎」とあるあたりの現況ということで数枚撮ってみた。
 これは、その中の一枚だ。
a0087378_11372119.jpg なお、最近の散策では、散策したいところの近くまで車か、交通機関を利用して行って、そこから歩くということにして散策の範囲を広げているところだ。
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by shingen1948 | 2018-09-07 11:37 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回の散策で、常円寺あたりは、手持ち情報をよく確認しないまま散策していた事に気がいた。誤りについては「浅川、松川散策の写真メモから33」でおおよそ訂正したところだが、あらためて確認する。
 https://kazenoshin.exblog.jp/238134235/

 この常円寺は、「信達二郡村誌」では次のように紹介される。
a0087378_1091585.jpg 北部水晶沢に在り 境内東西32間南北12間 段別1段2畝23歩 官有地外に民有地3畝9歩有り 羽前国置賜郡米沢曹洞宗東源寺末派なり 慶長6年丑年奈良沢主殿助淳盛開基と云伝ふ

 このあたりの地域散策では、「羽前国置賜郡米沢曹洞宗東源寺末派」からは上杉氏とのかかわりを想像するものだ。「のりしろ散歩~米沢街道⑨(笹木野宿附近)~仏母寺」の整理でもふれているが、その中にこの寺の開基奈良沢主殿助淳盛氏も含まれている。
 https://kazenoshin.exblog.jp/19677037 /

 上杉輝虎(謙信)が、飯山城の防備強化のため、安田顕元(譜代衆。越後国安田城主)と岩井昌能(信濃衆。もとは高梨氏の同名衆)を派遣することを伝える手紙を出した相手とされる方の中に、仏母寺とかかる方と共に奈良沢氏名も見えている。
 その方々というのが、「信州飯山城(水内郡)の城衆(外様平衆)である上倉下総守・奈良沢民部少輔・上堺彦六・泉弥七郎・尾崎三郎左衛門尉・中曽根筑前守・今清水源花丸」ということだ。この中の奈良沢民部少輔とされる方だ。

 上杉氏にかかわる整理でお世話になったMASAさんが、そのブログでそれらの方々について整理されていらっしゃるのをみつけた。「泉八家と信達八寺」と題しての整理だ。(「泉八家と信達八寺 その1」) 
 https://blogs.yahoo.co.jp/ssyinb27/12021236.html

 既に主な信濃諸将と上杉氏とのかかわりの概略の基礎知識を有することを前提に紹介される。
 江戸幕府の時代には、武田侵攻からの時間も経過していて、信濃諸将は上杉家の中核となってしまう。その中の一人に岩井昌能氏がいらっしゃるが、泉八家はその本家筋や親戚筋にあたられる方々ということのようだ。
 奈良沢氏は、その中の一家ということのようだ。

 菩提寺建立経緯について読み取ると、「慶長3年(1598)1月10日、上杉景勝公の会津移封によって、泉八家は奥州信夫郡、伊達郡に所領を宛がわることになったとのことだ。それに伴って、信濃国高井郡・水内郡から菩提寺を移したとされている」とのことだ。

 それぞれの方々の信達地方の菩提寺は、次のように紹介される。

 南具羅東源寺(信夫郡名倉村)  尾崎三郎左衛門重誉
 喜松山嶽林寺(伊達郡糠田村)  上倉玄蕃元春
 天徳山明智寺(伊達郡増田村)  今清水掃部介重将
 般若山仏母寺(信夫郡笹木野村) 上堺左馬之助誉正
 玉泉山泉秀寺(伊達郡泉田村)  大瀧甚兵衛実安
 大悲山成願寺(伊達郡大波村)  中曽根小左衛門義清
 岩井山金剛院(信夫郡入江野村) 岩井備中守信能
 長沢山常円寺(信夫郡八丁目村) 奈良沢主殿助淳盛

 なお、常円寺の開創は天正9年(1581)2月25日に水内郡奈良沢邑とされていて、慶長3年に伊達郡糠田村に移転されたとのことだ。そこからこの地への移転という事になるようだ。
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by shingen1948 | 2018-09-05 10:11 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)