地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

<   2018年 09月 ( 19 )   > この月の画像一覧

 これは、船橋観音堂を訪ねた時に撮ったものだが、この右手の石碑がそれなのではないかと想像している。ただ、碑面が痛んでいて読み取れていない。
a0087378_4113684.jpg 地元の方に尋ねればすぐに分かると思うのだが、今のところそれもできていない。不確かなことなので、?をつけておく。
 ただ、「福島のいしぶみ」を確認すると、船橋観音堂境内の尾形曠斎氏の石碑の篆額は、「曠斎壽蔵碑」となっているということだ。
 それをヒントにこの写真を眺めると、右から二つ目の文字が「斎」の字が読めるように思う。そして、その右が「曠」であってもよさそうな気がするし、その左の文字列が「壽蔵碑」だったとしても矛盾はなさそうだと思うといった程度の確からしさはある。

 この写真から碑文を読み取るのは不可能だ。次の機会に新しいデジカメで碑文を撮ってみて、「福島のいしぶみ」の碑文と照らし合わせてみたい。
 そのために、「福島のいしぶみ」の碑文をメモさせていただいた。その中からの確かめ。

 尾形曠斎氏については、その二段目に以下のように紹介される。

 今玆甲午 翁齢六十 門人胥議 将建立碑 持所状群行
 懇余経緯之曰 翁名英悦 通称貞蔵 号曠斎 尾形氏 信
 夫郡金谷川村大字浅川人 其先出尾形若狭

 ※玆=ここに

 その方が、最上流宗統派五伝となる経緯については、次の段に以下のように紹介される。

 翁少学算数 覃思専攻数十年 得其奥旨 所謂最上流是也
 会田安明以是伝之渡辺一 一以是伝之宍戸政彝 政彝以是
 伝之丹治重治 重次伝是伝之翁 翁性撲厚 不屑々乎貨殖
 而資産頗贍 以其倹有法也

 ※覃=ふかい=深くひろい、屑々乎貨殖=こせこせする(「福島のいしぶみ」の注)、頗=すこぶる、贍=たりる=とむ
 ここでは、前回整理の最上流宗統派四伝「丹治」氏は「重治」となっている。

 碑文確認のためならここまででいいのだが、次の段も引かせていただく。というのは、次の段に、すでに洋算が着目される時代になっても、和算に需要があったことが記されるのだ。ちょっと立ち止まって考えたいと思ったのだ。

 生乎 焉 人排難解紛 村人毎有事之難処 就翁咨詢 翁
 処之曲尽其心 是以郷里 翕然推服焉 数為村吏府労績
 暇日 輙聚徒授数 諄々不倦 所著有算法詳解三百余巻
 明治維新以来洋算行 厭旧喜新之徒 往々棄和算 而入洋
 算 惟翁則不然 益鑽旧学 不肯趁時好 自非信之篤造之
 深者

 ※咨詢=参考として他の機関などに意見を問い求めること、曲尽=きょくじん=ことこまかに事情を説きつくすこと、翕然=きゅうぜん=多くのものが一つに集まり合うさま、推服=すいふく=人を敬って心から従うこと(心服)、村吏=そんり=村役人、輙=すなわち、諄諄=じゅんじゅん=相手にわかるようによく言い聞かせるさま、不倦=ふけん=手を抜かずにしっかりと、不然=事実はそうではない、鑽=さん=物事を深く究める、趁 =したごう

 なお、建碑は明治27年7月のようだ。
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by shingen1948 | 2018-09-30 10:09 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 長沢保斎碑では、裏面の確認を忘れていたが、この碑では一応確認はしている。ただ、碑面が痛んでいて、肉眼では彫られている文字は読めないなと思った。とりあえずメモ用に写真だけは撮っておいた。
a0087378_544246.jpg その撮った写真を確認してみたら、読める部分もあるようだった。それを「福島のしいぶみ」に、この背面に刻まれている以下の情報と照らし合わせてみる。

 背面
  最上流宗統四世明斎門人高弟
  岩代信夫郡一名 但馬出石郡一名 岩代安達郡八名 越後魚沼郡一名
  岩代会津郡一名 同信夫郡八名 世話人十二名 発起人八名(氏名省略)

 上段に、縦に「最上流宗統四世明斎門人高弟」とあって、その脇に十二名が列記されるのが分かる。また、下段に横書きで「世話人」「発起人」とあって、その下にそれぞれの方々の氏名がしるされるという構成らしいことも分かる。
 その下段の氏名部分はほとんど読み取れなかったが、上段の最上流宗統四世明斎門人高弟の氏名部分は読み取れるものがあったのだ。
 その中でも、最初に刻まれる「岩代信夫郡一名」の方が、尾形貞蔵氏であることが読み取れたのは成果だなと一人で勝手に思っている。
 この方が、先に整理したように、明治17年(1884)に丹治明斉氏の門弟で五伝の算法印可を受けた浅川村舩橋の「尾形曠斎」氏のようなのだ。

 なお、この丹治重治氏の以下の掲額についての別情報がある。
 安政7年正月(1860)に丹治粂之助重治名で信夫山の黒沼神社に奉納した額・福島市ふれあい歴史館で現存とか。
 また、明治24年4月(1891) 丹治重治他名で立子山の篠葉沢稲荷神社に奉納した額が現存とか。
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by shingen1948 | 2018-09-28 09:43 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 碑文は、以下のように建碑の経緯が続く。
 自分の興味は、その後に続く書と刻に移る。
 それ等を確認すると、この建碑事業のプロジューサーが気になる。自分は、その想像を頭においてこの建碑の経緯を読んでいる。

 嚮雖有厚幣以聘者以母老嗣幼辞而不就四方之士有負笈而入門者況於郷
 閭之子弟乎諄々教而不倦旁長漢籍撃剣余視余之学者明此則暗彼君則不
 然不啻通暁衆技治家也倹待弟子也信故家斉而弟子服焉人称為丹治氏之
 中興不亦冝乎嗣曰庄之助字重満号思斎温良端愨兼才学能継父志今玆君
 齢五十三門生欲建碑於信夫郡福島町鎮守稲荷郷社之側以酬其徳請文於
 余余與君相識有年於玆嘗感君之為人且嘉門生之志豈得謝之乎嗚呼君今
 而猶有此偉績百歳之後其美徳亦可想矣銘曰
  終始如一 三十余年 算海千仂 探珠索真
  発其未発 伸其未伸 偉業懿徳 親視其人

 明治二十一年十二月
  旭宇 新岡久頼書   布野義和刻

 ※旭宇 新岡久頼書

 この方は、弘前出身の有名な書家のようだ。弘化4年(1847)に江戸に出て寛永寺に寄宿して衆僧に書を教授した儒者なそうだが、維新後は清国を漫遊して明治17年に帰国し、東京下谷根岸に住んでいたという。
 この方に書をお願いする経緯は不明なのだが、それが想像できそうな情報を見つけた。
 旭宇新岡先生書「習字帖」の11冊が福島県学務課編纂で出版され、明治13年(1880)5月12日付け東京日日新聞にその広告が掲載されたようなのだ。
 出版所は東京本郷弓町の臨池社だが、その出版者は二本松町の太田長左衛門氏であり、福島県管内売捌人も同勘助氏とのことなのだ。

 ※布野義和刻

 「奥州街道:八丁目宿「眼鏡橋」のある風景④」で、信夫橋や松川橋の建設工事に、川俣町の布野氏が三春町の松本亀吉と共に参加していたことについてふれた。
 https://kazenoshin.exblog.jp/237473958/

 ここで、「川俣町の文化財」の「旧壁沢川石橋(眼鏡橋)」情報に、布野氏の更に詳しい以下の情報があることを記した。
 「設計施工者は布野宇太郎義成,弟源六義和兄弟で、布野氏は上杉氏家臣の家柄でその祖は西根堰工事の功労者と伝えられている。兄弟は『ぷっちの宇太郎、字彫りの源六』とうたわれた当地方きっての名工で、宇太郎の作には信夫橋(眼鏡橋)、飯野新橋、金華山の灯台等がある」
 この兄弟の弟の「字彫りの源六」こと布野源六義和氏ではないかと想像する。

 ここに、以下の碑文の前段の情報を重ねる。

 丹治賜君碑
 福島県書記官正六位永峯弥吉題額 田嶋寛撰

 ※福島県書記官正六位永峯弥吉題額

 この方は、幕末の幕臣で以下のような経歴のようだ。
 天保11年(1840)駿河国駿府幕府代官属吏高橋古大夫の第三氏として生まれ、幕臣永峰家の養子となる。
 戊辰戦争では、旧幕府軍とともに脱走、箱館政権の会計奉行のもとで組頭を務め、兵糧・銃器の調達などに従事する。降伏後は、謹慎を経て静岡藩に復籍。
 廃藩置県後は、静岡県に出仕し、権大属、二等属、一等属、少書記官、大書記官を歴任する。
 1885年に、内務省に転じ内務少書記官に就任。以後、大阪府書記官、福島県書記官を歴任する。
 この碑建立は明治21年12月なので、この頃の話なのだろうと思われる。
 この方は、その後、1891年には宮崎県知事に登用され、1892年には佐賀県知事に転任し、明治27年(1894)に没する。

 そして、「田嶋寛撰」である。
 先の八丁目宿の散策で、元二本松藩士で幕末から明治にかけて八丁目宿とその文化圏にかかわった文化人として田嶋久敬氏について整理している。この方だろうと思う。
 これらの人たちとコンタクトを取って、県庁が所在する地の郷社に建碑する事業をプロデュースできるのはどなたかと考えると、散歩人の素人判断では、この方ではないのかなと勝手な想像をしたところだ。
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by shingen1948 | 2018-09-27 10:47 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 多少和算についての予備知識がないと分かった気になれないのはこの部分だ。
a0087378_1413639.jpg
即是原晝穿受廻鈎転尽垂也以究乎数術之奥旨於是編算法天生法算
法圓線術算法環楕円算法廻題集算法転題算法称平術算法円理詳解算法
圓理極数算法垂弧術算法歴代集算法尖圓解等五百余巻以悉発其秘而伝
之門生其恵後進裨當世者不亦大乎洋算亦善代数術且通微分積分之法也

 ※まずは、「円理は八題有り」ということ。
 (その8題が)原、截、書、穿、受、廻、鉤、転、是れなり。
 原は象形を質して、円象玉類の諸形は、これを原題と謂う。原題の如く原形これを截分するは、これを截題と謂う。原形を異形に書くは、これを書題と謂う。原形を異形に穿つは、これを穿題と謂う。照形は其の光、別形に受くは、これを受題と謂う。糸を周らす内容形に及び筆文を挟みこれを廻すは、これを廻題と謂う。糸を以て垂形に鉤すは、これを鉤題と謂う。形を列し其の周に形を附し、又、其の周に形を附しこれを転距するは、これを転題と謂う。
 ※算法天生法
 最上流の祖会田安明氏が、代数の記法を分数の分母にも未知数を許すように改良して天生法と名付けたもの。これを元に楕円や円の幾何学的研究、有限級数、連分数展開などに著しい業績を残したのだとか。
 文化7年(1810年)に刊行された彼の著作 『算法天生法指南』 には、たくさんの公式が例題とともに系統的に記述されているという。

 ※算法の意を確認するのに、知りたい語に算法とつけると和算での意に辿り着きやすい。
 ※算法円線術=円線一致術?
 算変法は今日の反転法に相当する。これは〈円線一致術〉ともいわれる。長谷川の変形法や極形法にヒントをえた方法であるという文をみる。
 ※環楕円
 「算法楕円解」 によれば, トーラスを回転軸の上方から見た図を「類楕円」または「環楕円」と和算では呼んでいるという文をみる。
 ※算法称平術=重心を考える問題
 ※算法垂弧術
 「御製暦象考成上編巻三」に弧三角形下、斜弧三角形作垂弧法とあるのを見る。
 ※尖側円尖楕円
 尖長円 円環体(立環、うき袋)を平面できった時の図。尖長 立 円・回転楕円体の長径の一方の端を尖らせるようにしてできた形、らっきょうのような立体という解説をみる。
 ※極載
 極も載も漢字文化圏における数の単位の一つ。
 一、万、億、兆、京の次が垓(がい)といい、続いて杼(じょ)、穣(じょう)、溝(こう)、澗(かん)、正(せい)、載(さい)、極(ごく)と続く。

 当方はそれほど詳細に知りたいという事ではないので立ち止まらないが、結構、具体的な題や解法の情報としても流れている。
 なお、最後の行にかかわって以下の意を確認した。
 ※悉=ことごとく、すっかり、裨=おぎなう助け
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by shingen1948 | 2018-09-26 14:07 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 石碑には以下のような碑文が刻まれている。
 案内板の解説と長沢保斎碑にふれた経験をガイダンスとして、碑文を読んでみる。
a0087378_9471346.jpg


明斎先生(丹治庄作)碑
君丹治氏名賜字子通号明斎初称粂之助後改庄作岩代国信夫郡金沢村之
産也其先曰高橋石先京師人也天永元年来帰農焉寛永年中丹治但馬者継
其家有故改高橋為丹治君其後裔也君為人頴悟剛毅有出藍之才年甫十四
志数学執賛入安達郡人野地豊成氏之門後就二本松藩宍戸政彝翁而学焉
抑最上流元祖會田翁傳之渡辺一一傳之宍戸政彝政彝傳之君至君為宗統
四世君之於數也綜理微密若有所疑夜以継日不究其蘊奥則不措宍戸翁毎
感其資性鋭敏与確乎不抜之精神君常注意於稼穡毎農徘徊田圃或察五穀
樹芸之生育或視桑茶栽培之良否帰則直閲算書一食一沐之間心無不在焉
夜則探其理不至雞鳴其不眠数十年猶如一日其勉励非他人之所企及也夫
有此頴才而有此精神業焉得不精乎名焉得不顕乎終能著圓理十一題之法

 長いので、まずはこのあたりまでの整理。
 その意は何となく想像できたように思う。ここから先は、多少和算についての予備知識が必要なようだ。

 ※ 後裔=子孫、頴悟=賢いこと、剛毅=意志がしっかりしていること
 ※ 出藍之才
 <藍=師匠で青=弟子>
 氷は水からできるが、水よりは冷たいように、学問は絶え間なく続けるものであり、そうすれば、弟子は師匠を凌ぐ者になる。そうした弟子は、才能ある者として世にでる

 ※蘊奥=うんのう=奥義 極意、不抜=意志が強くて動揺しないこと、
 ※稼穡=かしょく=種まきと収穫=農業
 ※焉=えん 訓読みのいずくんぞは読まず、助字として句末に置いて語調を整え、断定の意を表す、
 ※業焉徳=いずくんぞ(「福島のいしぶみ」より)
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by shingen1948 | 2018-09-25 09:48 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 先に、下川崎の野地弥源太豊成氏と共に二本松藩の最上流宗統派門弟となった金沢村の丹治重治氏が安政4年(1857)に丹治明斉氏として四伝の算法印可を受けている事について記した。
a0087378_96236.jpg その丹治重治氏の碑が福島市の稲荷神社に建っている。ただ、こちらの案内板や石碑では重治という名は見えない。

 その脇に福島信夫ライオンズクラブの案内板あり、そこでは次のように解説する。

 <記念碑>明斎先生碑

 この碑は、福島市松川町金沢に生まれた最上流和算大家丹治明斎先生をしのび、門弟らによってその学績をたたえたものであります。
 明斎はその号で、天保7年(1836)の生まれ、通称を庄作または粂之助といい、成長して下川崎村古城内の野地弥源太について和算を学び後に最上流宍戸政彝の門下に入り、農業の側ら勉学を続け安政4年(1857)に許されて最上流四代目の学統をつぎ著書500巻、洋算にも精通した算学者でありました。
 門弟は千人ともいわれ、明治42年(1909)七十四歳で亡くなりました。碑の背面に見られるように但馬国(兵庫県)や越後国(新潟県)にも門弟がいたほど有名な学者でありました。

 この中の「最上流四代目の学統をつぎ」ということにかかわって、今までの整理との整合性について整理しておく。
 先の整理では最上流宗統派初代を渡辺一氏とした。
 しかし、最上流そのものとしての元祖は会田翁だ。従って、渡辺一氏はその二伝ということでもある。
 ここに登場する宍戸政彝氏は渡辺一氏からみるとその初伝であり、最上流としては三伝ということである。
 それで、「最上流四代目の学統をつぎ」としては、その三伝宍戸政彝氏から継いだものという事になるようだ。
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by shingen1948 | 2018-09-24 09:08 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「長澤保斎之碑」の碑文は、社会的地位を伴う功績が続く。

 翁名高一郷或推為村會議員又為地押總代又曾為収入役其功
 亦有不可没者焉翁今則置身間散之地優遊自娯頃日有志家廣
 與其門人謀欲建碑以傳翁名于不朽請余文余深感其功與門弟
 之情乃其蹟以次第之係以銘曰
  天時人事 皆歸數学 數学の教 不可姑置
  翁有見此 教之世人 厥功厥名 千載不泯
a0087378_851334.jpg
 ※焉=えん 訓読みのいずくんぞは読まず、助字として句末に置いて語調を整え、断定の意を表す、散=別れる
 ※謀欲=はかりごと
 ※ 姑置=問題にしない、厥は、ここではぬかずくかな? 千載不泯=長い年月が経っても滅びない

 この後に、前回ふれた以下が続く。

 大正六年歳次丁巳秋十月
   二本松 霞城 三浦譲撰
   福島 遂堂 高橋直周書併篆額 于時年七十五
         福島 佐藤喜誠鐫

 「金谷川のあゆみ」によれば、裏面に、金谷川・杉妻・松川・二本松・吉井田・岡山・福島・平田の門人47名の名が刻まれているという。「福島のいしぶみ」によれば、背面には門人46名、世話人9名の名が刻まれているという。
 この事は確認しなかったが、各地から多くの門人が集まっていたということは分かる。
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by shingen1948 | 2018-09-23 08:53 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 ここには、昼過ぎにお邪魔してご案内いただいた。曇り空の林の中ということで、古い安物のデジカメではピンが甘くなりがちだ。それでも、碑面の痛みはなく、碑文はきれいにメモることができた。
a0087378_5155485.jpg
 
 その「長澤保斎之碑」の碑文は、前回整理に続けて「穎悟特徴数理」となる次のような経緯が記される。
 
 厥三世祖曰忠吉以数学有名翁蓋稟其性者歟村有尾形英悦者
 亦以数学馳名人称之曰最上流翁就学其門嶄然露頭角後又就
 同村人丹治重吉究其蘊奥以授之于徒徒来自四方翁日夜教之
 而不倦郷人化之長数学者仍今不少云其功洵可謂大也矣

 ※厥 =その、 蓋 =おもうに、稟 =うける、歟 =や=であろうか、
 ※ 蘊奥=うんのう=奥義 極意、于 =往の意、徒 =その仲間 その同類の人
 ※ 不倦=飽きることがない 仍 =かさねて、洵 =まことに、也矣=断定・詠嘆・疑問などを表す助字 

 漢文の素養はないが、「金谷川のあゆみ」の以下の「長澤保斎之碑」紹介文と照らし合わせてその意は想像できる。

 丹治明斎、尾形曠斎に最上流の和算を学び、明治35年(1905) 尾形曠斎から算法印可を受け、最上流宗統六伝となり、大正11年(1922)75歳で没した。

 この「75歳で没した」の部分は、以下の碑文の〆の後に記される。

 大正六年歳次丁巳秋十月
 二本松 霞城 三浦譲撰
 福島 遂堂 高橋直周書併篆額 于時年七十五
 また、その枠から外れて「福島 佐藤喜誠鐫」が記される。
 ※鐫 =彫刻する

 「長澤保斎之碑」の碑文は、続けて授かった社会的地位を功績として記す。
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by shingen1948 | 2018-09-22 10:08 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「浅川、松川散策の写真メモから⑤~舟橋地区④:船橋観音堂②」で、この地区の「最上流宗統派の系譜」について整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/237920354/

 この中の明治38年(1905)に六伝の算法印可を受けた浅川村下中沢の長沢保斎氏の石碑が確認できたので整理する。
 「金谷川のあゆみ」ではその碑があるのはN氏宅内となっていたが、その敷地は広い。イメージ的にはN氏宅の西側の林の中に建っているという感じだった。
a0087378_544932.jpg まずは、この地区の「最上流宗統派の系譜」の概要を再掲する。
 二本松藩の最上流宗統派の系譜の初代は渡辺一氏で、それが完戸政彝(まさつね)氏に継がれる。この地区の金沢村丹治重治氏が下川崎の野地弥源太豊成氏と共にその門弟にいて、この丹治重治氏が安政4年(1857)に丹治明斉氏として四伝の算法印可を受ける。
 明治17年(1884)に丹治明斉氏の門弟だった浅川村舩橋の「尾形曠斎」が五伝の算法印可を受ける。先の浅川散策の舟橋観音でふれた方だ。
 そして、明治38年(1905)に、今回石碑が確認できた浅川村下中沢の「長沢保斎」が六伝の算法印可を受けたということだ。
 その後、隣村の杉妻村黒岩の長沢辰蔵氏が七伝となったが、後継者なく最上流が途絶えたとのことだった。

 次に、本題であるその最上流宗統派長沢保斎氏の確認に入る。

 「金谷川のあゆみ」では、氏を「心の文化財」から引いて次のように紹介する。
 長沢保斎は、嘉永元年(1848)この地に生まれ、名を忠兵衛あるいは英忠といい、保斎と号した。丹治明斎、尾形曠斎に最上流の和算を学び、明治35年(1905) 尾形曠斎から算法印可を受け、最上流宗統六伝となり、大正11年(1922)75歳で没した。

 この概要をガイダンスにして碑文を読んでみる。
 碑文は、次のように始まる。

 長澤保齊翁碑
 保齊翁通稱忠兵衛長澤氏信夫郡金谷川村淺川字中澤人也以
 嘉永元年四月生其家為考諱孫??妣同氏翁生而穎悟特徴数理


 ※考は亡き父で、妣は亡き母とのことだ。
 従って、その生誕については、嘉永元年(1848)4月に、亡き父の諱は貴英孫??で亡き母も同氏の家に翁は生まれたということで、やや詳しく記される。

 ※穎悟はすぐれて悟りのはやいこと、賢いことのようだ。

 碑文は、続けてその数理に優れた氏が、最上流宗統六伝を伝授する経緯が記される。
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by shingen1948 | 2018-09-20 10:42 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 この宿は、散策情報としては福島の範疇で整理されることが多いように思う。安達郡との境界である境川の信夫郡側であることが影響しているようだ。
 しかし、散策を通して感じるのは、少なくとも近世の八丁目宿文化圏は二本松の影響下にあるということだ。
 それで、「再び八丁目宿へ ~西東広親④」で整理していた西東広親の名乗りについて行き詰った時に、二本松側の情報から迫れないかを探ってみていた。
 結果的には、この事については不発だった。

 しかし、この情報の中に、幕末から明治にかけて八丁目宿とその文化圏にかかわった田島久敬氏などの文化人と結びつくものがあった。それが、二本松神社神官の情報だ。また、これが最近その息子さんが注目を浴びている立子山や川俣などの文化圏にかかわった朝河正澄氏とも結びつくようなのだ。
 それで、この事を八丁目宿散策余談として整理しておきたいと思ったのだ。

 まずは、手持ち散歩資料での二本松神社の沿革確認から、現鎮座地に遷座されるまでの変遷とその呼称をメモる。

 田地ヶ岡城時代の守護神は熊野大神を祭っていたとのこと。
 15世紀中頃、城郭が白旗ヶ峯に築かれ、その守護神が本丸に遷座した時に、八幡大神を勧請し、併せ奉って領内の総鎮守としとのことだ。その時の呼称が御両社。
 現鎮座地への遷座は、丹波光重公が二本松城主として入部した時とのことだ。
 この遷座によって、実質的に領内二本松藩領(安達・安積・信夫(一部))の領民の守護神にもな り、二本松藩の総鎮守になったとのことだ。
 神社の社領は五十石で、その遷宮式を斎行されたのが寛文元年(1661年)とのことだ。それ以来、領民の参拝が許されたことでにぎわい、門前町としても栄えたという。
 この御両社の呼称が、二本松神社とされるようになるのは明治5年とのことだ。

 次に、「二本松市史」で、その神官を確認した。
 「二本松市史」には神官の項があって、直ぐに二本松神社神官「安藤親重」氏の以下の概要が確認できた。
 
 幼名が求馬、薩摩守、後、兵庫又筑前と改める。
 家世代々郡山八幡宮神官で、国学和歌に長じていた。
 寛政元年(1789)正六位下に叙せられる。
 同二年(1790)12月藩主長貴公の命で、二本松鎮守永代兼帯の祠官

 寛政7年(1795)に亡くなられた神職であった薩摩守行廣氏とのかかわりでは、「薩摩守、後、兵庫又筑前と改める」が気になったが、それ以上は先に進めなかった。

 田島久敬氏や朝河正澄氏に影響を与えたのは、この安藤親重氏三子の安積民僑氏のようだ。
 なお、長子は郡山八幡宮神官を継がれ、次子の重満氏が、親重の次の代を継ぐようだ。この安藤氏の祠官は現在まで続いているようだ。

 なお、この確認を通して、「松川のあゆみ」で確認した文化人情報のほとんどが「二本松市史」で紹介されていることを知った。近世の八丁目宿文化圏は二本松の影響下にあるということをあらためて確認したということでもある。
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by shingen1948 | 2018-09-19 10:35 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)