地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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<   2018年 08月 ( 9 )   > この月の画像一覧

 現在の風景の中で、西東塾の屋敷はどの辺りだったのかを確認をしようとしている。前回は屋敷の西側から確認を進めたところだが、今度は、その屋敷の東側から確認してみる。

 まずは、「八丁目家主一覧」で屋敷の並びを確認する。

 「西東薩摩」屋敷の東側には「明屋敷」があるようだ。その明屋敷の隣が「明宝院」で、そのまた隣が「地福寺」になっている。
 そして、その「地福寺」の東側に、北へ向かう道筋が描かれている。これが旧街道だろうと思う。その東側に「ハンドメ」があり、そこから南東方向に「川俣道」が記される。

 次に、これら描かれている事と現風景とを照らし合わせる。

 目印になりそうなのは、旧街道の道筋と川俣道なのだが、「八丁目家主一覧」には描かれていないが、現在の風景の中で気になるのは、この大日如来堂だ。
a0087378_17123127.jpg 地図で、右手の建物が石合町集会所であることが確認できる。
 左手に写るのは、その参道の西側の民家の建物だ。
 この左手に写る参道の西側の民家辺りに「明宝院」を想像する。そうすると、この参道東側の現在空き地になっている辺りに「地福寺」を想像することになる。

 更に、これらにかかわりある情報を当てはめて、想像の自然さを確かめる。
 その情報の一つが「松川のあゆみ」の寺小屋情報だ。
 この「明宝院」について次のような紹介をしている。
 
 石合町「明宝院」住職がK宥範氏で、この方が寺小屋師匠なのだが、この方は平林宥京氏のお弟子さんなそうだ。ただ、この寺に関する一切の資料は石合町の大火で焼失していて、詳細は分からないのだそうだ。

 この情報のS氏とあることとからんで、「明宝院」の位置は想像通りと勝手に思っている。
ということで、「西東薩摩」屋敷の位置は、西側の石造馬頭観世音像の建つお宅と「明宝院」がかかわると思われるお宅の間ではないのかなと想像するが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2018-08-30 17:14 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「八丁目家主一覧」の石合町に「西東薩摩」と記されるのが、俗称「さつま様」の西東塾の屋敷だと思われる。
 目印になりそうなのが、その屋敷の西斜め向かいに「作場みち」が走ることと、同じ並びの二軒置いた西側に「石はし」がかかっていることだ。この石橋の位置が本町と石合町の境になっていることも目印になりそうだ。
 これらの目印と現地を照らし合わせることで、その屋敷位置を絞り込んでみる。

 まず、作道みちだが、地形的にみて、福信の東側にある駐車場付近ではないのかなと想像できる。
a0087378_12391839.jpg 次に気になるのは、そのやや西側の向かい側の民家宅地内に石造馬頭観世音の案内柱が建っているお宅だ。案内柱には、福島県北部では最大の石像だと解説されるが、興味は石造ではなく、このお宅のほうだ。
 これが、「八丁目家主一覧」に案内されるS氏宅のような気がするのだ。確からしさは知らないが、散歩情報を継ぎ合わせるとそのS家は延宝年間(1673~80)に帰農した信濃武士とされるらしい。

a0087378_12401389.jpg 案内される石造馬頭観世音は、このお宅の奥のようなので写真だけ撮らせていただく。
 「こでらんにふくしま通」の「奥州街道八丁目宿の面影を訪ねる」の地図には、この馬頭観音を「石合地区にある高さ1.63mの 三面八臂後背の石像」と紹介する。

 先にここから二軒置いた西側の「石はし」を目印になりそうなものとしていたが、現地を歩いて見ると、これが「青麻神社」参道にかかわる道筋のような気がするのだ。
 「奥州街道八丁目宿の面影を訪ねる」の地図にもこの神社はプロットされるが、その解説はない。

 それで、これも散歩情報を継ぎ合わせて確認していると、このS家がかかわるようなのだ。このS家が青麻神を信仰したのが起源とされるらしいのだが、その確からしさは分からない。
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by shingen1948 | 2018-08-26 12:40 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「浅川、松川散策の写真メモから⑨~松川村道路元標」で、「信達二郡村誌」に「
村社『稲荷神社』は『北部稲荷に鎮座す』」とあることから、その所在を小字稲荷と推定した。そして、現稲荷神社の位置には、「(その稲荷神社の)遥拝所卯辰の間に面す(字中町に在り)東西5間半南北2間 明治八乙亥年九月十九日村社に列す」から、その遥拝所だったことを推定していたところだった。
 https://kazenoshin.exblog.jp/237953658/

 今回、「松川のあゆみ」の年表を眺めていたら、明治33年(1900)に「稲荷神社本殿が字稲荷から中町に遷座する」と記載されているのをみつけた。先の推定に確からしさが増したので、現住所も確認すると、現まつかわ西幼稚園・現旧松川小学校応急仮設住宅付近が字稲荷のようだ。
 なお、その年表では、その翌年には字稲荷に天理協会松川宣教所が設立されたとある。

 西東広親氏が神官をつとめていた時代までの稲荷神社本殿は、間違いなく字稲荷にあったという確からしさが高まったことになる。

 その字稲荷の西の愛宕山が八丁目城跡だ。
a0087378_442414.jpg これは、その「八丁目城址案内図」だが、先に八丁目城跡を散策して整理した時の写真だ。
 ここに旧松川小学校がプロットされるが、そこが二本松藩領になった時代に代官屋敷があったということになるのだと思う。

 「松川のあゆみ」では、野地源蔵氏が描いた代官屋敷略図から以下のように読み取っている。
 代官屋敷が建つのが旧松川小学校あたり。
 そして、その同心屋敷が並んでいたのは盛林寺墓地の西から愛宕山に登る道を挟んで建っていたことが読み取れるという。その屋敷は南向きだったことや、そこにはもみの倉庫も建っていたことも分かるということだ。

 これらの情報を重ね合わせると、稲荷神社本殿は代官屋敷の敷地内に建っていたということになるようなのだ。

 西東氏の名乗りは、このこととかかわるのかなと想像が膨らむ。少なくとも二本松藩とのかかわりで捉えようとしてみた。
 西東という姓は、この辺りでは二本松に多いようで、更に地域を絞れば塩原近くの湯川村に多いようなのだ。

 しかし、直ぐに行き詰る。というのは、寛政7年(1795)に亡くなられた神職であった西東行廣氏が「薩摩守」を名乗って活躍していた時代と、ここが二本松藩の支配下にあった時代を照らし合わせてみたら、しっくりといかないのだ。

 まずは、八丁目宿が二本松藩支配になる時代を中心にその前後の支配者を確認してみた。
 散策資料では、境川との関係で八丁目宿は福島藩領のイメージで語られることが多いが、それは堀田氏の時代までのことだ。ここ八丁目村は元禄13年(1700)からは幕領だった。
 これが、享保15年(1730)~寛保2年(1742)まで二本松藩(藩主丹羽高寛)あずかりとなる。先に整理した享保14年(1729)の一揆とのかかわりで、大森代官所付37カ村、川俣代官所付14カ村が二本松藩あずかりとなっていたこととのかかわりだ。
 その後、寛保3年(1743)には再び幕領となる。
 それが正式に二本松藩領になるのは天保3年(1832)からだ。ここから幕末まで八丁目村は、二本松藩の八丁目代官支配下となる。地元の念願でもあったらしい。

 これに西東行廣氏の時代を重ねてみると、残念ながら八丁目宿が二本松藩領となる前の幕領の時代なのだ。

 今度は観点を変えて、二本松藩の神官を確認してみることにした。
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by shingen1948 | 2018-08-21 10:02 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 西東塾の俗称は「さつま様」だったという「金谷川の教育」の情報がある。
 この左端の石碑は、その事とかかわる墓碑なのだはないかと想像する。
a0087378_17394617.jpg 前面に、〇「祠官薩摩守行廣墓」が読め、右面に「寛政7年」と数文字が2行にわたって刻まれているのが分かる。
 寛政7年(1795)に亡くなられた神職であった薩摩守行廣氏の墓碑であろうことが分かる。
 そこに「薩摩守」とあることと、西東塾の俗称は「さつま様」だったこととがかかわるのだろうということが想像できる。

 その「薩摩守」について確認をする。

 まずは、江戸時代の官名の名乗りとということからの推測。
 江戸時代の官名の名乗りは、有資格者の通称であって役職とはかかわらないようだ。ただ、
その官途名や受領名を名乗れるのは武家の中でも諸太夫以上とされているということではあるようだ。
 八丁目宿場にあっては、支配者層に属する家というにとどまらず、その中でも名乗りの有資格者であるという格付けをも意識されるということであろうか。
 ここまでは〇〇守という一般的な官職名の名乗りのことだ。

 この「薩摩守」というは、特殊な官職名であって、松平薩摩守である島津家の独占ということで、更にグレードが高いということで一目置かれていたということになるのだろうことが想像される。

 次に、ここが江戸時代のこの年代は二本松藩の支配下にあった事も考慮にいれて確認してみる。ただ、ここからの想像は曖昧さも多くなる。
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by shingen1948 | 2018-08-18 17:41 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「金谷川の教育」の情報では、石碑の前の石の祠が広親氏御夫婦の霊神墓のように解説される。
a0087378_13565620.jpg ならば、この右手の祠がそれにあたるのだろうと思われるが、どうだろうか。
 情報では、「源廣親・満津姫霊神墓(明治十三年)」が刻まれるとの事だが、確認できてはいない。

 先の散策では、その「金谷川の教育」の情報を元にして、西東広親氏が広栄氏と共に「石合の西東塾(俗称さつま様)」という私塾師匠であったことを整理している。
 その広親氏と広栄氏とは親子関係であるらしいことも確認しているのだが、この情報では、明治14年の明治天皇東北御巡幸の際に和歌を献上したのは広栄氏の方だと紹介されるのだ。

 それで、「松川のあゆみ」を確認し直す。
 ここでは、明治天皇東北御巡幸の際に「当日献上した詩歌」として、次のように記される。

 「祝辞 松川村 権訓導 平林宥京(天明根・西光寺住職)
  和歌 松川村 斎藤健輔(本町蝋燭屋主人・歌人号春連)
  和歌 村社神宮権訓導 西東広親(石合町・神官)」

 「福島のいしぶみ」の記述とも合わせて、天皇東北御巡幸の際に和歌を献上したのは広親氏の方だろうと推測しておく。

 今回、その「当日献上した詩歌」を確認していて新たに気になったのが、広親氏と共に、天明根西光寺住職平林宥京氏も権訓導とされていることだ。

 この職は、「再び八丁目宿へ ~西東広親②」で整理した教導職の最初の階級にあたる。
 西光寺住職平林宥京氏も、この職にあったということだ。

 この職は、当初は全ての神官と神道家、それに僧侶が任命されたとのことなので、自然な成り行きだったようには思う。
 また、この職は敬神愛国・天理人道・皇上奉戴に基づき、各地の社寺で説教を行ことが求められているとのことだったという。その教授内容の中心は、国家・天皇への恭順や敬神思想とのことだ。
 従って、御二人が明治天皇東北御巡幸の際に祝辞を述べたり詩歌を献上したりしたことも自然な成り行きだったように思う。

 ただ、平林宥京氏は、先に整理した「維新館」にも大きくかかわっているらしいのだ。氏はこの維新館の塾生となっている。それだけでなく、そのかかわりから松川小や浅川小の教師にもなっているらしいのだ。

 この「維新館」は、松川村が二本松藩士田島久敬氏を招いて立ちあげた私塾だ。これが八丁目小学校開設の原動力にもったとのことだった。
 塾の師匠は二本松藩士だ。当然、旧来の儒教や仏教重視の理念のはずなのだ。ならば、路線的には、この教導職とは対立関係にあったのではないのかなと思うのだ。その迷いのようなものがあったのではないのかなと想像するのだが、どうだったのだろうか。
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by shingen1948 | 2018-08-13 14:01 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「西東広親碑」の前半は、氏が権少教正の教導職に正式に任命されたことが記される。

 教導職は、神道国教化運動のために設置された明治政府の大衆化のための宗教官吏とのことだ。
 各地の社寺で、敬神愛国、天理人道、皇上奉戴に基づいて説教を行うことが期待されていたようだ。具体的には、国家・天皇への恭順や、敬神思想を中心とした内容で、ほかに、家族倫理、文明開化、国際化、権利と義務、富国強兵についての講義ということらしい。

 この制度自体は明治17年に廃止されているらしいので、明治18年7月9日付任命に危うさは感じる。
 ただ、その任命者稲葉正邦氏は、明治8年に神道事務局を設立して管長に就任し、明治17年に事務局が神道本局に改組されると、その初代管長に就任しているようなので、神道本局からの正式な任命であるようには伺える。

 この任命者稲葉正邦氏については、この地域では特別な思いもあるように推測する。
 その経歴を確認すると、二本松藩主丹羽長富のご子息らしいのだ。それが、稲葉正誼氏の養子になられたということのようだ。
 江戸時代は、山城淀藩主稲葉家12代となり、文久3年には京都所司代に就任。
京都守護職松平容保とともに尊攘派に対峙。老中にすすんで、国内事務総裁をかねて将軍徳川慶喜公を補佐した。
 しかし、鳥羽・伏見の戦いでは中立を宣言して、これが新政府軍勝利の一因となったとされる。この辺りの動きは、大河「八重の桜」の整理とのかかわりで引っかかるところではあるが、ここではふれない。

 明治期には、版籍奉還で淀藩知事になり、廃藩置県でその地位を退く。
 維新後は平田鐵胤に入門して神道に傾倒し、三島神社宮司や大教正などを歴任することになるようだ。
 このことが、明治初期の神道国教化政策整備に寄与する基になるということなのだろう。

 「福島のいしぶみ」では、この碑を文学碑に分類しているのだが、それは後半に氏の歌が刻まれるからだろうか。
 なお、その解説で、西東広親氏を石合町の神官とするが、これが八丁目宿の稲荷神社の神官であることは先の散策で確認している。
 また、明治天皇東北御巡幸の際、和歌を献上していることも先に確認している。
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by shingen1948 | 2018-08-09 11:11 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 今回は、先の散策で得た情報を確認したいということだ。
 その一つが、JA近くの丘に西東広親氏にかかわる碑があるという情報。その確認ができた。

 これが、この石碑のようだ。「福島のいしぶみ」では文学碑に分類されている。
a0087378_10214927.jpg

夙(つと)ニ敬神尊王ノ大義ヲ唱ヘ皇学ニ従
事シ師弟ヲ薫陶シ衆庶ヲ教化シ其功
績顕著ニ付別紙之通贈級候事

明治十八年七月九日
管長従四位子爵 稲葉正邦

贈権少教正 西東広親
かかる時さこそ名残のおしからめ
きゆれと□□ぬこころと知らすは
    (きえ?)
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by shingen1948 | 2018-08-08 10:22 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

池袋駅西口⑭

 明治通り以東は、丸池を主水源とした「弦巻川」の痕跡が下水道として残っていることが伺た。
 また、その下水道の「雑司が谷幹線」は、おおよそ「弦巻通り」に沿っているのだそうだ。ならば、こちらも「弦巻川」の痕跡とみてもよさそうだと思う。

 これは「雑司が谷 鬼子母神通り商店街 『ちょっとみちくさ』」の「雑司が谷七福神めぐり」の案内地図だが、ここにも「弦巻通り」が記される。
a0087378_543203.jpg ただ、丸池から明治通りまでの「弦巻川」の痕跡に該当するものはなさそうだ。当初は暗渠化された川筋を下水道としたように想像されるのだが、駅前の都市化開発に伴って改変されているようなのだ。
 想像した丸池の位置から「明治通り」と「弦巻通り」の交点を想像線で結んで「弦巻川」筋とするしかなさそうだ。
 ただ、JR線と西武池袋線のガードをくぐり池袋駅西口と東口を結ぶ道筋の南側は、道筋を眺める限り改変は少なそうだ。この中のどれかが「弦巻川」の痕跡ということもあり得そうだなとは思う。

 さて、最近「このまちアーカイブ(三井住友トラスト不動産)」の「池袋」のページ、池袋の地名の由来「丸池」に、豊島区立郷土資料館提供の大正7年(1918)頃の丸池の清掃の様子が掲載されているのを見つけた。
 これを見て、丸池はかなり大きな池をイメージしたことが間違ってなさそうだなと思った。
 https://smtrc.jp/town-archives/city/ikebukuro/index.html

 また、「でいすかばー・とうきょう『歩いて見ました東京の街』」の「第18章豊島区―補4<5/8>」に、「成蹊学園発祥の地 <豊島区西池袋 1-9> 「池袋地名の由来」に数枚の「元池袋公園」時代の写真が掲載されているのを見つけた。ここから「池袋地名の由来」の案内板や「池袋地名の由来碑」の位置は通り沿いに近いことが想像できる。

 空中写真を元に、丸池の位置を「元池袋史跡公園」と隣の池袋デュープレックスタワーとの境界線とその東側の道路端の交点あたりとしたところだったが、これも大きく違ってはなさそうであることが分かる。
 なお、「池袋地名の由来碑」に「むかしをしのぶよすがとして池を復元したものである」とある復元した池は「元池袋公園」にあったもので、「元池袋史跡公園」には存在しないことも、これらの写真から分かった。
 http://masanori1919.web.fc2.com/18_Toshima/18-04/18-04.htm
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by shingen1948 | 2018-08-05 09:40 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

池袋駅西口⑬

 新聞報道を読んだ時点では、捜査状況や遺体発見現場など、よく読み取れていなかった。

 「東京都水道局雑司が谷幹線再構築工事事故調査報告書」を確認する。
 捜索は、雑司が谷幹線の事故現場から下流と神田川、それに後楽ポンプ所とのことだ。また、遺体が発見されたのは、神田川と後楽ポンプ所。

 これは、それらの施設と現場との関係を表す地図だが、「東京都水道局雑司が谷幹線再構築工事事故調査報告書」からの転載だ。
 a0087378_12132664.png 雑司が谷幹線の赤線部分が、下水道事故が起きた工事現場だ。そこも含め、明治通りから護国寺まで東流している区間が「弦巻通り」と重なるようだ。

 護国寺から南下して神田川に注がれる区間の通りが「音羽通り」とのことだ。幹線がそこから暗渠化された神田川に合流する地点が「江戸川橋」ということのようだ。

 「毎日新聞(2008/8/6)」の記事によると、雑司が谷幹線では、普段は水深10㎝程度の汚水が流れていて、後楽ポンプ場を経て芝浦水再生センターに流れているのだとか。雨で水深が20㎝以上になると、その雨水は神田川に直接放流されていたとのことだ。

 散歩資料と照らし合わせると、護国寺から南下して神田川に合流する「音羽通り」には、水窪川というもう一つの川筋もかかわっているらしい。

 「音羽通り」の原風景は音羽の谷を埋め立てられてできた護国寺の参道ということであり、その参道の左右の崖沿いに二筋の川が流れ、その左側が弦巻川で、右側を水窪川が流れていたということのようだ。
 その二つの川筋は、それぞれに東西に流れている神田川に合流していたのだそうだが、暗渠化直前には、弦巻川筋は神田川の直前で水窪川筋に合流していたとのことだ。

 神田川川筋ももうちょっと複雑で、神田川から分水された神田上水が川筋の北側を流れていて、護国寺の参道以東は道路の下の暗渠となっているとのことだ。
 水窪川と弦巻川はその暗渠の「神田上水」の下を伏樋でくぐって神田川に合流しているとのことだ。
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by shingen1948 | 2018-08-03 12:15 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)