地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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<   2018年 07月 ( 8 )   > この月の画像一覧

池袋駅西口⑫

 今回の小さな散策で丸池とされる池まで整理が進んだところだか、確認作業を通して、平成20年(2008)の下水道事故は、この池を主水源とする弦巻川を転用した下水道川筋で起きていたことを知った。この事故自体は新聞報道で知っていたが、散策とは結び付いていなかった。
 
 この事故現場地図は「東京都水道局雑司が谷幹線再構築工事事故調査報告書」からの転載。黒線と赤線部分が雑司が谷幹線で、その作業現場が赤線部分。
a0087378_5364312.png この事故は、東京の下水道の工事作業中に、豪雨による増水のため作業員5人が流されて死亡したという事故だ。
 作業員が老朽化した既設管の中に入り、内側に樹脂を張り付けながら補修していたようだが、その管に一気に雨水が流れ込んで、作業員が流されてしまったという事故だ。
 報道や事故報告書では、この下水道を「雑司が谷幹線」と呼称していたが、これが弦巻川を転用した下水道川筋とのことだ。
 
 新聞報道を読んだ時点での印象も思い出して整理しておく。

 都会では、人間が多い分、都市景観上の負の遺産も多い。しかし、都会には、それを覆い隠して無いことにしてしまう力も備えている。
 下水道などは、環境保全のための汚水処理に伴う施設としての側面も捉えてはいる。しかし、よく考えれば、そのスタートは汚染に伴う河川の暗渠化であって、都市化に伴う負の遺産を覆い隠すことがその原点であったということに変わりない。

 その負の遺産を覆い隠すための施設が、大切な命をかけて維持管理しなければならない程巨大化しているというのが、報道から受けた印象だった。
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by shingen1948 | 2018-07-29 10:34 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

池袋駅西口⑪

 グーグル地図では、昭和22年・昭和38年の空中写真と現在の地図を重ねて表示することができる。また、その昭和22年の空中写真では、丸池らしきものが確認できる。
 それを元に丸池が現況のどこに位置していたものかを推理してみた。

 この空中写真との照らし合わせだけで推理すると、この「池袋地名ゆかりの地」の碑が建つ「元池袋史跡公園」と隣の池袋デュープレックスタワーとの境界線とその東側の道路端の交点あたりをその中心にしているような気がする。
a0087378_1252314.jpg その中心点からどのような池を想像するかということだが、その形は昭和22年の空中写真の拡大で確認できる。
 丸池とされる池は、西側から南側にかけては曲線になっているが、東側は長い直線になっていて、北側の直線と直角に交わっているようなのだ。丸い池ではなさそうなのだ。
 東側の長い直線と北側の直線は、そちら側が台地状の地形だからではないのかなと想像する。

 丸い形でないことにちょっと不安になるが、「Com support official webサイト」の「雑司が谷の歴史『弦巻川がきえちゃったよ』」で、丸池は四角く枠に囲まれたとの情報も見て安心する。
 http://com-support.co.jp/kamishibai/tsurumaki-river.html

 この池の形を丸と決めつけていたのは、単なる散策人の思い込みかもしれないと思って確認すると、鉄道教習所時代は石囲いの水溜となっているとの情報も見た。
 成蹊実務学校は、大正末には吉祥寺に移転になっている。丸池は昭和の初期には鉄道教習所の構内になっているはずなので、写真に写るのは鉄道教習所の構内時代の痕跡のはずだ。
 そう思い直すと、「成蹊実務学校」平面図の成蹊池も丸い形ではなさそうだ。

 その大きさだが、「成蹊実務学校」平面図では、寄宿舎や校長住宅と同じ程度の大きさに描かれている。結構大きな池だったということだろうか。プール代りに水泳を楽しんだという情報とも重なる。
 もっと大きく見積もって300坪という情報もみる。これなら、25mプールより大きめの池ということにもなる。
 散策時には、碑の傍の構造物を池を復元したものと想像をしたところもあるが、そんな小さな池ではないということだ。丸池は、想像を超えたかなり大きな池だったということのようだ。
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by shingen1948 | 2018-07-22 12:10 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

池袋駅西口⑩

 「成蹊実務学校」平面図の寄宿舎と成蹊池の部分を拡大して表示する。
a0087378_615214.jpg 「成蹊実務学校」平面図では、成蹊中学の寄宿舎南側の農園の南東隅に成蹊池が描かれている。これが、今回散歩の出発点とした丸池跡とかかわるもの思われる。
 
 「成蹊会」の成蹊探訪32成蹊学園発祥の碑のページで、「元池袋史跡公園」に建つ「池袋地名ゆかりの池」の碑にある地名由来の池は「成蹊池」と呼ばれた学園敷地内の池のことと解説しているので、間違いないようだ。
 
 寄宿舎の後方や池の南東に広がる農園の水源として想像を膨らます。しかし、この池はプール代わりに水泳にも使われたとも……。
 「青春彷徨-カメラと共に」のページで、『成蹊実務学校教育の思い出【桃蔭会川瀬一馬編(共立社印刷所昭和56年2月21日)】』にその様子が記されるという情報をみる。
 https://honcho53.exblog.jp/11747269/

 夏の初めに三日がかりで水を入れ替えて、きれいにすることから楽しみの行事だったという。
 人海戦術で池の周囲からバケツで一斉に掻き出したり、大きな桶に太い綱を三つ又に掛けて大勢で引いて掻き出したりして半日がかりで清掃をするのだそうだ。
 綺麗になった池は、二日程度で一杯になるという。
 そこでひと夏、水泳を楽しんだとのことだ。

 気になっている事の主は丸池だが、ここで村界も気になってくる。この辺りに村界とすべきものがあったはずだが、それが何だったかということだ。

 成蹊池付近を見渡すと、池から流れ出す川に東側から二本の川筋が見える。恐らく、他の水源地から流れ出た小さな流れの川筋なのだろうと思う。
 この低地も村界になり得るものだろうと想像する。しかし、その川筋が成蹊池から流れ出た川筋と合流した地点から川筋は南に向かうのだ。そこが地形的に谷筋になっているのだとすれば、村界線はそちらを走るはずだが、実際は、池の北側を走っているようなのだ。

 とりあえず、成蹊中学校寄宿舎裏の農地―花畑―中学校農園―成蹊中学あたりを走るような想像をしてみる。
 そして、その視点で「成蹊実務学校」創設者中村春二氏が描いたとされる絵を眺め直してみる。

 「この辺り凡て麦畑とある」と記されているメモがある。「この辺り」とは、校地を含む全体を指しているのだろうと思う。
 更に、学校の奥の木々並木を指して、「桃季にほふ……」と表現するメモもある。

 この事から、その麦畑の台地の縁に沿って桃の木が植えられていたのだろう事が想像できる。師範学校の塀が描かれる学校の手前の風景にも同じような並木の痕跡が描かれている。
 この並木のラインが、この辺りの微視的な地形変化のラインになって居るのだろうことが想像できる。
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by shingen1948 | 2018-07-16 10:10 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

池袋駅西口⑨

 前回の「池袋駅西口⑧」で、池袋公園の南西隅付近から見える「成蹊実務学校」の風景について確認した。これが、この辺りの大正初期の原風景なのだと思う。
 その「成蹊実務学校」の校地の様子が確認できる。
 国立国会図書館デジタルコレクションで「成蹊実務学校一覧」が確認てき、そこに校地の平面図が載っている。
a0087378_5193296.jpg 「成蹊実務学校」の風景と見比べる。
 
 まずは、学校としての敷地。
 風景として気になるのは入り口右手の四角い建物だが、これが木工作業室であることが分かる。実務教育の内容とかかわるのだろうか。その左手の建物が普通教室のようだ。

 その更に左側の建物に「疑念洞」とある。確認してみて分かったのが、ここは疑念法という座禅あるいは瞑想を行う場ということ。
 
 疑念法というのは、岡田式静座法に座禅の精神を加味して創造された行ということらしい。
 端座して目を閉じ雑念を払い、腹部に無念無想の境地に身を置く精神統一法とのことだ。これを、日常的に授業30分前に生徒も職員も行っていたとのことだ。
 これに修業的な意味を深めて、季節に合わせ、寒中に「裸体疑念」、暑中に「綿入れ疑念」を行ったとのことだ。
 大正2年からは、この行の後に「心力歌(心の力)」を唱和することになったということだ。
 (「『成蹊教育を知る<蹊>』~集中と自発的精神の育成のためにー裸体疑念―~」より)

 なお、その疑念法の元になる岡田式静坐法というのは、今では知る人が少ないが、当時は相当流行っていたようだ。東大、早稲田大学、一ツ橋大の静坐会なるものも確認できる。
 その静坐法の方法そのものについては、国立国会図書館デジタルコレクション「岡田式静坐の力」で確認することができる。
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935579
 その更に左側が、成蹊中学関連の建物になっていることが分かる。

 次に、寄宿舎と校長宅としての敷地。
 風景の図では、校舎の右手の建物の門が小宅入り口とあったことから、そこが創設者の中村春二氏宅と読み取った。しかし、中村春二氏宅は後方に見える建物だけのようだ。直ぐ手前の建物は寄宿舎であることが分かる。
 風景の図では切れているが、その右手に成蹊中学の寄宿舎が建っていたということが分かる。

 ここで、注目は、その後ろに成蹊池が描かれていることだ。これが、今回散歩の出発点とした丸池と思われ、これらの情報が今回散歩情報として繋がる。
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by shingen1948 | 2018-07-12 10:18 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

池袋駅西口⑧

 創設者の中村春二氏が明治45年(1912)に池袋に開校された「成蹊実務学校」を描いたとされる絵が、「成蹊学園」の「建学の精神」のページのアイコンになっている。
a0087378_10211562.jpg そのページを開くと、右手前の柵が、豊島師範のものであることが記されているのが分かる。更に、校舎の右手の建物の門は小宅入り口とあり、その建物が創設者の中村春二氏宅であることが分かる。
 https://www.seikei.ac.jp/gakuen/philosophy/kengaku/

 「黎明期の成蹊学園」のアイコンには、その頃の校舎写真が使用される。その概要には「中村春二は1906(明治39)年池袋に開設した学生塾「成蹊園」を経て、1912(明治45)年には成蹊実務学校を岩崎・今村両氏の賛助で創立します」とある。

 興味深いのは、この絵の学校前の風景だ。
 そこから、当時のこの辺りの原風景の情報が読み取れると思うのだ。

 地図でこの辺りの変遷を確かめると、この時期の「旧豊島師範用地」は「池袋駅西口⑦」で読み取った用地そのものではないことが分かる。
 「池袋駅西口⑥」で確認した昭和36年頃のマーケット付近詳細図の付属小学校と幼稚園の間の道筋と税務署の南側の道筋よりもう一本南の道筋とを結んだラインより北側が、この時期の「旧豊島師範用地」ということのようだ。
 つまり、先の絵の右手前の柵は、位置的にはその付属小学校の角付近ということになる。今回の散歩と照らし合わせると、その位置は池袋公園の南西隅ということになる。当時、その辺りから南側を眺めればこんな風景だったということになるようだ。そして、ここに描かれる道筋は、今回の散歩で歩いた道筋と重なるということのようだ。
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by shingen1948 | 2018-07-10 10:24 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

池袋駅西口⑦

 前回の映画館の位置だが、現在の「東武別館」の位置に「東宝」とされる映画館がプロットされるのをみた。この地図では、他に「豊島通り」の北側に「シネマロサ」という映画館が記される。この位置は、他情報の「世界館」「日本館」の二つの映画館があったとされる位置と重なっている。

 さて、今回の散歩とかかわって、「マーケット」と表記される「元東京府豊島師範学校跡地」部分と重なる部分の確認から「元東京府豊島師範学校跡地」を読み取る試みを続ける。
 「鹿島建設」のページの「鹿島の軌跡(第46回もう一つの豊島公会堂)」に【読売新聞(昭和30年<1955>7/1)】の「無法地帯・池袋西口マーケット10年ぶり実態調査」の記事にかかわる図が掲げられる。
 https://www.kajima.co.jp/welcome-j.html
a0087378_105940100.jpg 記事によると、初代の豊島公会堂が現帝京平成大学の所にあったそうだ。
 その建設者が区議会議長の原定良氏とのことだ。この公会堂は、いわゆる「民設公営」の公会堂だったそうだ。立憲民政党の政治家である原定良氏が建設して、豊島区に寄贈したものだそうだ。
 ここが田舎のままなら、名士として名を残していた方だろうと想像する。
 その原定良氏が、「元東京府豊島師範学校跡地」のマーケットの土地管理者として記事に登場するようだ。そのことにかかわって掲げられた図のようだ。

 この図には土地管理者の他に区画整理予定地の情報が読み取れる。この区画整理予定地の情報が、前回整理の昭和36年頃のこのマーケット付近の詳細図と重なる。更に、ここからは、旧豊島師範用地の情報も読み取れる。

 これらをもとにすると、現況と旧豊島師範用地の西側のかかわりが読み取れるということだ。
 今回歩いたのは劇場通りなので、旧豊島師範用地は、およそその道筋の一本西側の通りまでの範囲だったという事が分かる。
 更に、その南側だが、付属小学校の東側の一角が「元池袋公園」ということだ。これと現況変化によって「元池袋史跡公園」ができたものと思われる。
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by shingen1948 | 2018-07-07 11:00 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

池袋駅西口⑥

 今回の乗り換え前の散歩とのかかわりで前回の地図を眺め回す。
 気になるのは、「マーケット」と表記される「元東京府豊島師範学校跡地」部分だ。
 この部分、散歩とのかかわりで見ると、池袋西口公園のバスターミナル付近ということのようだ。

 昭和36年頃のこのマーケット付近の詳細図が、「椎名町商店街」のページの「西池袋の歴史」で確認できる。
a0087378_1065997.jpg マーケットの広がりは、北側は池袋西口バス通りに接していることが分かる。前回地図では「豊島通り」と表記された通りだろうと思う。その西側は、劇場通りを超えて「豊島税務署」の北側「立教通り」の付け根まで伸びていることが分かる。

 「池袋駅西口②」で、「この公園とその奥に見える東京芸術劇場は、東京府豊島師範学校と付属小学校の跡地らしい」とした。それはそれでよいのだが、東京府豊島師範学校の敷地はもっと広かったということだ。
 今回の散歩とのかかわりでは、その東京府豊島師範学校の敷地の広がりが気になる。

 気になる地点を、前回地図の表記の詳細という視点で見比べてみる。

 その一つが、「鉄道教習所」・「東京育英高校」だ。
 当初、「芝浦学園」の位置と重なるのだろうと思っていた。しかし、その位置の確認を進めると、「鉄道教習所」が「日本国有鉄道東京電気工事局」の位置で、「芝浦学園」の位置が「東京育英高校」と重なるような気がしてきたが、どうだろうか。

 もう一つが、「学芸大学付属小学校」だ。
 これは「豊島小学校」と表記されている位置と重なるのだろうと思う。プール脇に校舎図だけ記載されものは小学校の別棟だろうと思っていたが、詳細図からは、これが「池袋幼稚園」だろうことが読み取れる。

 更に気になるのが、地図の「東横デパート」だ。詳細図では「東横百貨店」となっている。その右手に「東武会館」が見える。この会館が東武百貨店本店なのだろうと思う。1964年に「東横百貨店」がその別館になるというという経緯を辿り、現況に至るということのようだ。

 本筋とはかかわらない事で気になっているのが、地図で幼稚園と小学校の間付近の駅側に「シネマ東宝」が記されている事だ。詳細図では、これが見当たらない。省略なのか消滅なのかは分からない。
 これとは別の詳細図資料を確認すると、現在の「東武別館」の位置に「シネマ東武」が描かれたものをみる。これ等の関連性については分からないが、少なくとも、この辺りに映画館があったという事ではあるように思う。

 なお、詳細図に記される「元池袋公園」は、今回散歩の起点とした「元池袋史跡公園」とは微妙に違うらしい。「元池袋史跡公園」の西側の建物の位置ということらしい。
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by shingen1948 | 2018-07-05 09:57 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

池袋駅西口⑤

 前回は、池袋駅西口の山手線から東武東上線に乗り換る前に散歩した範囲を「最新式大東京地圖番地入(大正11年)」の地図で確かめた。その同じ範囲を「東京都區分詳細圖 : 豊島区(昭和31年)」で確かめる。
 確かめる主な事柄は、前回確認した事の大正11年から昭和31年にかけての変化だ。
a0087378_1147485.jpg その一つは、前回もふれたが、「学芸大学付属小学校」の北側は元東京府豊島師範学校跡地のはずだが、ここが「マーケット」と表記される。

 これが、池袋のヤミ市とかかわるものと思われる。
 当初、ヤミ市は露店市場の形態をとっていたが、その露天商組合が政府の帝都復興方針に後押しされて「長屋式連鎖商店街(マーケット)」の形態になったとされるようだ。
 池袋のヤミ市は、駅の東口は早くから栄えたようだが、取り壊しも早かったようだ。昭和 24 年 3 月には区画整理が行われたという。
 その一方で、豊島師範学校の焼け跡につくられたこの大きなヤミ市は、次第にその規模が狭めらはしたが、昭和36年(1961)までその姿をとどめていたとのことだ。

 次に、「成蹊学校」が表記されていた辺りの変化だ。この地図では、ここに「鉄道教習所」・「東京育英高校」が表記されている。
 この「鉄道教習所」は、麹町区山下町にあった「鉄道院職員中央教習所」が、大正13年(1924)に成蹊学園の跡地に「東京鐡道教習所」と名称を変えて開設されたという情報と重なる。
 気になるのは「東京育英高校」も併記される事だ。
 確認すると、その両方とも財団法人鐡道育英会が運営していたということのようだ。
 その校名は東京高等工学校からが時代の流れに沿って東京育英中学→東京育英高校と改称されたもののようだ。
 なお、その財団法人鐡道育英会は、芝浦高・芝浦工業大学を運営する学校法人芝浦学園に吸収合併されるようなので、これらは現「芝浦工業大学」の前身ということになるのだろうか。

 「成蹊学園発祥之地」の案内は、元池袋史跡公園に立つ。地図の情報からは、この「元池袋史跡公園」も成蹊学園敷地であったことは分かる。しかし、成蹊学園の跡地が「鉄道教習所」・「東京育英高校」であるという情報からは、成蹊学園の校舎が建っていたのは現ルミネ付近だろうと思われる。

 ここまで整理してから分かったのが、ルミネの入り口に飾られた鉄道の車輪とその解説パネルがこれらを簡潔に説明していたということだ。
 直接的にはそこに飾られた「動輪の由来」を説明している。その中で「東京鐡道教習所」の跡地であることや、これが現「芝浦工業大学」の前身であること、「成蹊学園発祥之地」とも重なっていることを説明している。
 次のような説明だ。

 ここはかつて東京鉄道教習所があり、広大な敷地に校舎、大講堂、図書館、プール、寄宿舎など立派な施設が完備され、多数の鉄道マンが勉学にいそしんだ場所である。
 当時の所在地 東京府北豊玉郡西巣鴨町字池袋
 敷地及び建物 約37,000平方米の校舎、大講堂、寄宿舎など約100棟の建物があった。
 存在した時期  大正13年(1924年)〜昭和29年(1954年)
 またこの地は鉄道開業50周年記念事業の一環として設立認可された財団法人鉄道育英会により設立した東京鐡道中学校が東京鉄道教習所内に開校し、後に東京育英中学、東京育英中学校、東京育英高等学校、芝浦工業大学高等学校と改称し、昭和57年まで存在していた場所である。
 存在していた時期 大正13年(1924年)〜昭和57年(1982年)
 これらの施設は昭和20年4月14日の東京大空襲で一旦消失した。
 なお、この地は成蹊学園発祥の地でもあり、若者と教育に由緒深い土地柄である。
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by shingen1948 | 2018-07-01 11:55 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)