地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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<   2018年 05月 ( 10 )   > この月の画像一覧

 谷文晁氏は、「永慕編」に三代唱和の挿図を描いている。また、谷文晁氏の交友関係を確認すると、熊阪台州・熊阪磐谷の名が挙げられている。
 したがって、熊阪親子二代との交友関係にあるようなのだが、谷文晁氏側の資料で具体的な交友関係は確認できなかった。

 先に台州氏との交遊関係が確認できた太田南畝氏との交遊関係確認を通して谷文晁氏との交遊関係を確認できないかということで、先に確認した「浮世絵文献資料館」のページを開いてみた。

 太田南畝氏と谷文晁氏との交遊関係は、以下のように直ぐに確認できた。

 「河 世寧 寛斎の集ひ。天民・五山・谷文晁と同じく賦す」・「東叡山に花を看て谷文晁諸子に邂逅す」

 更に、谷文晁氏の子谷文一氏との交遊も確認ができる。

 「弥生九日、人の来て、よべ谷文一子身まかりしといふ。その夜のゆめにその人をみて」・「.谷痴斎の訃を聞く。疾に臥して会葬すること能はず。其の睡夢に痴斎を見る【痴斎、諱文一】」

  ここで、.「谷痴斎」とあるのは、一世の谷文一氏で、その子が二世の谷文一氏で文権・文逸を名乗るようだ。どちらも早世してしまうのは、熊阪盤谷氏の生涯と重なるような気がする。

 他の資料等からも、太田南畝氏と谷文晁氏との親密な交遊関係が想像できるようであることは伺えたが、ここ熊阪台州氏がかかわりをもつという確認はできなかった。

 今回、「谷文晁、高子二十境図を描く(磯崎康彦)」を詩文解釈のガイダンスに使わせていただいたが、ここに熊阪盤谷氏の著書からその交遊関係が示されている。
 
 寛政2年、盤谷は同郷の友人安松洲をともない文晁宅を訪れた。
 盤谷は写山楼で文晁と酒杯をかさね、また二女の舜英の琴を聞き、戯れて詩作した。
 「聞其妹蕣英弾琴、戯賦」

 寛政3年(1791)3月、盤谷が郷里高子村に帰るにあたり、文晁は一詩を送った。文晁のみならず妹の舜英も送別の詩を寄せた。
 これに、盤谷は返詩した。
      (戊亥遊嚢)

 寛政12年(1800)江戸に就いた際に、「東海文晁(写山楼)を訪れる」。2月下旬、柳橋の酒楼で儒者・詩人・書家等と戯作戯画を楽しむ。その中に、谷麓谷・文晁親子も同席した。

 「菊池衡岳(和歌山藩学習館儒官)の思玄亭に過る、偶々谷文晁至る、困てこれを賦して衡岳に呈し、兼て文晁に贈る」
      (南遊稇載録)

 盤谷氏の江戸文人との交遊は、父熊阪台州氏によって築かれた交遊関係が土台となっている。いわば親の七光りの上に構築されたものだ。
 父熊阪台州氏と谷文晁氏との交遊関係は確認できないが、盤谷氏の文晁氏との交遊確認をもって、その交遊を推定できるということのようだ。
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by shingen1948 | 2018-05-29 11:26 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回は、「白雲」という言葉のイメージが気になって「白雲洞」を整理した。本当は高子山にかかわる「高子二十境」までの整理のつもりだったので、付け足しの整理だ。
 ただ、この「白雲洞」は「高子二十境」の十九番目にあたり、その二十番「古樵丘(こしょうきゅう)」がそのすぐ隣の丘だ。「白雲洞」の散策時にはそちらの案内表示も見ている。
 「高子二十境」の最後の二十番を残すのは区切りが悪い。
 「谷文晁、高子二十境図を描く(磯崎康彦)」をガイダンスにさせていただき、こちらも整理しておく。
a0087378_9444471.png まずは、熊阪覇陵氏の五言絶句とその釈文とその解釈。

  古樵丘 熊阪覇陵

 独酌古樵丘      独酌す古樵丘
 詩成自飄逸      詩成って自ずから飄逸(ひょういつ)
 酔看浮雲過      酔うては看る浮雲の過ぐるを
 醒愛明月出      醒めては愛す明月の出づるを    
   
 ひとり古樵丘で酒を飲む
 詩ができ俗事から離れた隠士となる
 酔ってはよぎる浮雲を見
 覚めては明月の出を愛す

 素人判断だが、熊阪氏が抱く高子山の屋敷のイメージと重なっているような気がする。
 高子山の熊阪屋敷は、その屋敷が建つ地を「白雲館」とイメージし、その屋敷自体を「明月楼」とイメージしている。「明月楼」の明月と浮雲を白雲と見て「白雲館」とするイメージとの重なりだ。

 次に、熊阪台州氏の五言絶句とその釈文とその解釈。

  同前  台州

 一自樵翁去      ひとたび樵翁のさりしより
 遺蹤惟古丘      遺蹤(いしょう)惟(た)だ古丘のみ
 于今明月在      今に于(お)いて明月在り   ※于(ここにゆく)
 依旧白雲浮      旧に依りて白雲浮かぶ

 覇陵翁が世をさり
 古樵丘もただの古丘となった
 しかし今も明月は昇り
 白雲は浮かぶ

 ここでまた素人判断だが、辞書的には樵は林業に携わる者の事だが、ここでは、ここに暮らす庶民の生計の一つであり、半ば隠逸の士の生業でもあるとのイメージと重ねる。
 その半ば隠逸の士=樵翁=覇陵翁かな?
 「白雲」は「隠逸の世界」のイメージであることを先に確認したが、ここに浮かぶ白雲は、まさにそのイメージで、俗世を離れた隠逸の士が住む幽居深山仙郷に漂う雰囲気の象徴となっているのかな?

 更に、熊阪盤谷氏の五言絶句とその釈文とその解釈。

  同前  盤谷
 銜杯爽気来    杯を銜(ふく)めば爽気(そうき)来たり ※銜(くわえ)る
 高枕白雲開    枕を高くすれば白雲開く
 偏愛丘中趣    偏愛す丘中の趣
 陶然殊未回    陶然(とうぜん)として殊(こと)に回(かえ)らず

 杯をかわせばさわやかな気分となる
 枕を高くすれば天空に白雲浮かぶ
 丘中の趣はすばらしく
 満足して帰宅するのも忘れる

 地域を散策する者としては、俗世での成功を選択せずに、高子の仙郷に隠逸の士として住むことを決意した心境のようなものも感じる。
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by shingen1948 | 2018-05-23 09:47 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 高子山にかかわる「高子二十境」の整理をしていく中で少し言葉に敏感になったのだろうか。「白雲」という言葉のイメージが気になった。

 白雲は、辞書的には白い雲でしかないが、門外漢の散策人はその言葉の持つイメージがつかめていない。それで、「白雲」という言葉に「漢文」とか「漢詩」とかという言葉を付加して検索してみた。
 その確認を通して、「白雲」は古来より使われた詩語のようであることが分かった。そのイメージは、「隠逸の世界」というような感じのようなのだ。

 「李白詩」における「白雲」では、しばしば仙郷のイメージとしてつかわれ、隠者の散居の象徴とされるという解説をみる。
 また、「送別(王維)」の「白雲無尽時」とある「白雲」の解釈でも、俗世間を離れたイメージととらえ、「どこにいても君の上には、白雲が絶えることが無いだろう」すなわち「きっと、満足な隠逸の生活をおくれるだろう。」という意味にとるという解説もみる。

 今回の整理とどうかかわるのかということだが、その一つが「白雲館」のイメージで、もう一つが「白雲洞」のイメージとそのかかわりだ。
 その「白雲館」のイメージは「熊阪台州氏(その2)⑮~白雲館・明月楼・海左園」で以下のように整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/238326334/
 
 熊阪氏の屋敷図が建つ地を「白雲館」とイメージし、その屋敷自体を「明日楼」とイメージしているということだ。
 ここに郡内の俊英たちが覇陵や台州を慕って集るようになった文化サロンをも「白雲館」と称するようだが、それは派生的なイメージだ。

 前置きが長くなったが、新たに気になったのが「高子二十境」の「白雲洞」だ。それで、そちらも付け加えて整理しておきたくなったということだ。

 実際の「白雲洞」の散策は、先に「高子20境と史跡」で整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/9403859

 それで、新たに確認したいのは、漢詩と挿絵だ。
a0087378_5503756.png この挿絵は「伊達の散歩道(伊達市商工観光課)」の「高子二十境めぐり」という散歩資料で確認できた。

 漢詩は、今回の散策で参考にさせていただいている「伊達の香り」の「二十境の漢詩鑑賞」で、次のような熊阪盤谷氏の白雲洞の五言絶句釈文とその解釈が紹介されていた。

  白雲洞  熊阪盤谷
 独歩す幽洞辺     独り幽玄な岩屋の辺を歩く
 山中秋色の夕     山中 秋色が見え隠れする夕方
 丹楓遊子に媚び    紅葉した楓は 遊覧する人に媚び
 白雲過客を留む    山上にたなびく白雲は
            過ぎ行く人の足を留めさせる

 確認した「白雲」の言葉のイメージと重なるのかという意味で、覇陵氏や台州氏の詩も確認したいところだが、今のところ見つからない。
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by shingen1948 | 2018-05-21 10:46 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「伊達の香り」が示す「玉兎巖」の位置を参考に、「玉兎巖」の漢詩に添えられた谷文晁氏の挿図を見ていると、高子山の北側から眺めた風景という事になるだろうか。
a0087378_665282.png 「丹露盤」の漢詩に添えられた谷文晁氏の挿図は高子山の西側から眺めた風景だ。こちらの実風景は、高子山の稜線を確かめるのに何度か眺めていたのでなじみ深い。
 それに対し、「玉兎巖」の漢詩に添えられた谷文晁氏の挿図と実風景の関係性をスムーズに感じとることができていない。
 先にも記したが、駅前に掲げられる「高子二十境遊歩道案内」などでは「玉兎巖」の位置は別の地に記される。
 今回は散策の参考にさせていただいている「伊達の香り」が示す「玉兎巖」の位置は「丹露磐」近くの南東方向だ。
 この事を頭において、「玉兎巖」の漢詩に添えられた谷文晁氏の挿図を見ると、高子山の北側から眺めた風景のようだということだ。
 「玉兎巖」を意識して高子山を眺めたことはなかった。次の散策の機会に眺めてみたい。

 前回、「永慕編(熊阪台州)」の先の版は、地元の周俊・淑翰という方が二十境図を描いていたとされる情報についてふれた。
 ネットで、その周俊・淑翰氏の描いた挿絵と谷文晁氏の挿図が見比べられるページを見つけた。
 「福岡大学図書館」の「江戸・明治漢詩文コレクション」のページで、そのトップページに示されるのが、周俊・淑翰氏の描いた「丹露盤」挿絵ではないのかなと想像する。
 http://dc.lib.fukuoka-u.ac.jp/kanshibun/index.html

 その「コレクション紹介」のトップページに示されるのが、今回の「玉兎巖」の漢詩に添えられた谷文晁氏の挿図のようだ。
 http://dc.lib.fukuoka-u.ac.jp/kanshibun/collection.html

 その「目録データベース」の33に示されるのが、天明8年序(1788)刊の永慕前編で、周俊・淑翰氏の描いた「採芝崖」挿絵が確認できる。
 http://dc.lib.fukuoka-u.ac.jp/kanshibun/search_shousai.php

 その「目録データベース」の34に示されるのが、寛政13年刊(1801)刊の永慕前編で、谷文晁氏の描いた「採芝崖」挿絵が確認できる。
 http://dc.lib.fukuoka-u.ac.jp/kanshibun/search_shousai.php

 また、その「雅文学への誘い」では、その挿絵のみが改められていることの解説がある。
 http://www.lib.fukuoka-u.ac.jp/e-library/tenji/gabungaku/shiryou/s1_02a.html

 ただ、残念ながら、ここで周俊・淑翰氏の描いた挿絵と谷文晁氏の挿図とを見比べられるのは、「丹露盤」挿絵と「採芝崖」挿絵だけだ。
 しかも、「採芝崖」については、「伊達の香り」が高子山にあるとする情報を確認しただけで、その位置や実風景だけでなく、漢詩の確認もできていない。
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by shingen1948 | 2018-05-16 10:05 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「伊達の散歩道(伊達市商工観光課)」の「高子二十境めぐり」という散歩資料の「伊達氏発祥の地・高子ヶ丘と丹露磐」案内に、この図が添えられる。
a0087378_5454993.png 「永慕編(熊阪台州)」の二十境の「丹露盤」の漢詩に添えられた谷文晁氏の挿図だが、そうであることは説明はされない。
 誰でもが、当然知っていることとされているようだ。
 
 谷文晁氏を「美術人名辞典」で確認する。
 江戸後期の文人画家で、元・明・清画や狩野派・土佐派・文人画等の諸画法を折衷した新画風を創造し、江戸文人画壇の重鎮となった方との紹介。
 他に、卓越した画技とともに学問もあり、松平定信や田安家の後援を得て、当時の江戸画壇に勢威を誇ったという解説もみる。

 その江戸文人画壇の重鎮である谷文晁氏が「高子二十境」のそれぞれの漢詩に挿図を添えているということだ。

 実は、高子山の「高子二十境」の漢詩まで確認したのは、この谷文晁氏の挿図を鑑賞する素養の一つとして働かないかなという思いがあったからだ。

 確認していくと、谷文晁氏は高子村を訪ねることなく、この二十境図を完成しているということのようなのだ。
 氏の実際の風景を想像した資料としては、「永慕編(熊阪台州)」の先の版に地元の画家である周俊・淑翰が描いた二十境図と考えられているようだ。
 その周俊・淑翰が描いた絵から日常感を削ぎ落して加筆修正されるわけだが、その念頭操作の資料となるのは盛唐詩の影響を受けた熊阪三代唱和の漢詩だろうと想像するのだ。
 その絵は、漢詩の仙郷の印象を強めた表現になっているのではないのかなとの想像だ。
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by shingen1948 | 2018-05-14 10:44 | Comments(0)
a0087378_939966.jpg この「龍脊巌」の案内柱は、駅前に掲げられる「高子二十境遊歩道案内」で示される位置にたつものだ。先に「高子20境『龍背巌』と首塚」で整理したのは、そちらだ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/9390709/
 公的機関が配る散歩コース案内では、こちらが案内される。

 今回参考にさせていただいている「伊達の香り」では、その四番「龍脊巌」は、高子山の西稜線の岩場をイメージさせる。今回は、こちらをイメージしながら整理し直す。

 「龍脊巌」は、確認するまでもなく龍の背をイメージするような岩場ということだろう。
 「伊達の香り」の「二十境の漢詩鑑賞」では、こちらの詩歌は紹介されていない。それで、「谷文晁、高子二十境図を描く(磯崎康彦)」をガイダンスにさせていただく。

 まずは、熊阪覇陵氏の五言絶句とその釈文とその解釈。

  龍脊巌 熊阪覇陵
  
  峻巌不可行   峻巌(しゅんがん)行くべからず
  如立飛竜脊   飛竜の脊に立つが如し
  欲踏浮雲進   浮雲を踏(ふ)みて進まんと欲すれば
  天風生両脇   天風両脇(りょうわき)に生ず

  峻巌(しゅんがん)のため進めない
  飛竜の脊にいるようだ
  浮雲を踏(ふ)んで進もうとすると
  両脇(りょうわき)に天風を感じる

 次に、熊阪台州氏の五言絶句とその釈文とその解釈。

   同前 台州
  
  独歩峻巌巓(しゅんがんてん) 独歩す峻巌の巓(いただき)
  孤筇凌紫烟         孤筇(こきょう)紫烟(しえん)を凌(しの)ぐ
  忽疑立竜脊         忽(たちま)ち疑う竜脊に立つかと
  却憶葛陂仙         却(かえ)って憶(おも)ふ葛陂(かっぱ)の仙 

  峻巌(しゅんがん)の巓(いただき)を独歩する
  紫烟(しえん)のなか一本の杖にたよる
  ふと竜の脊にいるかのよう(に思う)
  葛陂(かっぱ)の仙の話を思いだす

 ここでいう「葛陂(かっぱ)の仙」は、葛洪著「神仙伝」巻5の壷公(ここう)の話に登場する以下のような話なのだそうだ。
 町役人費長房(ひちょうぼう)は、壷公(ここう)に誠実さを認められて仙人の世界に入った。苦難のなか、悪臭のひどい糞尿を食べられなかった。
 壷公(ここう)は、費長房(ひちょうぼう)にこれ以上の仙道は無理と告げ、一本の竹杖を与えた。費長房(ひちょうぼう)は竹杖に乗って帰り、杖を葛陂(かっぱ)に投げ捨てると、それは青い竜であったという。

 更に、熊阪盤谷氏の五言絶句とその釈文とその解釈。

   同前 盤谷

  独坐竜巌上   独坐す竜巌の上
  欲学駕竜人   駕竜の人を学ばんと欲う
  翠標如出脊   翠標(すいひょう) 脊を出すがごとく
  青苔似振鱗   青苔(せいたい)鱗(うろこ)を振るに似たり

  独り竜巌に座し
  駕竜の仙術を学ぼうとした
  緑の枝は竜の脊のようであり
  青い苔は竜の鱗のようだ

 ここでも、中国の故事の知識が求められるようだ。
 ここでは、散歩人の素人感覚で、台州氏が「葛陂(かっぱ)の仙」をイメージさせたことで、「龍脊巌」のイメージに広がりと深まりをもたらして、それを盤谷が受けて結ぶという感じかなということで収めておく。
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by shingen1948 | 2018-05-10 09:41 | Comments(0)
 二番「玉兎巖」は、今回参考にさせていただいている「伊達の香り」では、一番「丹露盤」の東側の岩場としている。ただ、駅前に掲げられる「高子二十境遊歩道案内」の案内板や「高子二十境巡りコースマップ」など、公的機関が配る散歩コースでは、その位置は別のところとしている。そこには、案内柱も建っているようだ。

 それはともかくとして、「玉兎巖」の「玉兎(ぎょくと)」は、辞書的な意味は「仏教や道教の影響を受けた伝説である「月の兎」に登場する架空の生物」とのこと。月に住み臼と杵で餅をつくというから、昔、月の影から想像した月の兎を想像する。
 「ウィキペディア」では、舞踊や歌舞伎の「玉兎」の演目の一つとも紹介されていて、「月の兎が臼と杵で団子を搗き、かちかち山の狸退治の様子も踊る」と解説される。
 金烏(きんう)と対の概念で、金烏が太陽の異称に対して、「玉兎」は月の異称だとするものもある。

 「伊達の香り」の「二十境の漢詩鑑賞」では、熊阪覇陵氏の玉兎巖の五言絶句に、次のような釈文とその解釈を紹介している。

  玉兎巖  熊阪覇陵

 酒を把る仙崖の上      仙崖の上で酒を飲む
 天風玉兔寒し        玉兎の岩を天風が吹きぬけ、寒い
 酔来肱臥する処       酔いがまわって寝ていると
 誤て月中の看を作す     誤って月の中に居る錯覚を覚えた

 「宮城の句碑歌碑詩碑」では、以下の熊阪盤谷氏の玉兎巖の五言絶句釈文が紹介されていた。

  玉兎巖 熊阪盤谷

 楓々たる清風の夕べ
 還っての玉兎巌に登る
 悠然として
 首を廻す処
 明日松杉を照らす

 次の散策の機会に、高子山の北側から眺めてその岩場を確認してみたい。
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by shingen1948 | 2018-05-09 12:36 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 今回の散策で、「将帰阪」とされる付近に丹露盤に向かう道筋を案内する標柱をみつけたのだが、これは偶然ではない。
a0087378_9531481.jpg ここに来るたびに、山裾の西側から南側にかけて眺めまわしていたのだ。それは、山頂から南に向かう嶺に沿った道筋が、どこに向かうのかなぁと思って探っていたところがあるのだ。
 最初に山頂の岩場である丹露盤を目指したのは八幡神社脇からだが、その時に、山頂から尾根筋を走る道筋の行方が気になっていたのだ。
 その地点を探ろうとするのは、散歩人の習性だが、今回はそれが案内されていたということだ。
 その山頂から南に向かう嶺に沿った道筋が「長嘯嶺」のイメージと重なるらしい。

 高子山の「高子二十境」の岩場を復習すると、一番「丹露盤」が山頂の岩場であり、二番「玉兎巌」がその山頂の丹露盤の東側の岩場であり、四番「龍脊巌」が高子山の西稜線の岩場ということのようだ。
 その事を頭において、三番「長嘯嶺」はどこかと考えれば、山頂の一番「丹露盤」と四番「龍脊巌」の岩場の間を結ぶ嶺道の道筋という事になるのではないのかなと思うのだ。

 その「長嘯嶺」の「長嘯」は、辞書的には「声を長くひいて詩歌を吟じること」とのことだ。
 「伊達の香り」の「二十境の漢詩鑑賞」では、熊阪覇陵氏の長嘯嶺の五言絶句に、次のような釈文とその解釈を紹介している。

 長嘯嶺  熊阪覇陵

 嶺頭長嘯し罷て         嶺の頂上で長嘯しおえると
 却て蘇門の岑を憶う       隠者たちが棲むという蘇門嶺を思い出した
 半嶺にして重て長嘯すれば    中腹に下って 再び長嘯すると
 自ずから鸞鳳の音を成す     自ずから鸞鳳の鳴き声のような音になった

 ※蘇門嶺は隠者の孫登が住むという山。
 ※鸞鳳は伝説上のめでたい神鳥。
 ※七賢人の一人の阮籍があるとき孫登を訪ねて蘇門嶺に登ったとき、いろいろと問答した。しかし相手にされず、頂上で長嘯したのち、山を下りた。その途中に孫登の長嘯する声を聞こえてきた。隠者とはこういうものだという古事を踏まえている。

 ここを散策するたびに山頂から南に向かう嶺に沿った道筋が気になって、山裾の西側から南側にかけて眺めまわしていたのだが、それが結果的には長嘯嶺の散策になっていたということのようだ。
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by shingen1948 | 2018-05-08 09:55 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 厄介なのは、散歩人程度の素養では、解説されて直ぐに納得といかない事だ。
 解説されたことの言葉の確認が必要になる。

 まずは、「孤標は、ただちに承露盤であり、仙人掌であり金狄掌である」とあることについての確認。
 「孤標」とは、他よりも一際すぐれているという意を含んで「山や樹木の特出的頂端」を意味するようだ。
 覇陵氏がいう特出的頂端は、丹露盤と称する高子山山頂の岩を指している思う。
 その鑑賞の解説では、この「孤標」は、直ちに承露盤・仙人掌・金狄掌をイメージしなければならないといっている。
 しかし、当方は、承露盤も仙人掌も金狄掌も確認しなければならない事だ。
 上手い具合に、「世界大百科」の「仙人掌」の解説は、以下のように「甘露」とのかかわりや、建章宮の「承露盤」の概念も関連的に解説してくれる。

 「仙人掌」は、天下泰平のしるしとして天からおりるとされる「甘露」を受けるための器物で、仙人が手のひらで盤を捧げ持つ形をしている。
 漢の武帝のときに、建章宮に高い銅柱の「承露盤」が作られ、その上に、この「仙人掌」が置かれて「甘露」を受けたと伝えられる。
 なお、この「甘露」は、玉屑と混ぜて飲むと、長生不死ができると信じられていた。

 「金狄掌」は、別に確認する必要がある。

 「金狄」の狄は、地域的な差別があるようだが、別称「金人、銅鑄的人像」とある。
 その「金人」を確認していくと、直訳的には、金属でつくった人の像の意だが、仏陀や仏像を意味するとの解説もみる。仏教の中国への伝来の歴史的事実と連関する処々の伝説があって、それとの関連があるらしい。

 次に、ここまでの確認をもとに、改めて熊阪覇陵氏の五言絶句を確認し直してみる。
a0087378_8595144.jpg
 丹露盤 熊阪覇陵
  丹巌高突兀  
  沆瀣滴雲寒   
  借門孤標勢   
  何如承露盤   

 その釈文
 丹巌(たんがん)高くして突兀(頭とうこつ)たり
 沆瀣(こうがい)雲に滴(したたり)て寒し
 借門す孤標の勢(いきおい)
 承露盤(しょうろばん)に何如(いかん)

 「伊達の香り」の「二十境の漢詩鑑賞」では、次のように解釈している。

 赤い色の岩が高く聳え、空に突き出ている
 夜露が雲の中を滴り落ち、寒さを感じさせる
 聞きたい 突き出た岩の感じは、
 中国の王宮にあるという承露盤と比較してどうであろうか

 なお、詩中の沆瀣(こうがい)は、確認した解説の「甘露」と同義の仙人の飲み物であるつゆということのようだ。
 また、「丹巌」の丹は赤い色を意味するようだが、こだわらない方がよいようだ。
 「丹露盤」の鑑賞の解説では、「その一つの岩がどんな形でどんなかげりがあり、どんな光と色を帯びて、どんなかなしみや喜びを称えているかということはどうでもよい」とある。

 散歩という範疇ではあるが、台州氏や盤谷氏の詩もこの流れでとりあえず解釈ができたつもりにはなれる。
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by shingen1948 | 2018-05-07 09:00 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 高子山山頂の「丹露盤」について最初にふれたのは、「高子ケ岡の『亀岡八幡宮』」の散策の時だ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/6331746/
 また、「福島の鉱山35~信夫地方の鉱山⑧~高子付近の鉱山と高子二十境」でも、ふれている。
https://kazenoshin.exblog.jp/23048300/

 「丹露盤」は、風景としては、散歩人の現在持ち合わせている知識でも識別できるものだ。それでも、漢詩を確認してみようという気になれず、敬遠していたところだ。
 今回は、「谷文晁、高子二十境図を描く(磯崎康彦)」をガイダンスとして、この「丹露盤」にかかわる漢詩ぐらいはお勉強してみようと試みた。

 まずは、熊阪覇陵氏の五言絶句。

  丹露盤 熊阪覇陵
 丹巌高突兀   丹巌(たんがん)高くして突兀(頭とうこつ)たり
 沆瀣滴雲寒   沆瀣(こうがい)雲に滴(したたり)て寒し
 借門孤標勢   借門す孤標の勢(いきおい)
 何如承露盤   承露盤(しょうろばん)に何如(いかん)

 熊阪覇陵氏は、この自らの漢詩に息子の台州氏に互吟唱和するように命じたのだそうだ。

 この段階でお手上げ状態なのに、この漢詩を味わうのには、詩を読みながら次々と中国の古典や故事を連想し、了解し同化する程度の中国学芸への広い教養が必要だというのだ。すぐに『洞冥記』『文選』『楚辞(そじ)』への同化が要求されているとのことだ。

  同前 台州
 亭亭丹露盤    亭亭たり丹露盤
 紫巌高百丈    紫巌(しがん)高きこと百丈
 上有雲表露    上に雲表の露あり
 不譲金狄掌    金狄(きんてき)の掌に譲らず

 一孤標は、ただちに承露盤であり、仙人掌であり金狄掌(きんてきしょう)であり、甘露であり沆瀣(こうがい)であるという、屈原、王子喬(おうしきょう)、宋王、李白への連想でなければならないのだそうだ。

 それは、理想だろうが、散歩人としては、せいぜいその意が解説から読み取れれはよいと思っている。
 解説に曰く、覇陵氏の詩中の沆瀣(こうがい)は仙人の飲み物であるつゆで、承露盤(しょうろばん)は漢の武帝が建章宮に設けた銅盤なそうだ。
 また、台州氏の詩中の金狄掌(きんてきしょう)は銅人像で、掌で不老の薬であるつゆを受けるとするのだそうだ。

 これに、覇陵氏は 「丹(あか)い岩がそびえ、夜露が雲中をしたたり冷たくぬらす。承露盤(しょうろばん)と比べてどうであろうか」と問うているのだそうだ。
 その問いに台州氏は、「高くそびえる丹露盤は百丈もの高さがある。雲上の露を受けるのも金狄(きんてき)の掌に負けることはない」と答えているのだそうだ。

 更に、盤谷氏が覇陵氏と台州氏両人の絶句に応答する詩が加わる。
 
  同前 盤谷
 一入青山路   ひとたび青山の路に入れば
 幽径接●(山+賛)〇(山+元)  幽径●〇(さんがん)に接す
 毎発紫霞興   紫霞(しか)の興を発する毎に
 幾過丹露盤   幾(いくたびか)丹露盤に過る

 「青山に入ると、高い巌山へと続く。紫の霞があらわれると、仙境に行きたく丹露盤を何度も登る」と結んでいるとのことだ。
 なお、この盤谷氏の詩は、台州氏が「永慕編」にまとめて盤谷氏に校正させた時に、盤谷氏が祖父覇陵氏と父台州氏両人の絶句に自発的に応答したものだそうだ。
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by shingen1948 | 2018-05-01 10:47 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)