地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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<   2018年 04月 ( 5 )   > この月の画像一覧

 「伊達の香り」のページの「福島伊達の名勝 『高子二十境』」の項によると、「高子二十境」は「高子村海左園二十境」の略称とのことだ。
 その景勝の位置は、高子山あたりを中心にしてほぼ円形にその周辺に散在するという。
 http://datenokaori.web.fc2.com/index.html
 しかも、その「高子七境の確定とネーミングの手法」の項によると、「高子二十境」の一番丹露盤から七番将帰阪までは、すべて高子山にあるとのことだ。

 今回の散策で、その「将帰阪」付近に丹露盤に向かう道筋を案内する標柱が建っているのをみつけた。
a0087378_10593230.jpg 丹露盤はこの高子山の山頂であり、その地形から想像して、案内されるのは高子山の西側稜線の尾根筋を走る道筋のようだと思う。
 「高子七境の確定とネーミングの手法」の項で案内される「七境の詳細位置図」と見比べると、五番採芝崖、六番帰雲窟、四番龍脊巌、三番長嘯嶺を経由して山頂の一番丹露盤に辿り着く道筋のようだ。
 なお、二番玉兎巌は山頂の一番丹露盤の東側ということのようだ。

 ただ、この道筋を散策したとしても、散歩人の現在持ち合わせている知識では、山頂の一番丹露盤以外は、それ等の地点を識別することはできそうにない。
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by shingen1948 | 2018-04-30 11:02 | Comments(0)
 児島定悠氏が熊阪氏になる経緯と覇陵氏とその関係については、先に台州氏代の「熊坂家蛍域」とのかかわりで確認している。その概略は以下のようだ。

 児島定悠氏は、保原村の尾張支藩の梁川藩御用達である熊阪助利氏と江戸で出会う。
助利氏は、定悠氏は才能があると見込んで、弟太次右衛門の寡婦になっていた片平氏娟に入夫させ、伊達に住まわせて、熊阪氏を名乗らせた。

 児島定悠氏にとっては、助利氏が梁川藩御用達であることや伊達の熊阪氏は熊阪土佐の裔という奥州伊達の名族であることも魅力の一つだったのではないだろうか。

 「處士台州熊阪翁墓碑」では、定悠氏が「熊阪氏を冒」したとする後に、次のような熊阪系譜が記される。

 其の先(遠祖)四郎長範は、保元(1156)の役に、源義朝に従いて力戦するものなり。承安(1171~1175)の比(ころ)、出羽の由利某、越後の藤沢某、群盗を誘い、諸道に横行し(あらしまわり)、偶々(たまたま)、金商吉次を鏡亭(滋賀県南部鏡山の麓にあった宿駅)に襲(おそ)いて、而して、源牛弱(うしわか=牛若丸源義経)のために殺さる。世俗(せぞく)、戯曲(ぎきょく=熊阪長範の登場する謡曲「熊坂」幸若「烏帽子折」などをさす)に惑い、或は長範を以て跖蹻(せききょう=盗跖と荘蹻、中国古代の有名な盗賊)の倫(たぐい)とす。宜しく其の冤(えん=冤罪、ぬれぎぬ)なることを知るべし。

 伊達の熊阪系譜は、市柳熊阪氏の系譜を本家筋とするようだ。
 高子の熊阪系譜とかかわる中村の熊阪系譜は、この市柳熊阪氏の系譜から分岐している。
 「白雲館墓碣銘(菅野宏氏)」では、その市柳熊阪氏の系譜である「熊坂秀意銘」から、遠祖からの熊阪系譜と中村の熊阪系譜の分岐点を確認しているようだ。

 なお本家筋の市柳熊阪氏の系譜は、先にそのよさを分からぬままに「熊坂適山・蘭斎合作画碑
」で整理していた熊阪適山氏、蘭斎氏を輩出する。

〇 熊坂適山・蘭斎合作画碑
 https://kazenoshin.exblog.jp/9370671/
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by shingen1948 | 2018-04-26 11:08 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 初めは散策資料が案内するような観点で地域散策をしている。
 それで、一般的には漢詩文は近世の「支配階級」や「知識階級」の者だけの文化活動として行われていたものという認識だ。
 それなのに、この時代に、ここ白雲館では熊阪三代のような篤農家の指導者のもと、非武士階級の者たちが文学活動を展開していたことは特異な事であるという見え方になる。

 ところが、鴎外氏は、史伝「井沢蘭軒」で、作中のわたしに「磐谷の祖先は武士であっただろう」と想像させている。しかも、作者である鴎外氏は、少なくとも熊阪台州氏を熟知しているという状況があっての見え方なのだ。

 この戸惑いもあって、確認を進めてきたところだ。
 行きついたところが、鴎外氏が認識する熊阪系譜は、作品を通して見える熊阪系譜で、実父である児島(熊坂)定悠氏から覇陵氏→台州氏→盤谷氏と続く系譜だったと思われるということだ。
 「處士台州熊阪翁墓碑」でも、姓は熊阪だが、本姓はこの児島で、近江源氏佐々木盛綱の後裔だとしている。

 その詳細は、先に「熊阪台州氏(その2)⑦」で確認した「覇陵熊阪君墓碑」の「白雲館墓碣銘(菅野宏)【白雲会研究会1989/4】」による釈文の出だし部分の亡父の系譜にある。
 あらためて、その概要を確認する。
 https://kazenoshin.exblog.jp/238266048/

 まずは、台州氏墓碑で高子の熊阪氏の祖であるとする児島定悠の事が以下のように記される。
 「考(亡くなった父)は孫右衛門、諱は定悠、姓は兒島氏。故有りて鮒子田氏を冒す(鮒子田の姓を名乗る)。譜(家譜)を按ずるに、蓋し、宇多天皇(887~897)の苗裔(子孫)、兒島三郎備後の守高德より出づ。
 高德、元弘建武の間(1331~1336)に当りて、勤王の勲、史籍(歴史の書籍)に詳かなり、不復た贅(ぜい)せず(余計な事は記さない)」

 次に、遠祖からの系譜が記される。
 ここを、鴎外氏がいう「磐谷の祖先は武士であっただろう」というくだりを視点に確認してみる。

 高德氏から3代目の正綱が、「新田義宗(新田義貞の子)に従いて、豫州(伊予)に徙(うつ)る」と記される。
 次に、光義から定信代までの系が「江州(近江)に在り、六角氏に属す」と記される。
 更に、次の代から3代にわたり「世々宮津侯(丹後の国、宮津、今の京都府)京極氏に仕う」とするも、「寛文丙午(ひのえうま=6年1666)、侯(時の城主、京極高国)、罪有りて国除かる(父高広の訴えにより、徳川家綱にとりつぶされる)。定政、同志の士、五十餘人と、堅く其の城を守り、侯の手書(明渡し状)の至るを待ちて、而して後、諸(これ)を官使(幕府の使い)に致し(渡し)て而して去る。乃ち平安に客たり(その結果士禄から離れて京都に仮寓する身となった)」と記される。

 このあたりが「磐谷の祖先は武士であっただろう」とすることとかかわりあいそうだが、台州氏墓碑で高子の熊阪氏の祖であるとする児島定悠氏が誕生するのは、その士禄から離れて京都に仮寓する身となった後だ。
 それでも、永いスパンで見れば、確かにその祖は士族だったことが記されているともいえる。

 ただ、散策する上での興味は、児島定悠氏が士族だったかどうかという事よりも、近世の「支配階級」や「知識階級」の者だけの文化活動として行われていたという漢詩文の素養を持ち合わせていたかどうかということだ。
 全国的に認知される白雲館での文学活動は台州氏の代のようだが、その台州氏の素養を支えたのは覇陵氏だとするならば、その覇陵氏の文化活動の素養を培った環境としての児島定悠氏の存在がどうだったかということだ。
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by shingen1948 | 2018-04-18 10:27 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 井沢蘭軒氏や菊池五山氏と熊阪盤谷氏との交流にかかわって、「伊沢蘭軒(森鴎外)」に熊阪三代が紹介される。
 このことにかかわってちょっとわき道にそれる。

 「おくのほそ道自然歩道(福島県県民室)」に、この事を意識した表現があるのが気になっていたのだ。
 同書では東根道の中の一つとして、熊阪家墓も紹介される。
 月の輪―高子沼―熊阪家墓―愛宕山―福源寺―瀬上の各所が紹介されるのだが、「熊阪家墓」は次のような紹介の出だした。

 「江戸時代末期、江戸の知識人たち、井沢蘭軒(1777~1829)・渋江抽斎(1805~1856)・菊池五山(1769~1853)・太田南畝(1749~1823)・頼山陽(1780~1833)などと親交を結んだひとがこの地にいた。熊阪盤谷である。この人の祖父覇陵・父台州、などなど、一族の墓所がここにある。……」

 この紹介の菊池五山氏・太田南畝氏・頼山陽氏については、井沢蘭軒氏との交流関係からも捉えられるだろうが、ここに渋江抽斎氏が入っている。
 この方は、森鴎外氏が、史伝三部作の第一作目「渋江抽斎」で紹介されて名を知られるようになった方のはずなのだ。少なくとも、この方とのかかわりで第二作目「井沢蘭軒」が手筆され、その作品に熊阪盤谷氏が登場して熊阪三代が紹介されるという一連の流れを意識しているとしか思えないのだ。
 ただ、それなら森鴎外氏についてもふれてもよさそうに思うのだが、それはない。
 分かる人は分かるはずという風な扱いになっているのだ。
 これがずっと気になっていたのだ。

 その監修を確認すると、菅野宏氏と蜂谷剛氏の名が挙がっている。蜂谷剛氏は動物学者のはずなので、この紹介に係るのは菅野宏氏のはずだと思うのだ。
 ここまでは慎重な物言いにしたが、この辺りのおくのほそ道自然歩道の実地調査では、他に植物学の樫村氏、2名の学生が同行しているはずなのだ。
 その学生の一人とあった時に、この事を話題にしたことがあったが、曖昧なままだった。

 それが、今回「白雲館墓碣銘(菅野宏氏)」の確認ですっきりした。
 その「あとがき」の出だしに、つぎのようにあったのだ。

 「台州の墓からさほど遠くないところに親戚があって、小学四年のとき、父と一しょにお詣りをしたのが最初の記憶である。それから十年ほどの後、鴎外を読んでいて、台州盤谷が出現したときには驚いてしまった。……」
 
 菅野宏氏は「おくのほそ道自然歩道(福島県県民室)」で熊阪家墓を紹介する時に、この事を意識していたことは確かなことらしいということだ。
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by shingen1948 | 2018-04-05 09:58 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「伊沢蘭軒(森鴎外)」はノンフィクションの史伝で、作中のわたしは森鴎外氏と捉えてもよいのだろうと思う。
 ただ、作中で捉える熊阪系譜は、熊阪盤谷氏と伊沢蘭軒氏や菊池五山氏との交流という範疇で捉えられる系譜であって、作者である森鴎外氏の捉える熊阪系譜の一部でしかないのではないのかなと思う。

 というのは、ここでは盤谷氏を通して台州氏や覇陵氏を語るが、鴎外氏自身は熊阪台州氏の作品にも造詣が深いことは先に確認している。
 その一つは、森鴎外の日記「北游日乗」に、「西遊紀行」がさらりと参考文献として挙げられていたこと。
 もう一つは、鴎外氏は「西遊紀行」発行に尽力した松崎観海氏の「観海雑記」の写本を所蔵していたということ。

 これらの状況から、台州氏の作品にも造詣の深い鴎外氏は、作品を通して今回整理した程度の熊阪系譜はご存知のはずなのだ。
 そして、その作品を通して見える熊阪系譜というのは、実父である児島(熊坂)定悠氏から覇陵氏→台州氏→盤谷氏と続く系譜だったのではないのかなとも思うのだ。
 つまり、「伊沢蘭軒(森鴎外)」で「磐谷の祖先は武士であっただろう」とした鴎外氏がイメージする系譜は、熊阪氏の系譜ではなくて、児島氏の系譜のことではないのかなと思うが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2018-04-03 09:52 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)