地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 「高子から全国に発信される文学活動③~熊阪台州氏⑨」で記したように、森鴎外史伝三部作の第二「伊沢蘭軒」という作品で、盤谷氏とのかかわりで、熊阪氏3代について解説する箇所がある。
 https://kazenoshin.exblog.jp/23487373/
 
 連載の129回目で、文政5年(1822)の秋の蘭軒の詩は、末の三首が森枳園の手写しで、その前に看過すことの出来ない一首があるとの書き出しで、7月13日に蘭軒が債鬼に肉薄せられ、千万謝言の後、架上の書を抽いて読んだという作品が紹介それる。
 それが、枳園の書したもので、その最初の詩が「熊板君実将帰東奥、臨別贈以一律」と題してあるということで、熊阪盤谷氏にかかわる次の作品が紹介される。

 「君家先世称雄武。遺訓守淳猶混農。賑恤郷隣経奕葉。優游翰墨托高踪。自言真隠名何隠。人喚素封徳可封。遥想東帰秋爽日。恢然拄笏対群峰。」

 作中のわたしは、これは「五山堂詩話」に登場する熊阪盤谷氏であって、蘭軒の贈言を得た熊板という人は、熊阪氏の事だろうと推定する。
 鴎外氏は、その文はかうであったとそらんじるところがすごい。
 「東奥熊坂秀。字君実。号磐谷。家資巨万。累世好施。大父覇陵山人頗喜禅理。好誦蘇黄詩。至乃翁台州。嗜学益深。蔵書殆万巻。自称邑中文不識。海内知名之士。無不交投縞紵。磐谷能継箕裘。家声赫著。」

 蘭軒の「賑恤郷隣経奕葉」というのは、五山の「累世好施」であり、「優游翰墨托高踪」というのは、五山の挙ぐる所の禅を修め詩を誦した祖父覇陵と学を好み書を蔵した父台州とであるとすれば、符合しているというのだ。
 そこで、磐谷は江戸で五山と交ったように、蘭軒とも交ったはずだとみる。

 ここで、作中のわたしは、五山の言は磐谷の大父まで溯っているが三世以上に及ばないとして、熊阪氏の系譜を想像する。
 蘭軒の「君家先世称雄武、遺訓守淳猶混農」根拠に、磐谷の祖先は武士であっただろうとする。
 
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by shingen1948 | 2018-03-31 09:05 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 處士台州熊阪翁墓の表題が読みにくいので、この碑の確認には本文も確かめている。
a0087378_5351550.jpg これは、昨日整理の本文出だしの諱、字、姓にかかわることが刻まれる部分だが、彫は鮮明で「翁諱定邦、一諱邦、字子彦、姓熊阪氏、本姓兒島氏」が確認できる。

 ここで気になった事の一つが、「本姓兒島氏」とあること。
 系譜にこだわらずに散策していた時点では、漠然と熊阪氏の系譜の中で捉えている。更に、「熊坂家蛍域」原風景の確認でも、実父母とは切れた風景になっている。
 それで、台州氏代の「熊坂家蛍域」原風景確認のために整理した系譜では、原風景理解に合わせて、覇陵氏である定昭氏は、実父児島定悠と切れて、秦豊重のところで養都(やつ)さんと婚姻関係で繋がるように記したところだ。
 しかし、本姓はあくまでも兒島氏ということ。覇陵氏の墓碑でも確認してるのだが、ここでそのことが再確認できるということだ。

 昨日整理の次の段落では、覇陵氏の実父を祖として、「祖、定悠、京に生まれ、奥(奥州)に至り、故(熊阪助利との縁故)有りて熊阪氏を冒す(「白雲館墓碣銘(菅野宏氏)」の釈文より)。」と記される。
 系譜にかかわる部分を確認する。
 
 定悠、片平氏(片平氏娟熊阪助利の弟太次右衛門の妻、やもめであった)に配し、定昭を生む。定昭、秦氏(助利の女秦豊重の養女であった養都(やつ))を娶りて翁(台州)を生む(「白雲館墓碣銘(菅野宏氏)」の釈文より)。

 兒島定悠①(※京に生まれ、奥(奥州)に至り、故有りて熊阪氏を冒す)
   | ― 定昭(覇陵)② 
 片平氏娟    | ―  定邦(台州)③  
       養都(やつ)   
              
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by shingen1948 | 2018-03-29 09:33 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 熊阪氏についての知識がないので、散策資料を読み取るのに苦労した。
 今までの確認で、ようやく「熊坂家蛍域」に建つ案内板の熊阪覇陵氏、台州氏、盤谷氏の熊阪三代墓碑を確認する前提が整ったところだ。
 「覇陵熊阪君墓碑」は先に確認したので、こんどは台州氏、盤谷氏の墓碑を確認する。

 まずは、「處士台州熊阪翁墓碑」。「白雲館墓碣銘(菅野宏氏)」がいう「定邦台州碣銘」だ。
a0087378_858328.jpg 建立は「文化乙丑春三月」とのことなので、文化2年(1805)だと思う。
 「從二位清原宣光撰」、「從五位下朝散大夫烏山城主大久保佐渡守藤原忠成篆額并書」で、「孝子定秀建」とのことなので、建てたのは盤谷(熊坂定秀)氏ということのようだ。

 「曳尾堂」の散策で、氏の諱とか字が必要になって、「国立国会図書館サーチ」の著者名検索で熊坂・台州を入力して確認した。それが以下の詳細情報だ。

「熊坂台州(クマサカタイシュウ) 1739-1803」
別名:台州(号)・子彦(字)・邦(名)クマサカクニ・クニ・ 定邦(名)・ 熊阪・台州・ 宇右衛門(通称)クマサカシゲン・シゲン

 他に、別号:白雲館/曳尾堂えいびどう/東奥陳奮翰とうおうちんぷんかん/大通館、磐谷の父というのもあるようだった。

 それが、この「定邦台州碣銘」では、以下のように刻まれているとのことだ(「白雲館墓碣銘(菅野宏氏)」の釈文より)。

 翁、諱(いみな)は定邦、一の諱は邦、字は子彦。字は子彦。姓は熊阪氏。本性は児島氏。佐々木盛綱の裔(近江源氏佐々木盛綱の後裔)たり。其の出目に原(もとづ)き、台州山人と号す(比叡山を台嶺ということによる)。
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by shingen1948 | 2018-03-27 08:59 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 菅野宏氏は「白雲館墓碣銘」の前書きで、「観海撰文南畝書の覇陵の碣銘は有名だが、小さい碣銘も心に残るもので、読み継げば、著作には見えない、白雲館の年代記が鮮明に浮かび上がってくる」と記す。
 しかし、自分にはその有名だとされるする覇陵の碣銘も識別できない状態だった。それが、台州氏代の「熊坂家蛍域」を確かめるという作業を通して、ようやく確認できたということだ。

 これで、案内板にある熊阪覇陵氏、台州氏、盤谷氏の熊阪三代墓碑を確認する前提が整ったということでもある。「覇陵熊阪君墓碑」は、先に確認したので、台州氏、盤谷氏の墓碑を確認する。

 これは、「熊坂家蛍域」の入り口を写したものだ。
a0087378_17351181.jpg この時は知らなかったのだが、今はこの奥に見える二つの墓碑が、その墓碣銘にあたる事が分かる。

 左側が「定邦台州碣銘」で、右側が「定秀盤谷碣銘」のようだ。
 この墓碣銘の左側に、今まで整理していた台州氏代の「熊坂家蛍域」原風景の三基の墓碑群があり、その左側に今回は「覇陵熊阪君墓碑」とした「定昭覇陵碣銘」が建っているという位置関係だ。

 その「定昭覇陵碣銘」の更に左側には、その熊阪三代の奥方の墓碑が建つ。「定昭覇陵碣銘」の直ぐ左側に建つのは台州氏の奥方の碣銘だ。「寺島氏葛碣銘」がそれのようだ。その更に左側に「富田氏民碣銘」が建つ。これが、盤谷氏の奥方の碣銘のようだ。
 この辺りまでが、熊阪三代にかかわる墓碣銘群のようだ。ただ、盤谷氏の子である「定懿達夫」氏は、早世するようなので、この墓碑も含めて盤谷氏代の墓碑群ということになるのかもしれない。
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by shingen1948 | 2018-03-26 17:44 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 台州氏代の「熊坂家蛍域」原風景にかかわる墓碑群を確認してきた。
 その確認を通して、覇陵氏達が高子に住する際の「熊坂家蛍域」原風景のイメージも見えて来た。
a0087378_10581981.jpg この3基の墓碑群の「阿閣院翽鳳起居士之墓」の墓碑が、それだろうと思う。
 実際には、この墓碑自体は寛政四年に台州氏が撰文し、盤谷氏の書になる整備が行われたものなので、あくまでもイメージとしてということではある。

 この墓碑の表題は「阿閣院翽鳳起居士之墓」だが、その経歴に「居士姓熊阪氏、諱助英、稱太七郎、太左衛門助利之弟也、以延賓八年庚申生、以元緑十年丁丑四月四日卒、隼僅十八」と刻まれている。この経歴からは、これが「太七郎助英碣銘」であることが分かる。
 「高子熊阪氏系譜」と「秦氏」との関係を示した図との関りでは、「太七郎(助英)」として示した方だ。

 次に刻まれるのは、享保20年に助利氏が高子村に田や宅地を購入し、助利氏の姉之子秦豐重に託した際に、この亡弟助英氏の墓碑を長谷寺から改葬し、これを嗣ようにされたというようなことだ。
 このことから、覇陵氏達が高子に住する際の「熊坂家蛍域」原風景のイメージと重なることが確認できるということだ。

 更に刻まれるのは、中村熊阪氏の家譜の熊阪氏系譜ということで、伊達熊阪氏系譜と思われる熊阪四郎諱長範からの系譜が記される。
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by shingen1948 | 2018-03-25 11:01 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 高子熊阪氏の分家は、覇陵氏の実父母との関りで行われたわけではないようだ。
 それは、画策され中村熊阪氏3代太左衛門(助利)氏の姉の嫁ぎ先の秦氏とのかかわりを要として行われるようだ。
 「熊坂家蛍域」原風景にかかわる墓碑のうち、中央の「太右衛門豊重・久保氏越碣銘」が、これに絡む。

 昨日、中村熊阪氏から高子熊阪氏が分家する部分と覇陵氏の実父母とのかかわりを図示した。この図に、高子熊阪氏の分家の要とる秦氏とかかわる部分を紫色で重ねてみた。
a0087378_9244926.png ここで「助利氏姉」としている方は、「高子熊阪氏系譜」や「太右衛門豊重・久保氏越碣銘」では、「熊坂女」とされている方だ。「高子熊阪氏系譜」では、助利氏とのかかわりを中心に表記されるので、「熊坂女」から秦氏「豊重」に線が引かれ、そこから助利氏の系譜に戻って小満(養都)に線が結ばれ、その小満(養都)と覇陵氏が夫婦となるという表記だ。

 この辺りは、先に整理した「熊阪台州氏(その2)⑧~「覇陵熊阪君墓碑」⑧」で整理した釈文の次の部分とかかわる。

 「助利姉(藤田の秦平助に嫁していた)の子、同郡の秦豐重(1672~1738)、助利が女(養都(やつ))を養いて、子と為し、以って君に妻(めあわ)せ、以て己が嗣と為す。既にして豐重も、亦熊阪氏を冒す(豐重もいっしょに熊阪氏の籍に入るようにした)。

 この図は、このこととのかわりが分かるように整理してみたということだ。

 まず、助利氏姉が、藤田の秦平助氏に嫁ぐの部分。
 その秦平助氏と助利氏姉さんの間にできた子が秦豊重氏ということだろう。
 次に、「助利が女(養都(やつ))を養いて、子と為し」の部分。
 「助利が女」の表記だが、他の地域情報とも合わせて、「助利氏の次女小満」=「養都(やつ)」とみた。その方が秦豊重氏夫妻の養女となったと解釈した。
 更に、その「養都(やつ)」さんと覇陵氏が夫婦になって後嗣になったとの読み取りだ。

 養都(やつ)さんと覇陵氏が夫婦になって後嗣とするということなので、覇陵氏を高子熊阪氏初代とすることが助利氏の目算だったことが分かる。
 しかし、それと同時に「既にして豐重も、亦熊阪氏を冒す(豐重もいっしょに熊阪氏の籍に入るようにした)」ともあるので、実際には、秦豊重氏の代から熊阪氏になっていたということでもあるようだ。
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by shingen1948 | 2018-03-23 09:32 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 先に「覇陵熊阪君墓碑」について整理したが、このことによって今までの見え方と違ったことがある。
 それまでは、熊阪氏の系譜の中での覇陵氏という見え方だった。覇陵氏の実父方の系譜を意識したことがなかった。
 ところが、「覇陵熊阪君墓碑」で語られる系譜は実父方の系譜を中心にしているらしいのだ。「熊阪台州氏(その2)⑦~「覇陵熊阪君墓碑」⑦」で「白雲館墓碣銘(菅野宏)【白雲会研究会1989/4】」をもとに確認した釈文の部分だ。

 「白雲館墓碣銘(菅野宏)」に「永慕編」による「高子熊阪氏系譜」が記される。ここから、「伊達の香り」のページなど地域散策のページの情報も参考にしながら、中村熊阪氏から高子熊阪氏が分家する部分と覇陵氏の実父母とがかかわる部分だと思われる部分を抜いてみる。
a0087378_91359100.png 高子熊阪氏の分家を画策するのは、この図の中村熊阪氏3代太左衛門(助利)氏のようだ。
 覇陵氏の実母は、ここで片平エンとした方で、太左衛門(助利)氏の弟に嫁がれた方のようだ。こので、2児をもうけたらしい。この太左衛門(助利)氏の弟が、この図で太次右衛門とした方だが、この方との間に2児をもうけているようだ。
 その太次右衛門氏が亡くなって、中村熊阪氏3代太左衛門(助利)氏のところに身を寄せていたのだが、太左衛門(助利)氏が江戸で知り合った児島定悠氏を婿入りさせて熊坂の姓を名乗らせたということのようだ。

 「覇陵熊阪君墓碑」の覇陵氏実父児島定悠氏の系譜にかかわる部分を再掲しておく。

 「考(亡くなった父=児島定悠氏)は孫右衛門、諱は定悠、姓は兒島氏。故有りて鮒子田氏を冒す(鮒子田の姓を名乗る)。譜(家譜)を按ずるに、蓋し、宇多天皇(887~897)の苗裔(子孫)、兒島三郎備後の守高德より出づ。
 高德、元弘建武の間(1331~1336)に当りて、勤王の勲、史籍(歴史の書籍)に詳かなり、不復た贅(ぜい)せず(余計な事は記さない)高德、高光を生む。高光、正綱を生む。正綱、新田義宗(新田義貞の子)に従いて、豫州(伊予)に徙(うつ)る。正綱正光を生む。正光、光義を生む。光義、定義を生む。定義、定綱を生む。定綱、定宗を生む。定宗、定直を生む。定直、定信を生む。蓋し、光義より定信に至るまで、江州(近江)に在り、六角氏に属す。定信、定德を生む。定德、定次を生む。定次、定政を生む。定德より定政に及ぶまで、世々宮津侯(丹後の国、宮津、今の京都府)京極氏に仕う。寛文丙午(ひのえうま=6年1666)、侯(時の城主、京極高国)、罪有りて国除かる(父高広の訴えにより、徳川家綱にとりつぶされる)。定政、同志の士、五十餘人と、堅く其の城を守り、侯の手書(明渡し状)の至るを待ちて、而して後、諸(これ)を官使(幕府の使い)に致し(渡し)て而して去る。乃ち平安に客たり(その結果士禄から離れて京都に仮寓する身となった)。寛文己酉(つちのととり=9年1669)定悠を生めり。何(いくばく)も亡くして、田宅(でんたく=家屋敷)を一乘寺村(京都東山、高広も東山岡崎に隠棲している)に買いて、而して隱る(隠栖する)。定悠、季子(末子)なるを以て、出でて鮒子田(ふしだ)氏(京都東山上岡崎村の庄屋)を嗣げり。故に鮒子田氏と称す。」
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by shingen1948 | 2018-03-22 09:15 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 先に「熊坂家蛍域」に建つ「覇陵熊阪君墓碑」について整理した。
a0087378_8425966.jpg 「熊坂家蛍域」の現況は、熊阪5代にかかわる墓碑群が建っているようだが、台州氏代の「熊坂家蛍域」原風景にかかわるのは、この三基だと思われる。
 左端が定昭覇陵・養都碣銘で、中央が太右衛門豊重・久保氏越碣銘、そして、右端が太七郎助英碣銘だろうと思う。

 これ等の墓碑群の左側には先に整理した「覇陵熊阪君墓碑」が建っている。そして、この写真の右側に少し写っているのが定邦台州碣銘だ。
 その間に挟まれた墓碑群が、台州氏代の「熊坂家蛍域」原風景ということになるようだ。

 散策資料では、高子の熊阪初代は熊阪覇陵氏であるとか、熊阪覇陵氏は保原の商家の長子とかと紹介されるのだが、この墓碑群ではそれらとは微妙に違う現実に出会う事になるようだ。
 地元では、それらの現実を知った上で散策資料としての紹介にしているということのようなのだ。

 「定昭覇陵・養都碣銘」は覇陵ご夫妻で、その説明は要さないと思う。
 中央の「太右衛門豊重」ご夫妻は、実質的な高子熊阪初代だと思われる。覇陵氏とのかかわりでみれば、養父にあたる方で、覇陵氏はその娘さんと婚姻関係にあるように読み取っている。
 そして、右端の太七郎助英氏が、保原の商家で分家を画策された方の弟に当たる方だと思われる。
 なお、覇陵氏の実父母の墓碑は、保原町長谷寺に建っているようだ。
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by shingen1948 | 2018-03-20 08:44 | Comments(0)
 福島で散策している者にとっては、村山地方漆山の大地主半沢久次郎氏所蔵「曳尾堂文庫」は、熊阪氏の書庫「曵尾堂」から引き継がれたものと認識するのが当然だと思っている。
 ところが、地元山形ではこの繋がりの認識には出会わない。これが、地元山形の情報を確認していて気になったことの一つだ。
 それで、この繋がりの有無にちょっと自信を失い、その確認をしていて見つけたのが「曳尾堂図書印」「半澤文庫」「邦之印」「□彦」の印記のある「文變」という書籍の存在だ。

 その書籍は、現在九州大学附属図書館雅族文庫所蔵とのことだ。その陰影は見ないが、この「文變」の注記にその印記が記されているようなのだ。
 恐らく「曳尾堂図書印」「半澤文庫」蔵書印は、今までに確認してきた情報と変わりないないと思われる。注目は、「邦之印」「□彦」の墨記があるという部分だ。
 熊阪三代の覇陵の子台州の通称が邦のはずだ。それで、「邦之印」は台州氏の印であることを表しているのではないのかなと思うのだ。ちなみに、その台州の子盤谷氏の通称は秀のはずだ。
 更に、もう一つ、台州氏には子彦の別称もあるはずなのだ。ここで、「□彦」の墨書は、台州氏の別称「子彦」なのではないのかなと想像するのだ。
 つまりは、どちらも台州氏の所有を意味しているのではないかと思うのだ。

 そこに、「曳尾堂図書印」「半澤文庫」蔵書印もあるわけだから、この書籍は、熊阪氏から半沢氏に譲られた書庫「曵尾堂」文庫の書籍であることの確からしさが高いと思うのだ。
 この書籍には、見返し及び版心下に「琴月所蔵」とあるそうなので、半沢文庫からは、その「琴月」氏を経由して、現有者である九州大学附属図書館雅族文庫所蔵となったのではないかなと勝手に推測する。

 なお、この確認の過程で、関西大学図書館所蔵石湖先生詩鈔 6巻注記の印記に、「曳尾堂図書印」「半澤文庫」とあるという情報も見つけた。

 地元山形の情報を確認していて気になったことがもう一つある。
 半沢家の零落に伴うその邸宅を公的機関が所有するのに、「曵尾堂」について全く認識していないらしいということだ。
 そこには、昭和4年に小川琢治博士のた山形の「曵尾堂」文庫調査で「經史集に渉っているので、學者の研鑚に利用される便宜は公立図書館より多い」とされているにも関わらずという意味合いもある。
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by shingen1948 | 2018-03-19 17:50 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回は、「曳尾堂図書印」はあるが「半澤文庫」の蔵書印はない書籍として「山形県立博物館」の収蔵「四家妙絶」についての情報確認をした。
 「曳尾堂図書印」と「羽角蔵書印」の蔵書印、それと「羽角利兵衛蔵本」の記入とのことだった。これは「山形県立博物館ニュース<10>」の解説から読み取ったものだが、そこには「半澤文庫」の蔵書印はなさそうだった。

 パターン的には、早稲田大学図書館・土岐文庫所蔵「和泉式部」の蔵書印の例に近いのかなと勝手に思っている。
 こちらは、「曳尾堂図書印」と「昭和六十年二月一日土岐善麿氏寄贈」印、それに早稲田大学附属図書館蔵書印」が押印されている。そのデータの備考欄には「典拠に岐善麿氏旧蔵とあり」と記される。また、「曳尾堂図書印」にかかわる蔵書印主は空欄になっている。
 専門的には、この「曳尾堂図書印」をもって旧蔵書主を半沢久次郎氏とも熊阪氏とも言わないことになっているらしいことが分かる。

 さて、先に「熊阪台州氏(その2)21~『曵尾堂』⑤」で、熊阪氏から半沢氏に継がれた書庫「曵尾堂」文庫が消滅する時代の半沢邸宅についてふれた。
 戦後(S22〜25)行われた農地改革によって、半沢家は不在地主として全所有地を国に強制買収されてしまう。半沢家は東京移住せざるをえなくなるのだが、この整理の時には、その邸宅を買い上げたのが山形県とした。
 しかし、正式には、地方職員共済組合が厚生事業の一環として買い上げて安い宿泊所を設けて県庁職員の出張便宜を図ろうとしたものとの情報があった。
 「出羽コミセンだより(平成26/6月号)」の「出羽不思議発見71」によれば、斡旋をしたのは山形県だが、実際に買収したのは共済組合で、500万円を投じているということだ。県に委任されたのはその管理面だけとのことだ。
 これが、先の整理でふれた昭和30年代後半まで運営されていたという県庁来庁者の宿泊施設「出羽寮」ということのようだ。
 宿泊は一泊330円で、30名の宿泊設備と50名程度の大会議室設備を有していたとのことだ。
 この時点で、書庫「曵尾堂」文庫の書籍がどうなっていたかの情報はない。また、この時の山形県の斡旋の意図は、明治天皇の行在所(あんざいしょ)保存であって、書庫「曵尾堂」文庫を考慮した様子はなさそうであることは分かる。
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by shingen1948 | 2018-03-14 12:29 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)