地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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 熊阪氏から半沢氏に継がれた書庫「曵尾堂」文庫は敗戦後まで維持されたが、再び不幸にも1950年に散佚してしまう。
 「保原町史(第五巻)」によると、不幸中の幸いというか、明治29年10月調査、その大正初年の写しの目録が残されたとのことだ。
 この辺りの山形市出羽地区の豪農半沢久次郎氏情報を拾う。

 戦後(S22〜25)行われた農地改革により、半沢家は不在地主として全所有地を国が強制買収して小作人に売り渡したので旧小作農家の経済状態は著しく改善されたとして、小作農の方々の立場で語られるようだ。
 これによって、半沢家は東京に移住することになった。この時に、山形県は、その邸宅を買い上げたという。
 山形県が買い上げた半沢邸は、「出羽寮」との名称で県庁来庁者の宿泊施設などにも利用されたとのことだ。ただ、書庫「曵尾堂」文庫がどうなったかという情報は見当たらない。少なくとも、公的機関が、書庫「曵尾堂」文庫に着目した形跡はなさそうだ。
 昭和30年代の後半に、その半沢邸の建物も一部解体されて「皿屋食品会社」の工場敷地に変更されたようだ。
 昭和40年代、経営者が変わり「東北缶詰株式会社」として業務が開始され、平成になって、社
名を「東北ビバリッジ」と改称して現在に至っているとのことだった。
 したがって、山形市漆山 元出羽寮東北缶詰株式会社庭園の「摩遊はきを をもかけにして紅の花」の芭蕉句碑は、半沢邸の自宅に建立されたものと解釈で矛盾はなさそうだ。

 先に、半沢氏に継がれた書庫「曵尾堂」文庫は有名だとしたが、地元ではその情報は拾えない。
 ただ、「山形県立図書館」も「山形県立博物館」も「その存在は研究者の間では知られていた」としているので、有名なのかなと思ったということだ。
 気になるのは、どちらの情報でも半沢氏に継がれた書庫「曵尾堂」文庫は「仙台方面から多くの図書を購入して、これを一般に閲覧させたもの」としている。そして、「曵尾堂」蔵書印は、全て半沢氏が押印したものとする前提での情報が流されているということだ。
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by shingen1948 | 2018-02-27 09:54 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 書庫「曵尾堂」文庫を熊阪氏より継いだと思われる山形市出羽地区の豪農半沢久次郎氏情報を拾う。

 漆山村は、明治22年(1889)に、千手堂村や七浦村と合併して出羽村になるのだが、半沢久次郎氏は、その初代村長になるようだ。
 明治 35 年には、広大な私有地を国鉄に無償で提供して漆山駅を設置したりしているようだ。
 同時期の漆山代官所(旧秋元藩陣屋)を利用した「郡立染織学校」の設立も半沢氏の仕事のようだ。これが、この地域が地下水に恵まれているという立地条件もあって、江戸時代から発達した養蚕業を背景として織物工業の発展に大きく寄与しているとのことだ。
 他に、地域の防災治安関係などにも個人的な資本を投下されているとのことだ。

 文化人だったという情報もある。
 明治以前は、俳諧師半沢二丘として活躍し、山寺(立石寺)の「せみ塚」を建立した一人でもあるとの情報がある。
 「山形県芭蕉句碑総覧」で確認する。

 <山形市大字山寺天台宗宝珠山立石寺根本中堂脇>
  
 閑さや巖にしみ入る蝉の聲  芭蕉翁
  陰 左羽に夕日うけつゝほとゝきす 一具
  左 樂書や笹の葉にある清水哉   二丘
  右 花さかぬ草木から風薫りけり  川丈
  嘉永6年(1853)4月
  当山学頭遍明院代遠藤金兵衛 漆山の半沢久次郎二丘の建立
  高梨一具筆
 
 「総覧」では、次の句碑も紹介される。ここは半沢邸の自宅だったと思われる場所だ。自宅に建立されたものと解釈できる。
 
 <山形市漆山 元出羽寮東北缶詰株式会社庭園>

 摩遊はきを をもかけにして紅の花  芭蕉
 文政13年(1830)10月 半沢久次郎二丘建立 牧野豊前守源以成筆
 
 豪農半沢邸にかかわる中心的な情報は、明治14年の明治天皇が北海道ご巡幸の際、ここで小休止なされたということだ。 
 9月29日、楯岡を出発した明治天皇は、三島県令の準備した羽州街道の直線道路を天童の東村山郡役所で小休止し、県都山形に入る前にここで小休止したとのことだ。
 明治帝を迎えるために玉座をつくり、20世紀末まで当地に文化遺産として保存されていたのだそうだが、現在は蔵王温泉行の「里のわらべ館」に展示されているとのことだ。
 
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by shingen1948 | 2018-02-26 17:50 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 ただの地域散策人にとっては、「琉球奇譚」の刊行年を根拠に印鑑を引き継いだ半沢が押印したとする部分には、違和感がある。

 「琉球奇譚」の刊行は、確かに盤谷氏没後3年のようだ。次の代の達夫氏も、文政11年(1828)には、京都の中川家で亡くなっている。
 しかし、盤谷氏は、達夫氏没後、堀氏の子である定謙氏を養子に向かえている。そして、その定謙氏の子の定駿氏が、天保11年(1840)に達夫氏の墓碑銘を建てていることになっている。実質的には、案内板にあるように、門弟たちの仕事だとは思う。

 それでも、そういう環境の中で盤谷氏が亡くなって早々に曵尾堂文庫が移設されたとは考えにくい。曳尾堂文庫の移動を、幕末から明治ごろにかけてとの想定することへの違和感かもしれない。
 門弟の方々の動きも考慮すれば、「白雲館墓碣銘(菅野宏)」の年表にあるように、「定駿氏47歳の明治6年(1873)、この頃曵尾堂文庫山形漆山半沢久次郎方に移されたか」というのが自然なように思う。

 前回も記したが、興味深いのは蔵書印も半沢氏に託されたという心情的な意味合いだ。
 地元を散策する者としては、この移譲は「熊坂家の家運衰え」という意味も感じて残念に思う側面はある。しかし、この時に、熊阪氏が半沢氏に書庫「曵尾堂」文庫の存続を託したという側面もあるのではないかなとも思うのだ。

 そうなると、その託された山形市外漆山の半沢家が気になる。ということで、その情報を追ってみた。

 その半沢家のあった場所だが、羽州街道沿いの漆山番所跡の向かい側の現「東北ビバリッジ」という食品工場敷地辺りがその跡地らしい。
 漆山村は、明治22年(1889)に千手堂村や七浦村と合併し、出羽村となったようだ。そして、昭和29年(1954)には、この出羽村が山形市に編入されるという経緯をたどる。それで、山形市出羽地区の現山形県山形県山形市大字漆山として情報は流れているようだ。
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by shingen1948 | 2018-02-20 09:26 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 白雲館の書庫「曵尾堂」文庫は、「覇陵の嗣台州の造営と命名」とのことだ。
 その命名の由来は、士官を求められた荘子が、死んで卜占(ぼくせん)用に奥深く蔵されるより、泥のなかをはい回る亀でありたいといった「荘子(秋水篇)」の故事にある【「白雲館墓碣銘(菅野宏)」】とのことだ。
 「その昔 福島大学の近くにあった図書館(渡邉武房)」によると、書庫「曵尾堂」の上面には大槻磐渓 の書になる扁額があったとのことだ。

 ここでは、この文庫を「熊坂台州(1739-1803)とその子盤谷(1767-1830)などが代々収蔵した蔵書で、白雲館文学活動の母胎 となった文庫」としている。
 その蔵書は、前回記したように、明治29年10月調査、その大正初年の写しの目録が残された(保原町史第五巻)とのことだ。
 その蔵書には、「曳尾堂圖書印」という蔵書印が押されていたようだ。その陰影は、「国文学研究資料館」の「電子資料館」の「蔵書印データベース」で確認できるようだ。

 その蔵書の内容だが、明清刊本には精良なものが多かったようで、昭和4年(1929)に先に記した山形の「曵尾堂」を調査した小川琢治博士の言を借りて、「經史集に渉っているので、學者の研鑚に利用される便宜は公立図書館より多い」いと紹介される。
 その利用規定だが、台州氏は「曳尾堂の壁に題す」と「曳尾堂蔵書目録の序」で、散逸の原因になる借覧を禁じ、館内での閲読を勧めているとのことだ。

 なお、古書に押された蔵書印は旧蔵者の経緯をたどる手掛かりにもなるものだ。
 「曳尾堂文庫」蔵書は、半沢家の零落で 昭和25年(1950)に散り散りになるわけだが、ネットを検索していたら、「曳尾堂圖書印」の蔵書印にかかわる次の話がヒットした。

 「阪巻・宝玲文庫の蔵書印(琉球大学附属図書館)」の中で、「琉球奇譚」に押された「半澤文庫」「曳尾堂 (えいびどう) 図書印」という旧蔵者の蔵書印につて考察している次のような箇所があるのを見つけたのだ。

 「半澤文庫」は、明治時代に山形の村山地方漆山の大地主であった半沢久次郎の印である。半沢は1万点を超える蔵書の持ち主として有名であったが、蔵書は戦後に農地解放で散逸している。
 「曳尾堂図書印」の蔵書印は、本来は江戸時代後期の豪農・儒学者熊阪台州(1739-1803)の曳尾堂文庫の印である。曳尾堂文庫は、幕末から明治ごろにかけて半沢へ所有が移った。  
 したがって「曳尾堂図書印」は熊阪が押印したように見えるが、高橋章則によれば「半沢氏が熊阪氏の蔵書印「曳尾堂図書印」を襲用し捺印していた」。また、『琉球奇譚』は熊阪の死後の 1832 年に刊行されているため、熊坂が購入したものではない。
 つまり、印鑑を引き継いだ半沢が押印したものである可能性が高い。

 ここで興味深いのは、白雲館の書庫「曵尾堂」文庫の所有が、山形漆山の半沢久次郎氏に移った時に、その蔵書印も熊阪氏から半沢氏に託されたということだ。
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by shingen1948 | 2018-02-18 10:09 | ◎ 水 | Comments(0)
 私塾であり文人サロンでもある「白雲館」に、「曵尾堂」なる蔵書庫があったことは自然過ぎてさらりと受け流されてしまいそうだが、この「曵尾堂文庫」の存在を特記しておきたい。

 図書館の視点で名を知られている「曵尾堂」は、山形県のそれのようだが、この白雲館の「曵尾堂」の蔵書を元にした図書館のようだ。

 まずは、山形のその「曵尾堂文庫」を確認する。
 「近代図書館政策と山形県(前田美咲)」によると、山形県の図書館史において中心的な存在は、山形県立図書館だそうだが、その図書館が開館するのは明治43年(1910)とのことだ。
 それ以前に、東京の新聞に掲載されるような文庫や縦覧所があったとして紹介されるのが、山形市漆山「曳尾堂文庫」と鶴岡市荒町の「新聞縦覧所」だ。

 山形市漆山「曳尾堂文庫」は、【東京日日新聞〈明治9年(1876)/11/7】に報じられているとのことだが、その記事は次のような内容だったとのことだ。

〇 「山形県の榛沢(はんざわ)久次郎氏が、一個人の力で図書館を経営し、無代でしかも食料宿泊つき」
〇 「供覧を乞ふ者あれば、書斎を貸して、これを読ましめ、幾日にても無代金にて食糧をまかなひ、遠方の人には夜も泊まらせ、望みの通りに読書をさせる」

 なお、「山形百年」では、「榛沢久次郎」は、漆山の豪農として有名な半沢久次郎氏の誤記だとしているとのことだ。
 当時、図書館はめずらしいもので、東京に書籍閲覧所、西京に集書院ができたことを報じる中に、半沢久次郎氏の「曳尾堂文庫」が紹介されているということのようだ。
 ただ、この「曳尾堂文庫」は、半沢家の零落で 昭和25年(1950)に散らばってしまったとのことだ。

 次に、「白雲館墓碣銘(菅野宏)」の「曵尾堂」についての紹介を確認する。

 「蔵書万巻と称された「曵尾堂」は、覇陵の嗣台州の造営と命名で、万巻というも誇張ではない。文庫は、明治初年山形市外漆山の半沢家に移されて、敗戦後まで維持されたが、再び不幸にも1950年また散佚した。
不幸中の幸いというか、明治29年10月調査。その大正初年の写しの目録が残された(保原町史第五巻)」

 当時、東京の図書館事情に引けを取らないとされる山形市漆山「曳尾堂文庫」は、この白雲館「曵尾堂文庫」が土台となっていたことが分かる。
 その蔵書庫が、「白雲館」の門人たちに開放されていたということだ。
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by shingen1948 | 2018-02-16 10:40 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 昨日は、「白雲館・明月楼・海左園」と「白雲館の屋敷図」とのかかわりを確認した。
 その方位については、その位置関係から推定したものだったが、ずれていることが分かったので修正する。
 なお、「白雲館・明月楼・海左園」等の想像は変わらないので、そのままにする。
a0087378_1165615.jpg 方位のずれに気づいたのは、屋敷から放射線状に引かれている線が、その方位を表していることが分かったからだ。

 案内板の図では気づかなかったのだが、「白雲館墓碣銘(菅野宏)」の口絵「白雲館之図」を確認したら、文字が読める部分があって、その確認で分かったということだ。
 まずは、〇印に北と入れたところが、方位の「北」が読めたところだ。その反対側に「南」が読める。屋敷図の右下部に「東」が読める。

 読める文字を確認していたら、建物名の読める部分があったので、次には、それを確認することにした。
 読めた部分を黄文字で入れてみる。11の土蔵が読め、薪部屋・穀入・下人部屋が読め、表門・裏門が読める。

 更に、屋敷内を確認してみたら、部屋の畳数も読めたので、それを黄緑の数字で示してみた。

 確認していくと、大きな屋敷だったことが分かる。
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by shingen1948 | 2018-02-15 11:07 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 案内板で、「白雲館・明月楼・海左園」については「白雲館社とは、高子熊阪家の居宅の号で、楼を「明日楼」、書庫を「曵尾堂」、門弟が集う場所を「洗心室」、庭を「海左園」と称する座敷の総称」との説明だ。
 「白雲館の屋敷図」とのかかわりについては既に知っているということを前提にしているようだ。 しかし、当方にはその知識が全くないので、確認が必要だ。

 まずは、「白雲館社は、高子熊阪家の居宅の号で、楼を「明日楼」としょうする」と解説する部分だが、半沢氏の「歴史地図」では「芸文福島Ⅰ(菅野宏)」を出典に、「覇陵は伊達市氏の祖中村朝宗の居城と伝える「高子館」の由縁の地に居を構え、この地を「白雲館」ととなえ、家屋を「明日楼」と名付けた」と説明する。
 つまり、「白雲館の屋敷図」とのかかわりでみれば、この屋敷の建つ地が「白雲館」で、その屋敷自体が「明日楼」という解釈のようだ。
 碑文の釈文の「其の居(きょ=居宅)に顔(がん=屋号をつける)して、白雲舘と曰い、樓(高殿)を明月樓と曰う」という部分と重なるのだろうと思う。

 次に、「海左園」について確認する。
 かかわるのは、案内板解説の「書庫を「曵尾堂」、門弟が集う場所を「洗心室」、庭を「海左園」と称する座敷の総称」とある部分だ。「海左園」と称する庭は当初よりあったようだが、「曵尾堂」と「洗心室」は、息子の台州氏が造った施設のようだ。
 「曵尾堂」と「洗心室」を除いた「白雲館・明月楼・海左園」が、覇陵氏時代の原風景ということになるのだろうと思う。
 その「海左園」が、碑文の釈文に「園を爲(つく)りて、牡丹を種え、洛種(京都の品種)數十品を郵致す(飛脚で送らせる)」という部分と重なるのだろと思う。
a0087378_1116596.jpg 屋敷図と見比べると、「曵尾堂」と「洗心室」等も含めて想像しないと、その原点も見えにくい。

 地域の情報では、「洗心室」は屋敷の北に、「曳尾堂」は屋敷の西に増築したらしい。また、台州の晩年には、南に「真隠亭」を築いたが、それを西の「海左園」だったところに移築したということがあるらしい。
 これらの情報を元に、屋敷図に重ねて想像するとこんな感じだろうか。

 「曵尾堂」のために増築した部分は、屋敷の西の二部屋あたりを想像する。機能的には、その手前の三部屋あたりも活用したかもしれないとも思う。
 「洗心室」のための増築部分は、屋敷の北に飛び出た部屋だろうか。

 そして、西の「海左園」に移築したという「真隠亭」が屋敷から廊下で結ばれた離れを指すのだろうと想像する。
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by shingen1948 | 2018-02-14 11:18 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 大田南畝氏との交遊で熊坂台州氏は、「熊阪子彦・白雲館・明月楼・海左園」と紹介される。「白雲館・明月楼・海左園」が、「熊阪子彦」とともに、熊坂台州氏を表す呼称あるいは文人サロンの呼称とされるようにみえる。
a0087378_11105811.jpg 新しくなった「熊坂家蛍域」前に建つ案内板では、「白雲館の屋敷」を掲げ、その解説の前半に、この「白雲館」について、これが私塾であったとして解説し、ここで江戸や全国の文人階級と盛んな交流があったと紹介される。
 ここで案内されるように、居宅を「白雲館」と号したのは覇陵氏のようだ。
 「熊阪台州氏(その2)⑨~「覇陵熊阪君墓碑」⑨」で確認した次の釈文と「白雲館墓碣銘(菅野宏)」の「白雲館の活動」に記される命名の意図の想像を重ね合わせる。

 まずは、碑文の釈文。

晩(晩年)に自ら丘壑(きゅうがく)に放(ほしいまま)にす(美しい自然のなかで悠々自適の生をおくった)。園を爲(つく)りて、牡丹を種え、洛種(京都の品種)數十品を郵致す(飛脚で送らせる)。其の居(きょ=居宅)に顔(がん=屋号をつける)して、白雲舘と曰い、樓(高殿)を明月樓と曰う。 析子彦(台州)を携(たずさ)えて、日に其中に嘯歌(しょうか=うそぶき歌う)。二十景の詩有り(王維の二十境にならって二十景をえらび詩をつくり)、子彦に命じて之を和せしむ(唱和の詩をつくらせた)。父子の間、自ら知己爲(ちきた)り(おたがいよく理解しあえる間柄であることを喜びとした)。

 次に、「白雲館墓碣銘(菅野宏)」の「白雲館の活動」に記される命名の意図の想像。
 
 「白雲館」との号は、「彼の白雲に乗じて帝郷に至る(荘子)」「秋風起り白雲飛ぶ(漢武帝<秋風辞>)」「青松路を夾(はさ)んで生じ白雲簷端(えんたん)に宿る(陶淵明<懐古九首其五>)」「但(た)だ去れ復(また)問うことなけん。白雲は尽くる時なからん(王維<送別>)」なと中国の詩にみえるおびただしい白雲のイメージに深くかかわるとのことだ。
 楼を「明日楼」としたのも、あふれるばかりの明月の文辞のなかの「深林人知らず明月来つて相照らす(王維<竹里館>)」の一句に最も深くかよいあうであろうとする。

 覇陵の思いから命名された「白雲館」が、案内板では私塾名として、全国的には文人サロン名としてイメージされているようだが、「白雲館の活動」では次のように表現されていて、分かりやすい。

 「静かな小盆地にあがる月は四季折々まことに美しいが、その明日楼のある白雲館は、東奥の地には稀有の文化活動の場となり、門下生の詩文の庭となり、社中同人結社の名ともなる」
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by shingen1948 | 2018-02-11 11:13 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 台州氏の交友関係資料確認にかかわって、よそ道に逸れる。
 台州氏の交遊関係を、主として大田南畝氏の資料から確認したところだが、気になったことの一つは、使わせていただいた大田南畝氏の資料が浮世絵にかかわるページにデータベース化されていたことだ。
 まずは、大田南畝氏と浮世絵との関係を確認しておきたかった。

 このことについて分かりやすかったのが、太田記念美術館の「蜀山人大田南畝―大江戸マルチ文化人交遊録」の解説だ。
 http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/exhibition/2008_ootanampo
 その4に「浮世絵師と狂歌師のコラボレーション」として、狂歌という文芸が浮世絵界と密接にかかわっていたことが解説される。
 そして、その6で、南畝の浮世絵研究家としての側面が解説されている。

 謎の浮世絵師である東洲斎写楽について語る時には、まず引用されるのが南畝が記した「浮世絵考証」なのだとか。
 狂言師と紹介されることの多い南畝氏だが、江戸の歴史や文化について深い造詣を示し、それを考察した数多くの随筆を記す学者としての側面を備えていて、江戸の一流文化人人とも親しく交流していたとのことだ。

 次に確認しておきたかったのは、奥州の人材で最となすとされる大内熊耳氏だ。
 「白雲館墓碣銘(菅野宏)」で台州氏が江戸に出た際にたくさんの長老大家たちの知遇を得たとされる多くの方の中で、この方だけ先の整理でふれたことがあったのだ。
 それは、「西遊紀行序」の選を依頼された観海氏は、その序の中で、奥州の人材で最となすのは平野金華と大内熊耳だとし、台州の文才をこの二大名家に比肩させているということだった。

 このお二方を確認すると、「平野金華」氏も「大内熊耳」氏も三春出身の方のようだった。
 そのうちの、平野金華氏については、「三春町歴史民俗資料館」のWeb資料館のページに、全国に名をはせた三春出身の学者として紹介されている。
 http://www.town.miharu.fukushima.jp/site/rekishi/web.html

 残念ながら、大内熊耳氏は紹介されていない。
 それで、ウィキペディアでその経歴をみると、三春城下の寺院に住み込んで学問を修め、正徳3年に、その平野金華氏をたよって江戸に出たことが紹介される。
 個性的な方らしく、いろいろあって、京都、長崎と渡るようだが、再び江戸に戻って、徂徠学に立ち返って服部 南郭に兄事し、浅草に塾を開いて成功したとのことだ。

 台州氏が江戸にのぼり、2か月間滞在するのは安政4年乙未(1775)」春だ。
 大内熊耳氏は、この時、今の数え方で78歳のご高齢のようだ。
 氏は、次の年の安永5年(1776)4月28日には江戸唐津藩邸で病没している。
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by shingen1948 | 2018-02-10 10:09 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 台州氏の交遊関係を視点に「白雲館墓碣銘(菅野宏)【白雲会研究会1989/4】」の年表を眺める。 昨日整理の情報と大きくかかわるのは、安政4年乙未(1775)」台州氏37歳、盤谷氏9歳の春だが、その少し前から情報を拾ってみる。

 明和8辛卯(1771)台州33歳・盤谷5歳の5月に「西遊紀行」が江戸崇文堂から刊行される。稲垣白巌・野村東皐などと初刊の往来あり(継志編)
 安永元年壬辰(1772) 台州34歳・盤谷6歳の2月に江戸大火で松崎観海氏が難を逃れ、台州はその詩文の写しを乞う。その4月に観海氏から台州氏によって詩文が伝わることを望む答えを得る。その9月に台州氏が「観海先生集」の序を撰す
 安永2年癸巳(1773) 台州34歳・盤谷6歳の秋2月に「観海先生集」編集に観海氏から意見を受ける。この年、小野隆庵「古方選」が刊行されるが、望三英序、台州跋。江村北海「日本詩選」刊行されるが、台州の詩作2首収載。

 そして、安政4年乙未(1775)」台州337歳、盤谷9歳の春、台州氏が江戸にのぼり、はじめて観海先生に謁し、2か月間滞在したことが記される。この時に、歓迎を受けて親交を結んだ文人の具体名が記される。
 山士訓(山内穆亭)岡公脩(岡部四溟)田子耜(大田南畝) 山君忠(山田松斎)関叔成(菊池衡岳)源季成(沢田東江) 山道甫(山崎景貫 朱楽菅江)らと親交を結ぶとあり、その出典を「杏園文集」としている。
 これが、昨日整理の情報と重なる部分だと思う。
 なお、ここで源季成(沢田東江)とあるのは、「浮世絵文献資料館」で、樋口元良(樋季成)とされた方なのではないかなと思う。

 「白雲館墓碣銘(菅野宏)」の年表では、この時に以下の長老大家たちの知遇を得、大いに期待されたことが記される。
 余子綽(大内熊耳)稲穉明(稲垣白巌)宇子迪(宇佐美灊水)井子章(渋井太室)田子亮(宮田明)紀世馨(細井平洲)谷文卿(横谷藍水)

 「観海先生集」を出典として唱和の詩多しとし、この時の台州歓迎詩作は「南畝集」その他にも録されていると記されている。昨日に整理した情報と重なるのは確実だ。
 この年に、「宇子迪(宇佐美灊水)「尚書」加点本を写さんと請い許された(福島県立図書館蔵)」ことが付加されている。
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by shingen1948 | 2018-02-09 11:02 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)