地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

<   2018年 01月 ( 10 )   > この月の画像一覧

 漢文の素養を持ち合わせていない散策人には、「覇陵熊阪君墓碑」から直接墓碑の漢字群の配列を確認することができない。
 この碑に刻まれているとする情報と照らし合わせながら行ったものだ。

 その情報は、前回の熊阪台州氏整理時に拾ったものだ。
 この熊阪墓地が改修工事されていたようで、ネット上の墓碑改修作業状況報告を見つけたのだ。確か山形県の業者だったと思う。
 その報告の中に、熊阪覇陵・台州・盤谷氏の三代の墓碑の写真と、そこに刻まれることの紹介があったのだ。
 そのうち、興味のあった覇陵熊阪君墓碑の情報をメモしたのが、次のようなものだ。ただ、今回、再確認しようと思ったら、ネット上からは消えていた。
 この参考文献が「白雲館墓碣銘(菅野宏)【白雲会研究会1989/4】」であることは記憶に残っていた。

 「覇陵熊阪君之墓」

君諱定昭、字君行、稱卯右衛門、號覇陵山人、考孫右衛門、諱定悠、姓兒島氏、有故冒鮒子田氏、按譜蓋出自
宇多天皇之苗裔、兒島三郎備後守高德、高德當元弘建武之間、勤王之勲、詳于史籍、不復贅焉高德生高光、高光生正綱、正綱從新田義宗、徙豫州、正綱生正光、正光生光義、光義生定義、定義生定綱、定綱生定宗、定宗生定直、定直生定信、蓋自光義至定信、在江州屬六角氏、定信生定德、定德生定次、定次生定政、自定德及定政、世仕宮津侯京極氏、寛文丙午、侯有罪國除、定敢與同志士五十餘人、堅守其城、待侯手書至、而後致諸 官使而去、乃客平安、寛文己酉生定悠、亡何買田宅於一乘寺村而隱焉。定悠以季子、出嗣鮒子田氏、故稱鮒子田氏、少東遊、奥州伊達望族、熊阪土佐之裔助利、遇諸東都、器之結爲親姻、遂藉伊達、冒熊阪氏、配片平氏生君、助利姉之子、同郡秦豐重、養助利之女、爲子以妻君、以爲己嗣、既豐重亦冒熊阪氏、君承家服農、又善廢著修業而息之、産日益殖。少有志功名、以策于東、諸侯厚禮遇之、遂傾橐給焉、盡破其産家人憂之、君曰、富無經業貨無當主、散千金致千金、是在我乃復治産、比及十年、果致千金、鄰里待君、而擧火者數十人、年飢、推産損息、貧者爲折券所全活、甚多、君疾惡若仇、恒言不如郷人之善者好之、其不善者惡之是我志也、吾耻爲郷原矣、未強喪秦氏、遂不復娶、旁絶妾甑、曰、楊叔節我師也、幼強記、能象棋洞蕭、長渉群書、好爲詩、中喜禪、及讀物先生之書、爽然自失、醜平生所爲、盡焚其稿、晩自放丘壑爲園、種牡丹、郵致洛種數十品、顔其居、曰白雲舘、樓曰明月樓、 析子彦、日嘯歌其中有二十景詩、命子彦和之、父子之間、自爲知己、疾病作詩自題、筆翰如流恬然臨終、明和甲申十一月十五日也、距生寶永己丑十一月二十八日、得年五十六、葬伊達高子村西門外、蓋執紵者三百人、君生二男二女、男曰定邦、即子彦、先娶某氏、繼娶寺島氏、女適信夫宍戸某、其二夭、孫男二人並幼、子彦善文章、有奇才、與余善、親状君行、千里乞銘、銘日、戒之在色、守志不惑、死生亦大、悠然自得、宜乎富好、行其德有、子能文維、其攸燕翼
明和五年六月壬戌、龜山松崎惟時撰、東都大田覃書并篆額、孝子定邦立
[PR]
by shingen1948 | 2018-01-31 10:02 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_90148.jpg 旧「熊阪覇陵・台州・盤谷墓碑」案内板では、その内容については「それぞれの事績が格調高く詳述されている」とし、その揮毫については、「これらは当時一級の文人たちによって揮毫」されたものとする。

 この「覇陵熊阪君墓碑」が「格調高く詳述されている」こととかかわるのが、「龜山松崎惟時撰」の漢文になっているということだろうか。
 この龜山松崎惟時氏については、先に「熊阪台州氏④」で確認したように、当時、もっとも「徂徠学派として重きをなしていた」方のようで、その方のお墨付きの格調高い漢文ということだろう。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23466348/

 そして、この碑の揮毫は大田南畝氏だが、案内では、具体名を挙げずに「当時一級の文人」として紹介されている。また、「うつくしま電子辞典」の「熊阪覇陵」についての関連史跡の一つとして「熊坂家墓碑」を挙げ、「高名な書道家によって熊阪氏の業績が刻まれている」と紹介される。
 大田南畝氏が「高名な書道家」との紹介とも受け取れる。

 大田南畝氏の紹介を確認すると、新宿12社熊野神社の式三番奉納額と紹介される水鉢は、大田南畝氏による銘文が書かれていて新宿区指定有形文化財に指定されているようだが、案内板では「大田南畝の水鉢」と紹介されている。
 http://12so-kumanojinja.jp/page-02.html
 その案内では大田南畝氏は蜀山人の別名と共に、有名な江戸時代後期の狂歌師と紹介されている。 「ウィキペディア」では、「天明期を代表する文人・狂歌師であり、御家人」とある。

 この方は、「うつくしま電子辞典」が紹介するように、確かに高名な書道家の側面もあるようだが、天明期を代表する文人・狂歌師でもあったようだ。
 更に、「太田記念美術館」の展覧会案内をみると、その範囲からもはみ出して「大江戸マルチ文化人」と紹介される。その文化人の範囲もはみ出すようで「夜は引く手あまたの文化人」だが、「昼は真面目な役人」との紹介だ。
 http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/exhibition/2008_ootanampo

 総合的に考えると、旧「熊阪覇陵・台州・盤谷墓碑」案内板が紹介する「これらは当時一級の文人たちによって揮毫」されたものとの紹介が一番似合うが、その紹介のイメージも超えているようだ。
[PR]
by shingen1948 | 2018-01-29 09:58 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回、「覇陵熊阪君之墓」の写真から本文の比較的痛んでいない上部を切り取って、地元情報と照らし合わせる作業を通して、気分的に「東都大田覃」の「書并篆額」を味わったつもりになれたところだ。
 この作業には、別の効果も派生する。
 その一つは、少なくとも照らし合わせた部分においては、地元のこの碑に刻まれているとする情報と符合することが確認できたという事でもある。つまりは、地元情報の確からしさの確認にもなっているということだ。
 更にもう一つの効果が、この照らし合わを通してこの墓碑の漢字群の配列が明らかになるという事だ。
 明和五年六月壬戌龜山松崎惟時撰、東都大田覃書并篆額、孝子定邦立の「覇陵熊阪君之墓」は、以下のように刻まれていたことが推定できるということだ。

「覇陵熊阪君之墓」

君諱定昭字君行稱卯右衛門號覇陵山人考孫右衛門諱定悠姓兒島氏有
故冒鮒子田氏按譜蓋出自
宇多天皇之苗裔兒島三郎備後守高德高德當元弘建武之間勤王之勲詳
于史籍不復贅焉高德生高光高光生正綱正綱從新田義宗徙豫州正綱生
正光正光生光義光義生定義定義生定綱定綱生定宗定宗生定直定直生
定信蓋自光義至定信在江州屬六角氏定信生定德定德生定次定次生定
政自定德及定政世仕宮津侯京極氏寛文丙午侯有罪國除定敢與同志士
五十餘人堅守其城待侯手書至而後致諸官使而去乃客平安寛文己酉
生定悠亡何買田宅於一乘寺村而隱焉定悠以季子出嗣鮒子田氏故稱鮒
子田氏少東遊奥州伊達望族熊阪土佐之裔助利遇諸東都器之結爲親姻
遂藉伊達冒熊阪氏配片平氏生君助利姉之子同郡秦豐重養助利之女爲
子以妻君以爲己嗣既豐重亦冒熊阪氏君承家服農又善廢著修業而息之
産日益殖少有志功名以策于東諸侯厚禮遇之遂傾橐給焉盡破其産家人
憂之君曰富無經業貨無當主散千金致千金是在我乃復治産比及十年果
致千金鄰里待君而擧火者數十人年飢推産損息貧者爲折券所全活甚多
君疾惡若仇恒言不如郷人之善者好之其不善者惡之是我志也吾耻爲郷
原矣未強喪秦氏遂不復娶旁絶妾甑曰楊叔節我師也幼強記能象棋洞蕭
長渉群書好爲詩中喜禪及讀物先生之書爽然自失醜平生所爲盡焚其稿
晩自放丘壑爲園種牡丹郵致洛種數十品顔其居曰白雲舘樓曰明月樓析
子彦日嘯歌其中有二十景詩命子彦和之父子之間自爲知己疾病作詩自
題筆翰如流恬然臨終明和甲申十一月十五日也距生寶永己丑十一月二
十八日得年五十六葬伊達高子村西門外蓋執紵者三百人君生二男二女
男曰定邦即子彦先娶某氏繼娶寺島氏女適信夫宍戸某其二夭孫男二人
並幼子彦善文章有奇才與余善親状君行千里乞銘銘日戒之在色守志不
惑死生亦大悠然自得宜乎富好行其德有子能文維其攸燕翼
明和五年六月壬戌龜山松崎惟時撰東都大田覃書并篆額孝子定邦立
[PR]
by shingen1948 | 2018-01-24 11:59 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「覇陵熊阪君之墓」の本文の末尾は建立にかかわる情報で〆られているようだが、確認できたのは、「明和五年六月壬戌、龜山松〇〇〇」とそのしばらく後ろに「大田」があることだ。
 前回確認したように、「明和五年六月壬戌、龜山松〇〇〇」は、「永慕編」の概要確認から「明和五年六月壬戌、龜山松惟時撰」であるこが分かる。
 「大田」が読み取れたことだが、この碑に刻まれているとする地元情報では、「東都大田覃書并篆額」だとされる。「東都」は江戸で、「大田覃」は「大田南畝」氏の本名のようだ。
a0087378_8132685.jpg これは、「覇陵熊阪君之墓」の写真から本文の比較的痛んでいない上部を切り取ってみたところだ。
 これだけで「東都大田覃」の「書并篆額」を味わうことは難しいが、この碑に刻まれているとする地元情報と照らし合わせてその部分を確認する作業を通すと、味わった気分になれる。

君〇定昭〇君行稱〇右
故冒〇子田〇按譜蓋出自
宇〇天皇之苗〇
于史〇不
正光、正光生光〇光〇生〇〇定義
定〇〇自光〇〇定〇在〇州屬〇角氏
〇自定〇〇〇世仕宮津侯京〇氏
〇十餘人〇守其城待侯〇〇〇而〇致
生定〇〇何〇田〇〇一〇〇村〇〇
子田氏少東遊、奥州伊達〇族熊阪土佐之
遂藉伊達冒熊阪氏〇片平氏生君助利
子以妻君以〇己〇嗣〇〇〇亦冒熊阪氏君
〇日益殖少有志功名以策于東諸侯
〇〇〇曰〇〇〇〇〇〇〇主散千金
致千金〇里〇〇而〇火〇〇十人年
君疾惡若〇恒〇不
原〇〇〇〇秦氏〇不復
長渉〇書好爲詩中〇〇及
晩自放丘〇〇園〇〇丹郵致
子彦日〇歌其中有二十〇詩命子彦
題筆〇如〇恬然臨〇明〇甲申十一月十五日
十八日得年五十六葬伊達高〇村西
男曰定邦即子彦先娶某氏継娶寺島氏
並幼子彦善文章有奇才〇余善〇〇〇行千里
〇死生亦大悠然自得〇〇富〇行〇〇有子能文
明和五年六月壬戌亀山〇〇〇〇〇〇〇大田

 最初に読み取れたのはこんな感じだが、再度この作業をすると読み取れる文字が増えてくるのが分かる。
 今回は散歩メモ用のデジカメを使っているが、解像度の高いカメラなら読み取れる文字は更に増えるだろうと思う。
[PR]
by shingen1948 | 2018-01-22 10:12 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_1192193.jpg これが「覇陵熊阪君墓碑」だと思う。題字は飾り文字で読みづらいが、そう思って読めば、「覇陵熊阪」の部分と二文字明けた「墓」が読める。その二文字も前後関係から「君之」だろうと想像がつく。題字は「覇陵熊阪君之墓」だろう。

 また、本文の最初の部分だが、二文字置いた次に「定昭」が読める。
 覇陵=定昭で、台州=定邦、盤谷=定秀のはずなので、これも確からしさの根拠になるだろうと思う。

 更に、本文の末尾に「明和五年六月壬戌、龜山松〇〇〇」が読める。
 「熊阪台州氏⑤」で、「永慕編」の概要についての予備知識として、「岩瀬文庫蔵書」解説での確認の際、「『覇陵熊阪君墓碣』(明和5年6月、松崎惟時撰)」が確認できている。
 この事と照らし合わせれば、ここは「明和五年六月壬戌、龜山松惟時撰」と重なる部分なのだろうと思う。これもまた、確からしさの根拠になるのだろうと思う。

 なお、このしばらく後に「大田」が読み取れるが、地元情報と照らし合わせれば、「大田南畝」氏かかわりが記されているのだろうと想像される。
[PR]
by shingen1948 | 2018-01-20 11:11 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 松川・浅川地域散策の整理を通して、確認したい事が明確になってきたので、この辺りで一区切りつけておこうと思った。
 それで、今までパソコン上に散らばしておいた松川・浅川地域散策情報を整理していた。

 今度整理しておきたいなと思ったのは、伊達の熊阪氏にかかわる情報だ。
 先に「熊阪台州氏」として15回に分けて整理していたので、その続きとして「熊阪台州氏(その2)」とした。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23457007/

 先の整理の「熊阪台州氏③」辺りから、その師を入江南溟氏から松崎観海氏に変えざるを得なくなる事情と「西遊紀行」の刊行をからませて整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23478257/
 その「熊阪台州氏⑥」では、松崎観海氏との手紙のやり取りの中の明和3年6月20日付第4書牘に「覇陵熊阪君墓碑」を撰する話とかかわる話が出てくる。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23480619/
 今回の整理は、その「覇陵熊阪君墓碑」を確認してきたことについてから始めることにする。

a0087378_10184939.jpg この写真は、2010年春に「熊坂家蛍域」を撮ったものだが、この「覇陵熊阪君墓碑」はこの中に建っている。
 撮影当時は、ここには案内板にある熊阪覇陵・台州・盤谷氏の三代の墓碑があり、保原町指定史跡になっているという事で立ち寄っただけだったので、特に整理もしていなかった。
 ここに建つ墓碑のそれぞれと熊阪覇陵・台州・盤谷氏の墓が一対一の対応で認識しているということでもなかったし、それを確かめようという気もなかった。

 それが、少なくとも「覇陵熊阪君墓碑」は確認したいと思うようになったのは、前回の熊阪台州氏の整理とのかかわりだ。

 なお、2010年に立ち寄った時には保原町指定史跡だったが、現在は伊達市の指定文化財となっているようで、案内板も変えられていた。
 保原町は伊達市に合併された事に伴う処置のようだ。新しい案内板の指定日を確かめると、平成4年となっていて、旧保原町指定をそのまま引き継いでいることが分かる。
[PR]
by shingen1948 | 2018-01-19 10:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 浅川地区の散歩資料で、「浅川と喜熨三太郎秀房一座」とかかわるとされる辺りを散策したところだ。
 この辺りを、旧浅川村とのかかわりで眺めれば、中沢屋敷とかかわる辺りだろうか。
 「浅川、松川散策の写真メモから⑤~舟橋地区④:船橋観音堂」でもふれたように、旧浅川村の起こりは、5軒在家なそうで、古浅川村と呼ばれるそうだ。
 そのうちの宮屋敷、中屋敷、舟橋屋敷(尾形若狭)、古浅川屋敷辺りについては、ごく一部ではあるがふれていた。今回は、今までふれていなかった「沢の深い中沢屋敷」の一部にふれたということだ。
 ただ、今では風景としては開発された地域のように見えるが、古くはこの「沢の深い中沢屋敷」の耕地を潤すための中沢渠の水源地群の東端辺りの風景のようだ。
 そして、「沢の深い中沢屋敷」在家自体は、もっと東側の現上中沢・下中沢地域辺りなのだろうと思う。

a0087378_9342468.jpg これは蓬莱団地の道筋に上ってから眺めたところだが、ここに写るお堂が、「黒虫地蔵」なのだと思う。
 「黒虫」というのは、マムシの別名だ。恐らくこの辺りには多くのマムシが生息しているということなのだろう。それで、小心者の散策人としては、ここに立ち寄るつもりはなかったのだが、この写真を見る限りでは、その心配もなさそうにも思う。
 浅川の散歩資料によれば、昔は樹齢200年程の松がお堂を覆うようにかぶさっていたのだそうだ。幹回り150㎝程の太さだったそうだが、松喰虫の被害で昭和末年頃に切り倒されたのだそうだ。
 祀られた地蔵尊は文政年間(1818~1830)に清水町の人が彫ったものなそうだ。
[PR]
by shingen1948 | 2018-01-12 09:36 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_10274623.jpg 「初代市川猿之助の母の墓」があるとされる土手の南側の風景だ。
 民家の左側から登っていくことが可能と紹介されるが、地域の方ならいざ知らず、よそ者が立ち入れるものなのかどうかは知らない。

 この喜熨三太郎秀房一座と初代市川猿之助の母の墓についての話だが、何となく懐疑的に受けとめているところがある。
 ただ、初代市川猿之助を確認すると結構辻褄が合っていて、確認自体も楽しめる。

 歌舞伎など古典芸能にも疎いので、取りあえず基本的な情報を検索してみる。
 「ニッポニカ」に初代市川猿之助<安政2年(1855)~1922>について服部幸雄氏の次の解説があるとの紹介が検索できる。

 「坂東三津五郎の門弟で、殺陣師の名人といわれた坂東三太郎の子。
 初め5世尾上菊五郎に入門したが、後9世市川団十郎の弟子になり山崎猿之助と名のる。明治7年(1874)中島座で、歌舞伎十八番の『勧進帳』を師に無断で上演して破門され、松尾猿之助の名でもっぱら小芝居や各地方の芝居に出演していた。
 明治23年(1890)帰参を許されて市川猿之助と改め、師とともに歌舞伎座に出られるようになった。
 しかし、明治30年(1897)以降は、小芝居の座頭格の立者となって活躍。明治43年(1910)には、2世市川段四郎と改名した」

 この情報を元に、三太郎一座の座長が江戸に出て、殺陣の技をかわれて坂東三津五郎の門弟となり、その殺陣師となったとの想像は可能だ。
 また、「千代田区観光協会」のページでは「初代市川猿之助が珍しい名字の喜熨斗(きのし)で、本名が亀次郎」との紹介もあり、情報が重なるようにも思える。

 ただ、気になるのは次の二点だ。
 その一つは、「千代田区観光協会」のページでは、初代猿之助は「浅草生まれ」とされる事だ。
 もう一つは、名字「喜熨斗(きのし)」は、初代猿之助の父である坂東三太郎が、六代目坂東三津五郎の門人であった縁で、坂東家の屋号の1つ「喜の字屋」と替え、紋の熨斗模様から生まれたという解説も見るということだ。
[PR]
by shingen1948 | 2018-01-09 10:30 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_1054036.jpg 浅川地区の散歩資料では、「初代市川猿之助の母の墓」が、この溜池の土手にある事を中心に紹介される。
 この浅川地区は、かつてはとても芝居が盛んだったそうだが、喜熨(きのし) 三太郎秀房一座に負うところが多いとする。特に仙台藩の伊達氏にひいきにされていたとのこと。その三太郎の妻は嘉永5年(1852)12月25日に道坂で病死し、この地に葬られたという。法名は空江山智明善女とのこと。
 三太郎は、残された亀次郎(2歳)を連れて江戸に出たのだが、この亀次郎を苦労して歌舞伎役者に育てたという。それが、初代市川猿之助だとする。

 こちら側からは立ち入り禁止になっているが、南側の民家の左側から登っていくとは可能らしい。
八丁目宿の情報では、この南側の民家が三太郎喜熨(きのし)秀房一座の本拠地というふうに紹介されるが、こちらの紹介ではあくまでも「初代市川猿之助の母の墓」がここにあるという感じの紹介だ。

※ 前回の「浅川、松川散策の写真メモから34」の整理に「~八丁目宿と喜熨(きのし) 三太郎秀房一座」を付け加え、今回の「浅川、松川散策の写真メモから35」の整理は、「浅川と喜熨(きのし) 三太郎秀房一座」とする。
[PR]
by shingen1948 | 2018-01-07 10:55 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_9193652.jpg これは、福島医大側から看護寮の方向を撮った写真だ。
 この写真を撮った時点で興味があったのは、右手に写る溜池だった。浅川村の中心的な集落の一つが、中沢渠の開発とかかわるようなのだが、この溜池は、その地域への潅水とかかわっているようなのだ。

 今、この写真を見直しているのは、その溜池の右手の丘への興味だ。
 先の八丁目宿散策で、その八丁目文化情報にこの丘とかかわるのではないのかなと思われる情報を得たからだ。
 「松川のあゆみ」の八丁目文化で、芸能活動にかかわる地芝居について次のような紹介がある。

 芸能活動としての地芝居興行には、原則的には領主代官の許可を必要として厳しかったのだそうだが、実際には、幕末にはその禁制も緩んで急激に盛んになったとそうなのだ。
 八丁目宿の菅原神社や諏訪神社の祭礼には、この地芝居興行が大層人気があったのだとか。その中でも特に人気だったのが、「三太郎」喜熨(きのし)秀房一座で「三太郎芝居」と言われていたそうだ。その芸は、仙台公のおほめに預り、その藩士の息女を媒酌されたりする程だったのだそうだ。
その一座の足跡は一関にまで及んだという。その後、この一座は江戸にまで上ったのだそうだが、その子が初代市川猿之助になったというのだ。

 この金谷川地域の散歩資料を確認していたら、この溜池の土手の南側に「浅川芝居一座」の本拠地があったという情報があった。
 その情報を何となく確認していたら、「松川のあゆみ」がいう「三太郎」喜熨(きのし)秀房一座の情報と重なるような気がしたのだ。

 「その子が初代市川猿之助」という部分の確からしさは知らないが、どちらもそのかかわりを強調するという共通点がある。
 少なくとも、この溜池の土手の南側に八丁目宿で人気の「三太郎」喜熨(きのし)秀房一座の本拠地があったということではあったようなのだ。
[PR]
by shingen1948 | 2018-01-05 09:24 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)