地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 「浅川、松川散策の写真メモから32」の再び修正。
 ここでの写真を「2009年7月に諏訪神社辺りから本町方面に向けて撮った写真だ。右手が諏訪神社」としたところだが、右手は現「常円寺」のようだ。
 誤りが続く言い訳になるが、八丁目家主一欄で、本町側に描かれる寺は「常光院」だ。更には、散策資料の一つである半沢氏の「歴史地図」では、現存寺院として「常光院」を挙げ、「常円寺」は廃寺になっているようにメモされていたのをそのまま受け入れてしまっていたのが、原因のようだ。

 その「常円寺」について「信達二郡村誌」を元に整理したが、「羽前国置賜郡米沢曹洞宗東源寺末」であることと「奈良沢主殿助淳盛開基」であることが気になったので、更に確認を進めてみた。
 すると、上杉氏の会津移封に伴うその家臣団の動きとかかわるらしいことが伺えた。

 上杉氏にかかわる整理でお世話になったMASAさんが、そのブログで「泉八家と信達八寺 その1」として整理されていた。
 その情報によると、上杉氏の家臣団の泉八家とされる方々の奈良沢氏とのかかわりであるらしいことが分かる。
 https://blogs.yahoo.co.jp/ssyinb27/12021236.html

 その「泉八家」については、次のように整理されています。
 信濃国水内郡常盤郷尾崎庄(長野県飯山市尾崎)には、泉親平という豪族がいて、その子が尾崎の五反田に館(尾崎城・三桜城)を構えたとされているそうだ。
 その泉氏13代政重は、文明8年には自ら尾崎姓を名乗るようになったのだとか。
 その尾崎氏が、高井水内両郡の領地を7人の弟に分封し、それぞれの土地の名を苗字としたとされるそうだ。
 すなわち、重安は上倉氏、重継は今清氏、重永は上堺氏、重家は大滝氏、重道は中曽根氏、重能は岩井氏、重直は奈良沢氏を名乗ったという。
 その7家に宗家の尾崎氏を加えて泉八家とされているのだそうだ。

 その泉八家とされている方々が、慶長3年(1598)1月10日の上杉景勝の会津移封によって、奥州信夫郡・伊達郡に所領を宛がわれたのだが、それに伴って信濃国高井郡・水内郡から、次のような地に菩提寺を移したとされているのだそうだ。
 南具羅東源寺(信夫郡名倉村)  尾崎三郎左衛門重誉
 喜松山嶽林寺(伊達郡糠田村)  上倉玄蕃元春
 天徳山明智寺(伊達郡増田村)  今清水掃部介重将
 般若山仏母寺(信夫郡笹木野村) 上堺左馬之助誉正
 玉泉山泉秀寺(伊達郡泉田村)  大瀧甚兵衛実安
 大悲山成願寺(伊達郡大波村)  中曽根小左衛門義清
 岩井山金剛院(信夫郡入江野村) 岩井備中守信能
 長沢山常円寺(信夫郡八丁目村) 奈良沢主殿助淳盛

 奈良沢主殿介氏の情報を拾うと、録は文禄3年定納員数目録によると計3841石(奈良澤 楢澤主殿助2983石+上田庄奈良沢・野口・八日町 奈良沢主殿助858石)だったらしいとのことだ。
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by shingen1948 | 2017-12-31 11:47 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回の「浅川、松川散策の写真メモから32」での旧街道に続く道筋については勘違いに基づいての整理だったので消去する。
 西の将軍地蔵堂の辺りの旧街道と旧国道の関係性と、「水晶沢の清水」に続く道筋との関係性を勘違いしていたのだ。この辺りの旧街道は、もっと山沿いを通っている。
a0087378_10111494.jpg これは2009年7月に諏訪神社辺りから本町方面に向けて撮った写真だ。右手が諏訪神社だ。旧街道は、写っている信号の角を左に進み、石合町に入る。

 「八丁目家主一欄」と見比べると、この旧国道の道筋になっている辺りに、常円寺という寺があったらしいことが分かる。
 その寺は、「信達二郡村誌」では次のように紹介される。

 「北部水晶沢に在り、境内東西33間、南北12間。段別1段2畝23歩官有地外に民有地3畝9歩有り。
 羽前国置賜郡米沢曹洞宗東源寺末派なり。慶長6年丑年奈良沢主殿助淳盛開基と云伝ふ」

 「松川村の小字」とも照らし合わせると、本町と石合町の間のこの辺りから小字水晶沢であることが分かる。勿論、先に整理の金明水の泉辺りも小字水晶沢のはずである。
 
 松川村の小字水晶沢と浅川村の界については、「北は水晶沢の畔搒を以って浅川村に界す」とある。
 この記述からは、小字名の元になった「水晶沢」という沢があって、その畔搒が浅川村との境界線というふうに読み取れる。
 このことから、水晶沢という沢は、浅川村との界近く東西に走ることが想像される。
 現在の地域名と照らし合わせると、恐らく現団地入口辺りの道筋と並行して西に向かって流れる沢だったのではないのかなと想像している。

 ※ ここでの写真を「2009年7月に諏訪神社辺りから本町方面に向けて撮った写真だ。右手が諏訪神社」としたところだが、実際は、右手が現「常円寺」の所のようだ。次の「浅川、松川散策の写真メモから33」で修正している。
  誤記を含む記事をそのまま残すのは、散策では、その過程で試行錯誤を繰り替えしているが、それも楽しみの一つである側面があるからだ。
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by shingen1948 | 2017-12-31 10:16 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 昭和40年頃の「明治天皇御料水碑」が建つ「水晶沢の清水」の風景について、 地元の地域紹介では、「松川の入り口の旧4号国道の西側に清水の跡と1本の松の木とともにブロックで囲まれている」とある。これは、現況の風景とは微妙に違う。
 「1本の松の木」も「ブロックの囲い」も見当たらない。

a0087378_9505080.jpg この碑の裏側に回ってみると、石積みのところに、時勢の変遷によって荒廃したこの「明治天皇御料水碑」を修復した事が記されている。この修復が昭和63年12月とのことなので、恐らくその整備の時点で消失していたのだろうと想像する。
 ただ、「明治天皇御料水碑」が建つ位置が「清水の跡」辺りの風景という事には変わりがないのだろうと想像している。

 この「水晶沢の清水」が「明治天皇御料水」であったということは、この清水が名泉であったということだ。その情報が、「浅川、松川散策の写真メモから22」で整理した福島市唯一の蔵元の情報とも重なる。
 この蔵元「金水晶」が元々は旅籠「蝋燭屋」だったことや、明治天皇御巡幸の折に和歌を献上した方がこの蝋燭屋のご主人であると想像できる事については、この時にふれた。
 今回整理するのは、この酒蔵の酒造りと「水晶沢の清水」が名泉であることとのかかわりだ。

 この「金水晶」のホームページに、「金水晶のはじまり・由来」の項があり、そこにこの「水晶沢の清水」について次のように紹介されていた。
 https://www.kinsuisho.com/?mode=f1
 蔵元の近くには、遠い昔金売り吉次が発見したと伝わる金山があり、湧き出る名水は水晶沢へと注がれました。明治初年、明治天皇東北御行幸の折、当地に御立ち寄りになり、ご所望によりこの湧水を献上致しましたところ、ことのほかお誉めにあずかり、特に「金明水」と御賜銘下されました。

 そして、この蔵元を「金水晶」と命名したのもこの水晶沢の霊泉で酒造りを始めたこととかかわっているとしている。
 「金水晶」の「金」は金山から、「水晶」は水晶沢からとっての命銘なのだとか。
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by shingen1948 | 2017-12-26 09:52 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_746216.jpg これは「明治天皇御料水碑」だ。
 碑の下部に判読できない箇所もあるが、地元の資料と照らし合わせながら読むと、おおよそ次のような内容が記されているらしいことが分かる。

 ここには「水晶沢の清水」といわれる泉があったようだ。
 明治9年の明治天皇が東北巡行の際に御飲水されて、「清冽無比富士山の金明水のようだ」といわれたとのことだ。それ以降、この泉の水は「金名水」と言われるようになったとのことだ。
 明治15年に三島県令が水晶沢に国道を通すことに策定した時には、この明治天皇御飲水である清水は移設しないように要望し、現在地に残されたのだそうだ。ただ、残念ながら昭和8年の金鉱採掘によってこの泉は枯れてしまったそうだ。
 せめて「金名水」の名前だけでも残そうと、昭和10年にこの由来を記した「明治天皇御料水碑」が建てられたとのことだ。

 「松川のあゆみ」には、次のようなエピソードも記される。
 〇 福島の行在所にお着きになった夜、この水が欲しい旨仰せになられたので、騎馬の兵隊がこの水を汲み持ち帰ったとも言われているのだとか。
 〇 御飲水選定では、水晶沢の水と清水町の水が最後まで残り、甲乙つけがたかったが、両方の水を同量比べたら、水晶沢の水が僅かに軽かったので、不純物が少ないと判断されて水晶沢の水に軍配が上がったのだとか。

 後者のエピソードは滑稽さも漂うが、要は村としはその位神経を使ってお迎えしたという事なのだろうと思う。
 清水町散策時には、御飲水選定で清水町の水が最後まで残ったという話は聞かなかった。選定の一番の話は残るが、二番以下の話は残らないというのが常だが、少し残念に思うところもある。
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by shingen1948 | 2017-12-24 10:45 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_7443171.jpg この写真は、「浅川、松川散策の写真メモから25」で使った稲荷神社を写した写真の左側を切り取ったものだ。
 奥に見えるのが、松川国民学校から移築されたという奉安庫を想像している建物だ。今回、確認したいこととかかわるのは、その手前の石灯篭の陰に写り込んでいる石碑だ。
 これが「明治天皇御駐輦之地」の記念碑のようなのだ。この碑の左には「陸軍大将荒木貞夫謹書」とあるそうで、昭和10年(1935)12月に造立されたものとのことだ。

 松川を通過されるのは3度なそうだ。
 その1回目は、明治9年6月19日の東北御巡幸の往路。二回目が明治14年(1881)8月9日の奥羽・北海道の御巡幸で、三回目は10月14日のその御還幸とのことだ。

 この写真の石碑は、元々三度とも小休止されたという添田旅館があった地に造立されたものなそうだが、昭和63年(1988)に現在地に移されたとのことだった。

 気になったのはその添田旅館だが、この辺りかなと想像がついてきたのは最近だ。
 それは、現ハイツの建っている辺りらしいとのことだが、八丁目家主一欄で確かめると、この辺りは屋号で記されるものの、それらしい旅館は見当たらない。
 今のところ、変遷によるものなのだろうと想像している。また、その建物の様子を知る情報も得てはいない。

 「松川のあゆみ」では、最初の御巡幸である明治9年6月19日の東北御巡幸の際の様子が詳しく記される。
 それには「9時15分に八丁目駅の添田朔助の宅で御小憩」と記される。その「添田朔助の宅」が、添田旅館なのだろうと思う。
 ここで天覧に供されたのが、天満宮の神代石(石剣)・古書画・古墨跡と盛林寺の古茶釜とのことだ。
 また、この時に西光寺の平林宥京氏が祝辞、蝋燭屋の斎藤健輔氏と稲荷神社神官である石合の西東広親氏が和歌を献上したとのことだ。
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by shingen1948 | 2017-12-21 09:43 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「奥州一覧道中膝栗毛」第五編序の千菊園一葉を検索すると、この方は、翠千条(みどりせんじょう)という江戸時代後期の狂歌師とのことが分かる。
 仙台の人で、千柳亭唐麿の社中で判者となり、後に、師の一葉号をゆずられて千菊園一葉とあらためたのだそうだ。文政9年(1826)刊「狂歌鼎足(ていそく)集」などの編著があるそうだ。姓は伊藤、名は恒徳、通称は直吉とか。

 「奥州一覧道中膝栗毛」第四編序の百舌自廼屋、あるいは、百舌鳥廼舎排、百舌鳥団七で検索してみるが、こちらから塩屋の通称渡辺団七氏である排氏に辿り着いてはいない。また、その挿絵を描いたとされる枡屋銀五郎、通称加藤候一にも辿り着かない。
 そういう意味では不確実さが残るのだが、地元の情報として整理しておく。

 図説「福島市史」の「近世の文化と生活」では、町人文化とのかかわりで十辺舎一九の「金乃草履」の図説を使っている。
 福島宿も八丁目宿も描かれるのは「諸国道中金乃草履6」の「奥街道仙台」で、残念ながら国立国会図書館デジタルコレクションではこの編は欠落している。
 この編は、県内かかわりでは、檜皮(高倉駅)―本宮―杉田―二本松―二本柳―八丁目―若宮―根子町―福島―瀬上―桑折―藤田―貝田―越河―幸川―白石等々の宿駅にふれる。

 福島宿は、「諸国道中金乃草履8」の出羽三山参詣(羽黒山行脚)でもふれられる。この編は、県内かかわりでは、福島―佐々木野(笹木野)―庭坂―李平―板谷―大沢―米沢等々の宿駅にふれる。

 なお、「諸国道中金乃草履」の越後行脚(会津・小出・新潟紀行)では会津方面の会津若松―高久―坂下―野尻―白坂―八田―焼山―天満―津川―諏訪峠等々の宿駅等にふれられている。
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by shingen1948 | 2017-12-19 11:32 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 中町の桝屋さんが掲げる看板に記される枡屋銀五郎氏は、当時呉服商を営なみ、その取引は北関東に亘ったという。
 「浅川、松川散策の写真メモから⑬」では、八丁目文化にかかわって、この方が加藤候一の名で狂歌狂画をよくした方で、殊に鳥羽画に巧みであったという情報があることにふれた。
 屋号塩屋の通称渡辺団七氏とのかかわりで、二代十返舎一九の「奥州一覧道中膝栗毛」に挿絵も描いているとの情報だ。

 その屋号塩屋の通称渡辺団七氏である排氏は、散文戯文にも長じた蜀山人太田南畝とも親交があったのだそうだ。十返舎一九の「金乃草鞋奥州道中」にならった二代十返舎一九の「奥州一覧道中膝栗毛」の第四編の序を百舌鳥廼舎(もづのや) 排の名で書いたとのことだった。

 今回は、その「奥州一覧道中膝栗毛」第四編の序を確認したので、整理してみる。
 すらすらと読めればよいのだが、その素養がない。
 次に掲げるのは、紹介された文章と写真版を見比べて、おおよそこんな感じだろうといった程度のもの。

 奥州一覧道中膝栗毛四編序
 かきつくしてよ壷(つぼ)の石碑(ぶみ)いはねと
 志のふ十辺舎、最早一句(もはやいっく)も出(で)まいと思いば
 彦枝栄(ひとえさか)ゆく落栗庵、桃栗燕栗(きくぐり)の、
 ささにはあらぬ志ば栗(くり)を、こまかに拾(ひろ)ふ
 旅(たび)の洒落(しゃれ)、栗橋(はし)こえてみちのく乃、
 その栗原(くりはら)の姉葉(あねば)の松(まつ)、栗駒山(くりこまやま)の朴
 木枕(ほうのきまくら)、四人連(つれ)たち三つ栗の、中の
 ひとりは栗々坊主(くりくりぼうず)、ひっょくりそっくり
 がっくりと、栗桃色(くりももいろ)の旅衣(たびごろも)、栗皮染(くりかわそめ)の
 頭陀袋(づだぶくろ)、知恵のふくろは焼栗(やきぐり)の、はねた
 趣向(しゅこう)は鬼(おに)かげの、栗毛(くりげ)は小栗(おぐり)が乗(のり)志づめ、
 栗(くり)から不動(ふどう)のいとくにて、栗(くり)から丸と名(な)にに
 呼(よ)ばれ栗柄(くりから)太郎は天拝山(てんぱいさん)、その山猿(やまざる)は
 栗(くり)の酒(さけ)、栗(くり)の杓子(しゃくし)で汲(くん)で呑み、まな栗(くり)
 ひとつに屁(へ)八十、笑(わら)ひの種(たね)のいけ栗(くり)は、角(つの)の
 はえたる毛毬(いが)の栗(くり)、鬼(おに)すむ丹波(たんば)の爺打栗(じうちくり)、
 親(おや)はうたれし、栗谷川(くりやがわ)はた栗坂の戦(たたか)ひは
 桃栗(ももくり)三年後(ご)三年流矢(さんねんながれや)来(きた)りて序文(じょぶん)の役(やく)、 渋(しぶ)もとれざるかち栗は、籠石前(むろいしまえ)の栗こは飯(めし)、
 毫(ふで)を嚙みかみ百舌鳥団七記す。

 嘉永二年 
 むつき

 ただ、紹介された文章に従って「百舌鳥団七記す」としている部分だが、写真版では「百舌自廼屋記す」と読めるような気がする。
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by shingen1948 | 2017-12-17 10:06 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「浅川、松川散策の写真メモから」としながら、写真はない。今回整理したいのは、先に「奥州街道:八丁目村から天明根村辺り②」でふれた「松川座」だ。
 この整理時点で、曖昧だった位置情報が少し明確になったということでの整理のし直しだ。

 その位置を現中村工場事務所とする「松川のあゆみ」の解説を前提にしているところは変わらない。
 先の整理では、現況ではこの中村製作所が確認できないので、昭和46年の地図にプロットされる「中村製作所」を元に天明根村分の街道の東側と絞り込んだ。

 その中村製作所の詳細が、「松川のあゆみ」の「第二次世界大戦と工場の進出」の項で確認できたのだ。
 この製作所は、昭和13年11月に品川で操業したが、戦災にあって昭和20年2月に中町に疎開創業した企業とのことだ。当時、カセット付テープレコーダーやエイトトラックカートリッジホームステレオを製造していたとのことだ。
 注目はその住所で、「松川町字中町二」とあった。

 この情報と現況を照らし合わせれば、現在アパート風の建物が建つ辺りと想像できる。

 天明根村分にこだわったわけだが、それは「松川座」にかかわる情報に「字天明根」にできた常舞台とあったからだ。
 そのことと矛盾がないかという事だが、ここは字天明根と接する位置なので、大丈夫だろうと思う。
 当時の街並みの塊として眺めた時に、字中町というよりは「字天明根」側の街並みの塊に入り込んでいたのだろうと想像する。

 「松川のあゆみ」の「松川座」についての情報の概要を再掲する。

 明治45年創業の天明根村の常舞台。
 金沢屋忠兵衛が私財を費やし、西光寺の庫裏を解体して建設したものとのことだ。
 明治43年結成の「松川町青年団」発会式は、この「松川座」で挙行されたとのことだ。創業前の出来立ての常舞台を使用させたということなのだろうと想像したところだった。

 「写真集:明治・大正・昭和 福島(大竹三良)」では、その集客とのかかわりについて「宿場町から発展した松川町は幕政時代から遊郭もあり、鉄道忌避で寂れたとはいえ、周辺の農村を商圏としてにぎわっていた」と解説されていた。
 ただ、現時点でもこの「松川座」を紹介する写真は見ていない。

 なお、「写真集:明治・大正・昭和 福島(大竹三良)」に掲載される大正13年創立で、昭和37年まで続いていたという芝居小屋「松楽座」については、先に「松川事件を歩く」の散策時にその位置を確認していることも再掲しておく。
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by shingen1948 | 2017-12-16 09:59 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回の「浅川、松川散策の写真メモから24」からは、今回の整理を通して新たに見えるようになった事について、整理のし直しをしている。
a0087378_1134559.jpg この写真は、今回の散策で稲荷神社を撮ったものだ。
 この神社の由緒らしきことと手前の石橋と左手の松川村道路元標については、先の「浅川、松川散策の写真メモから⑨~松川村道路元標」で整理している。

 新たに見えるようになった事というのは、拝殿の左側に写る赤い扉の建物だ。
 この建物は、松川国民学校の奉安庫を移築したものなのではないのかなと思ったのだ。「松川のあゆみ」に、「(松川国民学校の奉安庫は、)戦後昭和21年1月24日、新教育の発足と共に撤去され、現在中町の稲荷神社の宝物殿となっている」との記載を見つけたのだ。それで、先に「浅川、松川散策の写真メモから」で整理した黒沼神社に移築された金谷川国民学校の奉安殿と、稲荷神社で撮った写真を見比べて、移築されたという松川国民学校の奉安庫はこの建物だろうと推測したということだ。
 その建物なら、設計は福島の伊藤邦治氏、大工は中町の丹野久松氏で、大正7年10月23日に完成したものとのことだ。杉内励三郎氏の300円をはじめ人々の寄付金500円でその経費は賄われたとのことだ。

 奉安庫は、御真影、教育勅語謄本が安置され、管理は校長の第一の任務であり、児童は勿論、他の職員も入ることはできなかったものだ。最近は、わざわざ教育勅語について教育現場でふれて構わない趣旨を閣議決定されるという流れのようだが、自分の感覚では、これらは戦前の教育の象徴のようなものと感じている。
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by shingen1948 | 2017-12-13 11:36 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 ここまで整理してくると、旧国道四号線と重なる大町通りでは、本陣とされるガソリンスタンド付近の写真が欲しかったことに気づく。
 次の機会に、旅籠「植木屋」の案内が設置された辺りから、ガソリンスタンド向けて撮ってメモしたい。

 旅籠「植木屋」の向かい側で目立つのは現金沢屋酒店だが、そこに旅籠「角田屋」金沢屋の案内が設置されている。更にその隣のお宅前には、旅籠「藤屋」の案内が設置されている。
 八丁目家主一欄を眺めると、「角田屋忠吉」とその隣の「藤屋与惣左衛門」が確認できる。
 この二つの情報は、重なりがあるのだろうと思われる。

 この事によって、気になっている「問屋場」と現在位置とのかかわりがイメージできるようになってくるのだ。
 旅籠「藤屋」の隣に「松野屋仙太」があって、その隣が「問屋場」という位置関係だからだ。

 今まで整理してきたことと重なる情報は、現金沢屋酒店の北側一軒挟んだお宅前の街路灯に「新中田屋」の看板が掲げられている事だ。
 「浅川、松川散策の写真メモから⑲」で、八丁目小学校創立当初の職員を整理したが、その中の「山田きみ」さんの情報と重なる。

 情報を再掲する。
 山田きみさんは塾生ではないが、維新塾師匠の田島鷗僊氏と二本松藩でのかかわりから採用されたらしいとした。
 この方は、二本松藩城代御用人丹羽和左衛門氏の養女で、夫は郡奉行だったが、どちらも落城の折に切腹し、自らも自害を計ったが止められて田島家に来たとのことだ。本町新中田屋(伊藤銀治)離れに居を構えたとのことだった。
 この情報を整理する時点で、本町新中田屋の位置は確認していないとしていたが、この辺りだということが分かったということだ。

 本町「新中田屋」の情報を続ければ、その主人伊藤銀治氏は、元丹羽家の下郡奉行をしていた方とのことで、その恩義を感じてきみさんをとても大切にされていたとのことだ。

 本町「新中田屋」の更に北側のお宅の門柱には「内科・産婦人科 菅野医院」が掲げられる。明治43年に開業され、後に村会議員や助役にもなられたという菅野重誠氏の情報との重なりを想像する。

 これ等の向かい側の並びに、先に「浅川、松川散策の写真メモから⑱」で整理した寺小屋情報と重なるお宅もイメージできそうだ。
 季節によって指導していたという本町「服部半兵衛」宅は、本陣のガソリンスタンドから三軒北側のお宅辺りでなかろうかと想像している。
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by shingen1948 | 2017-12-12 10:57 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)