地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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<   2017年 11月 ( 14 )   > この月の画像一覧

 制度的に整備されていくのは、この辺りでは福島第一小学校の前身とされる福島学校と三春のようだが、素人目には私塾維新塾の創立と八丁目小学校の創立にかかわる経緯には似たような状況だったように見える。
 
 前回の整理では、この私塾には師範学校的な性格も帯びていたような気がするとしたところだが、八丁目小学校の最初の職員と私塾維新塾塾生の情報を重ねてみる。

 八丁目小学校は、明治6年5月2日に盛林寺に創立されるそうだが、その明治6年時点の職員は以下の方々とのことだ。
〇 田島久敬
 6月24日付一等助教申附候事月給8円
〇 山田志殻
 6月24日付ニ等助教試補申附候事月給3円
〇 竜 無善
 6月27日付教場手伝申附候事書籍料年10円
〇 平林宥京
 7月2日付三等助教試補申附候事月給2円
〇 信夫隆善
 7月26日付教場手伝申附候事書籍料年12円
〇 半沢富弥
 7月26日付教場手伝申附候事書籍料年10円
〇 山田きみ
 10月23日付三等助教試補申附候事月給2円50銭

 このうち、首座の田島久敬氏は私塾維新塾師匠の田島鷗僊氏のことだが、以下の4名も維新塾の塾生情報から拾える。
 平林宥京氏は西光寺住職、竜 無善氏は八丁目小学校が創立された盛林寺の長老、信夫隆善氏はお隣の安達郡吉倉村西福寺住職、半沢富弥氏は金沢村の黒沼神社神官の塾生の方々のようだ。

 山田きみさんは塾生ではないが、維新塾師匠の田島鷗僊氏と二本松藩とのかかわりから採用された方らしい。
 この方は、二本松藩城代御用人丹羽和左衛門氏の養女で、夫は郡奉行だったが、どちらも落城の折に切腹し、自らも自害を計ったが止められて田島家に来たとのことだ。本町新中田屋(伊藤銀治)離れに居を構えたとのことだが、本町新中田屋の位置は確認していない。

 ここまでで確認できないのは山田志殻氏だが、9月14日には水原小に転勤になっているようだ。

 なお、金谷川村の情報では、盛林寺長老竜無善氏は関谷小学校教師、西光寺住職平林宥京氏は浅川小教師、安達郡吉倉村西福寺住職信夫隆善氏と金沢村黒沼神社神官の半沢富弥氏は金沢小教師だとされている。

 また、先に整理した菅原神社神官の渡辺伊佐美氏は、浅川・関谷・金沢小教師とされるが、明治10年には松川小の教員になっていることも確認できている。
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by shingen1948 | 2017-11-30 10:18 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_9335279.jpg この日向山の不動院は、先に松川鉱山にかかわる散策の目安になる地点として確認したものだ。写真は撮ったが、その時の散策には直接的にかかわりがないので、そのまま放置していたものだ。
 今回、ここ日向山不動院住職荒木良仁・良義雄氏もその師匠として活躍されていたとの寺小屋情報を得た。

 他に、季節によって指導したという本町服部半蔵氏、歌人で指導に熱心だったという石合町神主西東広親・弘栄氏、新田の伊藤半十郎氏と多分その子の画家伊藤小兵衛氏という師匠さんという松川町の寺小屋情報がある。

 この松川町の寺小屋情報からは、新たな私塾も見えてきた。
 先に篆刻家として整理した天明根の菅野次郎右衛門氏は、維新塾塾生であると共に町裏の西光寺住職平林宥京氏のお弟子さんでもあったとの情報を得た。また、石合町の明宝院住職小泉宥範氏、そして、最上流珠算の権威者だという埋崎の八巻幸吉氏も平林宥京氏のお弟子さんとのことだ。
 つまり、町裏の西光寺住職平林宥京氏は、情報としては寺小屋師匠とされているが、これらのお弟子さんの師匠でもあるということは、私塾でもあったことが想像できると思うのだ。
 ここには複雑な関係性もあって、平林宥京氏の弟子である埋崎の八巻幸吉氏は、名主で後の村長になられる桜内氏や杉内氏の師匠でもあるとのことだ。寺小屋師匠とされるこの八巻幸吉氏も最上流珠算の私塾師匠だということなのだろうと思う。

 また、松川町の寺小屋情報では、「歌人で指導に熱心だったという石合町神主西東広親・弘栄」氏とされる方だが、「金谷川の教育」の情報ではこの方が「石合の西東塾(俗称さつま様)」という私塾師匠として紹介されている。
 そこでは、薩摩様は神官で、和歌を中心に教えていたとある。また、弘栄氏は明治14年の明治天皇東北御巡幸の際、和歌を献上したという。
 関谷村の安田氏はその弟子で、金沢村にも多くのお弟子さんがいらっしゃったとのことだ。

 私塾維新塾は、それらの私塾や寺小屋の師匠さん達の複雑な関係性の中で、研修や交流の場でもあったようにも感じられるが、それだけにとどまらない。
 塾生のその後からは、特徴的に松川小学校にかかわる方々が垣間見られるのだ。
 制度的にはよく分からないが、この私塾は実質的には師範学校的な性格も帯びていたような気がするが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2017-11-28 09:41 | Comments(0)
a0087378_1052308.jpg 今回の整理を通して、ここ常念寺の見え方が変わった。
 二本松落城の頃、鼓岡村名主桜内氏が中心となって、元二本松藩士田嶋鷗僊氏を招いて自宅に「維新館」という私塾を創設したそうだが、その私塾は、その後ここ常念寺で展開されたということだ。
 前回整理したように、そこで学んでいる方々の中には、今まで整理してきた名主の方々や八丁目文化の担い手の方々の名が見える。
 また、多くの弟子をかかえた私塾の御師匠さんの名も見える。
 例えば、二本松藩の最上流宗統派四伝の算法印可を受けて系譜を引き継ぎ門弟1000人の金沢村丹治明斉氏や、その弟子最上流宗統派五伝の算法印可を受ける尾形貞蔵氏の名も見える。
 古浅川の神道無念流師範長南常蔵氏の名も見える。

 更に、ここに寺小屋情報を重ねてみると、ここで学ぶ名主の方々や八丁目文化の担い手の方々と
松川の寺小屋の師匠さんとも重なっている方もいらっしゃる。

 例えば、塾生の町裏の西光寺住職平林宥京氏。
 この方は、今回は眼鏡橋の書字を担当された方として整理しているが、「明治歌集」に選ばれるほどの歌人であったそうで、明治天皇御巡幸の折には、祝辞の詩歌を献上しているとのことだが、弟子20名の寺小屋の師匠でもあったようだ。
 四書五経を指導したが、書、和歌、俳句に秀でて多面にわたって指導していたという。

 今回は篆刻家として整理している天明根の菅野次郎右衛門氏も塾生のようで、上記平林宥京氏の弟子でもあるとの情報もある。この方も弟子10名の寺小屋の師匠でもあったという。書もよくし俳人でもあったとのこと。晩年は隠居して水車業を営みながら指導していたとのことだ。

 本陣桜内協氏も弟子18名の寺小屋師匠だったとのことだ。礼儀作法について特色ある指導が行われていたとのことだ。

 八丁目村菅原神社神官渡辺伊佐美氏は、松川鉱山散策中にその墓石らしきものを見つけた方だが、寺小屋情報の多宝院(神官)渡辺早人弟子20名と重なるように思う。また、ここで学ぶ八丁目村名主は野地長十郎氏に代わっているようだが、元の名主検断である渡辺権左衛門氏弟子8名は謡曲に巧みで年長者には素謡も教えていたようだ。

 最初に挙げた塾生の町裏の西光寺住職平林宥京氏のお弟子さんで寺小屋の師匠をしていらっしゃる方もいる。
 石合町の明宝院は石合町の大火で一切が焼失してしまったそうだが、その住職小泉宥範氏も寺小屋師匠だったという。
 埋崎の八巻幸吉氏も平林宥京氏のお弟子さんとのことだが、最上流珠算の権威者でもあったとのことだ。維新館塾生で名主の桜内協氏や杉内省三郎氏が門人でもあるというかかわりでもあるようだ。
 この方も、多数の弟子をかかえる寺小屋師匠でもあったということのようだ。
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by shingen1948 | 2017-11-24 10:55 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_97563.jpg これは、2008年春の中町丁字路西側付近の様子だ。
 この辺りの風景は、これ以前の散策では、八丁目城跡とのかかわりで捉えていた。従って、城下街に伴う街並みとの関りを強く意識した見え方だったと思う。
 2008年~2009年あたりの散策では、その城下街とかかわる街並みという見え方から、奥州街道の八丁目宿場との見え方にしていこうという意識が強かったと思う。

 この時の主とする散策資料は半沢氏の「歴史地図」だったが、その資料では、この角に追分の阿弥陀堂と常念寺がプロットされていた。
 その情報を元に探ってはみたが、よく分からないままになっていたところでもあった。

 今回の散歩時には、常念寺跡地として公園整備されていて、案内柱も建っていた。
 「こでらんにふくしま通」では、「浄土宗の寺院でしたが焼失して、現在は『南無阿弥陀仏』と刻まれた高さ2mを超える3基の石碑が建てられています」と案内されている。
 案内柱も「こでらんにふくしま通」も名号塔を中心にした案内になっている。

 半沢氏の「歴史地図」との微妙な違いもあって、「歴史地図」では現存と案内されるのだが、焼失と案内されている。

 2008年時の散策と今回の散策とを見比べて、風景の変化は一つの関心事ではあるが、今回の整理を通して、昨日整理の中でふれた「維新館」とのかかわりも気になっている。
 この私塾は、鼓岡村名主桜内氏が自宅に創設したとのことだが、その後、ここ常念寺で展開されたという情報があるのだ。

 その師は漢詩に秀でた二本松藩士ということなので、今からみれば古い学問だと思うが、その当時、高い学識といえば漢学を極めた人というイメージがあったはずだ。
 そこで学んだ方々の紹介をみると、今まで整理してきた名主の方々や八丁目文化の担い手の方々の名が見える。
 ここで学び直しをしているという見え方もできるが、地域の文化人のサロンのような役割もあったのではないのかなと想像する。

 更には、浅川村の整理でふれた二本松藩の最上流宗統派四伝の算法印可を受けて系譜を引き継ぎ門弟1000人の金沢村丹治明斉氏、その弟子最上流宗統派五伝の算法印可を受ける尾形貞蔵氏の名も見える。
 まだ整理はしていないが、古浅川の神道無念流師範長南常蔵氏の名も見える。
 これら方々は、私塾を開いていて、多くの門下生もいる。

 「維新館」に集まった若者の学び先の選択にもなっていた可能性もあると思うのだがどうだろうか。
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by shingen1948 | 2017-11-20 09:10 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「松川のあゆみ」で、八丁目文化の高さを自慢するのに幕末の江戸の文人粋人間で「陸奥に過ぎたるものが三つある。石に唐木に鵙の団七」と唄われたと紹介する。
 自慢話の類だが、旦那芸の域を超えて高いレベルであると自慢される「石に唐木に鵙の団七」の「鵙の団七」は、先に整理した狂歌の巨匠百舌鳥廼舎こと塩屋の通称渡辺団七氏のようだ。
 この方、画も茶も花などにも造詣が深く、とりわけ書の筆札も巧みで、特に細字に妙を得て江戸の出版業者がわざわざ版下の浄書を依頼してくるほどだったのだということだ。

 自慢話の「石」は、篆刻家の菅野普斎氏を指すようだ。天明根の人で通称次郎右衛門、伝次、伝七とも称すとある。
 「八丁目家主一欄」の天明根村と照らし合わせると、ぴったりと一致はしないのだが「松川屋治郎右衛門」がそれでないのかなと思われるがどうだろう。
a0087378_7581876.jpg これは八丁目村側から天明根村の西側を眺めているところだが、「松川屋治郎右衛門」宅は、天明根集会所のちょっと先あたりだろうか。
 この天明根村から鼓岡村にかけては、風景の変遷は勿論、水原川本流の改修や用水路の改修もあって、屋敷図から実際の位置をイメージするのが難しい。

 その篆刻家の菅野普斎氏は、二本松藩国家老丹羽守に丹羽の水晶の雅印を篆刻し、その手腕が江戸で認められ評判になったのだとか。
 明治になって、田嶋鷗僊に漢字を学び、号を鶴僊と改めたとのこと。老後は水車業を営み居を水車庵としたのだとか。
 ここに登場する田嶋鷗僊氏だが、この方は元二本松藩士で地元では有名な方のようだ。
 二本松落城の頃、鼓岡村名主桜内氏が中心となって、この方を招いて「維新館」という塾を開いたようだ。村内だけでなく、近隣の村の青年にも開放して学ばせ、近隣の学問的な水準が高まっただけでなく、やがて学校発足の礎を築くことにもなったという経緯の中心人物のようだ。

 自慢話の「唐木」は、三味線張りの名人三味線屋久米吉氏とのことだ。
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by shingen1948 | 2017-11-16 09:56 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 狂歌の巨匠とされる排氏は、屋号塩屋で通称渡辺団七とのことだが、半沢氏の「歴史地図」によると、妓櫻経営とある。
 「八丁目家主一覧」では、その斜め向かいに三軒の金沢屋が描かれる。街道散策では参考にさせていただいている「街道Web」の「奥州街道・八丁目宿」で、「八丁目宿・中町の町並み。古い家や土蔵が散見される」と紹介される「加藤絹織物」さんの蔵辺りではないのかなと想像している。
 この風景は撮り逃しているのだが、この蔵は現在取り払われているようだ。
 http://kaido.the-orj.org/kaido/ous/32.htm

a0087378_8401538.jpg 形状と「蓮葉の枯れ果つる音聞く夜哉」の紹介と読み取れる文字とを見比べ、これが加藤紫明碑だと思う。

 八丁目文化情報と照らし合わせると、この加藤紫明という方が八丁目俳壇の中心をなす方のようだが、この方が天明根村金沢屋加藤忠兵衛という方とのことだ。
 それで、先にふれた風景と結びついているのではないかなと勝手に想像をしているところだ。

 この方は、福島の松窓乙二の門で、華憚斎別号二峯楼といい、本宮の冥々、二本松の与人らと交わりがあったとのことだ。また、五村雑誌の著があるとのことだ。
 いずれの情報も、残念ながら手持ちの知識や情報ではよく分からないのだが、その紹介から八丁目俳壇の中心的存在であったことを熱く語ろうとする熱気を感じているところだ。
 この方、文政12年3月18日、65才で没したという。
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by shingen1948 | 2017-11-15 09:38 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 ハ丁目宿の昔ながらの屋号を掲げるのは「ますや旅館」。
 店前には、「奥州街道八丁目宿場旅人宿、枡屋銀五郎」と白地に黒く大書された看板が掲げられる。
 「八丁目家主一覧」にも、この「枡屋銀五郎」が見える。
a0087378_9193394.jpg これは、その「ますや旅館」辺りの2009年夏の風景だ。現在は、手前のスナックはなく、更地になっている。

 八丁目文化情報と照らし合わせてみる。
 この枡屋銀五郎さんは通称で、加藤候一の名で狂歌狂画をよくした方のようだ。殊に鳥羽画に巧みであったとする。
 その紹介によると桝屋さんは、呉服商を営んでいたようで、その取引は北関東に亘ったとある。

 嘉永の頃、狂歌の巨匠とされる排と伊勢参宮漫遊をなし奇行多しとの情報もある。この情報を辿ると、二代十返舎一九の「奥州一覧道中膝栗毛」と繋がるらしい。

 この一緒に伊勢参宮漫遊をなした「狂歌の巨匠とされる排」氏が、屋号塩屋で通称渡辺団七とのことだ。
 「八丁目家主一覧」で確かめると、金沢屋向かい辺りにその通称の渡辺団七が記される。

 この通称渡辺団七氏である排氏は、散文戯文にも長じた蜀山人太田南畝とも親交があったのだそうだ。十返舎一九の「金乃草鞋奥州道中」にならった二代十返舎一九の「奥州一覧道中膝栗毛」の第四編の序を百舌鳥廼舎(もづのや) 排の名で書いたとのことだが、加藤候一氏は、その挿絵も描いているのだそうだ。

 この「奥州一覧道中膝栗毛」をとりあえずネットで確認すると、早稲田大学図書館の情報がヒットする。
 出版事情に、明治14年(1881)東京府江嶋伊兵衛とあり、その内容等に「4編の序:百舌自廼屋」が記される。微妙に表記は違うが、読みは「もづのや」で一致する。
 ここから確かめを進めた訳ではないが、情報と重なる気はしている。ただ、ここまででは加藤候一画の確認はできていない。
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by shingen1948 | 2017-11-14 09:22 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_954824.jpg これは、松川本町バス停辺りから丁字路付近を眺めた風景だ。
 「赤浦屋」は「本町108番地」辺りとの情報を元に「浅川、松川散策の写真メモから⑩~馬宿はどこ?③」で整理したが、その続きの風景だ。

 この道筋の右手は、今回の散策で「浅川、松川散策の写真メモから⑩~馬宿はどこ?」で、最初に推定した現在更地になっている2009年夏の風景という事でもある。


a0087378_96435.jpg 同じ場所を、中町の丁字路から眺めるとこんな感じだ。
 この道を挟んだ向かい側は現在更地になっている場所だ。今、この風景は消えて、新たな風景に生まれ変わろうとしている場所ということだ。

 この写真の手前側は、この丁字路の東側の角地ということになる。
 現在は、駐車場のようだが、「八丁目家主一覧」と見比べると、この角は「角屋与兵衛」とある。

 この位置情報と八丁目文化情報とを照らし合わせると、この角屋与兵衛氏が聾耳坊嵐字の名で和歌をよくし、盛林寺に「咲いてある朝顔をみてわかれけり(聾耳)」の句碑が建つ方らしいことが分かる。
 この八丁目俳壇で中心をなしたのは加藤紫明氏なそうだが、その方との交友もあり、京の遅月庵空阿氏とも親交があったそうだ。
 残念ながら、当方にはその素養がないので、どなたなのかとか作品の良し悪し等は分からないのだが、この地は天明から幕末にかけて俳句、狂歌、和歌、戯文、画家など八丁目連を中心とした豊かな八丁目文化が花開いていたらしいのだ。

 今回の散策の続きとしては、「八丁目家主一覧」にはその角屋の東側に用水と横町堤が描かれていることと、「浅川、松川散策の写真メモから⑩~馬宿はどこ?」で気になった用水路跡らしきものが続きの風景でないのかなという勝手な拘り。
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by shingen1948 | 2017-11-12 09:10 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 半沢氏の「歴史地図」をもとに、鼓ケ岡検断佐藤治郎兵衛屋敷辺りと思われる中町丁字路西角を撮ったのは2009年夏の事だ。
a0087378_6184455.jpg 八丁目家主一覧図での この角は、「検断佐藤治郎兵衛・明屋敷松田星吉右衛門」が記されている。それで、この中町丁字路西角を撮っておいたものだ。

 今回の散策で、半沢氏の「歴史地図」をもとに、八丁目家主一覧図と照らし合わせながら、八丁目村検断名主兼帯渡辺権左衛門屋敷、天明根村名主検断遠藤佐平屋敷(川端屋)を探った。
 ただ、何れもそのおおよその位置を確認しただけになってしまった。

 その続きで、ここも整理に加えておこうと思っただけだ。

 なお、八丁目村検断名主兼帯渡辺権左衛門屋敷を探って次のように整理した。
 まずは、「奥州街道:境川から八丁目村へ⑤」で、おおよその位置を推定している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/237153228/
 次に、「奥州街道:境川から八丁目村へ⑥」で、「若松屋」の位置情報よりイメージを深めた。
 http://kazenoshin.exblog.jp/237155537/
 更に、「奥州街道:八丁目天満宮情報から⑧」で、「ハンドメ」の位置から屋敷跡の位置を見直した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/237338916/
 ただ、その「ハンドメ」の位置を「奥州街道:八丁目宿「ハンドメ」にかかわる情報②
」で微妙に修正して、八丁目村検断名主兼帯渡辺権左衛門のお屋敷前と推定し直している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/237399767/

 天明根村名主検断遠藤佐平屋敷(川端屋)については、「奥州街道:八丁目村から天明根村辺り」で推測している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/237185114/

 今回の散策「奥州街道:八丁目宿「ハンドメ」にかかわる情報②」で、本陣の櫻内家の位置についてもふれている。
 http://kazenoshin.exblog.jp/237399767/
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by shingen1948 | 2017-11-10 09:17 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_1702412.jpg これは、2009年夏に本陣跡とされるガソリンスタンド側から本町を撮ったものだ。街路灯の向こうに白っぽい建物と黄緑っぽい建物が並んで立っているが、その白っぽい建物が「本町108番地」辺りのようだ。現在は、隣の黄緑っぽい建物の辺りと共に更地になっている。

 神奈川県川崎市の民家園に移築された建物は、間口約11m奥行約17m平面積48坪の旧鈴木家住宅が建っていたという事のようだ。
 この情報と照らし合わせると、隣の黄色い建物も合わせた部分が「赤浦屋」だったと想像される。

 このアングルと照らし合わせるのには、川崎市教育委員会のページの「旧鈴木家住宅」の写真がイメージしやすいと思う。
 http://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000287.html

 鈴木家間取りとも照らし合わせると、建物右手の板で覆われた部分がマヤ(馬屋) の部分のようだ。
 ここは、通り土間になっていて、ここに横隊に14頭までつなぎ泊めることができたそうだ。それ以上になると、奥の空き地の馬屋につなぐことになったとのことだ。
 この土間の奥はニワになっていて、小竈と豆などの馬の餌を煮炊きする大竈と流しがあったようだ。

 手前の戸が開いている3間が、宿のフロントにあたるミセの部分のようだ。
 そのミセの西手の戸の閉まっている部分が8畳の「上段の間」のようだ。その西側に天袋付「床の間」があるようだ。
 この奥に8畳の「次の間」があり、その西側に客用の便所がついている。ここは、裕福な馬主や騎馬旅行の武士が宿泊する部屋になるそうだ。
 ミセの奥は生活空間のようで、ナンド・チャノマ・カッテが続く。カッテには囲炉裏があるようだ。
 馬方が宿泊するのは二階なそうで、ミセの後ろの土間側から階段で二階に上がることになるようだ。

 八丁目宿の馬宿について川崎市民家園の資料では、次のような解説がなされているようだ。
 
 八丁目宿は、福島と二本松の間の宿場で、この馬宿には、白河と本宮で年2回開かれていた馬市や、江戸藪馬という盛岡藩や麻生十番という仙台藩の競りに出す為、遠く南部(岩手)や仙台から馬を連れた馬方が、馬主と共に奥州街道を上る時に宿泊したとのことだ。
 馬方1人で馬7頭を単位に引き連れて道中に出るのだそうだが、これを「1はんな」というのだそうだ。
 この「赤浦屋」では、14頭まで通り土間にそってつなぎ泊められたということは、二人の馬方で「2はんな」が基準で、それ以上でも奥の空き地の馬屋で対応したということなのだろうと思う。
 ここは、北から馬を連れて白河方面に向かう最後の宿であったと言われているそうだ。
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by shingen1948 | 2017-11-08 16:59 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)