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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

<   2015年 02月 ( 22 )   > この月の画像一覧

 「仙台散歩①から④」にかかわる辺りを地図に記すと、こんな感じかな。
a0087378_5145669.jpg 仙台の地理に詳しいと自負する家人と話をしていると、「末無掃部丁」や「掃部丁」とかかわる上遠野常秀氏の屋敷跡辺りは「花京院」だという。
 その概念に従えば、その「花京院」周辺から名掛丁にかけて「X橋周辺」という感じで捉えているようだ。ここは、戦後、進駐軍相手のスタンドバーやクラブが軒を連ねる歓楽街になっていたというイメージでとらえているようだ。
 そのX橋も今年無くなって、広い道路が鉄道を跨ぐようになったようだ。それで、この面影も既になくなって、今は近代的な駅前の街並みになっている。

 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」を元に、家人が「花京院」だという辺りを整理する。
 〇 寛文・延宝年間の絵図では、末無丁は上遠野掃部の屋敷に行き当たって、東方へ鈎状に折れているとのこと。「仙台鹿の子」には「上遠野掃部屋敷四方百三十間なり元禄八年三月丁通り職人屋敷数十軒出る元寺小路下大工町北小高き通の辺なり」とあるとの紹介もみえる。
 ※ この「仙台鹿の子」を確認すると、江戸時代に記された仙台最古の地誌とのことだが、ここで紹介される内容は、明治32年発行「仙台鹿の子(大内源太右衛門 著)」に記されたことのようだ。こちらは「近代デジタルライブラリー」で確認できる。
 その32ページ後半に、「一、上遠野掃部屋敷四方百三十間なり元禄八年三月丁通り職人屋敷数十軒出る元寺小路下大工町北小高き通の辺なり(按)今の掃部丁といへるは是なり」とある。
 〇 元禄以後の絵図では、上遠野屋敷がなくなって、花京院南裏まで丁が達しているという。そして、安政絵図では、上遠野屋敷跡は御薬園地になって、それ以外は大工職人の住居になっているという。
 この御薬園地になった跡が、「仙台地図散歩」で「陸軍省用地」と表記された部分と重なるようだ。ここが、その後、鉄道官舎となったという情報も見る。現況が「東北電子専門学校+花京院公園+シルバーセンター+シティータワー仙台」の範囲辺りかな。

 上遠野氏については、「宮城県の上遠野氏」で検索して確認する。
 ① 上遠野惣領家は、盟友岩城氏が伊達氏に服従した時に帰農するのだが、一門の中に伊達氏に付き従った者があって、その子孫から願立流刀術や手裏剣を扱う撃剣家が輩出されていると紹介される。
 ② その願立流の系譜が、流祖:松林永吉― 新藤儀次― 「上遠野常秀」― 上遠野秀実― 上遠野歳秀― 広秀とのことだ。
 ここに、この屋敷の住人「上遠野掃部常秀」の名が見える。「」でくくっておいた。

 散歩情報として、この上遠野掃部常秀氏の奥さんが、寛文事件の原田甲斐の妹だったことから、甲斐の子供たちがこの掃部の屋敷で切腹させられたとか、掃部の屋敷は延宝時代の終わり頃に清水小路の方に移ったのだとかという情報をみる。
 こちらは「忘れかけの街・仙台(河北新報出版センター)」を元にした情報が発信されたらしい。
by shingen1948 | 2015-02-28 07:14 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

仙台散歩③~未無掃部丁

a0087378_620668.jpg これは、東北電子専門学校から花京院公園を撮ってみただけだった。
 「仙台地図散歩」にかかわるページで、このあたりの大正時代の様子を確かめたら、この辺りは手前に写る細い道筋しかないことが分かる。公園前に写る現駅前通りはなかったようだ。
 そして、この花京院公園と東北電子専門学校を含めた広い範囲が、「陸軍使用用地跡地」となっていた。
 大正時代には、既にこの細道はこの花京院公園と東北電子専門学校の間をつき抜けていたようだが、ここが袋小路だったという歴史があったことは後で知ったこと。
 そのきっかけが、「未無掃部丁」なるこの細道の名称を確認したからだ。
 「仙台地図散歩」で、ここが「未無掃部丁」と表記されていて、これを確かめて分かったことだ。「未無」+「掃部丁」で、「掃部丁」の「丁」は侍屋敷のまちを通る道筋。
 「丁」は侍屋敷のまちを通る道筋であることは、仙台ではどなたも知っている事のようだが、「未無」というのが、袋小路になっている道筋を現すらしいことも常識なのだろうか。
 自分は、「角川日本地名大辞典(旧地名編)」の「末無掃部丁(近世〜近代)」の項で確認できたことだ。
 「末無掃部丁」は、昭和45年に現行の花京院1丁目となるまで、江戸期からずっとこの町名だったようだ。
 江戸期は仙台城下の一つであったが、明治11年に宮城県仙台区に所属していて、明治22年に仙台市の町名になるという経過のようだ。
 最初は掃部丁末無【かもんちょうすえなし】と呼ばれる元寺小路から北へのびる末無丁(袋小路のこと)であったとのことだ。花京院通まで貫通するのは、明治以後のことらしい。
 袋小路になるのは「掃部」の屋敷に行き当たることによるようだが、その「掃部」の屋敷の変遷の明治末の姿が「陸軍省用地」ということのようなのだ。
 
 「掃部」の屋敷とは、上遠野(かとの)掃部常秀の本屋敷で、掃部は役職名のようだ。ここが、上遠野(かとの)常秀氏の屋敷だったということのようだ。その後、空き屋敷になるようだが、元禄8年(1695)に、この屋敷を割り振りして職人屋敷にしたという。更に、そこに藩の御薬園が置かれという。その御薬園が陸軍省用地になるという経緯のようだ。
 ということは、「東北電子専門学校+花京院公園」の敷地が、その「掃部」の屋敷ということらしい。
 なお、「末無掃部丁」の東側も通りになっているようで、こちらが職人町になった経緯の方で、掃部丁ということのようだ。
by shingen1948 | 2015-02-27 06:28 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 島崎藤村氏が最初に滞在したという「針久支店」の地点を確かめたのは、「愛宕山散歩40~愛宕山公園を訪れた文人案内」とのかかわりだ。愛宕山公園では、島崎藤村氏は、画家の布施淡氏の東北学院教師同僚で深い交友関係があった方との紹介だった。
 島崎藤村氏側から情報を探るのは、仙台ではその方が情報を得やすいからだ。自分としては、それほど興味のある方ではない。

 藤村氏が、その居を「針久支店」から直ぐに支倉町の池雪堂へ移すというが、ここが布施淡氏宅だったようだ。そこから更に、田代家に移動するが、これも布施淡氏と一緒だったということのようだ。
 今回そちらの散歩予定はないが、散歩情報として整理しておく。位置情報を得たのは東京紅團(東京紅団)のページが中心で、その情報を現地図上にプロットしてみた。
a0087378_14411696.jpg 藤村氏が、「針久支店」から移った先が、支倉町のとのことだ。ここが布施淡氏宅だったということのようだ。藤一也氏の「仙台時代の藤村」にその位置情報があるという。
 「北四番丁通りと支倉通りの角(西側)にあって、支倉町10番地の田代家とは同じ支倉通りにあり、目と鼻の先になる」とあるという。この「北四番丁通り」が、現地図の「作並街道」かなという想像で、その交差点の西側に池雪堂をプロットしてみた。
 支倉町10番地の田代家は、次に藤村氏が居を移した所だが、ここも布施淡氏宅と一緒だったと思われる。
 こちらの更に詳しい位置情報が「当時の支倉町10番地は現在の支倉町一丁目五番地に当たる」事と、「一丁目六番地の方が藤村田代家」ということで、現支倉町一丁目五番地を⑤として、一丁目六番地を⑥として表記してみた。

 藤村氏は、ここから若菜集を創作したことで有名な名掛丁三浦屋に居を移すようだが、その辺りが藤村公園になっているらしい。こちらは多くの位置情報がある。
by shingen1948 | 2015-02-26 14:43 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 2月14日に、仙台に小用があって仙台に来たのだが、そのついでに「芭蕉が辻」まで散歩した。
 この日、寒波が続いていて寒い上に、福島は朝からの大雪だった。しかし、仙台では積雪は数ミリ程度で、天候も晴れ間も見えていた。風は冷たかったが、散歩には支障がなかった。

 所用があって出かける時には、その近くに一つだけ散歩の為の目的地を作るというは、常だった。しかし、ここ仙台に来るのは大概が家族と一緒だった。そのため、行き先を決める主導権を持っていなかったので、仙台で散歩の為の目的地を作るということはしていなかった。
 それが、今回は連れはいたものの、主導権は自分にあった。それで、「本来の目的地+散歩のための目標地点」を決めることができたのだ。
 「本来の目的地」は駅の北側にある。これに「散歩のための目標地点」として「芭蕉が辻」を加えることにした。この「芭蕉が辻」も「あそこは、石碑が建っているだけで何もないよ」と常に却下されていた地点だ。
a0087378_6552570.jpg これは、駅に降り立って「本来の目的地」に向かう途中に連れを撮った写真に写り込んだ駅の北側の写真を切り取ったものだ。
 ここを、飯坂の「愛宕山散歩」とのかかわりでみれば、仙台に来た島崎藤村が最初に滞在したという「針久支店」のあった地点ということだ。
 「仙台地図散歩」にかかわるページで、このあたりの大正時代の様子が確かめられる。ここには、「ムツホテル」・「針久」・「本郷」・「大泉」の旅館が並んでいたことが分かる。多くは、国分町の旅館の各支店が駅前に進出したものなのだろうと想像する。
 連れが写る駅前広場の西側には、「おく田(?)」・「安藤」・「丹六」の旅館名がみえる。そして、「裏五番通り」の南側に「仙台ホテル」・「ムツホテル別館」の各旅館が並んでいたようだ。
 「裏五番通り」沿いには「丸久」旅館明もみえる。

 これらは、「散歩のための目標地点」として「芭蕉が辻」を加えたことで見えた風景という側面もある。というのは、この裏側の通りが「芭蕉が辻」から真っ直ぐ宮城野区にまで延びる「名掛丁」という道筋なのだ。
 このことは当たり前過ぎるので、地元に詳しい人には案内してもらえないということだ。

 その名掛丁の通りに「小梁川」の旅館が見え、停車場前通りには「初音」の旅館名が、元寺丁通りには「菊清」の旅館名が見える。
 大正時代には、仙台駅が開設された事に伴って、各老舗旅館がこの辺りに進出し、旅館街を形成していたことが分かる。
by shingen1948 | 2015-02-25 06:59 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「愛宕山公園入口」に建つ案内板には、この愛宕山を訪れた他の文人も紹介されている。
 「愛宕山頂上からの遠望は『屏風を建てたらん如く、西に吾妻山…』との題で、画家の布施淡氏が以下のように解説される。
a0087378_7383973.jpg 島崎藤村と東北学院教師として同僚で交友関係にあった、画家の布施淡は所用で飯坂を訪れ、愛宕山などを散策。そのとき、頂上からの眺望の素晴らしさに感嘆。
 その夜、早速、藤村に手紙を書いています。
 「食事をすまし、湯に入り君を思いつつ筆をとる」に始まり、当時の飯坂・湯野の様子、景観など細々と書き連ね、その中で「屏風を建てたらん如く」と愛宕山頂からの眺めをたたえています。
 (以下略)
 仙台のその道に詳しい方の間では、画家の布施淡氏も知られた方のようだが、ここでは、「島崎藤村と同僚で交友関係の深かった方」ということを肩書にして紹介される。仙台にかかわりある文人として名が通るのは、島崎藤村氏と土井晩翠氏だからだろう。

 島崎藤村氏とのかかわりを確認すると、東北学院教師として同僚で交友関係にあったことが分かる。
 島崎藤村氏が東北学院教師として仙台に赴任するのが、明治29年(1896)で、最初に滞在するのが、駅前の「針久支店」のようだが、すぐに支倉町の池雪堂(庵)に移るのだが、それが同僚の布施淡氏宅で、ここに身を寄せたということだ。
 まもなく布施一家は同町の田代家隠宅に移り住むのだが、藤村氏も一緒に移っているようだ。「若菜集」が書かれたということで有名らしい三浦屋へ移るのは、その後の話らしい。

 藤村氏の母がコレラで死んで永昌寺での葬儀と埋葬のため馬籠に帰省するあたりが、この布施一家と同居している時期だったとする島崎藤村氏側の資料をみる。
 たまたま布施氏は写生旅行に出ていて、藤村氏は土井晩翠氏と思われる?方と広瀬川畔を散策、一見亭という茶屋で一献傾けて帰宅した時だったという。
 布施淡氏が飯坂を訪れ、愛宕山などを散策し、藤村に手紙を書くのは、この写生旅行の頃なのか、その後なのかは分からない。
by shingen1948 | 2015-02-23 07:40 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
 木村氏の「禰宜様宮田」についての作品論副題は、「飯坂と『春の鳥』の影」である。今まで、その飯坂の影にかかわる部分をなぞってきたところだ。ようやく「春の鳥」の影をなぞってみようと思うようになったのは、集中力が27分しか持たなくてもなぞれそうだという見通しを持ったからだ。
 それで、再び「禰宜様宮田」作品論への項を起こしたところもある。

 氏が「春の鳥」の影を感じているのは、深い同情をこめて描かれている「六」少年の姿だ。ここに、国木田独歩の「春の鳥」でロマンティックに描く「六蔵」少年の姿が似ている事を指摘する。
 まずは、名前だ。「春の鳥」の主人公は「六蔵」というが、通称は「六」だ。自分でも、母親も、彼のことを「六」と呼ぶ。語り手の教師である「私」も「六さん」と呼んでいる。
 年頃と境遇も似ているとする。「六」が九歳で、「六蔵」は十一歳だ。ほぼ同年代といえるし、境遇も似ていると言えば似ているところがあるとも見える。
 墜落死自体も似ているところがあると指摘する。「鳥のように飛んで行ける」という衝動につきうごかされて墜落して死ぬという死に方だ。その死のイメージが深い哀感をこめてきわめてロマンティックに描かれている点も共通しているという捉えだ。
 そして、このことこそが日本近代文学史の流れに浮ぶ一つのロマンティシズムの系譜を認めることができるとする見え方に結び付けている。

 その捉えを確認するのには、国木田独歩の「春の鳥」に目を通す必要がある。これが、青空文庫で読む事ができるのだが、27分の集中力で充分読み切れる長さだ。   http://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/1057_15980.html
 氏がふれている「六」と「六藏」の違いも確認できる。
 その一つは、「六」が学校に行かないのは、もっぱら貧窮からであって、知能が遅れているからではないこと。むしろ善良で感受性ゆたかなナイーブな少年であるということだ。
 もう一つは、「六蔵」は単なる「白痴」としてではなく、「天使」・「自然の児」として描かれる。それに比して、百合子の「六」の方は、「目然の児」の側面もあるにはあるのだが、より「社会の子」というリアリスティックな少年像となっていることだ。
 これに現実の場の素材を提供しているのが飯坂であるという捉えだ。

 これで、飯坂は「禰宜様宮田」という一篇のユニークな農民小説の誕生にあたって、その産婆役を果たしたという氏の見え方に少しは近づけたかなと勝手に思っている。
 もう一度、「禰宜様宮田」の「六」の場面を読み返してみる。
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/2027_49536.html
by shingen1948 | 2015-02-22 06:18 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
 「禰宜様宮田」の魅力は、「リアリスティックな要素」と「ロマソディックな要素」とが複雑にからみ合って成立した一篇のユニークな農民小説」という捉えをした。
 それが、「貧しき人々の群」では、「観察」と「主観」、「リアリスティックな要素」と「ロマンティックな要素」とがわりあい簡単な構造で結びついていて、わかりやすく現われていると木村氏はいう。
 「貧しき人々の群」での「リアリスティックな要素」は、安積開拓村の貧しい農民群像を外側から「観察」された対象でしかないとのこと。主人公は、あくまでも農民たちに同情し、善意をもって近づいて行こうとする私=百合子自身にほかならないというのだ。「ロマンティックな情感」は、作者のヒューマニスティックな「同情」が「私」の身上となって発露しているに過ぎないという。

 この「貧しき人々の群」もまた、青空文庫で読む事ができる。27分の集中力の限界を越えた散漫な読みではあるが、ともかく読んでみた。
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/2025_5834.html
 この作品の魅力は、「ロマンティックな情感」を持った主人公=百合子自身の目で「観察」された安積開拓村の貧しい農民群像の捉えと、「ロマンティックな情感」そのものであることの確かめだ。
 この時、百合子氏は十九歳の少女であり、「まだ社会主義もしらなければ社会科学もしらない。したがって農村における階級対階級の関係もしらない。それにもかかわらず彼女のものを正しく見ようとするリアリズムは、農村における一つの社会的現実としてこの関係を見のがすことができなかった」と言うのが、この作品の魅力の根源になっている「ロマンティックな情感」なのだろう。

 これに対して、「禰宜様宮田」の作品に、作者は直接登場しない。作者は、宮田の主体性の陰に隠れて、この主人公を同情される人物として表現する。木村氏は、これを「主人公に対する作者の『深い同情』に根ざした『主観』の現われ」とし、これが「ロマンティックな情感」の発露となり「牧歌的な要素」となっていると表現しているようだ。
 そういう好人物の農夫が、好人物であるという「牧歌的な要素」が強まれば強まるほど、その対比として商業資本・地主・高利貸をかねた海老屋の「鬼婆」の悪辣さが強烈な印象となり、その手にかかって、まるで猫の手にもてあそばれる鼠のように無力な百姓として、搾取の好餌にされるということがリアリスティックな見つめになるという関連性の捉えが大切なのだと思う。
 そういう見え方からすれば、飯坂の「詳細な観察」は、全てがリアリスティックな要素としてかかわるのではなく、むしろ、飯坂の「取材メモ」のなかから小説としてのフィクションをふくらませるというかかわりと捉えるべきなのだろうなと思う。
by shingen1948 | 2015-02-21 07:21 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
 秋山政一氏が書いた「百合子の道のこと」と、「百合子といいざか」の吉田千代子氏が斎藤信夫氏の案内で「滞在の足あとを追って」散策したことが繋がって、愛宕山に小説家「宮本百合子文学碑」が建立されたということだ。百合子氏は、この文学碑建立の地である愛宕山には、何度も足を運んだであろうと思われる。

 秋山氏の「百合子の道のこと」は、福島民報のサロンに書かれた記事のようだ。その主旨は、彼女の取材に歩いた道をたどれる「百合子の道」を開いたらどうかということのようだ。 
 百合子氏の日記には、大正時代の飯坂の自然と、当時の生活のよすがが、細かに記されている。しかも、彼女が取材のために歩いた道筋は今も明らかである事ということからの提案だったようだ。

 ただ、文学作品を散策と結びつけて読んでいくと、その読みに歪が生じる事がある。そのうちの地域を知り尽くしているが故に深読み過ぎてしまうことの弊害は、「愛宕山散歩29~小説家「宮本百合子文学碑」情報修正⑬」で整理した。どうしても、作品の全ての題材が飯坂で完結していると見たいと言う願望が起きてしまうという弊害だ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/20864830/
 「愛宕山散歩30~小説家「宮本百合子文学碑」情報修正⑭」で確認したのは、この作品が注目される事になった「明治以来の日本文学の中で農村における封建制を、そのもっとも悪質なる典型の一つにおいて、これほどはっきりえぐり出した文学はほかにない。」という「リアリスティックな要素」への注目し過ぎによる見え方の偏りの弊害だ。
 散策で確かめようとすると、この事が飯坂での「詳細な観察」の賜物であるというとらえが強くなりすぎる。
 http://kazenoshin.exblog.jp/20869601/
 そろそろ木村氏の作品論としての考察の読み取りに戻りたい。
 木村氏はいろいろな「禰宜様宮田」評価の考察の上で自らの指摘をしているのだが、当方にはそれを確認するだけの素養がない。それで、木村氏の作品論の世界観を自分なりに読み取って、その概要をパターン化するという簡素化された捉えだが、「禰宜様宮田」の魅力は「リアリスティックな要素」と「ロマソディックな要素」とが複雑にからみ合って成立した一篇のユニークな農民小説」ということにする。
 その「リアリスティックな要素」に絡む「ロマソディックな要素」を確認すれば、主人公のどこか現実離れした善良純朴な人柄・息子の「六」少年の孤独で哀な姿、しばしば擬人化される抒情的な自然描写などにつきまとう「ロマンティックな情感」・「牧歌的な要素」ということだろう。
 作品を魅力的にしているのはこちらの要素が強いのだろうと思う。

 ならば、彼女の飯坂での散策から読み取るべきは、感性的なものなのだろうと思う。例えば、軽便鉄道を使わずに乗合自動車でやってくること。2度目の滞在の旅館に角屋を選ばずに丸正旅館を選んだ事、旅館の変遷の捉え、牛乳屋殺人事件、岩倉公の別邸の興味等々。これらは、余談として整理しているが、「ロマンティックな情感」・「牧歌的な要素」が作品の魅力との視点に立てば、むしろこちらの捉えが本筋だったのかもしれないとも思う。
 そういう視点でみれば、気になるのは3月29日(木曜)の日記の見え方。
 「禰宜様宮田」の作品と直接的に結びつくような白土や、天王寺沼や愛宕山策動の観察に目がいって、省略していた日記の最後の文章。
 少しばかり曲がりくねった細道を歩くとき、Iがこわがって座ってしまったときには、可笑しい裏に非常にいやな心持が湧き出した。女性は弱いのが美しい原因ではない。
 この感覚、押さえておきたい。
by shingen1948 | 2015-02-20 07:18 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
 「百合子といいざか」の返却日が迫っている。
 軽便鉄道と電気策動とのジョイント駅「十綱」とのかかわりで、近くの製糸工場を確認したいところだが、先に「百合子といいざか」にかかわる事を整理しておく。

 百合子氏は、2度目の宿泊先を丸正旅館とした。
 その積極的な理由については先に確認したところだが、消極的な理由として角屋を選ばなかったこともあることに気がついた。
 3月29日(木曜)の日記に、「おいくのところへ行く。あい変わらずいいひとである。帰りにズーッと新十綱橋の方から赤湯の方を廻ってくる。少し材料ができた」とある。この時も角屋旅館前を通ったと思われるが、そこでは何事もない。
 4月3日(火曜)の「午後に善義氏と菊池氏の子供とで穴原の奥の方へ行」った時の日記だ。ここに、角屋を選ばなかった消極的理由が見えるように思える。
 「行きに角屋の玄関の前を通ったら、川を越えた彼方にあの陰気な澱(よど)み声の若者の顔が見えた。自分が愉快そうに杖を振り歩いて行く様子を彼は何と思って居たか思ったら妙な心持がした」とある。
 多分、これが前回、「私(百合子氏)はまだ居たかったのに」突然帰る事になった事情と重なっているのだろうと思う。

 前回の12月19日(火曜)の日記に「お祖母さまが急にかえると迎っしゃる。あんなに金のことをいわれては、居るのもいやなので、かえることにする」とある。これとかかわるのだろうと思うのだ。
 戻ってからの記録だか、「角屋の息子は、耕花さんや大観や禾醒の画を持って居る。ああやって一生過ごす人かと思ったら、ほんとに気の毒になってきた。疎髭の生えた顎、震える唇を思うと、あの山の温泉で、一つの命が次第に弱って来て居る事が、まざまざと思い浮かべられる」とある。
 印象悪く帰るのだが、最初に角屋に着いた時の日記を確認すると、その予兆らしきものが読み取れる。

 宿に到着した12月15日(金曜)の日記だが、その設備については「角屋はかなり大きくてきれいだ。浴場が、心持よいのが嬉しい」と記す。ここの印象はよさそうだが、そこで働く人の印象が良くなかったことも確認できる。
 「部屋づきの女中は、秋田付近の女特有の、目尻の上がった、いかつい顔立ちである。キイキイした声を出す。番頭は扁平な赤面の男で、何か一言いっては目をつぶって頭をふる。感じの悪い男だ。前に流れて居る河が大きな音をたててながれている居るので、絶えず雨が降って居るような心持がする」と記す。

 与謝野晶子氏が飯坂温泉を訪れた時期は、作品を色紙に書いては商品として資金稼ぎをしていた時期でもある。勘ぐれば、角屋の息子の話と重なるような気もしてきたが、どうだろうか。
     ◇        ◇        ◇         ◇
 自分の集中力を測定したら、27分程度しか持たないことが分かっている。それで、部分読みを繰り返すことで、27分で全体を読み切ることができるように試みている。
 「百合子といいざか」も、そろそろ全体が読み切れそうになったかなと思えてきた。
by shingen1948 | 2015-02-19 08:29 | Comments(2)
 天王寺付近の整備はややマイナーな感じはするものの、百合子氏が天王寺付近を散策している当時は「まちづくりの構想」の一つとして開発が進んでいたのだろうと思われる。それで、愛宕山、舘の山に加えて、天王寺付近の散策もしているのだろうと想像され。いずれも、当時公園化の整備が進行していた頃であろうと思われる。
 天王寺周辺の散歩の時点で頂いた情報に関連する事がいくつかある。

 その一つが、天王寺前に建つ「天王寺温泉碑」に関わることで、もう一つが、中野―湯野間の軽便鉄道連結構想だろうか。次の機会には、天王寺前に建つ「天王寺温泉碑」に刻まれる事柄の読み取りろうと思うが、とりあえずは、記憶にある「天王寺湯」を整理しておく。

 飯坂にかかわりのあった頃、その「天王寺温泉」の地点には、「くさっぽ」に効く共同湯「天王寺湯」があった。
自分は、特定の植物を触れると手がかぶれるというアレルギーがあるのだが、そのことにかかわって、ここの湯を紹介されたことを思い出した。半信半疑だったが、何度かここに入りに来たのだが、確かに効いたという印象がある。
 ここは真っ白な湯で、無色透明な飯坂の他の湯とは違うというイメージも残っている。
 その共同浴場の位置は、現「おきな旅館」(当時もこの脇を通って行った)の脇を通ってコンクリートのつり橋の主柱が残る地点の直ぐ西手だった。この時点で、立花屋はなかったと思うが、その奥に旅館風の建物はあって、立花屋はその付近かなとの想像はした。ただ、この共同湯「天王寺湯」と立花屋との関係は分からない。

 もう一つ思い出したのが、地質に興味を持った子供を連れて、ここから河原に抜ける細道があって、そこを通って植物化石を探しにいったり、転がった石ころが岩石に穴をあけたと思われ石を観察に連れて行ったり、穴原温泉側の波の跡の化石が見える地点を観察した事などがあった。

 天王寺散策時に「TUKA」さんから「天王寺温泉碑」についてコメントを頂いて、この共同湯「天王寺湯」を訪ね直した事があった。しかし、この時点では、現「天王寺穴原湯」の共同湯になっていたのだ。
 小心者は天王寺の丘の上から覗き込んで観察するだけで、そのままになっていた。
 本当は、上から覗き込んだ地点と、河原に抜けた細道との交点附近を確認したかったのだが、現「天王寺穴原湯」の共同湯に入ってそのままになっていた。
 なお、こちらの湯は無色透明で、当時の「天王寺湯」の湯質とは全く違って見える。情報によれば、こちらへの移動は昭和61年とのことだ。

 大正12年創業「おきな旅館」のホームページを確認してみる。
 「アトピー皮膚炎でお悩みの方へ」とあって、「昔から皮膚病でお医者さんに行って治らない人は“天王寺温泉に行け”と言われています。 2日位宿泊し入浴されると効果が実感できるはずです。」とあり、「くさっぽの湯」は健在のようだと思った。ただ、紹介写真を見る限り、無色透明の湯のような気がする。

 地図では、共同浴場「天王寺湯」だった所の奥に、「かじか荘」がプロットされる。
 そのホームページを確認すると「元湯・穴原天王寺温泉より引き入れております。源泉の温度は60度です」とある。こちらもイメージとは違うらしい。
 飯坂に関わった頃、「かじか荘」と聞けば、万人風呂をイメージしたものだが、こちらもその万人風呂とかかわるのかもしれない。
 この万人風呂は、一度だけ利用したことがある。名称は万人風呂とでかいのだが、千人風呂より、はるかに小さい浴槽というのが印象的だった。
by shingen1948 | 2015-02-17 07:04 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)