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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

<   2014年 07月 ( 29 )   > この月の画像一覧

 五十須場薬師堂について整理しているが、最初にここに興味を持ったのは、薬師堂の左手の「阿保原地蔵尊」の方だった。
a0087378_9485526.jpg まだ「阿保原地蔵尊」について整理していないのは、松川沿いの阿保原地蔵尊の碑面を確認するのに、その汚れをふき取ったり、周りの草をどけて写真を撮ったりしたのだが、御近所の視線を感じることがあって、ほとぼりが収まるまで控えていたからだ。
 そちらの整理は後からにするが、とりあえず「阿保原地蔵尊」の情報の確認だけは進めているのだが、先の上野寺付近の散策の中で、「吾妻地区史跡・文化財案内板」に、在庭坂に「阿保原地蔵尊」がプロットされているのをみつけたのだ。それで、とりあえず確認しようとしたものだ。
a0087378_9544664.jpg 先にママチャリのパンク事件を記したが、それはここに来ようとした時の話だ。
 そのパンクのその後の話としては、とりあえずパンク修理道具とバルブ、それに簡易空気入れをリックに入れて何時も持ち運ぶようにした。
 ショックだったのは、この辺りは庭坂に運転試験場がある関係で、自転車大会の地元のはずと思っていた。当然、自転車屋さんは少なくとも各小字毎に一軒位の割合であるのだろうという思い込みがあったのだ。しかし、実際には町庭坂に1軒あるのみで、庭塚(在庭坂)には1軒もないということで、自転車の盛んな地域というのは錯覚であることが分かったということだ。

 「阿保原地蔵尊」の話だが、中を覗かせていただいたが、ここの地蔵尊が阿保原地蔵尊なのかどうかは素人にはよく分からなかった。
 薬師堂に掲げられた案内板には、以下のように記される。
 「阿保原地蔵尊」
 阿保とは守り育てるということで、子供が丈夫に育つように守ってくれる地蔵さまです。また、口の中の病気を治してくれます。お祭は4月8日です。
 焼野にある小さな地蔵尊も、ここと同じく子供をまもってくれます。だから子育て地蔵尊とも阿保原地蔵尊とも言います。昔は、原っぱに阿保を願って建てられたからと思われます。
 自分の持つ「阿保原地蔵尊」のイメージと重なるのは、「口の中の病気を治してくれます」の部分だけで、他は普通の地蔵尊信仰の解説のように見えている。
by shingen1948 | 2014-07-31 09:57 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)
 五十須場簡易水道組合解散記念碑が建つのは、五十須場薬師堂の境内だ。
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 薬師堂の手前に掲げられる案内板では、その薬師について次のように解説する。
 記:平成17年4月8日
 薬師如来
 病気になった時に早く治してくれる仏さまです。
 長い間かかっている病気(持病)に苦しむ人を救ってくれます。
 毎月8日が薬師の縁日とされ、この日の参詣には大きな功徳があるとされます。
 ここでは年に一度4月8日をお祭の日にしています。
 別当は、庭坂の清水寺です。
 中に、棟札にしては大きめの木札があって、以下の記載が読める。
 寛政5年発丑歳 大工棟梁 渡辺祐吉良
 奉拝 南無薬師如来
 奉造営瑠璃光堂壹宇
 日月清明
 天下和順
       専祈所
 4月8日○
 別当永昌山清水現6世   魁禄叟代  ○○○
 昭和61年
 この宇堂の建立が、寛政5年(1793)であり、その別当が「永昌山清水現6世魁禄叟代○○○」である事が読み取れる。
 清水寺の呼称を確認すると、永昌山清水寺と改号するのが、延宝元年(1673)のことで、それ以前の永昌山庭坂寺の寺号を廃しての改号らしい。何を書き写したのかが分からなくなってはいるが、自分用のメモ書きに、ここの薬師如来が「宝暦10年(1760)4/8に造立安置」されたとある。
 この地域には、先に永昌寺や庭坂寺が歴史を刻んでいたのだが、これ等の寺が廃寺となっているらしい。
 永昌山清水寺は、これら廃寺となった寺が刻んできた歴史を背負っているということらしい。寺号の呼称にそれ等が反映しているようなのだ。
 読み取りに間違いがなければ、永昌山とある永昌寺は、在庭坂の太子堂脇にあったらしい。その寺が、寛文年間(1661~72)に焼失するようだが、永昌山清水寺は、この寺の歴史も背負っているという事になるらしい。廃寺になった永昌寺にかかわって、「在庭坂字南20→白檀の老木と地蔵石仏の辺り」の自分用のメモ書きがある。
 「別当は、庭坂の清水寺です」といことにちょっとこだわってみた。

 ◇        ◇        ◇         ◇          ◇

 金曜日の最高気温35.3℃、土曜日の最高気温が、37.3℃だった。土日の夜は、暑苦しくして寝られなかった。それなのに、梅雨明けはまだだったとのこと。梅雨が明けたかどうかが問題ではなく、蒸し暑い夏になった。
 それが、日曜の夜からは暑苦しさがなくなって、昨日は秋空のようにすっきりとした晴れ方だったし、夜は涼しいほどだった。清々しい朝を迎えることができた。
 東北地方は、昨日が梅雨明とのことだが、本日もすっきりとした秋空の感じ。明日から蒸し暑くなるのだとか。
by shingen1948 | 2014-07-29 12:07 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
  「東北地方太平洋沖地震」で福島市の水道が断水した際に、福島市では、この時点では8つの簡易水道組合の給水協力を得て給水事業を補完してもらっていた。その給水協力の中に、南林簡易水道組合も給水協力をしているようで、そのことから、最近までずっと健在であることが分かる。<ふくしま市政だより速報版4号より>
 しかし、福島市は、災害時に給水事業を補完してもらうその一方で、摺上川からの巨大システム化による給水するという上水道計画を推進するため、各地の水源地を放棄すると共に、民営簡易水道組合を統合していく姿勢もそのまま継続しているようだ。
 次の災害時までには、給水事業を補完する設備は全て廃棄される方向にこれからも計画を進めていくようだ。

 「南林簡易水道組合」が給水する地域の直ぐ東側の五十須場簡易水道組合は、平成22年に福島市上水道に統合されたようだ。薬師堂境内に、その五十須場簡易水道組合解散記念碑が建っている。

 写真はその裏面で、「歴代組合長」と「解散時の役員名」が記される。
 五十須場簡易水道組合解散記念碑a0087378_12212624.jpg 五十須場簡易水道組合は昭和31年6月7日福島市在庭坂字五十須場地内に湧水により98戸に給水することで発足いたしました。
 昭和55年に渇水のため急きょ困り果てて、翌56年元五十須場に浅井戸により給水いたしました。
幾多の難題を克服しその目的を充分果たして参りました。
 困難を乗り越えて、組合を発足された方々の労苦、それを受け継がれた先輩役員、協力されました組合員各位の努力に心より感謝申し上げます。
 平成22年12月1日福島市上水道に統合されました。
 従いまして五十須場簡易水道組合は解散いたしました。
 平成23年3月20日
 五十須場簡易水道組合は、平成22年に福島市上水道に統合されたとある。それまでの水源について、創建当時(昭和31年~)は、五十須場地内の湧水を給水しているらしいことが分かるが、その位置は分からない。それが、昭和55年に渇水し、元五十須場に浅井戸からの給水になったようだ。その元五十須場の位置は、アイリス学園の東側付近らしい。
by shingen1948 | 2014-07-28 12:24 | ◎ 水 | Comments(0)
 現高湯街道と旧高湯道の間を通る道筋を進んで旧高湯道を観察してきた。
 この道筋自体も何なのかという興味がある。初めは、この道筋も高湯道の一つなのではないかなと思っていたところがあった。
 しかし、実際に歩いてみると、南林地域を中心とした吾妻山麓の村の飲料水確保にかかわる道筋だったのではないかなと思えてきている。
a0087378_1737690.jpg この現高湯街道沿いの水槽があるこの谷が、その水源にかかわるのだろうと想像する。
 取水された水は、ここで高湯街道を横断して、先にふれた南林簡易水道のタンクに向かうのだろう。
 詳しく見せていただいた事のある土舟簡易水道組合の例から類推すれは、ここも浄水の必要がなく、塩素注入だけで配水できる良水なのだろうと想像する。


a0087378_17393456.jpg この水神が建つのは、南林簡易水道のタンク場の西側で、このタンクへの入水口なのかなと想像する。
 南林簡易水道のタンクで飲料水として整えられた水が通る水道管が、現高湯街道と旧高湯道の間を通る道筋沿いに南林村を中心とした山麓の村の各所まで埋設されているのではないかなと思うのだが、どうだろうか。
a0087378_17444124.jpg 南林簡易水道のタンクの余剰水は、上ノ堂の集落に向かって進んで行くが、この先で須川に流れて行くのだろうと思う。
 この集落の飲料水だが、位置的に見てこの簡易水道がかかわるような気はするが、本当のところは分からない。

a0087378_1744403.jpg 分からないついでに、この南林簡易水道のタンク脇に、小田朝重氏の供養塔碑が建つのだが、約90年前の方のようだが、どなたかを知らない。
by shingen1948 | 2014-07-27 17:47 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
 小心者には、旧高湯道を進めなかったので、現高湯街道と旧高湯道の間を通る道筋を進んで旧高湯道を観察してきた。その道筋も、現高湯街道と合わさる。その現高湯街道からも、須川の谷を感じることができるので、もう少し先まで確認することにした。
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 これは、現高湯街道と旧高湯道の間を通る道筋を進んで、現高湯道に合わさる近くで確認できた須川の谷の風景。
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 これは、現高湯街道に出てから確認できた須川の谷の風景だが、ダムのような感じ。
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 その先からもっとはっきりと確認できる。矢張りダムのようだなと思う。学生時代の吾妻山を縦断して安達太良山に抜けた時の登り口の記憶との照らしあわせると、その脇を通ったようでもあり、そうではなかったようでもあり、……。

 暫く進むと、その谷へ下る道筋に出会う。
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 「工事中で進入禁止」とのことで、旧高湯道からの進入を防ごうとしたこととその理由か重なるのかなと勝手に納得する。

 今回は、ここから現高湯街道を下りながら、現高湯街道と旧高湯道の間を通る道筋を確認することで、旧高湯道―現高湯街道と旧高湯道の間を通る道筋―現高湯街道の風景を立体的にとらえようと試みてみる。
by shingen1948 | 2014-07-26 09:40 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
 現高湯街道と旧高湯道との間にもう一本の道筋がある。
 その道筋をたどりながら、旧高湯道を観察し、記憶と照らし合わせてみようかなと思ったが、そちらはうまくいかなかった。ただ、菅原氏が高湯付近の水利実査に向かったであろう道筋のイメージの確認はできたようにも感じている。
a0087378_18392590.jpg
 こちら側の道筋から姥堂神社の裏側や街道沿いの石垣付近は、比較的容易にその位置が分かる。
 ここは、少し進んで、旧道に竹棒で行き止まりの印のあった付近だ。こちらの道筋から、その先に行く道筋に抜けることができそうだが、行き止まりにした意図が不明なのと、小心者であることで、そちらには行かずにこちらの道筋からの観察にする。

 a0087378_1842826.jpg 暫く進むと、道筋と旧街道との間に別荘風の建物が並ぶ集落が見えてくる。旧街道は、その向こうの谷下を通っているものと思う。
 現地を歩いている時は、この先に南林簡易水道組合の水槽があったので、この集落がその南林集落なのかなと思っていた。しかし、家に戻って地図で確認すると、この辺りの地域は「字上ノ堂」であり、字南林は、字姥堂の南側の集落であることが分かる。
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 これが、その南林簡易水道組合の水槽で、この先から現高湯街道に抜ける。
 水神があって、ここが水源かなとも思ったが、この先の現高湯街道沿いにその水源らしきものが見えてくる。その関係性については確認していない。

 現高湯街道に交わる辺りから、旧街道筋が須川筋であったろうことがちらりと見える。そのまま現高湯街道を進みながら左手谷を確認して行くと、須川筋かちらちらと見え隠れしてくる。

 菅原氏等は、提灯と一日分の握り飯をたずさえて、夜の明けない暁暗をついて福島を出発したという。姥堂を経由し、高湯の信夫屋旅館に向かい、そこで朝食を食べたとのことだ。
 彼等は、姥堂から高湯の信夫屋旅館迄の間、ずっと須川筋を意識しての強行軍であった事がイメージ出来たということだ。
by shingen1948 | 2014-07-25 18:47 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
 旧高湯道の登り口から少し行ったところで戻る事にした。ただ、旧高湯道をもう少し確認したかったので、現高湯街道との間にある道筋をたどって旧高湯道を眺めて記憶がよみがえるか確認してみることにした。
a0087378_1042814.jpg その前に、旧高湯道の案内柱が建つところから、姥堂神社脇の登り口には、右手に入る事になるのだが、そのまま真っ直ぐ進んでしまったこともあったのだが、そちらの風景を記録しておく。

 その時に右手にこの滝が現れた時には、結構強い印象を受けた。


a0087378_1054932.jpg その滝の脇に建つのは不動尊だと思う?。
 姥堂神社脇の登り口にたどり着けなかった事は残念だったのだが、それはそれでよかったと思えた。後の確認で街道脇を流れていた水だと分かったが、その時点では、山からの滝というイメージで、厳かな気分だった。


a0087378_1063534.jpg 学生時代の吾妻山を縦断して安達太良山に抜けた時の登り口の確認の他に、庭坂発電所の菅野氏も通ったであろうというという想像もあった。
 この時には、菅野氏は須川の流れを確認しながら登っているはず。ということで、近くの橋から見える須川の流れの風景の写真も張り付けておく。
by shingen1948 | 2014-07-24 10:10 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
a0087378_1716521.jpg 旧高湯道の登り口右手、姥堂神社の裏手にあたる所に気になる石塔があるが、読めない。気になるのは、浄土平ビジターセンターの年表の昭和元年(1926)の欄に「庭塚姥堂に石祠「吾妻山大権現」を納める(信夫郡内有志 )」があって、姥堂神社境内や登り口付近で確認しようとしたがみつからなかった。吾妻地区史跡文化財案内板に「吾妻山大権現」とあったので、石塔と勝手に思い込んでいたが、よくみると石祠(石のほこら)だ。ほこらの認識で、「庭塚姥堂」を姥堂という庭塚の地域と解釈して広い範囲で確認すべきなのかもしれないな。
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 旧高湯道は、右手に石垣を見ながら緩やかな左カーブになる。「吾妻地区史跡文化財案内板」には「旧高湯道石垣」としてプロットされていた。

a0087378_17192319.jpg 旧道の雰囲気を味わいながら進むが、少し進むと、竹ざおが横たえてあってそこから先には進まないようになっている。越えられない事はないが、引き返す。
今回は、学生時代に吾妻山を縦断して安達太良山に抜けた時の記憶をもとに登山口の雰囲気を確認したかっただけなので、素直に戻る。

 この時は、誘われるままについてきたのだが、どうみたって自分の能力の限界を超えている。今なら断るなと思う。
 ずっと小心者だったと思っていたが、小心者になったのは最近のようだ。自分の限界を見極めることができるようになって、小心者になったようだ。
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 戻り際にみるこの石垣の感じがいいなと思ったが、これは戻りだからみえる風景。あの時、この景色は見ていなかったはずだな。
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by shingen1948 | 2014-07-23 17:24 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
 庭坂駅からのつながりを後にして、とりあえず庭塚の登山口の辺りの確認をしたかった。
 庭坂発電所の菅野氏も通ったであろうというという想像の事もある。他にもう一つ、学生時代の話だが、登山部に所属する友人に誘われて、随分な荷物を背負って、吾妻山を縦断して安達太良山に抜けたことがあったのだが、この時に、庭塚から登ったはずなのだ。
 この時も誘われるままについていっただけだったので、その登山口の記憶も曖昧だった。その記憶と現地とを照らし合わせておきたいとも思ったのだ。
 実際には、この辺りを暫く歩いていている中でその記憶と現地が結びついたのだが、整理はこちらを先にする。
 なお、この時の出発は庭坂駅ではなかった。福島駅からバスで庭塚までやってきていた。
a0087378_1156360.jpg 姥堂神社の案内柱が建つのだが、そこに旧高湯道と付記されるのだ。この道筋が、人家への道筋にしか見えないのを見て、記憶がよみがえったのだ。
 人家の脇を通ったという印象が強かったのだ。ただ、姥堂神社の記憶はなかったが、……。
a0087378_11594137.jpg その姥堂神社の脇の道筋が旧高湯道なのだろう。ここを登った記憶はよみがえるのだが、姥堂のイメージはすっぽり抜け落ちたままだ。

 この風景と似合う姥堂の解説は、山寺の姥堂の案内。

 姥堂 
 本尊は奪衣姿。ここから下は地獄、ここから上が極楽の浄土口。そばの石清水で心身を清め新しい着物に着替える。一つ一つの石段を登ることによって欲望や汚れを消滅させ、明るく正しい人間になろうというもの。
 ここの姥堂の解説はないのだが、イメージとしては合うので、散歩人としては、それで満足。
a0087378_128598.jpg その本尊奪衣姿様だが、ここには解説がないので、「ウィキペディア」で確認すると、次のように解説している。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%AA%E8%A1%A3%E5%A9%86
 奪衣婆
 奪衣婆(だつえば)は、三途川(葬頭河)の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼。脱衣婆、葬頭河婆、正塚婆(しょうづかのばば)姥神、優婆尊とも言う。奪衣婆が剥ぎ取った衣類は、懸衣翁という老爺によって衣領樹にかけられる。衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって死後の処遇を決めるとされる。
 ここの建物は堂宇であり、神社ではなさそうだなと思うのは、笹木野宿の愛宕堂と愛宕神社の時と同じ感覚。
 なお、確実ではないが、掲示物などからは、この別当が慈徳寺のような感じがするが、どうだろうか。

 江戸時代末期には奪衣姿様は、民間信仰の対象とされるそうだが、民間信仰としての奪衣婆様は、疫病除けや咳止め、特に子供の咳止めがその御利益らしい。この地域でその御利益に何を求めているかは知らない。
by shingen1948 | 2014-07-22 12:13 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
 「隠れて優秀な温泉新案内【森川憲之助 著(大正15)】」も「高湯温泉」や「微湯温泉」は、庭坂駅とのアクセスが便利として紹介される。
 「高湯温泉」へのアクセスについては、「温泉案内【鉄道院 編(大正9年)】」とその料金にやや違いがあるものの大差ない。散歩を楽しむ者にとって面白い紹介は、「微湯温泉」への以下のアクセス紹介。
 「微湯温泉」
 奥羽線庭坂駅より南3里、福島市より西4里23町、福島微湯間は最近県道全通し、人力車が通ふやうになった。庭坂より駕籠(賃10円) 駄馬(賃3円)の外乗物なし、荷負人夫賃1円70銭。其他二本松より土湯越をして行く道もあるが、道路険悪。
 庭坂駅前の下駄屋(小田栄三郎)及び日山坂下(庭坂と温泉との中間)の中島儀右衛門の両人と温泉旅舎との間に特約があるので、山籠、駄馬、人夫等の世話をしてくれる。
a0087378_5385843.jpg 具体的に、庭坂駅前の下駄屋(小田栄三郎)がアクセスの世話をしてくれるとある。
 恐らく、奥羽線庭坂駅より西2里15町と紹介される「庭坂駅より姥堂まで道路平坦、それより駄馬2円駕籠70銭荷負人夫1円」という「信夫高湯温泉」へのアクセスの世話もしてくれたのだろうと思う。
 庭坂駅前を写した時に写り込んでいたこの庭坂駅前のお店は、「SHOES&CIGARETTES」とあり、「ASAHI(アサヒシューズ)」の看板が下がる。a0087378_5401488.jpg また、店前の街路灯には「たばこ・履物」の広告が、……。ということで、このお店がその「庭坂駅前の下駄屋」さんなのだと思う。

 もう一人の「日山坂下(庭坂と温泉との中間)の中島儀右衛門」さんだが、「日山坂下」が確認できない。姥堂付近から南にある地名とみる。
 昨日情報をお借りした「温泉案内【鉄道院 編(大正9年)】」の「微湯温泉」へのアクセス①の「姥堂より約半里は平坦な細道で、後の一里半はかなり険しい山道で徒歩を要する。此處からは荷物運搬の人夫が傭(やと)へる。」と重なる情報なのだろうとも思う。

 確認していく中で思い出したのが、「峠駅」から案内されている「滑川温泉」・「姥湯温泉」に山に詳しい方に誘われて出かけた事があったこと。そのルートは、浄土平から「姥湯温泉」に行き、ここで一泊して、「滑川温泉」経由で峠駅に出て、奥羽線で福島に戻るコースだったこと。
 地図でそのルートをみると、浄土平から一切経山→五色沼→家形山に抜ける辺りまでは確認できるのだが、そこから姥湯温泉の崖までが確認できない。思い出すのは、その崖の梯子を下って露天風呂脇から宿に入ったことだ。
 ここで一泊してからのルートは、「峠駅」から案内されている「滑川温泉」・「姥湯温泉」の逆コース。
 姥湯温泉から徒歩で滑川温泉まで下った。そこでまた風呂に入った。そこからは、温泉が用意したバスに揺られて峠駅。そこから、奥羽本線で福島まで戻ったのだ。
 なお、この記憶の浄土平までの交通手段は、福島駅西口から出るバスに乗っていて、庭坂駅とはかかわっていない。
by shingen1948 | 2014-07-21 05:42 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)