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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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<   2014年 04月 ( 18 )   > この月の画像一覧

 「釈迦堂(上野寺佐々江地内)由来」の案内から、「釈迦堂」自らについての解説を確認する。
 上野寺村史及び大林寺史書等を紐解いて私考するに、上野寺稲荷坊屋敷にあった大林寺に附属御堂として天満宮、釈迦堂の二つがあり、万治年間(1658~1660)上杉家臣河田杏之助により、大林寺が現在の地に移転造営の際、天満宮は大林寺境内に移り、釈迦堂は現在地に移転、その後、延享元年上野寺村分村時に天満宮(維新後は菅原神社)は上野寺本郷の産神となり、釈迦堂は分郷の鎮守となった。
 祭礼は、毎年旧4月8日代々大林寺住職祭主となり執行。
a0087378_6481115.jpg 「野田村郷土史」の案内では、本来的にこの地というイメージが強い。「当地を釈迦堂と呼び、かなり古い名刹である」としていて、300年の歴史を持つしだれ桜と共に紹介される。そこを、大林寺が現在の地に移転造営の際に、天満宮は大林寺境内に、釈迦堂は現在地に移転されたとの解説されるのだが、この移転説でも300年以上の時を刻んでいて、しだれ桜と共に本来的にこの地に鎮座していたというイメージが崩れることはなさそうでもある。
 大林寺が現在の地に移転造営の頃の大林寺の沿革は、以下のようなことだった。
 ・ 承応年間(1644頃)に火災にあい、堂宇は悉く焼失し旧記も焼失した。
 ・ 万治元年(1658)に上杉の家臣河田杢之助の力により現在地に堂宇を再興。寛
 ・ 文5年(1668)に鳥渡観音寺清海和尚により中興開山し現在に至る。

 案内板では、境内にある「南無阿弥陀仏」の供養塔も以下のように紹介される。
 「南無阿弥陀仏」の供養塔は、延享3年(1743)とあり、側面に「左ぬるゆ」、「右たかゆ」と記されてある。(福島市文化財調査報告書第13集参照)a0087378_6512465.jpg
 これが、「歴史地図」で「名号道しるべ左ぬるゆ右たかゆ」のメモで紹介さたものと同じものなのだろう。
 境内を見回すと、北側に並ぶ石塔群の北西端にこの「南無阿弥陀佛」石塔がある。その左に「延享3虎年」と右に「10月」が読める。ただ、「左ぬるゆ右たかゆ」はちょっと読みとれない。

 書かれている事からは、東側を向いた方向から南北に走る道筋の案内と読み取れる。ということは、西側から進んできた道筋と南北に走る道筋の交点に建ってその道案内をした石塔との想像はできるが、この道標の旧地は知らない。
by shingen1948 | 2014-04-30 06:54 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(6)
 武隈稲荷解説からイメージする大林寺旧地は、小字稲荷を中心とした稲荷山大林寺だが、「歴史地図」が「このあたりにもと大林寺があったという」とプロットするのは、小字祭田と小字赤沢の小字境附近だ。確認できていない「上野寺稲荷坊屋敷」情報とかかわるのだろうと思う。マホロンの遺跡検索でその位置情報が確認できないか試してみたが分からなかった。
 ただ、先に整理した「勢至観音堂」附近が、2008平成20年度市内遺跡試掘調査報告書(財)福島市振興公社に記される中世「堀之内館跡」との情報を得た。「野田村郷土史」では、「天文年中、二階堂駿河守の居城であった」と記される。
a0087378_449290.jpg
 とりあえず、釈迦堂しだれ桜(300年)がメモされる地点を探すと、確かに、釈迦堂らしき建物とシダレザクラは確認できるが、300年の歴史は感じない。そばに、昭和61年5月26日に福島市の指定樹46号とされたとする標柱が建つので、その位置情報としてはここを指しているに違いない。「ふくしま市の保存樹と保存樹林」一覧も確認してみたが、そこに「釈迦堂シダレザクラ」はない。標柱案内から、樹高18.0m・幹周2.60mだったらしいその老木自体は枯れてしまったのだろうか。
 釈迦堂に掲げられる「釈迦堂(上野寺佐々江地内)由来」の案内には、この桜について次のような解説がある。
 境内にある枝垂れ桜は専門家の鑑定により樹齢300有余年の老木である事を実証されている。今はなき和田集落の古老の話として伝わるところによれば、仙台釈迦堂にある有名な枝垂れ桜は、この桜の姉妹であると言う。
 「野田村郷土史」では、「当地を釈迦堂と呼びかなり古い名刹である。境内には数百年も経ったと思われる枝垂桜の大木があって、春の花盛りや旧4月8日の縁日には、善男善女で賑わっている」と解説される。

 武隈稲荷の解説に本郷・分郷の時の社格についての解説があった。
 「釈迦堂(上野寺佐々江地内)由来」の案内に、その幕府の都合で本郷・分郷と分けられた経過が分かる解説が、分郷とされた集落側から記されていたので、付け加えておく。
 上野寺分郷とは延享元年(1744)上野寺を二分し、和田・北ノ内・梅田・荒古屋・上野寺新田の4集落であり、天保9年の御巡見様差出しの明細書によれば、(村の実態が記される部分略)。
 記録によれば、本郷文郷と分かれた時も徳川直領時代であり、合した弘化元年(1844)も徳川直轄の時代である。

by shingen1948 | 2014-04-28 05:00 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_554956.jpg 武隈稲荷は、「歴史地図」で、東北自動車道の工事のため東に移されたと解説される。その「武隈稲荷神社由緒」の案内板は、天台宗 稲荷山 吉祥院 大林寺が寄贈したものとのことだ。
 その案内板の中で、大林寺自らについては、次のように説明される。
 西暦800年代に、大洪水があって松川が氾濫、野寺村を横断して大窪谷地を通り須川に合流した。それからこの川を境として上野寺村と下野寺村とに分村し、両村にお寺が建てられました。上野寺村には、元慶4年(881)に、上野寺字和田の稲荷山に「稲荷山大林寺」が建てられました。
 稲荷山大林寺は、万治元年(1658)に現在の大林に移転しました。
 「野田村郷土史」の中に、二つの寺の解説でよく「野寺村が上下2村に分かれた時」という表現をみかけるが、それが元慶4年(881)頃とのイメージらしいことが分かる。もう一つの注目は、「稲荷山大林寺」旧地が「上野寺字和田の稲荷山」との位置情報かな。

 現大林寺の「由緒・沿革」では、次のようにやや詳しい表記がされている。
 当寺は元慶4年(881)に慈覚大師の弟子道叡和尚によって開山されたと伝えられる。
 「天安2年(859)に鳥渡観音堂を開創した22年後に、当寺は現在地より東方約500m離れた和田集落(現在その附近に13仏、坊屋敷等の地名が残っている)に建立開山」とある。
 その後はしばらく無住であったが、承応年間(1644頃)に火災にあい、堂宇は悉く焼失し旧記も焼失した。
 万治元年(1658)に上杉の家臣河田杢之助の力により現在地に堂宇を再興。寛文5年(1668)に鳥渡観音寺清海和尚により中興開山し現在に至る。
 武隈稲荷が建つこの地が和田集落だが、その附近に十三仏、坊屋敷等の地名が残っているとある。これを「福島の小字」でたしかめても「小字坊屋敷」は見つけられないが、「小字十三仏」「小字稲荷」は確認できる。しかも、この地名は現在も残っている。
a0087378_5591820.jpg 解説にあった元慶4年(881)の「稲荷山大林寺」建立地が、上野寺村字和田の稲荷山との事だが、その小字稲荷が、ここに写る高湯街道から東北自動車道吾妻パーキングの南端附近にかけてで、ぎりぎり武隈稲荷付近までだ。
 「稲荷山大林寺」の境内に、寺の守神として「老狐の精霊を担うて来る稲荷明神が祀られた」とする武隈稲荷の解説が重なり、そのイメージに武隈稲荷が東北自動車道の工事のため東に移されたという情報が重なる。
 なお、寺の資料焼失火災を承応年間(1644頃)で解説しているが、武隈稲荷解説にあった火災は、明暦2年(1656)3月としていた。大風のための倒壊が安政5年(1858)10月ともあった。
 これらは、同じ和田集落の出来事ということになるかな。
by shingen1948 | 2014-04-26 06:01 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_5323672.jpg 武隈稲荷は、桜が満開だった。というか、野寺情報を求めて追分を南へ進んだもう一つの理由が、満開の桜のみどころを探すという心持もあったということ。写真を確認したら、撮影が4月17日のようだった。
 
 この「武隈稲荷」は、「歴史地図」によれば、東北自動車道の工事のために東に移動されたとのこと。ただ、古い地図で確認しても、その位置の違いは分かりにくい。
 「野田村郷土史」では、次のように解説する。
 武隈稲荷神社
 元村社、上野寺に鎮座、祭神は倉稲魂命を祀り農業の神である。
 創建年代は不明であるが、天正19年(1591)蒲生氏郷の代官、高坂四郎左衛門が社殿を造営した。明暦2年(1656)3月火災に罹り焼失したのを、安永年間に再建した。安政5年(1858)10月大風のため倒壊したのを、万延元年(1860)再び造営して今日に至っている。
 永い間上野寺村の村社であるが、村が本郷、分郷と分かれた時には、分郷の方に属した。
 今まで断わっていなかったが、年代に(西暦)を入れている。元号だけでその時代の前後を見分ける事ができないこともあるし、その確認作業の中で、前後の大きな出来事と対比して楽しんでいる事もある。

 ここには、大林寺寄贈の「武隈稲荷神社由緒」の案内板が建っている。
 「創建年代は不明」というあたりに関わる部分については、以下のように説明している。
 当時は寺を建てるときには、守神としての神様の社も建てられていましたが、口伝によれば、室町時代(1338~1573)に入ってから、稲荷山大林寺境内に「武隈稲荷大明神」が建立されたと言われています。これが、武隈稲荷神社の前身です。
 古書には、「老狐の精霊を担うて来る稲荷明神として祀るとあり、農神「倉稲魂神」の使神として宮を造り阿武隈川の西なれば、武隈稲荷神社として今日に至るという」と残されております。
 なお、「武隈大明神」から「武隈稲荷神社」への改称が、明治2年(1869)とのこと。
by shingen1948 | 2014-04-25 05:38 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 信達坂東33観音23番札所を確認すると、その御詠歌は次のようだ。
 「ひとつ/みつ/みつわ/ひとつに/あらわるる/かみの/てらなる/せいし/くわをん」
 ※ 一つ、三つ、三つは一つに現るる/上の寺なる勢至観音
 「上の寺なる勢至観音」の「上の寺」が、「大林寺」であるのが地元の伝承のはずだ。その勢至観音と詠っているようなのだ。
 現「大林寺」の観音堂にかかわる部分を、その由緒・沿革から確認すると、「観音堂には子安観音像が祀られており、信達坂東23番の札所である」とある。
a0087378_4222654.jpg  
 これらの情報を整理すれば、御詠歌の「上の寺なる勢至観音」は、「大林寺」の勢至観音であり、この勢至観音堂の風景が、その原風景ではないのかなと思えてくるのだが、これは素人の勝手な判断。

 ちょっと堂内を覗かせていただくと、昭和4年7月に77人に奉納された「南無大慈大(慧?)勢至観世音」の額が掲げられている。恥ずかしながら素養がないので、草書はところどころしか読めなかったのだが、信達坂東33観音23番札所御詠歌と思われる。

 ここからは完全な想像の世界。
 現「大林寺」の由緒・沿革によれば、本尊仏は阿弥陀如来座像とのことだ。
 御詠歌が詠う内容はよく分からないのだが、阿弥陀つながりで、ウィキペディアで確認した「阿弥陀三尊」の内容が気になった。
 阿弥陀三尊は、仏教における仏像安置形式の一つである。阿弥陀如来を中尊とし、その左右に左脇侍の観音菩薩と、右脇侍の勢至菩薩を配する三尊形式である。根拠は無量寿経・観無量寿経である。観音菩薩は阿弥陀如来の「慈悲」をあらわす化身とされ、勢至菩薩は「智慧」をあらわす化身とされる。
  寺の盛衰の中で、そんな風景の時代を想像することが可能なのかどうかは分からない。
by shingen1948 | 2014-04-24 05:10 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「勢至観音堂」は、「歴史地図」では次のように紹介される。
 勢至観音堂(勢至堂か観音堂のどちらかだろうが、地元の伝承のまま記しておく)

a0087378_6281399.jpg 「野寺情報を求めて追分を南へ進む」この道筋は、会津に出かける時によく使う道筋で、通勤でも10年程毎日使った道筋だが、「勢至観音堂」を知らなかった。おおよその位置の見当をつけて、近くの道筋を縦横に歩くと、水路脇にそれらしい建物が見つかった。
 その水路を横切り、縦横に走る道筋の痕跡が、この堂への道筋であるらしい事が分かる。
 昭和4年に奉納された額に「南無大慈大(悲?)勢至観世音」が見え、その奉納者等から、「野田村郷土史」で「堀之内観世音大悲堂」と紹介されているお堂と同じと想像する。
 「堀之内観世音大悲堂」
 天文年間伊達左京太夫晴宗が当地を領有していた頃、堀之内には二階堂駿河主がおり支配していた。観世音の信仰篤く大悲堂を建立したと伝えられる。
 「勢至菩薩」を確認する中で、「歴史地図」の「勢至堂か観音堂のどちらか」ということとかかわりそうなのは、「日本では、勢至菩薩が単独で信仰の対象となることはきわめてまれで、多くは阿弥陀三尊の脇侍として造像された」とあることかな。「観音菩薩」も確認してみると、その中に、浄土教では、阿弥陀如来の脇侍として勢至菩薩と共に安置される事も多いともあり、観音菩薩は大慈大悲を本誓とするともある。a0087378_6322720.jpg 深い事情をよく知らない散歩人の感覚では、これ等の諸々の事が、現世利益と結び付けられた信仰と見れば、この勢至観音堂の風景は自然な風景なのではないかなと勝手に思う。

 今回の散策での発見したという感覚は、掲げられた「勢至観世音」の額に「坂東23番」が見える事の方だ。信達坂東33観音の23番札所は、「大林寺」の観音堂のはずだ。これで野寺情報ととつながる風景になったという事。
 この「大林寺」は上野寺の寺であり、しかもその旧地はこの近くだったらしいということでもある。
by shingen1948 | 2014-04-22 06:41 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
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 小字町続の地蔵尊追分道標の北、西、南が読めるのは、どなたかがなぞったせいのように思うのだが、その行き先が読み取れない。北がふくしま、西がにわさか、南がたかゆと想像するがどうだろうか。旧米沢街道(ふくしま道)は、ここから西に進むことになるが、その前に南に進んでみる。
 この先に、「2代目金子周助建立伝神社・仏堂③」で整理した「小針地蔵堂」がある。
 http://kazenoshin.exblog.jp/19359712/
 「歴史地図」によると、更にその先に進んで、現高湯街道と突き当たるあたりが「野寺発祥の地(古寺跡)」とのことだ。地図で確かめると、その辺りは竹ノ内地内のようだが、その辺りに寺の地図記号が記され、そこに「野寺発祥の地(古寺跡)」とメモされるのだ。
a0087378_4192074.jpg 現地で延命地蔵の宇堂を見つけた。これが寺の地図記号で表記されたものらしいと思うのは、その脇に「古跡 淀内古寺跡」の標柱が建っているからだ。
 ここは、民家の敷地とも公道ともつかないので、遠慮しながら写真だけ撮らせていただいた。

 「野田郷土史」に「延命地蔵尊」として紹介されることと重なるのだろうと推測される。
 「延命地蔵尊」
 字竹ノ内にある。当地は前述のように、野寺の寺があった所なので、本村文化の発祥地である。
 その南奥の墓碑群も、宇堂裏の裏手に見える古碑群と共に、その解説とかかわる風景なのだろうか。
 「野田郷土史」の延命地蔵の解説に「当地は前述のように」とあるのは、泉福寺とのかかわりだろうと思う。
 「野田郷土史」では、下野寺の菩提寺が「薬師山泉福寺(真言宗)」であることを前提にしている。その位置を小字薬師堂辺りと推定しているようなのだが、その別説の一つとして「(小)字鶴巻にあったとする説もある」と紹介している。このこととのかかわるのだろう。
 この見え方は、「歴史地図」の見え方と多少違いがあることが分かる。
 それは、「歴史地図」では、この古寺を泉福寺とイコールであるとは、言い切っていないことがある。もう一つが、この「延命地蔵尊」宇堂辺りが「古跡 淀内古寺跡」とイメージしているらしいことだ。
 「野田郷土史」の見方は、淀内古寺跡が泉福寺であるとし、別説の位置も現小字淀内の南東端の墓地附近をイメージしているように思われるのだ。というのは、「福島の小字」によると、別説として紹介される小字鶴巻は淀内の南東方向にあるはずだが、現在はその小字が見当たらない。現況の小字淀内南東端あたりだと思われる。確かにその辺りに墓碑群があって、その辺りに淀内古寺跡の風景をイメージしているように思われるのだ。
by shingen1948 | 2014-04-21 05:16 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 笹木野宿の小字を確認すると、野田小附近が小字「町尻」、門屋附近が小字「町」で、愛宕社の附近が小字「町続」。
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 ここが、その小字「町続」の愛宕神社だが、鳥居はあるものの古碑群の並びや建物からは、宇堂の雰囲気が醸し出される。
 「歴史地図」では、神社のマークが記されるのみで、メモ表記はない。その前に並ぶ「青麻神などの古碑群」と「追分道標」が表記される。
 「野田郷土誌」では、この愛宕社を寺院に分類し、「愛宕堂」として以下のように解説される。
 愛宕堂
 笹木野町続にあり元愛宕山泉福寺と並んで当地の名刹であった。昔から生糸の市場が開かれたので、毎年その季節には大変賑やかであったと伝えられる。
 ここに「泉福寺」が紹介されるのだが、地域では、上野寺村と下野寺村が分離された時に、この寺が下野寺村の菩提寺となったとされている寺だ。その寺に「元愛宕山」の冠がついて、所在地が小字「町」であるように紹介される事が気になった。
 それで、同誌の中で、泉福寺についての紹介を確認する。
 薬師山泉福寺(真言宗)
 昔下野寺の菩提寺であって、字薬師堂の浄土の辺りにあったと伝えられる。又一説には字鶴巻にあったとする説もあるが今浄土に残っている古碑は鎌倉時代頃のものと推定される古いものであるのと、地名が寺に縁の深い点から見て前者(字薬師堂の浄土の辺り)の方と察せられる。
 気になることとつながるのが、次の解説だ。
 「万治2年下野寺村が分村した際に、この寺を笹木野町の愛宕山に移し、愛宕山泉福寺と改めた」とあり、「この後、笹木野町の大火に焼失したので福島市真淨院に合寺してしまった」とある。

 後半の寺の行方とかかわる火災は、先に整理した「仏母寺」移動や門屋資料焼失の火災と同じかなと想像する。
 「仏母寺」は、この火災で、小学校附近から現在地に移動したとのことで、門屋資料焼失も火災によるものとの情報だった。今のところその時期情報は得られないが、この大火で、こちらの寺は福島市真淨院に合寺する運命をたどるということだろうか。
 前半にかかわる小字笹木野町の愛宕山の正確な位置情報は得てはいないが、「仏母寺」が小字町尻だった事や、小字町続にあるこの愛宕堂の位置などから、小字笹木野町南端近くかなと勝手な推定をしている。
 そんな想像で遊んでいると、愛宕堂が宇堂であるという風景ともかかわるものなのかということも気になってくる。
by shingen1948 | 2014-04-20 05:37 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「信達ニ郡村誌」では、米沢街道は「清合内より下野寺に入り、3町7間にして復び本村台に入り、西に赴」いた後、「笹木野村の経界を為し16町6間にして桃木町、上台畑の間より西隣より笹木野村に入る」とする。その「地勢」の項に、「(村の)東部に米沢街道を受く」に続いて、「街道渠(渠道に循がって流るを以て名とす)、道に循がって東流す」とある。
 その西南部は「街道渠を以て笹木野村及び下野寺村と界し」とある風景として、「街道渠」も米沢街道の道筋を確かめる視野に入っていた。
a0087378_5201420.jpg
 「街道渠」というイメージで捉えていた水路は、八島田陣屋跡付近の散策に入る手前から街道から外れて、南に回り込むようになる。その「渠」筋は、野田小学校のプール附近で一度見失う。
 その「街道渠」が、野田小学校の正面付近から笹木野宿の道筋を越えて再び現れる。
 見失ったプール附近からこの地点まで校舎と校庭の間を流れるというのが自然な渠筋だと思うが、現況は小学校の北側を流すように改変しているようだ。
a0087378_5212996.jpg 笹木野宿の道筋を横切った「街道渠」は、この地点で分流されている。ここに写る道筋は、仏母寺の五叉路を西に進んだ道筋だが、自分が「街道渠」とイメージした流れは、この道筋を横切って南側に展開する。
 もう一つの流れの方は、この道筋に沿って東流する。こちらの流れの方は、八島田陣屋跡付近から、米沢街道の北側にその流れを展開していくことになる。
 下八島田村附近の「歴史地図」に「野田堰(街道渠)」と記されるのは、こちらの水路筋の本流のようである。本来的には街道の北側の下八島田村や森合村を潤すための堰であり、こちらを本流とするのが正しいのかもしれない。
 街道に沿った堰筋を「街道渠」と勝手にイメージしているのだが、本来の目的からすれば、こちらはその支流ということなのかもしれない。

 この「街道渠」につながる水路の上流だが、これが先に南沢又村の水路を追ってたどり着いた堰筋と重なる。この流れのもう一つの分流筋ということだ。その上流が阿部邸の南側を流れている堰だ。
 また、この散策の時に道標を見つけたのだが、その「ふくしま道」が、仏母寺の五叉路を西に進んだこの道筋と重なり、ここから米沢街道(福島道)につながるということのようだ。
by shingen1948 | 2014-04-18 05:25 | ◎ 水 | Comments(0)
 笹木野宿を起点とする飯坂古道の一つの道筋が、仏母寺の西側の道筋だが、その道筋がここまでで切れるのではない。
a0087378_5262392.jpg 飯坂古道につながる道筋は、西に延びる道筋を越えて、更に新道を越えて南に延びている。
 笹木野宿の街道筋を意識すれば、その裡道にあたる道筋で、現況では小字界の道筋になっている。この細い道筋の痕跡は、稲荷神社までたどる事ができる。笹木野宿の街道筋との距離は、イメージ的には二軒分の幅だが、所によっては一軒分の境にも細い道筋が走る。

a0087378_527161.jpg 「野田村郷土史」によれば、この稲荷神社は、万治年間(1658~1660)大阪方の重臣茂木一族が笹木野宿場を開いてから、当地の鎮守とされたのだとか。祭神は宇迦之御魂大神で、農業の神という。

 現況は開けているが、稲荷神社の周りや裏側に大きな切り株が見える。
 この辺りは、街道沿いの街並みの西側に相当する。屋敷林(いぐね?)だったのだろうと想像する。ならば、街道裡道に相当する小字界の細道の東側は、この屋敷林群が広がる風景だったのだろうか。

a0087378_5331289.jpg 米沢街道側からこの稲荷神社へ向かう右手の民家に「米沢街道(福島道)笹木野宿検断・門屋跡」の標柱が建つ。
 「野田村郷土史」の「笹木野宿」の項に、「笹木野宿場は、大阪落城の後、豊臣の重臣、茂木某一族と共に当地に下り、原野であった笹木野に宿場(駅)を開いたのが初めてで、今尚問屋と呼ばれる本家が残っている」とある。そのこととのかかわりだろう。
 その茂木某一族については、以下のように解説する。
 笹木野町の名付け親である。
代々米沢家から信任篤く数々の賜り物や、系図書もあったが火災で焼け落ちた。
 清光院殿夏山淨雪大禅定門(承応3甲午年4月29日卒)当町開基
 福島城下とイメージを重ねれば、福島城代本庄重長氏の時代かな。亡くなっている年が重なっている。
 福島城代本庄重長氏は、本庄繁長氏の六男で、父の跡を継いだ兄の充長氏が嗣子無きまま没したので、寛永2年(1625年)禄高3333石で福島城代となり、寛永5年に侍頭となり、同じ承応3年10月2日に享年53歳で亡くなっている。

 「野田村郷土史」は、笹木野宿の成り立ちにかかわっては、次のように解説する。
 昔の駄賃は米一俵を1里運んで15文が相場、物価高騰後も殿様の指定荷物駄賃は上げられず、渡世の馬子は追々減り、仕方なく村の石高に応じて割り当て人夫を出させられるようになる。
 宿場から遠い方部の人々は何時も割り損な荷物しか当たらないので物議が絶えず、遂に万治元年宿場に近い方部のみを笹木野村として分村してしまった。
 この宿場が明治維新まで続き笹木野町として栄えた。
 
by shingen1948 | 2014-04-17 05:40 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)