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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

<   2013年 09月 ( 25 )   > この月の画像一覧

 賊軍呼ばわりされた旧会津藩士のこだわりの視点からは、明治10年日本最後の内戦といわれる「西南戦争」が、「朝敵回り持ち」の最終地点。かつて賊軍と呼ばれた旧会津藩士も、今度は官軍として戦地へ向かう。
 ドラマでは、会津藩士の出兵と佐川官兵衛氏の戦死を描くが、この時の山川浩氏は陸軍軍人としての出兵で、佐川官兵衛氏は警視隊の豊後口副指揮長としての出兵であり、会津藩士の出兵者の多くは、徴募巡査として出兵ということらしい。

 「戊辰戦争とはなんだったのか(中村彰彦)」からの孫引だが、この時の警視隊総人数約13000名。
 そのうち、以前から警視局に奉職していた者600名、斗南関係者600名で、徴募巡査として出兵して生還した福島県人が1136名とのこと(「西南戦争・福島県人の奮戦」)。
 戦死者194名は数字がダブり、福島県人には磐城平藩士、相馬中村藩士、福島藩士、二本松藩士も含まれるとの条件付きでの概数だが、その数は約2000名強となり、警視隊出兵者の約1割を占めるという。
 山川浩氏の従者として出兵していた八重さんの幼馴染の高木時尾さんの弟である高木盛之助氏が、薩軍全滅を知った時の感慨を託したのがいかの一首の和歌だとか。
 嗚呼止りぬ深き恨みもはるるよの月
 影清し刈萱(かるかや)の闇
 (わが家の記録)
 これは、東の地からの見え方。

 西の地においては、この西南戦争を通して、明治政府の急激な専制政治の変革の最大の犠牲者が、維新の原動力となった身分の低い元武士達であるという構図がみえるらしい。
 西軍の士族でも、明治政府に役人として仕えたのはごく僅かで、ほとんどの侍たちが失職する。命がけで維新の事業に参画したのに、新政府が樹立されると、朝敵とされた東軍の武士達と同様に特権が失われる事への不満。
 新政府は、廃藩置県、扶禄(家禄)の廃止、廃刀令などの改革を進めるが、これによって、身分が大きく変動して切り捨てられるのは西軍の元武士達も同じ事。
 その中でも、徴兵制の採用は扶禄の廃止につながるが、これは元武士達の存在否定ですらあるが、それよりも元武士達にとって刺激的なのが廃刀令なのだとか。

 若い頃、鹿児島出張先が城山公園近くだったので、立ち寄った事があった。
 この時に、西南戦争が最後の内戦になったという事は意識していたが、近代化政策をスタートする代償として、その士族達の不満の幕閉めのために流された血であることへの思いは不足していたように思う。

 ドラマの概要については、エキサイト「大河ドラマ 八重の桜」のページから、第38話「西南戦争」の粗筋をお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga52/story_38.html
 「西南戦争」
 八重(綾瀬はるか)は襄(オダギリジョー)とともに、新築された英学校の校舎で備品の準備に追われていた。その頃、鹿児島では西郷隆盛(吉川晃司)が配下の不平士族らの決起を止められず、挙兵。西南戦争の幕が切って落とされる。東京からは仕官した山川浩(玉山鉄二)が出兵。警視庁からは佐川官兵衞(中村獅童)や斎藤一(降谷建志)も参戦した。激戦地・田原坂で進退窮まった政府軍の大山巌(反町隆史)は、官兵衛と斎藤を抜刀隊に選抜し従兄弟である西郷に戦いを挑む。

by shingen1948 | 2013-09-29 06:33 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)
 吉倉地区の辺りは、早くから耕地整理が行われたらしい。半沢氏の「歴史地図」のメモによると、明治36年には認可され、明治39年には完工しているという。そのためか、散歩を繰り返す中で、古い道筋の雰囲気から、その痕跡らしきものをみつけて、主要な道筋を推定するという楽しみは難しい。
a0087378_6383448.jpg そこで、主要な交差点脇に建立され、道標として道行く人に行く先を教える役割を担う石造物に着目すれば、成川地区に「庚申の道標」が建つ。
 この石造物で、吉井田地区の道筋が見えやすくなるように思うのだが、この道標の紹介は見ない。半沢氏の「歴史地図」のメモによると、成川村は、上・中・下に分村されたということらしいので、その背景があるのかもしれないが、単なる散歩目的なので、この石造物を入れて整理する。
 文化13年(1816)9月14日建立。
 向かって右手に「右大もり」、左手に「西さんのう左ふくしま」が記される。


 この事から、この辺りからの主要な道筋は、「大森」へ向かう道筋と「土湯」に向かう道筋、それに「福島」に向かう道筋である事が分かる。a0087378_642282.jpg
 その中の道筋の一つ「西さんのう」が、「山王道」であり、これが「旧会津街道」、「旧土湯街道」と同義とみてよいのだろうと思う。
 そして、「左ふくしま」だが、この辺りの人々にとっては、北に延びるこの道筋が福島道なのだろうと思う。そこに地蔵堂が並ぶのは、そのためなのだろうと想像する。恐らく、この道筋を「現微湯街道」まで進んで、右に折れて旧道を進めば、先に整理した八木田橋の木橋を渡って、福島へ向かうという道筋になるのだろうと想像する。
 ここに、今まで確認した「六地蔵石幢」、「古三郎内供養塔(板碑)」、「八幡神社」の位置もプロットしておく。
by shingen1948 | 2013-09-26 06:43 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

吉倉の六地蔵石幢 ③

 経典読誦供養塔が、六地蔵石幢の形状になることが一般的なのか、地域性なのか、個別事例なのかどうかということについては、分からない。
a0087378_6212475.jpg 六地蔵石幢の形状については、案内板の解説では、六地蔵の概念で「「六地蔵菩薩は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天井)の輪廻から人々を救済するという信仰である」と説明する。
 散歩の中での六地蔵は、寺や集落の入り口に六体の地蔵を造立し、ムラを守護する願いが込められている風景であることが多い。一体で六地蔵とし、六道から人々を救済するというふうなのも見かける。
 ならば、この形状は、一本の石柱に六体を彫ることに簡素化されたものなのかな。

 最初に出会ったのが六角柱の上部に六体の地蔵を刻む六角石だったので、それに拘った見え方をしているが、あちこち見回せば、似たような形状でその呼称が違うものも見かける。「六角」の呼称が、「六面」であるという違いだけでなく、その六面を六地蔵ではなく、阿弥陀の種子や観音像とかかわらせる供養塔などもあるようだ。
 いずれにしても、六道とのかかわりかなとは思う。

 「六角石」を確認していく中で特に気になったのは、建立目的と建立時期と建立位置だが、こちらの石幢の建立目的と建立時期は推測できるが、建立位置は曖昧かな。
 石造物が、主要な交差点脇に建立され、道標として道行く人に行く先を教える役割を担うこととのかかわりだが、六角石の場合は「六角」という地名とのかかわりも気になったものだが、ここではその役割は感じない。
by shingen1948 | 2013-09-25 06:31 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

吉倉の六地蔵石幢②

a0087378_6404265.jpg 頭の片隅では、六角石にかかわるその周辺という概念整理をしているのだが、その前に、この建立目的にかかわる事について整理しておく。

 自分では読み取れなかったが、展示で、石塔には「奉読誦大乗妙典六百部供養」が刻まれているとの情報を得た。
 経典読誦供養塔は、大乗妙典や大般若経・光明真言などの経典を、一定回数読誦した記念に造立されるものらしい。

 ここでは、その経が「大乗妙典」という事になる。
 その大乗妙典は、本来的には、衆生を迷いから悟りの世界に導いてくれる教えである大乗仏教の教義を記した経典の全般を指すもののようだ。
 しかし、その教典全部を読誦したとは考えにくい。一般的には法華経、妙法蓮華経のことを指しているらしいということを考慮して、もっと通俗的に「妙法蓮華経」を600回唱えたことが、大乗妙典六百部読誦したのと同じ価値を持つものだとして、この記念を建てたのではないかなと勝手に想像する。
 勝手な想像ではあるが、全国的にも18世紀当初から先祖供養としてその造立がはじまるということで、大きな間違いはなさそう。この碑の建立時期が、享保13年(1728)とのことなので、当時としては、その全国的な流行傾向にのったナウい風景だったのかな。

 この唱える回数にこだわった供養手法は、宗派違いの供養ではあるが、先に整理した○○遍供養塔とも共通するようにも思うが、どうだろうか。
by shingen1948 | 2013-09-24 06:49 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

吉倉の六地蔵石幢

 ふれあい歴史館に出かけたのは、9月8日~30日まで、「地域の歴史・文化財展」が開かれるという案内に、「吉井田の六地蔵石幢」の写真が掲載されていたからだ。
a0087378_710042.jpg 
 この「石幢」は、実際には堰(馬川?)の傍らの民家入り口に建つ。
 半田氏の「歴史地図」にメモされる「願主本田惣内他・享保13年(1728)」も考慮して、読み取れるかどうか試したが表の中央に「奉」の字とその脇に「八?月」の字が、裏では、「本田」が読めるような気もするが、ちょっと難しいな。

a0087378_7162395.jpg この「六地蔵石幢」の案内柱は、今は倒されているが、「古三郎内供養塔(板碑)」の角の所に建っている。この吉倉の「六地蔵石幢」の側に建っているのではないので、探すのにちょっと苦労した。ここに建つ理由は分からないが、石幢について説明もある。ただ、そこに書かれる文字は殆ど消えている。それで、半田氏の「歴史地図」にメモされる「願主本田惣内他・享保13年(1728)」も考慮して類推読みをすればこんな感じの説明かな。
 「六地蔵菩薩は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天井)の輪廻から人々を救済するという信仰である。享保13年(1728)吉倉の本田惣内他……」というような解説記載なのだろうと想像する。
 展示される内容から新たな情報を探せば、「奉読誦大乗妙典六百部供養」□□願主……名」が読めたらしいこと。
 手持ち情報とこれらの情報を組み合わせると、この「吉倉の六地蔵石幢」は、高さ15m(笠石を含む)、直径35㎝の円柱の上部に六地蔵が刻まれたもの。その円柱の下部の中央には「奉読誦大乗妙典六百部供養」が記され、その左側に「享保13年○月」かな。そして、その裏に「願主本田惣内」と他の名があったということ。笠石と台座付きが特徴。

 さて、この展示は9月30日までだが、この歴史館自体も来月10月1日で閉じるのだとか。先に、遺跡として重要かどうかに関わらず、地域の文化財という視点から、困難な震災からそれを救出する話を見分したところだったが、ここは、単なる行政都合で、その意義が見いだせずに閉じる施設としたということなのだとか。
by shingen1948 | 2013-09-23 07:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「会津戊辰戦争」の新版は、「会津の処分」の項に、「容保二帝の殊恩に浴す」と「英照皇太后の御仁慈と松平家の光栄」が加わる。「会津の処分」の評価にかかわって、朝敵ではないとすることへの拘りだ。
 「二帝の殊恩」の一つは、孝明天皇とのかかわりであるが、もう一つが明治天皇とのかかわりで、こちらは便法のようにも見える。
 責めの死1等を減じたこととその理由のようだ。その理由で、先帝の信任殊遇(しゅぐう)を知らしめたことと、そこからその責めを御一身の不徳に帰したこと。そして、反逆の行動は容保公の意ではなく、他の首謀者であるとの論旨を下した事とする。

 「過激な転校生」の一人で、八重さんを鵺と評した徳富猪一郎(蘇峰)氏の白虎隊論が紹介されるのは、次の「英照皇太后の御仁慈と松平家の光栄」の中での事。
 この項の中心は、山川氏の会津会報に「明治26年、容保公の病気の時に、英照皇太后が、侍医を召し給い、供御(くご)の牛乳と上意があった」と伝えたことをもとにした評価だが、ここに、「徳富蘇峰の片言寸語」として、以下が挿入される。
 昨年4月徳富蘇峰氏自家の国民紙上に述べて曰く
 頃日(けいじつ)男爵山川健次郎博士より「会津白虎隊19士傳」を寄せ来る。この書は宗川松里君の原著を博士が補修したるもの。予は山川博士が、老来尚ほ白虎隊に喧々(けんけん)たるの志を諒(りょう)とするものだ。
 明治2.3年予が6.7歳の頃、肥薩の国境なる片田舎にあるや 会津肥後守(ひごのかみ)に上げたきものは白木の三宝に九寸五分の里謡(りよう)が、屢(しばしば)耳に入ったことを、今尚ほ記憶している。如何に会津が朝敵てふ評判を取ったかが、此れにて推察せらるる。
 併し勤皇の一事に於いては、史家の公平な眼孔から見れば、薩長も、会桑も、異同は無い。
 特に会津は、一藩を挙げて献身的に朝廷及び幕府のために奉仕した。そのことは孝明天皇の尤も(もっとも)御嘉賞(ごかしょう)あらせられたる所にして、天皇の松平肥後守容保に賜はりたる宸幹(しんかん)を拝見すれば、何人も之を否定することは能(あた)はぬであろう。
 会津は保科正之以来、勤皇の家柄だ。正之は山崎闇斎(やまざきかんさい)の学統を承(う)けたる一人にして、朝廷第一幕府第ニはその伝家(でんか)の建前であった。而(しか)してその戊辰の際に於いて、方向を誤りたるとはいへ、其の決して朝廷に弓を挽きたるものでなきことは弁明する丈野暮だ。
 会津の籠城は、会津一藩にとりては、大損失であった。されど、日本帝国の士気に取りては、寧ろ其の大損失をもて、償ふに餘ありと云わねばならぬ。其の中でも白虎隊の事は尤も壮烈にして、真に鬼神を泣かしむに足る。伊太利首相ムッソリーニ氏が、建碑(けんぴ)の擧(きょ)ありしと云うも寧ろ当然の事だ云々。
 と寸鐡(すんてつ)能(よ)く吾人の肺腑(はいふ)を貫く。之を著者の常に敬服するところなり。
 徳富猪一郎(蘇峰)氏は、昭和32年、94才まで達者で、転々とした生き様を示したようだが、その後半の姿勢かな。
by shingen1948 | 2013-09-22 07:49 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)
 今話の「過激な転校生」は、キリスト教信者であることで熊本で激しい迫害にあっていた熊本洋学校出身者。その結束の強さから、「熊本バンド」と呼ばれるようになっていたとか。
 その熊本バンドの不満が教育レベルで、その矛先が校長である襄に向けられる。しかし、駄目元で提出した同志社改革案が、すんなりと受け入れられたことで、襄の懐の深さに感服するという。
 こちらは襄氏の人間性で解決するのだが、八重さんとの関係も芳しくなかったようだ。
 徳富猪一郎(蘇峰)氏は、学生演説会の最中に、出席していた八重さんを前に演台から「頭と足は西洋で、胴体が日本のまるで鵺(ぬえ)のような女性がいる」と和洋折衷の奇妙な格好を非難したようだ。
 その非難は服装だけでなく、人力車に夫より先に乗り、夫を「ジョー」と呼ぶ西洋的な振る舞いに対する嫌悪感でもあったようだ。元々、その八重さんの行動は、京都の人々にも奇異の目で見られていたのだが、この熊本バンドにも受け入れられなかったということのようで、それでも信念を変えない八重さんの強さとみるべきかな。
 この八重さんとプライドの高い徳富猪一郎(蘇峰)氏が分かり合うのは襄氏の死後なのだとか。

 その徳富猪一郎(蘇峰)氏だが、この後、あちこちの学校を転々とするらしい。
 卒業はせずに、自由民権運動に参加して平民主義をうたうかと思いきや、日清戦争には一転して「好機到来」と大歓迎。日露戦争に至ると、強硬な国権論者に変貌を遂げるようだ。軍部・政治家と強く結び付き、内務省の参事官の頃には、「國民新聞」は桂太郎内閣の御用新聞と揶揄されたのだとか。
 この略歴を確認したのは、会津の逆賊にあらずの精神と白虎隊が、西軍だった政府軍の国権論者に利用されることになるのだと思っていることとかかわるようだからだ。
 「会津戊辰戦争」の新版には、この強硬な国権論者徳富猪一郎(蘇峰)氏の白虎隊論が紹介されている。

 ドラマの概要については、エキサイト「大河ドラマ 八重の桜」のページから、第37話「過激な転校生」の粗筋をお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga52/story_37.html
 「過激な転校生」
 襄(オダギリジョー)は八重(綾瀬はるか)との寝室にベッドを取り寄せた。初めてのベッドを見て訝しむ八重だったが、襄に進められるがままに横たわると寝心地の良さに感動する。翌朝、熟睡から目覚めた八重は、ベッドについて「良いものは良い」と言う襄の言葉に納得する。
ある日、英学校に熊本からの転校生が入学してきた。彼らは地元で激しい迫害にあっていたキリスト信者で、襄や八重には一向に心を開こうとせず、校内では問題行動を繰り返す。八重は、苦悩して心が折れそうな襄に、彼らの良い面だけを見るよう諭すのだった。

by shingen1948 | 2013-09-21 06:38 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)
 新地町の貝塚は、津波を避けて安全な高台を選択した結果との考察で、「水戸市大串貝塚」が縄文海進にともなう立地である事の違いはあるとのことだが、「新地町の手長明神社」と「水戸市大串貝塚」とを手長足長伝説で結んだ解説は印象深い。

 「水戸市大串貝塚」の手長足長伝説は「ダイダラボウ」なそうだ。
 日本の妖怪一覧を見ると、これとは別に「手長足長」の妖怪が解説されるようだが、これが、関東・中部地方の伝説で、東北の「手長足長」、岡山県の「サンボ太郎」、九州地方の「与五郎」・「みそ太郎」、沖縄県の「アーマンチュー」が同系列という見え方の中での考察と思われる。
 「ダイダラボウ」伝説と結びつけたいのは、このことによって時代が比定されるという特質があることによるらしい。
 大串貝塚がこの伝説として記録される「常陸國風土記」は、その完成時期は不明だが、和銅6年(713)諸国に風土記編集が命ぜられたのに伴う記録とされるのだとか。「大串貝塚ふけあい公園」パンフ「常陸國風土記と大串貝塚」に、その内容が紹介される。
 平津の駅家の西12里に岡あり。名を大串という。上古人あり。体は極めて長大く、身は丘壁の上に居ながら、手は海浜の蜃を摎りぬ。其の食いし貝、積聚(つも)りて岡と成りき。時の人、大朽の義を取りて、今は大櫛の岡という。其の践(ふみ)し跡は、長さ40余歩、広さ20余歩なり。尿の穴の径は、20余歩許なり。
 このことから、大串貝塚は世界で最も古い時代に記録の残る貝塚という意義もあるとのこと。この巨人伝説の正体である縄文時代前期(約5000年以前)に形成された貝塚であることが明かになるのは昭和初期の調査とのこと。

 この手長足長伝説が、新地町にもあるのだとか。
 昔鹿狼山に棲んでいた手長足長の明神が、東の海まで手を伸ばして海の貝を採り食べた貝殻を捨てたので、新地町には多くの貝塚が残っているという伝説らしい。
 大正13年以降東京帝国大学の調査で、地表50cmの下に70cmの厚さの貝塚が発見され、その下からも大量の特徴的土器が発掘されて、新地式土器と命名されているということで、ここでも、手長足長伝説と縄文時代に形成された貝塚とがかかわっているとのこと。
 ただし、こちらは東北地方の縄文後期後半の標式遺蹟となっているとのことだ(昭和5年に国指定史蹟)。
 また、この伝説が「常陸國風土記」の手長足長伝説のバリエーションであることは推定できるが、その時代が比定されるということでもなさそう。ただ、それより新しい時代である事は確かで、「海から数キロメートルも離れたところに貝殻が捨てられている意味を、奈良時代以降の人間は理解できなかったのである」ということの説得性はありそうだな。
by shingen1948 | 2013-09-20 11:36 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 見逃していたが、東松島の縄文人も、生活に便利な海辺より、安全な高台を選択したのではないかとする推論の情報があったようだ。
 「安全性認識か 貝塚、津波直撃免れる 東松島【河北新報(平成23/5/14)】」
 ほとんどの浜が津波に襲われた宮城県東松島市宮戸(宮戸島)で、縄文時代の国内最大規模の貝塚が密集する里浜が津波の直撃を免れた。内湾に面してやや高台にあり、専門家は縄文時代から災害に強い場所として認識され、古代人の定住を促したとみている。
 市によると、外洋の石巻湾に面する宮戸地区の室浜、大浜、月浜は津波の直撃を受け、全家屋の約9割に当たる計約130戸が流失。里浜は高さ約10メートルの高台にある家屋が多く、床下浸水となった家はあったものの、流された家は全117戸のうち4戸にとどまった。
 宮戸地区の奥松島縄文村歴史資料館によると、里浜は石巻湾と反対側に位置し、松島湾側からの波が浦戸諸島(塩釜市)にぶつかって威力が弱められたとみられ、「津波に対する里浜の優位性がうかがえる」という。
 宮戸地区と東松島市野蒜を結ぶ唯一の陸路が震災で途絶え、里浜は地区住民に食料や生活用品を供給する拠点として機能した。近くの旅館や民宿から、避難所となった宮戸小に毛布と食料が運び込まれた。
 記念館の岡村道雄名誉館長は「里浜は多くの縄文人が他の浜から移り住んだことを示す遺跡も見つかっている。津波のダメージが比較的少なく、生活の場として安定していたことをあらためて示したのではないか」と話している。
 感覚的には、今の海岸線を想像した単純な話として読んでしまう。
 しかし、海進や後退、気候変動や地殻変動等も考慮された上での話なのだろうと思う。また、情報の後半には、「縄文人が他の浜から移り住んだことを示す遺跡」等、縄文人の移動の話とも絡むら複雑な考察の結果ではあるらしい。(この移動については、製塩土器の類型などから、茨城の霞ヶ浦文明が松島湾に移動したとされる情報を見る)
 そして、今回の津波だけで、全ての津波について類推することの危うさを残しながらも、大筋として、津波が大変稀なケースであるにもかかわらず、それを前提として、日常生活の場が設定されていたと考察される。
 縄文人も、今回の津波でかかえる現代人選択の迷いと同じように悩んで、その上で出した結論ということなのだろうな。
by shingen1948 | 2013-09-19 06:10 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 今回の震災を通して学んだことの一つが、権力者と権威者は、科学という手法を、真理探究以外に使うこと。まずは自己都合に伴う自己主張があって、それを正当化するために、科学の手法を使うということだ。この時に、その道の専門家と称する科学の手法に長けた方に論理構成が依頼される。この科学の手法と権威づけによって、その自己主張が、あたかも真理であるかのような錯覚を与えるという効果をしたたかに狙う。そういう科学がある。
a0087378_5352581.jpg それで、震災以降は、とりあえず自分なりに確からしさを手探るのだが、今回新地町双子遺跡と津波のかかわりについては、「縄文・弥生時代における超巨大地震津波と社会・文化変動に関する予算-東日本大震災津波の地平から<東北歴史博物館研究紀要13>」に、津波にかかわる地層についての地道な積み重ねがあることが確認できる。そういえば、松川浦の津波の地層について報じられているのを見た事があるなと思い出す。

 その中で、「新地町双子遺跡」の層状と、三陸海岸~仙台平野~常磐海岸でみつかった古津波堆積層の層状と年代との考察から、これ等が同じ時代とみても概ね矛盾しないとある。
 その時代が、縄文時代後期(約4000~3000年前)中葉の一時期とのことで、この時代の地層中に津波の痕跡と思われる砂層(津波堆積物)が確認されているとのことだ。
 「新地町双子遺跡」のこの層と同じ時代の貝塚はきわめて少ないことを、当時起こった津波に流されて消失してしまった可能性と考えているらしい。
 そして、その後の時代の新地貝塚や三貫地貝塚が、内陸の高台に位置し、今回の東日本大震災でも津波の被害を受けなかったことにかかわる考察という事らしい。
 この事について、先の「福島県史料情報(2012年/33号)」の「災害の記憶を風化させない(本間宏氏)」では、次のように解説する。
 東日本大震災の被災地である太平洋沿岸では、高台への集落移転が進められています。その移転先の高台には、昔からなぜか縄文時代の遺跡があることで知られていました。
 温暖化で海が上昇する「縄文海進」では説明ができないほどの高さの地形に、海産を主体とする生活をしていた縄文人が拠点を持っていたことは、つい最近まで謎でした。「最近」というのは言うまでもなく、2011年の東日本大震災です。
 その後、津波との関連が指摘され、様々な説や遺跡などが発見、再発見されています。

 これで思い出したのが、奥松島で縄文後期の津波犠牲者かもしれない人骨を発見したというニュース。
 メモとして残してあるはずだと思って探すがみつからない。記憶をたどると、多分、今回の強烈な津波の情報の中、興味本位のメモをする自分を許さなかったように思う。
 ネット検索で、「縄文人骨 津波死の可能性~奥松島縄文村歴史資料館が発表・室浜貝塚発掘の9体」【河北新報((2012/10/27))】の記事をみつける。
 縄文人骨 津波死の可能性
 <奥松島縄文村歴史資料館が発表・室浜貝塚発掘の9体>
 【河北新報((2012/10/27))】
 東松島市の奥松島縄文村歴史資料館は26日、2010年度まで実施した室浜貝塚発掘調査で出土した9体の縄文人骨について「3500~3600年前と測定した」とした上で「いずれも埋葬の痕跡はなく、自然災害で死亡したとみられる。状況からすれば津波の可能性がある」と発表した。中間報告の段階だが、地形学研究者と連携し地質面での年代測定も進めており、今後の分析結果によっては国内最古の津波犠牲者の可能性も浮上してきた。
 人骨は、室浜漁港近くの標高10~20メートルにある室浜貝塚の上部や自然のくぼみから出土。胸部を除き、ほぼ全身が良好な状態で見つかった1体は40~50代だった。このほか、成人の女性が2体、4~5歳児が1体で、残りは性別や年代が判別できなかった。
 同館であった発表には、同館の菅原弘樹館長、地形学の観点から宮戸地区の災害履歴調査に当たる東北学院大地域構想学科の松本秀明教授、発掘調査に携わった元文化庁主任文化財調査官で同館の岡村道雄名誉館長らが出席。

 菅原館長は「出土した人骨は、貝塚などの地表で投げ出されたような格好で見つかった。さらに部分的にしか発見されない人骨も多い」とした上で「縄文時代は穴を掘って埋葬していたが、今回の人骨は不自然な状態だ。埋葬されずに死亡し、動物などにより骨が拡散したと考えられる」との見解を示した。
 その上で「人骨は全て年代が同時期だ。まだ解明すべき点はあるが、大規模な自然災害が発生した可能性がある」との見解を示した。
 岡村名誉館長も「通常はささくれだつ貝塚の表面が滑らかであり、波に洗われたような感じだ」と語り、「発掘当時の姿勢や、骨の欠損部分が多い状況では、埋葬したとは言えない。野ざらし状態で、まとまっての出土は、津波被災人骨と推定される」との見方を強めている。
 自然災害の可能性について、昨年から同館と連携し宮戸地区でボーリング調査を進める松本教授は「人骨に大きな損傷は見られず、土石流災害は考えにくい。砂礫(れき)層を複数確認しており、宮戸地区には少なくとも3100年以降に大津波が複数回襲来したと思われる」と述べた。
 また「今後は3500年前を焦点に、室浜と隣接する大浜地区を起点に測定し、年代を明らかにしたい。分析結果が出れば、津波被災の可能性がより高くなる」との判断を示した。
a0087378_5412761.jpg
 3500年前の巨大津波については、ことし3月に退官した元北海道大地球環境研究院の平川一臣氏が2月に出版された「科学」(岩波書店)で、調査した根室市から気仙沼市にかけて痕跡を確認したことを発表している。
 菅原館長は「災害とみられる縄文時代の人骨出土は、国内に類例がない。さらに分析を進め、来年3月には最終報告をしたい」と述べた。
  【室浜貝塚から出土した縄文時代の成人男性とみられる人骨=東松島市奥松島縄文村歴史資料館】

by shingen1948 | 2013-09-18 05:45 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)