人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

<   2013年 03月 ( 27 )   > この月の画像一覧

 海老名リンさんを確認しようとしたきっかは、「海老名リンさんがつくった幼稚園を出たんだよね」という家人のこの一言。自分よりも、家人が、自分の事をよりよく知っているという状況の落ち着きの悪さだ。
 「山本八重(楠戸義昭著)」の本も、購入したのは家人だ。それで記される内容を確認したという次第。

 この幼稚園の件についてもそうだが、よそに来たから見える事がある。
 会津では、私立幼稚園が主流で、公立の幼稚園はなかったと思う。今も同じかどうかは分からないが、そこにいる時には何処だってそうだとろうと思っていたところがある。
 ところが、そこを離れてみると、これって特殊なのだと気づくのだ。
 そうなった事情は、会津では公に幼児教育が整えられる前に、私立の幼稚園教育の確立があったのだろうと思っている。それで、公立幼稚園の設置が、それまでの幼稚園教育を崩壊してしまうことになりかねないという事情があったのではないかと推測している。
 真実はどうなのかは分からないが、その流れで自分も私立幼稚園を出ているのだ。その先駆けの方が海老名リンさんで、最初に記した家人の言葉についての思いにつながる。

 実家の父がこの日に大怪我をして、その見舞で出遅れて城に入れなかった事が、「山本八重(楠戸義昭著)」に紹介されているのだが、海老名リンさんの嫁ぎ先では、もっと大変な事が起きているようだ。
 この前の白河の関での戦いで、義理の父海老名李久氏が亡くなっているのだ。この白河の関での戦いは、守備の総大将は西郷頼母、副総督が横山主税で、義理の父である海老名李久氏が、軍事奉行の大役だったようだ。
 ここで、敗戦の責任をとって、副総督の横山主税氏と、軍事奉行である義理の父海老名李久氏が割腹自刃するという事になったようだ。
 「よそ見編Ⅱ」の夫海老名季昌氏が、軍事奉行添役、御前奉公職、若年寄を拝命する事になるのは、その一連の流れだろうかと思う。彼は、西軍が会津に入るの報で、家老職を命じられて、西出丸の守備責任者になったという経緯の中で、起きた出来事だったということだ。
 なお、ここの横山主税氏がⅡで整理した夫季昌氏の欧州遊学同行者という関係性でもあるようだ。
by shingen1948 | 2013-03-31 08:31 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)
 「よそ見編Ⅱ」で、海老名季昌氏の動向を整理しようとしている。その2として氏の妻である海老名リンさんを整理しようとしている。
a0087378_5423040.jpg この方は、「山本八重(楠戸義昭著)」では、門が閉まって城に入れなかった方として紹介されている。この夫海老名季昌氏は、ここでは以下のように紹介される。
 このリンの6歳年上の夫季昌(すえまさ)は、藩の俊才として前途を嘱望され、のちにパリ万博にも徳川昭武(あきたけ)に随行した人物である。この日彼は、若年寄としてわずかな少年・老年の兵を率いて鶴ヶ城の北出丸を守り、二日後に家老職に抜擢され、籠城線を指揮する一人となる。
 その藩重臣の妻であるリンが三の丸の埋門に達した時、すでに門は閉まっていて、頑として開けられる事はなかったとか。
 遅れた理由は、「20歳の海老名リン」は負傷した実父の日向新助を見舞っていて早鐘の音を聞いて、急いで家に帰った」ためと紹介し、その状況を以下のように描写される。
 「私は若年寄、海老名季昌の家内です」と叫んで開門を懇願したが相手にされず、「城には入れぬ、ぐずぐずせず、落ち延びよ」と馬上の武士に怒鳴り散らされた。重役の妻として、籠城して主君のために働こうとしたリンの気持ちは砕かれ、後ろ髪を引かれる思いで、会津高田へと逃げたのである。
 それで、確認したくなったのが海老名家の位置と、遅れた理由とかかわって海老名リンさんの御実家だ。
 御実家の方は、幕末の地図で確認すると直ぐに見つけられた。
 郭外ではあるが、三の丸の小田垣口の直ぐ前に「百石日向信助」宅が見える。「しん」の字が違うのだが、別資料に「嘉永2年小田垣に生まれる」をみる。ここを、現在の地図と重ね合わせると、三の丸の堀が陸上競技場の南側の道筋になっていて、その道筋が、陸上競技場と文化センター入り口付近からカーブを描き始めるのだが、ここが小田垣口であり、その道筋の南側に「百石日向信助」宅があったということのようだ。

 ただ、ここでは「実父の日向新助を見舞って」遅れたと描写されるが、別資料によると「8月23日戦で、父信介は大変な怪我をされ、病院に入院されておりました」というのをみる。それなら、その時点は、間瀬氏の時に整理した「慶応4年(1868)8月23日早朝、西軍が若松の城下に攻め込んで来た時点」と重なる。ここで、間瀬氏の整理では「城内から戻ってきた槍持ちの覚内に戦況を聞いてみると、戸ノ口原では味方の方が優勢で、敵を追い捲くっているということだった。
 ところが、突然早鐘が打ち鳴らされ、それからは大騒ぎとなった」と続く。
 ここで、リンさんは、実父信介氏が大変な怪我をして病院に運ばれたことを知らされたという状況だったという事なのだろうと思う。その想像された状況で読み返すと、その悔しさがより深く分かるような気がする。ただ、転勤族の方まで常詰の方が知らなかったという状況も。
 この入院された病院というのは、日新館に設置されたものかな?

 嫁ぎ先の海老名家の位置が分からないのは、海老名季昌氏の確認で、海老名氏が転勤族だからだというのは分かった。
 海老名家は、会津の常詰でないので応分の屋敷はないとのことだ。再掲になるが、生まれた頃は天寧寺の郭外に住んでいたが、父親が目付役となられて割場内に移られ、その後、空いていた山本家前の一柳家に移住しているところまで確認した。その後は会津を離れるが、安政6年に戻られるのは日新館の北側の御用屋敷らしい。
 ただ、慶応4年(1868)8月23日時点の海老名家の位置は今も分からない。
by shingen1948 | 2013-03-30 05:43 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)
 以下のように、平成25年2月17日(日)に、NHK福島放送局、NHK文化センター福島支社、会津若松市では、大河ドラマ「八重の桜」をテーマにした公開セミナーを開催している。この山村竜也を講師に迎えた公開セミナーを会津若松市が主催者に名を連ねる事に対して疑問的な情報はみていたが、確実な情報かどうかが分からなかった。
 http://yae-sakura.jp/drama/2656
 NHK公開セミナー大河ドラマ「八重の桜」
 NHK福島放送局、NHK文化センター福島支社、会津若松市では、大河ドラマ「八重の桜」をテーマにした公開セミナーを開催します。
 【日時】平成25年2月17日(日)14:00~15:30(開場 13:30)
 【会場】会津若松市文化センター 文化ホール(会津若松市城東町14-52)
 【主催】NHK福島放送局、NHK文化センター福島支社、会津若松市
 【演題】「新島八重と会津の女性たち」
 【講師】 山村竜也(歴史作家・大河ドラマ「八重の桜」時代考証担当)
 それが、今回地域の散策とのかかわりで川崎尚之助を追う経緯確認する中で、「歴史企画研究」のページにたどり着いたのだが、この情報の確からしさは高い事が分かった。
 ここに「会津若松市を愚弄したひとり、山村竜也が2013年NHK大河ドラマ「八重の桜」時代考証に選ばれた件」のページが整理されていたのだ。
 http://www.geocities.jp/you_funnyara/yamamura.html
 その趣旨は、山村竜也氏が「歴史王グランプリ2008まさか!の日本史雑学 クイズ100連発!」で、会津藩糞尿降伏説を唱えたのは事実であること。TBSは謝罪しているが、氏自身は謝罪したという経緯がないこと。それなのに、東北の復興を願って放映される「八重の桜」の時代考証に就任しているのは会津に対する侮辱ではないかというものだった。

 このクイズ番組については、先に「会津落城をめぐる<TBS>クイズ番組」として整理している
 http://kazenoshin.exblog.jp/6998730/
 この時には、会津若松市が抗議し、TBSがおわび放送をしたはずで、これを受け、会津藩主だった会津松平家の14代当主松平保久氏が市民らの抗議活動に感謝するメッセージを市に寄せたという経緯もあって落ち着いたはずだ。

 この「歴史企画研究」のページの批判の確からしさを確認すると、以下の2点で納得した。
① この番組は、2008年2月16日(土) 19:00~20:54の放送だが、その出演者のページが固定されている。その出演者は、田村亮・林家正蔵・松尾貴史・黒沢かずこ(森三中)・大島美幸(森三中)・山本モナ・如月音流・田村淳(ロンドンブーツ1号2号)・熊田曜子・千原ジュニア(千原兄弟)・真鍋かをり・ヒデ(ペナルティ)・西川史子・伊達みきお(サンドウィチマン)・冨澤たけし(サンドウィチマン)・假屋崎省吾・徳井義実(チュートリアル)・福田充徳(チュートリアル)・平沢勝栄(自民党)・真柴摩利・大鶴義丹・奈美悦子・久保純子・山本寛斎・富田耕生・大和田伸也・金谷俊一郎・山村竜也・市川春猿・蜂須賀ゆきこの各氏。
② もう一つ固定されるのは、歴史好きな方の「江戸文化歴史検定」というブログ。ここに、その番組の視聴記録として、問題内容とその結果が記事になっている。この時の優勝者は、假屋崎省吾氏だったらしい。注目は、そこに、山村竜也 氏(時代考証家・歴史作家)の役割が、コメンテーターであったことに驚いたとあることだ。

 あさくらゆう氏は、「これは会津に対する侮辱と言わざるを得ない」とする。
 それなのに、会津若松市は、講師に 山村竜也を迎えた公開セミナーの主催者に名を連ねているという事に違和感を覚えなければならないのだろうと思う。もっとも、別な見方をすれば、都会の文化人と称される方々の身の処し方の素早さの見事さともとれる。これも生きる力なら、そのしたたかさに感心もさせられる。
by shingen1948 | 2013-03-29 05:57 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)
 ドラマの概要については、エキサイト「大河ドラマ 八重の桜」のページから、第12話「蛤御門の戦い」の粗筋をお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga52/story_12.html
 「蛤御門の戦い」
 1864年7月、長州が洛中へ向けて兵を進め禁門の変(蛤御門の戦い)の火ぶたが切られた。慶喜(小泉孝太郎)や容保(綾野剛)が率いる幕府軍は序盤、劣勢を強いられるが、覚馬(西島秀俊)や大蔵(玉山鉄二)らの活躍と西郷隆盛(吉川晃司)ら薩摩藩の援護もあり形勢を返し勝利を収める。しかし、覚馬は爆裂により眼部に深手を負い、焼け野原と化した都の惨状に心を痛める。会津では、戦況を案ずる八重(綾瀬はるか)が、開戦直前に覚馬から手紙で勧められた尚之助(長谷川博己)との縁談に心を悩ませていた。
 a0087378_6253735.jpg地域の散策とのかかわりで、八重家族が、戊辰戦争後に一時山形県米沢市に滞在していたことが、明かになったのは昨年である事については先に記した。報道によると、元会津図書館長の野口信一さんの調査で、明治4年の旧北会津郡役所「各府県出稼戸籍簿」に、山本家が2筆に分かれて記載されているのを見つけたことが、そのきっかけらしい。
 これは、昭和元年若松市役所を経て会津図書館に移管された資料だとか。
 その一家が、「山本権八妻、娵、孫娘、伯母」の4人分で、それぞれ辛未(明治4年)時点での年齢が記されるとか。娵(嫁)は覚馬の妻うら、孫娘は覚馬の娘みねのこと。 そして、もう一家が、「川崎尚之助妻 辛未二七」で、川崎尚之助妻=八重だ。この二家が「羽前国米沢県管内・城下・内藤新一郎方出稼」と記されていたとか。
 この時点では、上杉家と松平家は近しい関係という事等から、出稼ぎ先がこの内藤の可能性は高いという推定の段階だったようだが、今話とのかかわりで興味深いのは、既にこの時点で、八重の初夫川崎尚之助が会津藩士であったことを証明する文書は見つかっているようだということ。
 報道の後半に、川崎尚之助が会津藩士になっていたことが明らかになったのも、そのちょっと前の事らしいことが記される。その資料が、「御近習分限帳」という慶応年間に書かれた会津藩士の石高や役職を記したものらしい。
 結婚を機に会津藩士になれたということなのだろうと推定するらしい。このことは、戊辰戦争後の八重との離婚理由が、川崎尚之助が会津藩士でなかったからという通説が覆るということでもあるらしい。

 そういう見方でドラマをみれば、この結婚の理由が覚馬の勧めをスタートにしている。興味は、ここからどう心情的に展開するのかということと共に、覚馬の思惑や離婚理由をどう結びつけて構築するのかなということも。更には、ドラマでは、山本家に米沢藩士内藤新一郎氏は、登場するのかなということにも興味は引っ張られる。
 〇 戊辰戦争後「米沢」へ出稼ぎ? 新島八重。野口さん調査【福島民報(2011/11/26 )】
 〇 新島八重 米沢に足跡<空白の4年間>~戸籍に出稼ぎ記録~若松で新資料を発見【福島民友(2011/11/25)】
 なお、今話視聴率は、13.9%とのこと。
by shingen1948 | 2013-03-28 06:30 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)
 昔は、最も単純で美しいものが、科学的には真理に近いというようなことを教わったものだが、最近は、真理は複雑怪奇なものという主張を目にすることが多くなったような気がする。
 東京電力の原発事故で、これほどの被害を出したのだから、原発をゼロにしようと考えるのは当たり前だと思うのは、古い考えらしい。

 事故当時、混乱の中で反論する余裕のない福島に入られた経済界や商業界のトップの方が、「原発を止めたままでは日本の経済が立ちいかない」とのたまった。経済破綻のリスクは、原発事故のリスクより大きいというのが真理だという論法に、自己中心のエゴを感じたものだった。福島で見える原発事故のリスクは、単に人間界の範囲を越えて、地球全体にかかわるリスクであることが見えたからだと思う。
 経済破綻のリスクは、どうみても人間界の範囲を越えるはずもなく、地球全体にかかわるリスクよりも大きいはずがない。

 ところが、現実には、平成25年3月の時点で、安倍首相が福島の地で「安全が確認された原発は再稼働」と述べるというところまで進んできているということだ。
 福島の地の1月の時点を確認すると、安倍首相が他所で「原発ゼロ」を踏襲しない考えの浸透を加速させていて、東京電力は、新組織「福島復興本社」を通して、原発にかかわる直接の地元と関係改善を図るという状況だった。
 これに関して、福島県知事は、年頭の記者会見で政府や東京電力に県内の原発の廃炉を求める考えを改めて示していた。また、自民党福島県連は、「ふくしま復興本部(仮称)」を設置し、県内原発全基廃炉を盛り込んだ県内版公約実現に向け党本部へ働きかけるとしていた。
 確かに、まだ福島県内の廃炉が決まっていない福島県内の東京電力第一原発の5、6号機と、東京電力第2原発1~4号機の話であって、全国の原発の話ではない。
 確認したいのは、この時点では、全国の原発の件については曖昧にしておきたいという思惑が感じられるという状態だったということだ。
 それが、平成25年3月の時点では、わざわざ首相が福島に来て、「安全が確認された原発は再稼働」すると明確に宣言したということだ。
 この背景には、2月4日の時点の毎日新聞世論調査では、54%がこの方針を支持していることがあるのだろうと思う。
 福島県民の「民主党政権がだらしないから、自民党への期待が高まった」とのいい訳の中で、この課題のこれからは、命を実感していない経済人、政治家、マスコミ人、学者文化人、原子力ムラの方々の手にわたる。 そして、全国的な視野で原発再稼動、新増設、核燃料サイクルという原発推進が息を吹き返すというのが、これからの道筋になるのだろうと思う。 

 東京電力の福島県内の原発の話も確認しておきたい。
 福島県内の東京電力原発の状況は、全てが廃炉に決まったと思いがちだが、法的に廃止されるのは第1原発の1~4号機のみだ。第一原発の5、6号機と、第2原発1~4号機は、まだ震災による停止中であって、その今後については、東京電力は「未定」としたままだ。そこに、【毎日新聞(2013/1/1)】の「原発交付金頼みの人件費情報」を見ている。楢葉町が94%・大熊町が67%・富岡町が63%・双葉町が45%だとか。
 東京電力福島第1原発の直接的な地元が大熊町・双葉町で、福島第2原発の直接の地元が楢葉町と一部富岡町かな。
 この状況の流れをみれば、東京電力の福島県内の原発が、このまますんなりと廃炉になるとは思えない。

※ 2013/3/27修正
by shingen1948 | 2013-03-27 05:30 | ★ 季節便り | Comments(2)
 福島で、安倍首相が「安全が確認されれた原発は再稼働」と述べたという情報に関して、【毎日新聞(2013/3/25)】の朝刊地方版を確認してみると、記事の内容は変わりないが、その見出しが違う。
 【大阪朝刊】では、「安倍首相:『風評払拭実行する』 福島で農家など視察」で、【東京朝刊】が、「安倍首相:福島視察 『政府が風評対策』 原発再稼働『安全確保し判断』」となっている。大きな違いは、【大阪朝刊】の見出しでは、原発再稼働「安全確保し判断」にはふれない事。意図的かどうかは知らないが、少なくとも、風評対策に比べれば、その関心は低いという判断なのだろうとは思う。
 以下のように、記事の内容としてはかわらない。
 安倍晋三首相は24日、東京電力福島第1原発事故に伴う避難区域が再編される福島県浪江、富岡両町や、風評被害に苦しむ同県郡山市の農家などを視察した。首相は「政治の仕事は風評を払拭(ふっしょく)していくことだ。(対策を)しっかりと政策にし実行する」と記者団に述べ、政府として総合的な風評被害対策に取り組む考えを示した。
 原発の再稼働については「低廉で安定的な電力の供給がないと復興もなかなか難しいという中で、総合的に判断していきたい」と述べ、「安全が確認された原発は再稼働」の政府方針を繰り返した。
 富岡町は25日付、浪江町は4月1日付で帰還困難区域、居住制限区域、避難指示解除準備区域に再編される。【飼手勇介】
 ネット上では検索できないが、福島県内紙では、大見出しが「首相『政府が風評対策』」で、小見出しが「原発再稼働『安全確保し判断』」。
 その記事内容は、視察の内容が具体的になる。
 首相は、郡山市の野菜農家や畜産農家を訪ね、地元産のなめこ汁やステーキなどを試食。「クレームがすごくて自分達で除染した」という農園経営者を「従業員の職を守って本当によく頑張って頂いた」と激励した。
津波で流された車や倒壊家屋が残る富岡町の旧警戒地域では、「いよいよ(より自由な)一時帰宅が可能になる。復興を加速させていくために全力を尽くしたい」と語った。
 「安全が確認された原発は再稼働」ということに関しては、「一方で、首相は原発の再稼働に関しては記者団に」と前置きした上で、「『低廉で安定的な電力の供給がないと復興もなかなか難しいという中で、総合的に判断していきたい』と述べ、『安全が確認された原発は再稼働』の政府方針を繰り返した。」という部分が挿入される。
 福島の関心は、①首相『政府が風評対策』②安倍首相:福島視察が大きく、「安全が確認された原発は再稼働」にも関心はなくはないというような判断かなと思う。
 しかし、自分は、福島版の対象者なのだが、「安倍首相は、低廉で安定的な電力の供給源としての原発再稼働方針に変わりない」ということで、首相は<平成25年3月の頃>には、「フクシマはすでに過去の出来事」とされることが一番の興味あること。
※ 安倍首相:「風評払拭実行する」 福島で農家など視察【毎日新聞 <2013/3/25大阪朝刊>】
  http://mainichi.jp/area/news/20130325ddn002010017000c.html
※ 安倍首相:福島視察 「政府が風評対策」 原発再稼働「安全確保し判断」【毎日新聞 <2013/3/25東京朝刊>】 
  http://mainichi.jp/select/news/20130325ddm002010084000c.html

※ 2013/3/27修正
by shingen1948 | 2013-03-26 05:20 | ★ 季節便り | Comments(0)
a0087378_5331696.jpg 「覚馬伝」等で、保守的な会津にあって、その母佐久が合理的で先取りの気性に富んだ方であることのエピソードに、種痘の話がある。
 「この恐ろしい病気を免れるには、江戸で行われている種痘しかない」とある。多分、これが、緒方洪庵が、治療費を取らず牛痘法の実験台になることを患者に頼み、私財を投じて牛痘法の普及活動を行ったことと対応するのだろうか。この牛痘法が日本で本格的に普及するのは、嘉永2年(1849)佐賀藩がワクチンを輸入して以降とのこと。
 「闇はわれを阻まず~山本覚馬伝(鈴木由紀子)」では、以下のように紹介する。
 
「種痘なんかしたら、みすみす命を落とすようなもんだ」
 そうした噂が広がって、領民ばかりでなく、藩士のかぞくですら尻込みした。佐久は城下の女性達に種痘の効用を説いて周り八重と三郎に率先して種痘を受けさせた。
 そのうちに越後で疱瘡が大流行し、またたく間に会津領内でも蔓延しだした。次々と感染して多くの人が命を落とし、失明やあばたの後遺症に苦しむ者が相次いだ。
 この時、佐久の説得で種痘を受けた者はみな感染を免れた。佐久の主張は見事に実証されたのである。 人々は、その勇気と先見の明にあらためて驚嘆し、賢婦人と言う評判は城下に知れ渡った。
 海老名季昌氏は、割場から弘化2年(1845)の山本家の前に越してくるのだが、実は、その少し前に疱瘡にかかって、その後遺症で歩行が困難になっている。佐久さんは、それを目の当たりにしているのではないかと想像する。
 季昌氏は、「病状が極めて重く死線をさまよったと聞きました。父上様母上様大変心配され手厚い看病のお陰で死を免れたということです」とある。
 佐久さんとの明かな関係性は、嘉永元年(1848)に、6歳になった季昌氏は山本家で学問を始めるということだ。しかし、彼女は、おおらかな性格で貧乏暮しを苦にもせず、困っている人を放っておけずに世話をするという方のようだ。先の「山本覚馬伝」では、覚馬の従5位追贈記念会の席上、西隣りの水島氏が、「先生のお宅は賓客の多いお宅でありました」と述懐している事を紹介する。
 ならば、越して来たばかりのお向かいの海老名家を放っておけるはずもなく、この種痘のエピソードには、季昌氏の存在が寄与しているのではないかとの勝手な想像を膨らませる。

 海老名季昌氏は、大河「獅子の時代」の平沼銑次(菅原文太)のモデルだとされる。また、若松市は、県内最初の市制施行だが、これに尽力した若松町長として知られるらしい。元治元年(1864)には、京都勤番として上洛し、蛤御門の戦いでも活躍して御使番、大砲組頭と出世していくが、今回のドラマには登場していない。
by shingen1948 | 2013-03-25 06:50 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)
 ドラマ第11話「守護職を討て!」とかかわる海老名季昌氏の動向については、本編視聴記録として整理した。
 この方を追ってみると、通説とされる中心的な見え方ではなく、やや斜めから見る見え方ができる。よそ見を大切にしたい散歩人にとっては、このことが面白い。会津常詰でない場合、会津に応分の屋敷はないというのも、この方の確認の中で知った事だ。
 この方の誕生<天保14年(1843)>地が天寧寺町で、武家屋敷内ではなのも、当時の海老名家が相州警備担当だったからという事らしい。
a0087378_5403363.jpg 弘化元年(1844)に、父親が御目付役になると郭内に移るのだが、応分の屋敷はないので割場内に住む事になるらしい。三歳の頃というから弘化3年(1846)だろうか、米代4ノ丁一柳某の旧屋敷を拝領して移住するとか。
 それで、幕末の地図で米代4ノ丁一柳某の旧屋敷を探せば、何と八重さんの家の道を挟んだお向かいさんに「一柳幾馬(250石)」が見える。多分、ここだろうと思って確かめて行くと、嘉永元年(1848)6歳の頃に、初めて真向かいの山本様に頼んで学問を始めたとある。
 ドラマでは描かれていなかったが、その師が八重の祖父か父かは分からないが私塾を開いていたのかな。
 八重は、弘化2年(1845)11月の誕生との事なので、この時3歳の赤ちゃん、覚馬と八重は17歳違いということなので、この時覚馬兄さんは、20歳。覚馬の2歳下に長女がいらっしゃるとのことで、この方が18歳というのが、ドラマの家族構成に加えての情報かな。
 ついでに、八重の母親左久さんが、文化7年(1810)生まれとのことなので、この時38歳。左久さんが17歳の時、婿養子に入るのが八重の父権八氏だが、左久さんの一つ年上との事で、39歳かな。この権八氏の御実家を幕末の地図で確認すると山本家の2軒置いた西斜め向かえの「永岡権之助(150石)」。そして、その西側が「角場」になっているらしい。

 この時の海老名季昌氏だが、この方は後には日新館の厳しい進級段階にも優秀な成績で素読所・講釈所を通過卒業される。その最初の基礎の学問に関わったのが、山本家ということになるらしい。
 ただ、情報としてのエピソードは、ある日、この方が「孝経」を持って山本家の先生の処へ行って、本を開いてみたら、漢字ばかり並んでいたので気を失ってしまったというもの。家に抱えて送ってこられたとか。
 よそ見好きの散歩人が気になるのは、送ってくれたのはどなたかなという、普通にはどうでもいいことかな。
by shingen1948 | 2013-03-24 06:59 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)
 ドラマでは、八重の弟三郎が京都行きを志願し、父権八に反対されても挑み続ける弟が描かれる。会津の中での京都動向とかかわる一つの動きだろうか。
 会津藩の京都動向とかかわる今回のドラマでは描かれない別の動きもあるようだ。
 例えば、「獅子の時代」の海老名季昌氏が上洛するのもこの頃らしいのだが、氏はこの頃まで北蝦夷地の警備と探検に関わっている。そこから、京都勤番を命じられて、会津を経由して上洛するらしい。
 ドラマでは、「池田屋事件」の責任をとるという理由つけで、秋月悌次郎が蝦夷地代官に左遷されてしまうように描かれる。この一般的な見方は、会津藩は身分意識が強く、身分の低い者が重用されることを嫌う風潮があったらしいこととのかかわりで捉えられるらしい。悌次郎は、家老横山主税に認められ、京都で外交交渉役に抜擢されたが、身分は低かったからだ。

 ただ、海老名季昌氏の動向を追えば、必ずしもそういう見方だけが正しいとも思えなくなる。
 季昌氏は、元治元年(1864)に京都勤番になるまで、文久元年(1861)から、父季久が蝦夷地(今の北海道)の軍事奉行になったため、共に渡海している。
 警備の本拠地箱館郊外戸切地を基点に、新たに北蝦夷地の警備を確実なものにするため、サハリンまでの探査と標津陣屋の建設を行っているのだ。更には、氏は蛤御門の変後、欧州遊学の命がくだって横山主税と共に、遊学に出かけるのだが、途中パリで山川大蔵、田中茂手木と出会っている。
 その注目は、この時の大蔵氏等は、幕府の樺太境界議定に参加してロシア入りし、その帰路のパリで季昌氏等に出会ったという状況だったという事らしいことだ。山川は、元々は攘夷論者だったが、この洋行によって西欧の情勢を見分した結果、見方を変えたともいわれているらしい。

 歴史に疎い者にとっても、確かに会津藩にとっての政局の表舞台は京都ではあったろうとは思う。しかし、今にもつながる北蝦夷地の確実な仕事ぶりも、会津藩にとって大切な役割だったのではないかとも思うのだ。それなら、そちらの仕事に回された事が左遷という範疇に入るものかどうかは分からない事とも思う。
 要は、会津藩は、多くの重要な仕事を抱え込みすぎていたという事が大切な視点なのではないのかなと勝手に思うのが、どうだろうか。

 政局の中心地京都でも、無理が重なっているようだ。
 この時、容保公の病は重く、食物も通らず衰弱が甚だしく、主治医も手をこまぬく状態だったらしい。それで、京都守護職の辞任を申し出るのだが、辞任は許されなかった。
 幕府にとっては、会津が京都から去らせるわけにはいかなかった。軍事力をもつということは勿論だが、孝明天皇の信任が厚いということがその理由らしい。のっぴきならない状態に追い込まれるその理由が、信任が厚いということであることが皮肉な運命とも見える。
 今も残る長州への恨みも、この信任が厚い事を裏切れない風土的な道徳心で、西国のように都会的にふるまえないこととかかわっているようにも思う。
 それにしても、前話が文久3年6月5日の池田屋事件で、以後の長州進発を踏まえて、佐久間象山暗殺事件が、その7月だ。次話の「蛤御門の変」は7月17日の出来事。ドラマでは、その間をゆっくり描いていく。

 エキサイト「大河ドラマ 八重の桜」のページから、第11話「守護職を討て!」の粗筋をお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga52/story_11.html
 「守護職を討て!」
 容保(綾野剛)たちは都で長州軍の脅威にさらされていた。会津では、八重(綾瀬はるか)の弟・三郎(工藤阿須加)が、突然、都へ派遣される部隊へ志願して権八(松重豊)から激怒される。その頃、都では象山(奥田瑛二)が尊皇攘夷派の不逞浪士に暗殺され、覚馬(西島秀俊)は悲嘆する。そして、偵察により長州が容保の首をねらっていることを知った覚馬はさらに怒りを募らせていく。
 第11話 の関東の視聴率は、やや持ち直したものの14.3%だったとか。災害にかかわる友好関係を結ぶのに、同じ県内のF市では、その相手に拘ることなくさらりとニュースが流れる。これも土地柄。
by shingen1948 | 2013-03-22 05:47 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)
 「福島市史」近世Ⅱでは、福島市内の寄寓先として、「北沢又金福寺住僧」として、「南沢又の光徳寺」・「中町の塩沢無涯」・「常光寺」などをあげる。ネットに流れる「女川町誌」の情報では、「布教の拠点ともいうべき家は女川では補陀閣、南沢又では光徳寺、北沢又は不明、福島駅では塩沢家、差塩では松崎家、亀岡では山木家、 斯様な家々を拠点として行脚と布教に一生を捧げた人である」とする。

 「女川町誌」の情報では布教の拠点から外しているが、常光寺とのかかわりは調査されているらしい。
 常光寺門前に、都会風の立派な等身大の碑が建てられ、掃除も行届いていることを確認しているらしい。更には、弟子の塩沢無涯によって、ここにも分骨されているらしいことが確認されているようだ。
 その碑は、「都会風の等身大の碑」とのことだ。
a0087378_912435.jpg この碑はそれよりは小ぶりだと思うが、「五○○遍照独国大和尚 禅○」が読み取れる。
 「福島市史」近世Ⅱの「五台独国」解説にある「北沢又の川寒金福寺跡地蔵堂停の和尚碑は、「五台遍照独国大和尚」と大書した石塔があり」とある。このことから「五台遍照独国大和尚」にかかわる石塔は、この碑であろうことを想像する。
 福島側の情報では、この寺を寄寓先とすることとかかわりありそうにイメージするが、女川の情報では、そのことには触れない。また、ここの石塔については、地元の方の信仰によるものではなく、弟子の塩沢無涯氏にかかわる方々の信仰心と見えたようにも読み取れる。
 いずれにしても、散歩の中では見過ごしてしまう石塔類の一つ一つに、それぞれの願いが込められているという事は確認できるかな。
by shingen1948 | 2013-03-21 09:03 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)