地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

<   2011年 12月 ( 30 )   > この月の画像一覧

 この伏拝舟繋ぎ石ともビッタラ石ともいわれる石を確かめにきたのは、9月だった。この傍にある案内柱は、この石を次のように紹介する。
a0087378_5454694.jpg
 伏拝舟繋ぎ石
 むかし、ヤマトタケルノミコト、東夷征伐のとき此の石に舟を繋いだという。土地の人はビッタラ石といっている。


 確かめたかったのは、この石自体ではない。共楽公園の「さいで地蔵」を確かめた時に、気になったのが、お舟に乗っていらっしゃらなかったことだ。この「さいで地蔵」様というのは、大概、お舟に乗っていらっしゃるようなのだ。

 このお地蔵さまにかかわる情報によると、ここに落ち着くまでに、2度ほどお引越しをされたそうだ。
 その最初の場所は、杉妻のどこからしいが、よく分からない。それで、最初の引っ越し先が、もし、この場所あたりだとすれば、と勝手な思いがあったのだ。このお舟の忘れものが、この伝説の石と結びついたら面白いと勝手に想像してみたのだ。
 実際に見てみると、直接結びつけるには、ちょっと大き過ぎのような気がするという他愛もない話。

 家に戻って、ちょっと残念と思いながら、整理したはずの共楽公園の「さいで地蔵」を探したが、見つからない。ひょっとすると整理していなかったのかもしれないと気付くのはしばらく探した後だった。
 この「さいで地蔵」にかかわる写真を確認してみたら、震災2日前の3月9日頃のようなのだ。ということは、整理したつもりになっていただけで、今回の震災でぶっ飛んでいたということのようなのだ。
a0087378_6226100.jpg
 とりあえず、共楽公園の「さいで地蔵」様の写真もここに張り付けておく。台の船石は引っ越しで置き忘れたのではなく、欠けてしまったということなのだろうと想像しなおす。
 案内板がなけれは、これが「さいで地蔵」様だということには気づかないのではと、どうでもいいような余計な心配をする。
 写真を見ていて、手前に写る石がその舟石にあたるのかなとも思えてくるが、よくは分からない。
 
[PR]
by shingen1948 | 2011-12-31 06:10 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

散歩の写真を眺めて

 例年なら、今年一年どんなことがあったのかなと振り返るところだが、なかなかそういう気分にもなれない。振り返ったところで、震災と原発事故以外は小さな出来事でしかない。
 そんな気分の中だが、散歩の写真を眺めて、意識から消えていく小さなことを拾ってとどめておこうとはしている。
a0087378_5235135.jpg
 これは、仁井田館周辺を散歩していて、祠のある風景を写したのだが、見直すと祠前の石柱が気になる。
 そんなことはないと思いつつ、勝手な想像が浮かぶ。
 六角石は「造られた当時の形は六角形の石柱の上部に細長い穴を六面に彫り六地蔵を安置し頂上に笠を置いた「笠塔婆型六地蔵」であったらしく通称六角石と言って伝えられてきました。」とのことだ。
 もし、その中の「細長い穴を六面に彫り六地蔵を安置した」部分が欠落したことをイメージしたらこうならないかと勝手なたわごと。楽しみは自由ということで、……。

 こちらは、八幡寺の「さいで地蔵」様。
a0087378_5255436.jpg
 先に「さいで地蔵」について整理した時に頂いた情報の中に、八幡寺にも「さいで地蔵」がいらっしゃるというのが頭にあった。それで、飯坂散歩の途中で立ち寄った時に、これを撮らせていただいた。ただ、情報をもう一度確認したら、こちらは新しいお地蔵様で、これとは別に、昔、パルセ飯坂付近にあった石に刻まれた「さいで地蔵」様もこちらだとか。こちらは、後で確認させていただこう。
[PR]
by shingen1948 | 2011-12-30 05:30 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

余目村の道路元標確認

 「下飯坂の六角石」を確認したのは、下飯坂の「舘」を確認した時だった。
 これを見つけたのは、「下飯坂の六角石」が、ずっと気になっていたからということもあるが、他所見の効用ということもある。
 主たる思いの方を整理して、それとかかわらないことを省いていることが多い。しかし、その省略した方も結構楽しんでいる。他所事を楽しむのも散歩のコツの一つだと思っている。

 館を確かめる少し前に、震災で崩れた本を片づけの手伝いをしたのだが、ここでも他所見をしていて、「奥の細道」にかかわる資料を見つけた。その資料には、この舘近くの飯坂道にかかわる記述があって、この六角石も記載されていた。これが、頭の片隅にあったということもある。

 この時に、もう一つの他所見があった。
a0087378_5112737.jpg
 余目村の道路元標を確認したことだ。
 明治22年、信夫郡下飯坂村、宮代村、沖高村、北矢野目村、南矢野目村等が合併で、信夫郡余目村になる。そして、昭和29年3月31日、福島市に編入されるという経緯をたどる。


a0087378_5124986.jpg
 この道路元標は、小学校の塀の側にある。
 「信達ニ郡村誌」では、信夫郡余目村合併前の「下飯坂村」、「宮代村」、「沖高村」、「北矢野目村」、「南矢野目村」が記述される。そちらを確認すると、散歩で休んだ貴船神社は、沖高村の村社で、熊野神社は下飯坂村の村社と言う事だったらしいことが分かる。飯坂古道の道筋も気になる。
a0087378_5142867.jpg 写真を確認していくと、これが7月末の風景ということだ。この時期に、この小学校は除染作業中だったことが分かる。
 そういう意味では、これは、季節便りということでもある。
[PR]
by shingen1948 | 2011-12-29 05:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 先に、それまで見つけた六角石については、「奥の細道を探る⑤~六角石(宮代一丁田)」で概観している。これは、この「宮代一丁田の六角石」には六角石についての案内板が建っていたからだ。六角石についてはいろいろな解説をみるが、本当のところは分からない。
 宮代一丁田の六角石
 この碑は「笠塔婆」といわれる供養塔の一種で鎌倉時代に造られたものとされています。
かつて奥州平泉の藤原氏全盛の頃清衡公が中尊寺を中心に白河の関から外浜(青森)まで路すじに一町毎に「笠塔婆」を建立したと伝えられていますが、吾妻鏡によればその一つではないかといわれています。それと同じものと言われているものに宮代日枝神社境内や渡辺墓地の北さらに平野字六角の六角石などがあります。
 造られた当時の形は六角形の石柱の上部に細長い穴を六面に彫り六地蔵を安置し頂上に笠を置いた「笠塔婆型六地蔵」であったらしく通称六角石と言って伝えられてきました。しかし、造られた年代も不明であり同種のものも少ないため、確証が得られないままですが、近隣近郷の人や道行く人々は香華をたむけて無病息災旅の安全などを祈願したものと考えられ、俳聖芭蕉もこの塔の傍らを通ったものと思われます。

 この付近の六角石は、平野にある六角石、六角にある六角石、宮代日枝神社の六角石、渡辺墓地の六角石とある。
 その中の渡辺墓地の六角石は、自分にとっては幻の六角石でもあった。渡辺墓地付近に六角石があったことは確実らしいのだが、それがなかなかみつからなかったのだ。
a0087378_6214894.jpg
 その六角石をみつけた。
 実際にみつけたところは、瀬上から河岸段丘を下って飯坂に向かう道筋だ。

a0087378_623858.jpg
 なかなか見つからなかったのは、木の陰になって道筋からは見えにくかったためのようだ。

 この六角石、「渡辺墓地の六角石」とすると、河岸段丘上のイメージが強くなる。それよりは飯坂に下る道筋という感じだ。それに、地区名も下飯坂だ。
 「渡辺墓地の六角石」としていたのを、「下飯坂の六角石」と修正したい。

 この時点で、「平野にある六角石」の「東の六角石」は確認している記憶はあるが、「西の六角石」の確認はその後かもしれない。残念なのは、平野の東の六角石の上部がかけて、その脇に置かれた状態になっていることだ。興味深いのは、ここに掲げたこの付近の六角石は石質形状共に同質のものということだ。他でも六角石は見かけているが、同質のものではない。
[PR]
by shingen1948 | 2011-12-28 06:24 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(4)

ノートルダム修道院解体

 散歩の中で気になった建物を、「福島の建物」として少しずつ整理してきたところだった。その建物が、今回の震災ではかなりダメージを受けて、破壊されたり、解体されたりしている。
 その建物とは全く無縁な者だが、意識の中では景観の一部としてそれらの建物は存在する。関係者には迷惑なことかもしれないが、勝手に残念な思いをいだく。
 先に、ノートルダム修道院解体の情報を得て、いくつかの建物への思いを整理した。a0087378_528810.jpg
 先日、図書館に出かけた時に、実際にそのノートルダム寺院が解体されているのを見かけた。
 
 実際に消し去る瞬間を目にすると、歴史的建築物として何かを問い掛けてくるような気がするのは、第三者である無責任な立場だからなのかもしれないとも思う。


a0087378_5354427.jpg
 白黒になっているのは古い安物のカメラを電池切れで使用した影響で、調整が回復しなかった状態のため。この解体の様子を撮ったのは、12月半ば。

 旧ノートルダム修道院の歴史は、昭和7年(1932)カナダのコングレガシオン・ド・ノートルダム修道会が福島市に5人の修道女を派遣したことにはじまるようだが、勝手に残念な思いをいだくのは建物にかかわる歴史的なことの方だ。


a0087378_68381.jpg
 まずは、建物の創建にかかわることだ。
 この建物は、国内のキリスト教建築物を数多く手掛けていたチェコ人のヤン・ヨセフ・スワガーが設計し、横浜市の関工務店が設計した洋風のゴシック建築で、昭和10年(1935)に完成したとのこと。散歩人としての興味は、これが当時花園町名にかかわる程の地域自慢の建物だったらしいということ。
 
 その二が、戦争とかかわって過酷な環境を強いられる歴史を刻んでいることとのかかわりだ。
 第2次世界大戦中に、ドイツ船に捕獲された外国民間人140人を収容する抑留所にあてられたことは有名。その時に修道女は会津に追われているという背景があり、戦後は、東京の戦災孤児を受け入れるなどとのかかわりがあったとも聞く。

 その三が、立ち寄った著名人とのかかわりだ。
 この修道院には「奇跡の人」とたたえられたヘレン・ケラーも訪れている。戦前の初来日時に市内で行われた講演では、県内各地から詰め掛けた人たちを感動させたとのこと。この時の様子の聞き伝えを修道院の方が熱く語るのを聞かせていただいた。このヘレン・ケラーが署名した来訪者名簿も戦争で押収されたと聞く。
[PR]
by shingen1948 | 2011-12-27 06:12 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)

保原城

 梁川城を確認するためにいろい検索していたら、伊達市広報の「ふる里再発見」というコーナーに、「保原城跡の地籍図」が紹介されているのを見つけた。地籍図の水路と水田を染めて保原城の堀跡がイメージできるようになっている。
a0087378_5372611.jpg
 保原城は、かつては周囲を水堀に囲まれ、内部を土塁で曲輪に区切っていたと聞く。しかし、現況は、市街化によって遺構は消滅し、城ノ内などの地名に痕跡を残すものの、その面影をとどめない。
 他所者の散歩人にとっての手掛かりは、交差点横の中野病院の脇にある保原城跡の標柱と、公民館の位置が保原陣屋跡という情報ぐらいしかない。

 その情報で、この「保原城跡の地籍図」を見るが、位置関係が分からない。この解説から位置情報を拾うと「保原地区の旧保原町役場跡地周辺は、保原城という城跡」としかない。「ア」「イ」の地点から掘跡の痕跡が見つかったとあるが、これがどの辺りかは分からない。
 いろいろ確認してみると、他所者には無理だが、地元の方にとっては、これでイメージできる事が分かる。最近まで「元木溜井」という水田の灌漑溜池が残されていたらしいのだ。これが青で染められた堀に重なるのではないかと想像できるらしいのだ。
 更に、地元の方は、廃城後、本丸跡は畑地になり、堀跡の大半は水田になったという情報を持っている。

 他所者の散歩人は、そこに下保原村絵図の資料から情報を拾う。柵で囲まれているのが保原陣屋の北東隅から北に「溜井」が伸びていることをつかみ、公民館の位置が保原陣屋跡という情報を重ねる。そうすることで、青で染められた堀の南が、保原陣屋跡であり、現公民館だと想像することができる。
 この想像は、「保原地区の旧保原町役場跡地周辺は、保原城という城跡でした」ということと、中野病院の脇に保原城跡の標柱が建つことと矛盾がない。

 現公民館と村役場跡の境界線が保原陣屋の東側ラインと重なるらしい。また、「元木溜井」の「元木」の字名を地図で確認すると、その辺りが北側のラインかと思えてくる。そして、この辺りを歩いた感覚から、地籍図の南側の堀跡が現陣屋通りで、郭Ⅰと郭Ⅱの境界線が、現幼稚園付近か地図にみえる水路付近という想像を加えてイメージする。

 先の散歩で整理したイメージの誤りに気づく。
[PR]
by shingen1948 | 2011-12-26 05:43 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)
a0087378_553588.jpg
 少し時間がたって、見直すのに結構役立つのが、どう報じられたかと言う事。今回報じられたことを確認しておく。

<b>梁川城跡周辺に遺構 寺院か武家屋敷跡【福島民報(2011/12/09)】

a0087378_5465723.jpg  伊達市の県指定史跡・梁川城本丸跡の北東部分から、新たに鎌倉時代から室町時代にかけて造られた寺院か武家屋敷跡とみられる遺構が8日までに発見された。青磁盤などの出土品も確認され、位の高い人が利用していたこともうかがえる。市教委によると本丸跡や周辺の寺院などとの位置関係を考えると、当時、梁川城周辺は東北屈指の町並みがあったことも想定できる重要な発見となった。
 梁川城は中世伊達氏の本拠地の城として、室町時代から使われていた。「独眼竜政宗」の先祖である伊達家の当主らが住み、町並みを形成してきた。
 今回は、梁川城本丸の北東200メートル部分の範囲や遺構確認のため、11月から調査してきた。
しっかりとした柱穴が多数見つかり、約60メートル四方に区画されていたことから、寺院か武家屋敷とみられる建物があったことが分かった。
 このことから、梁川城本丸や八幡神社、輪王寺跡、東昌寺跡などの遺構と合わせると、かなり広い範囲で町並みがつくられていたこととなり、伊達氏が力を入れていたことが分かるという。市教委は11日午後1時半から現地説明会を開く。駐車場は梁川プールか、やながわ希望の森公園へ。問い合わせは市教委 電話024(577)3245へ。

a0087378_5522168.jpg
 
a0087378_624577.jpg
 ついでに、今回梁川城現地説明会に参加して、整理するのに確認していく中で、曖昧なままだが気になっていることを記しておく。
 今回頂いた資料の宮城県図書館が所蔵する「梁川絵図」に神尾舘があって、ちょっと気になって「神尾氏」を確認するが、よく分からない。多分地元では直ぐに思い当たる方なのだろう。他所者の素人は勝手な想像を膨らます。
 資料は見失っているが、見かけた次のような解説と、この神尾氏とかかわるのかなと、……。
 代々の亀岡八幡宮神主は菅野氏で、伊達氏に従ってきたとされる。菅野氏は梁川天神社の神官も兼務していた。現梁川中学校の南側に神官菅野氏の古い墓地があり、この付近に菅野家の初期のころの屋敷があったと思われる。江戸期も引続き菅野神尾が梁川八幡の大宮司職を全うし、明治に至っている。ただし江戸中期に菅野氏は苗字が関根に替った。

 気になっているのは、この中の「菅野神尾」という部分だ。

 伊達市広報に「ふる里再発見」というコーナーがある。そのコーナーに現梁川中学校「茶臼山北遺跡」について以下のように紹介されているのも見かける。
 発掘調査の結果、伊達氏の主要な家臣や血縁者の屋敷、それらに付属するお堂などが存在したことが分かってきています。出土した「かわらけ」から、この遺跡では、武家の儀式が執り行われた可能性も考えられます。守護館となる梁川城跡本丸東側にこのような武家屋敷群やこれに伴う仏堂などが展開した姿が明らかになりつつあります。

 今回の発掘調査とのかかわりでは、この「守護館となる梁川城跡本丸東側にこのような武家屋敷群やこれに伴う仏堂などが展開した姿が明らかになりつつあります。」ということが、より確実性を増したということなのだろうと思う。

 気になることとかかわるのは、「茶臼山北遺跡は、発掘調査の結果、伊達氏の主要な家臣や血縁者の屋敷、それらに付属するお堂などが存在したことが分かってきています」とした後半の紹介だ。
 その「伊達氏の主要な家臣や血縁者の屋敷」とのかかわりを、「伊達の城」の「茶臼山北遺跡」にプロットされる「須田長炭塚」が常栄寺跡を推定する根拠で、その主要な家臣にかかわるのが、「神宮菅野家廟所」なのだろうと勝手な想像を膨らませている。他所者は、その「神宮菅野家廟所」ということと気になっていることが結びつかないかなと勝手な思いをいだく。
[PR]
by shingen1948 | 2011-12-24 06:04 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
 予定よりちょっとはやめに着いたので、説明会の前に本丸庭園に立ち寄った。案内板によると、「本丸跡では発掘調査が行われており、主殿跡など建物の遺構を25棟の他に井戸、石敷き中国銭や陶器なども出土しており、伊達氏時代の居館が確認されました。」とある。
a0087378_4222133.jpg
 その発掘調査が行われた本丸跡の資料が、今年9月伊達市文化講演会に出かけた時に頂いた「伊達の城」に、この「梁川城本丸庭園建物配置図」が載っていた。

 ここは、先に「梁川城④」として整理しているのだが、その時点ではこの資料のイメージは持ち合わせていなかった。
 ここに、福島県立博物館「 戦国の群雄 梁川城本丸・庭園跡(復元模型)」として展示されているという復元模型をイメージを重ねる。
 伊達氏の本拠であった梁川城(伊達郡梁川町)を発掘調査した結果、屋敷や馬屋と思われる複数の建物跡や池をともなう庭園跡が発見されました。この梁川城の時代に、伊達稙宗は陸奥国守護となり、また有名な分国法塵芥集を制定したといわれます。
 ただ、どうでもいいことだが、伊達稙宗が陸奥国守護となって、分国法塵芥集を制定したのは西山城だとの主張を聞いたこともある。

 梁川城は、概括的には伊達氏、蒲生氏、上杉氏、そして、近世の代官所としての歴史を刻むが、伊達氏の館というのが今回の発掘調査とのかかわりだ。
 伊達氏の時代の本丸のイメージも、9代政宗あたりの期、11代持宗あたりの期、12代成宗あたりの期、13代尚宗あたりの期、そして、この14代稙宗の期があるようだ。
a0087378_425024.jpg 
 伊達氏の館として、ここ心字池を含む本丸と北三の丸屋敷とその東側に続く平場、茶臼山北遺跡侍屋敷あたりを想定するのだろうか。そして、本丸東南の東昌寺跡の後ろにそびえる茶臼山館が詰めの城だろうか。
 その中の心字池は新しい時代であり、北三の丸の現況のイメージは、伊達氏以降のものなのかもしれない。
 今回の調査は、そんな中の茶臼山北遺跡侍屋敷から続き、北三の丸屋敷の「東側に続く平場」付近の調査だったということになるのだろう。
[PR]
by shingen1948 | 2011-12-23 05:20 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
 「しっかりとした柱穴が多数見つかったという状況」にかかわる説明があったのは、5番目の試掘の所。
a0087378_640289.jpg

 なお、手前左隅が粘土の部分。柱を建てるのに、その土台部分に粘土を張り付ける場合もあるとか。かかわるものやらないものやら、……。
 「しっかりとした柱穴」というのは、その大きさらしい。

 5番目の試掘の所から6.7.8の試掘が並ぶ方向(西側)を眺める。
a0087378_6421898.jpg

6番目
a0087378_6441376.jpg

7番目 カラーで無くなるのは、この辺りでデジカメのバッテリーが少なくなってきたため。
a0087378_783146.jpg
 気になるのは、小石群と溝。
8番目
a0087378_6491531.jpg
 これが、約60メートル四方に区画されていたところから、しっかりとした柱穴が多数見つかって、寺院か武家屋敷とみられる建物があったことが分かったとされる現場ということのようだ。

 ここは、梁川城本丸の北東200メートルの地点だ。
 この調査結果と、梁川城本丸や八幡神社、輪王寺跡、東昌寺跡などの遺構と合わせて、伊達氏が力を入れた町並みをイメージするようだ。
 
 古い遺構は、新しい大きな改変によって失われることを考慮すれば、その改変は西、北に向かって進められたらしいことも考慮してイメージすることになるのだろうか。
[PR]
by shingen1948 | 2011-12-22 07:04 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
 武家屋敷跡か寺院跡と想定する根拠の一つに、「比較的区画規模が大きい」とされることとがあげられている。説明会では聞き逃したが、「福島民報」記事中には、「約60メートル四方に区画」とある。その大きさは、地籍図をもとに調査対象区とした範囲とほぼ同じ大きさだ。
a0087378_5455591.jpg
 ここが、その調査区の南西隅の地点だ。そこから、発掘調査の行われている方向を眺めている。地籍図の水路の折れ曲がりを感じているが、地図でこの地点を検索して、その付近の航空写真を眺めると、このことに実感が伴う。

a0087378_5471221.jpg  そのこととかかわるのが、堀跡が出土したとされこの調査地点だろうか。
 白線でその堀跡が示されている。
a0087378_5482798.jpg その西側に、この堀跡の詳細が堀上げられている。この試掘の大きさは8m程度ではあるが、この状況と地籍図、それに実際の地形等から、住宅が立ち並ぶ裏道の道筋に沿って、それと平行に東西に走っていると想像を膨らませた状況が読み取れる。
 この堀が、先の調査地点南西隅まで続いているということなのだろう。


a0087378_5512575.jpg
 散歩を楽しむ者にとっては、このことから見え方が変わる。この調査区まで来たこの住宅が立ち並ぶ道筋を裏道とみていたのだが、裏道などというものではなく、この道筋が、元々の道筋で、地籍図にある道筋はこちらなのではないかと勝手な転換が起きている。


a0087378_553240.jpg
 これは、その隣の試掘の様子だが、立て札がある白線で記された所が、検出遺構ということのようだ。
 広めの土抗は、確かめられてはいないが、井戸が想像されているらしい。
[PR]
by shingen1948 | 2011-12-21 05:53 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)