地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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 芭蕉翁が切り取った「奥の細道」のフレームがある。子規は、そのフレームをもとに、汽車を使って子規なりのフレームを重ねとっている。
 その福島から桑折までのフレームについて確認してみたところだが、この前のフレームが、本宮から二本松までになる。

 芭蕉の「奥の細道」では、浅香から黒塚、そして福島宿は、点の描写でとばしている。この描写を忠実に追うということであれば、郡山から二本松までとばせるはずだが、子規は本宮駅から歩き始め、ここを2日かけて歩いている。
 22日に本宮駅に降りた子規は、遠藤菓翁を訪問して一泊する。そして、23日に黒塚を訪ね、阿武隈川河畔の茶屋で休み、満福寺を訪れている。
 このフレームでは、芭蕉翁が訪ねた処という視点と、人との交流という2つの視点があるように感じている。
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 芭蕉が訪れた黒塚ということでは、先に「芭蕉の足跡:黒塚を訪ねる」として整理している。子規もここを訪ねたということでしかないが、この整理時には子規を意識していなかった。


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 子規もまた、黒塚を訪れた後、鬼の住家と聞いて観世寺を訪れている。
 我々と同じように、若干の賽銭を投じて境内を案内されて、縁起の説明などを受けているようだ。
 「奥の細道」では、ここは「黒塚の岩屋一見し」と表現されるだけだが、子規は「安達ケ原 鬼婆」の伝説まで描写している。
 各石に丁寧な案内板が建ち、よく分かるのだが、昔のようにその雰囲気を感じたり、味わったりはできにくくなっている。


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 子規は、その場の雰囲気を味わいながら次の三句を記す。

木下闇あゝら涼しやおそろしや
黒塚や傘にむらがる夏の蜂
涼しさや聞けば昔は鬼の家


 その中の「涼しさや聞けば昔は鬼の家」が、子規の句碑として建立される。


 子規が訪れたことを視点に、整理しなおしてみた。 
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by shingen1948 | 2010-11-30 05:35 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 今年の飯坂の散歩は、どこかで芭蕉翁を追う「正岡子規」を意識していたのだが、別のカテゴリーで整理されている。「もう一つの奥の細道」の観点から「芭蕉の足跡」のカテゴリーでも見直せるように整理し直している。
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 飯坂の老舗旅館「花水館」とともに消える風景を確認しておきたいと思って整理した「滝の湯」温泉だが、子規が訪れた時期は、ここを飯坂温泉の中心地にしようとする時期と重なる。
 花水館が、滝の湯に移ったと思われるのが、明治20年から明治22年の間だと思われるというのは、「花菱屋」から「花水館」に改めるのが、明治20年のようなのだ。明治22年には、今までの花菱屋を中村屋旅館に譲っているわけだから、角屋、枡屋、花水館の老舗が、滝の湯を中心とした温泉街を構築していたと思われるのだ。正岡子規が飯坂に来るのは、明治26年(1888年)なので、ここが飯坂の老舗旅館が立ち並ぶ温泉街の中心地になっていたと思われるということだ。
 〇 ふくしまの建築42~花水館⑤「滝の湯温泉」③
 〇 福島の建築42~花水館④「滝の湯温泉」②
 〇 福島の建築42~花水館③「滝の湯温泉」
 〇 ふくしまの建築42~花水館②「不易と流行」(※ これは、湯町の風景として、先に整理し直している。)
 〇 ふくしまの建築42~花水館

 〇 飯坂温泉:「滝の湯温泉」④と若葉町
 〇 飯坂温泉:「滝の湯温泉」③
 〇 飯坂温泉:「滝の湯温泉」②
 〇 飯坂温泉:「滝の湯温泉」:「桝屋」
 これ等は、子規が十綱橋まで散歩した時に見た飯坂側の風景とかかわる。

 この温泉街を構築し直そうという動きのきっかけは、明治21年(1888)4月の大火だったようだ。
 湯町から出火した火は、西風にあおられて、湯沢・十綱町に延焼し、飯坂の風景を一変させているようだ。この時に鯖湖湯も焼失しているらしい。
 湯町の中核となる鯖湖湯も再建されるのが、明治22年(1889)だ。鯖湖神社が建立されるのは、明治24年(1891)という事だ。子規は、これら新築されたばかりの風景を見ていたと想像される。
 「福島の建築 32」で鯖湖湯を整理する時に、子規についてふれないが、頭の中では明治26年夏を意識してはいる。
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by shingen1948 | 2010-11-28 05:22 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 「飯坂温泉史」で紹介される湯沢の温泉旅館は、中村屋旅館・高野屋旅館・枡谷旅館・掘江屋旅館・油屋旅館・中村旅館だ。
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 この中で地図にある旅館とかかわりそうなのが、「油ヤ」・「ホリエヤ」・「マスヤ」「タカノヤ」・「中村屋」だ。それと、「トウタユ」・「サバコユ」とあるのが、共同浴場の「鯖湖湯」と「透達湯」だ。
 現在の「鯖湖湯」周りの景色としてかかわりそうなのが、「ホリエヤ」・「中村屋」、そして「中シマヤ」だろうか。

 現在の「ほりえや」という木造3階建ての渋い建物の旅館が、明治15年創業だ。温泉史の「掘江屋旅館」とかかわる可能性が高い。昔からの外観をそのままに残しているように想像される。

 その向かいの旅館「中村屋」は漆喰のずっしりとしたレトロな建物だが、これが、「飯坂温泉史」の「中村屋旅館」か「中村旅館」と思われる。ここもそのままの風景だったようだ。
白壁土藏造り3館建ての中村屋の建物は、元禄元年(1688)創業の「花菱屋」旅館の建物で、明治22年(1889)に土湯からここに移ってきた中村屋が買い取ったもので、当時、モダンな建物として有名だったとか。
 先に、これが花水館の原形であることを中心に「ふくしまの建築42~花水館②『不易と流行』」として整理した。
 旅館中村屋としては「福島の建築 30 」で整理した。
 鯖湖湯近辺の旅館については、「福島の建築 31」で整理した。
 これらを整理するときには、明治26年夏をイメージしていた。この中村屋と掘江屋旅館の建物を土台に、当時の旅館の位置関係を加えて風景をイメージすることで、子規が見た風景を想像する。
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by shingen1948 | 2010-11-27 06:13 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 鯖湖湯前の子規の句碑を整理したつもりでいたのは、最近飯坂を散歩する時には、何となく明治26年夏を意識していた。古い建物や風景に出会ったり、出来事を確かめたりした時の基準をこの子規来福より先か後かを確認していたように思う。
 飯坂の散歩の整理の視点は違っていても、どこかに子規が見た風景とのかかわりを意識していたのだ。
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 とりあえずは、「鯖湖湯前の子規の句碑」の写真を張り付ける。
 与謝野晶子と一緒の句碑というのは、意図的なのか偶然なのかは分からない。
 多分、子規が知ったらいい気持ちはしないだろうなと思う。「坂の上の雲」のホームページには、与謝野鉄幹と子規との対立について取り上げている。
 今回の「はてい知らずの記」を追う散歩の延長線上には、仙台の「南山閣」がある。子規は、そこに友人鮎貝槐園を訪ねるのだが、その鮎貝槐園と与謝野鉄幹は一緒に旅をしていたと言われているらしい。ただ、この時に与謝野鉄幹とはすれ違っているとも聞く。

 その「はて知らずの記」によると、子規は文知摺観音までで体調を崩し、炎熱に堪へられずに人力車で飯坂温泉にやってくる。
 着いた旅宿については、その宿の庭前に今を盛りと山吹が咲き出していたということしか分からない。
 
 山吹のみな月とこそ見えにけれ

 湯に入ろうと外に出ると、雨が降り出していた。「はて知らずの記」には、その浴場が2箇所あったと記されている。それで、これが湯沢の共同浴場であったことがわかる。
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 「浴場は2か所ある」とした湯が、当時の「鯖湖湯」と「透達湯」だ。温泉神社を挟んで南側が「鯖湖湯」だった。現在足湯になっているあたりだ。現在共同浴場「鯖湖湯」と称されている湯が、当時は「透達湯」だった。

 子規が訪れた時には、位置的には現在の足湯の場所に「鯖湖湯」があった。建物としては、現在の「鯖湖湯」と同じ形だった。この改築が、明治22年(1889)とのことなので、子規が来る4年前だ。 この建物を、我々は目にしている。これが取り壊されて、旧「透達湯」の所に、今の「鯖湖湯」が建て替えられたのだ。

 子規は、鯖湖湯に入ったとされるが、本当は「鯖湖湯」か「透達湯」のどちらかは明らかではない。ただ、子規は新し好きだったと想像し、「透達湯」は、主として地元民が入っていたのではないかと考えられることがあって、旧鯖湖湯の方を選んだのではないだろうかと想像するだけだ。

 風呂は、かなり混んでいて、芋洗い状態だったらしい。岩代国飯阪温泉三句が、記録されている。
 夕立の下に迷ふや温泉の煙
 夕立や人声こもる温泉の烟
 夕立や人声おこる温泉の烟

 「はて知らずの記」も子規の句碑も、そこから次の一句選んで記したということのようだ。

 夕立や人声こもる温泉の煙
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by shingen1948 | 2010-11-26 05:27 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 子規が鉄道を活用するということで区切った福島駅から桑折駅の間のフレームを中心に散策してみて、本当はすっきりしていないことがある。
 それは、「涼しさや瀧ほどばしる家のあひ」とかかわることだ。
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 今のところ、これがその滝だろうという事について、「『家のあひ』よりほとばしる滝を求めて」として整理した。その句にかかわる句碑が、飯坂ガラス館にあるという資料がある。それで、その周りを確認してみたが、まだ見当たらないでいる。


 その他の子規の句碑については、子規の足取りを追う中で確認して整理していると思っていた。次の3カ所だ。
 ○ 「信夫文知摺」
 ○ 飯坂「鯖湖湯」
 ○ 「葛の松原」茶屋前
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 確かめてみると、句碑を意識しているのは、「信夫文知摺」だけだった。「葛の松原」茶屋前の句碑も一応は取り上げていたが、よく見えない。正面からの写真を張り付けておく。「鯖湖湯」については、新たに書き加えることにする。


 子規が、福島宿から信夫山に向かい、信夫山公園で詠んだ句は、紹介されているものをみない。景色の方が大きく変質しているせいかもしれない。
 信夫山公園についての句は、「「もう一つの奥の細道」⑭~「信夫(忍)の里」⑤ 」の整理の中で扱った。
 青田の畦道づたいに信夫山をめざすようだが、その信夫山へ向かう途中の風景とかかわる様子については「「坂の上の雲」⑤~子規と福島」で整理した。
 青田ありて又家居ありまちはずれ
 笛の音の涼しう更くる野道かな
 

 散歩でてこずったのは、この中の「極楽と地獄」と称した景色の確認だった。 
公園は山麓やや高き処にありて監獄署と相並び立てるは、地獄極楽の双幅を並べ懸けたる心地す。

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by shingen1948 | 2010-11-25 06:24 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
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 子規が極楽と称した「信夫山公園」は、「信夫山公園碑」によると、明治7年に官有地を借りて、県内初の公園として開設されたという。その管理は、福島県から信夫全町村、福島村と転々としていた。
 それが、子規が訪ねた明治26年に、都市公園第1号の[信夫山公園]となって、福島町が管理するようになったということのようだ。
 「信夫山公園」に出向く意識には、「しのぶ」を確かめるという意識も強いとは思うが、この「新たな事」への興味もあったのではないかと思う。
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 その信夫山公園の向かいには、明治12年に官祭信夫山招魂社として、現在の護国神社が鎮座し、その隣には、古くから黒沼神社が鎮座している。(写真は、4月末の花見の頃の護国神社の様子)


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 今もある老舗のおでん屋の創立時期を確認すると、明治23年で、子規が訪ねる3年前だ。

 子規は、公園から酒を飲んで言い争う声を聞いている。その出来事は、その料理屋から聞こえたのではないかと想像したのだ。「『坂の上の雲』⑤~子規と福島」で整理した時に、酒を飲んで言い争う声が聞こえてきた方向を予測したのは、そのことが頭にあった。

 なお、この酒に酔った人は、景色を眺める様子もない人達だったので、子規は月の光は自分にだけ降り注いできたといい、信夫山からの夜景を一人じめできたといっている。

 公園に旅人ひとり涼みけり
 見下ろせば月に涼しや四千軒


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 この公園にたどり着くのに頼りにしたり、福島の町を眺めた時のライティングであったりする月明りを確認すると、かなり明るかったと思われる。
 計算上は満月近い月齢12だったようだ。

 この公園の常夜塔は、安永4年との事で、子規が来た時には、ここに灯がともっていたのだろうか。

 
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by shingen1948 | 2010-11-24 06:22 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 文学を専門とする方は、文知摺観音を訪れた事が福島俳句紀行中の子規の中心と捉え、信夫山に立ち寄ったことについてはそれほど着目しないようだ。
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 例えば「正岡子規の福島俳句紀行」では、「福島の旅籠に泊まり『見下ろせば月に凉しや四千軒』と詠んだ。」として、信夫山に立ち寄ったことを省略して表記する。
 しかし、「見下ろせば月に凉しや四千軒」は、信夫山公園から月明りで実際に見た景色として捉えている。散策をするものにとっては、実際に眼にしている風景ということが重要な事だと思っている。
 この「四千軒」という表現に、たったそれだけという「さびれた」風景を感じるのは同じだが、その解釈に違いが出てくる。このさびれた感じを、子規の故郷に比べたさびれとすることに抵抗があるのだ。
 全国有数の養蚕業が盛んで、金融的にも相当に経済状況が動いているのに、それでも四千軒しかないという事ではないかと思うのだ。

 この地は大火からの復興を意識していたという事を、子規が感じていたかどうか分からない。しかし、近代化という大きなうねりの中で、この地が整備され始まっていると言う事について、肌で感じていることは分かる。この地が、当時中心的地位にあった養蚕業の伝統的な生産地である事も知っているはずだ。
 少し後の時期になるが、近代化のうねりは、福島監獄署・日銀などの結構大きなものが仙台より早くやってきているという状況にあったことも考慮すべきだと思っている。

 子規の来福の時期、その割にこじんまりしていたのは、養蚕業が伝統的に盛んだったために家内工業的な組織ががっちりと固まってしまっていたからのようなのだ。そのために、近代工業化がやや遅れた状態にあったということのようだ。
 確かに、新しく近代的な設備を整えるという点では遅れてしまっている状態だ。しかし、考え方を変えてみれば、近代工業化しなくてもこの時代の日本有数の生産に間に合う程、家内工業的な組織が確立されていたということでもある。
 子規が感じた「さびれ」は、そういったこの地の変遷にかかわる感覚なのではなかったかと思うのだが、どうだろう。

 もう一つ見逃せないのが、芭蕉は「忍を求めて」文知摺観音に立ち寄るが、子規は「忍を求めて」信夫山に登り、それから文知摺観音に立ち寄っているということだ。しかも、ここでの子規には、神尾氏とかかわろうとしたような旧派宗匠とかかわろういう雑念が無いということもある。
 子規は、当地についての認識は芭蕉よりも深いのではと考えるのは、言い過ぎだろうか。
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by shingen1948 | 2010-11-23 05:48 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 子規の来福した明治26年夏には、2本の信夫山に向かう道が整備されていたはずだ。その1本は、信夫山公園へ通じる道で、もう一本が福島監獄署へ向かう道だ。
 どちらも、地元では自慢の地点だったはずだ。
 信夫山公園は、県内初の都市公園であり、福島監獄署は、仙台に先駆けて完成した西洋式建物であり、地域の近代的な水道施設に貢献した設備の整った施設でもある。博覧会資料にも紹介される自慢の施設だ。
 県庁からその象徴的な施設に向かう道路が整備されたということだ。その周りの施設を確認すると、かなり後の建物のようだ。
 子規が、福島の町から畦道伝いに信夫山に向かうように描く田園風景のイメージが納得できる。

 山裾にたどり着いた子規は、満月に近い月明かりで見えたこの監獄署と公園が相並ぶ景色を、地獄と極楽の掛け軸を並べて懸けたようだと描写する。
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 信夫山を訪れた子規を、芭蕉翁を追う子規という視点でとらえれば、「文知摺観音」の信夫を深めるということである。しかし、子規には、その芭蕉翁を近代的な象徴である鉄道を使って追うという姿勢もある。
 その視点で見れば、子規の好奇心は、当時都市公園としては珍しい信夫山公園に向かうということではなかったかと勝手に想像する。
 山際までたどり着いて見上げると、左手に地獄、右手に極楽にたとえられる近代化の象徴を捉えたのではないかと思っている。
 地獄の福島監獄署は、「明治の洋風建設~福島県西洋造の記録と研究(草野和夫著)」に東北博覧会に掲示されたる写真が載っている。
 特に目を引くのが既決監棟だ。
 中心に八角形の三階建て監視塔があって、そこから監房棟が4棟、四方に放射状に配置されるという「西洋造り十字型真棟3階建」の建物だ。これが、北奥の高台に建っていたようだ。
 その西側手前に二階建て十字型の未決監棟の建物が配されている。その東側に、平屋建ての西洋造の女監、既決監の両棟が配される。更にその手前に、7棟の工業場や教講堂、人民控所平面所をはじめとする尋常造り(和風)が配置されている。
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by shingen1948 | 2010-11-22 09:34 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 昨日、「坂の上の雲」の再放送を少し見た。最近、一度見たことのあるものでも、新鮮に見られるようになってきている。物忘れという言い方をする人もいるが、現象を積極的に受けとめる。

 その中に、1883年(明治16年)に秋山真之が松山中学を中退して上京する場面がある。近代化された風景に驚き戸惑う姿を、実写のフイルムと重ねて表現されるのだが、その中で、大量の人力車と荷車が動き回っている実写の風景があった。
 明治26年は、そこに描かれた近代化の波が、片田舎のこの福島にも押し寄せてき始めた時代だったらしい。
 福島史資料叢書の新聞記事をめくると、明治25年12月時点の駅前の荷車と人力車の数が出ている。人力車は1918両で、荷車13822両ということだ。これは、子規が福島にやってきた前年なので、数は多少違うだろうが、駅前は、かなりの賑わいではあったようだ。
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 ただ、この時点では、「はてしらずの記」で近代化の象徴的な風景とした「鉄道の線は地皮を縫い、電信の網は空中に張るの今日」というところまではいっていない。
 福島の電灯は、明治28年9月営業開始であり、常夜灯は、明治30年という事だ。電話開通は、明治40年だ。
 子規が福島駅に降り立った時、駅前の道は立派に開通して、その道のむこう端には新しく警察署が新築されていた。しかし、「電信の網は空中に張る」という近代化の象徴である電信柱と電線という風景はまだだったということだ。
 それでも、「福島の建物」で整理してみて分かったのは、その数年後には多くの近代化を象徴する建造物ができあがっているということだ。

 この当時の福島は、大火からの復興と近代化という大きなうねりの中にあったと思われる。
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by shingen1948 | 2010-11-21 07:38 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 去年から今年の散歩で、明治期にかかわる事には、いつも明治26年夏を基準に心の中でフィルターにかけていたようだ。この明治26年夏というのは、子規が来福した時期だ。
 単に、子規が来福して見た風景とどうかかわったかという興味だ。この期間を限定してみて分かったのが、この時代の変化の激しさだった。
 こんな片田舎でも、1年違っただけで、別の風景になってしまっていることが分かる。

 子規が、信夫山を訪れたこととかかわる風景を確認する。
 子規が、信夫山公園から福島の夜景を「ひとりじめ」した時とかかわるのが、競馬場だ。これが、子規が眺めている下方の視野に入っているはず。そのこととかかわる競馬場については、先に「信夫三山~松川と競馬場の情報②」として整理している。
 この競馬奉納とかかわる信夫招魂社は、護国神社の前身で、当然、子規の来福時には創建されている。その神社については、「信夫三山~松川と競馬場の情報④」と「信夫山と戊辰戦争 」で整理している。ただ、子規は時代の流れの中で捉えていたはずなので、見方は違う。
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 護国神社隣りの駒山公園は、明治7年に信夫山公園として開かれているとのこと。子規はこちら側から信夫山公園に向かったのかもしれないと想像する。

 子規が、信夫山に登る途中で見上げて「地獄と極楽」と称した地獄の風景は、福島監獄署は、「福島の建築 21 」で整理した。これが、明治17年5月に南裏通りから信夫山際に新築移転しているらしい(「森合郷土史」では、明治18年)。整理していて分かったのが、これが福島の近代化というプラスイメージで捉えるべきものだったらしいということだ。
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by shingen1948 | 2010-11-20 05:31 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)