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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

<   2009年 08月 ( 31 )   > この月の画像一覧

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 この中舘あたりが改変されているという事実は、その時期や誰がということが気になる。いろいろな想像を呼び覚ます。
 「ふくしまの城」(鈴木 啓著)では、「本城における織豊時代的要素は、後世の修築という見方もある」とする。

※ 写真は中舘から第9調査地点をのぞむ

 説明会だけでは想像の仕方がよく見えなかったが、平成19年度に提出されている計画書には、そのヒントらしきものが見える。
 ほぼ確かなこととして考えられているのは、本丸、二の丸あたりは、鎌倉時代から存在する館跡であるようだということだ。ただ、計画書によると、この時代の山城への居城には、疑義があるとされた時代もあったようだ。
 基本的には天文元年(1532)に伊達稙宗が、梁川城からこの西山城に移ってくるあたりの遺構は、中舘・西館が中心と考えていいようだ。
 修築関係で確かなことの一つは、本荘氏が福島城からこの城に移ろうとして手掛けたこと。これは、大分県に残された地図等から進み具合が想像できるようだ。
 もう一つは、戊辰戦争時の砲台跡。これは、発掘調査によって確実性を増しているようだ。

 計画書から「本城における織豊時代的要素は、後世の修築という見方もある」とするのが、枡形虎口あたりと本丸の横堀あたりであり、これが16世紀前半のつくりではなく、16世紀後半のはずという仮説らしいことが推測できる。

 今回の修築関係とかかわりそうな想像について、次の2点の例が示されている。
 ○ 伊達政宗が、虎視眈々と失地回復を狙っていたこととかかわって、
 ○ 蒲生氏郷や上杉景勝が、伊達政宗の失地回復を狙っていたことにたいする砦として、
 初めの想定になることにかかわる時代は、小田原征伐の時期で、黒川城・向羽黒城・米沢館山城が着々と修築整備されている。この時期に、田村郡の入口にある木村舘が石積みの枡形虎口城郭に改修されているらしい。このこととかかわる推定だ。
 後の想定とかかわるのは、ただいま放送中の天地人の時代だ。石田氏が、上杉氏が伊達氏に備えた改修と想定している例を挙げ、近世の可能性も十分あり得るとしている。
 ただし、どちらの想像も資料となるものが存在しないので、私たちの想像は自由だが、専門家の方々にとっては仮説でしかないということのようだ。
 改めて今回の発掘調査を伝える新聞記事を確認すると、新聞報道も見出しに「?」を付けて想像を膨らませて報じている。これは、この計画書も読み込んで書いているらしいことであり、感心させられる。

 なお、西山城の変遷については、先に「桑折西山城④の変遷」として整理しているが、今はやや甘さを感じる。

新聞報道見出し部分(福島民報)
by shingen1948 | 2009-08-31 05:03 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
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 これは、中舘南東の虎口にかかわるあたりのイメージ゛だ。この枡形虎口部分は、発掘前でもイメージしやすい所だった。


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 この虎口にかかわって明らかにしようと第4調査区の発掘が行われたようだが、平場に通路跡や建物痕は見つからなかったようだ。
見学者の中からぽつんと聞こえた「梁川もなんだよな」というのが耳に残る。


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 これは枡形虎口を降りて第9調査地点に向かう途中だが、降りる通路部分はかなりの急勾配で、素人としては当時のままとも思えるし削られている可能性はないのかなどと余計な事を考える。


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 これは、第9調査地点から、この枡形虎口を見ているところだが、構造がよく見える。中舘から降りるあたりは、右側と向かえ側に土塁が積まれ、きれいな枡形になっている。
 
 この虎口にかかわって、「ふくしまの城」(鈴木 啓著)にある次の二つの見方も気になる。
○ 「本城における織豊時代的要素は、後世の修築という見方もある」とする。
○ この西山城が他の大名国人の城館の規範性を有している。
 その二番目の理由は、天文元年(1532)に伊達稙宗は、梁川城からこの西山城に移ってくるのだが、稙宗は、大永3年(1523)には、陸奥国守護に任じられているということだ。
 つまり、この城は室町幕府権力を背景とした軍事指揮権に基づく奥州支配拠点「守護の館」としての意義があるという。
 陸奥の大名国人がここに参集し儀式・宴・能・談合が行われたということであり、文国法や段銭帳の編纂整備が行われた城という位置づけである。
 恐らくこの城は先進性に富んでいただろうし、着目されていたはずで、他の大名国人の城館の規範ともされているだろうということだ。
 この中舘南東の枡形虎口というのが、この見方からすると着目したい部分なのではないだろうかと勝手に思う。


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 この虎口から降りて、真っ直ぐ通路が伸びている。


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 第9.8調査区は、創建当時の堀跡の確認のようだ。これは9地点だが、奥のテープが堀の端を示しいてる。


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 これは第8地点を中舘の上から眺めた様子だ。奥のテープは、堀の端を示している。
 以前は虎口から延びる通路に沿って、その東側に堀と土塁が巡っていたということのようだ。


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 これは、第9調査地点の中舘寄りから南側の高台を見ている。
 
 まず、堀状の遺構が埋め立てられて、その後に枡形虎口が造られる。そして、この壇になっている中舘南西部の土塁などが造られるというような改変が行われているということのようだ。
 今回のこの地点の成果は、このことがある程度見えてきたということらしい。

 この城を舞台に、稙宗と晴宗の対立したことについては、「西山城⑥~稙宗と晴宗の対立の舞台」として整理しているが、この中舘・西舘での出来事と想像する。
by shingen1948 | 2009-08-30 06:13 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
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 これは、第3調査区を中心に、中舘西の虎口にかかわるあたりの様子だ。

 この調査区での大きな成果は、西側から中舘に通じる通路が確認されたということのようだ。


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 登り口からこの館に入った辺りに、建物痕があるが、本丸跡では精査が進んだようだが、ここは一か所だけ関連するマークがされている。ここの痕跡は、西側から登ってくる通路が、この奥にある舘本体に向かう位置であることから、その目隠し程度のものと想定しているようだ。


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 舘は、この調査区の奥の林になっているあたりだと考えられているようだ。


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 ここが、この館に上がる通路らしい。ここに門らしいものが確認できない状況から、説明では通路としているらしい。


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 第3調査区では、西側からこの舘の平場に登ってきて舘に通じる辺りの様子を明らかにしようとしたものらしいことが分かる。


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 この第3調査区から登り口あたりをのぞきこむ。
 奥の赤い柱が立っている辺りから、この中舘の北東端にあたりに向けてが通路になっていて、そこから回り込んでこちら側に進み、西の奥にある館に向ったのだろうか。


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 中舘の北東端から、ここに登る通路を確認する。
 赤い柱が立っている辺りからここに向かう道筋らしい。
 この通路は、堀があった時代なのだろうか。そうならば、そこを土橋でこちににむかうことになるのだろうか。それとも、堀が埋め立てられて平場になってからのものだろうか。


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 この平場からは、第4調査区も含めて気になる建物跡はみつからなかったようだ。ただ、1500年代前半の陶磁器が出土しているらしい。


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 1532年(天文元年)に、伊達家14代伊達稙宗が、本拠を平城の梁川城から桑折西山城に完全に移して大改装されたのだが、その時にはこの西館や中館を中心に整備されたのではないだろうかと勝手に想像する。
 それが、次の15代晴宗が米沢に移城してこの城は廃城になり、ここでこの城の変遷が一度ストップする。

 これ以前は、本丸と二の丸が中心だろうか。
 この城の沿革には、本丸である高館が初代朝宗の創建とか、9代の政宗の創建とかという話があり、その前にもともとは佐藤氏がかかわった館だったのではないかという話もある。

 先に長倉館で触れた以下の事件で言われている「赤舘」は、ここの本丸のことだとも言われている。
 応永7年(1400)に、先9代の政宗が稲村公方足利満貞の下知に従わなかったので、関東官領足利満兼を赤館と長倉館を討たせようとして派遣したが、追い返されてしまった。
 また、応永9年には、勅使河原兼貞が28万騎で赤舘・長倉舘を攻めたが、追い返された上に、兼貞は生け捕りにされたと「余目氏旧記」にあるという。
同年、上杉が、近国の軍勢を動員して赤館に攻撃を加えて落城させた。それで、9代の政宗は会津に走ったという。

 再びこの城の変遷が、少し動こうとしたのが、本多忠国の延宝8年(1680)の構想らしい。福島の城が手狭になって、ここに居城しようとしたことがあるらしいという話だ。   わずか2年後には移転となり築城は中止されるが、石垣部分などはその遺構ではないかともいわれているらしい。この改変も、中舘・西舘であろうと推定されるので、改変の跡は関連するのだろうか。それとも、別の力なのだろうかと、勝手にいろいろ想像させられる。
 「ふくしまの城」(鈴木 啓著)では、「本城における織豊時代的要素は、後世の修築という見方もある」とする。
by shingen1948 | 2009-08-29 05:22 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
 昨年5月に、砲台跡の案内板をもとに、この中舘あたりを歩いた様子を「西山城の探索②」として整理している。改めて確かめてみると、この時にイメージした西館の位置がずれているのが分かる。恐らく現在林になっている部分を西館とイメージしたようだ。実際には、ここは中舘の一部で、その部分にこの館の建物部があったであろうということだ。
 西館は土塁を挟んだ奥で、南奥の桃畑の中でつじつまが合う。
 この時に、何故岳藪が整理されているのだろうと思ったのだが、この調査のためだったということが分かる。

 これは、中舘のうち、今回調査された全体のイメージだ。
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 案内された順序に従って、中館第5調査区から順に整理していく。


 これは、中館第5調査区を中心に、中舘の西側の中壇帯郭にかかわる部分のイメージ図だ。
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 ここでは、中舘西側の中壇帯郭の構造と、その構造の変遷を説明された。
 それによると、創設当初は、堀が掘られ、その堀った土をその外側に積んで、土塁を廻したと考えられるようだ。このことは、昨年度確認した本丸の堀と土塁も同じような構造だったことを思い出す。
 ここは、その後改変が加えられ、この堀を埋め立て平地にして、中壇帯郭を形成していると考えられるようだった。


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 ここは、一度当時の地表である平地を出して、その後に、更に掘り進んで、創建当時の堀底まで掘り進めて確認したようだ。


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 テープでマークされているのは、平地からもう一段掘り進めて、創建当時の堀の様子だ。


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 奥のテープのラインが、舘側の堀の端のライン、手前が堀の土を積み上げていたラインと考えられる。

 それらをならして、改修されて中壇帯郭を形成したということらしい。


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 今回説明はなく、質問もしなかったが、これは平場になった後の建物痕だろうか。


 創建当初は、ここは、土塁と堀がめぐらされて、防御の意図が濃い場所だったようだ。
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 それが、この今回見つかった虎口の通路を挟んで、その西奥から続く平地の中壇帯郭を形成している姿というのは、大改修した後の姿だったということらしい。


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 その下の壇の第6・7調査区では、地山のままらしく、急勾配の切岸を城の防御としているらしいということのようだ。


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 これは、西側(自分の感覚では北側)からの今回の調査地点の風景だ。掘られたところが見えているのは、第7調査区。
 分かりにくいがその上に平地の中壇帯郭の壇があり、中舘の平場がその上にある。
 右手が今回みつかったという虎口で、左手奥が今までも確認されていた虎口の方向だ。
by shingen1948 | 2009-08-28 05:48 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
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 8月22日(土)に、史跡桑折西山城跡発掘調査現地説明会があるというので出かけてみた。
 昨年は、本丸あたりの調査だったが、今年は大手門跡と中館の調査とのことだ。
 10年かけて調査し、史跡公園として整備を進めることを目的とし、成果として西山城に登るための道路や、中館の空堀跡などが発見されたとのことだ。

 桑折の西山城は、昨年5月に西山城周辺の散策を楽しんで、9月に、西山城の本丸跡発掘調査現地説明会に出かけていた。
 昨年は、説明会中に突然の雨が降ったりする天候だったが、今年は、天候に恵まれ、しかも今の季節にしては比較的に過ごしやすい中での説明会だった。
 昨年同様、観音寺駐車場から現場までは山道を登りとなる。今年の受け付けは、大手門を入った所の広場だった。
 ちょっと早く着いたので、家人への案内も兼ねて、昨年度確認した本丸跡へ行ってみた。
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 入口から本丸の中心地辺りは草が刈り取られていたが、堀と土塁あたりや奥の門辺りは、草が生い茂っていて案内できなかった。

 昨年度の現地説明会については、7回に分けて整理していた。
 ○ 「桑折西山城本丸跡 発掘調査 現地説明会」に出かけた

 ○ 「桑折西山城現地説明会」にて②~出土品

 ○ 「桑折西山城現地説明会」にて③~東側の調査区(裏門と柵)

 ○ 「桑折西山城現地説明会」にて④~東側の調査区(通用門として)

 ○ 「桑折西山城現地説明会」にて⑤~南側の調査区(空堀跡)

 ○ 「桑折西山城現地説明会」にて⑥~南側の調査区②(空堀跡)

 ○ 「桑折西山城現地説明会」にて⑦~説明会を終えて



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  二の丸あたりも覗いて見たが、この辺りも草が生い茂っていた。この辺りは、5月に整理したことをもとに案内した。
 ○ 桑折の西山城へ①
 なお、この西山城の搦手門は、現在桑折寺の山門として現役である。そのことについては、桑折西山城③の搦手門 ~ 「桑折寺の山門」として、整理してある。
 今回説明のある中舘の昨年の5月の状態を整理した時は、岳藪が整理されているところだった。今回のこの調査のための下準備だったらしいことが分かる。
by shingen1948 | 2009-08-27 05:06 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)
 安子島城の直江兼続は、対峙する家康の勢力の動きを、石田氏のいう配置でイメージしているはず。その中の佐竹氏をどう読んでいるのかが興味のあるところだ。
 佐竹氏は、仙道口(棚倉方面)に配される。全体的には、白河口(白河方面)は家康と徳川秀忠の主力部隊が、信夫口(伊達郡方面)は伊達政宗が、米沢口(米沢方面)には最上義光ら出羽衆が、津川口(新潟県阿賀町方面)は前田利長と堀秀治が配される。

 石田氏は、この佐竹氏を上杉方としてみる。氏は、根拠として加藤清正、福島正則らが大阪の光成邸襲撃画策の際を例とする。
 伏見屋敷にいた佐竹義宣は、相馬芳胤と重臣の東義久を派遣して光成を救出して、宇喜多秀家と相談して、大阪にいって駕籠に光成を偲ばせて、伏見屋敷に連れ帰ったとしている。
 また、事実としても、佐竹氏は神指城築城に家臣団や常陸国の佐竹義宣の家臣300人の応援を送っている。
 佐竹義宣が、東館(矢祭町)・伊香(塙町)・台宿(塙町)を経て赤舘(棚倉)へ軍をすすめた時、この佐竹氏の本音を兼続はどう読んだかだ。
 石田氏は、須賀川城主二階堂盛義の旧家臣だった須田盛秀には、赤舘より先へ侵攻しないように命じたというのだが、……。

 秋田の佐竹氏について、もう少し整理しておきたい。
 自分のイメージでは、この時代の動きとのかかわりで佐竹氏に興味があるのだが、秋田の地元の方は、それよりは藩の時代のイメージのはずだと思っていたのだが、その生のイメージを得るチャンスは、秋田知事選の折だった。
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 整理すると、一般的には次のようなイメージかなと思うのだがどうだろうか。

 知事の敬久氏の流れは佐竹北家とのことだ。佐竹北家は、本家から分家して佐竹家の家臣となっていたとのことだ。
 明治維新の後、佐竹本家が五段階貴族上位になった影響で男爵の椅子を得ているという。これは維新の主役の鍋島(肥前)、山内(高知)大優遇に並ぶのだが、それは戊辰戦争時の決断によるという。
 藩主が倒幕を宣言し、東北の列藩からは裏切りのそしりを受けるが、これが2万石の加増と名誉としての候爵位を得たという情報だ。ただ、本根としては、これで茨城の地に帰れるとか20万石の倍増といった夢があったのではとも……。
 その夢は破れて、巨額の戦費を外国商社から借金して困っていたともいう。勝手に貨幣を鋳造するなど、秋田県では中央に対する反抗的な気分が残ったともする。

 ちょっと長めだったが、秋田に移封になった佐竹氏を整理した。

 なお、秋田と自分の興味とのかかわりに戻ると、秋田の角館城の城主戸沢氏が、上杉氏の動向を逐一報告していて、その功が認められ、山形新城藩が与えられる。そして、それにかわって角舘城に入るのが、会津とかかわる葦名氏の最後の当主義広なのだ。菩提寺として、会津から天寧寺を移したと聞く。義広は、佐竹義宣の実弟で盛重と改名している。
 角舘城の葦名氏が、3代で佐竹本家に潰されるということと、佐竹北家との関係は、……。
 興味は広がる。
by shingen1948 | 2009-08-26 05:24 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)
 神指城の築城には、領内の人夫約12万人が動員されたことのことだが、気になったのは、佐竹氏がこの築城に協力しているということだ。家臣団や常陸国の佐竹義宣の家臣300人の応援を受けているという。
 石田氏によると、5年6月6日、家康が会津上杉討伐の作戦を定めた時は、家康方になって仙道口(棚倉方面)の役割を担っている。白河口(白河方面)は家康と徳川秀忠の主力部隊が、信夫口(伊達郡方面)は伊達政宗が、米沢口(米沢方面)には最上義光ら出羽衆が、津川口(新潟県阿賀町方面)は前田利長と堀秀治を配したとのことだ。
 徳川方として動いている。
 ただ、7月に佐竹義宣は、東館(矢祭町)・伊香(塙町)・台宿(塙町)を経て赤舘(棚倉)へ軍をすすめたのだが、須賀川城主二階堂盛義の旧家臣だった須田盛秀には、赤舘より先へ侵攻しないように命じたともいう。

 佐竹氏については、対伊達氏としてイメージしている。
 大きくは、二本松城の畠山氏が、対伊達氏とのかかわりで会津の葦名氏を頼り、葦名氏が佐竹氏を頼るという流れが自分の持つイメージだ。このことから、自分の頭では対伊達氏勢力として上杉と佐竹とが親密となっていることは、分かりやすい構図ではある。
 気になるのは、家康方のポーズだ。保身のために先が読めるまで天秤にかけていたというしたたかさなのか、本心は上杉方だったということなのかが分からない。
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 この佐竹氏について整理しようとしたことが何度かあった。興味はあるが、まとめようと思わせる決定打がないのでそのままになってしまう。
 昨年、伊達氏が摺上原を経由して会津へ入ったことを探ったが、その延長に、……。
 一昨年は、秋田に出かける用事があって、その会議が久保田城内にある施設で行われたことがあった。これもまた一つのチャンスだったが、……。
 更には、今年秋田県知事選があって、その知事が佐竹氏とかかわることがあった。それもまた一つのチャンスだったが、……。そのままだった。
 そして、今回だ。今回は、いくつかを整理しておくことにする。
 まずは、一昨年、秋田に出かけたとき、北西の二の丸から本丸へ向かってちょっとだけ散歩した。まずは、それを整理しておく。現在は、千秋公園として整備されている。

 久保田城は、慶長7年(1602)に出羽国へ国替えとなった佐竹氏25万5800石の居城であり、複数の廓を備えた平山城だったという。
 築城は、慶長8年(1603)年に開始されて、翌年には旧領主秋田氏の居城であった湊城から初代藩主佐竹義宣が入った。その後も城普請は続けられ、完成したのは寛永8年(1631)頃だったという。

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 これは、穴門の外堀だが、この奥が県民会館になっている。
 この城の特徴は、石垣がほとんどなく堀と土塁を巡らした城であることと、天守閣をはじめから造らなかったということのようだ。国替えによる財政事情や幕府への軍役奉仕、徳川幕府への遠慮などが考えられている。


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 北西の二の丸から本丸へ向かう。石段になっている狭い坂道を何度か折れて登って行くと、大手口二の門等の表示がある。
 そこを登って行くと表門(一の門)に出る。平成13年に復元したとのことだ。瓦葺き2階建、高さ12.5mの櫓門形式の正門で、門内には御番頭局、門の外側下手に御物頭御番所を置いて、厳重に警備したという。


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 本丸跡に佐竹家最後の12代藩主佐竹義堯(よしたか)銅像 が建っていた。
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 ここは、二の丸a0087378_5481685.jpg

  内堀

 散歩したのは、一泊した次の日の朝、ここを訪れるのが目的ではなかったので、デジカメを持って行かなかった。携帯で数枚撮った写真を張り付けた。
by shingen1948 | 2009-08-25 05:56 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)
 22日には桑折町の「西山城」研地説明会があり、23日には本宮市の「庚申壇古墳」現地説明会があった。そのことも整理したいが、神指城跡散歩とかかわって、向羽黒山に出かけたことも関連させておきたい。
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 石田氏は、「戦国を駆け抜けた智将」直江兼続とふくしま⑯(福島民報)で、籠城戦と想定した最後の砦は神指城ではなく、向羽黒山としている。その根拠として、景勝が神指城築城より先にここを大改修していることを挙げる。
 この城は、永禄11年(1568)に葦名盛氏が築き、歴代葦名氏、伊達氏、蒲生氏も会津に入るとまず最初に、最後の砦としてここを先に改修している。

 ここは先に、「〈磨上原の合戦〉の政宗」 ・ 「向羽黒山城②」  ・ 「向羽黒山城③」 ・ 「向羽黒山城④と南山通り」の4回に分けて整理しているが、地形が複雑で、散歩の途中ではなかなか捉えられないことがあった。


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 今はどうなのか分からないが、昨年はこの城としての案内板は、向羽黒山城②に掲げたように禿げていてよく分からない状態であった。


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 氏は、ここの予想する縄張り図を描いている。
 阿賀川に面し、面積50ha北側の10日町口が大手口、西の3日町口が搦め手口のこの城は、南側の尾根とは堀切区画され容易に攻められない。
 大手口となる10日町口には、馬出し(伝盛氏屋敷)が設けられ、北側の水田には外構えという土塁と堀で囲まれた部分があったという。
 氏は、本丸は狭いので見張り用の櫓や小屋が置かれていたと想定する。その下に景勝、二の丸に直江兼続が入り、周囲に水の手や家臣団を配置すると考えられる。
 家康の上杉討伐では、山田孫左衛門ら約1000人が常駐、大沼郡を預かる奉行の山田喜右衛門が拠点にしていたと考えられるとする。

 伊達氏との関連で訪ねた安島城や向羽黒山城は、そのまま「天地人」の時代に延長して関連付けて考えることができると教えてくれる。地道に歴史の跡を訪ね歩くと、単に歩いたところが増えていくということではなく、関連しあって、それらが絡み合って歴史を紡いでいくということが分かった気がしている。
 
 歴史で「もしも、……」というのはよくないらしいが、歴史上の人物たちは、それらを想定して整備を進めているはずでもあるとも思う。
by shingen1948 | 2009-08-24 05:55 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)
 神指城―「天地人」ということにかかわって、直江兼続が、司令を出していたのは、安子ケ島城ではないかと仮定する記事を見つけた。「福島民報」2009/8/2/「直江兼続と安子島」(高橋明)と題する記事だ。
 直江兼続は、ここ浅香城を総司令部として、ここから白河方面の司令部である長沼城、信達の拠点である福島城、越後方面の機能を担う若松城を指揮していたと見る。
慶長5年(1600)
 7月22日 兼続浅香城に入る。
 7月23日 家康小山で、三成、大谷吉継の謀反の企てを鎮定する要請内容の豊臣三奉行連署の書状を受け取る。義光に、攻撃の中止を命ずる急使を発し、上方の大名に近日上洛を知らせる。
 7月24日 伊達政宗白石城を攻め落とす。
 8月 8日 兼続、米沢城に使者を出し、道筋の駅・宿に継送りを命ずる伝馬手形を発行する。この送り先の最初の町が五百川浅瀬の渡河点・分岐点である横川であることが、浅香城=安子島城の根拠のようだ。
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 安子ケ島城について、先に整理した時には、伊達政宗が会津へ攻め上る時に最初に標的にした不幸な城としてのイメージでまとめた。それは、実際の城跡も跡かたもなく消えているという現状とも似合っていた。
 
 現在、城址碑の建つ場所は、田んぼでしかなく城の痕跡は何もなかった。
 これは耕地整理によるものであるのは直ぐに分かる。かつては東西に曲輪を並べた連郭式の城であったらしい。安子ケ島小学校あたりも城郭の一部で、主要部は安子ケ島小学校の西側の田んぼらしいとも聞いた。
 この城址碑の建つあたりは堀らしいとも聞く。
 城主の安子島氏は、文治五年(1189)頼朝の奥州征伐で功があって、この地を領土に得た工藤祐経の子孫で、安積郡に勢力を張った安積伊東氏の一族である。
 伊東一族は結束できないまま、戦国大名には成長できず、畠山氏や葦名氏にしたがっていたようである。
 先に整理したように、天正14年(1586)二本松城の畠山氏を滅ぼした伊達政宗は、天正17年(1589)には会津への侵略を開始する。
 中通りから会津への通路となるこの安子島城が真っ先に標的となり、伊達氏の軍に囲まれた安子島治部省輔らは、防衛を諦め開城し、会津に退去し廃城になったという。


 それを、天地人の視点から「伊達政宗が会津へ攻め上る時に最初に標的にしたことや、会津から仙道(中通り)に進出する際に、最初に標的にしたことの意味することに着目すれば、ここが会津と仙道を結ぶ重要な地点である根拠になるということだ。言われてみれば当たり前だが、新たな視点の持ち方を教えられた。
 なお、その見方からは、この安子島城は、その仙道の中心地点でもあるということだ。

 今回の神指城の散歩は心地よい。
 同乗者に遠慮しながらの散歩になると思っていのが、結果的にその遠慮がかえってこの地区に住む人々との思いを感じる方策になっていたということがある。
 自分がそこで感じることを大切にしたい。そのためには、事前に調べつくすことによって、自分の目を曇らすことはあえてしない。それで、見落とすことがあれば、もう一度訪れればいい。それが基本的な散歩の構えだ。
 だから、事後に自分が見えたことに対する根拠が与えられたり、新たなことが分かったりするというふうに、イメージが膨らんでいくのがいい。
by shingen1948 | 2009-08-23 05:37 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)
 二の丸の四隅の想定は、想像して散歩していたのだが、その想定は違っていなかったようだ。
 「中世会津の風景」(柳原敏昭・飯村 均)に、次のような紹介をみつけた。
 
二の丸の大半は、昭和42年の圃場整備によって失われている。この時、地元の意向により二の丸北西隅・北東隅・南東隅と如来堂集落に接する南外郭線の一部が削平を免れた。

 散歩にかかわる情報としては、次のようなことが参考になった。
 ○ 築城人足は、会津4郡・仙道7郡・長井、刈田、庄内から8万人(一説には12万人)
 ○ 平成2年の福島県調査成果では、二の丸と本丸をつなぐ土橋検出・本丸北東隅の石段確認・城の大き さ、堀の確認とのこと。
  ・ 外堀幅44m深さ1.4~2m、本丸堀幅55m深さ1.2m
  ・ 本丸北東隅5~6mの比高差で櫓台の可能性
  ・ 外堀には、水が入っていた可能性あり
  ・ 二の丸石垣はなし、建物もなし。
  ・ 土橋跡は30mで本丸堀は未完であった可能性が高い。

 本丸に案内板を設置頂いて助かったのだが、この案内は、この時の調査が元になっているようだということが分かる。


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 今回の散歩は、家人に妥協したつもりだったが、結果的には村の方が是非残したいと考えた風景を感じながら歩いていたということになった。そういう意味で、本当は没にしようと思っていたこの神社の写真を貼り付けておく。
 だだっ広い田園風景の中に、ポツンとある神社だ。昭和42年の圃場整備時に、村の人が是非ここは残したいと考えたに違いないと思うからだ。

 さて、神指城の築城についてだが、家康が言い掛りをつけ、それにたいする反論が、「直江状」なので、築城理由もそのことと関連して見がちだが、そうではないらしい。
 家康は小山会議で石田三成らの征伐を決意し、軍を江戸に返したので、会津が戦場になることはなかった。しかし、家康は小山まで軍を進め、白石城を伊達政宗が攻め落としている。そのまま戦いが進んだら、……という思いが起きる。それでも、この城が最後の砦ではないらしい。
 「福島民報」の石田氏「戦国を駆け抜けた智将」直江兼続とふくしま⑯によると、籠城戦と想定した最後の砦は向羽黒山とのことだ。
 
 神指城築城を急いだ理由について気になる。案内板では、城郭建設地としてこの地が選ばれた理由しかない。(若松城が会津盆地の東南隅に位置することから城や城下町の拡張が難しかったのに対し、盆地の中心で平坦なため、築城地としててきしていたためと考えられますと述べている。)
 そのことについて、「中世会津の風景」の視点のうち、次の三つに説得力を感じた。
① 越後商人の活躍の場の確保
② 家祖謙信公廟の整備
③ 防衛支城の整備


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 このうちの②については、米沢城との比較、そして、謙信公23回忌の実施などからの推定しているようだ。
 米沢城では、本丸に謙信廟を整備し、寺院群を二の丸南東隅に真言の寺20の寺院群を配置しているという。これは、本当は神指城で最初にやらなければならないと考えたことだというのだ。
 ③ にかかわっては、上杉氏が与えられた領地が、佐渡・庄内・置玉・会津・仙道であり、旧領は佐渡と庄内のみだという事情とかかわって説明する。庄内と置玉の間に最上義光が、仙道の奥には伊達が控えている。
 上杉にとっては交通網の整備とともに防衛支城整備が必要だったとする。これは、直江状の通りということだ。


 「天地人」の物語も含めて主観的に考えれば、上杉が本当に言いたかったのは、誰が見ても不義は徳川家康にあり、義を持った陸奥に確たる王国を築きあげるには、弱点を解消し四面楚歌になることを避ける対策としてもこの城が必要だっということか。
 実際の物語の展開はどういう風にするのかな。
by shingen1948 | 2009-08-22 05:16 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)