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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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<   2008年 10月 ( 29 )   > この月の画像一覧

冬の訪れ

  昨日の朝は、晴れ渡っていたがずいぶん冷え込んだ。
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 これは、6時30分の吾妻山は雪景色で、吾妻小富士まで雪だった。秋の景色と似合っていた。


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 西工業団地の街路樹とこの景色を合わせてみたが、街路樹の美しさは出なかった。


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 鬼面山も箕輪山も雪のようだ。自分としての初冠雪観測としておく。

 
 福島気象台のホームページによると、10月30日若松測候所で、磐梯山の初冠雪を観測したとのことだ。平年より6日遅く、昨年より14日早いとのことだ。また、若松測候所では初霜も観測したとのことだ。これは、平年より2日、昨年より6日遅いとのことだ。
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 安達太良山も頂上付近に雪が見える。昨日まで雲がかかっていて見えなかった。多分、初めての冠雪だと思う。


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 これは、大山あたりからの30日朝8時15分ごろの安達太良山。
 この山についての冠雪はニュースになっていないようなので、勝手ながら初冠雪の観測としておく。


 昨年の吾妻山と安達太良山の冠雪の様子は、11月14日に「吾妻山と安達太良山の冠雪2007年」として、整理されている。11月13日に、晴れわたった空に、吾妻山と安達太良山の冠雪がみえたようだ。
 感覚的には、昨日の二つの山の冠雪は、この時より安達太良山の雪が薄いように感じている。それでも、磐梯山の冠雪のニュースとも重ねると、昨年より1週間早く冬が進んでいる感じがする。
 昔、農業にいそしむ人は、こんな自分なりの感覚を大切にして、農事暦に自分なのり微妙な修正を加えて農作業をしていたのでないのだろうか。
by shingen1948 | 2008-10-31 05:11 | ★ 季節便り | Comments(0)

秋深し

 昨年は、11.8に、吾妻運動公園の「イチョウ夜間照明」について書いている。昨年も、今ごろからライトアップの表示板が出始めていたのだろう。
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 今年は、ライトアップの表示を、吾妻運動公園の銀杏が色づいたという情報と受け止めて見てみた。道路から北側は、まだ黄葉がはじまったばかりのようだ。


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 道路の南側の銀杏は黄葉が進んでいる。


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 土湯街道道の駅付近の山の紅葉も進んでいる。ここに三日、朝夕が冷え込む。
 福島気象台のデータによると、29日の福島の
平均気温11.5℃、
最高気温15.1℃、
最低気温7.8℃、
秋が深まっているというより、もうそろそろ冬という感じだ。


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 安達太良山の頂は、一昨日も昨日も雲がかかっていた。
by shingen1948 | 2008-10-30 05:20 | ★ 季節便り | Comments(0)
 安達太良山の紅葉を楽しんだのは半月前だが、一昨日は、吾妻山の初冠雪であった。この頃気になるのは、福島西工業団地内の紅葉だ。
 気に入っているのは、高湯街道から入って直ぐの高湯街道と平行に走る道路の街路樹の紅葉。
 先週は少し早めではあったが、肉眼では綺麗な紅葉になりがけの景色が楽しめた。ただ、靄がかかっていて、自分の技術では、写真でそのよさを表現できなかった。
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 昨日の朝は、天候もまあまあで、紅葉の案配もよく、その雰囲気が少しは表せるような気がして、シャッターを押した。


 吾妻運動公園には、イチョウのライトアップの案内が出ていた。ライトアップは別として、イチョウの葉の黄葉の時期になったなあという思わせる季節の情報だ。

 福島気象台の生物季節観測データによると、昨年の銀杏の黄葉は、11月11日で、落葉が11月22日とのことだった。平年が、銀杏の黄葉は10月30日で、落葉が11月15日という。
 イロハカエデは、平年が紅葉11月11日で、12月1日落葉。それが、昨年は、11月22日紅葉、12月6日落葉だったという。
by shingen1948 | 2008-10-29 04:38 | ★ 季節便り | Comments(0)

吾妻山の初冠雪を見た

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  昨日の朝6時30分、雲の合間から吾妻山が見えたのだが、雪が降っていた。その後、すぐに雲がかかって山が見えなくなった。


 夕方、福島地方気象台のホームページを確かめたら、10/27、吾妻山の初冠雪を観測したとなっていた。これは、平年及び昨年が、10.21だったので、それより6日遅いというデータとのことだ。
 若松測候所では、9/28、飯豊山の初冠雪を観測したとのこと、これは、平年10.17だったので19日早く、昨年10.22だったので24日早い。

 昨年は2007.11.14に初冠雪かなと思って記事を書いたのだが、実際には福島地方気象台は吾妻山(一切経山)の初冠雪は10月21日に観測したとのことだった。これは、平年と同じで、昨年より18日早いとのことだった。
 昨年の季節の動きは、「福島気象台のおしらせ」からは次のようだった。
  ・10/21、吾妻山(一切経山)の初冠雪を観測しました。
   (平年と同じで、昨年より18日早い)
  ・10/22、若松測候所で飯豊山の初冠雪を観測しました。
   (平年より5日遅く、昨年より18日早い)
  ・10/24、若松測候所で初霜、初氷(結氷)を観測しました。
   (初霜は平年より4日、昨年より26日早く、初氷は平年より13日、昨年より26日早い。)
  ・11/11、福島市でイチョウの紅葉を観測しました。
  ・11/13、若松測候所で磐梯山の初冠雪を観測しました。
   (平年より20日、昨年より5日遅く、過去2番目に遅い)

 更に、一昨年の吾妻山の初冠雪は、11.9だった。
 福島地方気象台の発表によると、初冠雪は、平年に比べ磐梯山は15日、吾妻山は18日、飯豊山は22日遅かったとのことだった。

 その前の年の季節の動きは、次のようだった。
 初霜が、11.1、安達太良山スキー場まで真っ白になったのが、11.9、初氷が11.21だった。
by shingen1948 | 2008-10-28 05:43 | ★ 季節便り | Comments(0)
 「義経の腰掛松」とか「国見神社」とか「弁慶の硯石」などは、伝説の域の話だが、国見あたりを散策しているときに、知っておく必要がある。史実としてというよりは、目印として重要になるものだ。
 また、ここは義経の物語の幕開けの場として相応しい雰囲気があり、絵空事ではなく、そういうこともありえるかもしれないと思わせる地である。

 義経の腰掛松は、昭和49年3月1日町の天然記念物に指定されたとのことで、案内板がたっている。
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 その案内板に、由来は義経が東下りの際、路傍に生えていた小松の枝に腰を掛け、休憩をとったことが、松名の起こりといわれていると伝説が紹介されている。そして、初代の松は3本の太幹から、四方に繁茂する枝ぶりから別名笠松ともいわれたとの解説されている。

 更に、案内版ではこの松の江戸時代の名声について紹介している。


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 初代の義経腰掛松は、幕末の文化年間頃、藤田宿の検断岡部忠保と深交のあった幕府住職の中川忠英や大野文泉ら江戸の風流墨客達によって、近江国(滋賀県)の唐崎の松、摂津国の会根崎天神の松とともに、「天下の3名松」として宣伝され名声を博したという。松樹の東側には寛政12年(1800)に江戸の文人、隋古堂素閑によつて書かれた、「義経の腰掛松」の碑が立てられている。
 しかし、文政4年(1823)修験者が、この松に巣を作った蜂退治のために、焚き火をしたところ松に燃え移り、あたら名松を枯らしてしまった。
 村人はこれを惜しみ、同6年信夫郡上名倉村の医師須貝才右衛門から、姿が笠松によく似た赤松を譲り受け、川船に積んで荒川から阿武隈川を下り、徳江河岸より陸揚げされて運ばれ、移し植えられたのが現在の2代目の松である。焼けた初代の松株には、柵を巡らし屋根を葺き、義経神社が祀られている。

 芭蕉がこの辺りを通った時(1689)には、この松は存在していたと思うが、この時も、義経の腰掛松だたかどうかは分からない。奥州街道がこの脇を通っていたかも分からない。


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 近くには、国見神社があるが、これは明治以降の名称で、明治政府の政策が絡む。半沢氏のフィールドワーク地図のメモに、それ以前のことが記されている。
 それによると、以前は、国見山彦代明神で、鹿島・出雲・諏訪明神を祀る。いわゆる国土開発の神である。伝説では、義経が西上の際、当社の神威を仰いだといわれているとのことだ。


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 弁慶の硯石の脇には案内板で由来が次のように紹介されている。
 硯石山の頂上に、弁慶の硯石といわれる石がある。
 信夫二郡村誌には、「石面に縦2尺余、横1尺45寸許りなる、硯の海を穿って常に水を湛へたり、百日の早魃にもいまだ会って、洄るることなしと、相伝いて弁慶が硯という。(中略)源義経当国の軍勢を集め賜う時、(弁慶)法師筆を採りて着到を付けられし所成べし……」と水谷亭等舟漫がこの石の由来を載せている。

 伝説や評判はさておいて、ここからは阿津賀志山麓の様子が見渡せる場所であり、石母田城跡、県境をなす長峯の山々、そして、羽州街道の小坂峠、半田山の方向まで展望ができる。
 また、この山自体、南麓部にかけて横穴古墳群の分布があったり、戊辰戦争の時、仙台藩が構築した砲台場跡もあったという。それが、凝灰岩の採掘によって破壊されたとのことだ。

 
by shingen1948 | 2008-10-27 05:17 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
 桑折トかいたの間ニ伊達ノ木戸ノ場所有(国見峠ト云山有)
 『曽良旅日記』

 「おくのほそ道を歩く」では、「阿津賀志山防塁」の項で、上の曽良旅日記の部分が紹介された後、大木戸の場所は阿津賀志山防塁の場所だとしている。

 具体的には、次のように描写する。
 駅から旧藤田宿を通り鹿島神社の前を通って奥州街道を歩いた。左に厚樫山をみつつ中学校を過ぎた頃から道は登り坂となり、峠を登り切った頂上左手には「旧奥州街道中国見峠長坂跡」の表示板があった。

 しかし、実際には、中学校から旧国道は、国道と別れて右の道を下っていく。
 西端が厚樫山、その東麓を東北自動車道が走り、平行して東北本線、国道4号線、そして旧国道がよりそって並走している。いずれの道も厚樫山の東腹を回り込むように旋回している。そのどの地点からどうアプローチすれば旧街道になるのかは曖昧だ。

 その後の描写から、恐らく筆者は国道4号線の表示板から、旧国見峠である経ヶ岡を経由して、茶屋跡を過ぎて、長坂跡に降りたのだと思う。
 表示に従い左手の坂を登ると左手手前に「あつかし山古戦場経ケ岡」とあった。……中略……。
 更に左の細道に入っていくと、大きな紅葉や桜樹などの中に、かなりの広場があった。長坂の茶跡で、国見峠を登ってきた人達が峠で一息入れるために茶屋があったのだろう。北東側には厚樫山の頂が見え、広場の左手南方にかなりの勾配で下から登ってくる幅10m程の道が100m以上続いており……。

 しかし、そのつながりは逆だと思う。目的は違うが、長坂跡に立ち寄ったことは、「阿津賀志山⑤ 」で整理したが、その道筋と同じだと思う。
 それは、「旧奥州街道中国見峠長坂跡」の案内板から、長坂跡に入り、茶屋跡を過ぎて、経ヶ岡までの道筋が、そこから貝田宿へ下って続くということだと思う。

 この地点では、旧街道と旧4号線の道筋がずれているようなのだが、どうずれているのか分かっていないようなのだ。
 半田氏のフィールドワーク地図には、次のようなメモがある。
 街道の変遷
 古代には小坂の方にもよった山の中腹を迂回するルートであった。
 奥州街道は、藤田宿あたりはそのままだが、厚樫山によるこのあたりではさだかではない。
 石母田~腰掛け松あたりはその沿線であった。芭蕉の奥のほそみちは大木戸長坂茶屋あたりにそのよすがをわずかに残している。明治年代にこの改良工事が行われ、戦後(1961)新国道が竣工開通した。

 ずれた街道は分からないが、芭蕉が通ったであろう雰囲気を味わう散歩道は欲しいということで、二つのルートを考えてみた。

 その一つは、腰掛け松あたりが旧街道の沿線ということを大切にしたルートだ。
 旧国道の坂をくだったところの十字路で、旧国道をはずれて左の道に入り、国道の下をくぐりぬけて、「義経腰掛松」に出るアプローチが雰囲気を味わえる。そこから農道を登って、防塁を越して長坂跡につなぐ。

 もう一つは、今回の調査報告の大木戸を意識したルートだ。
 徒歩ならば、今回の調査地点から防塁を迂回せずに、細道に沿って登れば自然なアプローチの雰囲気が味わえる。
 ここから、今回歩いた道を進み、国道で分断された地点に出る。
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 国道で分断された所を、西側から見れば、このようになっている。


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 東側から見れば、このようになっている。その右側の細道と「旧奥州街道中国見峠長坂跡」の表示板がある地点に結べればいい。
by shingen1948 | 2008-10-26 06:46 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)
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  説明会後に歩いたあたりの阿津賀志山防塁について、解説する案内板が、農道に建っている。



 国指定史跡
 阿津賀志山防塁
 指定昭和56年3月14日

 文治5年(1189)奥州平泉の藤原泰衡は、源頼朝の率いる鎌倉軍を迎え撃つべく、防御陣地阿津賀志山防塁をこの地に築いた。
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 この地点の阿津賀志山防塁は、厚樫(国見)山中腹の始点部より東北自動車道、JR東北線を挟んで350㍍に位置している。昭和10年ごろ、堀江繁太郎が描いた「二重堀図」の断面図(県立図書館所蔵)によれば、この付近における防塁は、三重の土塁と二条の空堀からなり、堀幅は約24㍍ほどあって、形状は箱薬研堀状をなしていた。中央土塁の頂上が、旧石母田村と旧大木戸村との境界であり、南側の土塁と空堀遺構は失われている。
 この地点には、旧石母田村の、大清水、蛭澤廃寺跡、駒場、牛石、弁天下紐関跡などを経て、国見山の南麓を斜めに上り、防塁にいたる坂道が遺されており、旧東山道との伝えがある。この道は、防塁の直前で枡形に折れ、切り通し状に防塁を横断して、国見の方向に向かっていた。
 この旧道については、確証はないが、大化の改新後の地方行政組織である国郡制度の施行に伴い、都と多賀国府を結ぶ東山道が整備され、国見峠に遺る幅の広い長坂路はこの道であろう。前記の旧東山道の名称を遺す道筋は、これ以前の信夫国、名取国など「国造制」下の通路とも考えられる。
平成18年3月
国見町教育委員会

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 厚樫山に登り、その山頂から阿津賀志山防塁を眺めようとした時に、よく全体を捉えられなかったのは、それまで防塁の位置を実際より平野部にイメージしていたためだった。
 今度、もう一度山頂からこの「阿津賀志山防塁」を眺めてみたい。


 もう一つ、整理しておきたいのは、国衡の本陣が敗れるきっかけを作った奇襲だ。「奥州あつかし山の戦い」では、以下のように描写されている。
 阿津賀志山の本陣の戦いで、突然大木戸の上、国衡の本陣の背後の山々からときの声があがり、矢が雨のごとく飛んできました。陣中は大騒動となり、からめ手が破られてはこれまでと、藤原軍慌てふためいて逃げ回りました。

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 この奇襲は鎌倉方の家来ら7人で行われたという。藤田宿から鳥取の峠を越えて大木戸の背後に回ったという。少人数であったが、朝霧が立ち込めていて、大人数の襲来かと思わせたとのことだ。

 配置図では、楕円を描いていてイメージできるのだが、現場に立つと実際の動きはなかなかイメージできない。
by shingen1948 | 2008-10-24 03:12 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)
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 阿津賀志山防塁の円を描くように確認されているのは、一度掘った堀跡の上に固められた土が載っていることの確認場所のようだが、説明資料を読み返してみると、これは、古い道路側溝を埋めたらしい部分のようだ。


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官道である東山道との関連を考察しようとしているようである。


 説明会が終わって、阿津賀志山防塁のここから阿津賀志山まで延びる部分を確かめてみることにした。
 阿津賀志山防塁は、阿津賀志山から平野部に下って阿武隈川の岸に至るまで、約4㎞にわたって延々と築き上げられた堀と土塁とからなる防御施設である。その大部分は内と外の二条の堀とそれに平行する3条の土塁からなる。そのうち、この大木戸から阿津賀志山までの防塁は、全体の4分の1ぐらいだろうか。
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 歩き始めて直ぐに、防塁を横切る水路は西根堰だろうか。


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 そこを過ぎると、次に国道4号線が横切る。そして、その向こうに、防塁跡であることが分かるように整備された遺跡が現れる。


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 そこから、阿津賀志山の方向に遺跡は、ずっと続いている。


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 ここからは、平野部が一望できる。藤原方は、平野部に入ってきての鎌倉方の動向は、すべて見通せたはずだ。決戦の日は、靄がかかっていたとの想定のようではあるが……。


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 更に進むと、先に奥州街道の国見峠の経が岡を確かめるために通った農道が防塁を横切る。その農道から阿津賀志山まで、防塁は続く。

 経が岡は、ここに石那坂の戦いで敗死した泰衡の郎従佐藤基治等一族18名の首級がさらされたということだった。そのことは、「阿津賀志山⑤」で整理したが、ここは国見峠に向かう奥州街道長坂の跡の奥にあった。この街道は東山道の道筋と重なっていてのだろうか。
 首級がさらされたのは、阿津賀志山の山頂という言い方をしているが、街道の峠である経が岡ではないかと想像されているようなのだ。
 このあたり、不確かな記憶だが、防塁に平行に旧奥州街道が進んでいたという説明を見たような気がする。そうならば、進んできたところから農道を右に折れ、北に曲がって進み道なりに進んで、左にそれて長坂の道に入って阿津賀志山の峠に出るというのが、古道の道筋になるのだろうか。
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 防塁のほうは、更に進むとJRの線路が防塁を横切る。その向こうにも防塁は続くが、ここからは引き返すことにした。防塁は、阿津賀志山中腹まで続いている。
by shingen1948 | 2008-10-23 05:01 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)
 発掘部分に関しては、阿津賀志山防塁への出入り口(木戸口)の土橋、防塁に附属する溝と土塁で囲まれた防御施設らしきもの等が複合的に造られた要塞機能に関することが中心に説明があった。
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 これは、道路で分断された阿津賀志山防塁の西側の空堀部分だが、この発掘現場に続く現況が林の部分に案内された。その反対側にも、防塁は伸びている。


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  現況は、木々に覆われているが、実際に空堀の中に入ってみると、その深さが実感できる。
上から敵が弓矢や槍や刀で狙っているとすると、この角度の坂を這い上がるということは容易ではないことが分かる。


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 県立博物館の展示では、二重堀での合戦の様子を模型で再現展示されている。


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 本物の防塁に入ってみた実感と、資料として渡された「奥州あつかし山の戦い」の描写を重ねてみる。


 阿津賀志山では、畠山重忠、小山朝光、加藤景廉、工藤行光らの鎌倉軍と金剛別当秀綱の率いる藤原軍数千騎との間で戦いが始まりました。何千本という矢が両陣の間を飛び交いました。秀綱ら藤原勢の奮闘はめざましく、一歩も引かぬ戦いぶりでした。

 しかし、兵力に勝る鎌倉勢は、次々と新手の兵を繰り出し、敵を圧倒、合戦から四時間後の巳の刻には秀綱らの陣地を奪うことに成功しました。秀綱らは大将国衝の本陣に戻って作戦をたてなおすことになりました。

 この戻った本陣が、今回の発掘地点ということになるのだろうか。

 この防塁の全体像が、大きすぎて掴めないでいたもやもやが少しとれた。
 何年か前、県立博物館でヒントをもらいたくて学芸員の方に質問した頃の曖昧さからすれば、少し見えたりしてきたような気がしている。
 あれから何度かきてみたが、そのたびに部分的に見えてきたというふうに思えるようになってきている。最初は部分的なイメージだったのが、何となく線となって繋がったように思えてきて、それが何となくぼんやりと全体がイメージできるようになってきているという感じだ。
by shingen1948 | 2008-10-22 04:59 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)
 今回の阿津賀志山防塁現地説明会の地点は、二重堀が切れているとのことだった。その切れた阿津賀志山防塁の確認と、土橋の検出が、第1試堀の地点である。そして、二重堀の内側の空堀の確認が、第2試堀の地点ということのようだ。

 この地点では、この二重掘りの防塁の内側に、更にもう一つの空堀があるというのだ。
 今回の説明は、木戸口の後ろに何らかの防御施設があったはずだという推論をもとにしていて、そこまでで止めていた。
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 その空堀の確認が、第3試堀の地点ということのようだ。


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 そして、その空堀の延長の確認が、第4の試堀の地点ということのようだ。この第4の試堀の地点は、道路を挟んだ所にある水準点近くだが、そこにも空堀を検出しているようだ。

 発掘調査現地説明会資料には、最後のページに「国見大木戸遺跡の遺構」の解説が載っている。
 平成19年には、東の台地を囲むように溝が発見されているとのことだ。まだ、確定的なことはいえないのだろうが、ここに防塁に伴う館跡があったことを想定して調査が進められるということになりそうだということのようだ。


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 第4・第5試堀部分では、その溝の端の土塁を確認しているようだ。


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 この第3~5試堀をつないだ部分が、東の台地を囲む溝ということで、この台地が、木戸口の後ろに何らかの防御施設であり、阿津賀志山の戦いの中心的な役割をなした施設ということになっていくのだろうと思われる。


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 その構造を明らかにすることで、大木戸の戦いの具体的な戦略を明らかにしようとしているように思える。
 第6の試堀部分では、その平地面の確認をしているようだった。
by shingen1948 | 2008-10-21 04:16 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)