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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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福島の演説会

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「尾上座」は、長楽寺近くの劇場で、自由民権運動の演説会にもなったところだが、このあたりと想像している所は、今は、民家が建っていてその面影はない。先にも触れたが、この劇場の経営者は、客自軒の経営者である井上康五郎であったとの事である。

 「ふくしまの民権壮士」が、明治15年4月16日夜尾上座で斉藤又郎(自由党員)が演説した様子を4月20日付け「福島自由新聞」が報じたものを紹介している。
 
 本月16日、政談演説会を15丁目尾上座に開きしに、聴衆無慮1200余人、満場立錘の地なく、ために場外に佇立するものその数を知らず。出席員は河野氏をはじめ10にんとす。第9席阿部又郎氏の演説は……警部中止解散せり。阿部氏は官吏を侮辱したるものなりとして告発せられたり」

 更に、演説会の様子を以下のように描写して紹介している。
 ざんぎり髪に紋付羽織姿の民権壮士が激しく藩閥政府や三島県令を攻撃すると、民衆はヒヤヒヤと歓声ををあげる。臨席していた巡査が演説の中止を命じると、聴衆は手をたたき、口笛を鳴らして警官を野次るのだ。当時の記録をみると300人、400人と多数の聴衆があって、時には尾上座の場外にはみ出すほどの盛況であった。

 
  半沢氏のフィールドワーク地図には、「尾上座」での演説会(1882.4~6)のメモがある。
明治15年4. 5 阿部又郎(中止解散)
明治15年4.15 平島松尾・阿部又郎(中止解散)
明治15年5. 3 平島松尾
明治15年5.14 平島松尾・示野潤等(中止解散)
明治15年6.15 平島松尾・徳永与志吉等(中止解散)
明治15年6.16 自由演説会(中止解散)700名参加。参加者武子庄二郎逮捕など
            会   主: 酒井文雄
            演説弁士: 愛沢寧堅・酒井文雄・花香恭二郎・示野潤(高知県) 
                    その他吉田茂準・徳永与士吉
 

 二つの資料で福島地方の中で共通に福島の民権壮士として認めているのは、斉藤又郎と、佐藤謙吉である。その活躍の具他的姿を想像するのは、現地では難しい。
by shingen1948 | 2007-08-31 06:06 | ◎ 会津への路(自由民権運動) | Comments(0)
 福島人は、時代の動きには敏感ではないのに、置かれた環境によって、時代の先端にならされてしまう運命にあったようで、今もそんな雰囲気があるのではないかと感じている。

 会津の凄惨な戦争のきっかけともいうべき、列藩同盟のきっかけになった、世良修造の暗殺にしても、積極的に関わりたかったわけではなかった。自由民権運動も似たような状況らしい。積極的に関わりたいわけではない。県庁があるので、環境的に運動が盛んであるのだが、地元に壮士がいるわけでもシンパがいるわけでもない。それでも、自由民権のスタートに係わってしまうということのようだ。
 活発な演説会も、新聞発行なども、福島という地を借りて、他の地区の人々が活躍しているということだ。

 「風雲・ふくしまの民権壮士」によると、自由民権運動の実務的な関わりで重要な役割を果たしたのは、二本松の平島松男とのことだ。
a0087378_5304194.jpg 自由党福島部の結成、福島自由新聞の発刊、本部無名館の設置など実務的な者に係わっていたとのことである。福島事件では河野とともに最高の責任を負わされて、仙台集治監に6年入獄したという。福島の自由党本部無名館に常駐し、県下の自由党員を指導していたという。無名館には、他県人の花香恭次郎、佐藤清等論客がいて、専従の形で政断演説会で熱弁をふるっていたという。
 この自由党本部無名館は、半沢氏のフィールドワーク地図によれば、現在の水道局辺りだろうと推定できる。

 福島自由新聞の記者として活躍した沢田清之助も二本松出身とのことだ。彼は、7歳の時、戊辰戦争で父を失い、生活の辛酸をなめたことが、薩長藩閥を憎み、その手先である三島県令に抵抗したという動機を推定している。彼も、新聞の編集、平島の党務の実務手伝い、尾上座で弁士に立つ活躍だったという。
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 この福島自由新聞の印刷所は、半沢氏の地図によれば、現在の第一生命ビルのあたりだという。ここは、福島初の印刷所であり、「福島自由新聞」の印刷に協力したのは竹内専蔵という地元の印刷屋だ。彼は、運動に関わりの少ない福島人の中で、写真家の田村鉄三、客自軒の主人で、尾上座の主人である井上康五郎とともに、自由党に味方したとして、警察に捕らえられ会津に護送されている中の一人である。
 ただ、田村鉄三は、福島人とはいっても、出身は三春である。三春藩士田村喜平の三男として安政6年に生まれている。その後上京して写真業を学んだ。福島で写真業を開業したのは、明治12~13年に姉が稲荷神社神官丹治経雄に嫁いだのを縁にしたとのことである。
by shingen1948 | 2007-08-30 05:34 | ◎ 会津への路(自由民権運動) | Comments(0)
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 昨日、浅草宇一郎戸の関係で、自由民権運動家の井上康五郎を浅草屋である現明治病院にプロットした。しかし、話はもっと単純で、井上康五郎は、紅葉館の主人であり、現紅葉ガレージにプロットすべきだったようだ。

 井上康五郎の経歴について、「風雲・ふくしまの民権壮士」では、以下のように紹介している。


 
 井上嘉兵衛の長男で当時28歳。彼の住んだ北町58番地は福島の遊里街で、彼の義父浅草宇一郎は、十手を預かる仁侠人で有名な遊郭兼料理屋の主だった。明治15年の秋、福島事件が起こると無名館に出入りしていたため、田村鉄三郎と井上康五郎は三春の僧侶岡大救らと福島警察署に逮捕され、厳しい取り調べを受けて若松送りとなった。
a0087378_605936.jpg(※ 福島警察署は、元エンドーチェーン跡地の所にあったようだ)

 いくつかの資料を読んでいくと、井上嘉兵衛というのは、「客自軒」の主人であることがわかる。そして、井上喜兵衛の妻であるかねが浅草宇一郎の娘ということだが、養女であったらしい。この夫婦とも、宇一郎は養子縁組をしている。井上康五郎は、その夫婦の長男であるとのことだが、これも養子であるらしい。彼は、「金沢屋」の主人であった斎藤浅之助の妹であるシウと恋仲になるようだ。
 金沢屋では、仁侠人でしかも世良修造の殺害にかかわった浅草宇一郎とのかかわりから、結婚には反対だったらしい。

 つまり、康五郎は、客自軒の若旦那であり、よく自由民権の演説会場として使われていた「尾上座」の小屋も経営していたことになる。

 だから、田村鉄三郎という写真家は、確かに無名館に出入りしていたことが逮捕の理由だろが、康五郎が逮捕されたのは、自由民権シンパとして、料理屋を提供し、演説会場を都合してやったと考えた方が自然であると思う。

 専門的には、資料の確定などが必要なのだろうが、状況だけでそう想像できるのが素人のよさだ。また、生身の人間として活躍する人々やその子孫の方々と直接接していれば、個人の人格の尊厳を考慮し、安易に踏み込めないこともあるだろう。知っているための躊躇である。
 しかし、私にとっては、歴史上の人物としての感覚に近い。

※ 投稿時点で客自軒と無名館の名称混乱があり、修正する。
by shingen1948 | 2007-08-29 06:15 | ◎ 会津への路(自由民権運動) | Comments(0)
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  日曜日に福島市内を散策した時、世良修三の墓は囲む柵の鍵は開けられていた。誰かがきちんと管理している。
先に、世良を暗殺したことを浅草屋宇一郎は後悔し、世良の位牌を大切にしていたということについて考えた。その時は、河野広中を中心とした自由民権運動の人々との付き合いの影響と見ていた。
  しかし、風雲・ふくしまの民権壮士を読んで、修正したほうがいいと思った。
もちろん、世良の使命を理解できなかったことへの後悔という説はとらないのは変わりない。

  修正したほうがいいかもしれないと思ったのは、次の事実が書かれている部分だ。
  民権壮士というほどの派手な人物ではないが、福島では、井上康五郎も若松に護送されている。彼の釈放に関して、浅草宇一郎の名前が登場している。
  井上康五郎が、16年1月に若松で釈放になることになった時、福島署は、検事に宛てて釈放反対の申し入れをしたのだが、翌日には、至急免訴の執行相成度と反対の申し入れをしたという。その警察が至急免訴の願いをすることになった背景が、康五郎の義父浅草宇一郎の嘆願書によるということのようなのだ。
  その嘆願書の中に、自由党などに決して加入いたさざるよう堅く教訓を加へとある。自由民権運動を必ずしも肯定していないことが分かる。しかも、 高橋氏は、十手持ちの侠客による「もらい下げ」の見解を示している。

  フィールドワーク地図の半沢光夫氏も彼を「旅籠と十手持ち」の二つの仕事と紹介していたのだが、そこを充分読みこなしていなかった。

  三島県令は、藩閥政府から自由党弾圧につかわされた。その三島県令は、管理しやすいように、警察署長の大部分を忠誠心の熱い薩摩県人で固めていた。そして、自由民権弾圧が始まるのだが、十手持ちは、その警察のための仕事である。
  浅草宇一郎は、藩閥政府による職を得ていたのだ。そして、世良は、その藩閥政府をつくる仕事をしていた。その世良を暗殺する仕事をしてしまっていた自分との自己矛盾を感じたと考えるのが自然だ。だから、世良の位牌を手厚く扱うことになったのだ。
  自由民権の影響を受けたのは、子どもたちで、それに手を焼いていたらしいことが想像できる。
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半沢氏は、自由民権運動のフィールドワーク地図に、井上康五郎をプロットしていなかった。浅草宇一郎と世良修三の関係について半沢氏は詳しく記載しているのに、遊郭主人の井上康五郎と浅草宇一郎とのかかわりを見落としたのだろうか。
逆に、「風雲・ふくしまの民権壮士」では、浅草宇一郎と世良修三とのかかわりについては言及していない。

  二つの資料を照らし合わせることで、想像が少し深まったと自己満足する。そして、とりあえず、半沢氏の「自由民権フィールドワーク」のページの現在の明治病院に井上康五郎をプロットする。遊郭は浅草屋であろうとの推定だ。
by shingen1948 | 2007-08-28 04:52 | ◎ 会津への路(自由民権運動) | Comments(0)

もにわの湯

朝からの作業で、汗をかいたので、一風呂浴びたいと思ったが、岳ノ湯もこけし湯もまだ開く時刻でなかった。
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高湯のあったか湯まで足を伸ばせば、開く時刻になるかなと思った。着いたのは8時30分で、まだ開いていなかった。入ってみたかったのは、NHK「普段着の温泉」で紹介されていたことにもよる。
眼下に見える源泉の「湯の華」の様子から、確かに効きそうな雰囲気があった。是非入ってみたかったが、案内に開く時刻が書いていないので、10時頃かと勝手に思って山を降りた。
  後で確認したら、開くのは9時ということで、もう少し待てばよかったようだ。残念だった。

山を降りたので、その日は「もにわの湯」に行くことにした。何度か立ち寄ったことがあるが、最近はしばらく行っていなかった。午前9時には開いているはずだ。
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  国道399号線を摺上川沿いに行くと、穴原温泉を過ぎて、山々に囲まれ緑色の自然の景色が続く。途中滑滝というキャンプ場に立ち寄った。先日、この滝壷に落ちた子どもが亡くなったということだが、キャンプ場は賑わっていた。確かに、昔に比べれば水量が多いなと思う。

滑滝を過ぎると直ぐに、ロックフィルダムが見えてくる。案内にしたがって左折すると、ダムのふもとにある笠のイメージの建物「もにわの湯」にたどり着く。
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パンフレットで、概要を確認して記録しておく。
  住 所:福島県福島市飯坂町茂庭清水川原
泉 質:アルカリ性単純温泉
源泉名:広瀬源泉、掘削深度1,000メートル
源 泉:40.9度、ph:9.2
泉質別適応症:きりきず、やけど、
一般適応症:神経痛、筋肉痛、五十肩、疲労回復、健康増進等

露天風呂と内風呂がつながっている。共同浴場にしてはやや温めである。洗い場は8箇所あるが、今日は混んでいたので、ちょっと足りない感じがする。
ph:9.2のアルカリ性単純温泉ということは、お肌つるつる「美人の湯」といえるが、塩素の匂いがした。
休憩所があるのでゆっくりできる。前にきた時は、この建物の入り口で、野菜を売っていたが、今は独立して「茂庭ふるさと館」に現地の野菜を並べている。
  NHK「普段着の温泉」を確認していたら、「もにわの湯」も紹介されていた
by shingen1948 | 2007-08-27 05:22 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)
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 民権壮士の斉藤又郎の墓がここにあるとの事だったので、昨日の散歩は、本法寺からスタートした。この寺、先に記事にしたのは、飯坂古道のスタート地点としてだった。
  今回は、墓を確かめる興味もあって、裏にも回ってみたが、お墓には行けそうにもなかったのであきらめた。裏の細道を南に進む。奥州街道で、民権壮士とのかかわりで旅籠の位置を確かる。そのまま進んだら稲荷公園の裏に着いた。世良修三の墓の鍵はあけられていた。その後、自由民権新聞発行所跡、無名館跡を地図と照らして確かめて、県庁まで進んで散歩を終了した。

さて、福島では、三島通庸が鬼県令として有名だが、福島では全国的に見て自由民権運動が盛んであったとこととの対比であるようだ。「風雲・ふくしま民権壮士」によると、抑圧があって、自由民権運動が盛り上がったというよりは、全国に先駆けた自由民権運動があって、藩閥政府は、それを抑圧しようとしたのが、対立の始まりのようだ。
選挙の実施や県会の開催も全国での動きよりも早かったようだ。
福島では、明治6年には、常光寺を仮県庁にし、明治10年には模擬県会が行なわれている。そして、明治11年(1878)には、県会が開かれている。全国に先駆けて開催された最初の県会は、長井山「西蓮寺」で開かれたらしい。
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長井山「西蓮寺」は、慶長19年(1614)創建で、浄土真宗(一向宗)の寺である。
奥州街道本町の米沢街道口から北に入って直ぐ右手の寺である。昭和30年に防災道路のため、強制疎開され、墓地の半分は、岩谷に移転し、戊辰の役で戦死した官軍の筑藩西島新蔵の墓も岩谷墓地に移転したという。昔はこの辺りは、寺が並んでいたところであるようだ。

半沢氏のフィールドワーク地図には、「西蓮寺と自由民権運動」として、以下のメモがある。
福島県は全国各県より半年も早く「県民会規則」を公布、これをもとに明治11年6月1日ここ西蓮寺を会場にして県会を開会。(全国各県の最初の県会開会は翌12年の6月であった。福島県は1年も早くさきがけて開かれた。) 三新法、府県会規則による第一回県会も西蓮寺で開かれた。

また、この時に話し合われた内容について、半沢氏の「福島の自由民権家の事績を探る」フィールドワークのページに、それと関わる記載でわかる。
伏拝から蓬莱団地に抜ける旧4号国道に矢印をつけ、以下の記載がある。
1878年(明治11年)6月1日全国より1年早く先駆けた県議会での県提出議案第1号「国道線築造ニ付議件」伏拝~杉田間の国道建設案に対して住民負担を軽くするための修正案提出など官民一体で協議(於西蓮寺)

 福島では、昔の風景や町並みが残っていないので、フィールドワークを楽しむのには、資料を元に下調べしないと想像しにくい状況であるのは残念だ。
by shingen1948 | 2007-08-26 10:54 | ◎ 会津への路(自由民権運動) | Comments(0)

奥州街道、西裏通り

  福島市は、あまり特色を持つ市でないが、県庁所在地であるというのも一つの特徴だろう。県庁・県議会などをキーワードに、探索を整理してみる。

自由民権運動の探索は、豊田町界隈だろうか。県庁のスタートは、常光寺らしいし、県会のスタートは、西蓮寺らしい。そして、現在の県庁は、福島城跡といったところだろうか。
田町界隈と自由民権運動については、先に探索したことをもとに書いた。今日は、信夫橋から、西裏通りにかけての探索から、常光寺を拾う。
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信夫橋から奥州街道の西裏通りは、寺町通りである。その中に、常光寺という大きな寺がある。その寺の前には「福島の城下まちづくり協議会」が案内板を掲げている。
その説明によると、譜代大名板倉家の菩提寺とのことだが、仮県庁であったことや、模擬県会が開かれたことも案内されている。

先に書いた豊田町辺りの自由民権運動の雰囲気を伝える本を探していたのだが、演説会の様子が書いてある本を見つけて読んでいるのだが、その中に、福島の自由民権運動は全国に先駆けた運動だったらしいことが書かれていた。歴春ふくしま文庫64「風雲・ふくしまの民権壮士」髙橋 哲夫著である。

この本によると、明治8年(1875)から10年(1877)にかけて、県内では民権運動が芽生え、石川の石陽社、三春の三師社、喜多方の愛身社が立ち上がっている。これは、全国的には政治結社ができて、国会開設の運動が起き、10年後に国会開設を約束するのは、明治12から13年にかけてである。また、全国的には、明治12年から選挙の実施と県会が開かれることになるのに対して、福島県は、明治11年(1878)に実施されているということらしい。

  常光寺の案内板にあった「明治6年に仮県庁にされ、明治10年に模擬県会が行なわれる」という内容と照らし合わせ、事実をつないで想像すると、模擬県会のギトギトとした熱意が伝わってくる。

自由民権運動が本格的に活発になり、自由党や改進党が結成されるのは、明治14年である。この時にも福島県は速い対応をしているようだ。先の河野広中は、福島県議長の地位を確保している。板垣退助総裁が自由党を結成すると直ぐに、無名館という自由党の福島部が創設されると、河野広中らは、そこに常駐しているという。

あまり話題にならないが、福島は、戊辰戦争のスタートを切った地であることは先に書いたとおりだが、藩閥政治との戦いのスタートの地でもあるらしいということのようだ。そして、これも会津への路につながっているようだ。

常光寺の案内板説明
by shingen1948 | 2007-08-25 05:44 | ◎ 会津への路(自由民権運動) | Comments(0)

河野広中とキャリア教育

最近職につけない若者と接触することが多い。
だが、一般的にいわれているフリーターやニートのイメージとは程遠い若者ばかりだ。職業意識の希薄化も感じないし、我慢が足りなくて、職場になじめそうもないとも感じない。

 人の生きかたについて、批判的に扱うのは個の尊厳の観点から、いろいろ慎重に考察すべきだが、歴史上の人物なら、ある程度大胆になれる。
 河野広中の生きかたをキャリア教育という観点でながめ、周りの若者たちが、何故職業的な敗者になっているのかを憤慨し、応援したいという気持ちから、ちょっと感じたことを書く。

  現在のキャリア教育の目的は、しっかりとした勤労観・職業観を身につけて社会人職業人として自立することだという。これを、生き方の問題としてとらえるとするならば、河野広中は、理想に近いのではないだろうか。
自分の思いを達成するために、強い信念を持って突き進んだことが、結果として県議会議長のポストを得て、代議士という職業をまっとうさせるということに結びついたと見える。
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ところが、地域を探訪していると、この強さの輝かしさの影が見えてくる。
河野広中は、三春藩の下級武士だが、戊辰戦争では、三春藩は自国の無血開城のため、同盟を裏切って政府軍を手引きした。そのことが、二本松藩の悲劇へとつながっていくのだが、この裏切りに、彼は積極的にかかわっているという。
  単に無血開城という目的のためだったのか、あるいは、新政府の理念への賛同の強い意思だったのかは分からない。彼は、母成から会津への道案内もしているのだ。そして、このことが板垣退助との交流を生み、彼の自由民権運動につながるという道筋をつけることになっているようなのだ。
  これが、彼の職業的な結果を生む強さの裏側だと思えるが、時が過ぎれば、こういった影の部分は忘れ去られる。そして、やがては銅像が建つ。

今、労働の現場は、働き方の価値観の変化が激しい時代だ。雇用の流動化・成果主義賃金の導入など、成果を競う強さが重点的に求められている。この中に無防備に飛び込まされるのが、若者を取り巻く職業的な環境だ。この環境に反省を加えようという動向はみられない。むしろ肯定されているようだ。

  自分の周りにいる職業的な敗者は、確かにこの環境に耐える強さが足りないような気がする。目的のため、あるいは信念のため、他者を押しのけるような強さだ。たとえ押しのけたものの悲劇を生むことがあってもつきすすむ。そんな強さを持ち合わせる必要があるのかもしれない。
  もっとも、そんな若者と付き合いたくはないが……。
by shingen1948 | 2007-08-24 06:05 | ☆ 教育話題 | Comments(0)
  今年の夏は、死者との語らい、その中でも特に、被爆に関することを考えた。その分、その他の事について書き落としているものの中から適当に選んで記録しておくことにする。
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  8月9日、会津に行く機会があった。このとき、十六橋に立ち寄った。戊辰戦争で会津へ入るのを防ぐ関門の役割をになうべきだったはずだという思いのところの確認だ。
  母成を越えた西軍が、この十六橋を突破して、会津へ入ってきたという場面を思う。

  ここにたどり着く前の様子を確かめておくため、半沢氏のフィールドワーク地図「母成峠に戦禍の跡をたずねて」のうち、戊辰戦争の関わりのメモを拾っておく。
 慶応4年(1868)旧8月21日(太陽暦10月6日)戊辰戦争、西軍(薩、長、土、大垣、大村、左土原の各藩兵200人)三春藩の河野広中の先導で母(保)成峠の会津軍(旧幕府歩兵奉行大鳥圭介、旧新撰組残党土方歳蔵ら200人)と激戦
西軍侵攻、翌22日十六橋を攻略、会津軍、石筵の集落を焼いて退却
※ 石筵住民、西軍の道案内、大鳥圭介の本陣も焼く。

この十六橋とは直接関係ないが、案内が河野広中であり、ここに、板垣退助が大将の一人としているわけだから、彼の人生がプラスに働くのは、これらの行動がもとになっていることが分かる。

  そて、十六橋とのかかわりで、その後の道程に係わるメモを拾う。
旧8月21日の激戦の日、猪苗代の土津神社に火を付け、250戸の民家を焼いて退却、その日、猪苗代城にも放火している。
 板垣退助ら本隊の母成越えの他に、中山峠ルートで西軍の陽動作戦隊400名が進撃している。

 これらの状況の中で、この十六橋を越えるという事実が発生する。
  本来は、この十六橋は、会津軍が撤退した後、落とすべきだったのだが、そうならなかった。西軍はなんなく突入してしまうのだ。
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 政府軍は、ここを渡って、戦陣を整えた22日になって、戸の口原を戦場に戦いが起こる。
 戦略的には一瞬遅れている。会津の悲劇が着目され、見落とされているが、既に上層部は情報収集と決断の遅さを生んでいるのだから、パニック状態であったと推定できる。
 23日には、戸の口堰沿いに撤退した白虎隊が、飯盛山で自害する。
 落城は、9月22日であった。

  なお、半沢氏のメモには、この十六橋についても記録されている。
  天明6年に修造、二十三橋となっている。その後、明治12年安積疎水の制水門として改修十六橋石橋としてよみがえる。大正3年には、橋と水門を分離し、東京電力の前身渋沢栄一らの猪苗代水力電気KKになっている。

by shingen1948 | 2007-08-23 05:45 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)
 映画視聴記録をDVDで観たものと映画館で観たものに分けていた。映画館で観たものは記事にしていたが、DVDで観たものは記事にしないで、ライフログの欄に記録していた。
 今回、ライフログに記録した部分を、このページに記録して、カテゴリー「映画・ビデオ視聴」に入れ、ライフログの欄を整理した。

DVD・映画視聴記録
3丁目の夕日
なごり雪 
父と暮らせば 
笑いの大学
かあちやん 
あの、夏の日とんでろじいちゃん 
星になった少年 
あおげば尊し 
ラヂオの時間※ 2007.8.16レンタルビデオで観る。 【配役】唐沢寿明、 鈴木京香、 西村雅彦、 戸田恵子 【監督】三谷幸喜
by shingen1948 | 2007-08-22 20:16 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(0)