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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

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戊辰戦争は、一般的に、いくつかの段階に分けて認識しているようだ。
a0087378_18234344.jpg その中で、自分の身近なフィールドの関係から、松平容保の処分の問題に起因する会津戦争の段階を中心に確認している。特に、二本松城が落城し、母成峠の戦いで旧幕府軍の防衛線が突破され、新政府軍は若松城を包囲するあたりを中心に確認していた。
  そこには、日本を改革するという正義の名目とは縁遠い、私憤によって世の中を動かそうとする傲慢が勝ち誇る歴史が見えてくる。※写真は二本松大隣寺の少年隊の碑である。

  そんな中、2007.6.23の「福島民報」書評に佐高 信著「西郷隆盛伝説」~《敗者から見た人間像》について鈴木由紀子氏の書評が目に付いた。

  会津と同じように、徳川幕府を支えた東北の雄藩でありながら、庄内藩は無血開城していることに触れているからだ。書評によれば、そこには、西郷の寛大なる処置があったという。以来、庄内藩は西郷に傾倒し、西郷を慕って鹿児島に渡り、西南戦争で命を散らせた若者もいたというのだ。

 作品で描きたかったことも、書評したかったことも、以下の西郷の心情だろう。

 戊辰戦争の前、西郷は薩摩藩邸の浪士相楽総三らに江戸を攪乱させ、江戸の警備に当たった庄内藩は挑発に乗って薩摩藩邸を焼き討ちにした。
西郷はこれで戦端が開けたと喜んだという。そして、西郷は謀略にはまった庄内藩へは温情をかけ、相楽総三らの「赤報隊」は見捨てる。
  薩摩藩が幕府を敵視し、幕府側から戦争を起こさせて大義名分を得てから、葬り去ろうという作戦であり、現代から見れば騙しあいである。
  西郷がいかに軍事的手腕に卓越した人材であったかということでもある。

 しかし、会津の悲劇との対比という観点からは、薩摩の西郷は、策略としては「赤報隊」を利用しながらも、最後の正義の判断としては、相楽ら赤報隊を「偽官軍」として葬るという大きな視野の正義を採用する対応をしたことである。長州藩の大将達は、世羅に代表される近視眼的私憤による対応であり続け、会津に向かう薩摩や長州兵の残虐行為を抑えるリーダーがいなかったということである。

先日の安倍首相はそのへんも見込んで頭を下げる度量あるリーダーぶりを発揮したのだろうか。それとも、選挙に勝ちたい一心だったのだろうか。
by shingen1948 | 2007-06-30 18:32 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)
 川の流れをたどっていると、これはどこからはじまるのか確認したいという思いが起きる。観察地点にした安達太良川の上流三ツ森上流をたどって水源地を訪ねようとすると、かなり難しい。大玉土地改良区の用排水系統図によれば、五回の枝分かれを繰り返すところを確認しながら、それをたどって水源地点にたどり着かなくてはならないからだ。
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  安達太良川の玉井大木原で合流する本流が、小高倉林道沿いに走っている。その本流に山の中で合流する支流の水源地が、水道の第2水源地を少し過ぎたところにある広々とした共有地の脇の林の中にある。




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  ここは、「大玉まるごと百選」に、「安達太良川の水源地」として紹介されている。
  小高倉山一体は全て湿地帯で山のいたるところから自然と水が湧いてくるようなところだ。この山の山頂の程近くに、小さな泉を形成しているところがある。どこからか水が湧いてくるのだろう。よく見るとさらさらと水面が動いている。水は一カ所に集まり、幅1㍍ほどの清流となって流れ出す。これが安達太良川の始まりである。地元では「太良川」と呼んでいる。
草原のじめじめした水分が、一カ所に集まって、ここがスタートだという実感が湧く。
a0087378_18532346.jpg  フタスジモンカゲロウの成虫が飛んでいる。この水源地に生息していた幼虫が成長し、羽化しているのだ。ちょうど今が羽化の最盛期のようだった。

この小高倉山では、昨年JR主催の「第三回 安達太良ふるさとの森づくり」で植林活動をした山だ。「日本で一番木を植えた男」としょうかいされた宮脇先生の姿を始めてみた思い出深い山でもある。
by shingen1948 | 2007-06-29 18:55 | ◎ 水 | Comments(2)

安達太良川上流の昆虫

 昨日は、前日までのぐずついた天候でが嘘のように晴れわたった。梅雨の晴まで、夏を思わせる天気だ。
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 昨年の水生生物観察と同地点で、観察を行った。雨の影響で少し水量が多かった。また、季節も違うため、観察できる生き物も違っている。冬にゆっくり育った昆虫の幼虫などは、、春の暖かさで、5月頃から成虫になって丘に上がるものが多いので、水生生物を見つけるという点では、今はあまり見られない時期である。そういう意味では、山に遊ぶ昆虫を追いかけるのにいい季節なのかもしれない。
 それでも、以下のような水生生物が見つかった。
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 一番多かったのが、フタスジモンカゲロウで、そろそろ羽化するものが30ほどみつかった。カワゲラ・ミドリカワゲラという小さなカワゲラ・赤い色のヤマトカワゲラ・アミカワゲラ・流れが速くても、体が平たいので流されないというヒラタカゲロウ・コカゲロウ・本当は水が嫌いで、水面近くにいるノビカワゲラ・ヤゴ(サナエトンボ)・ヤゴ(オニヤンマ)・さなぎや幼虫もいたヤマトトビゲラ・シマトビゲラ・四角い筒の中にいるカクツツトビゲラ・目が四つあって、上も下も見ている動きの速いミズスマシが二種で普通のミズスマシとオナガミズスマシ水がきれいな所でないといないマルガムシやサワダマメゲンゴロウ・ウズムシ(プラナリア)・トビゲラの卵塊・ガガンボ・サワガニ
by shingen1948 | 2007-06-28 04:05 | ◎ 水 | Comments(0)
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  戊辰戦争のスポットライトは、会津で強くあたり、安達地区ではその悲劇にたどり着く道が見える。福島地区では、それほど戊辰戦争についての意識は強くない。ただ、この悲劇を生んだ主人公は、福島市の稲荷神社の裏手にひっそりと祀られている。よく手入れされ整備されているが、金網でしっかり囲まれてガードされている。

この墓に眠るのは、世良修三だ。倒幕軍が来る前に、仙台に奥羽鎮撫総督府が置かれ、東北地方を全部従えようとしたのだが、彼はその参謀であった。大将は、九条道孝という朝廷の人だが、この人は指揮をとる力はなく、彼が指揮をとる。

仙台に着くと直ぐに、仙台藩に会津や庄内藩の征伐を命じる。明らかに庄内藩の征伐は倒幕の名目にならない。戊辰戦争が、正義に名を借りた薩長連合の遺恨の戦いだとする象徴的なことと思われる。恐らく彰義隊とのかかわりであろうと推測される。

また、会津藩は、奥羽鎮撫総督府に、初めから朝廷のために力をささげてきたのであり、新政府に逆らうつもりはないとして、仙台藩や米沢藩もあやまりの許しをこう手紙を書いたが、世良修三によって握りつぶされていた。それどころか、仙台藩が、奥羽鎮撫参謀の世良修三が本軍に宛てた密書を開くと、そこには『奥羽皆敵』とあった。
藩士らは、福島で世良を襲撃、阿武隈川の川原で処刑した。

  この世良の襲撃と処刑が、奥羽鎮撫参謀の世良修三の私憤を粉砕し、東北31藩の結束を固め、奥羽列藩同盟が出来て、薩長の新政府に対抗する事となった。実質的な泥仕合のスタートは、ここで切られたといっていい。

仙台領白石で奥羽列藩会議が開かれ、同盟が結成されるが、実際の戊辰戦争で政府軍と本気で戦ったのは、会津、庄内、長岡、二本松、仙台藩という。そのうちの討幕軍が二本松の戦いから、会津へ向かうあたりを「会津への道(戊辰前後)」としてまとめてきたということになる。
by shingen1948 | 2007-06-27 05:00 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)

師を弔った大手門

小沢幾弥戦死の場面でかかわった西軍の大将は、薩摩藩の隊長・伊藤仙太夫で、幾弥の両手の指先は、ほとんどの爪が剥がれ、残った爪には土が詰まっていたという。
後日、坂下門(久保丁坂入り口)の掘付近の土中浅く殻八太夫の屍が発見されるのだが、幾弥が、師を背負って山を降り、息絶えた八太夫をその場に埋めたのだろうと想像されている。八太夫の発見された場所の土が、血に固まっていたとのことだ。
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 師を葬った「坂下門跡(大手門)」の脇には、案内板が立っていて、以下のように説明されている。

 二本松市指定史跡
 一 名称 坂下門跡(大手門)

 旧久保丁入り口に建造された大手門のことであり、俗に坂下門とも称している。
九代藩主・丹羽長富公の治世、天保3(1832)年に幕府に絵図面を添えて願い出し、許可を得て着工された。二本松藩の大手門でもあり、きびしい規制のもとにあった城普請ではあったが、当工事は幕末期二本松藩の傑物家老として天下に知られた丹羽久米介貴明の構想であり、絵図面計画以上の堂々たる大手門が完成したと伝えられている。

 昭和51年7月21日指定
 二本松教育委員会
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その坂下門は、小沢幾弥戦死の地の直ぐ東のところにある。戦死の地から坂下門の方向をみる。
by shingen1948 | 2007-06-26 04:11 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)
  霞城落城の日である29日の最初の西軍の攻撃は、午前7時ごろの供中口(ぐちゅうぐち)の戦いだ。ところが、この戦場は、簡単に落ちる。その理由は、以下のようなことであった。

  三浦権太夫義彰は、信念的には、勤王だが、東軍として西軍と戦わなければならない立場だった。それで、戦いを挑むのだが、相手に被害が及ばぬように鏃を抜いて弓を引き、農兵をさっさと退去させて、自分だけ自害した。

 このことは、時代が過ぎて、西軍の時代になったので、勲章を頂くことになる。しかし、この日に、この後ろの通称「愛宕山」で守備についていた東軍の兵士にとっては裏切りでしかないといったら言い過ぎだろうか。この話は、二本松少年隊の次の話に結びつくのだ。
  二本松青年会議所の紙芝居では、次のように描かれている場面である。
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  小沢幾弥という少年は、戦いで戦いで死んでしまった朝河 八太夫という先生をかついで、お城へ向かって歩いていましたが、自分も怪我をしていたので途中で疲れてしまい、目も見えなくなって、一歩も歩けなくなってなってしまいました。仕方なく、手で穴を掘り、先生をそこへ埋めました。そこへ西軍の大将が通りかかり、まだ子供なのを見て可哀想に思い、「しっかりしろ。」と声をかけました。すると幾弥は、「もう助からないから首を斬って下さい。」と頼みました。「言い残すことはないか。」 「家の人に会ったら、幾弥は一生懸命戦ったと言って下さい。」 「よし、必ず伝えるぞ。」そう言って西軍の大将は幾弥を安心させると、願いをかなえてやりました。

 幾弥は、武衛流砲術師範・朝河八太夫の門下で、開戦時には朝河隊に所属し、師と共に愛宕山に出陣したようだ。愛宕山からは供中口が一望でき、供中口の開戦と共に、砲撃を始めたのだが、その戦いぶりは上記の通りだ。
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 供中口が破れると、退いた兵を追って、敵兵が愛宕山に向かって来る。敵兵に向かって、銃弾を浴びせるが、敵の攻撃は激しく、八太夫が撤退を命じた直後、敵砲が破裂して、八太夫は瀕死の重傷を負う。幾弥も負傷するが、重傷の八太夫を背負い愛宕山の陣地を後にした。
  この後の話が、紙芝居の内容だ。

愛宕山については、根崎の道標に次のような説明を見つけた。
二本松愛宕山は、丹羽氏による町割り以前は、二本柳(現安達町)まで人家一つない広野であったので「大原」といった。その中心の山を大原山(現愛宕山)と称したという。明治35年から昭和16年まで大原遊郭として栄えた。
by shingen1948 | 2007-06-25 21:40 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)
  ニュースで、県がヘリでの病人の搬送などが可能なように配備したとは聞いていた。それでも、実際に現場を目撃すると、個人的には珍しい出来事に出会った気分になる。

昨日、午後3時頃、この救急の搬送リレーを目撃した。
突然な出来事なのに、スムーズに事が運び、そして、何事もなかったように平常な日常に戻っていく様は見事で、感心してしまった。
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  日曜日、大玉村球場では、ソフトボールの試合が行われていた。








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2時半頃だったろうか、突然救急車のサイレンが近づき、回りが騒々しくなってきた。その救急車と消防車が球場に入ってきた。






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「試合を止めて、球場の外に出るように」とアナンスがある。どこからともなく、ヘリコプターの音が近づいてくる。
皆が球場の外に出ると、消防隊の水撒きがはじまった。救急隊員が、球場内の荷物の点検をはじめる。





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消防隊員が合図を送ると、上空で下の様子を見て待っていたヘリが砂煙を上げながら着陸する。
中から三人の隊員がけが人を降ろし、救急隊員と引き継いで去っていった。




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「ヘリは、猪苗代からけが人を運んできました。これから、救急車はM病院に向かます。ご協力に感謝します」とのアナンス後、球場を去っていく。
何事もなかったようにまたソフトホールの試合が再開された。




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隣でみていたおばさんが、帰り際、「わたしは田舎者だから、草刈していて、ヘリコプターがきたので珍しくてとんできた」と話し掛けてきた。「私は、珍しいから写真を撮ったよ」といったら、おばあさんは「あんたは、私より田舎者だ」と笑って帰っていった。
by shingen1948 | 2007-06-25 04:08 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

二本松少年隊と玉井村

二本松が落城し、その後、会津へ向かう道としての大玉村玉井については、先に母成峠を越えて会津の悲劇につながる通過点としての位置付けを中心に書いた。落城した二本松城を奪還しようとした動きと31人の墓、母成戦争ともう一つの母成戦争という視点だった。
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  玉泉寺が西軍の野戦病院だったことから、二本松落少年隊との直接的なかかわりが残っているという。
「大玉まるごと百選」によると、大玉村玉泉寺には、官軍先鋒の長州藩の吉村熊之助と二本松少年隊の久保彦治郎と豊三郎兄弟の墓があるとのことだ。戊辰戦争の時、野戦病院だった玉泉寺に運ばれ、傷つき死んでいった者たちの墓だ。
 大隣寺のホームページによると、二本松少年隊の「久保家の墓所は二本松台運寺にあるが、ここでそのまま葬られたものと見られる。」とのことだ。
a0087378_42331100.jpg  寺に行き、墓所にも行って、この地を治めていた大河内氏の墓は、確かめたが、戊辰戦争関係のこれらの墓はまだ確認できていない。

  二本松少年がここに運ばれてきた経緯は、以下のようだ。
 豊三郎12歳は、大壇口の戦いで負傷して城に向かって撤退したが、二本松の城は落ちる。それで、岳温泉方面へ敗走し、会津の丸山方で傷を癒していたが、庭坂村に藩士達が集結しているとの情報を得て二本松に向う。
  その途中で倒れて西軍の野戦病院になっていた玉泉寺に運ばれたが、11月には破傷風のために亡くなった。
また、兄鉄次郎15歳も戦傷で、ここに運ばれたが、互いに同じ所にいることを知らなかったという。鉄次郎も12月に亡くなったということのようだ。

庭坂村に藩士達が集結している時期のこの辺りの様子は、先の「山入り村の戦い~母成峠の戦い前夜」の記述と重なる。

西軍兵士の墓は、長州藩士吉村熊之助だけでなく、薩摩藩士の伊座敷全之進、薩摩藩次郎、土佐藩士の近藤楠馬のまだ20歳前後の若者4名の合祀墓らしいとのことだ。
by shingen1948 | 2007-06-24 04:30 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)
 二本松においての戊辰戦争は、白虎隊に対比させるため、少年隊にスポットライトを当てて語られるので、その他のことは、陰に隠れてみえなくなっていることを差し引いて、自分の頭を整理する必要がある。

 大壇口も、木村銃太郎率いる少年隊が守り、ここが二本松の戦場としてはかなりの激戦であったということには、イメージのギャップがある。あちこちで、聞きかじったりしたことを継ぎ合わせて、実感のある想像ができるように組み立ててみる。

 この地は、丹羽右近隊3小隊が守るのだが、最新の砲術技能を持つ木村銃太郎に、人手が足りない分は、少年たちを手伝わせることで、砲撃の力を高めることができると考えたのではないか。少年の隊員22名を木村銃太郎につけて、一隊を編成し、4小隊合わせて100名が決死の覚悟でこの地を守っていた。
 更に、ここが二本松藩の奥羽街道の要所であり、この地を囲んで守備地を設けて配備し、最後の砦となるように配置しているのではないか。西軍は、ここにたどり着くまでに、他の守備地を突破してこなくてはならない。そして、ここを破ることが、二本松藩崩壊につながるとの思いがある。
 突破されてしまった二本松藩の守備地から敗走してきた者は、この地をめざす。また、城側からも、この地に駆けつけた援軍とともに、この地を死守しようとする想いがあって、この地が最後の激戦地になったのではないか。
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 更に、本当の古戦場は、二勇士の碑の建つ高台の向かい側の高台で、木村隊は、バイパスの橋桁の下に見える旧奥羽街道に正対して、この高台に陣をはり、攻撃を行ったと説明もみる。旧奥羽街道と思う道路から、西軍の視点でその方向を見ながら想像する。

 午前7時ごろに二本松の北東にある供中口で戦闘がはじまった。奥羽街道では、ここから数百メートル先の尼子台に、板垣が率いる軍勢が攻撃をはじめた。板垣隊だけては突破できないので、本宮の臼砲隊が応援する。先鋒が尼子台の小川隊を引き付ける間に、本隊が東端から大壇口を包囲した。
 そして、……。
by shingen1948 | 2007-06-23 09:04 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)
a0087378_4273339.jpg 大隣寺は、二本松藩丹羽公の菩提寺だが、この門前が、副隊長の二階堂衛守と少年隊の岡山篤次郎戦死の地ということだ。大壇口から隊長の銃太郎の首を下げてきた2人は、ここまで来たところで狙撃され戦死したとのことだ。二階堂は33歳、篤次郎は13歳だったという。



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  二本松青年会議所の紙芝居では、次のように語られる。
 木村先生は、「ここはもうだめだから城へ戻れ。私はもう助からないから首を斬ってくれ。」と言って、副隊長に自分の首を斬らせました。
 子供達は、泣きながら木村先生の体を土に埋め、斬った首を持ってお城へ向かって歩き出しました。お城へ向かう途中、大隣寺というお寺のそばまで来た時、西軍の兵隊に見つかり、鉄砲で撃たれてしまいました。この時、岡山 篤次郎という、鉄砲撃ちがとても上手な少年も大怪我をして倒れてしまいました。西軍の隊長は、篤次郎がまだ小さい子供だと知って可哀想に思い、病院に運んで怪我の手当てしましたが、「鉄砲を持って来い」 「鉄砲の玉はどこだ」と、うわごとを言いながら、やがて死んでしまいました。これを見た西軍の兵隊達は可哀想に思い、涙を流して泣いたそうです。

 衛守は即死、篤次郎は瀕死の重傷を負って、敵の土佐藩士によって野戦病院になっていた称念寺に運ばれたという。西軍隊長・土佐藩士の広田弘道が、介護にあたったという。このエピソードは、広田が少年に対して反感状を送って、それが碑になって残されたとのことだ。
by shingen1948 | 2007-06-22 04:30 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)