地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

カテゴリ:◎ 地域散策と心の故郷( 811 )

 西東塾の俗称は「さつま様」だったという「金谷川の教育」の情報がある。
 この左端の石碑は、その事とかかわる墓碑なのだはないかと想像する。
a0087378_17394617.jpg 前面に、〇「祠官薩摩守行廣墓」が読め、右面に「寛政7年」と数文字が2行にわたって刻まれているのが分かる。
 寛政7年(1795)に亡くなられた神職であった薩摩守行廣氏の墓碑であろうことが分かる。
 そこに「薩摩守」とあることと、西東塾の俗称は「さつま様」だったこととがかかわるのだろうということが想像できる。

 その「薩摩守」について確認をする。

 まずは、江戸時代の官名の名乗りとということからの推測。
 江戸時代の官名の名乗りは、有資格者の通称であって役職とはかかわらないようだ。ただ、
その官途名や受領名を名乗れるのは武家の中でも諸太夫以上とされているということではあるようだ。
 八丁目宿場にあっては、支配者層に属する家というにとどまらず、その中でも名乗りの有資格者であるという格付けをも意識されるということであろうか。
 ここまでは〇〇守という一般的な官職名の名乗りのことだ。

 この「薩摩守」というは、特殊な官職名であって、松平薩摩守である島津家の独占ということで、更にグレードが高いということで一目置かれていたということになるのだろうことが想像される。

 次に、ここが江戸時代のこの年代は二本松藩の支配下にあった事も考慮にいれて確認してみる。ただ、ここからの想像は曖昧さも多くなる。
[PR]
by shingen1948 | 2018-08-18 17:41 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「金谷川の教育」の情報では、石碑の前の石の祠が広親氏御夫婦の霊神墓のように解説される。
a0087378_13565620.jpg ならば、この右手の祠がそれにあたるのだろうと思われるが、どうだろうか。
 情報では、「源廣親・満津姫霊神墓(明治十三年)」が刻まれるとの事だが、確認できてはいない。

 先の散策では、その「金谷川の教育」の情報を元にして、西東広親氏が広栄氏と共に「石合の西東塾(俗称さつま様)」という私塾師匠であったことを整理している。
 その広親氏と広栄氏とは親子関係であるらしいことも確認しているのだが、この情報では、明治14年の明治天皇東北御巡幸の際に和歌を献上したのは広栄氏の方だと紹介されるのだ。

 それで、「松川のあゆみ」を確認し直す。
 ここでは、明治天皇東北御巡幸の際に「当日献上した詩歌」として、次のように記される。

 「祝辞 松川村 権訓導 平林宥京(天明根・西光寺住職)
  和歌 松川村 斎藤健輔(本町蝋燭屋主人・歌人号春連)
  和歌 村社神宮権訓導 西東広親(石合町・神官)」

 「福島のいしぶみ」の記述とも合わせて、天皇東北御巡幸の際に和歌を献上したのは広親氏の方だろうと推測しておく。

 今回、その「当日献上した詩歌」を確認していて新たに気になったのが、広親氏と共に、天明根西光寺住職平林宥京氏も権訓導とされていることだ。

 この職は、「再び八丁目宿へ ~西東広親②」で整理した教導職の最初の階級にあたる。
 西光寺住職平林宥京氏も、この職にあったということだ。

 この職は、当初は全ての神官と神道家、それに僧侶が任命されたとのことなので、自然な成り行きだったようには思う。
 また、この職は敬神愛国・天理人道・皇上奉戴に基づき、各地の社寺で説教を行ことが求められているとのことだったという。その教授内容の中心は、国家・天皇への恭順や敬神思想とのことだ。
 従って、御二人が明治天皇東北御巡幸の際に祝辞を述べたり詩歌を献上したりしたことも自然な成り行きだったように思う。

 ただ、平林宥京氏は、先に整理した「維新館」にも大きくかかわっているらしいのだ。氏はこの維新館の塾生となっている。それだけでなく、そのかかわりから松川小や浅川小の教師にもなっているらしいのだ。

 この「維新館」は、松川村が二本松藩士田島久敬氏を招いて立ちあげた私塾だ。これが八丁目小学校開設の原動力にもったとのことだった。
 塾の師匠は二本松藩士だ。当然、旧来の儒教や仏教重視の理念のはずなのだ。ならば、路線的には、この教導職とは対立関係にあったのではないのかなと思うのだ。その迷いのようなものがあったのではないのかなと想像するのだが、どうだったのだろうか。
[PR]
by shingen1948 | 2018-08-13 14:01 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「西東広親碑」の前半は、氏が権少教正の教導職に正式に任命されたことが記される。

 教導職は、神道国教化運動のために設置された明治政府の大衆化のための宗教官吏とのことだ。
 各地の社寺で、敬神愛国、天理人道、皇上奉戴に基づいて説教を行うことが期待されていたようだ。具体的には、国家・天皇への恭順や、敬神思想を中心とした内容で、ほかに、家族倫理、文明開化、国際化、権利と義務、富国強兵についての講義ということらしい。

 この制度自体は明治17年に廃止されているらしいので、明治18年7月9日付任命に危うさは感じる。
 ただ、その任命者稲葉正邦氏は、明治8年に神道事務局を設立して管長に就任し、明治17年に事務局が神道本局に改組されると、その初代管長に就任しているようなので、神道本局からの正式な任命であるようには伺える。

 この任命者稲葉正邦氏については、この地域では特別な思いもあるように推測する。
 その経歴を確認すると、二本松藩主丹羽長富のご子息らしいのだ。それが、稲葉正誼氏の養子になられたということのようだ。
 江戸時代は、山城淀藩主稲葉家12代となり、文久3年には京都所司代に就任。
京都守護職松平容保とともに尊攘派に対峙。老中にすすんで、国内事務総裁をかねて将軍徳川慶喜公を補佐した。
 しかし、鳥羽・伏見の戦いでは中立を宣言して、これが新政府軍勝利の一因となったとされる。この辺りの動きは、大河「八重の桜」の整理とのかかわりで引っかかるところではあるが、ここではふれない。

 明治期には、版籍奉還で淀藩知事になり、廃藩置県でその地位を退く。
 維新後は平田鐵胤に入門して神道に傾倒し、三島神社宮司や大教正などを歴任することになるようだ。
 このことが、明治初期の神道国教化政策整備に寄与する基になるということなのだろう。

 「福島のいしぶみ」では、この碑を文学碑に分類しているのだが、それは後半に氏の歌が刻まれるからだろうか。
 なお、その解説で、西東広親氏を石合町の神官とするが、これが八丁目宿の稲荷神社の神官であることは先の散策で確認している。
 また、明治天皇東北御巡幸の際、和歌を献上していることも先に確認している。
[PR]
by shingen1948 | 2018-08-09 11:11 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 今回は、先の散策で得た情報を確認したいということだ。
 その一つが、JA近くの丘に西東広親氏にかかわる碑があるという情報。その確認ができた。

 これが、この石碑のようだ。「福島のいしぶみ」では文学碑に分類されている。
a0087378_10214927.jpg

夙(つと)ニ敬神尊王ノ大義ヲ唱ヘ皇学ニ従
事シ師弟ヲ薫陶シ衆庶ヲ教化シ其功
績顕著ニ付別紙之通贈級候事

明治十八年七月九日
管長従四位子爵 稲葉正邦

贈権少教正 西東広親
かかる時さこそ名残のおしからめ
きゆれと□□ぬこころと知らすは
    (きえ?)
[PR]
by shingen1948 | 2018-08-08 10:22 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

池袋駅西口⑭

 明治通り以東は、丸池を主水源とした「弦巻川」の痕跡が下水道として残っていることが伺た。
 また、その下水道の「雑司が谷幹線」は、おおよそ「弦巻通り」に沿っているのだそうだ。ならば、こちらも「弦巻川」の痕跡とみてもよさそうだと思う。

 これは「雑司が谷 鬼子母神通り商店街 『ちょっとみちくさ』」の「雑司が谷七福神めぐり」の案内地図だが、ここにも「弦巻通り」が記される。
a0087378_543203.jpg ただ、丸池から明治通りまでの「弦巻川」の痕跡に該当するものはなさそうだ。当初は暗渠化された川筋を下水道としたように想像されるのだが、駅前の都市化開発に伴って改変されているようなのだ。
 想像した丸池の位置から「明治通り」と「弦巻通り」の交点を想像線で結んで「弦巻川」筋とするしかなさそうだ。
 ただ、JR線と西武池袋線のガードをくぐり池袋駅西口と東口を結ぶ道筋の南側は、道筋を眺める限り改変は少なそうだ。この中のどれかが「弦巻川」の痕跡ということもあり得そうだなとは思う。

 さて、最近「このまちアーカイブ(三井住友トラスト不動産)」の「池袋」のページ、池袋の地名の由来「丸池」に、豊島区立郷土資料館提供の大正7年(1918)頃の丸池の清掃の様子が掲載されているのを見つけた。
 これを見て、丸池はかなり大きな池をイメージしたことが間違ってなさそうだなと思った。
 https://smtrc.jp/town-archives/city/ikebukuro/index.html

 また、「でいすかばー・とうきょう『歩いて見ました東京の街』」の「第18章豊島区―補4<5/8>」に、「成蹊学園発祥の地 <豊島区西池袋 1-9> 「池袋地名の由来」に数枚の「元池袋公園」時代の写真が掲載されているのを見つけた。ここから「池袋地名の由来」の案内板や「池袋地名の由来碑」の位置は通り沿いに近いことが想像できる。

 空中写真を元に、丸池の位置を「元池袋史跡公園」と隣の池袋デュープレックスタワーとの境界線とその東側の道路端の交点あたりとしたところだったが、これも大きく違ってはなさそうであることが分かる。
 なお、「池袋地名の由来碑」に「むかしをしのぶよすがとして池を復元したものである」とある復元した池は「元池袋公園」にあったもので、「元池袋史跡公園」には存在しないことも、これらの写真から分かった。
 http://masanori1919.web.fc2.com/18_Toshima/18-04/18-04.htm
[PR]
by shingen1948 | 2018-08-05 09:40 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

池袋駅西口⑬

 新聞報道を読んだ時点では、捜査状況や遺体発見現場など、よく読み取れていなかった。

 「東京都水道局雑司が谷幹線再構築工事事故調査報告書」を確認する。
 捜索は、雑司が谷幹線の事故現場から下流と神田川、それに後楽ポンプ所とのことだ。また、遺体が発見されたのは、神田川と後楽ポンプ所。

 これは、それらの施設と現場との関係を表す地図だが、「東京都水道局雑司が谷幹線再構築工事事故調査報告書」からの転載だ。
 a0087378_12132664.png 雑司が谷幹線の赤線部分が、下水道事故が起きた工事現場だ。そこも含め、明治通りから護国寺まで東流している区間が「弦巻通り」と重なるようだ。

 護国寺から南下して神田川に注がれる区間の通りが「音羽通り」とのことだ。幹線がそこから暗渠化された神田川に合流する地点が「江戸川橋」ということのようだ。

 「毎日新聞(2008/8/6)」の記事によると、雑司が谷幹線では、普段は水深10㎝程度の汚水が流れていて、後楽ポンプ場を経て芝浦水再生センターに流れているのだとか。雨で水深が20㎝以上になると、その雨水は神田川に直接放流されていたとのことだ。

 散歩資料と照らし合わせると、護国寺から南下して神田川に合流する「音羽通り」には、水窪川というもう一つの川筋もかかわっているらしい。

 「音羽通り」の原風景は音羽の谷を埋め立てられてできた護国寺の参道ということであり、その参道の左右の崖沿いに二筋の川が流れ、その左側が弦巻川で、右側を水窪川が流れていたということのようだ。
 その二つの川筋は、それぞれに東西に流れている神田川に合流していたのだそうだが、暗渠化直前には、弦巻川筋は神田川の直前で水窪川筋に合流していたとのことだ。

 神田川川筋ももうちょっと複雑で、神田川から分水された神田上水が川筋の北側を流れていて、護国寺の参道以東は道路の下の暗渠となっているとのことだ。
 水窪川と弦巻川はその暗渠の「神田上水」の下を伏樋でくぐって神田川に合流しているとのことだ。
[PR]
by shingen1948 | 2018-08-03 12:15 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

池袋駅西口⑫

 今回の小さな散策で丸池とされる池まで整理が進んだところだか、確認作業を通して、平成20年(2008)の下水道事故は、この池を主水源とする弦巻川を転用した下水道川筋で起きていたことを知った。この事故自体は新聞報道で知っていたが、散策とは結び付いていなかった。
 
 この事故現場地図は「東京都水道局雑司が谷幹線再構築工事事故調査報告書」からの転載。黒線と赤線部分が雑司が谷幹線で、その作業現場が赤線部分。
a0087378_5364312.png この事故は、東京の下水道の工事作業中に、豪雨による増水のため作業員5人が流されて死亡したという事故だ。
 作業員が老朽化した既設管の中に入り、内側に樹脂を張り付けながら補修していたようだが、その管に一気に雨水が流れ込んで、作業員が流されてしまったという事故だ。
 報道や事故報告書では、この下水道を「雑司が谷幹線」と呼称していたが、これが弦巻川を転用した下水道川筋とのことだ。
 
 新聞報道を読んだ時点での印象も思い出して整理しておく。

 都会では、人間が多い分、都市景観上の負の遺産も多い。しかし、都会には、それを覆い隠して無いことにしてしまう力も備えている。
 下水道などは、環境保全のための汚水処理に伴う施設としての側面も捉えてはいる。しかし、よく考えれば、そのスタートは汚染に伴う河川の暗渠化であって、都市化に伴う負の遺産を覆い隠すことがその原点であったということに変わりない。

 その負の遺産を覆い隠すための施設が、大切な命をかけて維持管理しなければならない程巨大化しているというのが、報道から受けた印象だった。
[PR]
by shingen1948 | 2018-07-29 10:34 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

池袋駅西口⑪

 グーグル地図では、昭和22年・昭和38年の空中写真と現在の地図を重ねて表示することができる。また、その昭和22年の空中写真では、丸池らしきものが確認できる。
 それを元に丸池が現況のどこに位置していたものかを推理してみた。

 この空中写真との照らし合わせだけで推理すると、この「池袋地名ゆかりの地」の碑が建つ「元池袋史跡公園」と隣の池袋デュープレックスタワーとの境界線とその東側の道路端の交点あたりをその中心にしているような気がする。
a0087378_1252314.jpg その中心点からどのような池を想像するかということだが、その形は昭和22年の空中写真の拡大で確認できる。
 丸池とされる池は、西側から南側にかけては曲線になっているが、東側は長い直線になっていて、北側の直線と直角に交わっているようなのだ。丸い池ではなさそうなのだ。
 東側の長い直線と北側の直線は、そちら側が台地状の地形だからではないのかなと想像する。

 丸い形でないことにちょっと不安になるが、「Com support official webサイト」の「雑司が谷の歴史『弦巻川がきえちゃったよ』」で、丸池は四角く枠に囲まれたとの情報も見て安心する。
 http://com-support.co.jp/kamishibai/tsurumaki-river.html

 この池の形を丸と決めつけていたのは、単なる散策人の思い込みかもしれないと思って確認すると、鉄道教習所時代は石囲いの水溜となっているとの情報も見た。
 成蹊実務学校は、大正末には吉祥寺に移転になっている。丸池は昭和の初期には鉄道教習所の構内になっているはずなので、写真に写るのは鉄道教習所の構内時代の痕跡のはずだ。
 そう思い直すと、「成蹊実務学校」平面図の成蹊池も丸い形ではなさそうだ。

 その大きさだが、「成蹊実務学校」平面図では、寄宿舎や校長住宅と同じ程度の大きさに描かれている。結構大きな池だったということだろうか。プール代りに水泳を楽しんだという情報とも重なる。
 もっと大きく見積もって300坪という情報もみる。これなら、25mプールより大きめの池ということにもなる。
 散策時には、碑の傍の構造物を池を復元したものと想像をしたところもあるが、そんな小さな池ではないということだ。丸池は、想像を超えたかなり大きな池だったということのようだ。
[PR]
by shingen1948 | 2018-07-22 12:10 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

池袋駅西口⑩

 「成蹊実務学校」平面図の寄宿舎と成蹊池の部分を拡大して表示する。
a0087378_615214.jpg 「成蹊実務学校」平面図では、成蹊中学の寄宿舎南側の農園の南東隅に成蹊池が描かれている。これが、今回散歩の出発点とした丸池跡とかかわるもの思われる。
 
 「成蹊会」の成蹊探訪32成蹊学園発祥の碑のページで、「元池袋史跡公園」に建つ「池袋地名ゆかりの池」の碑にある地名由来の池は「成蹊池」と呼ばれた学園敷地内の池のことと解説しているので、間違いないようだ。
 
 寄宿舎の後方や池の南東に広がる農園の水源として想像を膨らます。しかし、この池はプール代わりに水泳にも使われたとも……。
 「青春彷徨-カメラと共に」のページで、『成蹊実務学校教育の思い出【桃蔭会川瀬一馬編(共立社印刷所昭和56年2月21日)】』にその様子が記されるという情報をみる。
 https://honcho53.exblog.jp/11747269/

 夏の初めに三日がかりで水を入れ替えて、きれいにすることから楽しみの行事だったという。
 人海戦術で池の周囲からバケツで一斉に掻き出したり、大きな桶に太い綱を三つ又に掛けて大勢で引いて掻き出したりして半日がかりで清掃をするのだそうだ。
 綺麗になった池は、二日程度で一杯になるという。
 そこでひと夏、水泳を楽しんだとのことだ。

 気になっている事の主は丸池だが、ここで村界も気になってくる。この辺りに村界とすべきものがあったはずだが、それが何だったかということだ。

 成蹊池付近を見渡すと、池から流れ出す川に東側から二本の川筋が見える。恐らく、他の水源地から流れ出た小さな流れの川筋なのだろうと思う。
 この低地も村界になり得るものだろうと想像する。しかし、その川筋が成蹊池から流れ出た川筋と合流した地点から川筋は南に向かうのだ。そこが地形的に谷筋になっているのだとすれば、村界線はそちらを走るはずだが、実際は、池の北側を走っているようなのだ。

 とりあえず、成蹊中学校寄宿舎裏の農地―花畑―中学校農園―成蹊中学あたりを走るような想像をしてみる。
 そして、その視点で「成蹊実務学校」創設者中村春二氏が描いたとされる絵を眺め直してみる。

 「この辺り凡て麦畑とある」と記されているメモがある。「この辺り」とは、校地を含む全体を指しているのだろうと思う。
 更に、学校の奥の木々並木を指して、「桃季にほふ……」と表現するメモもある。

 この事から、その麦畑の台地の縁に沿って桃の木が植えられていたのだろう事が想像できる。師範学校の塀が描かれる学校の手前の風景にも同じような並木の痕跡が描かれている。
 この並木のラインが、この辺りの微視的な地形変化のラインになって居るのだろうことが想像できる。
[PR]
by shingen1948 | 2018-07-16 10:10 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

池袋駅西口⑨

 前回の「池袋駅西口⑧」で、池袋公園の南西隅付近から見える「成蹊実務学校」の風景について確認した。これが、この辺りの大正初期の原風景なのだと思う。
 その「成蹊実務学校」の校地の様子が確認できる。
 国立国会図書館デジタルコレクションで「成蹊実務学校一覧」が確認てき、そこに校地の平面図が載っている。
a0087378_5193296.jpg 「成蹊実務学校」の風景と見比べる。
 
 まずは、学校としての敷地。
 風景として気になるのは入り口右手の四角い建物だが、これが木工作業室であることが分かる。実務教育の内容とかかわるのだろうか。その左手の建物が普通教室のようだ。

 その更に左側の建物に「疑念洞」とある。確認してみて分かったのが、ここは疑念法という座禅あるいは瞑想を行う場ということ。
 
 疑念法というのは、岡田式静座法に座禅の精神を加味して創造された行ということらしい。
 端座して目を閉じ雑念を払い、腹部に無念無想の境地に身を置く精神統一法とのことだ。これを、日常的に授業30分前に生徒も職員も行っていたとのことだ。
 これに修業的な意味を深めて、季節に合わせ、寒中に「裸体疑念」、暑中に「綿入れ疑念」を行ったとのことだ。
 大正2年からは、この行の後に「心力歌(心の力)」を唱和することになったということだ。
 (「『成蹊教育を知る<蹊>』~集中と自発的精神の育成のためにー裸体疑念―~」より)

 なお、その疑念法の元になる岡田式静坐法というのは、今では知る人が少ないが、当時は相当流行っていたようだ。東大、早稲田大学、一ツ橋大の静坐会なるものも確認できる。
 その静坐法の方法そのものについては、国立国会図書館デジタルコレクション「岡田式静坐の力」で確認することができる。
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935579
 その更に左側が、成蹊中学関連の建物になっていることが分かる。

 次に、寄宿舎と校長宅としての敷地。
 風景の図では、校舎の右手の建物の門が小宅入り口とあったことから、そこが創設者の中村春二氏宅と読み取った。しかし、中村春二氏宅は後方に見える建物だけのようだ。直ぐ手前の建物は寄宿舎であることが分かる。
 風景の図では切れているが、その右手に成蹊中学の寄宿舎が建っていたということが分かる。

 ここで、注目は、その後ろに成蹊池が描かれていることだ。これが、今回散歩の出発点とした丸池と思われ、これらの情報が今回散歩情報として繋がる。
[PR]
by shingen1948 | 2018-07-12 10:18 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)