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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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カテゴリ:◎ 地域散策と心の故郷( 977 )

 神霊の学者である石塚直太郎氏を受容的に理解したいのは、井野目堰とのかかわりだ。
 井野目村(現福島市飯坂町平野字井野目)では、井野目堰開発にあたって、その成功のために今ある井戸以外の井戸を掘らないという願掛けをしていた。
 「三角山の散歩⑤―井野目の三井戸③」でも整理したように、村ではその井野目堰の願掛けの為に280年に渡って井戸を掘らないことを守り通していたということだ。
 このことは、その熱意として肯定的に美談として捉えられる。確かにそうだろうとは思うのだが、この「願掛け」は村人の生活にとって負の遺産でもあるとも見るべきなのだろうと思うのだ。
 平野小学校が作成したの「ちかいをたててー井戸をほらない村」では、この村に嫁いできた方が生活用水のために毎日遠くの井戸まで水汲みさせられ辛さと苦労が描写される。
 https://kazenoshin.exblog.jp/20332368/

 石塚氏は、紺野氏から願外しの依頼を受けるわけだが、この事はこの水汲みの旧習から解放するという側面を持っていたということだ。そのための儀式でもあるわけだ。
 その視点で紺野氏の願外しの依頼を見ると、井野目堰開発のための真摯な願かけと村の生活維持に係る旧習からの解放との見事な調整だったように見えたのだ。
 もし、紺野伴右エ門宅で行われた村の旧習からの解放儀式がなければ、この地区が近代化から大きく取り残される事になったであろうことは想像できる。そこには合理性さえ感じるのだ。

 この旧習からの解放と真摯な願かけの調整には、村人がこの儀式を執り行う神霊の学者石塚直太郎氏に絶対的な信頼を寄せていることが絶対条件のはずなのだ。
 しかし、神霊の学者が「山口庄右エ門重久の霊魂を呼び出し聞き伝ふところ霊魂の曰く」とある部分は、自分の感性ではどこか怪しげさを感じていたのだ。
 今回の整理で、感性を変える事は出来ないが、自分の感性と違う見え方によって構築された世界観が少し分かったような気がしているところだ。
by shingen1948 | 2020-03-14 10:01 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 以下は、「心霊科学研究会」機関紙に掲載される石塚直太郎氏の論と思われる情報を拾ったものだ。

 1923(大正13)年5月1日心霊界第4号「父の死を遠隔予知す」石塚直太郎
 1924(大正14)年2月11日心霊界第2.3合冊号「霊媒に就いて」石塚直太郎
 1924(大正14)年6月1日心霊界第6号「幽霊の報恩」石塚直太郎
 1924(大正14)年11月1日心霊と人生第11号「疾病に就ての卑見」 福島県会員石塚直太郎(寄)
 1925(大正15)年7月1日心霊と人生第7号「生ける地蔵」石塚直太郎
 1931(昭和6)年11月1日心霊と人生第11号「疾病に就ての卑見」石塚直太郎

 仙台に東北心霊科学研究会が設立された時に東京には日本心霊科学協会が設立されるが、どちらもその前身は、浅野和三郎氏が設立した「心霊科学研究会」と「東京心霊科学協会」とのことだ。(「心霊科学研究会」は関東大震災後、本部は東京を離れ、大阪→京都→横浜市の自宅と移るよう。そして、東京での活動のために「東京心霊科学協会」も設立されていたという経緯のようだ。)
 その「心霊科学研究会」の機関紙は、当初「心霊研究」が創刊される。これが3号まで続くが、事務所が関東大震災で罹災して廃刊になるようだ。この機関誌の性格は「純学術的報告機関」ということだったようだ。
 石塚氏が投稿する「心霊界」はその後継誌ではあるが、その役割は大衆化されていたようだ。扱う内容も「宗教、政治其の他百般の人生問題、思想問題」と大きく変容していたという。その後半は「心霊と人生」と改題されているが、雑誌の性格はそのままだったとのこと。 
 これが昭和53年(1978年)12月号まで発行されたとのことだ。

 この後に仙台に東北大学金属材料研究所白川勇記教授を所長として福来友吉の業績を記念する「福来心理学研究所」が開設されるようだ。
 その「財団法人福来心理学研究所」付属の啓蒙団体「福心会」の機関機関誌が「福心会報」のようだが、その1961(昭和36)の№1号に石塚直太郎氏肖像が掲げられ、「石巻史蹟崖に関する実験(石塚直太郎)が掲載されているようだ。
 その内容までは確認できていない。
 なお、1924(大正14)年11月1日発行の「心霊と人生(第11号)」には、石塚氏は福島県会員の寄稿と表記されることから、この時点では鳴子から飯坂に転居されていたのだろうと想像する。
by shingen1948 | 2020-03-12 09:36 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「神霊の学者」というのも懐疑的な見え方の一つだろうと思っていた。
 しかし、当時の宮城県を文化圏とする範囲では、この神霊という概念が受容されていたのではないかという情報を見つけた。
 これも散策人にとっては、新たな見え方だ。

 昭和21年8月に福来友吉博士のまわりに集まった人たちが中心となって「東北心霊科学研究会」が仙台に設立されている。
 昭和15年に高野山大学教授を退職した福来氏が、20年3月に大阪箕面から妻の郷里仙台(青葉区宮町)に疎開して来られたこととかかわるようだ。
 その会長が、後に東北大学金属材料研究所所長となられる物理学者の東北大学助教授白川勇記氏とのことだ。そして、その顧問には福来氏と共に土井晩翠氏、志賀潔氏が名を連ねているようなのだ。

 神霊の学者石塚直太郎氏が「天皇御陵の発見者」となるのは大正12年、鳴子温泉遊覧案内を著わすのが大正12年、飯坂湯野温泉遊覧案内を著わすのが昭和2年だ。
 そして、井野目村人紺野伴右エ門に依頼されて、井野目堰にかかわる願外しが「録し伝説に遺す」ことになるのだが昭和28年だ。
 この依頼には、この仙台での心霊科学に関する大きな動きがあったことともかかわるのではないかと想像するのだ。

 「神霊の学者」を懐疑的に見てしまう見え方を否定的に整理してみると、以下のような見え方になるのだろうか。

 近代西洋科学で説明がつかない現象は「迷信」として処理することになる。
 したがって、学者は既成科学の枠内に収まらない心霊現象を目の当たりにすると、まずは現象が詐術ではないかと疑い、次に現象を既存の科学知識の延長線上で説明しようともする。
 しかし、心霊現象は既成科学の枠内に収まることはないので、胡散臭く見られて排除されることになる。
 こうして、日本人が長い間慣れ親しんできた物的実体以外に霊的な実体が存在するという実体二元論的な思考法が、近代西洋科学の思考法からはじき出されてしまった。
 この思考法は、明治政府の近代化政策の一つでもある「迷信撲滅の方針」とも相まって、既成科学の枠外に置かれていった。
by shingen1948 | 2020-03-10 11:51 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 これは、石塚氏が「天皇御陵の発見者」として延岡駅を出立し、鳴子に向かう時の写真だ。
神霊の学者石塚直太郎氏について⑨_a0087378_9462734.jpg 「天孫御陵発見始末」に「任務を果たして」と題して掲載される。大正12年12月5日石塚直太朗50歳、石塚澄江子33歳、石塚愛子8歳とある。

 今回、「天孫御陵発見始末」をもとに、宮崎県の神代三山陵探索に係る確認を進めてきたところだ。
 散策人としては新たな見え方を得たことになる。というのは、散策人が学校でお習いした歴史学習では日本神話はかかわらない。
 戦後の歴史学習では、日本神話は六世紀の中ごろ以後に大和朝廷の権威を高めるために、貴族たちによってつくりあげられたものとの説が基盤になっているようだ。いわばフィクションの世界という感覚だ。
 感覚的には日本神話と歴史は切り離されているという捉えだった。

 それが、今回神話に係るいろいろな説の史跡が存在するということが確認できたという事だ。
 確認すると、戦前には高天の原論争といわれるものがあったそうだ。
 「古事記」「日本書紀」などに 語られている「高天の原」は、後に大和朝延の中心となった勢力の祖先が、遠い昔にいた場所についての記憶を伝承の形で伝えたものではなかろうかというものだとか。
 それならば、この地上のどこかをさしているはずという事になるという論争のようだ。
 この有力な説となるのは、邪馬台国論争と同じく「九州説」と「畿内説」とのことだ。今回の確認は、その「九州説」とのかかわりという側面があるのだろうと思う。

 これは、氏が「天皇御陵の発見者」という研究家だということを当時の人々がどう思っていたかということともかかわる。
 学校でお習いした歴史学習を元にすれば、どこか怪しげな肩書ということになる。しかし、今回、神話に係るいろいろな説の史跡の存在が確認できた。少なくとも、当時のこの地域では素直に受容できる肩書だったろうということが分かる。
by shingen1948 | 2020-03-08 09:49 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回まで石塚氏との関りから、宮崎県の神代三山陵探索に係る確認を進めてきた。しかし、実際には、その宮城県側の探索の前に、鹿児島県側の探索があるようだ。
 「みやざきの神話と伝承101」で、そのあたりの概要を確認する。 http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/seikatu/miyazaki101/shinwa_densho/index.html

 そのページの「可愛山陵」の項の解説に、明治の初期に神代三山陵の治定作業は国策となった後の経緯が紹介される。
 まずは、明治7年(1874)に維新政府は三陵とも鹿児島県内に治定する。これは、維新政府内の薩摩藩が大きな政治力を持っていたこととのかかわりであることを指摘する。
 旧薩摩藩の学者の主張を根拠に同県内に定めたという事情だとのことだ。

 当然、その後に南九州各地に伝わる3代の神陵の伝承地についての活発な反論が出されることになったとのことだ。
 それで、遂にその反論に逆うことができずに、次に、同29(1896)年に、北川町俵野可愛が「御陵伝承地」に、西都市西都原が「御陵墓参考地」に定め直されたととのことだ。
 同ページでは、明治16年(1883)当時の宮内省職員2人の記録「日向埃山陵」(宮内庁書陵部所蔵)を引いて、その反論の正当性を示す。

 「天孫御陵発見始末」には、その北川町俵野可愛の「瓊々杵尊(ニニギノミコト)御陵伝承地」が写真で紹介される。その下には、以下のような解説。
神霊の学者石塚直太郎氏について⑧_a0087378_1674362.jpg
 「伝説御陵墓は延岡町坑外北川村大字俵野地内可愛三麓に在り宮内省の所管なり。
 向て右端小さき二枚の建札のあるは夏田梅太郎なる人去る大正9年1月霊夢を見て可愛岳山中字屋敷の窪より持下ろしたる御手洗鉢様の石なり」

 夏田梅太郎なる人も、その行動も確認できない。ただ、可愛岳山中より石を持下ろすということだが、次の情報がそのことと関わるのかもしれないとも思う。
 この可愛岳(エノタケ)山頂にある巨石(三本石)の辺りが、ホノニニギノミコトの陵墓という説があるようで、その説に従うとその山麓にあるこの地はホノニニギノミコトを祀る処という見え方になるようだ。

 前回まで整理した宮崎県の神代三山陵探索前に、これ等の事があったということだ。
 有吉宮城県知事は、その同じ時期に天孫瓊々杵命とその紀木花咲耶姫の御陵墓参考地とされた男狭穂・女狭穂の二大古墳のある西都市西都原古墳群の調査を依頼するが、そこには、あくまでも参考地との不本意名目がつく状況の払しょくをも願っていたのではないかと想像する。
 しかし、西都原台地のある西都原古墳の調査・発掘の結果は、日向神代史実証という思惑から外れたものになったということだ。
 これらの事が、石塚氏の延岡遠征要請に繋がったという事になるようだ。
by shingen1948 | 2020-03-04 16:09 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回は、「天孫御陵発見始末」の「予が神代史跡調査に従ふに至った経路」の項で、石塚氏が村上氏に出会った経緯や、請われて延岡に出向くことになった経緯を確認した。
 今回は、「鳥居龍蔵と日向」で「村上某が皇神二神の墳墓とした」とする古墳は「天孫御陵発見始末」ではどのように紹介されていたかを確認する。
 先に「神霊の学者石塚直太郎氏について②」で整理したどの古墳をどの皇孫の御陵とみているかということの再確認ということでもある。
神霊の学者石塚直太郎氏について⑦_a0087378_180193.png
 まずは、この図の(1)とある天下神社の西の古墳が鵜茅葺不合尊之御陵とされたように読み取った。古墳の後円部には大日尊が祀られているということだった。
 次に、この画に(2)とある (1)の鵜茅葺不合尊の御陵とする陵の東方約18間のところであるのが瓊々杵尊之御陵としているように読み取った。この古墳は天下神社の後方にあるとも、天下神社が祀られるのが古墳の後円部にあたるとも読み取れる。
 鳥居龍蔵氏が「御陵とされる古墳は日向の古墳中最も古い形式のものとは言えない」と真っ向から述べたという古墳という事でもある。

 鳥居龍蔵氏の第一回目の予備調査で実際に調査されるのは、この図の(3)とある古墳のようだ。御陵とされた古墳の丘陵と道を挟んだ北側の丘陵で、ここは小字筒井になるとのことだった。「天孫御陵発見始末」には、大正7年に宮崎市から発表されたというこの鳥居氏の調査の詳細が紹介される。
 この時期に宮崎市から発表されたということなら、当然、西都原の古墳調査も報告されていると思われる。更に、その前年末から年度当初まで行われていたという東京・京都の両帝国大学や宮内省などが調査結果も報告されていたものと思われる。
 しかし、ここで紹介されるのは「天孫御陵発見始末」で玉依姫之御陵だとされる古墳についての調査のみだ。

 その上で、鳥居龍蔵氏の調査を次のように批判する。
 まず、以下のように「高貴の人の葬られし場所たるべきを想見するに難からず」と言いながら御遺物を頗る粗略に取り扱われたとする。
 〇 櫛は、御神教によれば18個のはずなのに、14個ばかりとあること。
 〇 勾玉は大型であった筈だが、小型だという。
 次に、鳥居氏の調査から今回ここが玉依姫の御陵であることが確定するまで放置されていたと批判する。
 更に、専門家なら発掘された時点で皇孫の御陵とは承知し得たはずだとする。それなのに、尊き御物の取り扱いが粗末で、手伝人足や農夫に帰せしめているといるのは軽率だとする。そして、その事を我が国体を辨(わきま)へざる非国民とまで罵っている。

 ここまで、「天孫御陵発見始末」に鳥居氏が大正14年(1925)4月10日からの日向の古墳を中心とする発掘調査を当初断わっていたということとかかわる事を確認してきた。
by shingen1948 | 2020-02-27 18:02 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 今回は、「天孫御陵発見始末」で「鳥居龍蔵と日向」で確認できた事がどのように記されるかを確認する。

 「鳥居龍蔵と日向」で、「日向延岡の神代聖跡顕彰事業の推進役の中心人物とされる村上某氏」というのは、「天孫御陵発見始末」では村上兄一氏とされる方なのだろうと思う。
 同誌の「予が神代史跡調査に従ふに至った経路」の項で、石塚氏がこの村上氏に出会った経緯や、請われて延岡に出向いた経緯を確認する。

 まずは、この村上氏との出会いだが、請われて延岡に出向くことになる8年より以前からの知り合いとのことだ。
 この方は肥後の国鏡町にお住まいで、水産技師で水産加工品を販売していたようだ。
 この方が東京に出て石塚氏に出合うのだが、その当時は大河原兄一と名乗っていたとのことだ。石塚氏から、あなたの先祖は村上を姓とし、元神武天皇に奉仕せるものとの御神託を告げられたことで村上氏の本姓に戻したとのことだ。
 同誌では「事実この方の本姓は村上氏だったとのことで、その本姓に復帰して熱心なる国体尊崇者になられた」と紹介される。

 次に、請われて延岡に出向く経緯を確認する。
 石塚氏がこの村上氏から延岡への史跡調査を乞う手紙を大正12年(1923)10月23日に鳴子で受け取ることになるようだ。
 石塚氏はこの年の9月1日の関東大震災で被災されてイテ、10月12日には陸前の大日本霊鷲山居住遠藤氏を頼って鳴子温泉に疎開していたようなのだ。
 手紙は東京へ向けられた書留郵便だったようだが、それが鳴子に廻送されてきたということのようだ。

 九州に出発するのは11月2日で、肥後国有左駅到着が5日夕刻とのことだ。
 この日は鏡町の大河原(本姓村上)氏宅に宿泊するが、この夜に金光教講師重松藤太郎氏が訪れる。そして、その方との約束で、7日午後3時からの皇室の神聖なる真の所以、八百万の神の実在霊魂の不滅についての講演をしたとのことだ。
 この時の参加者は、同町の有識者層の殆ど全部と、その他に熊本からの来聴者がいたのだとか。
 この日の夕刻には、南延岡駅下車仲町貝深造氏宅へ向かう。そして、この方の肝いりで日野屋旅亭へ宿泊する。
 11月8日朝には、延岡新聞延岡時報者の方々の訪問を受ける。
 28日には調査を終了し、その結果を12月2日同町図書館で報告演説したとのことだ。

 おおよその経緯は上記のようだが、別項で紹介される「史跡開明に尽力の七星の内」には、村上氏、貝深造氏の他に霊元常孝氏、児玉徳次郎氏、河野成章氏が紹介される。
 霊元氏と児玉氏については本文中での紹介が確認できないが、河野成章氏については延岡への史跡調査を乞う手紙の中に次のようなこの方にふれる箇所がある。
 「日向国延岡町居住河野成章なる人、近頃不動明の霊験に依りて不治の難病を治し、種々の予言其の外奇跡的言行あり、同国に於ける神代史跡調査の為貴下の西下を求むるを可とするとの詫宣もあり、……」

 「史跡開明に尽力の七星の内」の後の二星は、延岡時報社社長山口徳之助氏と記者加藤周造氏だ。
by shingen1948 | 2020-02-24 12:58 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「鳥居龍蔵と日向」では、宮崎県知事や地方人士が、鳥居龍蔵氏に日向調査を依頼するようになる背景を次のように解説する。

 「当時、西都原台地には、天孫瓊々杵命とその紀木花咲耶姫の御陵と伝えられる男狭穂・女狭穂の二大古墳を筆頭に、前方後円墳30数基を含む、いわゆる西都原古墳群の存在が知られており、この地一帯が神代日向の歴史を秘めた神代日向の歴史を秘めた最有力候補と見なされていた。
 しかし、明治7年(1874)公布太政官布告によって、古墳の発掘や調査ができなくなっていた。それが、明治時代の末年から大正初年にかけて政府や地方公共団体などにおいて、史跡保存や事業が再考される気運が非常に高まった。
 この時期に有吉宮城県知事は新任知事になり、西都原古墳の調査・発掘を行い、日本建国の歴史を解明すると同時に、史跡として保存顕彰することが自分の責務であると考えた。」

 つまり、鳥居龍蔵氏への調査依頼には、日向神代史を実証してもらおうという思惑が込められていたということになるようなのだ。

 依頼を受けた鳥居氏は、大正2年3月26日に京城を出発し、翌日に門司に上陸して大宰府に行き、ここで2日間滞在し都府楼などの遺跡調査をする。そこから熊本に入って、県書記の方の案内で宮崎県の臼杵郡に入り高千穂の調査をする。そこから五ケ瀬川沿いに下って延岡に入りここでも数日間滞在して付近一帯を調査する。
 そこから南下して宮崎市に入り、出迎えた知事らと調査に関する打合せをして、西都原に入って2日間古墳を中心とした発掘調査をする。
 この地点は、前年末から年度当初まで東京・京都の両帝国大学や宮内省などが調査していたとのことだ。
 其の後高鍋を経由して延岡に戻る。ここで貝塚や古墳を発掘して、再度南下して宮崎に入って大淀川流域の古墳調査をして、小林氏から熊本市経由で東京に戻ったという。
 これが第一回目の予備調査とのことで、その後この調査を含めて計4回実施する。

 氏が「天孫御陵発見始末」の調査方法と関わると思われる理由で調査依頼を渋るのは、大正14年(1925)4月10日から実施されたその第2回目の調査時のようだ。「鳥居龍蔵と日向」で、次のように紹介される。

 「学術研究には易や霊感を許さない。私(鳥居龍蔵氏)は最初延岡に来ることを断った。易や霊感などでわかれば特に学術上から調べる必要がないからである。しかるに学術上の調査であるが故にお引き受けしてきたわけだが一種の哲学観からかかる哲学説を包持せる人ありとすれば、この人と私との間には大きな溝のあることを断わり置きます」

 同誌では、更にこの博士との間に大きな溝のある「哲学説を包持せる人」を村上某と紹介する。そして、「学術研究には易や霊感を許さない」としたことと関わる事を以下のように紹介する。

 「村上某は日向延岡の神代聖跡顕彰事業の推進役の中心人物で、南方村に鎮座する天下神社に村人を多数集め、東京から招いた工学士を霊媒として占わせたところ、境内の二基の古墳が皇神二神の墳墓であるという神託を得たという事件があった」

 これと「天孫御陵発見始末」とを見比べると、ここに「霊媒として占わせた東京から招いた工学士」とされる人が、神霊の学者石塚直太郎氏だろうと思われるのだ。
by shingen1948 | 2020-02-21 17:30 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 氏の「研究家として天皇御陵の発見者」という情報とかかわりで、「天孫御陵発見始末」を確認している。
 その中心が「延岡圖書館に於ける史跡調査報告演述の要旨 」の項なのだが、そこに新たに「鳥居博士の報告書」の項がたてられている。
 そこでは、博士の発掘調査の成果を自説と結びつけているのに、この調査では日向神代史の実証はできないのだと批判をしている。

 今回は、逆にその考古学者鳥居龍蔵氏の視点からこの情報を確認してみる。
 氏の調査活動の主なフィールドは東アジア全体で、国内調査はその調査活動の一部でしかないということのようだ。「民俗学フィールドワークの先駆者『鳥居龍蔵とその世界』」のページから、その国内調査を紹介する記述を確認する。

 そこでは、最初に鳥居龍蔵氏の国内調査の先見性について解説される。
 「氏の国内調査は、東アジア全体を視野においての日本人および文化の起源が主要なテーマとのことだ。日本民族の複合起源論、騎馬民族説や畑作農耕の重要性など後の仮説や定説の先取りをしているところが少なくない」

 その上で、地方誌レベルの調査でも、啓蒙的活動と共に、当時の時代的環境のなかで学問的良心に沿った発言をしていると紹介すのだが、その具体例として宮崎延岡の調査が紹介される。
 その宮崎延岡の調査依頼は、調査要請者である宮崎県知事や一部地方人士の思惑があって、それは日向神代史を実証してもらおうというものだったのだそうだ。
 これに対し、氏は「易や霊感で皇祖発祥の地であることがわかれば、特に学術調査の必要がない」と批判し、神話と正しい歴史上の事実を区別する必要を説いているのだそうだ。
 更には、御陵とされる古墳は日向の古墳中最も古い形式のものとは言えないと真っ向から述べているとのことだ。(〇 鳥居龍蔵の足跡)
 http://torii.akazawa-project.jp/cms/footprint.html

 この「易や霊感で皇祖発祥の地であることがわかれば」とあるところが、「天孫御陵発見始末」の調査方法と関わり、「御陵とされる古墳は日向の古墳中最も古い形式のものとは言えないと真っ向から述べている」ところが、その結論とかかわるところだと思われた。
 それで、この部分のより詳細情報な情報を探すと、「鳥居龍蔵と日向(田畑久夫)」の中に氏の2回目の調査依頼を渋る理由としてこの事に係ることについて具体的に記されるのを見つけた。
by shingen1948 | 2020-02-20 07:25 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「天孫御陵発見始末」は、読者が日本神話を既知としていることを前提としている。しかし、散策人は残念ながら日本神話をよく知らない。
 今回は、最低限必要なことを確認する。

 まずは、日本神話の全体像から「天孫御陵発見始末」の内容理解の為に必要な部分の選択。

 日本神話の物語の中心は古事記・日本書紀にみえ、この2つの書の神話が必ずしも同じはないが全体としては日本国と皇室の創生の物語として1つの中心的な筋をもってるという。
 その物語の舞台になるのが、日向、大和、出雲の三か所のようだ。
 今回整理内容とかかわるのは、その中の日向を舞台として展開される物語になるようだ。

 次に、日向を舞台として展開される物語の概要と「天孫御陵発見始末」との接点確認。

 ここでは、「神の世界の物語」から「日向での神と人との物語」が展開されるようだ。その「日向三代神話」の初代とされるのが、アマツカミ(天神)「ニニギノミコト」とのことだ。

 神霊の学者石塚直太郎氏の著書である「天孫御陵発見始末」の「天孫」は、この「日向三代神話」の初代アマツカミ(天神)「ニニギノミコト」を指している。その「天孫」には、天照大神のお孫さんにあたる方という意が込められているようだ。
 この方が地上の人となるのが「天孫降臨」で、それ以降の「コノハナノサクヤビメの結婚」や出産の物語が日向を舞台として展開されるということだ。
 同書では、この「ニニギノミコト」は他に「瓊々杵尊」と表記される。

 宮崎県延岡市天下町の「国指定南方古墳群1,2号墳」案内では「日子番邇々芸尊」と表記される方がこの「ニニギノミコト」と同じ方だ。古事記や日本書紀には物語によって多様な表記が出て来ている事によるようで、それぞれがその表記の中の一つという事のようだ。
 この方が神と人との物語のジョイントになるようだ。そして、この日向が舞台の物語は次の大和が舞台の皇室物語とのジョイントになっているということを意識しておくことも必要なようだ。

 「日向三代神話」の二代目が「ホホデミノミコト」だが、同書では「彦火火出見尊」と表記される。記紀にみえる神話の一つに登場する海幸彦・山幸彦の山幸彦も、この「彦火火出見尊」とのことだ。
 この山幸彦は綿津見の宮へやってきて、大綿津見の娘と結ばれて無事に「鵜茅葺不合尊」を出産なさるのだが、この大綿津見の娘が、同書で「豊玉姫命」と表記される方ということだ。

 「日向三代神話」の三代目が「ウガヤフキアエズノミコト」だが、この方が同書では「鵜茅葺不合尊」と表記される方だ。
 同書で「玉依姫命」と表記される方は先の「豊玉姫命」の妹で、その「豊玉姫命」から頼まれてこの「鵜茅葺不合尊」の世話をしていたが、やがて二人は夫婦となり子供が生まれるということだ。その末子がのちに神武天皇となる神倭伊波礼琵古命とのことだ。

 ここから先の子孫の物語が皇室ということのようだ。
by shingen1948 | 2020-02-18 12:33 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)