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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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カテゴリ:◎ 地域散策と心の故郷( 958 )

a0087378_9111880.jpg ここは何度も通っているのだが、写真を撮った事がなかった。
 それで、あらためて写真を撮りに出かけた。この写真、中途半端なアングルになってしまった。
 それは、ちょっとでもいいから本殿の部分も入れたかったということがある。それに、笹谷村と北沢又村の境界の水路も入れたかった。それで、ちょっと欲張ってしまったのだ。

 ここを愛宕神社としても成出地蔵堂としても写真におさめた事がないのは、極々普通の風景としか思っていなかったからだ。
 しかし、今回気づいたのが、ここはその極々普通の風景の中に明治以前の神仏習合の愛宕権現の姿が残されているという事だ。
 繰り返しになるが、愛宕権現は塞神信仰や陰陽道の影響で戌亥の守護神でもあり、愛宕修験によって勝軍地蔵と習合して火火伏せの神にもなっているということだ。

 なお、「郷土史物語」によると、この地蔵尊とかかわるT家は、最初は前田・原町橋本で構成されていた大谷地村に阿部薩摩の開拓団として入植していたとのこと。その後、開田の為に南下し笹谷の成出まで開拓を進めて定住したのだろうとの事。
 また、明治11年書き上げの「仏堂明細帳」への記載が紹介されるが、愛宕権現の姿と関わりそうなのが、ここが「岩代国信夫郡北沢又村字成出地蔵堂」とされている事と共に「信者21戸、受持大笹生曹洞宗安楽寺住職本間林堂」という記事部分かな。
by shingen1948 | 2019-09-23 09:15 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 この辺りの湧水池をめぐっていた時に気になったのが、古い「清水地区文化財案内板」にある地蔵堂の案内だ。
a0087378_9182752.jpg これがその地蔵堂の案内部分だ。
 位置的には、万世大路沿いの愛宕神社でないのかなとは思ったのだが曖昧なままだった。
 ここにある施設を地図表記では愛宕神社となっているし、この施設の表示も愛宕神社なので、ますます曖昧になっていた。
 ちなみに、現在の新しくなった案内板では、地蔵堂が万世大路の西側に案内されるのだが、これが同じ地蔵堂なのかどうかは分からない。

 「郷土史物語」で確認できたことを整理する。
 同誌では「成出地蔵堂(愛宕さま)と高橋家」の項で解説されるのだが、その項目自体、成出地蔵堂=愛宕さまであることを示しているわけで、ここでもう曖昧さが解消したような気分になれた。
 ここは「岩代国信夫郡北沢又村字成出地蔵堂」と紹介される。明治11年書き上げの「仏堂明細帳」にもそう載っているとのことだ。
 ここを通称愛宕さまと紹介されることから、ここの明治以前の神仏習合の神名は愛宕権現で、イザナミを垂迹神として地蔵菩薩を本地仏としていたということが想像できる。

 「郷土史物語」では、この本地仏である地蔵菩薩について以下のように解説されている。
 この地蔵菩薩は、元々はこの道を挟んだ北側のT家屋敷の鬼門である戌亥の片隅に産土稲荷としてあったとのことだ。ただ、この屋敷の元々の主は川崎に移られ、地蔵菩薩も還座されたということだ。

 この成出地蔵堂もT家がかかわるようだが、それとは別に建てられたという経緯があるという。
 文政の頃に、このT家が家運を占ったところ、座敷人形の地蔵菩薩を川の南の他所の土地に祀られたいとのお告げだったことに基づいているとのことだ。
 集落みんなの協力を得て御堂を建てて、その地蔵菩薩を安置したとのことだが、お籠堂などは集落みんなの負担で建立されたのだとか。

 ここで「川の南の他所の土地に祀られたい」とあるが、この川が笹谷村と北沢又村の境界線だ。今はこの川には蓋が被せられ、飯坂街道まで川沿いの道筋に沿って流れている。
 つまり、T家屋敷は川に沿った道筋の北側にある笹谷村の成出であり、占いを元に建立した成出地蔵堂はこの道筋の南側で北沢又村ということになるようだ。

 地蔵堂と愛宕権現を統一的に捉えられない感覚は、明治以降の感覚のようだ。
 明治以前の神仏習合の愛宕権現は、塞神信仰や陰陽道の影響で戌亥の守護神であり、愛宕修験によって勝軍地蔵と習合して火火伏せの神になっているということのようだ。
 なお、この神社の本尊が甲冑姿の地蔵菩薩が馬に乗るという将軍地蔵の像容なのかどうかは、まだ確認していない。
by shingen1948 | 2019-09-20 09:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

清水小学校

 金福寺跡」の案内柱では、金福寺が清水小学校(旧沢又小学校)発祥の地である事が解説される。よそ者の散歩人には分かりづらかったが、地元の方々は以下の事情が頭にあるようだ。

 清水村役場や道路元標は泉字大仏に設置されたとのことだが、泉地区の郷土誌等の情報によると、明治16年には南沢又、森合、御山、北沢又、泉、笹谷、大笹生の7ケ村戸長役場は泉字柳清水に開かれていたようだ。
 この前に、明治13年には北沢又小と泉小が合併されてた早柳小学校が、この柳清水に移転している。この学校は明治18年に泉尋常簡易小学校となったようだ。
 明治22年4月1日に南沢又村、北沢又村、泉村、森合村、御山村の区域が清水村となったことに伴い、この学校は現清水小学校となり、清水村役場が泉字大仏に設置されたという経緯のようだ。

 小学校に焦点を絞って、その前の経緯を確認する。

 北沢又小学校は、明治7年金福寺に開校されたということのようだ。
 「信達二郡村誌」の北沢又村を確認すると、「共立小学校 東部寺西に設置す 男生徒11人 女生徒3人(明治9年1月1日調)」とある。
 ここでは設置場所「寺西」が表記されるが、金福寺とはなっていない。
 これは、明治9年に金福寺が延焼したため、直ぐに21坪の校舎を建築されたとのことなので、その事が反映されているのかもしれない。
 「郷土史物語」では、この小学校を第16番学区北沢又小学校としている。

 「信達二郡村誌」の南矢野目村を確認すると、「北沢又村共立小学校合併 生徒男40人 女10人(明治9年1月1日調)」とある。
 南矢野目村の子供もこの北沢又小学校に通っていたことが、想像できる。
 「信達二郡村誌」では確認できないが、「郷土史物語」によると、笹谷村や御山村の一部の子供もこちらの学校に通学していたといい、トータルで生徒男33人、女7人だったとのことだ。
 そして、この小学校が明治17年に早柳小学校に合併し、翌18年には泉尋常簡易小学校となったとのことだ。

 その合併先の泉村の学校を「信達二郡村誌」で確認すると「共立学校 北部北鎌に在り 男生徒40人(明治9年1月1日調) 」とある。
 泉村の地域誌等でも、泉村の小学校は明治8年に北鎌に開校されたと解説される。
 北鎌は、現カワチやサガミ福島ホール辺りだ。具体的な位置は特定できないが、こちらの学校も飯坂古道の道筋沿であることが想像される。
 この学校が、明治13年に柳清水に移転して早柳小学校となり、明治18年に泉尋常簡易小学校となったとのことだ。
 先に確認した「郷土史物語」の情報とも重なる。

 明治16年には、この学校の地に南沢又、森合、御山、北沢又、泉、笹谷、大笹生の7ケ村戸長役場が開かれたということだ。
 そういう経緯を経て先に整理した清水村役場と道路元標の話が続くということだ。

 なお、泉尋常簡易小学校となった小学校とかかわる南沢又について「信達二郡村誌」で確認すると、「共立学校 西隣笹木野村と合併 同村仏母寺をもって仮教場とす 男生徒34人 女生徒42人(明治9年1月1日調)」とある。
by shingen1948 | 2019-09-18 07:35 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

清水村道路元標④

 前回は大正9年福島県告示で示される道路元標の建つ位置を万世大路と飯坂街道の分岐点と想像してみた。
 「福島県史料情報第20号(平成20/3/25)」の「道路元標を歩く」で示される設置場所は、その大半は市町村役場の前か市町村を通る主要な道路同士の交叉点に設置されていたとするわけだが、その後半にあたるとみたということだ。
 ところが、「郷土史物語」では清水村道路元標は旧役場玄関前の万世大路近くに設置された公示板の傍らに建っていたという。つまりは、「道路元標を歩く」で示される設置場所の前半にあたるとしているということだ。
 今回は、これをどう読み解けばいいのかという事を確認していく。

 「郷土史物語」が示す以下の役場移転の経緯が、今回の読み解きのヒントになる。
 「昭和26年(1951)に完成した刑務所通り開通で、刑務所通りと農協に挟まれて自転車置き場も無くなったことで、昭和51年(1976)に現在地に移転した」

 信夫郡清水村は、この出来事以前の昭和22年3月10日に福島市と合併しているのだ。
 この旧役場の名称は似かよってはいるが、明治22年から昭和22年までは信夫郡清水村役場だが、昭和22年からは福島市の清水役場になっていたということだ。

 道路元標の方だが、施行令によるその設置基準がなくなるのは戦後の改正道路法とのこと。
 この法律が制定されるのは明治27年(1952)のようなので、この時点では施行令による設置基準は生きているということだ。
 それで、福島市と合併する機会に、基準に基づいて設置された信夫郡清水村の道路元標を、役場前に設置し直したのではないのだろうか。
 役場としては福島市の一支所になった清水役場だが、そこに向けての準備段階ではまだ信夫郡清水村役場の精神は引き継がれていたのだと思う。

 ここから以降に、「郷土史物語」が示す役場移転経緯と清水村道路元標が現況位置に移動した経緯が続くと見ればつじつまが合うと思うのだが、どうだろうか。
by shingen1948 | 2019-09-13 10:31 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

清水村道路元標③

 ようやく旧清水村役場の位置をイメージできるようになったところだが、実は、清水村道路元標の位置情報も、まだしっくりと受け取れていない。
 「郷土史物語」では、清水村道路元標は、旧役場玄関前の万世大路近くに設置された公示板の傍らに建っていたとある。
 しかし、大正9年福島県告示では「信夫郡大字南澤又字中富匠田及成出46,47」に建っていたとされる。
 しっくりと受け取れない事の一つは、この「郷土史物語」が示す道路元標の位置と福島県告示の示す位置が違うという事だ。
 もう一つしっくりこないのが、福島県告示が示す位置情報だ。

 まずは、この福島県告示が示す位置情報をを先に確認する。
 ここでいう「南澤又字中富匠田」は「南澤又字中番匠田」だと思う。また、「及び成出46,47」だが、この「成出」は南沢又の小字にはないので北沢又だと思う。
 しっくりいかないのはこの事ではなく、この情報では清水村道路元標は複数本あるように読み取れるという事だ。というのは、旧道路法では各市町村に一個ずつ設置することとされていたはずなのだ。
 
 これを読み解くヒントになったのが、「福島県史料情報第20号(平成20/3/25)」の「道路元標を歩く」の設置場所に係る次の記述だ。

 「設置場所は府県知事が指定することとされており、大半は市町村役場の前か、市町村を通る主要な道路同士の交叉点に設置されていた」

 この後半の「市町村を通る主要な道路同士の交叉点に設置されていた」ということなら、位置情報として複数個あるように見えて、実は1個であるということが起こり得ると思ったのだ。

 南沢又字中番匠田と北沢又字成出近くには、万世大路と飯坂街道の分岐点がある。
 この道筋と設置情報地番とを見比べてみると、成出の地番46・47は確認できないが、万世大路の北側が北沢又字成出は確認でき、南沢又字中番匠田が万世大路の南側の地名であることが確認できるのだ。
 つまり、万世大路と飯坂街道の分岐点を北沢又字成出とみても、南沢又字中番匠田とみてもよさそうだということだ。
 ここに、清水村道路元標は建っていたと読み取ってみたいが、どうだろうか。

 次にしっくりこないのが、「郷土史物語」の清水村道路元標設置位置だが、これをどう読み取るかということだ。
by shingen1948 | 2019-09-12 10:31 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

清水村道路元標②

 先の「清水村道路元標」の整理で、「郷土史物語」がいう旧清水村役場の位置と、古い地図から読み取る役場の位置のイメージがうまく重ならないように感じていることについて記した。

 その原因の一つが、古い地図の役場北側の道筋と刑務所通りの関係がよく把握されていないということにあるように思う。
 それで、その古い地図で旧役場北側の道筋を西側に辿ってみると乙天堂の南側を中條に向かう道筋と繋がっているように見える。現西環状線より西側でこの道筋の痕跡らしき道筋が確認できるが、東側では消滅している。
 飯坂街道に交わる付近のこの道筋をJA給油所と旧JAマーケットの間辺りとみると、説明される事と古い地図から読み取る役場の位置のイメージがうまく重なるような気がした。

 この時代の旧清水村役場の地番は泉字大仏25だ。旧清水村役場の泉字大仏25という地番は、この古い道筋から南側に付されたものと想像する。
 この「泉字大仏25」の地の間に刑務所通りが開通したとみるのだ。現況ではこの地番は刑務所通りの南側の洗濯店あたりのみにふられている。そして、元泉字大仏25だったJA給油所は、旧JAマーケットと同じ堀の内6の2の地番がふられているということだ。
 現況と古い地図から読み取る役場の位置関係を上記のようにとらえ直して、「郷土史物語」がいう旧清水村役場の位置情報を確認するとすっきりした。
 再掲する。

 明治22年(1889)に市町村制実施に伴い、南沢又・北沢又・泉・森合・御山の5町村が合併して発足する清水村役場が、現農協給油所のところにあったという。それが、昭和26年(1951)に完成した刑務所通り開通で、刑務所通りと農協に挟まれて自転車置き場も無くなったことで、昭和51年(1976)に現在地に移転した。

 なお、同誌の郵便局情報では、岩代清水郵便局は田中善右衛門氏局長として昭和16年(1941)4月16日に字大仏23番地に開局され、昭和34年10月1日に泉郵便局と改名したとある。
 地図を確認すると、確かに昭和58年の地図では郵便局は現在地である字大仏23番地にプロットされる。しかし、昭和48年の地図では現字大仏25番地である洗濯店付近にプロットされているように思う。
by shingen1948 | 2019-09-10 10:55 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

泉澤山久盛院③

 「郷土史物語」で「香蓮庵」について語られる辺りの風景だ。
a0087378_10572726.jpg
 左手の建物を同誌が言う「熊阪医院」とみている。
 その奥にもう一軒民家があって、その奥に路地が走る。その道の奥が乙天堂地域だ。
 その路地の突き当る丁字路の辺りに、墓地への入り口がある。

 「香蓮庵」が沢又桜内地内に再建されて泉澤山久盛院となる辺りを整理する。
 先に「松飾りを納めた泉八幡神社」で、泉澤山久盛院の由緒沿革を確認している。その中心とした資料は「寺院名鑑」だ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/11993723/

 その由緒沿革の部分を再掲する。
 元和(1615)以前、宥仙和尚によって創立、寛永(1624~)年中播磨壱岐刑部久盛開基、宥全和尚開山。

 この中興開基者の壱岐家は、この時の整理では南沢又字中条の人としていた。
 「郷土史物語」では壱岐家について詳細に解説する。その中から開基者としてのかかわり部分のみを拾う。

 先の整理で久盛氏とした方は、泉に住した壱岐家先祖の盛永氏だろうとしている。そして、この方が「香蓮庵」を中興開基された方なのだろうと推測している。
 この寺は沢又桜内地内に再建されることになるのだが、これが「信達一統志」に記載される宝永4年(1707)宥全和尚の時代ということだ。
 この時に寺院名が泉澤山久盛院となる。
 この山号泉澤山については推測しやすい。前身地泉と沢又の沢からとっているのだと思われる。
 簡単には推測できないのが寺院名である久盛院の方だ。同誌でも、開基者である壱岐家先祖の盛永氏の名が何らかの形でかかわっているということまでは想像しているのだが、確かな事は分からないようだ。
 なお、泉澤山久盛院が沢又桜内地内に再建されて直ぐに焼失し、正徳年間に壱岐甚右衛門氏によって再建されたのだとか。

 先の整理では、この開基者が泉・沢又の二村を領する地頭のように記したが、同誌はその部分には疑念を持っているようだ。

 「郷土史物語」では、この地域の他の有力者の移転状況も記されるので、地域内の人の流れが見えてくる部分のみメモしておくことにする。

 T家出地が上名倉在家としたことについては先にふれた。他に八宝屋S家出地は八木田在家とか。また、清水内S家の出地は八木田白家とか。
by shingen1948 | 2019-09-08 11:00 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

泉澤山久盛院②

 泉澤山久盛院の前身である「香蓮庵」があったという乙天堂付近に出かけてみた。
 「八幡坂神社参道脇を流れる湧水の源の民家:福島の建築44」でふれた民家の入り口に、町内の案内板があるので、確認する。
 https://kazenoshin.exblog.jp/12006803/
a0087378_10221648.jpg この民家を、「郷土史物語」では個人名を挙げて案内するが、元県知事屋敷ということでもあるので支障はないのかもしれない。その屋敷の湧水池については「福島市泉地区に、湧水の池を訪ねて」でもふれている。
 https://kazenoshin.exblog.jp/5113972/

 この地図にもう一つ湧水池が記されるが、これも「岩代清水の泉と池をめぐる~福島の水道とかかわって②」の最後でふれた池だ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/12037310/
 この地図の「元病院(推定)」としたところに、医院らしい建物が残っている。これが「郷土史物語」で「熊阪医院」としたあたりと想像して見回すと「墓地」の印がプロットされている。
 現況では、その熊阪医院は分からないが、清水内屋敷の南端の道向かい付近に病院だったのではないかと思わせる建物は現存する。
 そこを同誌がいう病院とすると、泉川の病院の道向かいという情報とも重なる。また、ここは清水内屋敷の南端あたりでもある。

 この墓地に行ってみると、т家旧墓碑も確認できた。同誌が香蓮庵の墓地の一端とする墓地に違いはなさそうだ。
確かな情報なのかどうかはまだ確認できないが、乙天堂と清水内に跨って泉澤山久盛院の前身である「香蓮庵」があったと想定することに伴う風景の確認ができたということだ。
 なお、泉川の道を挟んだ西側が乙天堂だ。
by shingen1948 | 2019-09-07 10:23 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

泉澤山久盛院

 「郷土史物語」では、地域の有力者の具体的な移転状況が記される。この辺りを散策する者としては、そのこと自体に興味はない。ただ、この事を辿ると地域内の人の流れが見えてくる。こりが現況の風景と関わり合っている事がわかる。
 また、そのような移転状況と考えるかという論拠が示されるわけだが、その示される論拠の部分に散策する者として興味がそそられることがある。
 今回整理しようとしている「泉澤山久盛院」の移動前の地の情報がそれにあたる。

 泉澤山久盛院については「岩代清水の泉と池をめぐる⑯」でふれているが、この時の興味は「双体道祖神」だった。
 その中で、沿革案内にこの寺が慶長(1596~)以来、泉村鎮守鷲神社と八幡神社の祭事に奉仕してきたとあることについてふれた。
 https://kazenoshin.exblog.jp/12123943/
 その久盛院の双体道祖神については「双体道祖神 ④」でもふれている。
 https://kazenoshin.exblog.jp/12193882/

 この寺が祭事を司ったという泉八幡神社については「松飾りを納めた泉八幡神社と羽黒神社」でふれている。明治以降は現在まで羽黒神社宮司が祭事を司っているようでもあった。
 https://kazenoshin.exblog.jp/12012656/
 「松飾りを納めた泉八幡神社」でも、泉八幡神社の沿革についてふれている。
 https://kazenoshin.exblog.jp/11993723/

 「郷土史物語」の地域の有力者移転先の情報から、この寺が泉村から南沢又村の地に移られたことの詳細情報が拾える
 その経緯については「地頭」の項でふれられる。その中に、この寺の泉村旧地は乙天堂の香蓮庵であった事が記されるのだが、その具体的な位置については「壱岐氏、泉から沢俣に移る」の項で記されている。
 散策を中心とする者としては、こちらを先に整理しておきたい。

 「伊達晴宗の采地下賜録」では上名倉在家とされる富田一族が天正の頃に泉に移られたのではないかとする根拠とする中に香蓮庵の位置情報が含まれている。その中から香蓮庵情報に焦点を当てて拾ってみる。

 その壱岐氏と富田氏の旧墓碑がある清水内屋敷の南端が、香蓮庵の墓地の一端なのだそうだ。その位置を「今の熊阪医院の道向かい」とも記される。
 現況では、その熊阪医院は分からないが、清水内屋敷の南端の道向かい付近に病院だったのではないかと思わせる建物は現存する。
 この辺りに、泉澤山久盛院の前身である「香蓮庵」があったということだ。

 先日、実際に現地に出かけてみたら、確かにそのような風景に出会うことができたのだ。
by shingen1948 | 2019-09-06 09:02 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 阿保原地蔵尊の阿保原地蔵尊以外の石碑群は、地元の方々が阿弥陀様と称した阿弥陀堂跡地から移設されたものだった。バス通りから北沢又小学校正門に向かう新道入り口付近のやや小高い丘地にあったというその俗称阿弥陀様は、現大和田庵の原点でもあるとのことだ。

 この辺りは水害が多く、阿弥陀堂が現大和田庵に落ち着くまでには数回の移転を繰り返したという。
 この小高い丘地にあった俗称阿弥陀様は、その最初の阿弥陀堂があった場所だったということらしい。というのは、「無能和尚行業紀」の北沢又邑阿弥陀堂勧化の折に記される風景とを照らし合わせると、その風景がこの阿弥陀堂の風景と合致するという事のようだ。

 「無能和尚行業紀」に記される風景は、以下のように記されているのだとか。
 「小径を北から南に行って、天を突くばかりの松の大木の傍に阿弥陀堂がある。近くには水面一杯に蓮の花が浮かんで咲いている『心の字』の池がある。」

 無能和尚は「小径を北から南に」進んだようだが、この辺りの1908年代の地図を眺めると、西の前田東から東の下台の方に延びる道筋から現大和田庵方向に向かう道筋が見える。現在はあぜ道になっているが、この古い道筋を想像する。
 その道筋は庵前を南西に向かう道筋となって現在の道筋と重なる。現新道は、その道筋から田のあぜ道となっている道筋のようだ。
 その道筋が、「郷土史物語」が記載するバス通りと交わる地点の東西に針葉樹林の記号が記され、道筋のやや東側に「史跡・名勝・天然記念物」の地図記号が記される。
 これが、「小径を北から南に行って、天を突くばかりの松の大木の傍に阿弥陀堂がある」という風景とも重なるような気がする。
 次の「近くには水面一杯に蓮の花が浮かんで咲いている「心の字」の池がある」という風景は地図からは読み取れない。
 同誌が記す「その北西約50mのところに湧き水があった」とする風景描写が頼りだ。「この地点は、南沢又と北沢又の境界線が南北と東西を結ぶ交点地点だった」と記すので、現在の地図に南沢又と北沢又の境界線を表示させてみる。
 その境界線を北西方向に見れるのは、バス道路の新道入り口付近、つまりは旧阿弥陀堂跡ということだ。
 前回のこの部分を修正する。
 旧阿弥陀堂付近から北西方向の境界線を眺めると、その境界線に沿って細い道筋が走っているようだ。北西方向はその細道の北側の出入り口付近だ。
 ここに旧湧き水地を想像し、これが「心の字」の池だったところだろうと想像し直してみる。
 曖昧さは残るが、この俗称阿弥陀様がこの地域の信仰心にかかわる神聖な処であったことは分かる。
 そんな神聖な場所から現阿保原地蔵尊の石造群は移築されてきたということだ。

 「阿保原地蔵尊②」で、裏面を確認させていただいたりしている時に、不審者とみられたことについてふれた。今なら、地域の人々にとっては信仰心の対象としているのに、自分は史跡としての見方で接していたという事でのギャップだったということが分かる。
 https://kazenoshin.exblog.jp/20209649/
by shingen1948 | 2019-09-05 08:51 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)