地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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カテゴリ:◎ 地域散策と心の故郷( 868 )

 福島の伊達氏ゆかりの満願寺という見方とのかかわりはないが、近くの寺々の移動情報として秀安寺もふれておきたい。
 余談のそのまた余談ということだ。

 先に、信夫の里(天地人の時)の観点から福島代官古川善兵衛重吉が創建し、自らも眠るという「康善寺」を訪ねたことを「無為山『康善寺』」として整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/7797008/
 この時にふれた寺の案内板の説明に、「黒岩にあった秀安寺がその前身で、上杉家臣で福島代官であった古川善兵衛重吉(西根堰開削者)が現在地に移し、故郷信州の康楽寺と自らの名前とから一字ずつを採って康善寺と命名した」とあった。

 ここでいう「上杉家臣で福島代官であった古川善兵衛重吉氏(西根堰開削者)」は、今回の散策との関りでは「黒岩虚空蔵の再建寄進された方」だ。その菩提寺である無為山「康善寺」の前身は、今回の散策地である黒岩の秀安寺ということだ。

 「黒岩虚空蔵堂~『虚空蔵堂記』<『黒岩虚空蔵の算額』探索余談>」で、「虚空蔵堂記碑文」の内容確認資料とした「信達一統志」では、「阿弥陀淵」の項に次のように紹介されている。

 「虚空蔵より水上にあり昔福島の康善寺此地茂原と云所にありしとき戦国の世にて国々に群盗徘徊し人の財實を掠とる此時僧法然親鸞両上人の書給へる六字の名號を所持せしに盗賊の為に奪れむことを悲しみこれを筥(はこ)に入れて此淵にしづめ感嘆して云太平のときかならず浮み出給へと云て上方へ登りけるが、世治り国に帰り此所に来りて先の年此淵に六字の名號を沈め奉りき今はいかになりゆき給へしにやと云つつ淵上を臨み見るに果たして水中より光明を放ものあり怪み綱を入れて引上見ればさきに沈め奉りし名號なり、今忽然として浮出給ふ寺僧百拝して是を奉じける、今に康善寺の什物なり故に後の世にあみだが淵と名付しなり、大熊川の年魚此處より取るもの味よろしと云(福島候公儀献上の年魚此野所より漁ると)」

 散策資料として読み取れば、福島候公儀献上の魚を漁る所が「阿弥陀淵」のようであり、虚空蔵はもっと川上にあったように読み取れる。
 更に、「昔福島の康善寺此地茂原と云所にあり」とのことなので、秀安寺が黒巌の茂原というところにあったということか。
 この「黒巌の茂原というところ」が、現黒岩小原集落らしい。

 半沢氏の「歴史地図」では、この現黒岩小原集落については、「中門造り」とメモされる。「ふくしま市景観100選」の83番「自然に囲まれた小原集落」の次の情報と重なる。
 「黒岩にある何百年もの間、乱開発を免れてきた場所。五月町にある康善寺の前身秀安寺があったとされ、秀安寺庭園が今も残っている。」

 散策としては、学壇遺跡が発掘調査されている頃に、旭台からその調査地点付近までは入り込んだことがあったが、この集落には行っていない。
 ただ、先に「渡利地区の阿武隈川沿いの風景」を散策した時に、対岸から「献上梁場跡」と小原集落の位置を想像したことについてふれている。
 〇 渡利地区の阿武隈川沿いの風景
 https://kazenoshin.exblog.jp/9123375/
 今回、情報をもとに地図上で確認していくと、対岸からは小原集落手前の神ノ前の民家が確認できることが分かった。
by shingen1948 | 2019-02-13 11:15 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 福島の伊達氏ゆかりの満願寺という見方にはいくつかの仮説に基づく。従って、そこには曖昧さが残るのだが、それゆえに面白いと思う事もある。
 近くの寺々の移動情報と絡ませてみる。

 まずは、大蔵寺情報と絡ませてみる。
 「福島の伊達氏(津島亮資)」では、黒岩の満願寺が直接的にこの福島の伊達氏ゆかりの満願寺だという見え方を示す。しかし、「ふくしまの歴史中世」では福島の伊達氏ゆかりの満願寺は、信夫郡小倉寺にあったとの見え方を示しているのだ。
 その上で、その満願寺と黒岩の満願寺の関係性が想像できることを示しているのだ。

 このことと関わりそうなのが、大蔵寺の移動情報だ。
 この移動情報は、先に大蔵寺を散策した時に、「弁天山⑧~川俣旧道と大蔵寺」として整理している中にあるのだが、それ程注目していたわけではなかった。
 https://kazenoshin.exblog.jp/9086676/
 その情報は、案内される解説にある以下の部分だ。

 「江戸末期まで、阿武隈川の西岸に300石近い大蔵寺村があり、この寺の御朱印地だったと言われていますように、寺は初め大蔵寺村にあったと伝えられています。それが東岸に移り、更に、ここ小倉寺山の観音堂とともにあるようになったのはいつからかは明らかではありません」

 ここからは、その別当寺が在ったかどうかは分からないが、少なくとも先に小倉寺に観音堂があったというふうに読み取れる。そこに、対岸の大蔵寺村から寺が移動してきたとの読み取りだ。

 今回訪ねた黒岩の満願寺山門を入ったところにある「旧大蔵寺門前の古碑」は、その対岸の大蔵寺村にあった寺がかかわっていそうだ。
 その案内には以下のように解説される。

 「小倉寺大蔵寺は住古、阿武隈川の西にありと伝えられ、旧大蔵村方郎内(現田部屋)の寺跡に残っていた但一基の古碑、碑文「昨日雨今日伏拝□□□・・・・・・」

 ここからは、小倉寺大蔵寺は旧大蔵村方郎内にあったことが読み取れ、その旧大蔵村方郎内というのは現字田部屋であることが読み取れる。
 地図で確認すると、現字田部屋は現ヨークベニマルや黒岩青少年会館の辺りになるようだ。あの辺りの風景を思い出すと、黒岩青少年会館の辺りに旧大蔵寺所在地をイメージできそうに思うが、どうだろうか。

 今回の情報確認で次に気になったのが、満願寺とかかわる伊達(6世)基宗氏の前代伊達(5世)宗綱氏の戒名が「金福寺殿浄方真西大居士」とあることだ。

 この金福寺に係るのかどうかは知らないが、思い浮かぶのは先に「信夫の里の独国和尚」で整理した沢又村の金福寺だ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/21247542/
 この寺、「信夫の里の狐達⑮~信夫の里の独国和尚」の写真に写る案内柱の解説にあるように、清水小学校(旧沢又小学校)の発祥の寺でもある。
 独国和尚の墓碑もまだ確認できていないのに、もしかすると金福寺殿もかかわるのではないかなという妄想も……。
by shingen1948 | 2019-02-09 16:11 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_17254677.jpg 虚空蔵堂への旧参道はこの山門の下の石段の下を通る。しかし、現在は虚空蔵堂へのお参りも、この山門から満願寺境内を経由するように案内される。

 半沢氏の「歴史地図」では、この満願寺の由緒沿革については「元和4年(1618)米沢の法泉寺(上杉氏菩提寺)の末寺となる。信夫伊達臨済宗の全寺院の筆頭。江戸時代の寺領は35万ご5斗8升3合(5町1反6畝6歩)」と記す。
 ちょっと気になるのは、その前に「もと天台宗か」とのメモがあることだ。

 門前の案内板でも、「天台宗だったこの寺が臨済宗妙心寺派に替わったのは、江戸時代の初めです」とあるので、単に満願寺が臨済宗となるのは、上杉氏がかかわるぐらいの関係性の想像でよいのかもしれない。
 「福島市寺院名鑑」の黒巌山満願寺の由緒沿革で、この事にかかわるのは「当寺はもと天台宗に属し大徳寺と称したが、現在は臨済宗妙心寺派である」としているところだ。

 ただ、うがった見方かもしれないが、専門家故に豊かな情報を持つはずだが、専門家故にうかつな事は記せないといったことがあるのかもとも……。

 この満願寺が「もと天台宗か」とのメモと関わりそうな情報が他にもあるのだ。
 福島の伊達氏ゆかりの寺社の情報だ。
 たとえば、「福島の伊達氏(津島亮資)」では、その「ゆかりの寺社」の項で、この満願寺が伊達氏の移封に伴って白河市関山から福島市黒岩に移り、更に宮城県に移動したものと記している。

 「封内風土記(仙台叢書出版協会)」では、仙台市の満願寺について以下のように解説する。

 成就山満願寺
 在奮寺小路。天台宗。東●山末寺。傳云奮在本州白河関。聖務帝。天平中為東夷静謐祈願建寺。安置光明皇后護持佛閲浮檀金聖観音。行基菩薩開山也。當家先君世崇敬之寄附神馬黄金等。白河家喪地之後後陽成帝。天正季前住慶重法印護持本尊到玉造郡岩出山。貞山君假設堂安置之。同帝慶長初移千仙臺城時●其地於州城之艮隅創建閲明神社及観音堂。而移寺為祈願處寄附三十六石餘之地傍院區如左。

 山号は成就山で、光明皇后護持仏とされる聖観音像本尊の天台宗寺院であることが確認できる。
 この寺は、天平年中に白河の関で行基開山として創建され、天正年中に玉造郡岩出山に移転し、更に慶長年初に仙台城下に移転したことも確認できる。ただ、この移動情報では、信夫郡とのかかわりは不明だ。

 それで、青葉区本町の現成就山満願寺の由来案内を確認すると、「建武2年(1355)8月10日,伊達(6世)基宗逝去の際,其の菩提所となる」とあることが記される。
 この基宗氏の法名が満願寺殿誠志堅貞大居士であり、その菩提寺が満願寺であるという情報が、信夫郡の満願寺情報を想像させるということのようなのだ。
 というのは、基宗氏の前代宗綱氏の頃から伊達氏の所領は信夫・伊達二郡となるようなのだ。
 基宗氏は、文保元年(1317)にその前代宗綱氏から家督を継いでいる。
 この時代、後宇多川法皇が院政から退き、実質的に後醍醐天皇の親政が始まるが、伊達氏に大きな動きはない。元弘三年(1333)には、基宗氏は、蔵人、左近衛将監、次に従五位下、宮内大輔に叙されているという。
 
 現満願寺がかかわるのかどうかは別にしても、少なくとも信夫郡に基宗氏がかかわる満願寺の存在が想像されるということになるようなのだ。
 ただ、半沢氏の「歴史地図」に記される「もと天台宗か」のメモが、どこまで意図されているのかは知らない。
by shingen1948 | 2019-02-03 17:31 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「虚空蔵堂記碑文」が刻まれる巌の東側は小高い丘になっている。上流から流れて来た阿武隈川は、この突き出た丘を回り込んで流れて行く。
a0087378_1011432.jpg その上流からこの丘に向かう流れを虚空蔵堂の南側から眺めることができる。

 虚空蔵堂の西側には、虚空蔵尊が丑寅生まれの守護仏ということで、定番の「なで牛像」と牛と虎の石造が配置される。
 虚空蔵堂の前に立つ案内板の解説の末尾に「十三詣りも、仏の徳にあやかろうとする行である」とある。十三参りも行われていることを伺うことができるが、その詳細は記されない。

 半沢氏の「歴史地図」から「黒岩虚空蔵の十三参り」にかかわりそうなメモを拾う。
 その一つが、「虚空蔵祭礼」の以下のメモ。
 「旧正月十二・十三日、旧七月二十二・二十三日、十三参りと称して、子供の身体加護と学問成就を願う親が十三歳の子を連れて参詣する。丑年生まれの人は、祭の日にウナギを阿武隈川に放流する。」
 なお、この祭時には「上の町(門前町)の民家は、祭礼時には道路側のしとみ戸を開けはなち、店を開いた」とのメモもある。
 もう一つが、「春日神社」にかかわる以下のメモ。
 「かつては春日参りをしてから虚空蔵堂の十三参りをしたとも。上の町の人々は、虚空蔵堂参りをした後、春日神社に礼拝した。それが、明治初年の国家神道政策で神仏分離された」

 これに、「胎内くぐり」の案内板に説明されていた「胎内くぐりは、仏徒でもない人たちにもこれを通過することによって、悪さを懺悔し、祓いのぞいて成長するものと信じられ、くぐり抜けるのがこの虚空蔵詣りの行とされてきた」とあることを加えたような風習だったことが想像される。
by shingen1948 | 2019-01-28 10:12 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 虚空蔵堂の東側の丘を中心に十六羅漢像が配置される。
 「虚空蔵堂記碑文」が刻まれた巌の周りにもいくつもの羅漢像が見える。
 その南側にも東側の丘に向かう崖道筋があるのだが、閉鎖されている。

 これは、その道筋を覗き込んで撮ったものだが、そこにも羅漢像が見える。
a0087378_114816.jpg この十六羅漢像については「十六羅漢造立銘碑」によって、その概要が分かっているとのことだ。
 その案内によると、十六羅漢というのは、釈尊の命によって仏法が正しく守られるよう、この世にとどめられた尊者とのことだ。
 その羅漢像がここに造立される時期は、文政3年(1820)の満願寺12世比巌和尚の代とのことだ。長沢勘七らが世話人となって建立したとのことだが、その石工も黒沢村の赤間七右衛門と八丁目の佐藤惣七であることも分かっているという。

 個々の羅漢像の背面には、その尊名と寄進者名が刻まれているとのことで、この羅漢像については次のように説明される。
 この羅漢像は、伐闍羅弗多羅(ばじゃらぶたら)尊者という方とのことだ。寄進者は、福島藩御用達商人の「施主 福島中町加藤紋治良」で、その目的が「為先祖代々菩提」であることが刻まれるが、その居士と大姉の法名は読み難くなっているとのことだ。
 「Open GadaiWiki」によると、この8番の伐闍羅弗多羅(ばじゃらぶたら)尊者の形相は「右肩を袒ぎ竜の一角を把り目を怒らせ歯を切て勇力を出すが如き然り」とのことだ。
 ここの案内では、その形相を「珍しく交脚して腰をおろした像で、右手に払子を持ち、左手は膝頭をおさえるように置いている。この尊者も肋骨が表わに彫刻され修業のきびしさを出しているが、お顔は真理の世界を仰ぐように見上げているようである」と説明される。

 近くには「胎内くぐり」についての案内板も建ち、この道筋にかかわって、次のように説明される。
 「かつてこの通りは、虚空蔵堂からこのさきの崖道を登って、清浄嶺に通ずる古道であった。重なる大石の下をくぐって行くあたりが『胎内くぐり』と呼ばれる場所である。満願寺で修業する人たちには、このくずれかかるような大石の中を通って、清浄嶺に達する峯廻りの修業の場でもあった。この危険をおかして仏の道をおさめる修業場としての胎内くぐりは、仏徒でもない人たちにもこれを通過することによって、悪さを懺悔し、祓いのぞいて成長するものと信じられ、くぐり抜けるのがこの虚空蔵詣りの行とされてきた。いまは崖道の危険から閉鎖されている」

 虚空蔵詣りにかかわる風習が、現代の危機管理の概念と符合せず、この道筋が閉鎖されているらしいことが分かる。
by shingen1948 | 2019-01-19 11:06 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「虚空蔵堂記碑文」は天保三年冬十二月に記された虚空蔵堂の縁記とのことだった。
 虚空蔵堂の創建について、「信達一統志」に紹介されるその「虚空蔵堂記碑文」から確認すると、以下のように記されているようだ。

 「作堂者誰山之記曰嵯峨天皇之御宇弘仁二年之春一比丘来創草一宇之梵刹云後世寛永十一年再作堂寄田者米澤候上杉定勝其臣古川重吉也」

 「山之記」を資料として、弘仁2年の春創建とし、米沢候上杉定勝の臣古川重吉が寛永11年に再建されたと読み取れる。

 虚空蔵堂の脇に立つ案内板では、以下のように説明される。

 「 <神社仏閣> 虚空蔵堂
 満願寺に伝わるこの虚空蔵堂は、弘仁2年(811)に造られたといわれている。現在のお堂は寛永11年(1634)に上杉藩の家臣古河善兵衛が、古くなったお堂を建てなおしたと記録に残っている。」

 おおよそ「虚空蔵堂記碑文」の内容を踏まえていることが分かる。ただ、その表現には微妙な差がある。
 その一つが、「満願寺に伝わるこの虚空蔵堂は」というふうに満願寺とのかかわりを強調していることだ。
 もう一つが、寛永11年の再建にかかわる記述が「古くなったお堂を建てなおしたと記録に残っている。」というふうに実証性を強調している事だ。
 いろいろな情報を探ると、ここで「記録に残っている」とするのは、「虚空蔵堂棟札」の墨書に「寛永11年」の記録と、上杉定勝公と古河善兵衛重吉の名が記されていたことを指しているらしいことが分かる。

 いつも散歩資料として活用させていただいている半沢氏の「歴史地図」では、「虚空蔵堂 信夫伊達両郡郡代官古河善兵衛<西根堰開削竣工の翌年寛永11年(1634)>堂宇を再建寄進」とメモされる。
 ここでは、西根堰開削で有名な信夫伊達両郡郡代官古河善兵衛氏が寛永11年に堂宇を再建寄進したことが強調されている。

 散歩資料として活用しているもう一つの資料「信達二郡村史」の虚空蔵堂創建にかかわる記述では、「弘仁2年(811)創建」と「寛永11年に堂宇を再建寄進」の間に、「慶長3年(1598)尾崎三郎左衛門重誉(上杉景勝臣)これを中興す」という記録を挿入している。

 これは、虚空蔵堂は満願寺とのかかわりが強い事と、その満願寺は上杉氏とのかかわりが強い事との関りが表現されたものだろうと想像する。
 慶長3年(1598)は上杉氏が会津転封となった年だ。この時からこの地も上杉氏領となる。
 中興者の尾崎三郎左衛門重誉(上杉景勝臣)については「浅川、松川散策の写真メモから33」でふれた「泉八家」のお一人だ。
 曖昧な情報が多いが、この時、羽州置賜郡北条郷宮沢、岩代信夫郡、上名倉、大森、黒岩、岡部等の村の支配を任されて、六千石役領下二千八百十石を賜ったとされる。この地の直接的な支配者だったということだろうか。
 https://kazenoshin.exblog.jp/238134235/

 半沢氏の「歴史地図」のメモから上杉氏とのかかわりを確認すると二つのメモが拾える。
 その一つが、「虚空蔵堂内陣に上杉定勝(米沢二代目)の寄進した厨子がある」とあるメモ。更にもう一つが、満願寺が「元和4年(1618)米沢の法泉寺(上杉氏の菩提寺)の末寺となる」とのメモがあり、その前に「元天台宗か?」とのメモがある。
by shingen1948 | 2019-01-13 09:36 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 これは、虚空蔵堂の東側の岩に刻まれた碑文だ。石造十六羅鑑像の案内板では、「虚空蔵堂記碑文」と解説されているものだ。
a0087378_1134247.jpg ここには何度も来ているのだが、この碑文は確認したいと思いながらそのままになっていた。今回の「黒岩虚空蔵の算額」確認に来て、それを思い出して撮ったものだ。
 部分的な撮り方になっているのは、碑文の読めそうなところを確認したいと思っているからだ。

 碑文の前半は痛みがひどくて読めそうにもない。後半も最後の「12月」はそのままでも読めるが、手引きがあれば読めそうなのも数行だ。
 「信達一統志」に、その全文が紹介されるので、これを手引きにして確認しようと思ったのだ。
 
 最初に見えたのが、後ろから三行目の「是居巌谷笑我愚人智乃此身一生居君室食木石衣……」辺り。
 次に、それを手掛かりに次の行の「東有石刊之以其所述者山僧誰天南一生菴主也」が読めたような気分になれる。
 目が慣れてくると、その二行前の「巌山水間寥々石室人難知寂々……」あたりが見えてくる。その上は想像も働かせて「倡響池黒」かな?……といった具合で、読めた気分になることで、「虚空蔵堂記碑文」に親しみを持とうとしている。

 その上で、「信達一統志」に紹介される「虚空蔵堂記碑文」を確認する。同誌の説明にあるように、これは虚空蔵堂の縁記ということだ。
by shingen1948 | 2019-01-08 11:06 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

「黒岩虚空蔵の算額」④

 これは、「森谷岩松翁功績の碑」だ。
a0087378_11593115.jpg 案内柱の説明によると、この方は、明治4年に黒岩村長兼大蔵寺村長となり、後に大森村外18ケ村の村長となり、この地域発展に大きな功績があった方とのことだ。
 この碑は氏の7回忌に合わせて造立されたものとのことだ。
 その前面には、その功績が記され、その裏面にはその造立にかかわった大島要三氏ら17名の発起人とその賛同者 計170名の参加者名が記される。

 「黒岩虚空蔵の算額」が扱っている問題は、和算の最高峰に位する転距軌跡と、それに伴う重心問題を解く豁術の研究成果と位置付けられるとのことだが、ここに記される方々はこの地に平凡に暮らす方々だ。
 だとするならば、明治26年頃学びの年頃だった方々は、この碑が建立された明治45年6月頃には、地域の社会人として活動する年代になっているだろうと思えたのだ。
 それで、この碑の裏面に掲げられる「発起人」と「賛同者」の方々と照らし合わせてみた。
 すると、「賛同者」として、長澤政吉氏・赤間和市氏・長澤辰蔵氏・長澤常治郎氏が確認できた。 また、17名の「発起人」の中に、赤間彦四郎氏、中村熊治郎氏の二人が確認できた。

 17名の「発起人」の中には、信夫地域の時の実力者であった鈴木周三郎氏、内池三十郎氏、大島要三氏、青木金治氏が中心となっている。
 次の小杉善助氏・丹治清五郎氏、花輪利八氏は確認できないが、その次の阿部末之助氏が自由民権運動関係者だ。
 その後に記される大隈實岩氏・大隈宗演氏が満願寺の御住職のようで、その2名後に赤間彦四郎氏が、更にその2名後に仲村熊治郎氏が記される。
 この地域の代表として「発起人」に名を連ねたということだろうと思う。

 賛成者も、その上位には、角田林兵衛氏、内池三十郎氏、河野広中氏などの信夫地域の時の実力者が名を連ねる。長澤政吉氏・赤間和市氏・長澤辰蔵氏・長澤常治郎氏も、この地域の代表として名を連ねたということだろうと思う。

 なお、「黒岩虚空蔵の算額」で中村熊治郎とされる方と「森谷岩松翁功績の碑」で仲村熊治郎とされる方が同じ方だろうとの想像だ。「森谷岩松翁功績の碑」では「中村」氏は存在しない。すべてが「仲村」だ。

 自分の中には、時代と共に教養が高まってきたという思い込みの文化認識がある。しかし、今の時代の自分には、この地に平凡に暮らしていた方々の数学力に対応できる力を持ち合わせていないことが分かる。
by shingen1948 | 2019-01-06 12:01 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

「黒岩虚空蔵の算額」③

 前回は、「佐久間文庫」解説にある「和算の最後の花」とある「最後の花」について、「花」の方に重点をかけた解釈の場合として整理した。
 しかし、「黒岩虚空蔵の算額」には、「最後」の方に重点をかけた意味合いの見え方もある。
 この算額では、「最上流宗統派の系譜」の5伝曠齋氏の門人として6伝の長沢保斎氏である長澤忠兵衛氏の算法が記され、更にその保斎氏の門人として7伝の長澤辰蔵氏の算法が記される。
 「最上流宗統派の系譜」は、この7伝の長澤辰蔵氏で途切れるということだ。つまり、この方が「最上流宗統派の系譜」の最後ということだ。
a0087378_7272375.jpg この手振れの写真は、そのこととかかわる。ちらりと、「寄付  長沢〇蔵」と見えたような気がしたのだ。本当は家に戻って、写真で確認するつもりだったのだが、御覧のあり様。
 またの機会に確認するという課題メモになってしまった。

 さて、尾形貞蔵悦氏は、この最後の花である「黒岩虚空蔵の算額」を奉納する前年に、松川町黒沼神社にも同じような算額を奉納していることは「最上流宗統派の系譜」で整理している。
 その算額情報とも照らし合わせておく。

 「黒沼神社ホームページ」の算額紹介の写真で、長澤忠兵衛、赤間忠作、大槻重作、渡邉猪𠮷、尾形助太郎の奉納者を確認している。
 「黒岩虚空蔵の算額」には、その中の「長澤忠兵衛氏、赤間忠作氏、大槻重作氏」が確認できる。
 「黒沼神社の算額」にある尾形喜代松氏は尾形英悦氏の孫にあたる方との情報も得ている。その尾形英悦氏のお孫さんである尾形喜代松氏は、ここでは赤間忠作氏の門人として扱われている。

 ここからは勝手な想像だが、これは曠齋塾の組織だてがかかわっているのではないかなと思っている。直接的な指導者を〇〇門人としているのだろうと思うのだ。
 つまり、曠齋氏から直接手ほどきを受けるのが、長澤忠兵衛氏、菊池桝吉氏、大槻重作氏、赤間忠作氏であり、長澤忠兵衛氏から直接手ほどきを受けるのが、長澤辰蔵氏、長澤常治郎氏、赤間和市氏、中村熊治郎氏、丹治〇次郎氏ということだ。
 その見え方で見ると、尾形喜代松氏は曠齋氏のお孫さんではあるが、直接指導は森谷染吉氏、長澤政吉氏、赤間彦四郎氏、加藤亀次郎氏、長澤富蔵氏、森谷友太郎氏、赤間捨吉氏と共に赤間忠作氏から受けるということではなかろうか。
 年代別だろうか。
by shingen1948 | 2019-01-02 07:31 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

「黒岩虚空蔵の算額」②

 「黒岩虚空蔵の算額」は、先に整理した「最上流宗統派の系譜」とのかかわり眺めている。

 その初代は渡辺一氏で、最上流としては2伝。それが完戸政彝(まさつね)氏に継がれる。最上流としては3伝だ。
 それが、信夫地区の金沢村の丹治重治氏に受け継がれる。最上流としては、安政4年(1857) 4伝の算法印可を受ける。
 明治17年(1884)には、その門弟だった浅川村舩橋の尾形曠斎氏が5伝の算法印可を受ける。
 明治38年(1905)には浅川村下中沢の長沢保斎が6伝の算法印可を受ける。
 それを杉妻村黒岩の長沢辰蔵氏が7伝となって引き継ぐのだが、ここで後継者なく、最上流が途絶える。

 「黒岩虚空蔵の算額」は、その「最上流五伝曠齋尾形貞蔵悦」の算額ということだ。ここで気になるのは、6伝の長沢保斎氏と7伝の長沢辰蔵氏がどうかかわるかということだ。
 前回確認した「曠齋門人として長澤忠兵衛氏」と「長澤忠兵衛門人として長澤辰蔵氏」とあるのが、これを意味している。

 先に整理した事だが、長沢保斎氏の碑文は次のように始まっていた。

 長澤保齊翁碑
 保齊翁通稱忠兵衛長澤氏信夫郡金谷川村淺川字中澤人也以
 嘉永元年四月生其家為考諱孫𠮷妣同氏翁生而穎悟特徴数理

 「長澤忠兵衛」は6伝の長沢保斎氏の通称ということだ。つまり、「曠齋門人として長澤忠兵衛氏」とあるのは、「5伝の尾形曠斎氏の門人である6伝の長沢保斎氏」と読めるし、「長澤忠兵衛門人として長澤辰蔵氏」とあるのは、「6伝の長沢保斎氏の門人である7伝の長沢辰蔵氏」と読めるという事だ。

 地域を散策するものとしては、ここまでの興味でしかなかったのだが、「最上流宗統派の系譜」を整理する中で、新たな見え方がある事を知った。
 この算額が扱っているのは、和算の最高峰に位するといわれる転距軌跡、それに伴う重心問題を解く豁術の研究成果と位置付けられるとのことだ。

 幕末の数学者で算変法の創始者として名高い法道寺善という方が、慶応2年に福島にやってきたそうだ。
 氏は、三春の佐久間家と松川の丹治家でその門人たちに2年間直接教授したとのことだ。そこから明治20年まで純然たる和算の方法で転距軌跡の問題を解くというその研究実績が目覚ましいものとのことだ。
 「佐久間文庫」解説で、「和算の最後の花」と表現するのは、この事を指しているらしいのだ。

 この算額は、その松川の丹治家にかかわる門人たちの研究成果の具現化されたものという見方ができるらしいのだ。
 なお、「和算『最上流宗統派の系譜』から⑯」で整理した明治24年4月に福島市立子山の稲荷神社に奉納された算額は、全国的には、法善寺善の門人達の算額という見え方があるようだ。
 その算額の題は「最上流宗統四世 明齋 丹治重治撰」。
 その算額にかかわる方を再掲する。
 上段に以下の方々の名が見える。
 安達郡沼袋 熊坂甚太・安達郡沼袋 國嶋彦八・信夫郡金沢 須田松五郎・伊達郡飯野 高橋藤吉・安達郡沼袋 野地伊三郎・安達郡下川崎 渡辺庄八・信夫郡金沢 菅野又治郎・信夫郡金沢 渡辺又七・信夫郡金沢 斎藤与惣右衛門・信夫郡松川 鈴木佐太郎
 その下段には、以下の方々の名が見える。
 信夫郡金沢 半澤子之吉・安達郡下川崎 野地勘之助・信夫郡金沢 丹治次郎蔵・信夫郡金沢 須田吉六・信夫郡金沢 渡辺勘之丞・伊達郡立子山 高橋千代吉・明齋丹治子通 信夫郡金沢 思齋丹治重満・信夫郡浅川 曠齋 尾形英悦 □印〇印・最上流五伝曠齋尾形英悦門人 信夫郡浅川 長沢忠兵衛

 信夫郡浅川 菅野徳衛門 謹写
 安達郡沼袋 菅野 与市 謹書

 「黒岩虚空蔵の算額」と重なるのは、「信夫郡浅川 曠齋 尾形英悦」氏と「信夫郡浅川 長沢忠兵衛」氏だ。
by shingen1948 | 2018-12-30 12:14 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)