地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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カテゴリ:◎ 地域散策と心の故郷( 844 )

 半沢氏の「歴史地図」をもとに土湯温泉辺りをウロチョロと散歩したのは、2007年秋頃だ。この散策をもとにして、今回和算について得た情報を加えてみる。

 まずは、確実な情報から。
 寛政3年8月に、和算家渡辺治右衛門一氏が土湯薬師堂に奉納した算額が復元されているという。 この算額が薬師堂に掲げられているとのことだ。
 この薬師堂については、「土湯温泉と高湯温泉③:薬師様(2007/9/24)」として整理しているが、確認してみるとこのことにふれていない。
 https://kazenoshin.exblog.jp/6211819/

 その復元された算額の写真を確認すると、末尾の「寛政三辛亥八月 最上流会田算左衛門安明門人 渡邊治右衛門一 印」の後に、次のような復元された趣旨が記されている。

 「原額は渡邊治右衛門一が故郷の薬師堂に奉納したもので時に二十五歳。当時薬師堂は土湯温泉発祥の名湯、中の湯の地に祀られていたが、度重なる洪水のために流出して幾星霜、昭和四十九年現在地に再興するに至る。奉納者の百五十回忌に当たり復元して懸額する。
昭和六十三年十月七日
         土湯薬師堂算額復元保存会
                  謹書 法井八夫」

 なお、「二本松市史」に記される算額の内容は、先に記した佐久間文庫などの記録をもとにしているとのことだ。

 散策時に整理した「薬師こけし堂の由来説明板」の解説と照らし合わせると、当時の薬師堂は、現湯本下の町の共同浴場「中の湯」辺りに鎮座していたということのようだ。
 御堂が流亡するのは大正2年8月27日の水害とのことなので、この原算額消失はこの時点でないのかなと想像される。
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by shingen1948 | 2018-10-22 11:16 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 旧旧ニ本松街道近くで、和算家渡辺治右衛門の墓という標識を見つけたことがあった。
 「土湯探索余談(2007/9/29)」の記事でそのことについてふれたが、この方が、今回整理している二本松藩士最上流二伝渡辺一氏だ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/6236962/
 この時には、その渡辺一の墓のある墓地らしいことまでは分かったのだが、渡辺一の墓そのものは分からないという事で、そのままになっていた。

 二本松市史の情報から、このことにかかわりそうな情報を確認しておく。

 まずは、二本松藩士最上流二伝渡辺一氏と土湯村との関りについての確認。
 氏は、保5年(1785)に土湯村の湯舎会津屋で生を受けている。
 そして、ここで、湯治に来ていたと思われる須永通屋(埼玉県)という方から和算を学んだとのことだ。これが19歳の時というから文化1年(1804)年頃だろうか。

 最上流の祖となる会田安明氏との出会いもここらしい。会田安明氏が、山形から江戸に戻る途中に、土湯に立ち寄ったとのことだ。この頃には、渡辺氏の名も奥羽だけでなく江戸にも知られるようになっていたとされる。
 ここで、渡辺氏の出題した問題を、会田氏は思ったよりも簡単な方法で解いてしまったという。それに感服した渡辺氏は、彼の弟子になるべく江戸に出たとのことだ。そして、最初の門人になったとのことだ。
 23歳の頃とのことなので、文化5年(1808)頃ということになるだろうか。

 この会田氏との出会いの話は土湯の散策資料にもあったのだが、そのままにしていた。その確からしさが伝説に近い話なのだろう思ったからだ。
 しかし、市史によれば、この事は渡辺氏の著書に書かれている事なのだそうだ。

 この後、氏は江戸に登るが、やがて土湯に戻る。
 この頃には、度々二本松に出て和算を教えていたようだが、文政2年(1819)には、二本松藩に召抱えられる。

 ここからが、渡辺一の墓があるらしい墓地とのかかわりも意識した情報の確認だ。
 氏は、二本松藩に召抱えられこの時に、嫡男を土湯に残し、後に二本松藩武衛流砲術家となり家禄を継ぐ二男未分氏を連れて着任したとのことだった。
 ならば、土湯の渡辺家を嫡男が継いでいるはずで、渡辺一氏の墓が土湯にある可能性はあるということだ。
 氏は天保10年(1839)72歳で亡くなるようだ。墓碑を探すなら、その法名もヒントになりそうだが、それが東嶽院不朽算額居士とのこと。
 ただ、二本松の情報では法輪寺墓地に墓碑があるということだが、こちらもあり得る情報だ。
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by shingen1948 | 2018-10-21 09:58 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「日本古典作者事典」に「息子未文は砲術家、孫の孫市は武衛流砲術師範」とあったことの情報確認の続きだ。
 「孫の孫市は武衛流砲術師範」の部分だが、この孫市氏は、嫡男渡辺貫氏を指しているようだ。
 この方も武衛流砲術師範とのことだが、二男の木村貫治氏も家禄65石の武衛流砲術師範のようだ。この方は木村左司馬次章氏の養子とのことだ。
 「二本松市史」では、「郡山市大槻町『安斎家文書』」を元に「幕末の二本松藩砲術の実態」を記述するのだが、天保14年(1843)5月17日に実施されたこの方が22歳の時に行われた砲術披露の様子が記されている。

 ここまでたどると、先に整理した「二本松少年隊の悲劇」の話と繋がるようだ。
 この「二本松少年隊の悲劇」の話では木村銃太郎さんが有名だが、この方の父親が木村左司馬次章氏の養子になられた最上流和算家渡辺治右衛門(東岳)の孫である貫治氏という事だ。

 先に「大河ドラマ視聴「八重の桜」~第24話「二本松少年隊の悲劇」で、それまでに整理した二本松の戊辰戦争関係の記事を概観している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/17970618/
 その中の「大壇口古戦場を訪ねる」が、木村銃太郎さんかかわりだ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/5755201/
 
 他の戦いの記述にも「武衛流砲術」が登場する。これも、最上流和算家渡辺治右衛門(東岳)の子未分氏の流れをくむ二本松藩砲術ということで繋がるということだ。
 また、「大河ドラマ視聴「八重の桜」~第24話「二本松少年隊の悲劇」②」で、木村門下生とあるのは、木村貫治氏の門弟ということになる。
 https://kazenoshin.exblog.jp/17976158/
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by shingen1948 | 2018-10-19 10:05 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回は、「十文字岳温泉」引湯工事の引き湯設計が、二本松藩士最上流二伝渡辺一氏の仕事であることの情報確認をした。
 今度は、「日本古典作者事典」に「息子未文は砲術家、孫の孫市は武衛流砲術師範」とあったことの情報を確認する。

 「二本松市史」の「幕末の二本松藩砲術の実態」の前項で、他の武芸よりも砲術が足軽芸として一段低く見られていた風潮が解説される。更に、その本項に入って、二本松藩の伝統的な砲術について解説された後、幕末に新たな流派が加わったとして次のように解説される。
 「二本松砲術師範として、さらに文政年間「武衛流」が加わることになる。文政2年(1819)、二本松藩は最上流和算家渡辺治右衛門(東岳)を召抱える。治右衛門の子未分は江戸に登り、武衛流砲術の渡辺次左衛門の門に入り、奥義を極め師範代となり、帰藩後は砲術方として教授を始めたと見てよい」

 「息子未文は砲術家」であることの確認としてこちらの解説を引いたが、興味深いのは、和算と砲術の関係についての紹介だ。
 この時代、一流の和算家の多くはすでに弾道学や爆圧力の計算をてがけていたといわれているそうだ。渡辺治右衛門氏も、砲術修業の功をなした息子に算法書各所から必要事項を抜抄して「砲器製作算法」と名付けて与えたとある。
 未分氏の深い砲術力学の知識は、砲術の師から未分氏に砲筒の割合、筒圧、筒玉などを相談する書簡が残っているという事などで確認できるとのことだ。この知見の深まりには、和算家渡辺治右衛門氏のおかげもあっただろうことが伺える。

 ここまででは分かりづらいのは、家系的な繋がりだ。結論的には、「治右衛門の子未分」とされる未分氏は、治右衛門氏の二男のようだ。
 それが分かるのは、次のような事情説明だ。
 
 砲術の師から未分氏への相談の書簡など二本松藩の幕末の砲術に関する資料が残るのは、「郡山市大槻町『安斎家文書』」とのことだ。
 何故この安斎家にそれが残るのかということだが、大槻下町名主となる安斎太郎右衛門氏は、安斎家に婿入りした未分氏の兄の子なのだそうだ。
 つまり、文政2年(1819)に最上流和算家渡辺治右衛門(東岳)が二本松藩に召抱えられ時に、嫡男を土湯に残し、二男未分氏を連れて着任したということだ。その二男未分氏が家禄を継いだ二本松藩武衛流砲術家ということのようだ。
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by shingen1948 | 2018-10-18 10:39 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 最上流三伝宍戸政政彝氏についての情報は少ないが、それを挟んだ最上流二伝渡辺一氏と最上流四伝丹治重治氏については容易に確認できる。そちら情報から宍戸政政彝氏についての情報を拾う。

 「日本古典作者事典」の渡辺一氏の項の中に「門弟:宍戸政彝・佐久間正晴ら多数」とある。
 ここからは、宍戸政彝氏が、佐久間正晴氏と共に、最上流二伝渡辺一氏の高弟であっただろうことが伺える。
 また、丹治重治氏の項では、「1850(14歳)野地豊成門、最上流和算宍戸政彝まさつね(:二本松藩士/渡辺一門)門」とある。
 ここからは、宍戸政彝氏が丹治重治氏の師であるという事と共に、氏が渡辺一門の二本松藩士とされていることに着目したい。
 ここに、前回確認の「ふれあい歴史館」所蔵算額に「最上流三傳完戸左エ門政彝門人 信夫金澤〇 丹治栄之助重治」とあることから読み取れる最上流三伝であること、碑文にその門弟丹治栄之助重治が最上流四伝であることの情報を加えて、宍戸政彝氏にかかわる情報としておく。

 次に、最上流二伝渡辺一氏についての情報を確認する。
 「日本古典作者事典」で確認していて、気になったのが次の二つの記述だ。
 それが、「1824山崩の岳温泉の引湯工事:25完成」とあることと「息子未文は砲術家、孫の孫市は武衛流砲術師範」とあることだ。

 まずは、「1824山崩の岳温泉の引湯工事:25完成」から確認する。
 これは、最上流二伝渡辺一氏が二本松藩士として、「十文字岳温泉」引湯工事の引き湯設計にかかわったということとかかわるようなのだ。

 「岳温泉観光協会」のホームページに、「岳温泉の歴史・伝説」を紹介するページがある。
 http://www.dakeonsen.or.jp/history.stm
 元々の岳温泉である湯日(元岳)温泉が山津波によって一瞬にして崩壊、埋没するのが、文政7年8月のようだ。
 次が十文字岳温泉時代<文政8年(1825)~慶応4年(1868)>になるようだが、以下はその時代の紹介の出だしの記述だ。

 「藩は元岳温泉から6キロ程下の平原地(現在の不動平)に新温泉地を建設に着手した。引湯設計は藩随一の算学者渡辺東岳が行った。鉄山の湯本からの引湯は、当初は土管を樋として土中に埋めたが湯冷めがするため、松の木管に変更するなど大がかりだった。そうして費用5千両をかけ驚異的な早さで翌年7月に完成したのである」
 
 ここに、「引湯設計は藩随一の算学者渡辺東岳が行った」とある。
 「最上流二伝渡辺一」氏の字は貫卿で、通称は治右衞門、その号に、東岳・斎・ていさい・西河・現在坊があるということだ。
 従って、この「藩随一の算学者渡辺東岳」は、「最上流二伝渡辺一」氏の号で紹介されているということだ。

 この「十文字岳温泉」を訪ねて「十文字岳温泉地を訪ねる」として整理したのは、2006年だが、この時に最上流二伝渡辺一氏のかかわりに気づいていない。
 https://kazenoshin.exblog.jp/4587792/

 なお、元々の岳温泉である湯日(元岳)温泉については、主として「安達太良山③~元岳温泉」で整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/7573762/
 次の「安達太良山④景色の中から」からは、現在の岳温泉の源泉になっていることとのかかわりで整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/7576602/
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by shingen1948 | 2018-10-16 12:55 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 江戸後期の「福島の和算」という時に、その福島というのは福島県を指すのか、信夫郡の福島地区を指すのかを見極めないと曖昧になる。
 福島県を指す時には、二本松の和算家渡辺治右衛門一から、その第一の高弟とされる明治期にかけて活躍した船引の佐久間纉(庸軒)に繋がる系譜を最上流和算として紹介される事が多い。
 今回の整理は、その福島を信夫郡の福島地区周辺に限定した上で、二本松の和算家渡辺治右衛門一から繋がる系譜を確認しているものだ。

 ここまでの整理を振り返る。
 まずは、石碑を資料に、金沢村の金沢村丹治重治氏→浅川村舩橋の尾形曠斎氏→浅川村下中沢の長沢保斎氏と繋がる系譜を確認した。
 次に、福島地区周辺からやや範囲を広げ信夫郡の佐藤元竜氏→佐藤刻治氏の系譜とその近辺の系譜を探ってみたということだ。

 これからの整理は、今までの整理とは逆方向に、金沢村の金沢村丹治重治氏から両派の共通の祖である二本松の和算家渡辺治右衛門一への繋がり確認だ。

 まずは、丹治氏の系を石碑の碑文で確認する。
 ここでは、氏は安達郡の野地豊成氏の門で学んだ後、二本松藩の宍戸政政彝の門下に入り、許されて宗統四世となったと記される。また、宍戸政政彝氏については渡辺一氏の一伝と記される。
 この系譜は、最上流元祖会田氏→渡辺一氏と繋がっているわけなので、その渡辺氏から直接宍戸政政彝氏へ繋がると読み取れる。宍戸政政彝氏を最上流元祖会田氏から数えると宗統三世という事になるのだろう。ここから繋がる丹治重治氏が許されて宗統四世となったと読み取ることができる。
 この脇に建つ案内板の説明では、許されて宗統四世となるのは安政4年(1857)とのことだが、碑文にはその時期の表記は見当たらない。

 宍戸政政彝氏→丹治重治氏との繋がりは、安政七年(1861)に丹治重治氏が奉納した算額でも確認できる。
 この算額は「ふれあい歴史館」所蔵とのことだったので、今は閉じられた「ふれあい歴史館」に立ち寄った際の写真を何度も探してみたが見つからなかった。
 それで、確認できるものはないか探したら、「街角の数学」というサイトの「折々の算額」というページにこの算額が紹介されていた。この写真で「最上流三傳完戸左エ門政彝門人 信夫金澤〇 丹治栄之助重治」との記載が確認できる。
 http://streetwasan.web.fc2.com/oriori.html
 宍戸政政彝氏が最上流三伝であることは確からしいということだ。

 その最上流三伝宍戸政政彝氏についての情報は少ない。
 今のところ、「ふくしまの歴史」のダイジェスト版では二本松藩士と紹介され、同じ「ふくしまの歴史」近世版の「和算家丹治明斎の碑」では二本松の米穀商と紹介されているのを見るだけだ。
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by shingen1948 | 2018-10-14 09:51 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「西地区史跡文化財」の案内図に紹介される4人の和算家について、その系譜にこだわった見え方で整理してみた。
 その碑文から、佐藤刻治氏、鈴木梅次郎氏、阿部太七氏は、最上流佐久間派と伺えた。ただ、佐藤刻治氏は佐藤元竜氏を師とした経緯が分かる。
 その佐藤元竜氏は、二本松藩内で渡辺氏にあるいはその系に繋がる方から学んだようにも伺えた。 佐藤元竜氏―佐藤刻治氏の系は、形式的な算法印可があったかどうかは分からないが、実質的には宗統派の系譜に近い経緯を辿りながら最上流佐久間派と結びついたという推測をした。

 鈴木梅次郎氏と阿部太七氏については、その経緯を鈴木梅次郎氏―阿部太七氏と繋がると推測したが、その鈴木梅次郎氏の師である下村の須田信崇氏の系が分からない。とりあえず他の流派から最上流佐久間派に繋がったとの仮説で推測してみたところだった。
a0087378_10353813.jpg この碑は、「下村物語(二瓶俊郎)」を参考にして下村付近を散策していた時に撮った「二瓶子碑」だ。撮影は2009年4月だが、この時の興味は建物が中心でこの碑についての整理はしていない。
 「二瓶子碑銘」の篆額部分が読める。
 「福島のいしぶ」に「(和算家) 二瓶子碑」と紹介される方の碑のようだ。碑文を確かめ、鈴木梅次郎氏の師である下村の和算家と繋がらないかなという興味だ。

 この碑の最初に「二本松渡辺担識」とある。手持ち資料では、どなたかという確認はできなかったが、碑文に「聞吾藩有東獄者為天下之選 輙来学焉……」とある「聞吾藩有東獄者」の「吾藩」は二本松藩である事が分かる。
 そして、今までの確認から、ここに「東獄者」とあるのは、今回の整理で渡辺東獄こと二本松藩士渡辺治右衛門氏とした方であり、和算家渡辺一氏とした方であろう事が分かる。

 この碑文は、その「聞吾藩有東獄者為天下之選 輙来学焉……」との紹介に続いて「信常甞著最信算法記」とある。この信常は、この二瓶千之助氏の諱のようだ。
 それらの情報をつなぎ合わせて考えると、この二瓶氏は少なくとも二本松藩内の最上流を学んでいた方であることが伺える。

 この碑建立が嘉永3年(1850)であり、鈴木梅次郎氏の師となる須田信崇氏よりも古い方であることまでしか想像できないわけだが、この地に二本松藩内の最上流とかかわる和算家がいらっしゃったということではある。
 荒井村辺りの散策時点では、下村の須田信崇氏―鈴木梅次郎氏―阿部太七氏と繋がる系は他の流派から最上流佐久間派に繋がったとの仮説だったが、こちらも二本松藩内の最上流から派生している可能性も否定できないということになるようでもあるということのようだ。
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by shingen1948 | 2018-10-11 10:42 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「西地区史跡文化財」の案内図に和算にかかわる史跡が4か所プロットされている。
a0087378_239388.jpg 今回「最上流宗統派の系譜」で整理した方々とのかかわりでふれたのが、このうちの「佐藤刻治碑」と「佐藤元竜碑」だ。
 ただ、「佐藤元竜碑」の碑文は確認できていない。また、ここで「佐藤刻治碑」とする碑を確認したとするのは、「福島のいしぶみ」では「佐藤刻治翁寿蔵碑」として紹介されている碑の碑文だ。

 佐藤刻治氏は、結局は田村郡佐久間佐久間纉の塾門人ということになり、最上流佐久間派ということになるのだろうと思う。しかし、それは佐藤元竜田氏が修天元術及天生法の修得を認められた上での話だ。その佐藤元竜田氏に認められた時点で、形式的にも算法印可を受けたかどうかは不明なのだが、その時点では最上流宗統派の系譜に近い認められ方という事になるのだろうと思うのだ。
 和算愛好にかかわる情報を探ると、佐藤元竜田氏の門人が明治35年(1902)2月に飯坂の八幡神社に奉納した算額が現存するとのこと。また、佐藤刻治氏が昭和5年(1930)に地元白山寺に奉納した算額も現存するとの情報も見る。どちらも確認はしていない。

 ここからは、和算「最上流宗統派の系譜」からということからは余談になる。
 「西地区史跡文化財」の案内図にプロットされる「阿部太七寿蔵碑」については、荒井村の散策時にふれている。
 この碑は、「土湯会津道を歩いてみる⑭~和算家と学校を意識する」で張り付けた写真に写る碑だ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/21884427/
 この方の碑は「福島のいしぶみ」では「阿部(長安)翁寿蔵碑」として紹介されている。
 この時にもふれたが、この方は、数術を鈴木某氏に学んだ後、岳谷佐久間先生門でも数年学んでその奥を極め、家に戻って余暇に村の子弟を教育した方であることが、「福島のいしぶみ」で紹介される碑文からも確認できる。
 この方も結局は最上流佐久間派ということになるのだろう。ここでも、その研鑽途中の師が気になる所だ。
 この案内板で「鈴木梅次郎寿蔵碑」とされる方が、その鈴木某氏でないのかなと思うが、どうだろうか。この方の碑は、「福島のいしぶみ」では「深見(鈴木甚右衛門)翁碑」と紹介されている方だと思う。
 この方の碑が建つのが明治15年で、阿部太七寿蔵碑建碑が明治31年なので、矛盾はなさそうにも思う。

 この「深見(鈴木甚右衛門)翁碑」の碑文を確かめると、この方は文政5年生まれで、下村の須田信崇氏を師とするらしいことが分かる。
 その後、岩瀬郡吉田東光氏の門弟となるが、途中師が亡くなられたので、田邑郡の佐久間纉の門で学ばれるということだ。この方も、結局は佐久間派ということになるようだ。
 研鑽途中の師とされる下村の須田信崇氏が、最上流かどうかは分からない。

 地域情報で紹介される和算家はここまでだが、伊達地方の和算家情報中にこの地域近くの別の和算家が紹介されている。
 寛永6年に、信夫郡山田村の奈良輪甚内氏と土湯村の二階堂藤蔵氏が、伊達郡塚原村の三品丈之進常祐氏とともに渡辺一の門人とのことで、二本松の亀谷の坂町観音堂に師渡辺の追善供養の算額を奉納しているとの情報だ。
 この地域の和算文化の底辺の広さにかかわる情報として受け止めてよさそうに思う。
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by shingen1948 | 2018-10-09 10:37 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回、「土湯会津道を歩いてみる⑭~和算家と学校を意識する」でふれた荒井小校長格佐藤元竜氏が、「佐久間文庫 由来」に和算の最後の花を咲かせた一人として紹介された佐藤元竜田氏なのではないかと想像してみた。
 「福島のいしぶみ」を眺めていて、この想像とかかわるかもしれない箇所をみつけた。
 「佐藤刻治翁寿蔵碑」だ。
 寿蔵碑というのは、生前に建てられた碑をいうのだそうだ。「土湯会津道を歩いてみる」として散策した時に撮った写真があった筈だが、今のところ見つからない。
 この碑文によると、この方は、田村郡佐久間佐久間纉の塾に5年間入門し最上流の奥義を極めて村に戻って小沢軒と号して私塾を開いた方のようだ。
 今回注目したのは、そこに辿り着く前の研鑽部分の碑文だ。

 次のように刻まれているらしい。
 特徴于数理 入同邨数学家佐藤田之門 修天元術及天生法 
 天元術及天生法を修めたのは同じ荒井村の数学家佐藤田の門だと解釈する。

 これを、今までの想像と結び付けてみる。
 まずは、「佐久間文庫 由来」で「最上流宗統派の系譜」で整理した方々の外に「佐藤元竜田」と表記される方がいらっしゃったことを確認した。
 次に、その方を半沢氏の「歴史地図」に和算家で医師であったと紹介される荒井小校長格の「佐藤元竜」氏ではないかと想像した。
 今回は、この荒井村に天元術及天生法が学べる佐藤田の門という数学塾の存在が確認できたという事だ。
 この「佐藤田の門」と称している数学塾が半沢氏の「歴史地図」に紹介される荒井小校長格の「佐藤元竜」氏の私塾と想像してよさそうに思ったのだ。その事で、想像の確からしさが高まったようにも思えるのだが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2018-10-07 10:35 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 福島の和算の主流は、今回整理の会田安明氏の最上流であることが分かる。
 二本松藩士渡辺治右衛門が、天明8年22才でその門弟となり、寛政9年31才のとき二本松に帰って、江戸から安明の著書を借用して伝写につとめたとされる。
 ただ、「福島の和算」研究としての情報を確認すると、ここから先の継承が今回整理していることと違う。
 主たる情報では、継承者は第一の高弟で明治期にかけて活躍した佐久間纉(庸軒、船引町石森出身)だとされる。
 今回の整理では、そこを完戸政彝(まさつね)氏としていることだ。
 そこから継がれたとされる丹治明斉氏の碑を確認し、その丹治明斉氏から継がれたとされる尾形曠斎氏の碑を確認し、その尾形曠斎氏から継がれたとされる長沢保斎氏の碑を確認したところだ。
 この後、杉妻村黒岩の長沢辰蔵氏が継ぐが、ここから後継者なく最上流が途絶えたという流れだ。
 散歩人としては、主たる情報との違いに戸惑いながらも、「最上流宗統派の系譜」とされる確認をすすめてきたところだった。

 この戸惑うところを確認していたところだが、山形大学附属図書館の「佐久間文庫 由来」にその回答に出あえそうなヒントがみつかった。
 同図書館が所蔵する最上流の和算家 会田安明の著作を公開する目的のようだが、その文庫の多くに佐久間家が寄贈した佐久間纉父子が蒐集した書があるそうだ。
 http://www.lib.yamagata-u.ac.jp/yktop/holding/collection/sakuma/yurai/

 その「佐久間文庫 由来」に、渡辺一の門弟が以下のように紹介されている。

 渡辺一の門弟に佐久間正清質(1786-1854)、庸軒佐久間二郎太郎纉(1819-1896)、完戸佐左衛門政彜(1782-1865)、市野(市川)金助茂喬、葛西通之亟泰明などが出た。
 このうちで、佐久間質・纉父子の跡をついで、佐久間綱治成己(1851-1873)、佐久間広吉(1860-1907)が三春で佐久間派を守り、明治の末年に及んだ。この間に弟子を養うこと数千人の多きに達している。
 一方、二本松の完戸政彜の後には、信夫の丹治賜庄作、佐藤元竜田、尾形貞蔵、長沢忠兵衛、長沢辰蔵、助川音松、安達の植野善左衛門らが、和算の最後の花を咲かせた。

 今回の整理は、この説明の下段から佐藤元竜田氏、助川音松氏、安達の植野善左衛門氏を除く方々の系譜ということになる。
 なお、福島県歴史資料館は、植野善左衛門が自筆で写したとみられる和算書 および関係書715点を「植野貞夫家文書(安達郡安達町)」として収蔵しているらしい。
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by shingen1948 | 2018-10-03 10:19 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)