地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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カテゴリ:◎ 地域散策と心の故郷( 857 )

和算散策余談③

 割り算九九の確認は中途だが、何となくこんな感じだろうということが分かった。思い出の確認が目的だ。これ以上深入りするつもりはない。ここまでにする。
 ただ、確認の資料とした「塵劫記」は、江戸時代のベストセラーで、ロングセラーだったとのことなので、パラパラとページをめくって全体を眺めてみた。

 今回は、割り算九九とそれに関連した算盤の運珠法を図で示されたところを中心に見ていたが、その前には、命数法、単位、掛け算九九等数学の基本的な事柄が記されている。
 次には、日常的な身近な題材と関連させた問題の解法が取り扱われているらしいことが分かる。
 ただ、版木印刷を読み慣れてないので、よくわからないところがある。時々図入り問題があって、興味は持ち直す。

 いくつかの解説書との照らし合わせで、その内容を想像する。
 問題は、解説によれば、初めは日常的な題材として、売買の事、杉算の事、銭売買の事、銀両替の事等々とのかかわりなのだとか。
 次に、身近な題材で平方根、立方根、相似、勾配、求積、測量にかかわる問題が並んでいるという。
 更に、興味を引くような問題として、ねずみ算、からす算などが続くとのことだ。

 この解説で成程と思ったのは、徹底して実用的であることが「塵劫記」の大きな魅力という部分だ。その後の改訂版でも、収録した問題には明確な順番の規則性があるわけではなく、徹底して読者を飽きさせない多様な問題と工夫が盛り込まれているとのことだ。

 現在の系統性の強い数理の教育は、分かる喜びを得させるために易から難へ配列することを基本とすることに疑いをはさめない。
 その視点でみれば、「塵劫記」の問題は、粗削りであり、乱暴であるということになるのだろう。 しかし、徹底した実用性のある問題、飽きさせない多様な楽しみのある問題は、それを乗り越えようとする意欲を引き出し、かえって解く喜びが増すという指摘にも見えるという事だ。
 こちら側の視点に立てば、現在良しとする易から難への配列は、問題のための問題であったり、面白みのない問題であったりしないかという指摘になるということでもある。

 高等数学教育を得意とする方の中には、小学校算数で難解とされるつるかめ算などは連立方程式で簡単に解けるものなので、こういう問題は無駄だとしたりする方もいらっしゃる。そこまで言わないまでも、方程式を使うといかに問題を簡単に解くことができるかを実感させるための準備としての有用性しかないという見方をする方は多い。
 しかし、この見方だけが正しいということではないということを示唆しているようにも思えるということだ。
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by shingen1948 | 2018-11-25 11:47 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

和算散策余談②

 前回の整理で、小さい頃にそろばん塾に通っていたことについてふれた。その関連で思い出したのが、父親との割り算九九についてのやり取り。
 珠算の練習をしているのを見ていた父が、もっと簡単な割り算の仕方があるといってこの割り算九九なるものを教えてくれたのだ。ただ、いくつもの運指法を使ってしまっては、混乱しかねないので取り入れることはなかった。
 記憶に残っているのは、「にいちてんさくのご」という語感だけだ。

 今ではそろばんを使う事もないので、運指法に混乱をきたしたとしても何の支障もないので、この割り算九九を確認していた。

 江戸時代、京都を中心にそろばん塾の興隆があったそうで、この関連で出版されたと紹介されるのが、「算用記」と毛利重能「割算書」のようだ。
 この天理本「算用記」は、1967年に京都で発見されたそうだ。この本は、「割算書」と酷似した前半部分と、「塵劫記」に酷似した後半部分から構成されているという。
 それまでは、江戸初期(1622年)に書かれた「割算書」が、最も古い和算書と考えられていたのだそうだが、こちらが最古の可能性が高いということになっているそうだ。

 毛利重能「割算書」の確認ができる。以下に五の段まで記したが、これが九の段まで続く。
 記憶の「にいちてんさくのご」という語感は、この九九の最初のようだ。
 「二一」の部分は、除数と被除数を表しているようだ。「天作五」の部分は、そろばんの横さんの上を天といい、その下を地ということイメージすると分かるようだ。天に一珠置いて値を五とすることを意味するようだ。
 (実際には、被除数を置いてから操作するので、その先に一を払うという操作がある)
 次の「逢二」は、除数と被除数が共に二であることを意味しているようだ。「進一十」の部分は、先の位に一を加えることを意味しているようだ。
 ここの唱え方は、「にしんがいっしん」ということになるようだ。

 三の段の除数と被除数は二の段と同様。「三十一」の部分は、その位に三を置いて、次の位に一を置くということのようだ。要は、一を三で割ったら商が三で、一余る。それをそろばん上にどう表現するかということなのだろう。

 四の段は、三の段までの操作の類推で対応できる。

 五の段の「五一」の操作部分は、「加一」とある。新しい表現だが、これは先に被除数一が置かれているところに更に一を加えるという意と思われる。なお、「塵劫記」では、ここを「倍双二(ばいそうに)」と表現されている。こちらは操作結果表記と解される。
 五の段全体は、この操作からの類推で対応できる。

 二一  天作五  「にいちてんさくのご」 
 逢二  進一十  「にしんがいっしん」 

 三一  三十一  「さんいちさんじゅうのいち」
 三二  六十二
 逢三  進一十 

 四一  三十一
 四二  天作五
 四三  五十二   
 逢四  進一十              

 五一  加一  (倍双二)                   
 五二  加二  (倍双四)
 五三  加三  (倍双六)
 五四  加四  (倍双八)
 逢五  進一十
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by shingen1948 | 2018-11-18 11:43 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

和算散策余談~そろばん

 確認していくと、自分の年代近くまで和算の世界が存在していたらしいことが分かるが、接触する機会はなかったと思っていた。
 ただ、全く無縁だったということでもなさそうなのだ。小さい頃にそろばん塾に通っていたことがあるが、江戸時代これが和算の道具の一つだったということもあるようなのだ。
 この習い物で、結果的に珠算三級の資格を取得している。当時は、商業的な就職には有利な資格とされていたと思う。
 この時につちかったそろばんのイメージがあるのだが、これが本来的な和算の道具としてのそろばんということとは少し違うことでもあるらしい。

 江戸時代のソロバン学習書では、単にソロバンの使い方を説明するのではないそうだ。種々の興味ある数学の問題を、ソロバンを使って解くというものだったとのことだ。ソロバンは単に計算の道具としてではなく、数学を学び考えるための道具として捉えていたとのことだ。

 自分がイメージするそろばんは、明治になって和算から洋算中心の学習になった時に、和算と切り離して数値計算道具として生き残りをかけて変質させたものということのようだ。
 速く正確に計算するための道具であることに特化したイメージになったということだ。

 この後、この速く正確に計算する道具としては電卓が登場するのだが、これが学生時代だ。自分はこの時代、掛け算と割り算は機械式計算機を使っていた。
 思い出したのは、物理の研究室に、ボタンを押すだけで計算できる機械が入ったということで見せていただいたことがあったことだ。初期のパソコン位の形状や大きさで、物々しく机に鎮座していた。聞くと、値段も何十万円もしたということだが、多分、四則計算機でしかなかったと思う。しかも、計算を始める前に、正しく動くかどうかを確かめなければならなかった。
 計算前に、答えが分かっている簡単な計算を入力して、正しい答えを出すことを確認し、それから計算に入るのだ。

 それが、年々小型化され安くなっていくのだが、そのスピードが実に速かった。我々が手軽に使えるようになるのに、それ程の時間はかからなかった。
 その当時の電卓でなるほどと感心したのが、そろばん付き電卓だ。電卓で計算したものを、そろばんで正しいかどうかを検算できるというものだ。今にして思うとおかしいのだが、当時はいいアイディアだと思っていたことを思い出す。

 自分はかかわらなかったが、この時代、コンピュータの計算は、複雑なやり取りが必要だったようだ。
 まずは、計算したい式を書き込んで、計算センターに届けたようだ。暫くして、計算センターから式にもとづいて作成されたパンチカードが戻って来る。それが正しく打ち込まれたものかどうかを点検して、誤りを修正して、再度送り返す。
 これを繰り返して、ようやく答えを得る事ができるということだったように思う。

 
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by shingen1948 | 2018-11-15 09:53 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 今回の視点で整理していくと、師匠を頂点とするいわば家元制的な見え方が中心になる。特に、奉納された算額の確認では、その家元の成果公開のようにも感じられる。
 ただ、和算の場合、たとえ家元制的な見え方ではあっても、旦那衆の道楽芸というふうな見え方とは少し違う。その思考法が、実際の日常生活での問題解決に役立つという側面があるようなのだ。

 例えば、最上流二伝渡辺治右衛門一氏は、二本松藩藩校の講師として迎え入れられるのだが、「和算『最上流宗統派の系譜』から⑤」で整理したように実務的な仕事もしているようなのだ。
 藩主は、岳温泉が山崩で崩壊するという緊急事態に対応すべく、彼に「十文字岳温泉」引湯工事の引き湯設計に当たらせている。また、次の「和算『最上流宗統派の系譜』から⑥」で整理したように、その子息達は砲術師範としてとりたてられている。

 佐久間派の話でも、実務的な仕事とのかかわりを読み取ることができる。
 田村市県指定文化財「重要文化財(歴史資料)」の「佐久間庸軒和算関係資料」によると、佐久間纉氏は、測量術を最上流の高橋吉右衛門氏に学び、洋算・航海術・天文等も研修を進めていたということだ。
 また、氏は万延元年(1860)には、三春藩士に登用されて、藩校明徳堂教授となるのだが、明治元年(1868)には、三春藩地図取調方などの新政府の絵図編纂御用も勤めることになっているということだ。

 「鹿島」の「鹿島の軌跡~歴史の中から見えてくるものがある~」のページに、「明治時代の水準器―福島県の旧家から発見された測量機を追って」は、佐久間派の和算について、実学としての側面から整理されたものとしてとらえることができるのではないかと思う。
 https://www.kajima.co.jp/gallery/kiseki/kiseki48/index-j.html
 このまとめで、和算の実務的な側面として、地図や暦などの計算で実践に役立てるものが数多いとする。他に、農業用水のための水車の設計、幕府天文方、土木工事、年貢の換算、堤防、水路などさまざまな局面で地元の農民や藩の行政に協力していた例があるとする。
 その上で、伊藤直記氏も佐久間庸軒氏らと共に、藩の行政あるいは地元の農民の力となり尽力したとして、元治元年(1864)8月には三春藩より苗字帯刀を受けたと紹介する。

 前回、幕末から明治にかけての福島近郊では、川俣、立子山村、金沢村、松川村、杉妻村、荒井村、土湯などを中心に、最上流宗統派の和算家は勿論、佐久間派の和算家も活発に活動していたらしいとした。
 この地域では、後世に名を遺す程の目立った活動ではなかったかもしれないが、同じ様に地元の農民の力となり尽力していたということがあったであろうことは想像できる。
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by shingen1948 | 2018-11-13 10:34 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 算額情報を拾うことで確かめようとしたことは、空振りが多かった。しかし、思いもかけない情報に出会う事もある。

 例えば、「大阪天満宮 文化元年3月奉納者最上流渡辺一門人二本松住完戸政つね」とあるのをみつけた。問題の類別にかかわる資料だったと思うが、定かではない。
 「最上流渡辺一門人二本松住」とのことなので、今回整理の「最上流三伝宍戸佐左衛門政彝氏」であることはほぼ確実だ。
 この方は「和算『最上流宗統派の系譜』から⑪」で「二本松市史」と散歩資料をもとに整理しているが、この情報はみかけていなかった。
 ここで、この方は没年が元治元年(1864) 2月で、享年84歳だと確認しているので、その逆算で生誕安永9年(1780)を推定すれば、文化元年(1804)は24歳頃の話ということになるようだ。
 「古今名人算者鑑」で西幕下14枚目に位置されるのは、文政9年(1827)なので、20数年前の話ということになるようだ。最上流二伝渡辺一氏の情報とも重ねると、山崩の岳温泉の引湯工事が1824で、完成が1825なので、その20年前の話ということだ。

 今回は最上流宗統派の系譜の確認なので、得られた情報からできるだけ佐久間派の情報を削除して整理するようにしてきた。算額情報でも同じようにしてきたのだが、その事によってかえって佐久間派の存在を意識するようになったこともある。

 例えば、「田村郡三春町龍穏院 明治26年(1893)2月 佐久間派算法(佐久間派20名)奉納」の三人目に、「岩代国信夫郡荒井村佐藤刻治撰」をみつけているが、省略している。
 この方は、「和算『最上流宗統派の系譜』から③」で整理した方だと思う。
 その師は、「佐久間文庫 由来」に和算の最後の花を咲かせた一人として紹介された佐藤元竜田氏と想像した方だ。碑文によると、この方は、その後、田村郡佐久間佐久間纉の塾に5年間入門し最上流の奥義を極めて、村に戻って小沢軒と号して私塾を開いたとのことなので、矛盾しない。
 「田村郡三春町龍穏院 明治26年(1893)2月 佐久間派算法(佐久間派20名)奉納」には、他にもう一人の荒井村の方の名が見える。
 その九人目に「岩代国信夫郡荒井村佐藤菊太郎撰」とあるのだ。ただ、この方を荒井村の散歩資料からは拾えない。
 「磐城三春太神宮奉納略図」でも、岩代信夫郡・伊達郡・安達郡の方々の名が確認できる。

 近隣の算額情報に「斎藤利七」という名はよくお見掛けしたが、こちらも省略している。
 この方は、川俣町の散策資料で確認できる。大綱木町の佐藤正二郎氏の子で、嘉永五年に同じ村の弥吉氏の許へ妻子共に養子相続して、斎藤利七と改名したとのことだ。元治元年に佐久間纉氏に入門し、明治13年に許されたという指南許状も資料として確認できる。
 川俣町の散策資料には、その弟子の菅野豊蔵氏も紹介される。
 明治13年に斎藤利七門人として佐久間纉氏に入門、後年自ら「庸軒派算法菅野社中」を結成したとのことだ。

 幕末から明治にかけての福島近郊では、川俣、立子山村、金沢村、松川村、杉妻村、荒井村、土湯といった二本松藩領との境付近を中心に、最上流宗統派の和算家は勿論、佐久間派の和算家も同様に、あるいはそれ以上に活発に活動していたらしいということになるようだ。
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by shingen1948 | 2018-11-10 10:06 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回、明治24年4月(1891福島県福島市立子山目細内110 篠葉沢稲荷神社に奉納された算額(丹治重治他)に掲げられた方々を確認した。
 その整理の中で、名古屋で2015年に開催された「庶民の算術展」に出品されたとしたところだが、開催時期が違っていた。展覧会情報を確認すると2005年のようだ。訂正する。

 「和算『最上流宗統派の系譜』から⑬」でもふれたように、「最上流宗統派の系譜」としたのは「金谷川のあゆみ」の情報を元にしている。しかし、「金谷川のあゆみ」以外に「最上流宗統派」としてその系譜を表現する散歩資料に出会っていなかった。
 まずは、それがこの葉沢稲荷神社に奉納された算額で確認できたということがある。

 その題が、「最上流宗統四世 明齋 丹治重治撰」。
 ここで、最上流宗統四世明齋 丹治重治氏が確認できる。
 更に奉納者の方々の氏名の中に「信夫郡浅川 曠齋 尾形英悦」に角印と丸印が押されていることが確認できる。そして、その直ぐ後ろに「最上流五伝曠齋尾形英悦門人」とあって、「信夫郡浅川 長沢忠兵衛」が紹介されている。
 このことから、最上流宗統五伝が曠齋尾形英悦氏であることが読み取れる。更に、ここで最上流五伝曠齋尾形英悦門人信夫郡浅川長沢忠兵衛と紹介されるのは、「金谷川のあゆみ」の情報で最上流宗統六伝とされる方だ。

 次に気になるのは、「明齋丹治子通 信夫郡金沢 思齋丹治重満」と紹介される御子息。丹治重治氏が信夫郡金沢村在住である事から気になるのは「信夫郡金沢 丹治次郎蔵」だが、その関係性は曖昧。

 更に曖昧な想像を続けると、気になるのが「安達郡下川崎野地勘之助」氏と「安達郡沼袋 野地伊三郎」氏だ。
 というのは、明齋丹治重治氏は、幼少時には安達郡人の野地豊成氏の門人だったと碑文にある。その野地豊成氏が安達郡下川崎在住のはずだからだ。その方とのかかわりかなとの想像だが、こちらも曖昧。

 今回、奉納者名を丁寧に拾ってみている。これは明齋丹治重治碑の撰文者が田嶋寛氏であったこととかかわる。
 「和算『最上流宗統派の系譜』から~明斎先生(丹治庄作)碑④」でもふれたように、この方は幕末から明治にかけて八丁目宿の学校創設や文化人サロンに中心的にかかわった元二本松藩士だ。その人材バンクから八丁目宿小学校指導者が人選されているとすれば、そこに重なる方がいらっしゃるのではないかと思ったのだ。それで、手持ち資料と照らし合わせて眺めてみたのだが、結果的には空振りだった。
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by shingen1948 | 2018-11-06 16:54 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回は、法道寺善氏の福島来遊についての情報を確認した。
 法道寺善氏は、初め広島で梅園立介に数学を学び、後に江戸へ出て内田五観の塾でさらに数学を学んだ後、日本全国を遊歴して各地で数学を教授しているとのことだった。
 その長崎来訪の事例をもとに論じるのが「法道寺善の「観新考算変法」と九圓變換術矩合集について(米光 丁)」。
 その本論は専門的内容なので歯が立たないので、その結びから捉えるべきことを推測する。

 法道寺善の長崎滞在は、嘉永5年(1852)前から数年間したとのことだが、この事と嘉永5年(1852)に「算法円理括襄」を完成させた長崎の加悦俊興著(法導善が書いた旨を川上朝隣に語ったとされる)ことが関連的であるということらしい。
 また、法道寺氏の「観新考算変法」(土屋本)は万延元年(1860)であり、この「算法三十七問起源」は安政7年(1860)2月であるが、長崎でも当時長谷川寛の極数術と法道寺善の算変法の教え考え方が門人たちに受け継がれていたということだ。

 これは、前回整理の法道寺善氏福島来遊の補強情報としての受け止めのつもりだが、記述の中に直接的に福島にかかわる情報も含んでいる。
 例えば、明治24年4月に福島市立子山の稲荷神社に奉納された算額は、法善寺善の門人によるものだという表現がある。
 この「明治24年4月に福島市立子山の稲荷神社に奉納された算額」というのは、「丹治重治他が、明治24年4月(1891福島県福島市立子山目細内110 篠葉沢稲荷神社に奉納した算額(現存)」という県内の情報と重なるものだろうと思う。

 幸いなことに、この算額は名古屋で2015年に開催された「庶民の算術展」に出品されたこととのかかわりで「篠葉沢稲荷神社」のホームページで確認できる。

 その算額の題は「最上流宗統四世 明齋 丹治重治撰」
 その上段に以下の方々の名が見える。
 安達郡沼袋 熊坂甚太・安達郡沼袋 國嶋彦八・信夫郡金沢 須田松五郎・伊達郡飯野 高橋藤吉・安達郡沼袋 野地伊三郎・安達郡下川崎 渡辺庄八・信夫郡金沢 菅野又治郎・信夫郡金沢 渡辺又七・信夫郡金沢 斎藤与惣右衛門・信夫郡松川 鈴木佐太郎

 その下段に以下の方々の名が見える。
 信夫郡金沢 半澤子之吉・安達郡下川崎 野地勘之助・信夫郡金沢 丹治次郎蔵・信夫郡金沢 須田吉六・信夫郡金沢 渡辺勘之丞・伊達郡立子山 高橋千代吉・明齋丹治子通 信夫郡金沢 思齋丹治重満・信夫郡浅川 曠齋 尾形英悦 □印〇印・最上流五伝曠齋尾形英悦門人 信夫郡浅川 長沢忠兵衛

 信夫郡浅川 菅野徳衛門 謹写
 安達郡沼袋 菅野 与市 謹書
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by shingen1948 | 2018-11-05 10:09 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回は、七伝の杉妻村黒岩の長沢辰蔵氏の情報確認のために算額情報を拾ってきたその過程を記し始めたところだ。
 「黒岩虚空蔵の算額」についてのやや詳しく情報を拾ったところで思い出すのは、「佐久間文庫の由来」での以下の解説。

 時たまたま慶応2年、広島の法道寺善の来遊があり、和算の最高峰に位する転距軌跡、およびそれに伴う重心問題が、丹治庄作、尾形貞蔵らによって研究された。その成果は、福島市の近郊の(例えば黒岩虚空蔵の)算額に今日も見ることができる。

 慶応2年に来遊したという広島の法道寺善氏について当方は知らないのだが、誰でもが知っている方という前提で案内されているので確認する。
 ウィキペディアの「和算」の項に「和算の発展に関わった人物」の一人として以下のように紹介される。

 文政3年(1820)―明治元年(1868)
 幕末に活躍する。当時、互いに接する多数の円の半径の関係を求める問題が広く扱われた。これを簡単化するため、算変法を導入し、円の一つを直線に変換することで計算を簡略化した。これは現在の反転に相当する。他に、図形の重心問題・サイクロイドに関係した問題を扱う。

 この方が、慶応2年に福島に来遊されるということとかかわりそうなのが、「平凡社世界大百科事典」解説の以下の部分だ。

 幕末の数学者。算変法の創始者として名高い。通称和十郎、字は通達、観山と号した。初め広島で梅園立介に数学を学び、後に江戸へ出て内田五観の塾でさらに数学を学ぶ。内田の塾を出て、日本全国を遊歴し、各地で数学を教授した。

 「福島の和算(平山諦)」では、その法道寺善氏の福島来遊についてやや詳しく紹介される。
 その概略を以下のように読み取る。

 法道寺善氏が福島に来たのは慶応2年とのこと。
 氏は、三春の佐久間家と松川の丹治家で教えたとのことだが、その2年後には法道寺氏は広島に帰って没しているという。ということは、この福島の地で福島の和算家達に教えていた頃が、この法道寺氏の円熟に達した時期に当たるとのことだ。

 転距軌跡の問題とそれに伴う重心の問題を解くための豁術の種は、この時にまかれたのだということだ。そして、慶応2年から佐久間・丹治・尾形貞蔵らの研究が終わる明治20年までの20年の研究実績は目覚ましいものだという。
 素晴らしいのは、純然たる和算の方法で転距軌跡の問題を解いている事なそうで、「佐久間文庫」解説で「和算の最後の花」と表現するのは、この事を指しているようなのだ。

 法道寺善氏の福島来遊でまかれた種が、見事に芽生え成長したということを、この地の和算の特色の一つと考えてよさそうだという事でもあるようだ。
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by shingen1948 | 2018-11-04 11:12 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 七伝の杉妻村黒岩の長沢辰蔵氏の情報確認のために、浅川村と杉妻村周辺の奉納された算額情報を拾ってみたが、拾えた情報は先に記した通りで大きな収穫はない。
 ただ、この確認作業の過程で、最上流宗統派の系譜の特徴ともかかわるかもしれないと感じたものがあった。
 その中には、先に山形の「佐久間文庫」でみた情報である「慶応2年当時和算の最高峰に位する転距軌跡、およびそれに伴う重心問題」の概要とも重なるのかなと思えることも含まれる。
 それで、算額情報を拾った過程をも記しておこうと思った。

 まず、明治25年、松川町黒沼神社に尾形貞蔵他が奉納したという算額を確かめた。
 古い方の「黒沼神社ホームページ」の算額紹介の写真では、長澤忠兵衛、赤間忠作、大槻重作、渡邉猪𠮷、尾形助太郎の奉納者が確認できる。
 全体では16の門題数があるようなので、それに対応した奉納者がいらっしゃるという事だろうと思う。
 その題にあたる所には「最上流五傳曠齋尾形貞蔵閲」とあるので、最上流五伝尾形貞蔵氏が、門弟たちの作問を検閲したものという感じだろうか。

 尾形喜代松は尾形英悦の孫にあたる方との情報を元に、算額全体が写る写真を眺めると、最後に記された方がそれに当たる方だろうということがおぼろげながら分かる。
 ここで尾形英悦氏とされる方は、先の確認で最上流五傳曠齋尾形貞蔵氏であることが分かっている。
 https://sites.google.com/site/kuronumajinjaasagawa/home/sangaku 

 次に、「数学史研究」の中から、算額の類題を分類する情報の中から黒沼神社算額の問題を確認すると、上記の方の他に齊藤卯之助氏が確認できた。更に、明治26年、黒岩虚空蔵に曠斎門人が奉納したという算額からの問題が紹介されていることが確認できた。
 そこで、森谷染吉、赤間和市、赤間捨吉、赤間彦四郎の奉納者と共に、曠斎門人長沢辰蔵氏が確認できたということだ。

 ここに「街角の算額」のページの「折々の算額」情報も加えると、杉妻村 中村熊治郎、杉妻村長沢富蔵もその奉納者の一人だったのではないのかなとの推定ができる。
 http://streetwasan.web.fc2.com/oriori.html

 これらの情報から、明治26年、黒岩虚空蔵に曠斎門人が奉納したという算額も、松川町黒沼神社に尾形貞蔵他が奉納したという算額同様に、最上流五伝尾形貞蔵氏が、門弟たちの作問を検閲したものという感じのものだろうとの推定ができるのだと思うのだ。

 この算額情報からも、すでに洋算が着目される時代になっているのに、最上流宗統派の塾では算数教育現場として相当に活気づいていたことが想像できると思うのだ。
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by shingen1948 | 2018-11-01 12:28 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「金谷川のあゆみ」が「最上流宗統派の系譜」について、今のところ確認できたのは、次のような事だ。

 まずは、「最上流宗統派の系譜」の繋がりそのもの。
 元祖会田安明氏<延享4年(1747)~文化14年(1817)>から土湯の渡辺治右衛門一氏(二伝)に継がれた最上流の和算が二本松の宍戸佐左衛門氏(三伝)に継がれる。
 ここから、安政4年(1857)に金沢村丹治重治氏(四伝)に継がれて、明治17年(1884)に浅川村舩橋の尾形曠斎氏(五伝)に継がれる。そして、明治38年(1905)に浅川村下中沢の長沢保斎氏(六伝)に継がれたものだ。
 ここまでが幕末の二本松藩領内での話だが、その後隣村の杉妻村黒岩の長沢辰蔵氏(七伝)に継がれたが、ここで後継者がなくなり、最上流は途絶えたとのことだった。

 次に、確認の方法。
 二伝の渡辺治右衛門一氏については、土湯の散策資料と二本松市史を中心に確認し、三伝宍戸佐左衛門氏については二本松市史を中心に確認をしてきた。
 四伝の丹治重治氏から六伝の長沢保斎氏までは、「福島のいしぶみ」とも照らし合わせながら石碑の碑文をもとに確認をした。
 まだ確認はしていないが、六伝の長沢保斎氏については「長沢清家和算資料」が福島県歴史資料館収蔵されているという情報も見つけている。「福島県歴史資料館収蔵資料目録38(平成18年度刊)」

 残ったのが七伝の杉妻村黒岩の長沢辰蔵氏の情報確認。
 六伝までは石碑を資料として確認してきたが、考えてみれば石碑は受け継いだ次の代の方が建てるものだ。最後の代である七伝の杉妻村黒岩の長沢辰蔵氏のものはない。
 それで、思いつく資料は奉納された算額だ。
 浅川村と杉妻村周辺の奉納された算額情報を拾ってみた。
 今のところ、七伝は長沢保斎氏から継いだものだろうと思うが、五伝の尾形曠斎氏からも直接学んでいたらしいという程度の確認でしかない。
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by shingen1948 | 2018-10-30 10:56 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)