地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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カテゴリ:◎ 地域散策と心の故郷( 795 )

池袋駅西口②

 ドトールで一息ついて、駅方面に歩いて行くと、左手に西口公園が見えてくる。
a0087378_682419.jpg 公園といっても舗装された広場で、緑豊かという事でもない。後で確認すると、この右手に噴水があって、これがこの公園らしさの特色らしい。ただ、散策中は、左手のステージが作業中だったのは憶えているが、その噴水があったという記憶がない。
 確認を進めると、6月18日現在、7月にこの噴水撤去完了に向けて撤去作業中とのことらしい。この公園は、劇場公演に大改修されるらしい。噴水の撤去はその前段階の改修とのことだ。
 東京オリンピックに向けての改修らしく、ここを含む池袋の4っの公園も改修されるらしい。
 (「いけぶくろねっと」http://w3.ikebukuro-net.jp/archives/info/west-park201806)

 そもそも、この公園とその奥に見える東京芸術劇場は、東京府豊島師範学校とその付属小学校の跡地らしい。
 散策中は気づかなかったが、銅像と立木の間の一角に、「東京府豊島師範学校 同附属小学校 発祥之地碑」が建っているとのことだ。
 そこを拡大してみる。
a0087378_610371.jpg 右手のゴミ箱の奥、黒の石材に刻まれているのが校章のようだ。その左の白っぽい石材に「東京府豊島師範学校 同附属小学校 発祥之地」と記されるらしい。

 沿革の概要

 一、明治四十一年十一月 東京府豊島師範学校設置告示
 一、明治四十二年四月  此の地に校舎新築・開校
 一、明治四十四年四月  附属小学校開設
 一、昭和十八年四月   東京第二師範学校と改称
 一、昭和二十年四月   空襲により附属校舎を残して全焼
 一、昭和二十二年一月  本校小金井の地に移転
 一、昭和二十四年五月  東京学芸大学に発展し附属小学校は附属豊島小学校と改称
 一、昭和三十九年三月  豊島小学校小金井に移転

    昭和四十八年三月建之
            豊島師範学校同窓会 撫子会
            同 附属豊島小学校  同窓会
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by shingen1948 | 2018-06-22 10:07 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

池袋駅西口

 今までは、この駅は上京してきた時に山手線から東武東上線に乗り換えるために利用するだけだった。
 今回も、東武東上線の方向に進んで、山手線の改札口を出たところまではいつも通りだった。今までと違ったのが、乗り換え前に一休みしたいと思ったことだ。
 最近は長い距離をわき目もふらずに移動するということなどない。体力的な事というよりは、最近の生活のリズム変化によるものだ。
 散策癖のせいかもしれない。

 駅から外に出たところにある案内板を見て、とりあえず向かったのが「元池袋史跡公園」。
 <史跡公園>に<元>がついているのが何となくいわくありげで興味がそそられたということもある。
a0087378_4204421.jpg そこには「池袋地名ゆかりの池」の碑と「成蹊学園発祥之地」の碑が建っているだけの小さな広場だった。

 「池袋地名ゆかりの池」については、石碑の下と右わきに案内板が建っていた。

 池袋地名の由来

 むかしこのあたりに多くの池が あり、 池袋の地名は、その池からおこったとも伝えられている。池には清らかな水が湧き、あふれて川となった。この流れはいつのころから弦巻川とよばれ、雑司が谷村の用水として利用された。
 池はしだいに埋まり、水も涸れて今はその形をとどめていない。これは、むかしをしのぶよすがとして池を復元したものである。
          
                               東京都豊島区教育委員会

 石碑の右脇の案内板には、同文の案内に石碑寄贈者として「東京池袋ライオンズクラブ」の銘が付加されている。
 
 「これは、むかしをしのぶよすがとして池を復元したものである」とあるのだが、この時点では復元された池なるものがどれを指すのか分からなかった。

 「成蹊学園発祥之地」の碑は、以下のように刻まれていた。

 桃李不言
  下自成蹊
    中村春ニ

 明治四十五年
 成蹊学園発祥之地

 ベンチがないので休めそうもない。
 休める所を意識しながら駅の方向に戻ると、ドトールがあったのでここで休むことにした。
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by shingen1948 | 2018-06-19 10:14 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 案内文の中に以下のように、「阿武の松原」は熊阪氏によって広く知られるようになったらしいことが記される。

 江戸時代の後期この地区の南に位置する「高子村」(現保原町)で儒学者・詩人としてこの地に多くの足跡を残した「熊坂三代(覇陵・台州・盤谷)」によって「阿武の松原」が広く知られるようになったと言われる。

a0087378_5333955.jpg それで、熊阪氏の書籍情報を確認すると、「信夫歌」の「信達二郡輿地略図」には、この「阿武の松原」がプロットされていた。
 その位置は、瀬上駅と長倉村の間を流れる摺上川が、阿武隈川に流入する辺りの向かい側ということのようだ。
 阿武隈川を基準にして「阿武の松原碑」の位置と見比べると、南北関係に違和感はない。ただ、東西関係では碑の位置よりも阿武隈川に近い位置のプロットのようにも見える。

 新しく建った案内板を確かめると、「昭和に入り(松原の)東端(碑の立つ地点)に残った1本の老松だけが長くその名残を留めていたが、昭和39年に枯死して全容を失った」とある。
 つまり、「阿武の松原碑」が立つ位置は、阿武の松原の東端ということだ。ここから街道沿いに阿武隈川近くまで西に松原が広がっていたということのようなのだ。
 ただ、松原は幕末・明治期にはほとんど絶滅していたとのことで、「信夫歌」の時代も衰退に向かう状態だったはずではある。
 そして、昭和39年までは、松原東端に1本の老松がその名残を留めていたが、それが枯死して松原は完全消滅したということのようだ。
 その切株の跡に「阿武の松原碑」が建ったのは、昭和52年。町道山の下線拡幅改修工事に伴っての建立のようだ。

 今のところ、「信夫歌」での「阿武の松原」紹介内容までの確認はできていない。
 ただ、台州氏が葛の松原も阿武の松原も知る人が少ないと書いているとの情報はある。
 「信夫歌」の構成は、第一部が台州の叙事詩と息子盤谷の註記・第二部が盤谷の考証付録とのことなので、それと照らし合わせて、上記情報は、台州の叙事詩ということなのだろうと思う。
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by shingen1948 | 2018-06-15 10:31 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

 高子山からの帰り道、この「阿武の松原」碑の前の道に出たのは意図したことではない。偶然だ。
a0087378_985359.jpg
 前回、この「阿武の松原碑」を訪ねて整理したのは2009年だ。
 当時から、この碑は町指定文化財だったはずだが、多分案内板はなかったと思う。近所の人に何度か尋ねてようやくたどり着いた記憶がある。
 https://kazenoshin.exblog.jp/8799433/

 今回もここに立ち寄るつもりなかったのだが、それでも整理しておこうと思ったのは、立派な案内板が建っていたからだ。しかも、案内文の中に「阿武の松原」が広く知られるようになったことと熊阪氏がかかわるという情報が含まれているのだ。

 まずは、「阿武の松原碑」に記されていることを確認する。

 陸奥の思ひしのぶに
 ありながら 心にかかる
 阿ぶの松波羅
      太宰弐長実

 古跡「阿武の松原」は、信達一統志によると、桑折駅の南へ一里余箱崎村にあり、今の原町の地で阿武隈川の清流に沿う一帯の景勝の松原で、本邦三松原の一つであったと伝えられている。
 平安時代後期大治元年(1126)白河法皇による勅選「金葉和歌集」巻八にある長実の和歌で有名である
 その後度重なる洪水のため決壊、陥没してか、この松原も次第にその全容を失い僅かに東端の老松のみで名残を留め、相馬福島を結ぶ唯一の旧道は旅人の往来も繁くそのかたわらにそびえ旅情を慰めていたが、齢1000余年の古松も昭和29年8月遂に枯死した。
 この街道も昭和52年立派な町道山の下線として拡幅改修されたのを契機に、部落民ならびに郷土史研究会、有志一同こころより往時の面影をしのび、古松の跡地に記念碑を建立して故事を永く後世に伝えるものである。
                          福巌寺少僧正  石井祐澄撰
                          水雲社 宮司  大橋雅史書

 次に、案内板の解説を確かめるが、解説の太宰弐長実の歌も、以下のように微妙に違って表記される。

 陸奥(みちのく)の思いしのぶにありながら
         心にかかるあぶの松原    太宰弐長実


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by shingen1948 | 2018-06-12 09:09 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「熊阪台州氏(その2)51~谷文晁氏との交遊②」で整理したように、寛政6年(1794)夏、文晁氏は、瀬上駅を通りながらも、自ら熊阪家白雲館に立ち寄ることはなかったということだ。

 実は、この時以外にもう一回、ひょっとすると高子にも立ち寄ったかもしれないという憶測があったようだ。それは、前回整理の定信公が文晁氏の「真景図」を描くことのできる画力を認めることともかかわっているようだ。

 文晁氏は、若い日に全国を旅していて、定信公とかかわることになる田安家に出仕する前の年、天明7年(1787年)の時点で、「松島真景図巻」という木版刷りによる図巻を完成させているということだ。
 定信公は、このような作品から文晁氏の「真景図」を描く画力を見出したのであろうということのようだ。

 この図巻に描かれる松島真景は、天明6年(1786年)頃に東北に遊んだこととのかかわりのようだが、技術的には、その前年頃に西遊したことともかかわるようだ。

 高子にも立ち寄ったかもしれないという憶測は、「永慕編」出版の時期とこの天明6年(1786年)頃に東北に遊んだ時期のかかわり方が自然な流れになるということがからむようだ。

 「永慕編初版」は、天明8年(1788)に出版されている。その為には、その前年あたりには稿は完成しているはずだということになる。その推定と、この東北に遊んだ時に高子村に立ち寄ったとすると自然な流れになるようなのだ。
 結構、多くの方がこの仮説を提案されていたようだ。

 この仮説が崩れるのが、「熊阪台州氏(その2)47~高子山の『高子二十境』⑧」でふれたように、「永慕編」初版の挿図を描いたのは地元画家周俊・淑翰氏であって谷文晁氏ではないということのようだ。
 天明8年(1788)に出版された「永慕編初版」は、谷文晁氏挿図入りではなく、改版後ということだ。
 これで、この時の高子村立ち寄りには、自然さを失ってしまったということだ。
 それでも、今でも文晁氏が東北に遊んだ機に高子村の台州氏と接触の可能性をにおわせる資料はあるようだ。
 しかし、この憶測は説得力を失ってしまっているということのようだ。
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by shingen1948 | 2018-06-11 10:21 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 正直に言えば、先の整理では、心のどこかで文晁氏の「永慕編(熊阪台州)」挿絵は、地元の画家周俊・淑翰が描いた二十境図の模写ということをマイナスイメージでとらえているところもあった。
 しかし、文晁氏と定信公とのかかわりを確認してみて、その模写を通して真景を見抜く力の持ち主であることが分かった。
 
 文晁氏は元々「真景図」を描くことのできる画力の持ち主だったようだ。
 その力が「集古十種」での模写などで更に磨かれ、失われた石山寺の名宝「石山寺縁起絵巻」の補作に繋がるというこのようなのだ。
 今回は、この情報を得て、模写のマイナスイメージが払しょくされたことを記しておきたかった。

 地域の散策で、松平定信公とかかわる文晁氏の仕事にふれるのは「集古十種」だ。しかも、資料としての見え方だ。
 しかし、松平定信公と文晁氏のかかわりを確認していくと、この仕事に至る経緯の原点は、定信が江戸湾岸巡視の際に文晁を随行させたことにあるようなのだ。

 定信公の江戸湾岸巡視は、寛政5年(1793年)で、現役ばりばりの頃だ。
 海防問題(江戸湾防備)に直面した定信は、江戸湾岸巡視を決行するのだが、その時に文晁を随行させて各地の風景を描かせたとのことだ。
 定信公が着目したのは、風景画という絵画の〈記録性〉や〈実利性〉の重要性ということだ。ここに着目できたのは、身近にその画力を持った優れた絵師文晁氏がいたからだといわれているようだ。
 その実際の仕事が「公余探勝図」とのことだ。
 この作品については「e国宝<国立博物館所蔵国宝・重要文化財>」のページでその雰囲気を確認できる。その解説には、西洋画法の遠近法と陰影法が加えられるという画面作りの基本姿勢が特徴とある。

 http://www.emuseum.jp/detail/100324?d_lang=ja&s_lang=&word=&class=&title=&c_e=®ion=&era=&cptype=&owner=&pos=1&num=1&mode=¢ury=

 文晁氏の画風はいろいろな画才が混淆し、とらえどころの難しい絵師だといわれているようだが、定信公が文晁氏に着目したことの一つが、このような「真景図」を描くことのできる画力ということらしいことが読み取れる。

 「谷文晁生誕250周年展覧会【サントリー美術館】」解説によると、この「真景図」を描く画力を持った文晁氏が寛政8年に定信公の名を受け、古文化財の調査時に多くの名品を模写記録し刊行されたのが「集古十種」ということだ。
 この模写記録が、文晁氏の画業にも大きな影響を与えているという。
 そして、その延長線上に、失われた石山寺の名宝「石山寺縁起絵巻」の補作があるという。
 ここでは、文晁氏は、一切の私意を加えず古様に従い補完の構想を練ったということだ。

 https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2013_3/display.html

 話を文晁氏の「永慕編(熊阪台州)」挿絵の話に戻す。
 
 文晁氏は、自ら白雲館に赴くことはなく、当然、描かれた高子二十境図の実際の風景を見ていない。従って、基本的には、文晁氏の「永慕編(熊阪台州)」挿絵は、地元の画家周俊・淑翰が描いた二十境図の模写ということになる。

 しかし、文晁氏は「真景図」を描くことのできる画力を持つ。その文晁氏が「集古十種」で模写の仕事を積み重ねている。その模写を通してその「真景」を見抜く力の鍛錬になっていたのではないかとの想像を重ねる。

 「永慕編(熊阪台州)」挿絵では、その模写で真景を見抜いていると共に、「熊阪台州氏(その2)46~高子山の『高子二十境』⑦」で整理したように、その日常感を削ぎ落し、盛唐詩の影響を受けた熊阪三代唱和の漢詩の雰囲気である仙郷の印象を強めた表現にしたと想像すべきなのだろうと思うのだ。
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by shingen1948 | 2018-06-08 17:55 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 今までは、谷文晁氏については「熊阪台州氏(その2)46~高子山の『高子二十境』⑦」で確認したように、「江戸文人画壇の重鎮」との捉えで整理してきた。
 この時に、さらりと「卓越した画技とともに学問もあって、松平定信や田安家の後援を得て」いることにもふれておいた。

 地域を散策する者の視点として、松平定信公とのかかわりという視点を加えての整理もしておきたいと思うのだ。

 先に、散策とのかかわりで松平定信公にふれたことがある。
 その一つは、「宮脇遺跡」脇の日枝神社の右側に建つ「霊山碑」だ。「里の霊山寺:『宮脇遺跡』第5次調査現地公開説明会⑥」として整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/11725906/

 その二が、飯坂の八幡神社の裏にある「鯖湖の碑」だ。「白河城主松平楽翁公建立『鯖湖の碑』」として整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/7954919/

 そして、その三が「直江兼続」の肖像にかかわる「集古十種」だが、これが松平定信公によって編纂されたものだ。谷文晁氏はその図録の画家として参加している。この図録は、信頼すべき図録とされ、製作・考証・鑑賞の各方面に多大の影響を与えたという。
 「『集古十種』古画・肖像四身』~直江兼続公肖像画」として整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/7950412/

 ということで、谷文晁氏もまたこの辺りを歩いていることが想像できるようなのだ。
 「谷文晁、高子二十境図を描く(磯崎康彦)」では、その辺りとのかかわりで、それでも谷文晁氏は、高子に立ち寄ってはいないらしいことについて次のようにふれている。

 寛政6年(1794)夏、松平定信附御絵師の立場にあった。定信は、松島での観月を望んだ文晁を、自らの代参として塩釜神社に参詣する鵜飼貴重に随行させた。文晁は8月10日に白川を出立し、郡山・本宮・二本松を経、須川を目にして福島城下に入った。文晁は文知摺石を見学し、瀬上駅・医王寺・桑折駅・藤田駅・国見峠を超え白石に向かった。興味あることに8月12日、文晁は瀬上駅を通りながらも、目の前にある熊阪家白雲館に寄らなかった。
 文晁は、台州や盤谷と江戸で会い、自ら白雲館に赴くことはなかった、と考えられる。

 行動確認の資料は「婦登古路日記【懷日記】(谷文晁)」だろうかと思うが、確認していない。
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by shingen1948 | 2018-06-01 09:16 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 谷文晁氏は、「永慕編」に三代唱和の挿図を描いている。また、谷文晁氏の交友関係を確認すると、熊阪台州・熊阪磐谷の名が挙げられている。
 したがって、熊阪親子二代との交友関係にあるようなのだが、谷文晁氏側の資料で具体的な交友関係は確認できなかった。

 先に台州氏との交遊関係が確認できた太田南畝氏との交遊関係確認を通して谷文晁氏との交遊関係を確認できないかということで、先に確認した「浮世絵文献資料館」のページを開いてみた。

 太田南畝氏と谷文晁氏との交遊関係は、以下のように直ぐに確認できた。

 「河 世寧 寛斎の集ひ。天民・五山・谷文晁と同じく賦す」・「東叡山に花を看て谷文晁諸子に邂逅す」

 更に、谷文晁氏の子谷文一氏との交遊も確認ができる。

 「弥生九日、人の来て、よべ谷文一子身まかりしといふ。その夜のゆめにその人をみて」・「.谷痴斎の訃を聞く。疾に臥して会葬すること能はず。其の睡夢に痴斎を見る【痴斎、諱文一】」

  ここで、.「谷痴斎」とあるのは、一世の谷文一氏で、その子が二世の谷文一氏で文権・文逸を名乗るようだ。どちらも早世してしまうのは、熊阪盤谷氏の生涯と重なるような気がする。

 他の資料等からも、太田南畝氏と谷文晁氏との親密な交遊関係が想像できるようであることは伺えたが、ここ熊阪台州氏がかかわりをもつという確認はできなかった。

 今回、「谷文晁、高子二十境図を描く(磯崎康彦)」を詩文解釈のガイダンスに使わせていただいたが、ここに熊阪盤谷氏の著書からその交遊関係が示されている。
 
 寛政2年、盤谷は同郷の友人安松洲をともない文晁宅を訪れた。
 盤谷は写山楼で文晁と酒杯をかさね、また二女の舜英の琴を聞き、戯れて詩作した。
 「聞其妹蕣英弾琴、戯賦」

 寛政3年(1791)3月、盤谷が郷里高子村に帰るにあたり、文晁は一詩を送った。文晁のみならず妹の舜英も送別の詩を寄せた。
 これに、盤谷は返詩した。
      (戊亥遊嚢)

 寛政12年(1800)江戸に就いた際に、「東海文晁(写山楼)を訪れる」。2月下旬、柳橋の酒楼で儒者・詩人・書家等と戯作戯画を楽しむ。その中に、谷麓谷・文晁親子も同席した。

 「菊池衡岳(和歌山藩学習館儒官)の思玄亭に過る、偶々谷文晁至る、困てこれを賦して衡岳に呈し、兼て文晁に贈る」
      (南遊稇載録)

 盤谷氏の江戸文人との交遊は、父熊阪台州氏によって築かれた交遊関係が土台となっている。いわば親の七光りの上に構築されたものだ。
 父熊阪台州氏と谷文晁氏との交遊関係は確認できないが、盤谷氏の文晁氏との交遊確認をもって、その交遊を推定できるということのようだ。
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by shingen1948 | 2018-05-29 11:26 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 前回は、「白雲」という言葉のイメージが気になって「白雲洞」を整理した。本当は高子山にかかわる「高子二十境」までの整理のつもりだったので、付け足しの整理だ。
 ただ、この「白雲洞」は「高子二十境」の十九番目にあたり、その二十番「古樵丘(こしょうきゅう)」がそのすぐ隣の丘だ。「白雲洞」の散策時にはそちらの案内表示も見ている。
 「高子二十境」の最後の二十番を残すのは区切りが悪い。
 「谷文晁、高子二十境図を描く(磯崎康彦)」をガイダンスにさせていただき、こちらも整理しておく。
a0087378_9444471.png まずは、熊阪覇陵氏の五言絶句とその釈文とその解釈。

  古樵丘 熊阪覇陵

 独酌古樵丘      独酌す古樵丘
 詩成自飄逸      詩成って自ずから飄逸(ひょういつ)
 酔看浮雲過      酔うては看る浮雲の過ぐるを
 醒愛明月出      醒めては愛す明月の出づるを    
   
 ひとり古樵丘で酒を飲む
 詩ができ俗事から離れた隠士となる
 酔ってはよぎる浮雲を見
 覚めては明月の出を愛す

 素人判断だが、熊阪氏が抱く高子山の屋敷のイメージと重なっているような気がする。
 高子山の熊阪屋敷は、その屋敷が建つ地を「白雲館」とイメージし、その屋敷自体を「明月楼」とイメージしている。「明月楼」の明月と浮雲を白雲と見て「白雲館」とするイメージとの重なりだ。

 次に、熊阪台州氏の五言絶句とその釈文とその解釈。

  同前  台州

 一自樵翁去      ひとたび樵翁のさりしより
 遺蹤惟古丘      遺蹤(いしょう)惟(た)だ古丘のみ
 于今明月在      今に于(お)いて明月在り   ※于(ここにゆく)
 依旧白雲浮      旧に依りて白雲浮かぶ

 覇陵翁が世をさり
 古樵丘もただの古丘となった
 しかし今も明月は昇り
 白雲は浮かぶ

 ここでまた素人判断だが、辞書的には樵は林業に携わる者の事だが、ここでは、ここに暮らす庶民の生計の一つであり、半ば隠逸の士の生業でもあるとのイメージと重ねる。
 その半ば隠逸の士=樵翁=覇陵翁かな?
 「白雲」は「隠逸の世界」のイメージであることを先に確認したが、ここに浮かぶ白雲は、まさにそのイメージで、俗世を離れた隠逸の士が住む幽居深山仙郷に漂う雰囲気の象徴となっているのかな?

 更に、熊阪盤谷氏の五言絶句とその釈文とその解釈。

  同前  盤谷
 銜杯爽気来    杯を銜(ふく)めば爽気(そうき)来たり ※銜(くわえ)る
 高枕白雲開    枕を高くすれば白雲開く
 偏愛丘中趣    偏愛す丘中の趣
 陶然殊未回    陶然(とうぜん)として殊(こと)に回(かえ)らず

 杯をかわせばさわやかな気分となる
 枕を高くすれば天空に白雲浮かぶ
 丘中の趣はすばらしく
 満足して帰宅するのも忘れる

 地域を散策する者としては、俗世での成功を選択せずに、高子の仙郷に隠逸の士として住むことを決意した心境のようなものも感じる。
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by shingen1948 | 2018-05-23 09:47 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 高子山にかかわる「高子二十境」の整理をしていく中で少し言葉に敏感になったのだろうか。「白雲」という言葉のイメージが気になった。

 白雲は、辞書的には白い雲でしかないが、門外漢の散策人はその言葉の持つイメージがつかめていない。それで、「白雲」という言葉に「漢文」とか「漢詩」とかという言葉を付加して検索してみた。
 その確認を通して、「白雲」は古来より使われた詩語のようであることが分かった。そのイメージは、「隠逸の世界」というような感じのようなのだ。

 「李白詩」における「白雲」では、しばしば仙郷のイメージとしてつかわれ、隠者の散居の象徴とされるという解説をみる。
 また、「送別(王維)」の「白雲無尽時」とある「白雲」の解釈でも、俗世間を離れたイメージととらえ、「どこにいても君の上には、白雲が絶えることが無いだろう」すなわち「きっと、満足な隠逸の生活をおくれるだろう。」という意味にとるという解説もみる。

 今回の整理とどうかかわるのかということだが、その一つが「白雲館」のイメージで、もう一つが「白雲洞」のイメージとそのかかわりだ。
 その「白雲館」のイメージは「熊阪台州氏(その2)⑮~白雲館・明月楼・海左園」で以下のように整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/238326334/
 
 熊阪氏の屋敷図が建つ地を「白雲館」とイメージし、その屋敷自体を「明日楼」とイメージしているということだ。
 ここに郡内の俊英たちが覇陵や台州を慕って集るようになった文化サロンをも「白雲館」と称するようだが、それは派生的なイメージだ。

 前置きが長くなったが、新たに気になったのが「高子二十境」の「白雲洞」だ。それで、そちらも付け加えて整理しておきたくなったということだ。

 実際の「白雲洞」の散策は、先に「高子20境と史跡」で整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/9403859

 それで、新たに確認したいのは、漢詩と挿絵だ。
a0087378_5503756.png この挿絵は「伊達の散歩道(伊達市商工観光課)」の「高子二十境めぐり」という散歩資料で確認できた。

 漢詩は、今回の散策で参考にさせていただいている「伊達の香り」の「二十境の漢詩鑑賞」で、次のような熊阪盤谷氏の白雲洞の五言絶句釈文とその解釈が紹介されていた。

  白雲洞  熊阪盤谷
 独歩す幽洞辺     独り幽玄な岩屋の辺を歩く
 山中秋色の夕     山中 秋色が見え隠れする夕方
 丹楓遊子に媚び    紅葉した楓は 遊覧する人に媚び
 白雲過客を留む    山上にたなびく白雲は
            過ぎ行く人の足を留めさせる

 確認した「白雲」の言葉のイメージと重なるのかという意味で、覇陵氏や台州氏の詩も確認したいところだが、今のところ見つからない。
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by shingen1948 | 2018-05-21 10:46 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)