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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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カテゴリ:◎ 地域散策と心の故郷( 936 )

 先に「信達ニ郡村誌」を参考資料として浜田町付近を散策したことがあった。この時に「信達ニ郡村誌」の小字名と現在の地区名が違っていて散策しづらかった。それで、地図上に腰浜村の小字の位置を推定したことがあった。
 それを「奥州街道浜田町付近④」で整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/14780170/ 

 今回腰浜町辺りを郡家遺跡とかかりで資料確認をしていて、これが少しずれていることに気がついた。修正する。
 1908年と1931年の地図では東宿が表記されるのだが、これを1972年以降の地図と重ね合わせてみると現福島成蹊中学校の校庭辺りと重なるようなのだ。
 また、「福島市史」で、腰浜廃寺遺跡と北宿が重なるとの表現もみている。ということで、この宿がかかわる小字を全体的に東に移動させたい。

 まずは、稲荷神社近くを東宿としたプロットを福島成蹊中の校庭付近に移動する。その道路を挟んだ向かい側を「北宿」とする。
 次に、昭和2年の福島市実測平面図と照らし合わせると字東宿の南側が字南宿で、その道を挟んだ西側が字西宿となっている。従って、福島成蹊中の校舎の辺りから福島成蹊高校前の通りまでが「南宿」ということで、その道を挟んだ西側を「西宿」とする。
 ただ、「上宿」は字西宿と福島成蹊高校前の通りを挟んだ南側ということなので、先にプロットした位置のままということになる。
 五反田と畑中は、北宿と東宿を基準にしてプロットしているので移動する。「畑中」は「北宿」の北側に、「畑中」は「東宿」の北側に移動する。
 他の小字は奥州街道とのかかわりでプロットしているのでほぼそのままでよいのだが、若干ずれもあるので少し修正する。
 字南五郎内は八子病院付近で、そこと字五反田の間に字新屋敷が入る。したがって、旧福大がおおよそ字高田北ということになるようだ。

 今度は、これと江代正一氏が描く古代道とを重ねてみる。
 宿を挟んだ道筋が前期の古代官道と推定するようだ。更に「奥州街道浜田町付近④」で宿を挟んで描いてしまった道筋が中世の街道と推定しているようだ。
 ただ、「福島市史」ではたとえ腰浜町辺りを郡家遺跡とかかわるとみたとしても、ここに官道が走っていたとする必要はないというように表現しているのをみたような気もする。また、北宿と腰浜廃寺遺跡の位置が重なることを、腰浜廃寺消滅後の出来事と捉えているようだ。
 これを江代正一氏は信夫郡寺となる前と捉えているように思える。なお、江代正一氏が描く古代道では腰浜廃寺を東宿と重ねているようだが、ここはよく分からない。
 私寺時代と読めばよいのだろうか。
by shingen1948 | 2019-07-21 12:05 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 岩田遺跡から出土したという有孔円板と剣を模造した剣形石造模造品が、腰浜町の祭祀遺跡と直接かかわるのかどうかは分からない。
 しかし、岩田遺跡から出土した有孔円板と剣を模造した剣形石造模造品の確認で腰浜町の祭祀遺跡を意識したことで、腰浜廃寺の見え方が今までとは少し違うように感じている。

 今までは腰浜町辺りを郡家遺跡とかかわるような見え方だ。
 郡衙は基本的には、正倉院(米倉)と郡庁(行政施設)と付属寺院、それに館(宿舎・厩)とそれにかかわる厨院(調理棟)などから構成されるということだ。
 それらの郡衙構成施設がどこだったのかというような見え方だ。
 「北五老内町遺跡付近~2012の立春の頃の風景⑪」あたりから整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/14706120/ 
 
 正倉院(米倉)とかかわるとみられているのが北五老内町遺跡の焼米のようであり、「北五老内町遺跡付近②」では、その観点から整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/14713084/ 

 腰浜廃寺は郡衙の付属寺院という見え方で、その観点から整理したのが「腰浜廃寺付近」「腰浜廃寺付近③」ということだ。
 〇 「腰浜廃寺付近」
 https://kazenoshin.exblog.jp/14719765/
 〇 腰浜廃寺付近③
 https://kazenoshin.exblog.jp/14733090/

 今回祭祀遺跡を意識したことで、今までも見ていた資料からも時間的な経緯を意識して読み取りになっているような気がする。
 このことによって、この腰浜廃寺の造営を祭祀遺跡との関連で捉えようとしているようになっている気がするのだ。
 ただ、今回改めて「福島市史」などで確認し直すと、この腰浜町辺りを郡家遺跡とかかわって見るという事自体、一つの仮説にしか過ぎないとしているようではある。
 それも頭に置きながら確認を進める。

 「東日本における郡家遺跡の出現と律令制地方支配の確立(木本元治)」によれば、信夫郡はほぼ信達盆地の範囲とする。
 その郡家遺跡の位置は盆地南部の阿武隈川西岸の福島市街地とすると表現される。これが、北五老内町から腰浜町辺りということになるのだろうと思う。
 同誌では、ここに腰浜廃寺が造営されるのは7世紀で、これが郡家遺跡に先行すると表現されている。その郡家遺跡に先行する腰浜廃寺が、5世紀の祭祀遺跡を意識して造営されているという見え方だ。
 阿武隈川対岸には6世紀後半の郡内最大の前方後円墳が所在するという。それ以降、この地域が最も有力な古墳群の所在地となったということだ。
 今回は、ここに5世紀の祭祀遺跡の主催者もかかわっている見え方でもあるのだが、この時期の地域の有力者の古墳は盆地北半の阿武隈川西岸地域だったようなのだ。
 この事も、一つの仮説にしか過ぎないという見え方とかかわるのかもしれない。

 腰浜町辺りを郡家遺跡とかかわって見る見え方では、今回、こんな風な見え方になったということだ。

 5世紀の祭祀遺跡であった近くに、7世紀になってこの地の支配層の豪族の私寺として腰浜廃寺が造営される。
 その腰浜廃寺は、7世紀末に信夫郡寺として昇格する。
 この後に、この腰浜廃寺近くに郡家遺跡が造営されるのだが、北五老内町の正倉院(米倉)は、その施設の一部ということだ。
 なお、郡庁等の他の施設とかかわる遺跡はまだ確認されていないということのようだ。
by shingen1948 | 2019-07-19 14:59 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「すぎのめ」の「最近の発掘調査から(柴田俊彰)」では、石造模造品については、特に古墳時代の5世紀にみられるもので、祭祀用としての利用と説明する。

 百科事典等で石製模造品についての確認を進めると、「祭祀遺跡」だけでなく「古墳」ともかかわる遺物でもあるらしい。それはさておいて、最大の特徴は、4世紀に出現して盛行期がほぼ5世紀代に限られるということらしい。
 出土するのは、古墳・集落・祭祀遺跡などの遺跡とのことだ。

 岩田遺跡から出土したという有孔円板と剣を模造した剣形石造模造品は、「福島の遺跡」で写真確認ができる。材質は、滑石などの軟質の石とのことだ。

 福島市史の「祭祀遺跡」を確認すると、伊達市の岩谷遺跡では北東斜面から土製模造品が出土していることが紹介される。
 ここは高子二十境とのかかわりで整理している。「高子二十境と史跡」では、この祭祀遺跡としてもふれている。
 https://kazenoshin.exblog.jp/9403859/ 
 その中で「付近からは丸玉などが出土しているという」としたものが、ここでいう土製模造品なのだろうと思う。

 古墳時代の神マツリの奉納品は、前期の実物から中期に石製模造品となり、後期には土製模造品になったという経緯だったと考えられているという。
 この遺跡を「7世紀頃の祭祀遺跡と考えられている」とするのは、その古墳時代の終焉期が6~7世紀後半ということを考慮したものだと思う。

 市史がこの岩田遺跡にふれるのは、祭祀遺跡の特徴が実感としてとらえやすいからなのだろうと思う。
 祭祀遺跡は、祭祀遺構や祭祀遺構を主体とした遺跡のことだ。
 主に集落などの日常の生活場所からは離れた丘陵上や、岬の突端や海辺に接する小島などの神霊が依りどころにしたと思われる場所に立地していることが多いという。神社が発生する前の段階の性格があったものではないかと考えられているとのことだ。
 岩田遺跡は、それが感覚的に捉えやすい雰囲気が漂っていることは実感している。

 先に石造模造品が腰浜町の旧福島大学附属附属中学校敷地内でも発見されていることについてふれたが、「福島市史」ではここも祭祀遺跡と紹介する。
 その市史によれば、石造模造品は、附属中学校体育館構築中、地下1m余の層中に散在して発見されたという。
 ここは旧阿武隈川の河岸段丘上であり、吾妻連峰が最も美しく眺められる地点なので、吾妻山か阿武隈川の水の神を祀ったものとの推定のようだ。
 ここが腰浜廃寺跡の一部であることも、その裏付けとしているようだ。
by shingen1948 | 2019-07-04 10:40 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 鳥谷野・黒岩村の遺跡情報をもとに古墳情報を拾ってきた。その削ぎ落した集落情報から気になる情報を確認しようと思う。という事で、岩田遺跡にかかわる情報を確認し、その題も古墳という言葉を外して「散策を楽しむための鳥谷野の遺跡情報」としようと思ったところだった。
 しかし、確認をすすめていくと、気になっていたのは古墳時代にかかわる集落情報であって、題から古墳という言葉を抜く必要がなくなったので、元に戻して「鳥谷野の古墳情報⑩」として整理することにした。

 岩田遺跡の最近の調査は平成に入って直ぐの頃のようだ。
 報告書等からは民間開発に伴う事前調査だったことが伺えるが、「すぎのめ」の「最近の発掘調査から(柴田俊彰)」からは、それが店舗建設に伴う調査だったことが伺える。
 その位置だが、「福島の遺跡」では、本文で国道4号線と国道115号線の交差点から南東、阿武隈川西岸沿いにある遺構としている。
 その図示情報と照らし合わせると、国道4号線というのは、4号線バイパスの方のようだ。その4号線バイパスと国道115号線の交差点の南東の位置ということのようだ。鳥谷野方面からきた道筋との間付近ということのようなので、その国道4号線バイパス沿いの店舗ということで見当をつけてみている。

 この遺跡からは、古墳時代前期(1600年前)と平安時代の住居跡が発見され、これが当時の集落跡の一部であることが判明したとのことだ。
 発見された竪穴住居跡は16棟あるそうだが、遺物等から時代が特定できたのが古墳時代前期(1600年前) 住居跡が1棟、9世紀中頃(平安時代)の住居跡が2棟、9世紀後半(平安時代)の住居跡が1棟ということのようだ。
 特定された住居跡は年代的に途切れているが、5世紀代の住居跡を想像させるものなどもあったらしく、この地域一帯に継続的に集落が営まれていたことを推定しているようだ。

 興味深いのは、その5世紀代の住居跡を推定したという遺物についての以下の解説だ。

 「調査で出土した主な遺物は土師器ですが、石製模造品がまとまって出土していることが本調査での特徴です」としている。
 具体的には、鏡を模造したと思われる有孔円板と剣を模造した剣形石造模造品が総計で28点出土しているとのことだ。
 更に、製作途中の石造模造品が出土し、5世紀中頃の造模造品製作場跡と思われる遺構もあったとのことだ。

 この石造模造品が、特に古墳時代の5世紀にみられるものだそうだ。祭祀用として利用したと推定されているという。

 興味がそそられる理由がもう一つある。
 この石造模造品は腰浜町の旧福島大学附属附属中学校敷地内でも発見されているとのことだ。その関連があるのかないのかということも確認したことだ。
 なお、この岩田遺跡からは、平安時代の鉄製品を製造した鍛冶工房跡も発見されたとのことだ。
 古代の工房跡が重なって発掘されているというのも興味をそそられる要素の一つだ。
by shingen1948 | 2019-07-02 10:26 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 古代ではカンカン石を伝達手段に使っていたという話は、史実と直接的に結びつけてみる話ではなさそうだ。
 多くの古墳のある地域には、前回整理した七塚が長の墓という言い伝えやカンカン石の話が残っていることが多いということのようだ。

 さて、百庚申塚は古墳情報としては余談だが、「散策を楽しむための鳥谷野の古墳情報⑦」ではその余談の続きとして百庚申塚に向かう道筋と田沢道とのかかわりを確認したところだった。
 実は、この確認の中でもう一つの道筋が気になってしまったのだ。
 それが、この塚の東側から南側に回り込んで田沢道に繋がる道筋だ。少しその道筋を探ってみた。 結果的にはよく分からなかったところも残ったし、余談の余談のそのまた余談なのだが、脇道に逸れながら散策を楽しむという趣旨からこの事についてもふれておきたいと思うのだ。

 百庚申塚の散策で少し地形に慣れてきた。
 田沢道を進んできて思い出したのが墓地に登る手前の右手に駐車場があることだ。とりあえず、そこに車を停めてあたりを見回した。
a0087378_6341989.jpg 気になった道筋と関わりそうな道筋は、上の墓地に向かう道筋の左手にある耕作地の左手に見える道筋だ。
 これは、その道筋から下方に見える墓地の方向を眺めてみたところだ。この道筋はその下方の墓地に向かう道筋から南に分岐してきた道筋のようだ。
 この道筋らしいと見当をつけて辿ってみたということだ。

a0087378_6373680.jpg
 ここは、その道筋を辿って、それらしくもあり、そうでないかもしれないとも思えた地点だ。季節的に分かりづらい時期なので、今回はここまでにした。

 家に戻って確認すると、明治時代の地図でははっきりせず、昭和47年頃の地図辺りが最も明瞭に道筋が記される。
 地図上からは、この道筋から分かれて河原の方に向かう道筋も見える。他の地図とも照らし合わせると「八郎兵衛稲荷大明神」へ向かう道筋かもしれないとも思うが、今回の道筋なのかどうかははっきりはしない。
by shingen1948 | 2019-06-29 06:38 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「散策を楽しむための鳥谷野の古墳情報③」では「房の内古墳」と案内される屋敷神について、古墳情報とのかかわりで整理してみている。それが「八郎内の七ツ塚」の一つでもあるという情報だった。

 ここに建つ案内柱には「八郎内の七塚(七塚の内未発掘の古墳)」とある。
a0087378_9405934.jpg
 ここは八郎内地区であり、その地区内の七塚の一つという案内に引かれてやってきたということだ。
 「福島市の遺跡」の「八郎内遺跡」案内によれば、八郎地区のかつて3つの古墳があったと言われる場所は現在畑になっているとのことだった。
 その中の一つの古墳が調査されたということのようだった。この古墳の墳丘は壊されていて、周りの溝だけが残っていたということだった。
 ここは「福島市の遺跡」で案内される八郎内の3つの古墳のうちの一つなのだろうと想像する。その中の未発掘の古墳という事なのだろうと思う。

 案内柱の解説では、地区の言い伝えではこの七塚は7代にわたり支配した長の墓といわれていることを紹介している。また、カンカン石についてはその用途は合図に用いられたとしている。
 先の整理では「カンカン石」は古墳の蓋石で、たたくとカンカンと音が響いたというのは石室の空洞とのかかわりとしたところだった。

 この案内柱の解説では、その前に「古墳時代後期(1400年前)の集落跡、古墳等発掘」とある。これは「八郎内遺跡」についての解説で、「福島市の遺跡」の「八郎内遺跡」案内情報と重なるのだろうと思う。

 この発掘調査は東北建設協会福島支所建設に伴う事前調査のようだ。ということは、その位置は東北地域づくり協会福島支所の敷地あたりということだろうと思う。この直ぐ南側だ。
 ここからは、竪穴住居が見つかり、古墳時代後期のむらのあとでることが分かっているとのこと。竪穴住居の中には村の有力者の家と考えられる大きな家もあったという。また、火災住宅跡2軒を検出したとも。
 それと、先に記した古墳の周溝跡がみつかったということだ。
by shingen1948 | 2019-06-27 09:43 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 百庚申塚に向かってみたのは、もう一つの興味があったからだ。
a0087378_8535814.jpg 先の小原集落に立ち寄った際に、そこから黒岩村に向かう途中、この百庚申塚の案内柱を見かけていた。その案内される道筋が旧田沢道の道筋とかかわるのではないのかなと思っていたのだ。
 それを確認したいとうこともあった。

 古い地図と見比べて確認を進めてみると、結果的には現況の道筋の方が古くからの田沢道に近いように思えたのだが、このまま百庚申塚へ向かう道筋について確認したことも整理しておくことにする。
 百庚申塚自体古墳情報としては余談なので、その余談の続きという事になる。

 旧田沢道の道筋かなと思ったのは、この丘の北側にある墓地の東側にある道筋と繋がる道筋だ。


a0087378_8554073.jpg 今回はその北側の墓地前からその道筋をたどってみたのだが、その途中にこの庚申塔があった。安永5年が読み取れる。
 「黒岩百庚申塚について(中村善太郎)」の解説に「北口の庚申塔は安永5年丙申10月20日施主敬はとある」とある。従って、このあたりが北口ということなのだろうと想像するが、そのまま進む。


 田沢道の道筋から見えた案内柱が見えるその少し手前の左手に「史跡 百庚申塚」という別の白い案内柱が建っている。「此れより三十m頂上に供養碑二基あり……」と案内されるその左手の道筋に入っていったということだ。
a0087378_8572984.jpg
 ちょっと進んだところで、この庚申塔を見かける。
 西口の庚申塔は、満延2年申年当林世話人5名の名前がみられるとのことだが、多分、それがこれだろうと想像する。読み取れているわけではない。
by shingen1948 | 2019-06-24 08:58 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_7552934.jpg これは百庚申塚だ。塚ではあるが古墳の案内はない。従って、古墳情報としては余談になるのだろうと思う。

 「黒岩百庚申塚について(中村善太郎)」は、黒岩の庚申を中心に案内しているのだが、そこからこの塚についての案内部分を拾ってみる。
 この塚を地元では庚申山と称しているとのこと。地番は黒岩字岩山1番地とのことだ。
 頂上には直径3間ぐらいの円形の塚石があり、中央に松の木があり、その松の木を中心に申型の石碑が225体祀られているとある。

 「塚石」との表現が気になり見回すと、奥の猿田彦大明神碑の台座になっている石でないのかなと思う。
 猿田彦大明神碑は、明治6年建立で、手前の金華山碑は安政4年巳年八月当林世話人建立とのことだ。
 祀られた申型の玉石は225体とのことで、信夫郡の各所から寄進者名が見えるそうだが、確認はしていない。

 古墳かどうかは別にしても、この塚が先に確認した「七ツ塚」に入るのかどうかは分からない。どうでもいいことだが、本宮で玉石を張り付けた古墳があったことも思い出す。

 なお、この塚の祭礼は八十八夜に行うそうだ。
 その執行者は、昔は区長だったが、今は山林組合が町会の協賛を得て実施しているとのことだ。
 上ノ町諏訪山地区の庚申講とのかかわりについても紹介される。
 三月初申の日を縁日として寄合を持って参拝していたそうだが、今は熊野講との合同講中参拝となっているとのことだ。
by shingen1948 | 2019-06-23 07:57 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
a0087378_911549.jpg マホロンの遺跡データベースで検索すると、このあたりが岩山古墳群とのことで見当をつけた。しかし、いろいろな情報を確認していくと少し位置がずれているようだ。
 この南側が駐車場になっているのだが、その前の辺りに3基の古墳があるらしい。
 いずれにしても、この季節では確認はできない。冬近くならその雰囲気の風景が眺められるのかもしれない。

 この写真の左手に写るフェンスの手前の道筋を進むと田沢道の主道に出るのだが、その黒岩村方向にちょっと進むと、西手に進む道筋がある。その道筋を西に進んだ右手が諏訪平古墳群で、以前は4基の古墳が確認できたが現在は2基の古墳が確認できるという。
 これ等の古墳も弥生公園の2基の古墳のような形状を原型としてイメージするようだ。

 今まで確認してきた浜井場、二ツ石地区の鳥谷野の古墳や、黒岩村の房ノ内、八郎内地区の古墳も含めて、この辺りの古墳の原型と広がりがイメージされてきたように思う。

 そうすると、「黒岩虚空蔵堂・満願寺散策⑰~帰り道⑥」でふれた浜井場古墳の平成14年(2002)の調査では後期の前方後円墳の跡がみつかったとの情報は特筆すべき情報という事になる。
 https://kazenoshin.exblog.jp/239158895/
その詳細情報を再掲し、更に「浜井場古墳群について(柴田俊明)」の解説から読み取った事を付け加えておく。

 その墳丘長さ約22m、後円部直径15mとのことだ。
 古墳の盛り土は全く残っていなかったという事で墳丘の高さは不明ということのようだ。これは、古墳に沿った巾1~4mの溝からの推定のようだ。
 被葬者を埋葬する施設は後円部で確認できたようだ。
 南側に開口する前長5.4mの横穴式石室だったとのこと。玄室と羨道からなる構造で、玄室と羨道の境には仕切石が確認できたという。玄室の長さは3.22m、幅90~98㎝、羨道2mだったという。 奥壁や石室の側壁石などはほとんどが開墾等で消失していたが、その石室からは勾玉6点・ガラス玉13点・鉄の斤2点・鉄の鏃2点や鐔などが出土したとのことだ。
 なお、浜井場古墳群の主墳と思われるこの前方後円墳と明治43年調査古墳との関係は不明とのこと。

 ちょっと観点がずれるが、「最近の発掘調査から(柴田俊明)」で、学壇古墳群について特筆すべきこととして解説されるのは、旧石器時代の石器の発見だとする。福島市内では貝沼遺跡などの数遺跡しか知られていないとのことだ。
by shingen1948 | 2019-06-22 09:14 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 これは弥生公園に保存されている学壇古墳群のうちの2基の古墳だ。
 ここは、感覚的には黒岩村を越えているように感じるが、小原村に向かう途中だ。黒岩村内という事なのかもしれない。
a0087378_945324.jpg この学壇古墳群は、南福島ニュータウン内に立地する13基の小古墳からなるそうだ。
 すべて円墳で、規模は10m~14m程で、幅2~3mの周溝があるという。石室は長さ3~5m、幅1.5m程とのことで、築造はいずれも古墳時代後期と考えられるとのことだ。
 調査された古墳のうち、沼ノ上1号墳からは蕨手刀、直刀、鉄族、土師器、須恵器等が、また、学壇1号墳からは勾玉、水晶玉、ガラス玉、鉄族、須恵器等が出土しているとのことだ。

 公園内のこの古墳は、その中の2基ということのようだ。10基は調査されたとのことだが、これが調査されたものかどうかは分からない。

 古墳時代後期の古墳は小さいとは聞いてはいた。しかし、イメージしていたものよりも小さいように思う。前に古墳巡りで円墳もいくつか眺めているのだが、それを元に想像していたものよりもこの2基の古墳は更に小さいように感じるのだ。

 今まで確認してきた浜井場、二ツ石地区の鳥谷野の古墳や、黒岩村の房ノ内、八郎内地区の古墳は、この学檀古墳群と同じような古墳が原型としてイメージされているということなのだろうと思う。
by shingen1948 | 2019-06-21 09:07 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)