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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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カテゴリ:◎ 地域散策と心の故郷( 960 )

 今回の豪雨とのかかわりで、氾濫を繰り返していたという旧八反田川の川筋を確認しながら散策してきたところだ。その散策を通して、この辺りの原風景にかかわる見え方に変化をもたらしたことがいくつかある。
 前々回の飯坂古道を横切る旧八反田川の川筋もそうだった。
 東山道(後期駅路)が飯坂古道の馬道と別れて北東に直進する道筋と旧八反田川の右岸が重なっているように見えてきた。

 前回の「稗原―平野間の道筋」あたりの旧八反田川の川筋もそうだった。
 カワセミの撮影を試みている時には豊かな生態系が維持されている清流としか見ていなかった水路が、旧八反田川の川筋と関りあるらしいという事のようだった。また、この川筋が「稗原―平野間の道筋」と交わる旧細谷橋付近には農耕馬を洗う場所があったという情報も重ねて、その見え方が深まったと思っている。

 今回の旧八反田川の川筋の散策を通して新たに見えてきたことも整理しておこうと思った。
 その一つが、天王下観音堂についてだ。
旧八反田川の川筋の散策の中で_a0087378_1218566.jpg
 これは、その観音堂の右手に架かっていた札だ。
 右に「信夫〇〇〇誌」が読め、中央に「第拾参番南無大悲大慈大〇……」が読める。また、左手に「新坂東〇〇〇」が読める。
 これが、「平野の伝承とくらし」の解説にあった「信達坂東33番の第13番大悲大慈正観世音菩薩の札所になっている」いうこととかかわるのだろうと想像した。
 しかし、一般的には信達坂東33番札所の13番札所は、平野六角の教法院とされている。

 それで、観音堂に架かる札の「坂東」の上に「新」とついている事もあって、その実態がよく分かっていないとされる信達坂東33番札所かなと思った。

 それなら、自分の散策の中で確認できているのは「のりしろ散歩~米沢街道附近~円光寺観音堂」で整理したこととかかわる。
 https://kazenoshin.exblog.jp/19611847/

 この第3番札所が「岩谷観音」、第7番札所が北矢野目の「養福院観音」、15番が庄野茶畑屋敷の法輪寺。そして、第22番札所が「鳥渡観音(福島市上鳥渡)」、第24番が「醴(あまさけ)観音堂」の「準提観世音菩薩」、第25番が「長泥観音堂」の「南無大悲観世音菩薩」。
 ここまでが確認できたことだ。
 これに「小針地蔵堂」もこの札所の一つかもしれないという想像が加わっていた。
 その13番にこの「天王下観音堂」の「大悲大慈正観世音菩薩」の札所の想像が加わるということだった。
 ※ この記事整理後に「醴(あまさけ)観音堂」と「長泥観音堂」の札所番号が逆になっていることに気づいたので、修正した。

 しかし、今回の散策の確認で信達坂東33番札所の13番札所とされる平野六角の教法院の観音が、この「天王下観音堂」の「大悲大慈正観世音菩薩」なのではないかと思えてきたところだった。
 それは、そのご詠歌だ。

 教法院の御詠歌は「観音を 拝む人をば 天王も 下にくだりて 守りとぞ 聞く」とされるようなのだ。
 「天王下観音堂」の左手に掲げられる御詠歌を判読すれば、左側に「かんのんをおがむ〇〇〇」、右側に「下にくだりて〇〇〇〇〇」と読めるような気がするのだ。
 つまり、教法院の観音堂がこの「天王下観音堂」なのではないかという思いが強くなったということだ。
by shingen1948 | 2020-01-22 12:21 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「祓川に雨水貯留施設整備へ【毎日新聞福島版(2019/11/22)】」の記事では、今回の台風19号による8軒の床上浸水被害だけではないことが記される。
 「今年度は床上、床下浸水を伴う氾濫が5回起きている」とある。
 今回以前に4回もの氾濫に見舞われていたというのだ。
 
 そのうちの1回は台風15号時なのだと思う。ただ、「今回の豪雨が身近なところにもたらしたこと」で記したように、テレビのテロップで見たのは「森合台の前の1軒が床上浸水」ということだ。
 森合台の前は、もっと北側で、秡川からは離れている。
 しかし、ここが浸水したとするならば、この辺りも同様な事が起きたとしてもおかしくはなさそうだ。この翌日の新聞報道では、福高前で冠水する祓川の写真が掲載されているのも見ている。
 
 まず、清水水位観測局のデータを確認すると、この時の最高水位は2m8㎝だった。
 これと台風19号時の水位や昭和61年8月豪雨 (8.5洪水)時の水位と比較してみる。
 台風19号時の最高水位は3m60㎝に達していた。そして、昭和61年8月豪雨 (8.5洪水)時の水位は2m52㎝だった。
 松川の水位で見る限りでは、昭和61年8月豪雨 (8.5洪水)時の2m52㎝にも達していない。それでも秡川は氾濫したという事のようだ。それどころか、報道されることはないのだが、そこにも達していない時に3回も氾濫が起きていたというになるのだろうと思う。

 ここまで整理してくると、気になってくるのが森合のアンダーパスの水位との関りだ。地形的に見て、ここで溢れた水は道路を伝ってガード下に流れ込むはずだと思えるからだ。

 なお、この時には濁川と八反田川流域にレベル4の避難勧告が出されたという情報もあった。
 今回の整理で見つけた沖高水位観測局の台風15号時の情報も確認できる。これを読み取ってみる。

 9日7時10分頃から水位が上がり始め、9時30分には水防団待機水位1m以上となった。12時20分には氾濫注意水位1m35㎝を越え、そのまま水位は上昇し続けだ。13時30分には1m84に達したが、15時30分には氾濫注意水位より水位が下がった。
 17時30分には水防団待機水位よりも水位が下がった。
by shingen1948 | 2019-12-09 17:42 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
愛宕神社 = 成出地蔵堂②_a0087378_9111880.jpg ここは何度も通っているのだが、写真を撮った事がなかった。
 それで、あらためて写真を撮りに出かけた。この写真、中途半端なアングルになってしまった。
 それは、ちょっとでもいいから本殿の部分も入れたかったということがある。それに、笹谷村と北沢又村の境界の水路も入れたかった。それで、ちょっと欲張ってしまったのだ。

 ここを愛宕神社としても成出地蔵堂としても写真におさめた事がないのは、極々普通の風景としか思っていなかったからだ。
 しかし、今回気づいたのが、ここはその極々普通の風景の中に明治以前の神仏習合の愛宕権現の姿が残されているという事だ。
 繰り返しになるが、愛宕権現は塞神信仰や陰陽道の影響で戌亥の守護神でもあり、愛宕修験によって勝軍地蔵と習合して火火伏せの神にもなっているということだ。

 なお、「郷土史物語」によると、この地蔵尊とかかわるT家は、最初は前田・原町橋本で構成されていた大谷地村に阿部薩摩の開拓団として入植していたとのこと。その後、開田の為に南下し笹谷の成出まで開拓を進めて定住したのだろうとの事。
 また、明治11年書き上げの「仏堂明細帳」への記載が紹介されるが、愛宕権現の姿と関わりそうなのが、ここが「岩代国信夫郡北沢又村字成出地蔵堂」とされている事と共に「信者21戸、受持大笹生曹洞宗安楽寺住職本間林堂」という記事部分かな。
by shingen1948 | 2019-09-23 09:15 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 この辺りの湧水池をめぐっていた時に気になったのが、古い「清水地区文化財案内板」にある地蔵堂の案内だ。
愛宕神社 = 成出地蔵堂_a0087378_9182752.jpg これがその地蔵堂の案内部分だ。
 位置的には、万世大路沿いの愛宕神社でないのかなとは思ったのだが曖昧なままだった。
 ここにある施設を地図表記では愛宕神社となっているし、この施設の表示も愛宕神社なので、ますます曖昧になっていた。
 ちなみに、現在の新しくなった案内板では、地蔵堂が万世大路の西側に案内されるのだが、これが同じ地蔵堂なのかどうかは分からない。

 「郷土史物語」で確認できたことを整理する。
 同誌では「成出地蔵堂(愛宕さま)と高橋家」の項で解説されるのだが、その項目自体、成出地蔵堂=愛宕さまであることを示しているわけで、ここでもう曖昧さが解消したような気分になれた。
 ここは「岩代国信夫郡北沢又村字成出地蔵堂」と紹介される。明治11年書き上げの「仏堂明細帳」にもそう載っているとのことだ。
 ここを通称愛宕さまと紹介されることから、ここの明治以前の神仏習合の神名は愛宕権現で、イザナミを垂迹神として地蔵菩薩を本地仏としていたということが想像できる。

 「郷土史物語」では、この本地仏である地蔵菩薩について以下のように解説されている。
 この地蔵菩薩は、元々はこの道を挟んだ北側のT家屋敷の鬼門である戌亥の片隅に産土稲荷としてあったとのことだ。ただ、この屋敷の元々の主は川崎に移られ、地蔵菩薩も還座されたということだ。

 この成出地蔵堂もT家がかかわるようだが、それとは別に建てられたという経緯があるという。
 文政の頃に、このT家が家運を占ったところ、座敷人形の地蔵菩薩を川の南の他所の土地に祀られたいとのお告げだったことに基づいているとのことだ。
 集落みんなの協力を得て御堂を建てて、その地蔵菩薩を安置したとのことだが、お籠堂などは集落みんなの負担で建立されたのだとか。

 ここで「川の南の他所の土地に祀られたい」とあるが、この川が笹谷村と北沢又村の境界線だ。今はこの川には蓋が被せられ、飯坂街道まで川沿いの道筋に沿って流れている。
 つまり、T家屋敷は川に沿った道筋の北側にある笹谷村の成出であり、占いを元に建立した成出地蔵堂はこの道筋の南側で北沢又村ということになるようだ。

 地蔵堂と愛宕権現を統一的に捉えられない感覚は、明治以降の感覚のようだ。
 明治以前の神仏習合の愛宕権現は、塞神信仰や陰陽道の影響で戌亥の守護神であり、愛宕修験によって勝軍地蔵と習合して火火伏せの神になっているということのようだ。
 なお、この神社の本尊が甲冑姿の地蔵菩薩が馬に乗るという将軍地蔵の像容なのかどうかは、まだ確認していない。
by shingen1948 | 2019-09-20 09:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

清水小学校

 金福寺跡」の案内柱では、金福寺が清水小学校(旧沢又小学校)発祥の地である事が解説される。よそ者の散歩人には分かりづらかったが、地元の方々は以下の事情が頭にあるようだ。

 清水村役場や道路元標は泉字大仏に設置されたとのことだが、泉地区の郷土誌等の情報によると、明治16年には南沢又、森合、御山、北沢又、泉、笹谷、大笹生の7ケ村戸長役場は泉字柳清水に開かれていたようだ。
 この前に、明治13年には北沢又小と泉小が合併されてた早柳小学校が、この柳清水に移転している。この学校は明治18年に泉尋常簡易小学校となったようだ。
 明治22年4月1日に南沢又村、北沢又村、泉村、森合村、御山村の区域が清水村となったことに伴い、この学校は現清水小学校となり、清水村役場が泉字大仏に設置されたという経緯のようだ。

 小学校に焦点を絞って、その前の経緯を確認する。

 北沢又小学校は、明治7年金福寺に開校されたということのようだ。
 「信達二郡村誌」の北沢又村を確認すると、「共立小学校 東部寺西に設置す 男生徒11人 女生徒3人(明治9年1月1日調)」とある。
 ここでは設置場所「寺西」が表記されるが、金福寺とはなっていない。
 これは、明治9年に金福寺が延焼したため、直ぐに21坪の校舎を建築されたとのことなので、その事が反映されているのかもしれない。
 「郷土史物語」では、この小学校を第16番学区北沢又小学校としている。

 「信達二郡村誌」の南矢野目村を確認すると、「北沢又村共立小学校合併 生徒男40人 女10人(明治9年1月1日調)」とある。
 南矢野目村の子供もこの北沢又小学校に通っていたことが、想像できる。
 「信達二郡村誌」では確認できないが、「郷土史物語」によると、笹谷村や御山村の一部の子供もこちらの学校に通学していたといい、トータルで生徒男33人、女7人だったとのことだ。
 そして、この小学校が明治17年に早柳小学校に合併し、翌18年には泉尋常簡易小学校となったとのことだ。

 その合併先の泉村の学校を「信達二郡村誌」で確認すると「共立学校 北部北鎌に在り 男生徒40人(明治9年1月1日調) 」とある。
 泉村の地域誌等でも、泉村の小学校は明治8年に北鎌に開校されたと解説される。
 北鎌は、現カワチやサガミ福島ホール辺りだ。具体的な位置は特定できないが、こちらの学校も飯坂古道の道筋沿であることが想像される。
 この学校が、明治13年に柳清水に移転して早柳小学校となり、明治18年に泉尋常簡易小学校となったとのことだ。
 先に確認した「郷土史物語」の情報とも重なる。

 明治16年には、この学校の地に南沢又、森合、御山、北沢又、泉、笹谷、大笹生の7ケ村戸長役場が開かれたということだ。
 そういう経緯を経て先に整理した清水村役場と道路元標の話が続くということだ。

 なお、泉尋常簡易小学校となった小学校とかかわる南沢又について「信達二郡村誌」で確認すると、「共立学校 西隣笹木野村と合併 同村仏母寺をもって仮教場とす 男生徒34人 女生徒42人(明治9年1月1日調)」とある。
by shingen1948 | 2019-09-18 07:35 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

清水村道路元標④

 前回は大正9年福島県告示で示される道路元標の建つ位置を万世大路と飯坂街道の分岐点と想像してみた。
 「福島県史料情報第20号(平成20/3/25)」の「道路元標を歩く」で示される設置場所は、その大半は市町村役場の前か市町村を通る主要な道路同士の交叉点に設置されていたとするわけだが、その後半にあたるとみたということだ。
 ところが、「郷土史物語」では清水村道路元標は旧役場玄関前の万世大路近くに設置された公示板の傍らに建っていたという。つまりは、「道路元標を歩く」で示される設置場所の前半にあたるとしているということだ。
 今回は、これをどう読み解けばいいのかという事を確認していく。

 「郷土史物語」が示す以下の役場移転の経緯が、今回の読み解きのヒントになる。
 「昭和26年(1951)に完成した刑務所通り開通で、刑務所通りと農協に挟まれて自転車置き場も無くなったことで、昭和51年(1976)に現在地に移転した」

 信夫郡清水村は、この出来事以前の昭和22年3月10日に福島市と合併しているのだ。
 この旧役場の名称は似かよってはいるが、明治22年から昭和22年までは信夫郡清水村役場だが、昭和22年からは福島市の清水役場になっていたということだ。

 道路元標の方だが、施行令によるその設置基準がなくなるのは戦後の改正道路法とのこと。
 この法律が制定されるのは明治27年(1952)のようなので、この時点では施行令による設置基準は生きているということだ。
 それで、福島市と合併する機会に、基準に基づいて設置された信夫郡清水村の道路元標を、役場前に設置し直したのではないのだろうか。
 役場としては福島市の一支所になった清水役場だが、そこに向けての準備段階ではまだ信夫郡清水村役場の精神は引き継がれていたのだと思う。

 ここから以降に、「郷土史物語」が示す役場移転経緯と清水村道路元標が現況位置に移動した経緯が続くと見ればつじつまが合うと思うのだが、どうだろうか。
by shingen1948 | 2019-09-13 10:31 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

清水村道路元標③

 ようやく旧清水村役場の位置をイメージできるようになったところだが、実は、清水村道路元標の位置情報も、まだしっくりと受け取れていない。
 「郷土史物語」では、清水村道路元標は、旧役場玄関前の万世大路近くに設置された公示板の傍らに建っていたとある。
 しかし、大正9年福島県告示では「信夫郡大字南澤又字中富匠田及成出46,47」に建っていたとされる。
 しっくりと受け取れない事の一つは、この「郷土史物語」が示す道路元標の位置と福島県告示の示す位置が違うという事だ。
 もう一つしっくりこないのが、福島県告示が示す位置情報だ。

 まずは、この福島県告示が示す位置情報をを先に確認する。
 ここでいう「南澤又字中富匠田」は「南澤又字中番匠田」だと思う。また、「及び成出46,47」だが、この「成出」は南沢又の小字にはないので北沢又だと思う。
 しっくりいかないのはこの事ではなく、この情報では清水村道路元標は複数本あるように読み取れるという事だ。というのは、旧道路法では各市町村に一個ずつ設置することとされていたはずなのだ。
 
 これを読み解くヒントになったのが、「福島県史料情報第20号(平成20/3/25)」の「道路元標を歩く」の設置場所に係る次の記述だ。

 「設置場所は府県知事が指定することとされており、大半は市町村役場の前か、市町村を通る主要な道路同士の交叉点に設置されていた」

 この後半の「市町村を通る主要な道路同士の交叉点に設置されていた」ということなら、位置情報として複数個あるように見えて、実は1個であるということが起こり得ると思ったのだ。

 南沢又字中番匠田と北沢又字成出近くには、万世大路と飯坂街道の分岐点がある。
 この道筋と設置情報地番とを見比べてみると、成出の地番46・47は確認できないが、万世大路の北側が北沢又字成出は確認でき、南沢又字中番匠田が万世大路の南側の地名であることが確認できるのだ。
 つまり、万世大路と飯坂街道の分岐点を北沢又字成出とみても、南沢又字中番匠田とみてもよさそうだということだ。
 ここに、清水村道路元標は建っていたと読み取ってみたいが、どうだろうか。

 次にしっくりこないのが、「郷土史物語」の清水村道路元標設置位置だが、これをどう読み取るかということだ。
by shingen1948 | 2019-09-12 10:31 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

清水村道路元標②

 先の「清水村道路元標」の整理で、「郷土史物語」がいう旧清水村役場の位置と、古い地図から読み取る役場の位置のイメージがうまく重ならないように感じていることについて記した。

 その原因の一つが、古い地図の役場北側の道筋と刑務所通りの関係がよく把握されていないということにあるように思う。
 それで、その古い地図で旧役場北側の道筋を西側に辿ってみると乙天堂の南側を中條に向かう道筋と繋がっているように見える。現西環状線より西側でこの道筋の痕跡らしき道筋が確認できるが、東側では消滅している。
 飯坂街道に交わる付近のこの道筋をJA給油所と旧JAマーケットの間辺りとみると、説明される事と古い地図から読み取る役場の位置のイメージがうまく重なるような気がした。

 この時代の旧清水村役場の地番は泉字大仏25だ。旧清水村役場の泉字大仏25という地番は、この古い道筋から南側に付されたものと想像する。
 この「泉字大仏25」の地の間に刑務所通りが開通したとみるのだ。現況ではこの地番は刑務所通りの南側の洗濯店あたりのみにふられている。そして、元泉字大仏25だったJA給油所は、旧JAマーケットと同じ堀の内6の2の地番がふられているということだ。
 現況と古い地図から読み取る役場の位置関係を上記のようにとらえ直して、「郷土史物語」がいう旧清水村役場の位置情報を確認するとすっきりした。
 再掲する。

 明治22年(1889)に市町村制実施に伴い、南沢又・北沢又・泉・森合・御山の5町村が合併して発足する清水村役場が、現農協給油所のところにあったという。それが、昭和26年(1951)に完成した刑務所通り開通で、刑務所通りと農協に挟まれて自転車置き場も無くなったことで、昭和51年(1976)に現在地に移転した。

 なお、同誌の郵便局情報では、岩代清水郵便局は田中善右衛門氏局長として昭和16年(1941)4月16日に字大仏23番地に開局され、昭和34年10月1日に泉郵便局と改名したとある。
 地図を確認すると、確かに昭和58年の地図では郵便局は現在地である字大仏23番地にプロットされる。しかし、昭和48年の地図では現字大仏25番地である洗濯店付近にプロットされているように思う。
by shingen1948 | 2019-09-10 10:55 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

泉澤山久盛院③

 「郷土史物語」で「香蓮庵」について語られる辺りの風景だ。
泉澤山久盛院③_a0087378_10572726.jpg
 左手の建物を同誌が言う「熊阪医院」とみている。
 その奥にもう一軒民家があって、その奥に路地が走る。その道の奥が乙天堂地域だ。
 その路地の突き当る丁字路の辺りに、墓地への入り口がある。

 「香蓮庵」が沢又桜内地内に再建されて泉澤山久盛院となる辺りを整理する。
 先に「松飾りを納めた泉八幡神社」で、泉澤山久盛院の由緒沿革を確認している。その中心とした資料は「寺院名鑑」だ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/11993723/

 その由緒沿革の部分を再掲する。
 元和(1615)以前、宥仙和尚によって創立、寛永(1624~)年中播磨壱岐刑部久盛開基、宥全和尚開山。

 この中興開基者の壱岐家は、この時の整理では南沢又字中条の人としていた。
 「郷土史物語」では壱岐家について詳細に解説する。その中から開基者としてのかかわり部分のみを拾う。

 先の整理で久盛氏とした方は、泉に住した壱岐家先祖の盛永氏だろうとしている。そして、この方が「香蓮庵」を中興開基された方なのだろうと推測している。
 この寺は沢又桜内地内に再建されることになるのだが、これが「信達一統志」に記載される宝永4年(1707)宥全和尚の時代ということだ。
 この時に寺院名が泉澤山久盛院となる。
 この山号泉澤山については推測しやすい。前身地泉と沢又の沢からとっているのだと思われる。
 簡単には推測できないのが寺院名である久盛院の方だ。同誌でも、開基者である壱岐家先祖の盛永氏の名が何らかの形でかかわっているということまでは想像しているのだが、確かな事は分からないようだ。
 なお、泉澤山久盛院が沢又桜内地内に再建されて直ぐに焼失し、正徳年間に壱岐甚右衛門氏によって再建されたのだとか。

 先の整理では、この開基者が泉・沢又の二村を領する地頭のように記したが、同誌はその部分には疑念を持っているようだ。

 「郷土史物語」では、この地域の他の有力者の移転状況も記されるので、地域内の人の流れが見えてくる部分のみメモしておくことにする。

 T家出地が上名倉在家としたことについては先にふれた。他に八宝屋S家出地は八木田在家とか。また、清水内S家の出地は八木田白家とか。
by shingen1948 | 2019-09-08 11:00 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

泉澤山久盛院②

 泉澤山久盛院の前身である「香蓮庵」があったという乙天堂付近に出かけてみた。
 「八幡坂神社参道脇を流れる湧水の源の民家:福島の建築44」でふれた民家の入り口に、町内の案内板があるので、確認する。
 https://kazenoshin.exblog.jp/12006803/
泉澤山久盛院②_a0087378_10221648.jpg この民家を、「郷土史物語」では個人名を挙げて案内するが、元県知事屋敷ということでもあるので支障はないのかもしれない。その屋敷の湧水池については「福島市泉地区に、湧水の池を訪ねて」でもふれている。
 https://kazenoshin.exblog.jp/5113972/

 この地図にもう一つ湧水池が記されるが、これも「岩代清水の泉と池をめぐる~福島の水道とかかわって②」の最後でふれた池だ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/12037310/
 この地図の「元病院(推定)」としたところに、医院らしい建物が残っている。これが「郷土史物語」で「熊阪医院」としたあたりと想像して見回すと「墓地」の印がプロットされている。
 現況では、その熊阪医院は分からないが、清水内屋敷の南端の道向かい付近に病院だったのではないかと思わせる建物は現存する。
 そこを同誌がいう病院とすると、泉川の病院の道向かいという情報とも重なる。また、ここは清水内屋敷の南端あたりでもある。

 この墓地に行ってみると、т家旧墓碑も確認できた。同誌が香蓮庵の墓地の一端とする墓地に違いはなさそうだ。
確かな情報なのかどうかはまだ確認できないが、乙天堂と清水内に跨って泉澤山久盛院の前身である「香蓮庵」があったと想定することに伴う風景の確認ができたということだ。
 なお、泉川の道を挟んだ西側が乙天堂だ。
by shingen1948 | 2019-09-07 10:23 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)