人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

カテゴリ:◎ 地域散策と心の故郷( 910 )

鳥谷野館⑤

 前回、もう一つの信夫の渡しに行きつく道筋についてふれた。
 平石の古道道筋から乳児塚―附屋敷―扇田―古内―川原(郷野目)を経由する道筋を見た事を思い出したのだが、その出典まで思い出せなかった。確認したら「古代道(江代正一)」だった。
 先に、そこで紹介される森合の一杯森までの続くという東山道(後期駅路)を想像しながら歩いて見たのだが、その時この道筋を知ったようだ。
 その道筋が、東山道(後期駅路)から乳児塚で分かれた前期駅路で、附屋敷―扇田―古内を経由して郷野目村字向原まで北東に直進し、これが腰浜方面に向かうように描かれていたのを思い出した。
 解説では、ここから坿屋敷(大森川、旧荒川の河岸段丘)斜向道路―下宿―渡利―腰の浜へ向かうように表現されていた。

 さて、先に、鳥谷野舘について「ふくしまの歴史(中世)」でふれられている事について記した。
 その項が「鳥谷野宿と鳥谷野下宿」ということだ。
 ここでは、鳥谷野宿は鳥谷野下宿に対して、鳥谷野上宿として中ノ内を想定している。その鳥谷野下宿についても下宿という地名があるということだけで、その実態の解説はない。
 ここから賑わいが想像されるということであり、その賑わいの要因の一つが交通の要地であるということであり、中ノ内はその交通の要地の要としての鳥谷野舘の城下町的な位置にあったという関係性だ。

 その交通の要地にかかわっては、次のように表現される。
 「鳥谷野の中ノ内は、八丁目(松川)から黒岩を通って郷野目に向かう道が通り、また、川俣方面からの道が小倉寺の中ノ内から阿武隈川を渡って合流する地点でした」

 「鳥谷野の中ノ内は、八丁目(松川)から黒岩を通って郷野目に向かう道が通り」とあることから、鳥谷野館とかかわる古道は、「鳥谷野舘の考察」の羽田氏と同様に「田沢道」に近い道筋を想定していることが分かる。「郷野目に向かう道が通り」が福島道で下宿に向かう道である。

 これに「古代道(江代正一)」が描く乳児塚で分かれた前期駅路を重ねてみると、川原(郷野目)から目指した下宿というのがこの鳥谷野の下宿であることが分かる。
 「ふくしまの歴史(中世)」で鳥谷野上宿が中ノ内で、それに対しての下宿だとした辺りの地名だ。
 鳥谷野館とかかわる古道は、この下宿から荒川と阿武隈川の間の道筋を進んで、信夫の渡しで川を越えて北進し、腰浜廃寺脇を通るということだったが、これも「古代道(江代正一)」が表見する「下宿―渡利―腰の浜へ向かう」という道筋と重なるということだ。
by shingen1948 | 2019-05-19 10:47 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

鳥谷野館④

 信夫、伊達郡の阿武隈川の自然堤防段丘上の中世舘の共通点として二つの要素が挙げられている。

 その一つが、阿武隈川の渡しがあった要地であることだ。
 この事は、鳥谷野館も含めた全ての館に共通する事とされる。気になるのは、もう一つの特徴の方だ。
 それが、鳥谷野以外は奥大道が通る地点であると紹介される事だ。
 この表記だと、鳥谷野館は例外としての取り扱いのように見えるが、そうではないらしい。
 その奥大道に匹敵する古道の道筋が諸説あって確定できていないということのようだ。しかも、ここを語る時には、古道の道筋の自説を前提とされるのだ。
 いくつかの散策資料を参考にする時には、その方の考える古道の道筋を確かめていかないと混乱してしまうことがある。

 「鳥谷野舘の考察」の羽田氏が考える鳥谷野館とかかわる古道は、まだ詳しく確認は確認していないが、八丁目から田沢、黒岩虚空蔵、宮ノ下を経由して八郎内から鳥谷野に入る道筋のようなのだ。 これは、先の黒岩虚空蔵満願寺の散策で確認した「田沢道」に近い道筋だと思われる。
 ここからは、阿武隈川沿いを上り信夫の渡しに行きつくということだ。
 その信夫の渡しを渡った船場町から先の道筋は、先の腰浜廃寺にかかわって散策した道筋がかかわってくるということだ。

 この信夫の渡しに行きつく道筋については、もう一つの説を見たことがある。
 先に「旧道諸説を歩いて見る」で整理した道筋から分かれて、乳児塚―附屋敷―扇田―古内、そして、ここから郷野目の向川原を経由して信夫の渡しに行きつくという道筋だ。

 どちらの場合も、この信夫の渡しに行きつくという道筋をイメージするには、ここに阿武隈川筋の変化情報を重ねなければならないようだ。

 この時代の阿武隈川筋は、弁天山際を回り込んでいて、現況の阿武隈川の川筋とは違うのだとか。 現況の荒川との合流地点から先は荒川の川筋になるのだという。
 信夫の渡しに行きつく道筋は、その荒川の川筋と阿武隈川の川筋の間を通っていたと観るらしいのだ。そして、その当時の荒川の川筋を渡るのが信夫の渡しということになるようだ。
 その地点だが、とりあえず現況では阿武隈川筋になるが、ここに「信夫の渡し」の案内板のある地点と同じだとイメージしておくことにする。現松齢橋の少し下流の地点だ。
by shingen1948 | 2019-05-15 11:38 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

鳥谷野館③

 「福島の村絵図【福島市文化財調査報告書39集】」の鳥屋野村絵図の解説から、前回までの鳥谷野館の位置とかかわる部分については、次のように記す。

 「仲ノ内の南西、林の中に見える寺院は臨済宗永京寺。ほぼ方形をなすその境域は、かつての鳥谷野館の郭内であり、その西と北にみえる田は館の堀のなごりである」
 
 ここから、鳥谷野館の郭内は「鳥谷野館の考察が推定する旧舘跡」であることが想像され、「埋蔵文化財関係者等が推定する旧舘跡」は、館の北の堀をも含んでいることが想像される。
 
 「鳥谷野舘の考察(羽田実)」では、この館主は佐藤氏の臣とする。
 「鳥谷野村誌」に館の創建にかかわって「本村中央より(鹿島神社境内)東南に当たり旧舘大熊川(阿武隈川)の上にあり、文治年中(1185~89)佐藤庄司基治の臣何某の居住と云ふ」とあるというのだ。

 先に日本城郭体系3「山形・宮城・福島の城郭」では鳥谷野館は「慶長年間の館」と解説されることについてふれたが、「鳥谷野村絵図の解説」では、次のように天文年間にすでに舘は存在したことが解説される。
 
 「対岸の川俣道からの渡河点を抑える鳥谷野館は、戦国期天文11年(1542)~17年(1548)の伊達氏天文の乱の関係資料にも現れている。信夫、伊達両郡の阿武隈川の自然堤防段丘上には、鳥屋野・大仏(または杉ノ目)・本内・鎌田・桑折・伊達崎・堀江・大枝・五十沢などの中世館が連なるが、鳥屋野はそれらのもっとも上流に位置する要衝であった」

 「ふくしまの歴史」でも、この鳥谷野舘については中世の「鳥谷野宿と鳥谷野下宿」の項でふれる。その館主については、「伊達氏のもとで館主となった地頭は、この交通・軍事の重要な地点をおさえながら、鳥屋野村の地域を支配したのでしょう」と記す。
 また、「鳥谷野村絵図の解説」で紹介された信夫、伊達両郡の阿武隈川の自然堤防段丘上の中世舘の全てが阿武隈川の渡しがあった要地とし、鳥谷野以外は奥大道が通る地点であることが付け加えられる。

 なお、「鳥谷野村絵図の解説」では、臨済宗永京寺は鳥谷野館が廃された後に建立されたが、「鹿島社ははるかに古い歴史を持つことだけは疑いない」と付け加えている。
by shingen1948 | 2019-05-12 12:07 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

鳥谷野館②

 マホロンの「遺跡データベース」の鳥屋野館跡は、もっと広い範囲が表示される。東西と南側は「鳥谷野舘の考察」の遺稿図と重なるが、北側は字柴切から太平寺に繋がる道筋のところまでを館跡とする。
 「市内遺跡試掘調査報告 平成13年度(福島市埋蔵文化財報告書)」とも見比べて、埋蔵文化財関係者が推定する鳥谷野館跡のイメージを重ねてみるとこんな感じだろうか。
 紺色のラインが埋蔵文化財関係者の推定する鳥谷野館跡、赤のラインが鳥谷野舘の考察の推定する鳥谷野館跡ということだ。
a0087378_9592429.jpg 今まで散策してふれた事のある地点も重ねて表示してみた。

 なお、地域の案内板では、「旧舟橋」と「鳥谷野渡跡」が逆に説明されているように思う。ここでは、「旧舟橋」は、杉ノ内地蔵堂のある字柴切から太平寺に繋がる道筋の延長線上にあり、それより100m上流に鳥谷野渡しがあるという渡利側に立つ案内板の説明に従ってみた。
by shingen1948 | 2019-05-10 09:59 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

鳥谷野館

 今回このあたりの散策を整理してこの辺りの散策は既に整理していたはずと思っていた。
 しかし、実際にはその形跡がなかったので、黒岩虚空蔵尊満願寺の散策とのかかわりで整理してきたところだ。
 その整理を通して分かってきたのは、このあたりは資料で確認しながら散歩していたらしいということだ。それで、すでに整理していると思い込んでいたということのようだ。
 特に、鳥谷野館と浜井場古墳については、手持ち資料の不足分を補う資料を図書館で探しながら散策していたようだ。
 それで、この二か所について、あらためてその資料と照らし合わせながら整理してみる。

 まずは、鳥谷野館。
 日本城郭体系3「山形・宮城・福島の城郭」では、その他の城郭一覧で、331番目に「慶長年間の館」との付記で記されるのみで詳しい解説はない。
 「すぎのめ第14号(福島市杉妻地区史跡保存会)」に、「鳥谷野舘の考察(羽田実)」の寄稿文がある。
 そこに昭和13年の耕地整理前の風景と照らし合わせて推定した旧舘跡の遺稿図が載っている。
 先の散策では、この図と地図とを見比べて鳥谷野館の位置を確認したうえで、散歩を楽しんでいたようだ。
a0087378_16243671.jpg
 今回の整理の「黒岩虚空蔵堂・満願寺散策⑬~帰り道②」で、その後半で「福島の村絵図Ⅰ」の情報から鳥谷野舘を想像しているが、この鳥谷野館の位置確認の上に、村絵図の情報を重ねてみたということだ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/239148730/
 この時に、館の西側と北側については記しているが、南側と東側についてはふれていなかった。
 遺稿図からは、館の東側も道沿いだが、南側は門前の通りより更にもう一本南側の道沿いであるように読み取っていることを付け加える。
by shingen1948 | 2019-05-06 16:24 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 多分どうでもいい事なのだと思うが、「神祇志料(栗田寛)」に記される祭日と境内に掲げられる「延喜式内社正一位郷社鹿島神社由緒」の案内板に記される祭日が一月違う。
 「神祇志料(栗田寛)」では「凡其祭九月九日之を行ふ」とするが、案内板では、「例祭日十月第一日曜日(旧十月九日本祭り)」とする。

 現在の社殿は鉄筋コンクリート造で、散策する者としては趣的に残念に思うが、その社殿の履歴を見ると、管理上仕方がないのだろうなとも思う。
 由緒とこの履歴と照らし合わせると、その重要なポイントが天明元年(1781)4月社殿焼失の翌年同2年(1781)2月に拝殿が建立されたことにあることが分かる。
 この天明2年(1781)2月の拝殿建立は鳥谷野羽田喜三郎氏がかかわるとあり、その七月に「正一位」の勅宣奉授を授けられとある。その折に、京都より神輿を購入したともある。

 ちょっと深入りしているのは、この写真とのかかわりだ。
a0087378_10161282.jpg この「杉内地蔵堂と六部の墓」を撮ったのは先の散策の折で、これを整理するつもりもんかったのだが、注目は以下の解説だ。

 「『杉内地蔵堂と六部の墓』
 羽田家が移り住む享保7年(1722)以前より安置されており、子育地蔵として深く信仰されている。
六部の墓は鹿島神社信州高遠石工とつながりがあり、無縁の母の墓であるが羽田家が先祖より丁重に供養している」

 杉内地蔵堂そのものよりも、ここに登場する羽田家が、鹿島神社石工とのかかわりで六部の墓を供養しているということとのかかわりで、拝殿建立の鳥谷野羽田喜三郎氏ともかかわるのかなという勝手な想像が働いたのだ。

 また、年代が合わないのだが、古本の検索で、この鳥谷野羽田喜三郎氏と同姓同名の別情報がかかる。
 羽田暁雲斎という弘化元年(1844) 岩代国信夫郡杉妻村鳥谷野生まれの華道家の本名が、羽田喜三郎ということだ。
 かかわりがあるのかどうかは分からないのだが、鳥谷野地区がそれほど広い範囲ではないので気になる。

 なお、ここで六部の墓とある「六部」は、本来は日本回国大乗妙典六十六部経聖を指すようだ。
 ただ、案内から行脚僧ではなく俗人であるように読み取れる。
 特に江戸時代以降には、この諸国巡礼が俗人にも流行ったそうだ。
 鼠木綿の着物と手甲、それに脚絆、甲掛、股引をつけて、背に仏像を入れた厨子を背負って鉦や鈴を鳴らして米銭を請い歩いていたという。
 この「六部の墓」は、その巡礼途中で亡くなった方ということなのだろうと思う。
by shingen1948 | 2019-05-01 10:19 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 「神祇志料(栗田寛)」は、国立国会デジタルコレクションで確認することができる。その第6巻から第16巻に延喜式内社の鎮座地・由緒・沿革等が記される。
 信夫郡5座(大1座・小4座)が記されるのは、第13巻だ。
 鹿島神社については、その最初に以下のように記される。

 「鹿島神社、今鳥谷野村鹿島森にあり、(陸奥國式社考、福島縣神社調) 武御雷命を祀る、(日本書紀延喜式本社伝説)桓武天皇延暦元年五月壬寅、勅して勲五等を授け、封二戸を充奉る、是よりさき凶賊を撥時、鹿島神に祈るに神驗虚しからさりしを以て也、(続日本紀〇按新抄符に今年五月廿四日の符を以て二戸を授くとあるは、蓋し同時の事なり、姑附て考に備ふ、)凡其祭九月九日之を行ふ、(福島縣神社調)」

 「神祇志料(栗田寛)」は、「大日本史」の神祇志編纂準備のために記された研究書とのことだが、本書自体が貴重史料となっているとのことだ。
 なお、著者の栗田寛氏は、水戸藩に仕えた国・歴史学者で、後に帝国大学教授になったとのことだ。

 鹿島神社境内には、「延喜式内社正一位郷社鹿島神社由緒」との案内板が建つ。
a0087378_11575068.jpg
 その由緒については次のように記されている。

 「由緒
 鎮座は延暦元年(七八二)で、常陸の國 鹿島神宮より分祀された延喜式内社信夫五社の一社に列せらる。「続日本紀巻三十七」に「按(あん)ずるに桓武(かんむ)天皇延暦(えんれき)元年壬戌(みずのえいぬ)五日、常陸國言祈祷(ごきとう)鹿島神討(とう)はつ凶賊神験非虚望 (きょうぞくしんけんひきょぼう) 寛位封奉格(かんいふうほうかく)勳五等封戸(ふうこ)云々」とある。天明元年(一七八一)四月火災により、同二年鳥谷野羽田喜三郎氏が拝殿を建立し、同年七月光格天皇の御世、勅宣奉授し「正一位」を授けられ、郷民勅宣社として崇敬をあつめた。その後、建替えの棟札の中に福島城主板倉甲斐守重房の武運長久の為の祈願棟札も見つかっていることから古くから開運の神として崇敬が厚い。」
by shingen1948 | 2019-04-27 11:58 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 この写真は、2009年にこの辺りを散策した時のものだ。
a0087378_11164262.jpg  「福島県名勝旧蹟抄」では、次のように紹介されている。

 「【村社鹿島神社(福島驛の南凡一里)】
 信夫郡杉妻村大字鳥谷野に在り武甕槌命を祀る延喜神名帳に列す天明二年正一位を授けらる同郡平田村大字小田に村社鹿島神社あり同しく式内の社と称す孰(いず)れか是をるを知らす」

 ここで「同しく式内の社と称す」鹿島神社と紹介される小田村の鹿島神社については、山田村の散策とのかかわりで、以下のように整理している。

 〇 山田村の散策振り返り⑤~山王道筋沿いの鹿島神社
   https://kazenoshin.exblog.jp/21340837/
 〇 山田村の散策振り返り⑥~山王道筋沿いの鹿島神社②
   https://kazenoshin.exblog.jp/21346437/
 〇 山田村の散策振り返り⑦~山王道筋沿いの鹿島神社③
   https://kazenoshin.exblog.jp/21349929/
 〇 山田村の散策振り返り⑧~山王道筋沿いの鹿島神社④
   https://kazenoshin.exblog.jp/21355992/
 〇 山田村の散策振り返り⑨~山王道筋沿いの鹿島神社⑤
   https://kazenoshin.exblog.jp/21358813/
 〇 山田村の散策振り返り⑩~山王道筋沿いの鹿島神社⑥
   https://kazenoshin.exblog.jp/21361882/

 この中で、「延喜神名帳に列す」事とかかわって整理したのは、「山田村の散策振り返り⑨~山王道筋沿いの鹿島神社⑤」「山田村の散策振り返り⑩~山王道筋沿いの鹿島神社⑥」だ。
 「山田村の散策振り返り⑨~山王道筋沿いの鹿島神社⑤」では、案内板の由緒にその説明がある事についてふれただけで、見え方に係るのは「山田村の散策振り返り⑩~山王道筋沿いの鹿島神社⑥」で次のように整理した部分だろうか。

 「『ふくしまの歴史』では、その中の鹿島神社も、鳥谷野、岡本、小田、水原にあるが、どれがもともとの鹿島神社かは分からないとし、栗田寛の「神祇志料」では「鳥谷野村の鹿島森にあり」としていることが紹介される。
 それでも、それぞれの地域の神社の地区民は、それぞれに本家意識が強い。それで、神社の由緒では延喜式内社である主張と絡めた紹介になるようなのだ。」
by shingen1948 | 2019-04-26 11:21 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 黒岩村がまだ独立していた頃、黒岩村の道路元標はここ宮ノ下に建っていたという。
a0087378_18353085.jpg 黒岩村の主道は、ここを起点にして三本の道筋だったという。
 その一本が、宮ノ下から満願寺門前の上の町に登り、南の学檀の山から田沢・浅川・松川に向かう田沢道との事。
 次の一本が、ここ宮ノ下から西に進む道筋で、この道筋が関根を経て大森方面に向かったという。所謂大森道だ。
 そして、もう一本が、ここから北に向かう鳥谷野道だ。

 前回整理したように、今度の散策では、南福島ニュータウンの道筋から小原集落に向かう道筋を見つけたわけだが、この道筋が半沢氏の「歴史地図」で紹介される黒岩村から小原集落に向かう道筋と重なるのだろうと思う。
 帰りは、その道筋を道なりに北に進んできた。
 ちょっと不安になる頃、見覚えのある上の町に入り、右手に黒岩満願寺を見ながら坂を下り、ここに着いた。
 これが、田沢道に近いのではないのかなと思うのだ。
 この田沢道が気になる。

 「黒岩虚空蔵堂・満願寺散策⑫~帰り道」でふれたように、この地区の西側には奥州街道が通るので、この地区の散策時には、主要な道筋としてそちらを意識して引きずられてしまう。
 しかし、こちらの整備は天正末から慶長時代以降の話だ。
 それ以前は、渡し場のある鳥谷野館のある仲之内集落が、この川俣―大森間の主要な道筋の要であったということのようなのだ。
 黒岩村の主道の一本が、ここに繋がっている。
 奥州街道が通る以前まで想像を広げれば、鳥谷野から黒岩村を経由して田沢に向かうという田沢道の重要性が増すように思えたのだ。

 今回の散策では、田沢村側の団地のバス通りから黒岩村側の南福島ニュータウンの道筋に入ったのだが、この道筋とその田沢道とは、結構近いのではないかなと思っている。

 実は、田沢村側の団地である桜台団地ができたての頃、その辺りを何度か散策した事があったのだ。
 その時に、団地の奥の南に向かう道筋について尋ねた記憶があるのだ。この先に田沢小学校があると聞いた記憶だ。当時の田沢小学校は、現清沢運動場のはずだ。
 また、この団地入口からゴルフ場に進む道筋の右手が発掘調査中だったという記憶もある。
 これらの道筋は、元々あった道筋のようなのだが、今回地図で確認すると、この道筋が団地のバス通りになっているようなのだ。

 今回の散策では、この道筋の先と半沢氏の「歴史地図」で黒岩村から小原集落への道筋として描いた道筋を目指して南福島ニュータウンの道筋を進んできている。
 南福島ニュータウンの道筋と田沢道との重なりは曖昧なのだが、それでも、それ程のずれてもいないのではないかとも思うのだ。
by shingen1948 | 2019-04-24 18:48 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 今回の散策は、団地のバス通りから北に向かってきたわけだが、その黒岩村側の新しい団地を中心に一部伏拝字沼ノ上を含む地域を南福島ニュータウンと称しているようだ。
 気になるのは、ここが「学檀遺跡群」と重なっているということのようだ。

 この「学檀遺跡群」では、後期旧石器時代後半期の石器製作跡が検出され、他に縄文時代の落とし穴や竪穴住居、弥生土器・古墳・平安時代の竪穴住居、江戸時代の掘立柱建物跡などが検出されているという。
 この中で古墳とあるのは、諏訪山神社の森の東側の宅地になっている沼ノ上北部古墳群を指しているように思う。

 その南福島ニュータウンの道筋のここから右に折れて坂道を下って小原集落に向かったということだ。
a0087378_123833.jpg 家に戻って確認すると、この写真にも遺跡が写り込んでいるようだ。右手前に少し写り込んでいる丘辺りが「学檀古墳群」らしい。
 なお、マホロンの「遺跡データベース」で確認すると、この丘の北側に弥生公園があり、その先の行き止まった右手の山が「岩山古墳群」という事になるようだ。
 この辺りは、豊富な遺跡群の風景ということになるようだ。

 もう一つ、気になっているのが、今回通って来た道筋と年不詳黒岩村絵図に描かれる田沢道との関係性だ。
by shingen1948 | 2019-04-22 12:39 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)