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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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カテゴリ:◎ 福島の建築( 173 )

 会津に行く日程を決めた時に、どこで食事をするかのという話になった。
 今までは出かける前に食事場所の話をしたことはなかったが、昨年、昼食でつまずいたことが絡んでいる。
 美由紀食堂という食堂で昼食をとろうとしたら店が閉じていたのだ。その挨拶の張り紙には、店を閉じた理由に、体力の限界と設備の限界、それに跡継ぎの問題が絡んだことが記されていた。
 それなら、三角屋にしようということでそちらに向かったのだが、ここも閉じていたのだ。

 今回は、取りあえず強清水で蕎麦を食べようという事になった。
 しかし、家人が母に御馳走になっておいしかったわっばめしも食べたいと言われた。
 それで、その店を確認したら市役所通り界隈らしいという事が分かった。それなら、市役所に立ち寄ってからその店に行こうという事になった。

 これが、その会津若松市役所本庁舎の正面だ。
a0087378_916444.jpg
 ここに写るのは旧館で、昭和12年建設とのことだ。建設当時には「近世復興式の豪壮な建築様式」といわれたそうで、特に壁面の装飾に趣向が凝らされている。
 竣工の年昭和12年(1937)には支那事変(日華事変)が勃発し、それ以降の建設工事は諸々の統制下に置かれたという。従って、戦前の本格的な洋風建築としては最後の時期の建物ということになるとのことだ。
 今でもここは現役。議場や市長・副市長室、市民課窓口など、市の業務の中心的な役割を担っているとのことだ。この後ろには、昭和33年に新館が増築されている。

 他所から来た者にとっては、今となっては会津を代表する歴史的建造物の一つとしての景観に着目してしまう。しかし、日常的に暮らす方々にとっては、役所の機能としての利便性や建物の安全性が課題になるようだ。
 「<会津若松市長選>あす告示、争点は新庁舎 市民に伝わる論戦期待【河北新報(2019/7/27)】」によると、今回の市長選では、新庁舎建設に絡んでこの建物の保存についても争点になっていたとのことだ。
 https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201907/20190727_61028.html
 その選挙結果は、現職の室井照平氏が当選。
 それで、16年度策定の市総合計画に基づき、新庁舎は2025年度の完成を目標に、文化財の価値がある一部建物(旧館)を残し、本庁舎跡地に整備することになるようだ。
by shingen1948 | 2019-08-17 09:17 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 前回、福島市の武徳殿とのかかわりで「仙峡閣が登録有形文化財(建造物)に登録」の報道について整理したところだ。
 ついでに、「会津日新館天文台跡」が日本天文遺産の第1号に認定されたことについても整理しておこうと思った。
 各報道がこの事を報じたのは半年前の3月だ。ネットでは県内の各報道記事は確認できなくなったが、以下の河北新報の記事が今でも確認できる。
 https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201903/20190314_63005.html

 「<天文遺産>会津日新館天文台跡が第1号に 江戸時代建造、国内で唯一現存【河北新報2019/3/14】」
 
 「日本天文学会は13日、新たに設けた日本天文遺産に会津若松市の会津日新館天文台跡など2件を認定したと発表した。江戸時代に国内で10基ほどあったという天文台のうち唯一の現存で、歴史的価値の大きさが評価された。
 天文台は、1803(享和3)年完成の会津藩校「日新館」の施設としてほぼ同時期に建造されたとみられる。上底約10メートル、下底約22メートル、高さ約6.4メートルの台形の構造物で南側半分だけが現存する。
 当時は観台(かんだい)と呼ばれ、上部に上って星の観測などをしたらしい。文献が少なく不明な点は多いが、日本独自の天文学の発展を示す重要な史跡と認められた」

 他の一件は、公益財団法人冷泉家時雨亭文庫(京都市)所有の藤原定家(1162~1241年)の日記「明月記」(国宝)とのことだ。

 他の報道とも照らし合わせると、江戸時代の天文台は、幕府や水戸藩、薩摩藩などにもあったのだが、構造物が現存するのはここしかないということのようだ。
 江戸時代の天文台は近代の天文台とは異なり、星の観察のほか、暦の基準となる冬至を確定するため、太陽の動きを計測したりしたという。
 その天体の位置を測定し、正確な暦を目指したという当時の日本の天体観測の様子が体感できる貴重な遺跡ということが評価されたということのようだ。

 この「会津日新館天文台跡」は、会津藩校「日新館」に併設された天文台だ。
 先に、大河ドラマ「八重の桜」視聴とかかわって、会津藩校「日新館」を実感する手段として家族を案内して散策した事を整理している。

 〇 八重の桜番外編~天文台跡を訪ねる
 https://kazenoshin.exblog.jp/18360617/
 〇 八重の桜番外編~天文台跡を訪ねる②
 https://kazenoshin.exblog.jp/18371710/
 〇 八重の桜番外編~天文台跡を訪ねる③
 https://kazenoshin.exblog.jp/18375671/

 案内板には「江戸時代の天文台は近代の天文台とは異なり、星の観察のほか、暦の基準となる冬至を確定するため、太陽の動きを計測したりした」ということにかかわる以下の解説があるのだが、見逃している。
 「天文台は、つねに星の観測をするところであったが、特に、毎年、冬至の日には、学校奉行、天文方の師範・暦家が集まり、晴雨・考暦を編したところで、重要な施設の一つであった」

 会津若松市は今回の認定を機に見学しやすい周囲の環境整備に努めるとのことなので、近寄りがたくなって「当時の日本の天体観測の様子が体感できる貴重な遺跡」という側面が薄れる可能性はありそうだなと思うが、どうだろうか。
by shingen1948 | 2019-07-27 10:27 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 県内各報道は、文化審が19日に以下の5か所18件の建造物が新たに登録有形文化財(建造物)に登録するよう文部科学相に答申したと報じていた。(2019/7/20報道)
 〇 会津若松市の福西本店七件、竹藤(たけとう)四件、仙峡閣一件
 〇 伊達市の旧熊倉家住宅二件、
 〇 大熊町の石田家住宅四件

 信夫の里を中心に散策している者としては、この中の近隣の伊達市の旧熊倉家住宅も気になるところだが、仙峡閣も気になった。
 仙峡閣は会津若松市の芦ノ牧温泉にあり、入母屋造りの大屋根に千鳥破風を飾り、正面には社寺建築の細かな意匠が残る建物とのことだ。注目したのは、この建物が福島市の板倉神社にあった演武場「武徳殿」を移築・復元し温泉旅館に転用したということだ。

 福島市にあった武徳殿という事を頭において「武徳殿」を確認すると、明治28年(1895)に設立された大日本武徳会の支部道場ということであったろう事が想像される。また、戦前までは、地方の武徳殿は、現在の武道館に相当する機能を果たしていたとのことだ。
 その変質について整理したことがある。
 信夫山を散策して「信夫山の神々の変質」として整理した時に、「歴史地図(半沢氏)」の「戦争と信夫山」に福島市の板倉神社にあった「武徳殿」について以下のように紹介されている事にふれていた。

 「板倉神社近くの武徳殿は昭和13年に黒沼社の裏手に東郷山乃木庵修養道場として移築さ
れ、軍国主義の一翼を担った。」
 https://kazenoshin.exblog.jp/4749112/

 更に、「信夫三山~松川と競馬場の情報⑤」で、この「東郷山乃木庵修養道場」とかかわると思われる「乃木庵跡」を散策したことについて整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/10657318/

 この時にふれた石碑は、乃木庵維持会が、昭和14年に二本松藩士の方の敷地寄付に対する感謝碑だ。
 乃木神社由緒に、中央乃木会についての以下のような説明がある。

 「時の東京市市長阪谷芳郎男爵は先頭に立って広く同志を集め、中央乃木会を組織し、乃木邸内の小社に御夫婦の御霊をお祀りしました。また、毎年9月13日にはその御前に祭儀を斎行するとともに青少年への研修会を開催するなど、御夫婦の精神を永世に伝えようという活動が活発に続けられていきました」

 半沢氏の歴史地図の「軍国主義の一翼を担った修養道場」との解説と重なると想像したところだった。
 この散策時には、昭和21年のGHQによる強制解散と日本政府による財産没収により消滅と勝手に想像していたのだが、実際には芦ノ牧温泉旅館として移築・復元されていたということなのだろうと思う。
 その価値は、現存する古い道場建築が少なくなっているため、文化財としての価値が高まっているという事なのだろうと思う。
by shingen1948 | 2019-07-22 11:47 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 前回は、他の情報から亀岡邸の情報を見つめ直した、単なる遊びの部分にふれたが、今回は、ちょっと真面目に、亀岡邸の完成時期にかかわる部分。

 「伊達市ホームページ」の資料では、亀岡家住宅の建築開始は明治16年とあり、20年という歳月をかけていると解説される。亀岡家住宅の完成というのは付属建物も含めての期間を指すようだが、亀岡家居住棟自体の完成も、一応明治28年とする。
 それを、新しい案内板では、この建物の建築年代を「明治37年頃」と精査している。そのことについて確認してみる。

 エピソードでは、飯坂の「なかむらや旅館」をみて大工棟梁を小笠原国太郎氏と決めたことになっている。その新館完成は明治29年だ。という事は、亀岡家居住棟の建設開始は、それ以降ということになる。しかも、小笠原国太郎氏は、明治30年まで天皇を迎える「花水館奥の間(御殿)」の建設に携わっているということもある。
 更に、エピソードでは、「手始めに倉座敷の造作を依頼し、その完成みて、すっかり技量にほれ込んで、亀岡家居住棟の建設を依頼した」ことになっているという。
a0087378_10264391.jpg また、「旧亀岡家住宅(大邸宅建設の推進)」によると、木造高層三階建ての建物に耐える土台にするのに、深さ3m巾1.8mの溝に玉石をいれて土搗きをしたという。その上に、4段重ねの御影石で基礎を固めたということだ。この工事に3年を要したという。

 ここに、江川氏が設計したということの年代的に見た条件を加える。氏が福島県の建築技師になるのは明治20年(1887)で、それから明治35年(1902)に岡山県に転任になるまでの15年間が福島県での勤務ということだ。
 このことも加味すると、亀岡家居住棟の設計と建設開始時期は、明治30年以降、明治35年より前というのが自然だろうと思う。後半は、会津での仕事が多かったということを考慮すればもう少し幅は狭まるかもしれない。

 他の情報と見比べると、完成が「明治37年頃」という精査は、かなり妥当性のある絞り込みのような気がする。
 今回の展覧会で、写真掲載された「明治35年大木材木店の領収書」・「旧亀岡家住宅設計図」とともに、「明治36年大工棟梁小笠原国太郎からの領収書・末尾」は、材木仕入れの支払いが明治35年、明治36年の大工への支払いが為されるということだ。その整合性も自然だと思う。

 「明治の擬洋風建築(草野)」では、主棟建立について明治16年焼失後、明治28年の再建という口伝を元にして、「ランタンやポーチを飾っている手法は本県では比較的早期に属するものといえる」として、「豪農住宅」として見た時の特異性を考察している。
 10年違ってもその考察に影響はなさそうに思うが、どうだろうか。 
by shingen1948 | 2016-12-09 10:27 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 前回は、亀岡邸の情報から他の情報をながめたが、今回は、逆に他の情報から亀岡邸の情報を見つめ直す。

 まずは、単なる遊びの部分。
 「信夫の里の旧家を訪ねて(島貫 倫)【歴史春秋出版】」の「なかむらや旅館明治館」について、「棟梁の目~ココがみどころ」という専門家から見た具体的な職人の技が二つ紹介されていた。
 その一つが、明治館の廻り階段を支える丸柱が上から吊っていることで、もう一つが、床の間の紫檀・黒檀・鉄刀木の三銘木配置と欅の床板に埋め込まれた黒柿の亀の埋木だった。
 その「欅の床板に埋め込まれた黒柿の亀の埋木」だが、旧亀岡住宅でも特徴の一つのようなのだ。
 これが、小笠原國太郎氏の得意技手もあり、遊び心でもあるのだろうと想像する。

 これにかかわって、伊達市広報誌「地域の魅力ふる里再発見」の「旧亀岡家住宅(隠れた縁起物)」に次のように紹介される。
 欅の間と隣の居間には、亀や鶴の彫り物を見つけることができます。これらの彫り物は黒柿の材を使い彫られたもので床板などに埋め込まれています
 また、「旧亀岡家住宅((銘木の数々②)」では、次のように紹介される。
 主人の間の続きの「茶の間」(家族居間)を見てみましょう。…中略… 床の間の床板や付け書院の棚板には、銘木の黒柿材を亀の彫り物にして欅材に埋め込んでおり、7匹の亀と1羽の鶴があしらわれています。
 出窓の欅の脇板にはブドウと木ネズミ(リス)が彫刻されています。

a0087378_10513652.jpg これは、「旧亀岡家住宅((銘木の数々②)」でいう「主人の間」から、続きの「茶の間」(家族居間)」をのぞいた写真だ。見学では気づいていないのだが、床の間部分にある細工が写りこんでいる。恐らく、これが欅の床の間にあるという黒柿の鶴と亀の彫り物が写り込んでいるものなのだろう。
 次回見学の機会には確認してみたいものだ。その時が、楽しみだ。

 なお、「旧亀岡家住宅(隠れた縁起物)」でいう「隣の居間」というのが、「主人の間」のことで、「続きの「茶の間」(家族居間)」のことを「欅の間」と表現しているようだ。
 また、柿材は、隠れた縁起物という観点からすると、「財をかき集める」という縁起物なのだそうだ。恐らく、先にふれた3階へと続く階段の傷の部分の柿の彫りものにも、床の間の黒柿の板にも、その意が込められているのだろう。
by shingen1948 | 2016-12-08 10:52 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
a0087378_11291761.jpg 今回、家族と亀岡邸に出かけ、偶然にもその無料開放で、内部を自由に見せていただけただけでなく、詳しい資料をいただくことができた。
 それで、亀岡邸を詳しく見せていただくだけでなく、その設計者や棟梁の仕事まで確認させていただいた。
 特に、設計者である江川三郎八氏については、岡山の情報を元に、福島での仕事を確認したいものだとずっと思っていたところだった。
 棟梁の小笠原国太郎氏については、全く手持ち情報がなかったが、氏の仕事とされる建物については散策したことがあったので、視点を変えてみるきっかけとなった。

 今回、頂いた資料の情報を確認するのに、いろいろな情報に接したのだが、気になった事がいくつかあった。散策するのにいつもお世話になっているので、気になりながらそのままにするのは、かえって失礼かなということで記させていただく。あくまでも自分の備忘録として。

 「ふくしまの文化財を見る(明治~現代)」の「亀岡住宅」解説文の「伊達町から移築されました」とあるのは、明らかに「伊達崎村(現桑折町伊達崎)から移築」の誤りだろうと思われる。なお、「性格」の項の「豪農の住宅 ※県指定重要文化財」は、今年度からは「国指定重要文化財」となるはず。

 「福島県 近代化遺産 市町村別一覧表」の福島市の15「なかむらや旅館新館」、17「花水館奥の間(御殿)」の「施工者」欄は、空欄になっているが、ここが「小笠原国太郎」氏の可能性が高いということだろうか。
 特に、「なかむらや旅館新館」は、その確からしさの確率が高いように思う。

 郡山市の2「金透記念館(旧金透小学校)」は、明治8年建築で、設計者が増子義三郎氏・ 宗形彦八氏、施工者が今泉久三郎氏で、明治8年の創建のデータとしては、その通りなのだろう。しかし、「福島県土木史(平2.3.31/県土木部)」の建設年表では、明治27年(1894)の金透小学校の建設設計を県技手江川三郎八としている。現金透記念館は、明治27年(1894)以降の建物をモデルとしているはずだと思う。
 素人の散策ではどうでもいいことだが、時代の流れとの関係を捉えようとする場合は、明治27年モデルを考慮することが必要なのかもしれないとも、……。
by shingen1948 | 2016-12-07 11:32 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 「明治の擬洋風建築(草野)」に、「旧亀岡家住宅」の項に、各階ごとの「天井伏」という全体の天井構成が分かる図が載っていた。時々眺めていた冊子だが、その事に気づいていなかった。これを見ると、全体的なバランスを考慮し上で、それぞれの天井が造作されているということのようだ。

 今回の見学では、建物の天井についてしっかり見てきていない。次回見学の視点のために整理しておく。
 先にいくつかの天井部についてふれている。
 パンフレットの紹介に基づいて、江川三郎八氏の仕事としてのかかわりで整理していたものだ。
 しかし、この部分は設計者と大工が阿吽の呼吸で造作を進めるものかもしれないと思えてきた。当時の設計者と施工者の関係はそういうものだとの解説も見たが、この建物の設計者も施工者も共に宮大工であるということもある。
 それで、先に施工者である大工の小笠原國太郎氏の仕事を確認してから、残りは整理していくことにしようと思ったのだ。

 既に、設計者の江川三郎八氏の仕事として整理したものは、以下のようだ。
 「亀岡邸の設計に江川三郎八がかかわる⑲:福島の建築(12の2)」で、八角形の尖塔内部全体を設計者の仕事としているが、その天井部。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23385023/
 「亀岡邸の設計に江川三郎八がかかわる⑳:福島の建築(12の2)」では、洋間の中央折り上げ傘板張り天井とかという天井。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23397356/
 「亀岡邸の設計に江川三郎八がかかわる21:福島の建築(12の2)」では、廊下と便所、それに居間の「折上額縁格天井」とかいう天井。「明治の擬洋風建築(草野)」の「天井伏」図を見ると、主人居間も同様の天井のようだ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/23400166/
a0087378_1753405.jpg パンフレットの紹介の残りの天井を確認したら、一階正座敷天井の折上竿縁格天井と二階東座敷の床の間の天井だけだった。
 その内、床の間の天井は、特に設計者とのかかわりを記すゴシック体ではなかった。
 また、「明治の擬洋風建築(草野)」の「天井伏」図を見ると、折上竿縁格天井とされるのは、正座敷だけでなく、脇座敷と次の間も同様の天井のようだ。

 なお、パンフレットの紹介にはないので想像でしかないが、階段の螺旋状の工夫もこの天井の工夫とかかわった空間を確保するための工夫なのではないのかなとの素人の見方をしている。
by shingen1948 | 2016-12-06 17:55 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 結局、医王寺の建設工事と小笠原國太郎氏とのかかわりは確認できなかった。
a0087378_644086.jpg ただ、その確認の中で自分の視点が薬師堂に向けられた時、医王寺についての自分の偏った見え方に気づいた。それは、「奥の院薬師堂」についての思い入れを感じながら、理解できていないこととかかわる。
 (手持ちの写真は家族が写りこんでいるので、この「奥の院薬師堂」の写真は、福島市の観光のページからお借りした)

 医王寺と言えば、中世初期に信夫郡を支配した佐藤氏の菩提寺だとか、境内には佐藤基治とその子佐藤継信と佐藤忠信の墓とされる板碑が残るとか、後年、奥の細道の松尾芭蕉が訪れたというイメージしか持ち合わせていないということにかかわる見え方しかなかった。
 多分、解説する人にとっては常識的な見え方なのであえて説明しなかった知識を、自分には持ち合わせていなかったということなのだと思う。

 そもそも医王寺の「医王」というのは、辞書的には、医師が病人を救うように、仏法を説いて人の悩みをいやすところから、仏・菩薩のことを意味するとのこと。薬師如来の異称という意味もあるようだ。(デジタル大辞泉)

 その「薬師如来」を確認すると、その正式名は「薬師瑠璃光如来」といい、また「医王善逝」・「大医王仏」とも呼ばれ、きわめて現世的な病気を治す功徳のある仏としているようだ。

 これらの予備知識を頭において、改めて「医王寺」を確認すると、「真言宗の寺院で、山号は瑠璃光山。中世初期に信夫郡を支配した佐藤氏の菩提寺」とある。
 その山号までも瑠璃光山ということで、薬師如来にかかわっているということだ。
 つまり、この「瑠璃光山」という山号と、「大鳥城記」がいう「奥の院薬師堂」、「平野の伝承とくらし」がいう「鯖野薬師堂」の薬師瑠璃光如来が鎮座する地とかかわるということなのではないのだろうか。

 医王寺本堂には本尊として大日如来が祀られているそうだが、確認していくと、この「薬師瑠璃光如来」が重要な仏様らしいということだ。
 そういう視点を加えることで、明治37年(1904)に焼失した「奥の院薬師堂」を、大正4年(1915)12月に竜和和尚が大勧進となり再建されるという事業が、本来的な意味を持つ見え方で眺められるようになったのだと思ってる。
 次の機会には、この「奥の院薬師堂」をよく見てきたいなと思っている。
by shingen1948 | 2016-12-05 09:43 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 飯坂温泉の「なかむらや旅館」「旧花水館奥御殿」が、小笠原國太郎氏の仕事らしいという事で整理してきた。
 他に「医王寺本堂」の建築も氏の仕事との紹介がある。しかし、手持ちの散歩資料からは本堂の明治時代改修が読み取れないでいる。
a0087378_851511.jpg 「大鳥城記」では、確かにこの寺は何度も火災に遭っているようで、そのたびに再建を繰り返していることは読み取れる。元禄7年、享和3年、文化2年等の本堂や客殿の建立は、古文書で確認できるという。これらは、火災による焼失だろうと想像されるようだ。
 ただ、現在の本堂や庫裏は、文化2年に建てられたものと推定されているようだ。この建物の改修が明治時代に行われたということなのだろうか。

 この寺の明治から大正にかけての気になる改修がある。
 大正4年(1915)に行われたといわれる薬師堂の改修だ。
 明治37年(1904)に「奥の院薬師堂」が焼失し、大正4年(1915)12月に再建されたことが記される。しかも、「竜和和尚が大勧進となり再建した」との表現で、大きな仕事であったことが想像される。
 こちらなら、年代的にはあいそうに思う。

「平野の伝承とくらし」では、「大鳥城記」で「奥の院薬師堂」と紹介される薬師堂を「鯖野薬師堂」と称して、次のように解説される。
 この薬師堂は、佐藤基治がいたく薬師仏を信仰して、弘法大師の御作といわれる薬師仏の尊像と、玄心僧都の献上した薬師仏の尊像とを鯖野の里に御堂を建て併安し、これを鯖野薬師と称したのである。医王寺の門を入ると老杉が立ち並ぶ古い参道をまっすぐに進むと、杉森の中にこの御堂がある。 基治が建てた御堂は結構の贅美をつくした実に立派な御堂であったが、明治36年火災に罹り、さしも壮麗な御堂が烏有に帰してしまったのである。それから久しく再建できないでいたが、大正4年12月竜譲和尚が大勧進となり、非常な苦心努力を払って再建したのが今の御堂である。
 
 今のところ、福島側からの散歩情報では曖昧なままで、確認がとれていない。
by shingen1948 | 2016-12-04 08:52 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)
 街づくりの変革のスタートの方が、明治21年(1888)「飯坂大火」より早いのが分かるのは、花水館の屋号変更や「なかむらや旅館」への売却委譲、それに飯坂大火の時間経過だ。その事については、先の「ふくしまの建築42~花水館②「不易と流行」」の後半に記している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/11420930/
 中村屋が土湯から飯坂に移るのは明治22年だが、「花菱館」の屋号を「花水館」に改めたのは、明治20年だ。
 花水館は、明治20年に土湯から移転する計画のあった中村屋に旧建物を売却する見通しで、現在地に移転しているのだ。この時に、再出発するという意味で「花水館」と屋号を変えたということだ。
 そして、飯坂大火が起きるのは明治21年だが、この時、幸い売却予定の建物が残っていて、鯖湖湯再建も順調に進んでいたということだ。
 この大火の時には、計画通りに事が進んでいて、その滝の湯が発展したという経緯のようなのだ。

 明治時代の飯坂大火は、大概この明治21年(1888)の飯坂大火とするが、鯖湖地区では明治13年(1880)にも大きな火災があった事は、「堀切邸」のパンフレットの「堀切家年表」で分かる。
a0087378_10304233.jpg その火災で「堀切邸」の母屋が焼失し、翌年に再建しているということだ。
 その年表の明治16年(1883)に、堀切良平上飯坂村ほか5村の任命戸長になるとある。これが、先に「この時期の飯坂の変革とも取れるうねりに堀切良平氏がかかわり、大火の焼け跡整備に私財を投げうって奔走したようだ」としたこととかかわるのだろうと想像する。
 その変革に伴う建築に、小笠原國太郎氏がかかわっていたという関係性だろうと思われる。

 なお、この堀切邸については、「飯坂散歩② ~ 堀切邸」で整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/11853378/
by shingen1948 | 2016-12-03 10:28 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)