しかし、「松川のあゆみ」でその経過を確認すると、架設の運びになるのは、信夫橋架設着工を好機ととらえた戸長杉内省三郎氏が、日夜当局と交渉を重ねた結果、その熱意が通じて許可がおりたという事のようだ。
建設のための地盤調査も独自に行い、その結果を当局に報告しているともある。
つまりは、この松川橋架設の仕事は実質的には県令三島通庸氏の仕事ではなく、信夫橋架設と国道整備の機を使った松川村の仕事ということのようだ。
案内板の解説の戸長杉内省三郎氏の300円寄付と松川村の780人の人夫寄付は、このこととかかわるのだろうと思う。
「松川村の780人の人夫寄付」だが、これは「松川のあゆみ」の情報を見ると石材運搬作業のようだ。
案内板にあるように、石材は浅川町五斗内から切り出されたとのことだが、ここから大八車に積んで工事現場まで運ばれたという。村では、この石材の運搬作業に各戸2~3人の役夫を科したということだ。
なお、最近の「松川・宿場町まちづくり協議会会長の菅野善志氏」の話に、「石は、福島市御山の北を流れる川に架けるために切り出したものだったという」というのをみつけた。
「福島市御山の北を流れる川」といえば、河川名松川から想像するに同じ「松川橋」ということになるのだろう。
菅野氏の話では、浅川の石切り場から切り出したものの、その川に橋を架ける必要がなくなったので譲受けたとのことだ。
形式的には県の仕事なので、欄干に刻まれる代表者は、実質的な代表者戸長杉内省三郎氏の前に、県の工事担当の職員2名の名が刻まれているが、この眼鏡橋は松川村が主体的に架設した橋という事のようだ。
この誇りが、現時点まで「うつくしま土木建築歴史発見」にメンテナンスフリーといわしめる保存状態にかかわっているような気がする。
この方は、明治18年7月に完成した「十三眼鏡橋」とも称された第2代目の信夫橋工事にもかかわっていたことが記される。
橋に刻まれた田村郡三春町の「松本亀吉」氏は、今のところ確認はできていない。
「八丁目家主一欄」の中町に「石工 亀吉」が記されるが、この方と名前が同じだなと思ったが、かかわりあるのかどうかも分からない。
情報が得られるはずはないと思いつつ、「川俣町」・「石工」・「布野」をキーワードに検索すると、「街道Web」の「福島市の石橋(4) 柴切田川橋 (福島市飯野町)」に辿り着いた。
http://kaido.the-orj.org/hasi/siba1.htm
このページの後半に、川俣町の布野氏が信夫橋建設工事にも、松川橋の建設工事にも三春町の松本亀吉と共に参加していたことが、「福島市史」別冊「福島の文化」に紹介されているとの情報が記される。
更には、明治22年(1889)に架けられた川俣町の「旧壁沢眼鏡橋」は、故郷に帰った布野氏の「信夫橋架橋記念」であることが紹介されている。
「奥州街道:八丁目宿「眼鏡橋」のある風景」で記したように、「うつくしま土木建築歴史発見」では福島近郊の石橋として、旧秡川橋・松川橋・信夫橋、旧壁沢眼鏡橋が紹介されるが、この川俣町の布野氏が松川橋・信夫橋・旧壁沢眼鏡橋にかかわっているということのようだ。
検索の中で、川俣町の布野という石材工業所がかかるのだが、これらと関係するのかどうかは、今のところ分からない。
※ 2017/8/15以下を付け加わえる。
「川俣町の文化財」の「旧壁沢川石橋(眼鏡橋)」解説で、松川の眼鏡橋にかかわった布野氏について、以下のような詳しい情報を見つけた。
「設計施工者は布野宇太郎義成,弟源六義和兄弟で,布野氏は上杉氏家臣の家柄でその祖は西根堰工事の功労者と伝えられている。兄弟は「ぷっちの宇太郎,字彫りの源六」とうたわれた当地方きっての名工で、宇太郎の作には信夫橋(眼鏡橋)、飯野新橋、金華山の灯台等がある」
参照させていただいた「街道Web」が、柴切田川橋と命名した飯野町の「広表のめがね橋」について、次のように締めくくられていた。
「もしかすると、この柴切田川橋も布野氏の手によるものではなかろうか。そう思えてならないのである」
これが、「川俣町の文化財」がいう「飯野新橋」だと思う。
つまり、「川俣町の文化財」では、「街道Web」さんが想像したように柴切田川橋は、布野氏の仕事だと言っているということだ。
なお、この「旧壁沢川石橋(眼鏡橋)」は、現在機織神社の大清水の池の間に架設されているとのこと。
ここは機織御前堂旧跡地で、明治12年機織神社と改称し明治43年に現在の御庵館の地に移されたのだとか。
旧壁沢川石橋(眼鏡橋)」は、明治22年の川俣、月舘間の県道工事の際に、壁沢川に架設された橋だが、大正2年8月の大洪水で下流側半分が流され,さらに翌3年軽便鉄道が敷設された時に幅員を広くし修理補強されたという。
昭和50年県道拡張工事により取払われる運命にあったのだが、地元有志の方々や関係機関の尽力により大清水に神橋として復元されたということだ。
「奥州街道:境川から八丁目村へ⑦」で整理した案内板の説明と「松川のあゆみ」の情報を重ねて眺め、今回の散策で撮った写真を使って整理しておく。
案内板の説明では、西光寺住職平林宥京の書による松川橋の銘と工事関係者名が橋に刻まれているとのことだ。


「街道Web」の「福島市の石橋(3) 松川(福島市)」によると、竣工日である「明治18年8月」が刻まれているとのことだ。
http://kaido.the-orj.org/hasi/matsu1.htm
案内板にある工事関係者名が刻まれるのは、向かい側の「まつかわばし」と刻まれた西光寺側(北西側)の反対側(北東側)の欄干らしい。ただ、こちらは判読が難しいらしく、「街道Web」でも資料に頼るようだ。
案内板では「信夫郡松川村他四カ村戸長杉内省三郎他6名の工事関係者」となっているが、「松川のあゆみ」の情報によれば、以下のように刻まれているとのことだ。
右工事担当 福島県八等出仕 原口 秋之
同 九等雇 中桐 有三
信夫郡松川村外四ケ村戸長 杉内省三郎
用掛 尾形 有蔵
鈴木忠兵衛
浅井吉五郎
丹野 徳
職工 田村郡三春町 松本 亀吉
その記事に張り付けたのは今回の散策時に撮った写真だが、震災対応で平成24年に屋根や外壁を改修しているとのことだった。

見ただけで違いが分かるのは、屋根の色だ。奥の本堂の屋根の色は現在と変わらない。恐らく、平成4年の改修時に塗り替えられたものと思われる。それ以前の写真を見ると、この「大般若堂」の屋根と同じ色だったようだ。
手持ち資料の西光寺を描いた図を見ると(いつの時代かは分からないが、少なくとも本流が南側を流れていた時代ではある)、門前の水路には滾々と水が流れていたようで、そこに現在も残る石橋が架かっていたようだ。
現況では西光寺の北側が水原川本流になっているが、この写真の駐車場部分も含めて、低地になっていたようだ。先の耕作地だったのだろうという想像はそれほど違っていないような気がする。
どこかで気になっているのが、「奥州街道:八丁目村から天明根村辺り」で整理した、天明根村名主検断遠藤佐平氏の「川岸屋」がかかわる風景だ。
ここでも用水路とのかかわりでの水路を探っているのだが、こちらもはっきりしなかった。
天明根村の水路にこだわって風景を眺めているのは、寺小屋情報にあった西光寺の平林宥京氏の弟子で、明治10年69歳で没したという菅野伝七氏の水車庵が探れないかという思いからだが、今のところは不明のままだ。
この方、鶴斎と号し篆刻の名人だったとのことだが、晩年隠居して水車業を営みながら寺小屋を開き指導をしていたとのことなのだ。
「八丁目あれこれ」では、二本松藩国家老丹羽守に丹羽の水晶の雅印を篆刻して、その手腕は江戸にまでその名が馳せられたとある。
こちらの紹介では号は普斎、通称次郎右衛門、伝次、伝七とも称したとある。明治の初めに松川では有名な田嶋氏漢字を学んで号を鶴僊と改めたの紹介だ。

「新堰改修碑」
新堰ハ水原川下流ヲ横断スル處松川橋ヲ架
シ四季清流ヲ止メ西光寺河原ノ一風致タリ防火用
水トシテ亦頗(すこぶ)ル重要ナリシカ土俵止ニシテ年々水
害ニ遭ヒ修理容易ナラス加フルニ上流数個所ノ堰
ハ逐次改修セラレ水量愈々少キニ至レリ干時大東
戦争滋二三年食料増産要切ナルモノアリ此現
状ヲ遺憾トシ速ニ国家ノ要請ニ應ヘントシ昭和十
八年堰下相諮リ改修ノ議ヲ決シ町富局ニ陳情町會
ノ議決ヲ以テ県ニ申請補助工事トシテ採襗セラレ
工ヲ起シタルモ資材ヲ費シ茲ニ竣工シタルモノナリ
昭和20年1月建立
題額並撰 信夫郡松川町長 阿部巳之吉
信夫郡松川町書記丹治一郎
石工 菅澤 上〇
この新堰は、現在の風景の中では、水原川の本流から分水した堰が眼鏡橋を通り、本流に戻るその先に水門があって、そこからまた分水されていく風景という風に見える。
しかし、この時代の水原川の本流は西光寺の南側の流れだ。その時代の風景では、現在の本流に戻るその先に見える水門が新堰の取水口という事なのだろうと思う。
ただ、その時代の水原川の本流も改修されたという事のようなので、この風景はその時に整備された風景が残っているという事なのだと思う。
地元の方の眼鏡橋について思いには、勿論、橋そのものへの愛着があるのだろうと思う。しかし、この新堰とのかかわりで、重要な水路に架かる橋という実質的に役割を担った橋という意識も強いのだろうとも思う。
足を一歩踏み入れてみて感じたのは、もう一つの思い、生活に潤いを与える親水公園という新しい見方も加わっているような気がするのだが、どうだろうか。
その中の「飯野八幡宮参道橋」はいわき市であり「神橋」は白河市であるが、松川橋と旧秡川橋の2つは福島市の石橋だ。また、県北地域ということなら川俣町の旧壁沢眼鏡橋を含めて3つの石橋が紹介される。
この川俣町の旧壁沢眼鏡橋の橋は、信夫橋と松川橋の眼鏡橋を手掛けた石工さんが、その記念として造られたとのことなので、福島にある橋とは因縁も深いようだ。
更には、信夫橋は「信夫橋の歴史」として別項目に紹介されるのだが、その2代目が13径間の石造りアーチ橋だ。
この2代目信夫橋が石造り橋に替えられると聞き及んだ地元民が、松川橋も石造り眼鏡橋にしたいと請願したことが、松川橋が誕生するきっかけだったとも聞く。
その時代、福島近辺の旧秡川橋以外のこれらの石橋は、何らかの因縁でのつながりを持ちながら架けられていったということのようだ。

その松川橋について、「うつくしま土木建築歴史発見」では、先に案内板の解説を元に整理したようなことが紹介されるのだが、「八丁目宿「眼鏡橋」のある風景」にかかわる情報として次の紹介部分が気になった。
「地元の人々からは眼鏡橋の愛称で親しまれており、往時はすぐ上流に建っている真言宗西光寺の大日如来と共に道往く人々の心を和ませておりました」
というのは、西光寺の川沿いに台座の石造物があったのだ。もしかかわるとするならば、ここに仏像が安置されていて、それが道往く人々の心を和ませていたと読み取るべきなのかなと思えたからだ。
ただ、今のところその確認はとれていない。
戦時中の供出かなとも思ったが、確認できたのは梵鐘供出だけだった。
前回は、「ハンドメ」の意味が治安維持をになう番所であるらしいことが分かったのだが、二本松側から眺めていると、いわゆる「口留番屋」とのかかわりが気になってしまう。
しかし、「八丁目家主一覧」図に描かれる時代のこの宿は二本松藩領である。「口留番屋」は、他領との接点側にあることを考えれば、石合町の先にある「ハンドメ」が、その役割を担っていると考えるのが普通なのだろうと思う。
奥州街道のこの先に福島藩があるだけでなく、こちら側には相馬街道がつながっているという状況だ。
治安維持の観点からは、宿の西側の米沢街道とつながりが気になる所だが、宿に入る手前には八丁目城址があり、その登り口付近が幕領時代から代官屋敷になっていたとのことだ。
この時代、宿の八丁目村側は二本松領内ということだ。領内の宿の入り口ということでしかないようだが、「八丁目家主一覧」図にはこちら側にも「ハンドメ」があったことが記される。
福島藩領と二本松領が接していた時代の名残という事なのか、全ての宿の入り口に番所があったということなのかは分からない。
その位置だが、「ハンドメ」が柵を意味していると勘違いしていたので、先に八丁目村検断名主兼帯渡辺権左衛門のお屋敷斜め前と記したところだが、これを訂正する。
こちらの「ハンドメ」は、八丁目村検断名主兼帯渡辺権左衛門のお屋敷前にあったということになるのだと思う。
※ タグだが、今まで、「奥州街道・地域の散策・松川」としていたところだが、八丁目宿にかかわる地域の散策の整理になっているので「奥州街道・八丁目宿・松川」というふうに修正したい。

この櫻内家には、誰が休泊していたのかを知らせる木製の関札や、諸藩の大名が宿泊休憩した記録「御休泊帳」が大切に保管されているという。
それらの記録によると、松前藩や仙台藩、津軽藩などの諸藩の大名が宿泊休憩したという。
その参勤交代の行列が宿場に到着した際は、宿場端に置かれた「ハンドメ」という治安維持をになう番所まで出向き、本陣の主人をはじめ名主、検断など名衆が名を連ねて大名を迎えたとのことだ。
ここに出てくる「宿場端に置かれた『ハンドメ』」は石合町の先のことであろうが、「ハンドメ」の意味が治安維持をになう番所であるということも分かる。
今回の散策で確認したいのは、八丁目村検断名主兼帯渡辺権左衛門のお屋敷前の「ハンドメ」だが、同じ様な番所だということだろうと推測する。
こちら側は、二本松藩とのかかわりで口留番所にこだわってしまうのだが、幕末は幕領であったり二本松領であったりしているので、藩が接する緊張感のようなものとは微妙に違うのかもしれない。
この説明から、「ハンドメ」は、二本松藩の藩留番所かなと勝手に思ってみたりしている。
先の整理では、「ハンドメ」は治安維持をになう柵かなとイメージしていたので、その位置にかかわることとが微妙に違ってくる。
「としぼーのブログ」の「八丁目天満宮赤滝石」からの情報だが、この赤滝石については、このブログで知った。
赤滝石は梁川町で産出される地域限定の石材とのことだ。掘って直ぐは赤色をしているのだそうだが、風化によって様々な色調に変色するのだそうだ。
https://blogs.yahoo.co.jp/toshikatu0214/25067674.html
「几号水準点」については、散策中に思い出して確認したが、赤滝石については散策中には思い出せなかった。思い出したのは整理する段階だ。

ブログ記事によると、中央部分は近年になってコンクリートで作り直したようだが、他の部分は正真正銘の赤滝石とのことだった。
赤滝石については、「福島建設工業新聞」の「10月の槌音(2013.10.30)」で詳しく解説さている。
伊達市梁川町で産出される地域限定の石材赤石の通称が「赤滝石」とのこと。
神社・寺院参道の石畳・鳥居・石塔・墓石をはじめ、河川・水路の護岸、住家の塀・土蔵・風呂釜など日常生活に不可欠な石材として活用されてきたという。
この岩石は約2400~1600万年前の頃の火山噴出物が主な構成物質の凝灰岩の岩石で、この岩石層は霊山層と呼ばれているとのことだ。
この石材の使用範囲は、県北一円から宮城県南部にも及んでいるとのことだ。
昭和30年代までこの赤石の産出および製品販売は貴重な地場産業だったそうだが、昭和40年代以降の高度経済成長とともに海外産石材に押され、赤石の石工は廃業を余儀なくされたのだとか。
それに伴う課題が、この石材で構成された文化財の修理保存だという。この原材料の調達だけでなく取り扱える石工の確保が難しくなっているのだとか。
そんな中、今回の東日本大震災で倒壊した県史跡名勝に指定される梁川町八幡神社境内の厳島神社入り口にある鳥居とそり橋が、これまでと同じ赤石で見事、修復されたという。
その一つが、几号水準点。
街道筋を散策するのに基本的にお世話になっている「街道Web」によると、天満宮の鳥居の右側の根元にその几号があるということだった。
震災後、壊れて取り払われてしまったものもあるとのことだが、確認するとここは健在だった。

「明治8年(1875)、政府は内務省に命じて東京~塩釜間の測量を実施した。測量と標識設置は、イギリスから招いたマクヴィン技師の指導で行われたためイギリス式となった。すなわち、旧奥州街道に面した所にある既存の鳥居、石碑、石灯篭など不動の構造物に「不」に似た記号を刻み、この横棒の位置を標高としたのである。
これを「几号水準点」(きごうすいじゅんてん)と言う」
なお、この「几号水準点」情報は「街道Web」サイトの「寄り道Web」→「脇道Web」→「几号水準点 明治時代の測量の痕跡を辿る」→「2本宮→福島」から拾える。
http://kaido.the-orj.org/yori.htm