
気を感じて伏し拝むということからすると、その拝殿が北の山々を背負っていることを意識したのだ。
その山々には、先に散策を整理した湯野西原廃寺跡があり、その後ろに地元の方が高寺跡と考える山がある。
湯野西原廃寺は、マホロンの「福島の文化財」によると、「山階寺(奈良興福寺)の僧智興が信夫郡に開いたと『類聚国史』に記される『菩提寺』というお寺」と考えられているとのこと。また、「類聚国史」には、この菩提寺は天長7年(830)に定額寺(準国分寺)に昇格したとあるという。
また、この「山階寺の僧智興」という方が、慧日寺の徳一と興福寺で同窓であり、創建は、廃寺の金堂規模の大きさの考察から、慧日寺と同時期と推定されているとする。
その寺の創建の処には、何か尋常ならざる特別な力の源のようなものが宿る処とかかわっているのではないかという勝手なイメージを持っている。
その勝手な想像の元になっているのは、古くから日本人の基層となる信仰は、精霊崇拝・アニミズムという自然崇拝だということとかかわる。自然の山や岩、木、海などに神が宿っていて、尋常ならざる特別な力の源は太陽、山河、森林、海等から石のようなものにつくとされるとか。
その尋常ならざる特別な力の源を神力と呼べば、その神力がつきやすい石を磐座として祀り、ここに神を降臨させ、その「依り代」と神力を祭りの中心としたとか。
今年になって急に意識するようになったのは、位置的にはばらばらだが、確かにそんな感じの処があったよなと、散策したことを思い出していることとかかわるような気がする。

不動寺とかかわって、整理する。
この寺は真言宗の寺であり、その歴史を刻むようだが、「福島県の地名」では、信夫郡菩提寺の道場を再興した寺でもあるというのが定説だとする。
その山の高寺堂菩提寺が、西原廃寺だ。この寺は、北原廃寺、高寺廃寺などと称されていたが、現在は県指定史跡公園に指定され、西原廃寺と称されている。
この高寺堂菩提寺は、山階寺(奈良興福寺)僧智興が創建した寺で、「類聚国史」によると、天長7年(830)定額寺(準国分寺)に昇格している。
「福島県の地名」では、西原廃寺の遺物を次のように紹介する。
遺物は、瓦・土師器・須恵器・黒色土器・円面硯・銭貨等。
瓦は、軒丸瓦3形式4種、軒平瓦2形式3種、6弁8弁蓮華文軒丸瓦、素文顎部円形押圧文軒平瓦は、国見町徳江廃寺でも出土、創建時の瓦は、腰浜廃寺系の影響を受ける。
不動寺案内板の説明は、時の権力者とのかかわりについて紹介する。不動寺になってからか、その前身菩提寺の時かはよく分からないが、その盛衰は、想像に難くない。
1171年頃には鎮守府将軍藤原秀衡公(平泉)が大檀那となり、当地方祈願所・菩提寺としてから栄えたとする。
その嫡男康衡が公の命に背き、源義経を弑逆したため、鎌倉勢の攻めにあい滅亡とも。この時、大鳥城を始め秀衡公ゆかりの当寺も堂塔伽藍ことごとく焼失した(1189年―文治5年)とする。
その後も、寺の名も5度変わり、幾多の変遷を経て、江戸時代に昔の不動寺にかえり現在に至っているとする。
なお、「福島県の地名」に、天文22年(1552)の「晴宗公采地下賜禄」に「伊達郡湯村郷の内として『ほたひ寺分』とみえ、これが智興の後身か」との紹介がある。
「ゆの村」では、不動寺の薬師堂の旧地と紹介する。明治5年(1872)の古地図では薬師堂がここに描かれているという。
「福島県の地名」では、「当廃寺(西原廃寺)の南東1㎞に薬師堂があり、古くから菩提寺薬師堂と伝えられていたが、現在は不動寺境内に移されている。」と紹介される。

今は墓地になっているここが、その菩提寺薬師堂の旧地らしい。
「ゆの村」では、古地図には北西奥の林が「御林」とあり、今でも米川を渡る道が存在するとも紹介するが、特色ある風景は見当たらない。
不動寺の案内から、このこととかかわりそうなことを確認すると、次のように薬師堂に「峰の薬師」と呼ばれる古仏を安置するとの紹介があった。
境内には「峰の薬師」と呼ばれる古仏を安置する薬師堂や居座り地蔵、観音塀に囲まれた中の「正和の碑」や旧三州刈谷藩陣屋一族の墓、老紅梅などが往時の歴史と由緒を物語っている。
ここの薬師堂を確認していくと、菩提寺薬師堂と関わるらしいこと、そこには古仏が安置されていること、明治になって、不動寺に移されたことが分かる。
そういった重さを不動寺の案内板では「『峰の薬師』と呼ばれる古仏を安置する薬師堂」といい、他の歴史あるものと同列に並べて表現する。そのことで、歴史的な価値を感じてほしいという願いを込めているようだ。
その時に、坊とのかかわりについて、やや慎重に取り扱った。ところが、「福島県の地名」を確認したら、すでに認知されていることが分かった。
西原廃寺付近には、山坊・白山坊・太子坊・上久坊・下久坊・久礼津坊などの地名が残る。
この辺りは北原村だが、概括的には明治時代に湯野村と合併し、「伊達郡湯野村大字北原」と字名に村名が残り、その下に先の地名が小字として残っていたという経緯だ。
そこから、湯野は飯坂と合併し、現在は「福島市飯坂町湯野」となる。ここに元の字が残ったり、小字が残ったりしているという状況のようだ。

ここは「白山」というふうに、散歩の中では、現在の字名からおおよその坊の地名の位置が想像できそうだ。
なお、湯野も村名が湯村だったり湯野村だったりした経緯があるらしい。

その中の太子坊にある太子堂が、ここのようだ。まだ確認していないが、「ゆの村」では、ここに応安の碑があると紹介する。高さ1.6m、南無阿弥陀仏と刻まれ、左下に応安2年(1369)があるという。
南北朝時代の北朝の年代ということらしい。
何を意味するのかはよく分からないが、楽しく古の想像に浸ることはできそうだ。

地名と関わるのだろうということで、西原廃寺近くの小字を確認する。
下窪を「下久坊」、上窪を「上久坊」、白山に「白山坊」、山坊は「山坊」というふうになっているようだ。
更に、「暮坪」が「久礼津坊」であることを想定し、薬師山に「薬師坊」を、日光院辺りに「太子坊」を想定しているらしい。
当然、御堂を預かる僧の住居がなければならないということで、その可能性を最大限に探ったということだろうか。又は、何らかの根拠があって、各小字には各坊があったという想定になったのかもしれない。
上窪・下窪などは、その地名にふさわしい窪地でもある。

違う可能性もあるなということで除外してみると、それでも残るのが「山坊」。西原廃寺からその山坊の方向をながめるとこんな感じだ。何の根拠もないが、勝手に礎石の発見などのロマンの可能性を秘めた地点と思ってみる。
現時点では、白山、上窪、下窪一帯から、布目瓦が出土し、白山では、礎石も出土しているということで、ここが西原廃寺とされているということのようだ。

なお、確認していて分かったのが、西原廃寺の字名が堂跡で、高堂跡とする所は小字らしいということ。(これは、昨年夏撮影写真)

菩提寺が西原廃寺と想定すると、その創建者は智興ということになるらしい。氏は徳一と興福寺で同窓ということであり、廃寺の金堂規模の大きさの考察などから、恵日寺と同時期と推定されているようだ。
この寺が滅びる時期については、幾つかの考えがあるようだ。
この高寺堂跡に建つ案内板では、「観応4年(1353)2月南北朝の戦禍にあい、この寺は灰塵に帰した」としている。
この高寺堂が滅びてしまう時を、南北朝時代とイメージするようだ。これは、「霊山軍記」の「暮坪の戦いで、南朝方が総崩れになった」とあることからのイメージということらしい。
南朝の北畠頼家が、霊山に立て籠っていた頃、この辺りでも、その戦いの影響を受けていたと考えられるようだ。霊山同様、ここの僧兵たちも南朝方として戦ったと想像されている。南北朝の激しい戦いは、結果として北朝勝利で終結するわけで、その時にこの寺は亡びたと考えるようだ。

山を降りながら、改めて自分の迷っていたコースを確認する。
今回は、西側から迷い込んで、ノイバラを避けながら登ってきた。
しかし、この道をまっすぐ下ると、先に断念したことのある今平神社へ続くようだ。
改めて今平神社脇の道を確かめる。

今回、左側の道を通って、一度西側に山を回り込んでから登ることになったが、右側の道を進めば、そのまま高寺堂跡にたどりつくということは、今にして分かること。
いくつかの見方があることが、もっとある。
不動寺の記録に、伊達信夫両郡に三つの大きな寺があった。それは、湯野村の高寺堂菩提寺と芽部寺と信夫郡の大蔵寺であるとあるらしい。その中の信夫郡の大蔵寺は、渡利にある寺であることと、高寺堂菩提寺がこの西原廃寺であることは、一致した見方になっているようだ。
残る芽部寺だが、「ゆの村」では、文脈から湯野と読み取っているようだ。
先に不動寺を訪ねて整理した時には、この芽部寺を霊山寺と想定している見方を参考に整理している。
個人的には、霊山寺、大蔵寺、そして不動寺の前身である高寺堂菩提寺ととらえたいような気はするが、何の論拠もない。

飯坂を散策したり、湯野を散策したりしたりした時に、この高寺堂跡にたどりつこうと何度か試みた。案内を受けずに自分の勘だけでたどり着きたいという思いがあって、これがなかなかうまくいかなかった。
今回も、茂庭策動の確認をかねて歩きまわった。やっとのことでたどり着けたという嬉しさがある。

ここから見える景色も、自分だけの特別なものと勝手に思っているところがある。
「ゆの村」には、高寺堂の伝説が紹介されている。
高寺堂が滅びてしまう時、寺の宝物としていた黄金千杯と朱千杯を朝日、夕日のさすところに埋めたというものだ。

これは、東南側から高寺堂跡とされるところを見ている。最初の写真が、南からだ。
昼の日はもちろん、朝日もさんさんと浴びるに違いない。

これは、この山を西側から見たところだ。回り込んで撮ったといいたいところだが、本当は、あちこちに迷い込んだ時に撮っていた写真の中の1枚。この山から、野生の動物がこの西側に広がる果樹園に下りてくるのを防いでいるようだ。電気柵のようだ。
それはともかく、この山なら、夕日もさんさんと浴びることだろう。

石碑が建っていて、そこに案内がある。
汚れや傷みでよく読めなかった上に、そこを補って読み取るだけの漢文素養が無い。不動寺縁起とする部分には曖昧さが残るが、おおよそこんな記載だったと思う。
人皇50代淳和天皇御宇 天長7年冬10月巳未日
山階寺僧智興建陸奥国信夫郡一区名菩提寺預定額寺例去去今
伊達郡高寺堂是也 其後数百年之内世代不詳
天保14年迎年法印隆明代
これは不動寺縁起である。観応4年2月南北朝の戦禍にあい、この寺は灰塵に帰したが、今も礎石基はここに埋没しており、山麓一帯の寺跡から出土する布目瓦とここから発見された建築用の金具は、当廃寺の立地を確かめる資料である。
昭和41年3月 飯坂町史跡保存会建之
前半の「不動寺縁起」とする部分は、「奥の細道散歩道」関係の案内所で紹介された「『日本記略』という古書に『山階寺(興福寺)の僧智興が陸奥信夫郡に菩提寺を建てた』とある」というあたりの記載と重なる部分だろうか。要は、湯野の不動寺縁起に、湯野には高寺堂菩提寺と芽部寺が存在していたことが記されているということのようだ。

ここから礎石が確認され、建築金具などが出土しているので、高寺堂菩提寺跡であるのに違いないということのようだ。
専門的な確実性については知る由もないが、ここは、北原高寺堂の地名でもあり、高寺伝説も残る地域での遺物の出土で、その可能性が高いと推定したのだろう。

先に訪ねた西原廃寺跡は、ここから南へ500mの所にある。
ここは、昭和47年(1972)に、西原字堂跡の地を発掘調査した結果、堂宇2棟が確認されたもの。これは、『日本後記』に記されている「名菩提寺」に比定されて、西原廃寺跡(県史跡)として基壇部が復元保存されたもの。

これは、茂庭策動の終点目印にしていた摩利支天様だ。

そして、こちらがトロッコ道の始点の地域で、ここを「暮坪」という。

ここを、新道からながめるとこんな感じで、ごく平凡な景色だが、この「暮坪」というのは、「久礼津坊」だったのではないかといわれているらしい。

それを、整理してみたのが、これだ。
その時に、「久○津坊」を読み取っていることが分かる。これを、暮坪とのかかわりで、「久礼津坊」と置き換えると、位置関係が見えてくる。
他に、太子坊・薬師坊・上久坊・○久坊(下久坊か?)・城山坊を読み取っている。
「久礼津坊」を暮坪に想定したことで、太子坊は、日光院辺りに想定できる。そして、薬師坊は薬師山を想定できる。少なくとも、案内板の作成者は、この辺りを西原廃寺とかかわって想像を膨らませて散歩してほしかったという思いを持っていたことが分かる。
「奥の細道散歩道」にかかわって、「不動寺」が由緒のある古い寺であると紹介される。そこでは、こんなふうに紹介されているのを思い出す。
ここには古碑があり、「日本記略」という古書に「山階寺(興福寺)の僧智興が陸奥信夫郡に菩提寺を建てた」ことが、記載されているという。これが不動寺と関わるらしいとする。更には、この菩提寺が伊達晴宗の頃まで存在していて、腰浜・高寺・徳江などが擬せられるとする。
そして、臆説の一つであるとしながらも、湯野廃寺もあるいはそれかといい、信達の歌枕が平安時代になって多くなることと関係があるとの推定をする。
更には、不動寺も関連付けて考える人もいると紹介する。
西原廃寺は、何度も散歩で訪ねたが、範囲を広げて整理し直してみたい。

鈴木啓氏が、霊山寺の由緒を推定するための資料として、福島市湯野の不動寺縁起に注目した。
その不動寺に立ち寄ってみた。
氏によると、類聚国史に天長7年(830)山階寺(奈良興福寺)僧智興が建てた信夫郡菩提寺が、定額寺(準国分寺)に昇格したとあるという。
ここに記載された信夫郡菩提寺が、昨日整理した西原廃寺であり、その後身がこの不動寺だということだ。

来てみて思い出したのだが、若いころ、近所のおばさんに連れられて、御開帳なるものに付き合ったことがある。何のどんな御開帳だったのかは思い出せないが、多分、何年かに一度というチャンスだったとのことだったと思う。
おばさんはありがたいという思いを全身に漂わせていたという漠然とした雰囲気だけを思い出す。
定かではないし、記憶違いかもしれない。ただ、ここに来たことがあるのは確かだ。
その頃、西原廃寺の名前は知っていた。しかし、その寺の由緒とか、その寺とこの寺が繋がっていることなどという意識は無かったし、興味もなかった。

寺前にある不動寺案内板には、いろいろと記載されているが、定額寺に昇格したことを含めて、寺の経緯概要を整理すると、次のようなことのようだ。
山階寺(奈良興福寺)僧智興が信夫郡菩提寺を創建する。
○ 802年 比叡山衆徒の兵火にかかり滅び、その後、弘法大師が道場を再興して真言宗の寺としたとする。(案内板)
○ 830 定額寺に昇格
○ 1171年頃 鎮守府将軍藤原秀衡公(平泉)が大檀那となり、当地方祈願所・菩提寺として栄えた。(案内板)
○ 1189年―文治5年の戦いで、大鳥城などとともに寺の堂塔伽藍も焼失した。(案内板)
その後、1313年に藤原秀衡公の功績を讃えた記念碑を建立され、寺の名も5たび変わり幾多の変遷を経て、江戸時代に昔の不動寺にかえり現在に至っているとしている。(案内板)
○ 1686年に現在の本堂は建立されたもの。(案内板)
不動寺案内板説明内容