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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

カテゴリ:◎ 水( 173 )

 結果的に、今回は「和算の最後の花を咲かせた」とされる方々のうち、「二本松の完戸政彜の後には、信夫の丹治賜庄作、尾形貞蔵、長沢忠兵衛、長沢辰蔵」の各氏を、「最上流宗統派の系譜」として整理している事になる。
 咲かせた「和算の最後の花」について紹介されるのは、今回整理の中心だった丹治庄作氏と尾形貞蔵氏の研究らしい。
 慶応2年時点で転距軌跡およびそれに伴う重心問題は和算の最高峰に位するとの紹介だ。
 三春の佐久間派のような華々しさは感じないが、しくしくと奥深い学びが継承されていたという事なのだろうと思う。
 数学問題に興味があるわけではないか、この「成果が、福島市の近郊の(例えば黒岩虚空蔵の)算額に今日も見ることができる」との紹介にふれると、見てみたいとも思わなくもない。

 さて、ここで佐藤元竜田氏、助川音松氏、安達の植野善左衛門氏の三氏が抜けているわけだが、前回、安達の植野善左衛門氏関連について少し触れた。
 助川音松氏については、磐城国田村郡船引の方で、明治24年1月、明治26年3月 に菅布称神社に他7名の方と算額を奉納していることが確認できる。
 ここまでで、佐藤元竜田氏の情報が確認できていなかった。
 ただ、ひょっとすると「土湯会津道を歩いてみる⑭~和算家と学校を意識する」でのちょっと脱線でふれた荒井小校長格佐藤元竜氏と同一人物ではないのかなと勝手な想像しているところはある。
 「田」が抜けた一字違いであることと、半沢氏の「歴史地図」にこの方が和算家で医師であったと紹介されていることだ。若石集会所付近に墓地・生家・資料所有者がプロットされているのを確認しているが、実際に確認ができているわけではない。

 「佐久間文庫 由来」の渡辺一の門弟として紹介される佐久間氏と完戸政彜氏以外の方についても確認したことを整理しておく。
 市野(市川)金助茂喬氏だが、「伊能忠敬測量隊員、高橋景保手附下役」との情報をみる。
暦局に出仕し、伊能忠敬の第5次測量に参加したとのこと。ただ、病気を理由に同測量の途中で帰府してしまったとも……。
 葛西通之亟泰明氏だが、江戸時代後期の和算家、暦学者小出 兼政氏の門人葛西通之丞とある方ではないのかなと想像する。師は洋学の暦学にも精通した方ということのようだ。
by shingen1948 | 2018-10-04 10:00 | ◎ 水 | Comments(0)
 白雲館の書庫「曵尾堂」文庫は、「覇陵の嗣台州の造営と命名」とのことだ。
 その命名の由来は、士官を求められた荘子が、死んで卜占(ぼくせん)用に奥深く蔵されるより、泥のなかをはい回る亀でありたいといった「荘子(秋水篇)」の故事にある【「白雲館墓碣銘(菅野宏)」】とのことだ。
 「その昔 福島大学の近くにあった図書館(渡邉武房)」によると、書庫「曵尾堂」の上面には大槻磐渓 の書になる扁額があったとのことだ。

 ここでは、この文庫を「熊坂台州(1739-1803)とその子盤谷(1767-1830)などが代々収蔵した蔵書で、白雲館文学活動の母胎 となった文庫」としている。
 その蔵書は、前回記したように、明治29年10月調査、その大正初年の写しの目録が残された(保原町史第五巻)とのことだ。
 その蔵書には、「曳尾堂圖書印」という蔵書印が押されていたようだ。その陰影は、「国文学研究資料館」の「電子資料館」の「蔵書印データベース」で確認できるようだ。

 その蔵書の内容だが、明清刊本には精良なものが多かったようで、昭和4年(1929)に先に記した山形の「曵尾堂」を調査した小川琢治博士の言を借りて、「經史集に渉っているので、學者の研鑚に利用される便宜は公立図書館より多い」いと紹介される。
 その利用規定だが、台州氏は「曳尾堂の壁に題す」と「曳尾堂蔵書目録の序」で、散逸の原因になる借覧を禁じ、館内での閲読を勧めているとのことだ。

 なお、古書に押された蔵書印は旧蔵者の経緯をたどる手掛かりにもなるものだ。
 「曳尾堂文庫」蔵書は、半沢家の零落で 昭和25年(1950)に散り散りになるわけだが、ネットを検索していたら、「曳尾堂圖書印」の蔵書印にかかわる次の話がヒットした。

 「阪巻・宝玲文庫の蔵書印(琉球大学附属図書館)」の中で、「琉球奇譚」に押された「半澤文庫」「曳尾堂 (えいびどう) 図書印」という旧蔵者の蔵書印につて考察している次のような箇所があるのを見つけたのだ。

 「半澤文庫」は、明治時代に山形の村山地方漆山の大地主であった半沢久次郎の印である。半沢は1万点を超える蔵書の持ち主として有名であったが、蔵書は戦後に農地解放で散逸している。
 「曳尾堂図書印」の蔵書印は、本来は江戸時代後期の豪農・儒学者熊阪台州(1739-1803)の曳尾堂文庫の印である。曳尾堂文庫は、幕末から明治ごろにかけて半沢へ所有が移った。  
 したがって「曳尾堂図書印」は熊阪が押印したように見えるが、高橋章則によれば「半沢氏が熊阪氏の蔵書印「曳尾堂図書印」を襲用し捺印していた」。また、『琉球奇譚』は熊阪の死後の 1832 年に刊行されているため、熊坂が購入したものではない。
 つまり、印鑑を引き継いだ半沢が押印したものである可能性が高い。

 ここで興味深いのは、白雲館の書庫「曵尾堂」文庫の所有が、山形漆山の半沢久次郎氏に移った時に、その蔵書印も熊阪氏から半沢氏に託されたということだ。
by shingen1948 | 2018-02-18 10:09 | ◎ 水 | Comments(0)
 前回整理でふれた旅籠「植木屋」だが、八丁目家主一欄には「植木屋文次郎」とある。この植木屋文次郎についての以下の八丁目文化情報がある。

 詩人植木鷗渓(植木屋文次郎)松川町本町植木屋茂平の長男。
 慶應元年生まれ、早くより田島敬久に師事し漢詩をよくした。漫遊日誌、伊勢参宮、西国三十三ケ所巡礼日記などに多くの詩を残した。いわゆる旦那芸ではなく実作者としての詩心があった。

a0087378_13273677.jpg この写真は、2009年の散策時に撮影したものだ。旧国道四号線と重なる大町通りを福島側から眺めている。

 右手に鉄の扉があってその先に蔵が写るが、多分、ここが八丁目家主一欄に名主杉内与三郎とある明治以降も代々松川村外4ケ村戸長でもあったお宅だろうと思う。屋号は穀屋とのこと。
 今回はここが名主杉内宅らしいと曖昧ながら言い切っているが、撮影時の散策ではそう言えるほどの自信もなかった。
 中町までの整理と違って位置情報としての側面だけではなさそうとのことで、より慎重になっていたこともある。

 その先のお宅が、検断問屋植木九郎右衛門家だった所らしい。
 半沢氏の歴史地図では「掲示板、高札事務所」とある。ここに高札があったのだろうと思う。名字は植木だが、屋号は大森屋だったらしい。
 福島に支店を設けて江戸福島間を往復していたという飛脚問屋島屋の中継地点として八丁目に文久元年大森屋が記録されているとのことだが、この情報とも重なるのだろうと想像する。これが明治4年まで続くそうだ。
 検断問屋植木九郎右衛門氏だが、その後の松川村積銭所・鉱業社など、金融関係などの実業関係にその名を記されるようだが、八丁目文化情報にも、その名を見かける。

 歌人植木高栄(九郎右衛門)字本町大森屋文吉の長男。
 最初西東弘栄の高弟であり、更に東都の大家黒田清綱に師事して歌道に精通しその秀歌は廔「庭たつみ」にあらわれた。口語歌人秀文の父。

 その口語歌人秀文氏については、次のように紹介される。

 植木秀文(文右衛門)明治39年6月10日生まれで、26歳の若さで亡くなった。
 没後学友たちによって短歌遺作集「赭土(あかつち)」が出版され、松川泉短歌会の同人によって歌碑が建てられた。
by shingen1948 | 2017-12-10 13:31 | ◎ 水 | Comments(0)
 平成21年(2009)年の散策時に蘇った記憶が幾つかある。その一つが、井野目の三井戸の話ということで、4回に分けて整理してきた。
 もう一つ蘇った記憶が、井野目沼構想だ。ただ、思いだしたのは、その沼は底が抜けて水が貯まらなかったと説明された事とその場所だけだった。
 それが、今回の整理中「平野の伝承とくらし」の「小字沼前」についての解説中に、この沼構想に関わりある記載を見つけたのだ。
a0087378_8354362.jpg 井野目堰の水を「小字沼の内」に大きな池を作って水を貯めて分水する構想があったとのことだ。土手を築いて、実際に水を引き入れてみたが、地盤がザルで水が溜まらずに計画は中座したという。
 この計画場所がここだと思う。
 「土手を築いて実際に水を引き入れてみた」とあることに相応しい地形と案内された記憶とを照らし合わせての判断だ。
 沼前
 沼前町内には、沼の内、沼前、堰端、沼畑の小字があります。
 井野目堰の水が隧道から出て小さな川のように堀を流れる所が小字の沼前と堰端の字境辺にあります。
 この井野目堰の水を大きな池を作って水を貯めて分水しようと考えました。
 今の沼の内を中心に水を貯めるための土手を築き、水を引き入れましたが、地盤がザルで水はたまりませんでした。沼造りは中止になりました。
 この事があって沼前の名前ができたと聞いております。
 この解説でもう一つ気になるのは、隧道から抜け出た井野目堰の水は「小字沼前」と「小字堰端」の字境の堀を流れるとあることだ。「小字沼前」と「小字堰端」の字境の堀の前の部分は現在は堀になっている。しかし、そこが昔は隧道だったというふうに読み取れる。
by shingen1948 | 2014-11-02 08:40 | ◎ 水 | Comments(0)
 「井野目村人紺野伴右エ門」氏が、村の為政者だったのか文化人だったのかは分からない。しかし、紺野伴右エ門宅で行われた村の旧習からの解放儀式がなければ、この地区が近代化から大きく取り残される事になったであろうことは想像できる。
 その視点で「昭和28年録し伝説に遺す」記録を読めば、以下の手続きが読み取れる。

 まずは旧習からの解放理由だが、願掛けは150年限度でよいのに、それより100年以上続いたのだから充分だとする。もう願はとっくに外してもよかったということだ。
 そうは言っても、280年も続いた旧習を止めるには相当な勇気が必要だったろうと思われる。それで、その道の権威者が神かがりの話と搦めて村民を納得させるという方策が取られたという事なのだろう。

 次に行われたのが、山口庄右エ門重久氏墓前に村民一同が集まて、充分に祈願を行うということだ。先に整理した愛宕山参道前の墓前だろうと思う。
a0087378_6103363.jpg 更には次のような願外した後の対応まで決められていて、その対応策が浸透するのに充分時間をかけて待っている。
 願外し後は、元井野目村人相集まり、山口庄右エ門重久の霊を弔ひ招いて、先祖代々の各霊の念仏講を行うというものだ。話し合いから8年の歳月をかけてようやく「昭和28年録し伝説に遺す」ということになったという事のようだ。

 この地域に念仏講が続いているという事を、伝統の継承という側面だけで捉えるのではなく、山口庄右衛門氏の偉業と大恩への感謝を先祖代々の各霊への感謝と同列に扱う念仏講になったという伝統の継承と近代化の融合と捉えるべきなのではないかなと勝手な想像する。
 そのことと観音山山頂の観音堂がかかわるのではというのが、これまた散策人の勝手な想像だ。

 その道の権威者として選ばれたと想定した石塚直太郎氏だが、ネット上で宮崎県延岡市天下町の「国指定南方古墳群1,2号墳」の2号古墳解説にその名前が登場するのを見つけた。これが「研究家として天皇御陵の発見者」と「天孫御陵発見始末」とかかわるのではないかなという想像。
 「大正12年11月16日元延岡城主内藤家の協力にて考古学者石塚直太郎博士と村上兄一氏が東京より招聘され調査の結果ご神体は日子番邇々芸尊(天照大神のご子息)の塚であると今日まで伝えられています」という部分だ。
 「国指定南方古墳群1,2号墳」
 天下(あもり)神社の後方に有り現在大きな石が出ていますが、これは言い伝えによりますと村の人々が神社建設の際山を切り取った時にこの石が出てきたので石工が神社の石段として割り出そうとしたところ頭上に多くのカラスが舞い下りて仕事を留めるように鳴き散らし又仕事にたずさわっていた人々が倒れる等した等割ってはならない石であらうと言うことで作業を取り止め現在に至ったものであります。
 この古墳は高さ2米80、直径東西26米50、南北12米の大きさで大正12年11月16日元延岡城主内藤家の協力にて考古学者石塚直太郎博士と村上兄一氏が東京より招聘され調査の結果ご神体は日子番邇々芸尊(天照大神のご子息)の塚であると今日まで伝えられています。
 現在このお方の御神徳は棟木(むなぎ)の神であらせられます直古墳のお告げにより邇々芸尊であるとして大正12年から今日までお祭りをされている人に延岡市出北町に住まれている前田正恵という方がおられます。
 昭和51年11月吉日
 右 天下世話人会

by shingen1948 | 2014-10-31 06:11 | ◎ 水 | Comments(0)
 平成21年(2009)にも井野目堰に関わってこの辺りを散歩している。
 「井野目堰⑤」の整理で、三角山手前に「紺野伴右衛門屋敷跡」という案内板があったことについてふれている。ただ。その時点では地元の人々にとっては、周智のことなのだろうが、よく分からないという状態だった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/7980999/
 その案内板は撤去されてもう無いのだが、今回「平野の伝承とくらし」の願外し経緯の記録に「紺野伴右衛門屋敷」とかかわる記載を見つけたので、関連付けておきたい。
a0087378_18103561.jpg 元井野目村の各集落では、井野目堰の山口庄右衛門氏の偉業と恩恵に感謝し、その大恩を忘れないようにするためその「願掛け」として、280年に渡って井戸を掘らなかったのだが、その願外しが昭和28年に完了する。
 その経緯に「去る昭和20年4月6日井野目村人紺野伴右エ門氏宅に相集まり神霊の学者石塚直太郎氏(四国生れ飯坂に転住す)同夫人石塚澄江殿を招き山口庄右エ門重久の霊魂を呼び出し聞き伝ふところ霊魂の曰く……」とある。
 この「紺野伴右衛門屋敷」で、昭和20年から昭和28年にかけて、その儀式とそれ以降の在り方について話し合われたのだろうと想像する。

 平成21年(2009)の散策では、「280年に渡って井戸を掘らなかった」事について、その熱意にとらわれて肯定的にしか捉えられなかった。
 しかし、当時の井戸は飲料水をも意味する。この村に生活する人々は、昭和20年代まで3つの古井戸で全村民の飲料水を賄うことを強要されていたということでもある。
 この「願掛け」は、その負の遺産をも背負っていたと見るべきなのだろう。
 そう視点を変えると、時代の要請と真摯な願かけとの調整には見事な合理性を感じる。

 どこか怪しげに感じたのは、神霊の学者が「山口庄右エ門重久の霊魂を呼び出し聞き伝ふところ霊魂の曰く」とある部分。
 それで、学者石塚直太郎氏の情報を検索してみた。
 すると「戦前期温泉地間競争と交通網の革新(上)名古屋大学論集第49 巻 第1 号】」に飯坂温泉にかかわりのある石塚直太郎氏が紹介されるのを見つける。
 経歴としては「研究家として天皇御陵の発見者」であり、「山陰水力・但馬電力・保坂鉄工所・月島・平井両鉄工所・千代田印刷・日本名物商工・湊鉄道・武相電軌・早川組等の」役員などを歴任していたと紹介される。
今のところ確実な根拠はないが、素人判断でこの方ではないのかなと思っている。
 この方は、当時の飯坂町・湯野村当局や温泉旅館の依頼によって「飯坂湯野温泉」(飯坂湯野温泉案内所,昭和2年)の編纂作業に携わっていらっしゃるようなのだ。
 この「飯坂湯野温泉遊覧案内」の石塚直太郎氏ならば、「鳴子温泉案内」・「天孫御陵発見始末」の石塚直太郎氏でもある。

 確実性は無いが「研究家として天皇御陵の発見者」と「天孫御陵発見始末」と「神霊の学者石塚直太郎氏(四国生れ飯坂に転住す)同夫人石塚澄江殿を招き」の情報に矛盾がなさそうにも思えるのだ。
by shingen1948 | 2014-10-29 18:13 | ◎ 水 | Comments(0)
 井野目では、井野目堰の山口庄右衛門氏の偉業と恩恵に感謝し、その大恩を忘れないようにするため井戸を掘らなかった。
 「井野目の三井戸」は、その「願掛け」以前から既に村にあった古井戸の事だが、前回「字山口」の井戸と「字中屋敷」の井戸についてふれた。
a0087378_14162927.jpg 昨日、福内集落辺りを散歩してみたら、集落道沿いに防火用水池があるのを見た。「字栗畑」の範囲に思えるので、かかわりがあるかもしれないなと思ったので写真を撮っておいた。

 曲屋集落紺野氏宅前の「字南山神」は、その集落名ともかかわるお宅前かな。
a0087378_14173375.jpg 「平野の伝承とくらし」によれば、このお宅は曲屋集落の大本家で、岩手県南部出身。南部の家屋は曲屋造りが特徴なので、屋号を曲がった鍵に屋の字を入れて曲屋としたと考えられるとのこと。
 この街道を通る大笹生のつけ木売りの人々にとって、その曲屋のお宅の石垣は思い荷を背負ったまま一休みするのに都合がよく、「曲屋のお宅」がこの辺りの指標になったと考えられているようだ。

 「平野の伝承とくらし」には、願外し経緯の記録が紹介されるのだが、こちらも紺野氏。
 願願外し後、「其換りに毎年春の彼岸の中日に元井野目村人相集まり先祖代々の各霊の念仏講がありますその時に山口庄右エ門重久の霊を弔ひ招き井戸掘りし家であるとて何事も障りなく子孫繁栄に続くように障害を解消する事に村一同して念仏を奏上する事に子孫に伝へて念仏を続行することに申し合わす 昭和28年3月録し伝説に遺す」とある。
 また、その経緯に、「去る昭和20年4月6日井野目村人紺野伴右エ門氏宅に相集まり神霊の学者石塚直太郎氏(四国生れ飯坂に転住す)同夫人石塚澄江殿を招き山口庄右エ門重久の霊魂を呼び出し聞き伝ふところ霊魂の曰く……」とある。

 
 今は撤去されているが、昔、三角山の手前に紺野伴右エ門屋敷跡の案内板が建っていた。
 その「井野目村人紺野伴右エ門氏宅に(全村民が)相集まりて」神霊の学者石塚直太郎氏(四国生れ飯坂に転住す)同夫人石塚澄江殿を招いて、山口庄右エ門重久の霊魂を呼び出したというのだ。
 観音山まで、この紺野伴右エ門屋敷とかかわりがあると仮定すれば、願外し後の元井野目村人相集まり、山口庄右エ門重久の霊を弔ひ招いて先祖代々の各霊の念仏講を行うことと、山頂の観音堂もかかわりがありそうだなと思うのは、散策人の勝手な想像。
   
by shingen1948 | 2014-10-27 14:19 | ◎ 水 | Comments(0)
 先にもふれたが、井野目堰の佐藤氏が案内する地域探訪会に参加した事がある。平成21年(2009)年の11月には、その時に御案内頂いた事を思い出しながら散策し直した。
 その平成21年(2009)年の散策時に蘇った記憶が幾つかある。その一つが、井野目の三井戸の話。

 元の井野目村(現井野目集落・福内集落・沼前集落・曲屋集落辺り)では、井野目堰の山口庄右衛門氏の偉業と恩恵に感謝し、その大恩を忘れないようにするために280年の長きに渡って、井戸を掘らなかったという。
 「井野目の三井戸」というのは、その「願掛け」以前から既に村にあった古井戸のという事のようだ。
a0087378_736188.jpg 「平野の伝承とくらし」によれば、その井戸のあった所は、井野目集落紺野氏宅裏の中屋敷と福内集落佐藤氏宅裏の畑の栗畑と字山口の佐藤氏宅で、更に、曲屋集落紺野氏宅前の南山神にもあったという。
三井戸との事で3つの井戸かと思えば、井野目の三井戸というのは、この4ヶ所の古井戸を指しているとの事だ。
 その位置が「字中屋敷」・「字栗畑」・「字山口」・「字南山神」と記されているので、先の道筋と村界、集落界を書き込んだ字源図に、その古井戸があった字地を水色線で囲ってみた。
a0087378_7412087.jpg それで思い出したのが、先の地域探訪会で字山口と中屋敷の古井戸はご案内頂いたという事だ。そして、平成21年(2009)年の11月の散歩時には、その案内された字山口の古井戸は思い出すことができた。
 それがこの井戸のはずだ。

a0087378_7424951.jpg 案内された中屋敷の古井戸の方は記憶が曖昧なのだが、多分ここだったと思うのだが、勘違いの可能性もある。
by shingen1948 | 2014-10-26 07:44 | ◎ 水 | Comments(0)
 文政元年(1818)8月の須川が変水することとかかわることが「福島市史」の「庭塚(在庭坂・二子塚)」の項で解説される。
 須川の変水による田地の地焼・根腐被害を何とかしてくださったという話ではない。在庭坂・二子塚の両村でその対策を協議した改善策を提示し、それを最初にお認めくださったことが称えられた功績ということのようなのだ。

 その改善策だが、具体的には目洗川および鳥川から引水して、在庭坂地内の新規堰掘割り工事を行うというものだったらしい。
 その目洗川・鳥川からの引水するという策を、文政2年、桑折代官寺西重次郎に願い出たということだ。

 その鳥川についてはまだ確認できないが、目洗川は清水屋向かい側から、高湯街道を越え、須川に流れこむ川のようだ。
 「高湯温泉 周辺の観光スポット」のページでは、「高湯ダム公園」の中で、「目洗川という高湯地区内唯一の温泉の流れ込んでいない川がある。 岩魚が生息し、新緑と紅葉時の散策は素晴らしい」と紹介されている。

 ここからは、先の散策とのかかわりで想像したことで、まだ、確認していないことだ。
a0087378_9334691.jpg これは、高林簡易水道の水源からタンクに向かう水筋を整理した時に、こんな風に高湯街道沿いの水筋が、高林簡易水道の水源からの水筋とクロスしているのをみつけた。その高湯街道沿いの水筋の方なのだが、位置関係を地図で確認すると、その目洗川から取水した水が流れる用水路なのではないかなとも思えている。
 そして、姥堂への道筋を間違えてたどり着いた滝だが、これもかかわっていないかなとも思っている。

 豊かな水というと大きな川をイメージしてしまうが、その大きな川の豊かな水は、そこに注ぎ込む支流によって支えられているのであって、名もなき水筋が先達山からも流れている。高林簡易水道の水筋だって、その中の一つの水筋で、その水道の余剰水だって豊かで、堂ノ上の集落に向かって流れていた。
 ということで、今のところ、鳥川もその中の一つの支流とイメージしておくことにする。
by shingen1948 | 2014-08-12 09:35 | ◎ 水 | Comments(0)
a0087378_10505336.jpg
 これが、皇大神神社境内拝殿右手に建つ「寺西大明神」の石塔だ。
 右側に「文政5士年(1822)」、左側に「○3月吉日」が読める。

 「寺西大明神碑」が建立された経緯は、文政元年(1818)8月の須川が変水することとかかわることが「福島市史」の「庭塚(在庭坂・二子塚)」の項で解説される。
 文政元年(1818)8月、在庭坂村・二子塚の用水である須川が変水して、田地が年々地焼・根腐れをおこす被害が続出し、在庭坂・二子塚の両村では、協議のうえ、在庭坂地内に新規に堰掘割りの工事を行う事を取り極め、まず文政2年目洗川および鳥川からの引水を桑折代官寺西重次郎に願い出た。
さらに文政6年12月、在庭坂村三役は、桑折代官西重次郎に詳細な「在庭坂村・二子塚村 根腐除・高湯尻悪水落箱戸井自普請目録見帳」を提出した。
 寺西代官は、この工事に対して文政7年2月に最初に許可を与えたという。それが称えられる功績のようだ。
 しかし、建立の年代とちょっと合わない。許可が与えられる2年前にこの碑は建立されているようだが、これは、御愛嬌かな。
 「寺西大明神碑」であれっと思ったのは、その事ではない。
 二子塚村には溝口大明神碑も建っていることとのかかわりだ。解説の続きに、こちらの碑は在庭坂村と二子塚村の両村民が建立したとの説明。
 当時、桑折代官の支配下にあった在庭坂村と、新発田藩分領八島田陣屋の支配下にあった二子塚村の名主・組頭・百姓代が世話人として名をつらね、両村惣百姓によって建碑されたものと紹介される。
 高さは台座の自然石をふくめて約2.5mの堂々たるもので、寺西代官の顕彰碑のなかでは、最もりっぱなものなのだそうだ。

 ただ、碑の建立だけでなく、以下のような分水問題自体もいろいろあって、単純な事ではなさそうだ。
 文政11年(1828)には二つの村で分水問題が起こり、文政13年閏3月に規定書を取り決めたとのこと。また、万延元年(1860)9月、在庭坂村が損置起返しを理由に須川の水源不動滝から新規の掘割を行って引水したことに端を発した紛争が福島領の8か村がからむ紛争に発展するようだ。
 これ等は、先に「野田村郷土誌」をもとに堰について整理したこととも複雑にかかわりを持ってくるのだろうと思う。
by shingen1948 | 2014-08-10 10:53 | ◎ 水 | Comments(0)