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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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カテゴリ:☆ 映画話題と視聴記録( 191 )

「福島市歌」北原白秋作詞山田耕筰作曲ということで、すごいコンビが作っているなとは思う。しかし、逆にというか、だからこそというか、この曲を作るのに心が込もっているのかなという疑いを持つところもあった。

というのは、山田耕筰氏北原白秋氏級の方なら、恐らく形式的に整えるだけで作品が出来上がってしまうだろうとも思うのだ。頼まれた曲をちょちょいとつくってしまって届けたとということだってあり得るだろうと思ったのだ。

それで、山田耕筰氏北原白秋氏が福島への思いというものがどんなものなのかということを確かめようと思ったのだ。確かめたのは両氏の福島とのかかわり方だ。


まずは、山田耕筰氏の福島とのかかわりを確認してみた。

すると、福島との関りが確認できて、その上で福島の音楽青年古関裕而氏とのかかわり方を眺めてみることができたと思う。

次に、北原白秋氏と福島へのかかわりを確認してみた。

すると、白秋氏は情報収集に加え、講演会を機会に実地に来福し、各所を見て回っていることが確認できた。その上で、福島の音楽青年古関裕而氏との交流を眺めてみることができたということだ。

両者は、この土地に暮らす人々の思いのようなものもしっかり捉えた上で、この「福島市歌」はできていることが確認できたということだ。

自分は、今では会津で暮らした時間より、福島で暮らした時間が長いのだが、それでも故郷としては会津への思いが強い。思いというのはそんなものなのだ。

しかし、今回は、「福島市歌」に今まで確認してきたことに係る思いに浸りながら味わってみたいという気分になっている。

「福島市ホームページ」の「福島市歌」のページには、市歌の歌詞と楽譜が提示されるとともに、昭和62年に團伊久磨氏の編曲によるこの歌が視聴できるようになっている。

これをじっくり聞いてみる。

http://www.city.fukushima.fukushima.jp/bunka-shinkou/shise/goannai/shokai/13030501.html


by shingen1948 | 2020-09-17 10:13 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(0)

前回、山田耕筰氏の福島へのかかわりメモに、北原白秋氏の福島へのかかわりメモを加えてみた。

「初冬信夫行」の「福島対岸」だけでは阿武隈川を越えてどちらに向かわれたかは分からないが、少なくとも「伏拝」と「文字摺観音」を訪ねている事が分かる。 

その案内人は、県立図書館の資料から小林金次郎氏かなと想像する。

その案内された伏拝だが、「共楽公園への道筋②」で整理した旧道の方ではないのかなと思うが、どうだろうか。

https://kazenoshin.exblog.jp/14307323/

さて、古関氏の自伝をみると、北原白秋氏の福島へのかかわりメモとして記した頃に、古関裕而氏は北原白秋氏宅へお邪魔しているらしいことが分かる。

そのきっかけは、昭和6(1931)7月に藤山一郎が歌い、レコード化されて発売された「平右ェ門」らしい。

この曲は、古関氏が18~19歳頃というから、川俣銀行に勤めていた頃、「白秋民謡集」の中から、「へへのへのへの へいねもさまは」などとつづられた詩を題材に作曲したものという。

白秋が「僕の詩の気分にぴったり。作曲した青年に会いたい」と望んだことから、古関が祖師谷大蔵の白秋宅を訪問することになるようだ。そして、これを機にしばしば訪れるようになったという。

それ以来、年一回集う「白秋会」にも出席し、多くの詩人や音楽家らとの交流を広げたということだ。

この曲は、ヒットしたわけではないが、古関氏にとっては山田耕筰氏にも褒められた大満足の曲だったようだ。

自伝では、山田耕筰氏に褒められたことで思い出したこととして、自分のオーケストラ・スコアに批評を請いに行った時に、新交響楽団の練習に誘われて、従兄弟と日比谷公会堂に出かけた事が記される。

出来事としては、古関氏が昭和5年に上京してから、昭和6(1931)「平右ェ門」が発売されるその間だという。

山田耕筰氏と北原白秋氏との福島へのかかわりメモに、この頃の古関裕而氏の山田耕筰氏と北原白秋氏とのかかわりメモを加えてみる。

〇 昭和5年に福島民報社から北原白秋作詞山田耕筰作曲「福島市歌」制作委嘱を受ける。(コロムビアの専属作曲家として推薦した古関氏が上京する)

〇 古関氏が山田耕筰氏から新交響楽団の練習に誘われて、従兄弟と日比谷公会堂に出かける。

〇 昭和6(1931)「平右ェ門」が発売される。

(昭和6年の「酒は涙がため息か」発売9月の二か月前との情報もあるので昭和67月か?)

白秋氏が「この曲は僕の詩の気分にぴったり。作曲した青年に会いたい」と望み、古関氏が祖師谷大蔵の白秋宅を訪問する。

古関氏は、これを機にしばしば白秋宅を訪れるようになり、毎年「白秋会」に出席するようになる。

〇 昭和81月佐々木信綱作詞山田耕筰作曲「福島県師範学校校歌」」制定

〇 昭和811月に北原白秋氏が福島県教育会館の新設披露の記念式典講演のため来福。その時に詠んだ短歌

「初冬信夫行」<伏拝を越えて><文字摺石><福島対岸>

〇 昭和11年「福島市歌」完成。その曲を民報社から福島市に献納される。


by shingen1948 | 2020-09-16 10:20 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(0)

「福島市歌」は北原白秋氏が作詞を手掛け、山田耕作が作曲したものだ。このコンビの国民歌や社歌、校歌は結構多いのだとか。

白秋氏は、依頼を受けると多くの資料を取り寄せたり、実際に出向いてその雰囲気や土地柄を取材したりして、その依頼にあった作詞を心がけていたという。

「福島市歌」の場合、その依頼者が福島民報社とのことなので、資料に不自由することは無かったろうとは思う。確認したいのは、実際に来福しての取材があったかどうかという事だ。

情報を探ると、昭和811月に講演のために来福していることが分かる。

福島市側の情報を確かめると、昭和811月に福島県教育会館の新設披露の記念式典で講演をしていることが分かる。

青空文庫で「夢殿<上巻>(北原白秋)」を見ると、「覊旅小品」の中に「昭和八年十一月、福島市の公会堂創立につき講演に赴く。『初冬信夫行』はその時の作」とあるのがみつかる。

ここでは「福島市の公会堂創立につき講演」とあるが、この福島市側の情報は、県立図書館の小林金次郎氏にかかわる紹介の一説なので、こちらがいう「福島県教育会館の新設披露の記念式典での講演」の方が正確なのではないかと思う。

それはさておき、「初冬信夫行」を確かめる。

「初冬信夫行」
<伏拝を越えて>
伏拝(ふしおがみ)を越えつつくだる道の奥道祖(どうそ)の神に幣(ぬさ)たてまつる
伏拝(ふしおがみ)越え来てひろふ日のあたりこれよりやいよよ奥のほそみち
人像(ひとがた)と藁の小積(こづみ)は数立(かづた)ちてなほうそ寒き刈田つづくか
<文字摺石>
みちのくの信夫文字摺かくながら日の寒うある岩の面()にして
冬日ぐれ文字摺石の傍(わき)遊ぶ子らが石蹴り音ひびきけり
<福島対岸>
ちびと啼く花吸鳥(はなすひどり)は水さむき阿武隈越えて何にかも来()

前回記した山田耕作氏の福島へのかかわりメモにこの事も加えたメモに直す。

〇 昭和5年に福島民報社から北原白秋作詞山田耕筰作曲「福島市歌」制作委嘱を受ける。(コロムビアの専属作曲家として推薦した古関氏が上京する)

〇 昭和81月佐々木信綱作詞山田耕筰作曲「福島県師範学校校歌」」制定

〇 昭和811月に北原白秋氏が福島県教育会館の新設披露の記念式典講演のため来福。その時に詠んだ短歌

「初冬信夫行」<伏拝を越えて><文字摺石><福島対岸>

〇 昭和11年「福島市歌」完成。その曲を民報社から福島市に献納される。


by shingen1948 | 2020-09-14 16:37 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(0)

「福島市歌」が北原白秋作詞山田耕筰作曲であることにかかわる整理をしてきた。その確認の中で、福島師範学校歌も山田耕作氏が作曲していることが分かった。

吾峰会120周年記念誌の「吾峰会のあゆみ」の中で、昭和8(1933)11日に男子師範学校校歌が制定され、同119日に校歌披露音楽会が開催されるという記事は確認していた。しかし、この曲が山田耕筰氏が作曲しているという事に気づいていなかったのだが、今回その確認ができた。

「吾峰会」ホームページの「校歌・学生歌・寮歌」で「福島県師範学校校歌 作詞:佐々木信綱・作曲山田耕筰(昭和8)」が確認できる。これが、吾峰会120周年記念誌に11日に制定され同19日に披露された「男子師範学校校歌」と同じものだろうと思う。

なお、「創立130年記念大会」のページで、この「福島県師範学校校歌」を聞くことができる。

http://gohou.dousou.fukushima-u.ac.jp/130anniversary.html

また、「佐々木信綱顕彰会」のページでは、作詞した校歌の中にこの曲は含まれず、福島県の中の校歌としては、古関裕而氏作曲でできた「会津坂下町立広瀬小学校校歌」のみが紹介される。

http://nobutsuna-karuta.org/nobutsuna

前回記した山田耕作氏の福島へのかかわりメモにこの事も加えたメモに直す。

〇 昭和5年に福島民報社から北原白秋作詞山田耕筰作曲「福島市歌」制作委嘱を受ける。(コロムビアの専属作曲家として推薦した古関氏が上京する)

〇 昭和81月佐々木信綱作詞山田耕筰作曲「福島県師範学校校歌」」制定

〇 昭和11年「福島市歌」完成。その曲を民報社から福島市に献納される。


by shingen1948 | 2020-09-13 16:58 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(0)

ドラマでは、山田耕作氏のモデルである小山田耕三と裕一の直接の接点は無く、冷たくあしらわれているように描かれる。

しかし、自伝によると山田耕作氏は見も知らぬ田舎の素人の古関氏が送った作品を丁寧に見て批評を添えて送り返してくれていたようなのだ。

古関氏は山田耕作著の「作曲法」で作曲の勉強をして作った自作の曲を見てもらいたくて一大決心をして送ったそうだ。山田氏はその見も知らぬ田舎の素人の作品を丁寧に見て励ましの手紙と共に楽譜を送り返してくれたそうだ。それが数回続いたそうだが、そのたびに丁寧に批評してくれたそうだ。その上でコロムビアの専属作曲家として古関氏を推薦して下さったとのことだ。

山田耕作氏が古関氏に優しく接してくれるその心情の中に、前回記した山田耕作氏の父母ともに福島藩士の出であるということにかかわる福島への思いのようなものがあったのではないかと勝手に想像を膨らませているところだ。

その前提で山田耕作氏の福島へのかかわりをメモしてみる。

〇 昭和5年に福島民報社から北原白秋作詞山田耕作作曲「福島市歌」制作委嘱を受ける。(コロムビアの専属作曲家として推薦した古関氏が上京する)

〇 昭和11年完成する。その曲を民報社から福島市に献納される。

さて、前回山田耕作氏の母久さんの最初の夫が同じ板倉藩の加藤家で幕末の水戸藩の内戦で戦士とのことなのでこちらの情報も追ってみた結果、天狗党討伐幕府軍福島藩戦死者の中に加藤金次郎氏・加藤東三郎氏・加藤兵五郎氏の三名の加藤氏を確認したところだった。

その福島藩士の加藤氏がもうちょっと絞り込めそうだ。というのは、「天狗党討伐幕府軍福島藩戦死者」の中には、武士でない方もいらっしゃるという情報の中に2人の加藤氏がいらっしゃるようなのだ。

その情報は「福島藩就封三百年~譜代大名板倉氏の治績」の第百二章「福島藩天狗党の乱に出兵」で確認できる。

先に挙げた天狗党討伐幕府軍福島藩戦死者の中の加藤氏の加藤金次郎氏と加藤兵五郎氏は、郷方鉄砲組のようなのだ。その郷方鉄砲組については、第百章「郷方鉄砲組の発足」に次のように紹介されている。

安政2(1855)秋には領内の猟銃保持者から選抜した20人で「郷方鉄砲組」を編成していて、雷原の訓練にも参加していたそうだ。

その編成についての説明はないが、「福島藩天狗党の乱に出兵」の説明で「戦死者の中には、郷方鉄砲組に参加していた農民がいた」と解説されている。そこで、加藤金次郎氏と加藤兵五郎氏は金沢村の農民として紹介されているのだ。


残りの加藤東三郎氏については特に解説がないので、この方は福島藩士なのだろうと想像する。

ただ、天狗党とのかかわりで亡くなった福島藩士の加藤氏がもう一人いらっしゃる。福島藩を出奔し、水戸藩家老の武田耕雲斎に師事した加藤十蔵という方だ。

この方は、福島城下北南町立花屋で逮捕入牢して、そこで斬首されたということだ。こちらの情報の方も福島藩の加藤氏だ。

山田耕作氏の母久さんの最初の夫側から板倉藩の加藤家について詰めなければ最終な確認にはならないが、今回はここまでにする。


by shingen1948 | 2020-09-12 10:35 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(0)

先日、図書館で「福島市史」の福島の音楽活動の概要のページを眺めてきた。

ドラマで町を挙げての音楽会が開かれる場面があったが、そのモデルと思われる音楽会の情報を昭和前期(戦前)の音楽活動」の項目の中にみつけた。

それが、昭和31113日に福島民友新聞社主催で開かれた「御大典奉祝演芸大会」だ。ドラマでは、広瀬座を使って撮影された音楽会だが、この音楽会は市公会堂で開かれたようだ。 

昭和2(1927)製地図を元に確認すると、現市立図書館と公会堂が入れ替わっている位置関係のようにもみえるが、ほぼ現在地でイメージできそうだが、福島市の中でその案内は見ない。

この音楽会は和洋クラッシック・ポピュラー・邦楽の全ての分野を網羅したもので、全市一丸となって実施されたものだったらしいことが伺える。

この中で、古関裕而作曲:「リードオーケストラの為の御大典奉祝行進曲」が、橘登指揮で演奏されているようだ。また、「御大典奉祝歌」が歌:丹治洲子他、琴:小林操栄・富田昭栄・大島秋子・馬場旗子、尺八:村上扇外、小川扇嶺等のプログラムがあり、その尺八との共演で、福島ハーモニカ・ソシャイティーも出演しているということだ。

他に、マンドリンの古関三郎、ピアノに佐藤益樹、sopranoに但木無名子とあるという。そのマンドリンの古関三郎というのが気になるところだが、今のところ確認できていない。

古関氏の年譜と照らし合わせると、この音楽会があったのは、古関氏が福島商業学校卒業後、川俣銀行に勤務することになる年のようだ。

市史を眺めていて、もう一つ気になる情報があった。

それは、昭和5年に北原白秋作詞山田耕作作曲の「福島市歌」が、福島民報社から委嘱されているということだ。完成された曲が福島市に献納されるのは昭和11年だが、古関氏が上京する年に山田耕作氏に作曲が委嘱されているということだ。古関氏と直接的にはかかわりはないかもしれないが、山田耕作氏側からみれば福島の縁を感じたかもしれないという情報だ。

というのは、山田耕作氏の父母ともに福島藩士の出であるという情報が提示されるのだ。

その情報を深追いすると、山田耕作氏の父は謙造氏だが、その父が板倉藩御殿医山田誠一氏らしいとのことだ。また、母久さんの御実家も板倉藩馬術指南役高橋清吾氏家とのことだ。母久さんは、一度同じ板倉藩の加藤家に嫁いでいるという。

その夫が幕末の水戸藩の内戦によって戦死し、実家に出戻った時に健三氏と出会っているとのことだ。それは、板倉藩が明治2年に三河国に代地を下賜になるのに伴って実家も三河に移ってからの出来事のようだ。

市史によれば、山田耕作氏は、しばらく父方の墓所を探していたとのことだ。

母久さんの最初の夫は同じ板倉藩の加藤家で幕末の水戸藩の内戦で戦死とのことなのでこちらの情報も追ってみた。

板倉藩もかかわる幕末の水戸藩の内戦というのは、多分、元治甲子の乱だろうと想像する。この乱は、幕末水戸藩を二分する戦いだったそうだ。

仲でも、部田野の戦いは激戦地で、中根城跡には二本松藩士や福島藩士が駐屯していたのだという。

その「天狗党討伐幕府軍福島藩戦死者」を確かめると、以下の三名の加藤氏の名が見える。そのどなたかがかかわるのか、かかわらないのかは確認できていない。とりあえず情報をメモしておく。


〇 加藤金次郎氏・加藤東三郎氏・加藤兵五郎氏、何れも元治元年1010日常陸部田野で戦死


by shingen1948 | 2020-09-07 11:50 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(0)

先日、図書館で「福島市史」の福島の音楽活動の概要のページを眺めてきた。

ドラマで町を挙げての音楽会が開かれる場面があったが、そのモデルと思われる音楽会の情報を昭和前期(戦前)の音楽活動」の項目の中にみつけた。

それが、昭和31113日に福島民友新聞社主催で開かれた「御大典奉祝演芸大会」だ。ドラマでは、広瀬座を使って撮影された音楽会だが、この音楽会は市公会堂で開かれたようだ。 

昭和2(1927)製地図を元に確認すると、現市立図書館と公会堂が入れ替わっている位置関係のようにもみえるが、ほぼ現在地でイメージできそうだが、福島市の中でその案内は見ない。

この音楽会は和洋クラッシック・ポピュラー・邦楽の全ての分野を網羅したもので、全市一丸となって実施されたものだったらしいことが伺える。

この中で、古関裕而作曲:「リードオーケストラの為の御大典奉祝行進曲」が、橘登指揮で演奏されているようだ。また、「御大典奉祝歌」が歌:丹治洲子他、琴:小林操栄・富田昭栄・大島秋子・馬場旗子、尺八:村上扇外、小川扇嶺等のプログラムがあり、その尺八との共演で、福島ハーモニカ・ソシャイティーも出演しているということだ。

他に、マンドリンの古関三郎、ピアノに佐藤益樹、sopranoに但木無名子とあるという。そのマンドリンの古関三郎というのが気になるところだが、今のところ確認できていない。

古関氏の年譜と照らし合わせると、この音楽会があったのは、古関氏が福島商業学校卒業後、川俣銀行に勤務することになる年のようだ。

市史を眺めていて、もう一つ気になる情報があった。

それは、昭和5年に北原白秋作詞山田耕作作曲の「福島市歌」が、福島民報社から委嘱されているということだ。完成された曲が福島市に献納されるのは昭和11年だが、古関氏が上京する年に山田耕作氏に作曲が委嘱されているということだ。古関氏と直接的にはかかわりはないかもしれないが、山田耕作氏側からみれば福島の縁を感じたかもしれないという情報だ。

というのは、山田耕作氏の父母ともに福島藩士の出であるという情報が提示されるのだ。

その情報を深追いすると、山田耕作氏の父は謙造氏だが、その父が板倉藩御殿医山田誠一氏らしいとのことだ。また、母久さんの御実家も板倉藩馬術指南役高橋清吾氏家とのことだ。母久さんは、一度同じ板倉藩の加藤家に嫁いでいるという。

その夫が幕末の水戸藩の内戦によって戦死し、実家に出戻った時に健三氏と出会っているとのことだ。それは、板倉藩が明治2年に三河国に代地を下賜になるのに伴って実家も三河に移ってからの出来事のようだ。

市史によれば、山田耕作氏は、しばらく父方の墓所を探していたとのことだ。

母久さんの最初の夫は同じ板倉藩の加藤家で幕末の水戸藩の内戦で戦死とのことなのでこちらの情報も追ってみた。

板倉藩もかかわる幕末の水戸藩の内戦というのは、多分、元治甲子の乱だろうと想像する。この乱は、幕末水戸藩を二分する戦いだったそうだ。

仲でも、部田野の戦いは激戦地で、中根城跡には二本松藩士や福島藩士が駐屯していたのだという。

その「天狗党討伐幕府軍福島藩戦死者」を確かめると、以下の三名の加藤氏の名が見える。そのどなたかがかかわるのか、かかわらないのかは確認できていない。とりあえず情報をメモしておく。


〇 加藤金次郎氏・加藤東三郎氏・加藤兵五郎氏、何れも元治元年1010日常陸部田野で戦死


by shingen1948 | 2020-09-07 11:50 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(0)

「古関裕而うた物語<7>(斎藤秀隆)」によると、古関氏のコロンビア専属を記念したレコード発売会が昭和6年(1931)年6月に福島市の日野屋楽器店で盛大に開催されたということだ。ここで20人のファンのために直筆楽譜を準備し贈呈したのだとか。

「朝ドラ『エール』散歩資料(本宮)②~『本宮映画劇場』」で、「伊藤久雄記念音楽会(田村劇場)」の写真情報にかかわってこの日野屋楽器店情報に写る写真と比較した。この時にこの楽器店が古関裕而氏を応援していたらしいとは感じていた。この写真情報が昭和15年の話。その始まりが昭和6年(1931)年6月のレコード発売会ということになるのだろうと思う。

ちょっと気になっていたのがこの楽器店の創業が昭和3(1928)とあること。しかし、昭和2(1927)製地図を元に確認すると、現在地に既に日野屋が存在することだ。それで、その広告を確認してみると、この時点の日野屋の宣伝文句は「写真機とガクブチは必ず貴下に御満足を与えます」とある。

つまり、当初は写真機と額縁を扱う店から昭和3(1928)に楽器店になったとうことだ。そして、昭和6年(1931)年6月に古関のコロムビア専属を記念したレコード発売会を開き、それ以来の応援ということになるようだ。

なお、この時点で秋田屋はピアノとオルガンを扱う楽器店になっていたようだ。

図書館での図書閲覧が可能になっていたので、福島市史で大正期の音楽活動の概要のページをパラパラめくってみたら、この日野屋楽器店が先に整理の「火の鳥の会」の後継組織ともかかわるという紹介があるのをみつけた。

古関裕而氏の自伝によれば「火の鳥の会」はレコード鑑賞会とのことだった。

しかし、市史によると、この会の主旨はよい音楽を福島にということで、生の音楽を次々に計画したとのことだ。その中に、福島生まれのテノール平間文寿独唱会もあったということだ。この「火の鳥の会」は昭和10年まで続いたという。

ただ、大正141月にこの会の主要メンバー三浦通庸、竹内誠、同至兄弟ら3人が福島女子師範でレコードコンサートを開いてはいるという。


市史によると、定期レコードコンサートの会である「福島ディスク・クラブ」が組織されるのはこの「火の鳥の会」が解散する前年(昭和9)とのことだが、その事務局が日野屋楽器店(本間良平)だったということだ。

なお、この会の主要メンバーが八島喜右衛門、田中三郎、大北文次郎、長谷川哲夫、紺野繁雄らとのことだ。

古関氏の音楽環境としてみると、古関氏が川俣銀行に勤務することになる昭和3(1928)に、全市挙げての大音楽会が開かれている。

この音楽会がドラマに描かれた音楽会のモデルになっているのではないかなと想像する。


by shingen1948 | 2020-09-04 16:08 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(0)

自伝では、福島小夜曲(ふくしまセレナーデ)レコード化に当たっては次の「吾妻山」「弁天山」「信夫山」の3編を選んだということだ。

遠い山河たずねて来たに吾妻しぐれて見えもせず

川をへだてた弁天山の松にことづてしてたもれ

信夫お山におびときかけりゃ松葉ちらしの伊達模様

この事については、「朝ドラ『エール』散歩資料(福島)⑰~古関氏のご当地ソングに歌い込まれた福島の風景」で整理したところだった。

しかし、実際のオリジナルレコードの歌詞を確認すると、二番は「川をへだてた弁天山の松にことづてしてたもれ」ではなくて、「奥の細道とぼとぼゆきやる 芭蕉さまかよ日のくれに」になっているようだ。

まだ確認はしていないが、昭和50年に歌われたものの3番は「信夫お山におびときかけりゃ松葉ちらしの伊達模様」ではなくて、「会津磐梯山がほのぼの見ゆる 心ぼそさにたつ煙り」が選ばれているという事だ。

福島夜曲の福島を狭義の福島()市とイメージするか、もっと広く福島県とイメージするかということだろうか。ただ、古関裕而氏の直筆色紙とされるお山は明らかに信夫山のようではある。

竹久夢二氏の「福島夜曲」と題した12の民謡調の詞はその対象となる具体物がよく分からないものもある。

土湯温泉街「古関×夢二×土湯」の観光宣伝に「みちはみちのく通草のつるは 引けばひかれて鳴るほどに」と共に紹介される「思いの滝をばまいらせかしこ とても文字摺乱れがち」とする滝もその一つだ。

その確からしさは知らないが、こけしを愛し美しい滝を愛でた夢二氏が訪れた土湯温泉の景勝地「思いの滝」を詠んだものだと紹介される。


by shingen1948 | 2020-09-02 13:10 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(0)

古関裕而氏が自伝に記す竹下夢二氏と、夢二氏の福島での足取りとを照らし合わせてみた。

すると、古関氏が「福島行進曲」のB面に福島小夜曲(ふくしまセレナーデ)」を入れたいという意図は単に歌詞内容が福島にかかわるということにとどまらないことが分かる。福島には夢二の愛好家も多く、作詞者竹下夢二氏もまたよく福島に遊んでいるという関係性にも拘っている事が分かる。

夢二画展覧会について、古関裕而氏の自伝には次のようにしるされる。
福島には夢二愛好家がわりに多く、地元新聞の福島民報社長中目元治氏や、福島ホテル社長の杉山氏等が、多くの作品を蒐集していた。既に大正年間に二回ほど福島で画展が開かれ、大正7年頃の会に、まだ私は小学生だったが見に行った記憶がある。
多くの作品を蒐集しているとする福島ホテル社長の杉山氏については、前回整理した助川氏とのかかわりもあるだろうと思う。

大正年間の画展に小学生の古関氏が観に行った展覧会を「Masaの道中日記」のブログで整理された夢二氏の福島での足取り情報と照らし合わせる。


大正7年の情報はないが、次の年の大正8年8月末から9月半ばまで福島ホテルを中心に宿泊し、912日から14日まで福島県会議事堂で東北文芸協会主催の「夢二抒情画展覧会」が開催されたという情報がある。これと重なるのだろうと想像する。

古関氏の記憶の大正7年頃というのは小学3年生で、大正8年は小学4年生ということにり、年譜の担任等の情報からも、その頃という捉え方でよさそうに思う。

Masaの道中日記」の情報では大正10年の10月30日~11月3日にも福島美術倶楽部で「竹久夢二小品展覧会」が開催されているということだ。

これは、自伝の「既に大正年間に二回ほど福島で画展が開かれ」という情報と重なるのだろうと思う。


by shingen1948 | 2020-08-31 15:12 | ☆ 映画話題と視聴記録 | Comments(0)