人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30

カテゴリ:未分類( 133 )

前回、古関裕而氏が「福島ハーモニカソシャイティー」と「火の鳥の会」に参加するのに通る道筋の風景を、昭和2(1927)製地図を元に想像してみた。

今回は古関氏のご当地ソングに歌い込まれた福島の風景を確認してみる。

古関氏のデビューレコード曲は「福島行進曲」

野村俊夫氏の詞に古関氏が曲を付けたもののようだが、そこに歌い込まれるのは、福島のシンボル「福ビル」と福島停車場駅前通りの「柳並木」だ。

この風景について古関氏は自伝で次のように記す。

「柳並木に灯がともりゃ……」の柳は、福島駅からまっすぐ東に延びた大通りの両側に並木になっていた。春には芽吹き、その緑は街に風情をそえていたが、いつの間に切られたのか、今では跡かたもない。

ドラマではふれられないが、「福島行進曲」のB面としてレコード化された曲は「福島夜曲」のようだ。作詞は竹久夢二氏だ。

自伝によると、この歌は昭和4(1929)に福島で竹久夢二展が開かれた時に作った曲とのことだ。

奉書の巻紙に「福島夜曲」と題した12の民謡調の詞と水墨彩色された展示物をみて感動し、作曲してみようとノートに写して持ち帰り作曲したもののようだ。

これは、夢二氏が滞在中に即興で書いたものらしいという。

古関氏は福島ホテルに滞在中の夢二氏に直接面会して楽譜を贈呈したとのことだ。夢二氏はたいそう歓ばれて、古関氏にその場で描いた吾妻山のスケッチを返礼にくださったそうだ。

レコード化に当たっては次の「吾妻山」「弁天山」「信夫山」の3編を選んだということだ。

遠い山河たずねて来たに吾妻しぐれて見えもせず
川をへだてた弁天山の松にことづてしてたもれ
信夫お山におびときかけりゃ松葉ちらしの伊達模様

後の古関氏の想い出を語ったとされる情報によると、この時の展覧会は県庁前の議事堂で行われたもののようだ。また、この時に古関氏が贈呈した楽譜は、だいぶ過ぎた頃、東京の三越デパートで開かれた 「竹久夢二展」の隅に出されていたのを古関氏が見つけていたとのこと。

自伝に戻ると、これを機に文通交流があった事が記される。

古関氏が上京する2月前の昭和5(1930)7月にも夢二氏の個展が福島で開かれたそうだ。

ここで結婚したばかりの金子さんも紹介したそうだが、夢二氏は展示物の扇子を取って妻にプレゼントしてくれたということだ。

別情報によると、この個展が行われたのが完成間もない福島ビルディング(福ビル)だったということのようだ。

年譜と照らし合わせてみる。


(※昭和4県庁前の議事堂で夢二展覧会、福島ホテルに夢二氏を訪ね、楽譜を贈呈)

昭和5年(1930)6 金子さんと結婚し、9月にコロンビア専属作曲家として上京。

(※この年の7月に福島ビルディングで夢二氏の個展が開催された)

昭和6年(1931) 早大応援歌「紺碧の空」作曲、第一回レコード「福島行進曲」「福島小夜曲(ふくしまセレナーデ)」発売。

なお、福島市ホームページの「福島ゆかりの曲」解説によれば、「福島行進曲」制作年は昭和4(1929)とのことで、この曲も上京する前の年に制作されたものということのようだ。

そこは、ドラマと微妙に違うところだ。


by shingen1948 | 2020-08-27 16:52 | Comments(0)

「クラシカル・クロスオーヴァ―作品集」で紹介された歌から興味のある事とのかかわりで整理してきた。改めて確認してみると、残りは以下の3曲だ。

〇 「(プッチーニ作曲)歌劇『トゥーランドット』(ラッセル・ワトソン)

〇 「アルビノーニのアダージョ(フォルテ・ディ・クアトロ)

 「アランフェス(イル・ディーヴォ)

 CDODYSSEY(平原綾香)】視聴は、「クラシカル・クロスオーヴァ―」の分野に興味を持ち始めるきっかけとなったのだ。そして、その整理をしようとしていうタイミングでこの「クラシカル・クロスオーヴァ―作品集」が放送されたということだ。

自分にとって、内容的にも、タイミング的にもすべて逃したくない。

そのまま確認を続けることにする。

まずは「(プッチーニ作曲)歌劇『トゥーランドット』から 誰も寝てはならぬ(ラッセル・ワトソン)」の確認。

歌劇「トゥーランドット(プッチーニ作曲)」は、古代中国の北京を舞台とする3幕物の歌劇で、「誰も寝てはならぬ Nessun Dorma」はその第3幕で登場するアリアだそうだ。

1926年にイタリア・ミラノで初演とのこと。

ネット上の情報で粗筋を確かめたが、興味あるものでもなかった。それよりは、冬季トリノオリンピック女子フィギアスケートで金メダルを獲得した荒川静香選手がフリーの演技で使用していることの再確認が大きい。

会場はイタリアだ。恐らく自分の想像以上に観客この曲を知っているという状況なのだろうと思う。曲はバイオリンの演奏で流れているが観客は、その歌詞も知っていて、その内容もイメージした上で演技を観ていたはずということだ。

それで、自分もその観客に近づくため、歌詞とその和訳を確認してみた。すると、その3フレーズ目の最後に「勝ち取る」というような言葉が3回繰り返されている。

荒川さんは、当然、観客はその歌詞を知っているはずという状況を知った上での選曲であり、その上でのイナバウァーの演技であるということだ。

今回の確認でその強気を知った。その上で、もう一度荒川静香選手のフリーの演技を観てみた。

この特集で歌っているラッセル・ワトソンさんだが、イギリスのテノール・ポップス歌手のようだ。

ウィキペディア等の情報を確認すると、元々はアマチャーで仕事のオフ時にパブで歌っていたが、その観客にこの歌を歌う事を勧められ、ボイストレーニングしてプロデビューした方というようなことだ。

その後、rugbyleaguecup決勝の舞台で国歌独唱、soccerEnglandpremiereleague戦での優勝セレモニーでこの誰も寝てはならぬを歌い、観客やジャーナリスト達のスタンディングオベーションを得て、これが全英に中継されて、彼の知名度が広がったという事のようだ。

誰も寝てはならぬ」は、彼にとってもその原点になっているという事のようだ。


by shingen1948 | 2020-06-03 09:33 | Comments(0)
 先に「今回の豪雨が身近なところにもたらしたこと④」で記したように、豪雨にかかわる近況が分かる情報を得る準備をしたのは、その後、台風21号から変わった熱帯低気圧の影響でまた大きな被害が予想された時だった。
 その準備の一つが、松川の状況を確認できるように、清水水位観測局のデータを拾えるようにしたことだった。その実際の清水水位観測局がここのようだ。上松川橋のやや上流右岸にある。
今回の豪雨が身近なところにもたらしたこと⑨~松川_a0087378_17483324.jpg ここから送られてくるデータを拾っていたという事のようだ。


 今回の豪雨が身近なところにもたらしたこと⑨~松川_a0087378_1750821.jpg
 観測の仕組みは分からないが、真南に並ぶこれ等の施設が、その測定のための装置とかかわるのではないかと思われる。その川の中の施設が、観測地点という事ではないのかなと思う。


 準備のもう一つが観測用ライブカメラだった。
 こちらは上松川上流に設置とされているということだった。しかし、確認を進めていくとその位置は阿保原橋の更に上流で、新上松川橋よりやや下流の左岸で確認できた。
by shingen1948 | 2019-11-21 17:53 | Comments(0)
 「更にもう一つの奥の細道⑦」で、「子規手製俳句カルタ」に乙二氏の句も「乙二 凍るぞといふ声わびし草履の緒」として紹介されていることについてふれた。
更にもう一つの奥の細道⑨_a0087378_1145147.jpg これは、「国立国会図書館デジタルコレクション」に収められる「子規手製俳句カルタ」の乙二氏のその句の札だ。

 一具氏は松窓乙二氏の門人という関係性がある。それで、今回は、その松窓乙二氏について少し確認しておこうかなと思う。

 松窓乙二氏は、蕉風俳句を受け継ぐ「奥州四雄」 のひとりということで、その関係性は語られる。しかし、氏には別の顔もあるようだ。
 その一つが、氏は白石の亘理町にあったという「千手院」という修験の住職だったということだ。
 修験の家については何度か整理しているが、自宅に祈祷所をつくり、戦勝や防災・家内安全など様々な祈祷を仕事としていたということだ。
 修験は、修業のために他の地域に移動する事も多いので、城主からスパイのような情報収集を命じられることも多かったともいう。

 この「千手院」だが、元々は亘理郡にあって、四十余りの修験場の頭としてはぶりを聞かせていたということだ。
 その「千手院」が白石に移るのは、亘理郡の城主片倉小十郎景綱が慶長7年に白石城に移った事とかかわるとのことだ。
 この時に、「千手院」初代清昭氏が乞われて白石城下の鬼門の方角に千手院を移したとのことだ。

 乙二氏は、宝暦5年(1755年)に、その「千手院」六代清聲氏の長男として誕生する。(情報によっては、清聲氏は千手院第九代とするものもある)。その父清馨(隣々舎麦蘿)氏に俳諧を学んだという事だ。
 整理すると、松窓乙二氏は、俳諧師の顔の他に、千手院第七代?あるいは十代?の修験で、権大僧都岩間清雄法印という顔があるということだ。
 これとかかわって、更にもう一つの顔が、白石城主第10代 片倉小十郎景貞(俳号 鬼孫)の俳句の師匠であり、よき知恵袋だったということだ。
タグ:
by shingen1948 | 2018-12-16 11:48 | Comments(0)
 「伊達の散歩道(伊達市商工観光課)」の「高子二十境めぐり」という散歩資料の「伊達氏発祥の地・高子ヶ丘と丹露磐」案内に、この図が添えられる。
熊阪台州氏(その2)46~高子山の「高子二十境」⑦_a0087378_5454993.png 「永慕編(熊阪台州)」の二十境の「丹露盤」の漢詩に添えられた谷文晁氏の挿図だが、そうであることは説明はされない。
 誰でもが、当然知っていることとされているようだ。
 
 谷文晁氏を「美術人名辞典」で確認する。
 江戸後期の文人画家で、元・明・清画や狩野派・土佐派・文人画等の諸画法を折衷した新画風を創造し、江戸文人画壇の重鎮となった方との紹介。
 他に、卓越した画技とともに学問もあり、松平定信や田安家の後援を得て、当時の江戸画壇に勢威を誇ったという解説もみる。

 その江戸文人画壇の重鎮である谷文晁氏が「高子二十境」のそれぞれの漢詩に挿図を添えているということだ。

 実は、高子山の「高子二十境」の漢詩まで確認したのは、この谷文晁氏の挿図を鑑賞する素養の一つとして働かないかなという思いがあったからだ。

 確認していくと、谷文晁氏は高子村を訪ねることなく、この二十境図を完成しているということのようなのだ。
 氏の実際の風景を想像した資料としては、「永慕編(熊阪台州)」の先の版に地元の画家である周俊・淑翰が描いた二十境図と考えられているようだ。
 その周俊・淑翰が描いた絵から日常感を削ぎ落して加筆修正されるわけだが、その念頭操作の資料となるのは盛唐詩の影響を受けた熊阪三代唱和の漢詩だろうと想像するのだ。
 その絵は、漢詩の仙郷の印象を強めた表現になっているのではないのかなとの想像だ。
by shingen1948 | 2018-05-14 10:44 | Comments(0)
熊阪台州氏(その2)45~高子山の「高子二十境」⑥_a0087378_939966.jpg この「龍脊巌」の案内柱は、駅前に掲げられる「高子二十境遊歩道案内」で示される位置にたつものだ。先に「高子20境『龍背巌』と首塚」で整理したのは、そちらだ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/9390709/
 公的機関が配る散歩コース案内では、こちらが案内される。

 今回参考にさせていただいている「伊達の香り」では、その四番「龍脊巌」は、高子山の西稜線の岩場をイメージさせる。今回は、こちらをイメージしながら整理し直す。

 「龍脊巌」は、確認するまでもなく龍の背をイメージするような岩場ということだろう。
 「伊達の香り」の「二十境の漢詩鑑賞」では、こちらの詩歌は紹介されていない。それで、「谷文晁、高子二十境図を描く(磯崎康彦)」をガイダンスにさせていただく。

 まずは、熊阪覇陵氏の五言絶句とその釈文とその解釈。

  龍脊巌 熊阪覇陵
  
  峻巌不可行   峻巌(しゅんがん)行くべからず
  如立飛竜脊   飛竜の脊に立つが如し
  欲踏浮雲進   浮雲を踏(ふ)みて進まんと欲すれば
  天風生両脇   天風両脇(りょうわき)に生ず

  峻巌(しゅんがん)のため進めない
  飛竜の脊にいるようだ
  浮雲を踏(ふ)んで進もうとすると
  両脇(りょうわき)に天風を感じる

 次に、熊阪台州氏の五言絶句とその釈文とその解釈。

   同前 台州
  
  独歩峻巌巓(しゅんがんてん) 独歩す峻巌の巓(いただき)
  孤筇凌紫烟         孤筇(こきょう)紫烟(しえん)を凌(しの)ぐ
  忽疑立竜脊         忽(たちま)ち疑う竜脊に立つかと
  却憶葛陂仙         却(かえ)って憶(おも)ふ葛陂(かっぱ)の仙 

  峻巌(しゅんがん)の巓(いただき)を独歩する
  紫烟(しえん)のなか一本の杖にたよる
  ふと竜の脊にいるかのよう(に思う)
  葛陂(かっぱ)の仙の話を思いだす

 ここでいう「葛陂(かっぱ)の仙」は、葛洪著「神仙伝」巻5の壷公(ここう)の話に登場する以下のような話なのだそうだ。
 町役人費長房(ひちょうぼう)は、壷公(ここう)に誠実さを認められて仙人の世界に入った。苦難のなか、悪臭のひどい糞尿を食べられなかった。
 壷公(ここう)は、費長房(ひちょうぼう)にこれ以上の仙道は無理と告げ、一本の竹杖を与えた。費長房(ひちょうぼう)は竹杖に乗って帰り、杖を葛陂(かっぱ)に投げ捨てると、それは青い竜であったという。

 更に、熊阪盤谷氏の五言絶句とその釈文とその解釈。

   同前 盤谷

  独坐竜巌上   独坐す竜巌の上
  欲学駕竜人   駕竜の人を学ばんと欲う
  翠標如出脊   翠標(すいひょう) 脊を出すがごとく
  青苔似振鱗   青苔(せいたい)鱗(うろこ)を振るに似たり

  独り竜巌に座し
  駕竜の仙術を学ぼうとした
  緑の枝は竜の脊のようであり
  青い苔は竜の鱗のようだ

 ここでも、中国の故事の知識が求められるようだ。
 ここでは、散歩人の素人感覚で、台州氏が「葛陂(かっぱ)の仙」をイメージさせたことで、「龍脊巌」のイメージに広がりと深まりをもたらして、それを盤谷が受けて結ぶという感じかなということで収めておく。
by shingen1948 | 2018-05-10 09:41 | Comments(0)
 「伊達の香り」のページの「福島伊達の名勝 『高子二十境』」の項によると、「高子二十境」は「高子村海左園二十境」の略称とのことだ。
 その景勝の位置は、高子山あたりを中心にしてほぼ円形にその周辺に散在するという。
 http://datenokaori.web.fc2.com/index.html
 しかも、その「高子七境の確定とネーミングの手法」の項によると、「高子二十境」の一番丹露盤から七番将帰阪までは、すべて高子山にあるとのことだ。

 今回の散策で、その「将帰阪」付近に丹露盤に向かう道筋を案内する標柱が建っているのをみつけた。
熊阪台州氏(その2)40~高子山の「高子二十境」_a0087378_10593230.jpg 丹露盤はこの高子山の山頂であり、その地形から想像して、案内されるのは高子山の西側稜線の尾根筋を走る道筋のようだと思う。
 「高子七境の確定とネーミングの手法」の項で案内される「七境の詳細位置図」と見比べると、五番採芝崖、六番帰雲窟、四番龍脊巌、三番長嘯嶺を経由して山頂の一番丹露盤に辿り着く道筋のようだ。
 なお、二番玉兎巌は山頂の一番丹露盤の東側ということのようだ。

 ただ、この道筋を散策したとしても、散歩人の現在持ち合わせている知識では、山頂の一番丹露盤以外は、それ等の地点を識別することはできそうにない。
by shingen1948 | 2018-04-30 11:02 | Comments(0)
 先に「熊坂家蛍域」に建つ「覇陵熊阪君墓碑」について整理した。
熊阪台州氏(その2)29~台州氏代の「熊坂家蛍域」_a0087378_8425966.jpg 「熊坂家蛍域」の現況は、熊阪5代にかかわる墓碑群が建っているようだが、台州氏代の「熊坂家蛍域」原風景にかかわるのは、この三基だと思われる。
 左端が定昭覇陵・養都碣銘で、中央が太右衛門豊重・久保氏越碣銘、そして、右端が太七郎助英碣銘だろうと思う。

 これ等の墓碑群の左側には先に整理した「覇陵熊阪君墓碑」が建っている。そして、この写真の右側に少し写っているのが定邦台州碣銘だ。
 その間に挟まれた墓碑群が、台州氏代の「熊坂家蛍域」原風景ということになるようだ。

 散策資料では、高子の熊阪初代は熊阪覇陵氏であるとか、熊阪覇陵氏は保原の商家の長子とかと紹介されるのだが、この墓碑群ではそれらとは微妙に違う現実に出会う事になるようだ。
 地元では、それらの現実を知った上で散策資料としての紹介にしているということのようなのだ。

 「定昭覇陵・養都碣銘」は覇陵ご夫妻で、その説明は要さないと思う。
 中央の「太右衛門豊重」ご夫妻は、実質的な高子熊阪初代だと思われる。覇陵氏とのかかわりでみれば、養父にあたる方で、覇陵氏はその娘さんと婚姻関係にあるように読み取っている。
 そして、右端の太七郎助英氏が、保原の商家で分家を画策された方の弟に当たる方だと思われる。
 なお、覇陵氏の実父母の墓碑は、保原町長谷寺に建っているようだ。
by shingen1948 | 2018-03-20 08:44 | Comments(0)
浅川、松川散策の写真メモから⑱_a0087378_9335279.jpg この日向山の不動院は、先に松川鉱山にかかわる散策の目安になる地点として確認したものだ。写真は撮ったが、その時の散策には直接的にかかわりがないので、そのまま放置していたものだ。
 今回、ここ日向山不動院住職荒木良仁・良義雄氏もその師匠として活躍されていたとの寺小屋情報を得た。

 他に、季節によって指導したという本町服部半蔵氏、歌人で指導に熱心だったという石合町神主西東広親・弘栄氏、新田の伊藤半十郎氏と多分その子の画家伊藤小兵衛氏という師匠さんという松川町の寺小屋情報がある。

 この松川町の寺小屋情報からは、新たな私塾も見えてきた。
 先に篆刻家として整理した天明根の菅野次郎右衛門氏は、維新塾塾生であると共に町裏の西光寺住職平林宥京氏のお弟子さんでもあったとの情報を得た。また、石合町の明宝院住職小泉宥範氏、そして、最上流珠算の権威者だという埋崎の八巻幸吉氏も平林宥京氏のお弟子さんとのことだ。
 つまり、町裏の西光寺住職平林宥京氏は、情報としては寺小屋師匠とされているが、これらのお弟子さんの師匠でもあるということは、私塾でもあったことが想像できると思うのだ。
 ここには複雑な関係性もあって、平林宥京氏の弟子である埋崎の八巻幸吉氏は、名主で後の村長になられる桜内氏や杉内氏の師匠でもあるとのことだ。寺小屋師匠とされるこの八巻幸吉氏も最上流珠算の私塾師匠だということなのだろうと思う。

 また、松川町の寺小屋情報では、「歌人で指導に熱心だったという石合町神主西東広親・弘栄」氏とされる方だが、「金谷川の教育」の情報ではこの方が「石合の西東塾(俗称さつま様)」という私塾師匠として紹介されている。
 そこでは、薩摩様は神官で、和歌を中心に教えていたとある。また、弘栄氏は明治14年の明治天皇東北御巡幸の際、和歌を献上したという。
 関谷村の安田氏はその弟子で、金沢村にも多くのお弟子さんがいらっしゃったとのことだ。

 私塾維新塾は、それらの私塾や寺小屋の師匠さん達の複雑な関係性の中で、研修や交流の場でもあったようにも感じられるが、それだけにとどまらない。
 塾生のその後からは、特徴的に松川小学校にかかわる方々が垣間見られるのだ。
 制度的にはよく分からないが、この私塾は実質的には師範学校的な性格も帯びていたような気がするが、どうだろうか。
by shingen1948 | 2017-11-28 09:41 | Comments(0)
 「福島市史」では、「浅川村」について次のように紹介する。
 「浅川村の起こりは5軒在家で古浅川村と呼ばれ、沢の深い中沢屋敷・黒沼神社を勧進した宮屋敷・尾形和泉の中屋敷・黒沼に船橋を架けて通行したという舟橋屋敷(尾形若狭)と古浅川屋敷からなっていたという」
浅川、松川散策の写真メモから⑤~舟橋地区④:船橋観音堂_a0087378_923892.jpg その黒沼に船橋を架けて通行したという舟橋屋敷(尾形若狭)に建つこの「船橋観音堂」は、「浅川地区の名所旧跡ちょっこら旅」で紹介される「船橋十一面正観世音」だと思う。
 ここでは「正保4年(1647)尾形若狭創建と伝えられる」とある。

 「金谷川のむかしと今」によれば、最初創建されたのは集会所前の小高い丘の字観音社で、この地に移転するのは享保12末年(1727)9月との言い伝えもあるのだとか。
 この言い伝えに従えば、「浅川地区の名所旧跡ちょっこら旅」で紹介される「正保4年(1647)尾形若狭創建」は、字観音社の地ということだろうか。

 確認はできていないが、境内に定心法師の石碑があり、天文2年(1533)巳年と記されるという。 以下の即身仏にかかわりそうな話も紹介されるが、この法師との年代は合わない。
 桜町天皇の時代(1735~1746)の頃、大日如来を背負った老法師が行き倒れたと。
集落では、食物や衣類等を与えていたが、回復の兆しも見えず、死にもせずの状態なので、法師の穴を掘り、頭に鍋をかぶせて生き埋めにした。

 半沢氏の「歴史地図」には、「信夫新西国三十三観音第十六番札所」「線刻三十三観音群」「明治2年の和算額(最上流宋流派5代尾形貞蔵・英悦・眩斎)天保6年(1835)~大正7年(1918)84歳没」が紹介される。
by shingen1948 | 2017-10-25 09:24 | Comments(0)