地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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 「伊達の散歩道(伊達市商工観光課)」の「高子二十境めぐり」という散歩資料の「伊達氏発祥の地・高子ヶ丘と丹露磐」案内に、この図が添えられる。
a0087378_5454993.png 「永慕編(熊阪台州)」の二十境の「丹露盤」の漢詩に添えられた谷文晁氏の挿図だが、そうであることは説明はされない。
 誰でもが、当然知っていることとされているようだ。
 
 谷文晁氏を「美術人名辞典」で確認する。
 江戸後期の文人画家で、元・明・清画や狩野派・土佐派・文人画等の諸画法を折衷した新画風を創造し、江戸文人画壇の重鎮となった方との紹介。
 他に、卓越した画技とともに学問もあり、松平定信や田安家の後援を得て、当時の江戸画壇に勢威を誇ったという解説もみる。

 その江戸文人画壇の重鎮である谷文晁氏が「高子二十境」のそれぞれの漢詩に挿図を添えているということだ。

 実は、高子山の「高子二十境」の漢詩まで確認したのは、この谷文晁氏の挿図を鑑賞する素養の一つとして働かないかなという思いがあったからだ。

 確認していくと、谷文晁氏は高子村を訪ねることなく、この二十境図を完成しているということのようなのだ。
 氏の実際の風景を想像した資料としては、「永慕編(熊阪台州)」の先の版に地元の画家である周俊・淑翰が描いた二十境図と考えられているようだ。
 その周俊・淑翰が描いた絵から日常感を削ぎ落して加筆修正されるわけだが、その念頭操作の資料となるのは盛唐詩の影響を受けた熊阪三代唱和の漢詩だろうと想像するのだ。
 その絵は、漢詩の仙郷の印象を強めた表現になっているのではないのかなとの想像だ。
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by shingen1948 | 2018-05-14 10:44 | Comments(0)
a0087378_939966.jpg この「龍脊巌」の案内柱は、駅前に掲げられる「高子二十境遊歩道案内」で示される位置にたつものだ。先に「高子20境『龍背巌』と首塚」で整理したのは、そちらだ。
 https://kazenoshin.exblog.jp/9390709/
 公的機関が配る散歩コース案内では、こちらが案内される。

 今回参考にさせていただいている「伊達の香り」では、その四番「龍脊巌」は、高子山の西稜線の岩場をイメージさせる。今回は、こちらをイメージしながら整理し直す。

 「龍脊巌」は、確認するまでもなく龍の背をイメージするような岩場ということだろう。
 「伊達の香り」の「二十境の漢詩鑑賞」では、こちらの詩歌は紹介されていない。それで、「谷文晁、高子二十境図を描く(磯崎康彦)」をガイダンスにさせていただく。

 まずは、熊阪覇陵氏の五言絶句とその釈文とその解釈。

  龍脊巌 熊阪覇陵
  
  峻巌不可行   峻巌(しゅんがん)行くべからず
  如立飛竜脊   飛竜の脊に立つが如し
  欲踏浮雲進   浮雲を踏(ふ)みて進まんと欲すれば
  天風生両脇   天風両脇(りょうわき)に生ず

  峻巌(しゅんがん)のため進めない
  飛竜の脊にいるようだ
  浮雲を踏(ふ)んで進もうとすると
  両脇(りょうわき)に天風を感じる

 次に、熊阪台州氏の五言絶句とその釈文とその解釈。

   同前 台州
  
  独歩峻巌巓(しゅんがんてん) 独歩す峻巌の巓(いただき)
  孤筇凌紫烟         孤筇(こきょう)紫烟(しえん)を凌(しの)ぐ
  忽疑立竜脊         忽(たちま)ち疑う竜脊に立つかと
  却憶葛陂仙         却(かえ)って憶(おも)ふ葛陂(かっぱ)の仙 

  峻巌(しゅんがん)の巓(いただき)を独歩する
  紫烟(しえん)のなか一本の杖にたよる
  ふと竜の脊にいるかのよう(に思う)
  葛陂(かっぱ)の仙の話を思いだす

 ここでいう「葛陂(かっぱ)の仙」は、葛洪著「神仙伝」巻5の壷公(ここう)の話に登場する以下のような話なのだそうだ。
 町役人費長房(ひちょうぼう)は、壷公(ここう)に誠実さを認められて仙人の世界に入った。苦難のなか、悪臭のひどい糞尿を食べられなかった。
 壷公(ここう)は、費長房(ひちょうぼう)にこれ以上の仙道は無理と告げ、一本の竹杖を与えた。費長房(ひちょうぼう)は竹杖に乗って帰り、杖を葛陂(かっぱ)に投げ捨てると、それは青い竜であったという。

 更に、熊阪盤谷氏の五言絶句とその釈文とその解釈。

   同前 盤谷

  独坐竜巌上   独坐す竜巌の上
  欲学駕竜人   駕竜の人を学ばんと欲う
  翠標如出脊   翠標(すいひょう) 脊を出すがごとく
  青苔似振鱗   青苔(せいたい)鱗(うろこ)を振るに似たり

  独り竜巌に座し
  駕竜の仙術を学ぼうとした
  緑の枝は竜の脊のようであり
  青い苔は竜の鱗のようだ

 ここでも、中国の故事の知識が求められるようだ。
 ここでは、散歩人の素人感覚で、台州氏が「葛陂(かっぱ)の仙」をイメージさせたことで、「龍脊巌」のイメージに広がりと深まりをもたらして、それを盤谷が受けて結ぶという感じかなということで収めておく。
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by shingen1948 | 2018-05-10 09:41 | Comments(0)
 「伊達の香り」のページの「福島伊達の名勝 『高子二十境』」の項によると、「高子二十境」は「高子村海左園二十境」の略称とのことだ。
 その景勝の位置は、高子山あたりを中心にしてほぼ円形にその周辺に散在するという。
 http://datenokaori.web.fc2.com/index.html
 しかも、その「高子七境の確定とネーミングの手法」の項によると、「高子二十境」の一番丹露盤から七番将帰阪までは、すべて高子山にあるとのことだ。

 今回の散策で、その「将帰阪」付近に丹露盤に向かう道筋を案内する標柱が建っているのをみつけた。
a0087378_10593230.jpg 丹露盤はこの高子山の山頂であり、その地形から想像して、案内されるのは高子山の西側稜線の尾根筋を走る道筋のようだと思う。
 「高子七境の確定とネーミングの手法」の項で案内される「七境の詳細位置図」と見比べると、五番採芝崖、六番帰雲窟、四番龍脊巌、三番長嘯嶺を経由して山頂の一番丹露盤に辿り着く道筋のようだ。
 なお、二番玉兎巌は山頂の一番丹露盤の東側ということのようだ。

 ただ、この道筋を散策したとしても、散歩人の現在持ち合わせている知識では、山頂の一番丹露盤以外は、それ等の地点を識別することはできそうにない。
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by shingen1948 | 2018-04-30 11:02 | Comments(0)
 先に「熊坂家蛍域」に建つ「覇陵熊阪君墓碑」について整理した。
a0087378_8425966.jpg 「熊坂家蛍域」の現況は、熊阪5代にかかわる墓碑群が建っているようだが、台州氏代の「熊坂家蛍域」原風景にかかわるのは、この三基だと思われる。
 左端が定昭覇陵・養都碣銘で、中央が太右衛門豊重・久保氏越碣銘、そして、右端が太七郎助英碣銘だろうと思う。

 これ等の墓碑群の左側には先に整理した「覇陵熊阪君墓碑」が建っている。そして、この写真の右側に少し写っているのが定邦台州碣銘だ。
 その間に挟まれた墓碑群が、台州氏代の「熊坂家蛍域」原風景ということになるようだ。

 散策資料では、高子の熊阪初代は熊阪覇陵氏であるとか、熊阪覇陵氏は保原の商家の長子とかと紹介されるのだが、この墓碑群ではそれらとは微妙に違う現実に出会う事になるようだ。
 地元では、それらの現実を知った上で散策資料としての紹介にしているということのようなのだ。

 「定昭覇陵・養都碣銘」は覇陵ご夫妻で、その説明は要さないと思う。
 中央の「太右衛門豊重」ご夫妻は、実質的な高子熊阪初代だと思われる。覇陵氏とのかかわりでみれば、養父にあたる方で、覇陵氏はその娘さんと婚姻関係にあるように読み取っている。
 そして、右端の太七郎助英氏が、保原の商家で分家を画策された方の弟に当たる方だと思われる。
 なお、覇陵氏の実父母の墓碑は、保原町長谷寺に建っているようだ。
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by shingen1948 | 2018-03-20 08:44 | Comments(0)
a0087378_9335279.jpg この日向山の不動院は、先に松川鉱山にかかわる散策の目安になる地点として確認したものだ。写真は撮ったが、その時の散策には直接的にかかわりがないので、そのまま放置していたものだ。
 今回、ここ日向山不動院住職荒木良仁・良義雄氏もその師匠として活躍されていたとの寺小屋情報を得た。

 他に、季節によって指導したという本町服部半蔵氏、歌人で指導に熱心だったという石合町神主西東広親・弘栄氏、新田の伊藤半十郎氏と多分その子の画家伊藤小兵衛氏という師匠さんという松川町の寺小屋情報がある。

 この松川町の寺小屋情報からは、新たな私塾も見えてきた。
 先に篆刻家として整理した天明根の菅野次郎右衛門氏は、維新塾塾生であると共に町裏の西光寺住職平林宥京氏のお弟子さんでもあったとの情報を得た。また、石合町の明宝院住職小泉宥範氏、そして、最上流珠算の権威者だという埋崎の八巻幸吉氏も平林宥京氏のお弟子さんとのことだ。
 つまり、町裏の西光寺住職平林宥京氏は、情報としては寺小屋師匠とされているが、これらのお弟子さんの師匠でもあるということは、私塾でもあったことが想像できると思うのだ。
 ここには複雑な関係性もあって、平林宥京氏の弟子である埋崎の八巻幸吉氏は、名主で後の村長になられる桜内氏や杉内氏の師匠でもあるとのことだ。寺小屋師匠とされるこの八巻幸吉氏も最上流珠算の私塾師匠だということなのだろうと思う。

 また、松川町の寺小屋情報では、「歌人で指導に熱心だったという石合町神主西東広親・弘栄」氏とされる方だが、「金谷川の教育」の情報ではこの方が「石合の西東塾(俗称さつま様)」という私塾師匠として紹介されている。
 そこでは、薩摩様は神官で、和歌を中心に教えていたとある。また、弘栄氏は明治14年の明治天皇東北御巡幸の際、和歌を献上したという。
 関谷村の安田氏はその弟子で、金沢村にも多くのお弟子さんがいらっしゃったとのことだ。

 私塾維新塾は、それらの私塾や寺小屋の師匠さん達の複雑な関係性の中で、研修や交流の場でもあったようにも感じられるが、それだけにとどまらない。
 塾生のその後からは、特徴的に松川小学校にかかわる方々が垣間見られるのだ。
 制度的にはよく分からないが、この私塾は実質的には師範学校的な性格も帯びていたような気がするが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2017-11-28 09:41 | Comments(0)
 「福島市史」では、「浅川村」について次のように紹介する。
 「浅川村の起こりは5軒在家で古浅川村と呼ばれ、沢の深い中沢屋敷・黒沼神社を勧進した宮屋敷・尾形和泉の中屋敷・黒沼に船橋を架けて通行したという舟橋屋敷(尾形若狭)と古浅川屋敷からなっていたという」
a0087378_923892.jpg その黒沼に船橋を架けて通行したという舟橋屋敷(尾形若狭)に建つこの「船橋観音堂」は、「浅川地区の名所旧跡ちょっこら旅」で紹介される「船橋十一面正観世音」だと思う。
 ここでは「正保4年(1647)尾形若狭創建と伝えられる」とある。

 「金谷川のむかしと今」によれば、最初創建されたのは集会所前の小高い丘の字観音社で、この地に移転するのは享保12末年(1727)9月との言い伝えもあるのだとか。
 この言い伝えに従えば、「浅川地区の名所旧跡ちょっこら旅」で紹介される「正保4年(1647)尾形若狭創建」は、字観音社の地ということだろうか。

 確認はできていないが、境内に定心法師の石碑があり、天文2年(1533)巳年と記されるという。 以下の即身仏にかかわりそうな話も紹介されるが、この法師との年代は合わない。
 桜町天皇の時代(1735~1746)の頃、大日如来を背負った老法師が行き倒れたと。
集落では、食物や衣類等を与えていたが、回復の兆しも見えず、死にもせずの状態なので、法師の穴を掘り、頭に鍋をかぶせて生き埋めにした。

 半沢氏の「歴史地図」には、「信夫新西国三十三観音第十六番札所」「線刻三十三観音群」「明治2年の和算額(最上流宋流派5代尾形貞蔵・英悦・眩斎)天保6年(1835)~大正7年(1918)84歳没」が紹介される。
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by shingen1948 | 2017-10-25 09:24 | Comments(0)
 信氏は、会津中学に入るとボートに熱中するようだ。
 「明治学院百年史」の「学徒出陣と明治学院」に学徒出陣した「長谷川信の精神的遍歴」には、次のように紹介されている。

 信はまたボートが好きだった。猪苗代湖畔の戸ノ口に、会津中学のボート小屋があり、そこに海軍から払い下げられたカッターなど数隻のボートがあった。土曜日になると、ボート部の生徒たちは、会津若松から二十キロ余の道を歩いてここにやってくる。その晩は小屋に泊り、思う存分に若いエネルギーを燃焼させて、翌日の夜帰宅していくのが常であった。信は「猪苗代湖のヌシ」とまで呼ばれ、ボートをつうじていっそう身体を逞しく鍛えると同時に、指導に当った小林貞治教諭やボート小屋の世話をしていた通称「モンタ婆さん」や、多くの友人たちと、固い精神的な結びつきを得た。

 「会高通史」には、そのボート部創設にかかわる情報が紹介される。
a0087378_9154435.jpg 「明治の頃」の学校の様子を紹介するのに、昭和35年発行の「創立70周年記念誌」の明治時代に会津中学の生徒だった方々の座談会が引用されるのだが、そこにボート部創設について次のような事が紹介されていた。

 ボート部創設のきっかけについて、その運動の趣意書には格好よく海事思想の普及などとするが、実際の動機は明治30年の徒歩で新潟まで旅行するという学年行事での出来事だということだ。
 この旅行の途中で、新潟中学校の生徒が会津中学生を曳き舟に乗せて、ボートを漕いでその船を引いて阿賀川途中まで送ってくれたというのだ。
 これに感激したというのが、ボート部創設のきっかけだとのことだ。
 野沢の宿に泊まった時には、舟を作ろうという話で衆議一決して戸ノ口建設運動は始まったとのことだ。
 明治32年には磐梯・吾妻・飯豊のカッターができ、明治42年には県費で玄武・青竜・朱雀のカッターができたとのことで、現在このカッターが中田浜に浮かんでいるとのことだ。

 この「戸ノ口艇庫」ができると、ボート部の生徒は土曜日放課になると下駄ばきで滝沢峠を越えて練習して、夜道を家路に帰ったのだとか。
 毎年春と秋には水上大会が開かれ、会津中生は必ず1度はボートを漕ぐことになったのだとか。

 ここにもお婆さんの話が登場し、こちらでは「とら婆さん」と呼称され、艇庫に泊まる時には一泊3銭で飯をたいてもらったとある。
 信氏の話に登場するのは通称「モンタ婆さん」のようだが、本名は古川トラさんのようなので、「とら婆さん」の「とら」は「モンタ婆さん」の本名で、同一人物のような気がするが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2017-08-23 09:17 | Comments(2)
 この辺りの散策でよく見かける庚申塔碑は、「庚申」の文字碑や「青面金剛」像の刻まれた碑だ。a0087378_1123850.jpg この梵字の刻まれた庚申塔碑も初めてみる碑だと思う。

 散策の中で庚申塔碑だと気づいたのは、下に三猿像が刻まれていたからだ。
 この碑で他に庚申塔碑であることがはっきりしているのが、上部に太陽と月が描かれていることだ。雲に乗っていることもあるようだが、この碑では象徴的に記されている。
 散策で素人が簡単に庚申塔碑の見分けに使うのが雄雌の二羽の鶏だ。庚申の夜は徹夜をするので、夜明けを告げる鶏ということで描かれるようだが、この碑ではその鶏は見かけない。

 梵字だが、いろいろ検索して金剛界大日如来(バーンク、荘厳体)でないかなと思っているが、素人判断でしかない。
 ※ その後、梵字をいろいろ確認していて、青面金剛(ウン)かなと思い直して修正する。

 写真からは「七」が読めるのだが、手持ち資料からは、この碑造立については元禄6年(1693)造立情報と元禄5年(1692)造立情報しかない。また、常円寺の庚申塔(元禄7年造立)と同形式との情報もある「松川の今昔(三浦富治)」
 ◇     ◇       ◇         ◇          ◇

 「川俣町の文化財」の「旧壁沢川石橋(眼鏡橋)」解説で、松川の眼鏡橋にかかわった布野氏について、以下のような詳しい情報を見つけた。
 「設計施工者は布野宇太郎義成,弟源六義和兄弟で,布野氏は上杉氏家臣の家柄でその祖は西根堰工事の功労者と伝えられている。兄弟は「ぷっちの宇太郎,字彫りの源六」とうたわれた当地方きっての名工で、宇太郎の作には信夫橋(眼鏡橋)、飯野新橋、金華山の灯台等がある」

 参照させていただいた「街道Web」が、柴切田川橋と命名した飯野町の「広表のめがね橋」について、次のように締めくくられていた。
 「もしかすると、この柴切田川橋も布野氏の手によるものではなかろうか。そう思えてならないのである」
 これが、「川俣町の文化財」がいう「飯野新橋」だと思う。

 つまり、「川俣町の文化財」では、「街道Web」さんが想像したように柴切田川橋は、布野氏の仕事だと言っているということだ。
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by shingen1948 | 2017-08-15 12:09 | Comments(2)
 薬師堂の欄干に石が吊るされるのは、「7日本の民族『福島』(岩崎敏夫)【第一法規】」が紹介する伊達郡保原町の耳石の呪いのようなものなのだろうと想像する。
 ただ、右側の欄干に吊るされる石に交じって、願い事を書いた絵馬も下がっていた。
a0087378_8401254.jpg また、この写真の左側の欄干に吊るされる石の中に、願い事としてここでの出会いを記されているものも見える。耳石からの転化だと思うが、これらも受け入れられているという事なのだろうと思う。
 そして、この医王寺薬師堂はこの耳石に特化しているということではなさそうだとも思う。

 先に整理した「薬師堂」の案内板に、「声がたたねば鯖野の薬師 七日こもれば声がたつ等々と唱えられ」る霊験あらたかな薬師如来であるとあった事もそう思う理由の一つだ。

 もう一つあって、それは、入り口にあった「南殿の桜」と「奥の院薬師堂」の案内板で、奥の院の薬師如来について次のように解説していることだ。
 「12の誓願『ちかい』をお持ちになり、その中でも衆病悉除の誓願は私たちの心の無明を解き、身体を病気から守り、ひいては延命に導いて下さるという、如来のお名前の起こりとなっております。」

 ここでいう「12の誓願『ちかい』の「衆病悉除」の誓願」というのは、先に整理した「薬師如来 大願」の第七願、除病安楽と同義で、人々の病を除き窮乏から救い、心身に安楽を与えるといった意味合いなのではないのかなと思う。
 ここの薬師では、主としてこの誓願におすがりすることを意図しているように思うのだ。

 更には、御堂の中をのぞかせていただくと、そのお願いの仕方が、次のようだと解説されていることがある。
 「薬師如来御真言 オンコロコロセンダリ マトウギソワカ」と七回唱えてから、自分のお願いをしてください」とのことだ。

 なお、ここの「御詠歌」は、次のようなことだとか。

 やおよろず ねがいを
 たつる いおうじの
 るりもかがやく
 いにしえのあと
 オンコロコロセンダリ マトウギソワカ
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by shingen1948 | 2017-06-27 09:39 | Comments(0)
 「吾妻の里の自噴泉と伝説」を整理した時点で、この「ふくしま散歩(小林金次郎)」が紹介する鎌倉権五郎影政と家臣の墓の写真を手掛かりにここにたどりついてはいたのだが、そのままにしていたところだった。
 a0087378_5423129.jpg 「ふくしま散歩」では、片目清水の紹介の前に「現在、鳥川の成川に住む矢吹友右衛門氏といわれる」として、権五郎影政の子孫が紹介されていたのだ。

 しかし、時系列に沿って整理してみると、片目清水の頃の鎌倉権五郎影政氏は16歳で、それ以降の生き様の紹介があって、それからその子孫というふうな話にしたいところだ。
 「日本の伝説(柳田國男)」では、そこら辺も心得ていて、安積郡に飛んで以下のように話の紹介になる。
 奥州の只野村は、鎌倉権五郎景政が、後三年の役の手柄によって、拝領した領地であったといって、村の御霊神社には景政を祀り、その子孫だと称する多田野家が、後々までも住んでおりましたが、ここでも権五郎の眼を射られた因縁をもって、村に生れた者は、いずれも一方の目が少しくすがめだといっていました。(相生集:福島県安積郡多田野村)


 安積郡多田野村は、現郡山市逢瀬町多田野地区ということで情報を集めてみる。
 「郡山公式ウェブサイト」の「逢瀬町の伝承・魅力」では、八幡太郎義家公にちなんだ伝説が各地にあるとして、その一つに御霊神社を挙げている。
 この神社については、本来関東における平家5家(大庭・梶原・鎌倉・長尾・村岡)を祀る神社として創建されたそうだが、八幡太郎義家公の家臣である武勇の人鎌倉権五郎景政を祀る神社となったと紹介する。更に、大庭・梶原・長尾氏は景政氏の血縁だとも紹介される。

 その「御霊神社」を確認すると、「福島県郡山市逢瀬町に鎮座し、御祭神は火之夜芸速男神、鎌倉権五郎景政公で、社格は村社」とある。
 由緒ととのかかわりで、祭神である鎌倉権五郎景政公が次のように紹介される。

 「平安時代後期の康治2年(1143年)、鎌倉武士の鎌倉権五郎景政公が東北征伐の際、当地を訪れ浄土ヶ岡に住んでいたという盗賊と大蛇を悉く退治したことによって村民の禍を除いたため、景政公とその御兄弟一族を 「 御霊の宮 」として相殿に祀った。」
 御霊櫃峠伝説もこの伝説とかかわりあっているようだ。

 この紹介だと、景政公が後三年の役(1083~1087)の後半に16歳だったとしても、盗賊と大蛇退治の康治2年(1143年)が、それから56年後ということで72歳ということだ。随分お元気だったようだということになる。
 ただ、郡山の「安積名称考」の紹介だと、景政公は寛治3年(1089)年に死去したとされる説もあるようで、これだと全国的な話の流れでは20代で亡くなったことになるのだが、16歳時の活躍の前提が永承康平(1046~1065)という話になっているようだ。これだと59歳~79歳という事になるようだ。

 ここには、別説も紹介されている。
 奥州での戦いの功により石川郡鎌田の城主となり、68才で没したという伝えもあるとの紹介だ。
 これだと全国的な話の流れとの辻褄を合わせると、亡くなったのは1135~1139ということで、保延元年~4年頃ということになるかな。

 こんな活躍の想像を挟んでから「ふくしま散歩(小林金次郎)」の紹介の最初に戻ると、結構楽しめる伝承になると思うが、どうだろうか。
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by shingen1948 | 2017-06-15 09:40 | Comments(0)