地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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池袋駅西口②

 ドトールで一息ついて、駅方面に歩いて行くと、左手に西口公園が見えてくる。
a0087378_682419.jpg 公園といっても舗装された広場で、緑豊かという事でもない。後で確認すると、この右手に噴水があって、これがこの公園らしさの特色らしい。ただ、散策中は、左手のステージが作業中だったのは憶えているが、その噴水があったという記憶がない。
 確認を進めると、6月18日現在、7月にこの噴水撤去完了に向けて撤去作業中とのことらしい。この公園は、劇場公演に大改修されるらしい。噴水の撤去はその前段階の改修とのことだ。
 東京オリンピックに向けての改修らしく、ここを含む池袋の4っの公園も改修されるらしい。
 (「いけぶくろねっと」http://w3.ikebukuro-net.jp/archives/info/west-park201806)

 そもそも、この公園とその奥に見える東京芸術劇場は、東京府豊島師範学校とその付属小学校の跡地らしい。
 散策中は気づかなかったが、銅像と立木の間の一角に、「東京府豊島師範学校 同附属小学校 発祥之地碑」が建っているとのことだ。
 そこを拡大してみる。
a0087378_610371.jpg 右手のゴミ箱の奥、黒の石材に刻まれているのが校章のようだ。その左の白っぽい石材に「東京府豊島師範学校 同附属小学校 発祥之地」と記されるらしい。

 沿革の概要

 一、明治四十一年十一月 東京府豊島師範学校設置告示
 一、明治四十二年四月  此の地に校舎新築・開校
 一、明治四十四年四月  附属小学校開設
 一、昭和十八年四月   東京第二師範学校と改称
 一、昭和二十年四月   空襲により附属校舎を残して全焼
 一、昭和二十二年一月  本校小金井の地に移転
 一、昭和二十四年五月  東京学芸大学に発展し附属小学校は附属豊島小学校と改称
 一、昭和三十九年三月  豊島小学校小金井に移転

    昭和四十八年三月建之
            豊島師範学校同窓会 撫子会
            同 附属豊島小学校  同窓会
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# by shingen1948 | 2018-06-22 10:07 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

池袋駅西口

 今までは、この駅は上京してきた時に山手線から東武東上線に乗り換えるために利用するだけだった。
 今回も、東武東上線の方向に進んで、山手線の改札口を出たところまではいつも通りだった。今までと違ったのが、乗り換え前に一休みしたいと思ったことだ。
 最近は長い距離をわき目もふらずに移動するということなどない。体力的な事というよりは、最近の生活のリズム変化によるものだ。
 散策癖のせいかもしれない。

 駅から外に出たところにある案内板を見て、とりあえず向かったのが「元池袋史跡公園」。
 <史跡公園>に<元>がついているのが何となくいわくありげで興味がそそられたということもある。
a0087378_4204421.jpg そこには「池袋地名ゆかりの池」の碑と「成蹊学園発祥之地」の碑が建っているだけの小さな広場だった。

 「池袋地名ゆかりの池」については、石碑の下と右わきに案内板が建っていた。

 池袋地名の由来

 むかしこのあたりに多くの池が あり、 池袋の地名は、その池からおこったとも伝えられている。池には清らかな水が湧き、あふれて川となった。この流れはいつのころから弦巻川とよばれ、雑司が谷村の用水として利用された。
 池はしだいに埋まり、水も涸れて今はその形をとどめていない。これは、むかしをしのぶよすがとして池を復元したものである。
          
                               東京都豊島区教育委員会

 石碑の右脇の案内板には、同文の案内に石碑寄贈者として「東京池袋ライオンズクラブ」の銘が付加されている。
 
 「これは、むかしをしのぶよすがとして池を復元したものである」とあるのだが、この時点では復元された池なるものがどれを指すのか分からなかった。

 「成蹊学園発祥之地」の碑は、以下のように刻まれていた。

 桃李不言
  下自成蹊
    中村春ニ

 明治四十五年
 成蹊学園発祥之地

 ベンチがないので休めそうもない。
 休める所を意識しながら駅の方向に戻ると、ドトールがあったのでここで休むことにした。
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# by shingen1948 | 2018-06-19 10:14 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)
 案内文の中に以下のように、「阿武の松原」は熊阪氏によって広く知られるようになったらしいことが記される。

 江戸時代の後期この地区の南に位置する「高子村」(現保原町)で儒学者・詩人としてこの地に多くの足跡を残した「熊坂三代(覇陵・台州・盤谷)」によって「阿武の松原」が広く知られるようになったと言われる。

a0087378_5333955.jpg それで、熊阪氏の書籍情報を確認すると、「信夫歌」の「信達二郡輿地略図」には、この「阿武の松原」がプロットされていた。
 その位置は、瀬上駅と長倉村の間を流れる摺上川が、阿武隈川に流入する辺りの向かい側ということのようだ。
 阿武隈川を基準にして「阿武の松原碑」の位置と見比べると、南北関係に違和感はない。ただ、東西関係では碑の位置よりも阿武隈川に近い位置のプロットのようにも見える。

 新しく建った案内板を確かめると、「昭和に入り(松原の)東端(碑の立つ地点)に残った1本の老松だけが長くその名残を留めていたが、昭和39年に枯死して全容を失った」とある。
 つまり、「阿武の松原碑」が立つ位置は、阿武の松原の東端ということだ。ここから街道沿いに阿武隈川近くまで西に松原が広がっていたということのようなのだ。
 ただ、松原は幕末・明治期にはほとんど絶滅していたとのことで、「信夫歌」の時代も衰退に向かう状態だったはずではある。
 そして、昭和39年までは、松原東端に1本の老松がその名残を留めていたが、それが枯死して松原は完全消滅したということのようだ。
 その切株の跡に「阿武の松原碑」が建ったのは、昭和52年。町道山の下線拡幅改修工事に伴っての建立のようだ。

 今のところ、「信夫歌」での「阿武の松原」紹介内容までの確認はできていない。
 ただ、台州氏が葛の松原も阿武の松原も知る人が少ないと書いているとの情報はある。
 「信夫歌」の構成は、第一部が台州の叙事詩と息子盤谷の註記・第二部が盤谷の考証付録とのことなので、それと照らし合わせて、上記情報は、台州の叙事詩ということなのだろうと思う。
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# by shingen1948 | 2018-06-15 10:31 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)

 高子山からの帰り道、この「阿武の松原」碑の前の道に出たのは意図したことではない。偶然だ。
a0087378_985359.jpg
 前回、この「阿武の松原碑」を訪ねて整理したのは2009年だ。
 当時から、この碑は町指定文化財だったはずだが、多分案内板はなかったと思う。近所の人に何度か尋ねてようやくたどり着いた記憶がある。
 https://kazenoshin.exblog.jp/8799433/

 今回もここに立ち寄るつもりなかったのだが、それでも整理しておこうと思ったのは、立派な案内板が建っていたからだ。しかも、案内文の中に「阿武の松原」が広く知られるようになったことと熊阪氏がかかわるという情報が含まれているのだ。

 まずは、「阿武の松原碑」に記されていることを確認する。

 陸奥の思ひしのぶに
 ありながら 心にかかる
 阿ぶの松波羅
      太宰弐長実

 古跡「阿武の松原」は、信達一統志によると、桑折駅の南へ一里余箱崎村にあり、今の原町の地で阿武隈川の清流に沿う一帯の景勝の松原で、本邦三松原の一つであったと伝えられている。
 平安時代後期大治元年(1126)白河法皇による勅選「金葉和歌集」巻八にある長実の和歌で有名である
 その後度重なる洪水のため決壊、陥没してか、この松原も次第にその全容を失い僅かに東端の老松のみで名残を留め、相馬福島を結ぶ唯一の旧道は旅人の往来も繁くそのかたわらにそびえ旅情を慰めていたが、齢1000余年の古松も昭和29年8月遂に枯死した。
 この街道も昭和52年立派な町道山の下線として拡幅改修されたのを契機に、部落民ならびに郷土史研究会、有志一同こころより往時の面影をしのび、古松の跡地に記念碑を建立して故事を永く後世に伝えるものである。
                          福巌寺少僧正  石井祐澄撰
                          水雲社 宮司  大橋雅史書

 次に、案内板の解説を確かめるが、解説の太宰弐長実の歌も、以下のように微妙に違って表記される。

 陸奥(みちのく)の思いしのぶにありながら
         心にかかるあぶの松原    太宰弐長実


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# by shingen1948 | 2018-06-12 09:09 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)