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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

2019年 09月 18日 ( 1 )

清水小学校

 金福寺跡」の案内柱では、金福寺が清水小学校(旧沢又小学校)発祥の地である事が解説される。よそ者の散歩人には分かりづらかったが、地元の方々は以下の事情が頭にあるようだ。

 清水村役場や道路元標は泉字大仏に設置されたとのことだが、泉地区の郷土誌等の情報によると、明治16年には南沢又、森合、御山、北沢又、泉、笹谷、大笹生の7ケ村戸長役場は泉字柳清水に開かれていたようだ。
 この前に、明治13年には北沢又小と泉小が合併されてた早柳小学校が、この柳清水に移転している。この学校は明治18年に泉尋常簡易小学校となったようだ。
 明治22年4月1日に南沢又村、北沢又村、泉村、森合村、御山村の区域が清水村となったことに伴い、この学校は現清水小学校となり、清水村役場が泉字大仏に設置されたという経緯のようだ。

 小学校に焦点を絞って、その前の経緯を確認する。

 北沢又小学校は、明治7年金福寺に開校されたということのようだ。
 「信達二郡村誌」の北沢又村を確認すると、「共立小学校 東部寺西に設置す 男生徒11人 女生徒3人(明治9年1月1日調)」とある。
 ここでは設置場所「寺西」が表記されるが、金福寺とはなっていない。
 これは、明治9年に金福寺が延焼したため、直ぐに21坪の校舎を建築されたとのことなので、その事が反映されているのかもしれない。
 「郷土史物語」では、この小学校を第16番学区北沢又小学校としている。

 「信達二郡村誌」の南矢野目村を確認すると、「北沢又村共立小学校合併 生徒男40人 女10人(明治9年1月1日調)」とある。
 南矢野目村の子供もこの北沢又小学校に通っていたことが、想像できる。
 「信達二郡村誌」では確認できないが、「郷土史物語」によると、笹谷村や御山村の一部の子供もこちらの学校に通学していたといい、トータルで生徒男33人、女7人だったとのことだ。
 そして、この小学校が明治17年に早柳小学校に合併し、翌18年には泉尋常簡易小学校となったとのことだ。

 その合併先の泉村の学校を「信達二郡村誌」で確認すると「共立学校 北部北鎌に在り 男生徒40人(明治9年1月1日調) 」とある。
 泉村の地域誌等でも、泉村の小学校は明治8年に北鎌に開校されたと解説される。
 北鎌は、現カワチやサガミ福島ホール辺りだ。具体的な位置は特定できないが、こちらの学校も飯坂古道の道筋沿であることが想像される。
 この学校が、明治13年に柳清水に移転して早柳小学校となり、明治18年に泉尋常簡易小学校となったとのことだ。
 先に確認した「郷土史物語」の情報とも重なる。

 明治16年には、この学校の地に南沢又、森合、御山、北沢又、泉、笹谷、大笹生の7ケ村戸長役場が開かれたということだ。
 そういう経緯を経て先に整理した清水村役場と道路元標の話が続くということだ。

 なお、泉尋常簡易小学校となった小学校とかかわる南沢又について「信達二郡村誌」で確認すると、「共立学校 西隣笹木野村と合併 同村仏母寺をもって仮教場とす 男生徒34人 女生徒42人(明治9年1月1日調)」とある。
by shingen1948 | 2019-09-18 07:35 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)