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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

2019年 09月 04日 ( 1 )

 阿保原地蔵尊の地は、元々は阿保原地蔵尊が建つ光徳寺管理のところだったとのことだ。そこに、阿弥陀堂から6基の石仏が移築されて現在の7基の石仏が建つ風景になったということだ。

 今度は、その阿弥陀堂にかかわる情報を拾う。
 まずは、元々の阿弥陀堂の位置を確認する。
 「郷土史物語―澤股邑など(斎藤義一)」では、「バス道路から北沢又小学校正門に向かっての新道入り口付近」だとする。
 現在のこの辺りの風景は、同誌が前提とする風景とは大きく違っている。この辺りの開発による風景変化は大きいのだ。それで、1983年の地図と現況を見比べながら、同誌が前提とする風景を推測して補強する。

 ここでいう「バス道路」だが、この道筋は松川に沿った道筋になるのだろうと思う。
 そこから「北沢又小学校正門に向かっての新道」ということだが、現況は北沢又小学校前の太い道筋は、南側で二股に分かれている。しかし、1983年の地図上の太い道は南に下る道筋しかない。
 同誌が新道とするのは、この南に下る太い道筋なのだろうと想像する。

 その上で、同誌が描く旧阿弥陀堂跡の風景を確認する。
 「嘗て、北沢又共同墓地の南南西100mのバス道路から北沢又小学校正門に向かっての新道入り口付近に樹齢数百年の松の大木が数本聳えていた。やや小高い丘地に俗称阿弥陀様と称した碑石群があった。」

 想像したバス道路の新道入り口から「北沢又共同墓地」の位置を確認すると、確かに南南西100m位の地点になる。
 更に、同誌は「その北西約50mのところに湧き水があった」とし、「この地点は、南沢又と北沢又の境界線が南北と東西を結ぶ交点地点だった」と記す。
 その北西の「その」を「北沢又共同墓地」と読み取れば、北沢又郵便局の後ろ辺りの中清水の地名が見える。池跡そのものは確認できないが、水路が確認できる。

 阿弥陀堂の碑石群の位置は、多分、想像したバス通りから北沢又小学校正門に向かう新道入り口付近で間違いないと思う。
 そこに「やや小高い丘地に俗称阿弥陀様と称した碑石群」があったということだ。
 そこから阿保原地蔵尊の地に6基の石仏が移築された理由が「その阿弥陀堂近くに市営住宅や母子寮が建設されるのに伴う整地の為だった」とのことだが、その風景もあっている。

 今回は旧阿弥陀堂跡附近の風景をその位置確認情報として使わせていただいた。
 ただ、同誌のこの描写の本来の目的は、「無能和尚行業紀」が描く阿弥陀堂の描写と見比べ、現大和田庵の原点がこの阿弥陀堂であった事を確認することであることは付記しておかなければならないと思う。
by shingen1948 | 2019-09-04 09:03 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)