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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

2019年 09月 03日 ( 1 )

 「阿保原地蔵尊①」で、「阿保原地蔵尊の由来」に「当所鎮座の7基の石塔のうち最東端が阿保原地蔵尊」の御尊像である」と案内される事についてふれた。
 https://kazenoshin.exblog.jp/20207671/
 これが、「郷土史物語―澤股邑など(斎藤義一)」が解説する「昭和27年7月に約150m西にあった阿弥陀堂から6基の石仏が順番も変えずにここに移されてきた」という時点での配置であろうと想像できる。

 その時の配置は、阿保原地蔵尊、南無阿弥陀仏の名号碑<元分5年(1791)10月15日>、 阿弥陀仏坐像<明和5年(1768)10月10日>、弁財天<寛政2年(1790)2月吉日講中>、金毘羅大権現<文化4年(1807)3月10日>、大勢至<文化14年(1817)2月吉日北沢又村講中>、阿弥陀仏坐像文化元年(1821)9月15日願主忍孝>だったという事なのだろうと思う。

 それが、案内板の裏面にある現時点での実際の配置である阿弥陀如来供養塔、子育地蔵菩薩、阿保原地蔵尊、阿弥陀如来像、勢至菩薩供養塔、金毘羅大権現供養塔、弁財天供養塔となるのは、開眼式を行ったとされる昭和63年12月の時点なのだろうと想像する。
 基本的には石仏自体は、阿弥陀堂から移設されたものの配置を変えたのだと思う。
 阿弥陀如来供養塔とあるのが南無阿弥陀仏の名号碑であり、阿弥陀如来像が阿弥陀仏坐像、勢至菩薩供養塔が大勢至であろうと思う。他に、金毘羅大権現と弁財天がある。
 ここまでは一緒だが、記載上阿弥陀座像が子育地蔵菩薩に変化しいてる。これが、子育地蔵菩薩像を阿弥陀座像と見間違ったものなのか、それとも実際に交換されたものなのかは、今のところ確認できていない。
by shingen1948 | 2019-09-03 10:10 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)