人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

2019年 07月 19日 ( 1 )

 岩田遺跡から出土したという有孔円板と剣を模造した剣形石造模造品が、腰浜町の祭祀遺跡と直接かかわるのかどうかは分からない。
 しかし、岩田遺跡から出土した有孔円板と剣を模造した剣形石造模造品の確認で腰浜町の祭祀遺跡を意識したことで、腰浜廃寺の見え方が今までとは少し違うように感じている。

 今までは腰浜町辺りを郡家遺跡とかかわるような見え方だ。
 郡衙は基本的には、正倉院(米倉)と郡庁(行政施設)と付属寺院、それに館(宿舎・厩)とそれにかかわる厨院(調理棟)などから構成されるということだ。
 それらの郡衙構成施設がどこだったのかというような見え方だ。
 「北五老内町遺跡付近~2012の立春の頃の風景⑪」あたりから整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/14706120/ 
 
 正倉院(米倉)とかかわるとみられているのが北五老内町遺跡の焼米のようであり、「北五老内町遺跡付近②」では、その観点から整理している。
 https://kazenoshin.exblog.jp/14713084/ 

 腰浜廃寺は郡衙の付属寺院という見え方で、その観点から整理したのが「腰浜廃寺付近」「腰浜廃寺付近③」ということだ。
 〇 「腰浜廃寺付近」
 https://kazenoshin.exblog.jp/14719765/
 〇 腰浜廃寺付近③
 https://kazenoshin.exblog.jp/14733090/

 今回祭祀遺跡を意識したことで、今までも見ていた資料からも時間的な経緯を意識して読み取りになっているような気がする。
 このことによって、この腰浜廃寺の造営を祭祀遺跡との関連で捉えようとしているようになっている気がするのだ。
 ただ、今回改めて「福島市史」などで確認し直すと、この腰浜町辺りを郡家遺跡とかかわって見るという事自体、一つの仮説にしか過ぎないとしているようではある。
 それも頭に置きながら確認を進める。

 「東日本における郡家遺跡の出現と律令制地方支配の確立(木本元治)」によれば、信夫郡はほぼ信達盆地の範囲とする。
 その郡家遺跡の位置は盆地南部の阿武隈川西岸の福島市街地とすると表現される。これが、北五老内町から腰浜町辺りということになるのだろうと思う。
 同誌では、ここに腰浜廃寺が造営されるのは7世紀で、これが郡家遺跡に先行すると表現されている。その郡家遺跡に先行する腰浜廃寺が、5世紀の祭祀遺跡を意識して造営されているという見え方だ。
 阿武隈川対岸には6世紀後半の郡内最大の前方後円墳が所在するという。それ以降、この地域が最も有力な古墳群の所在地となったということだ。
 今回は、ここに5世紀の祭祀遺跡の主催者もかかわっている見え方でもあるのだが、この時期の地域の有力者の古墳は盆地北半の阿武隈川西岸地域だったようなのだ。
 この事も、一つの仮説にしか過ぎないという見え方とかかわるのかもしれない。

 腰浜町辺りを郡家遺跡とかかわって見る見え方では、今回、こんな風な見え方になったということだ。

 5世紀の祭祀遺跡であった近くに、7世紀になってこの地の支配層の豪族の私寺として腰浜廃寺が造営される。
 その腰浜廃寺は、7世紀末に信夫郡寺として昇格する。
 この後に、この腰浜廃寺近くに郡家遺跡が造営されるのだが、北五老内町の正倉院(米倉)は、その施設の一部ということだ。
 なお、郡庁等の他の施設とかかわる遺跡はまだ確認されていないということのようだ。
by shingen1948 | 2019-07-19 14:59 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)